最新号特集
知られざる
葛藤と苦悩の日系人史(1)
思いもよらぬ祖国からの攻撃で、アメリカ市民でありながら一瞬にして「敵性外国人」の烙印を押された日系人たち。現状を打破するには米兵として出兵し、戦場で良い成績を残すしか生き残る道はないと、多くの若き2世たちが前線に向かった。
戦後、日系社会はモデル移民と呼ばれ、各界に多数の成功者を送り出した。それも彼ら若き日系兵士の犠牲があったからにほかならない。今回は、第2次世界大戦という歴史に翻弄された日系人の苦闘と葛藤を紹介したい。
第1章)リメンバー・パールハーバー
パールハーバー攻撃で
一瞬にして敵性外国人に

0日系人の立ち退きを伝える
『サンフランシスコ・エグザミナー紙』
Courtesy of The National Archive and
Record Administration
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1941年12月7日(ハワイ現地時間)の朝だった。穏やかな日曜日の朝、オアフ島では多くの人が、米海軍基地パールハーバーに黒煙が上がるのを目撃した。それが日系人の歴史を変える悲劇の始まりだと気付いた人は少なかった。
だが、戦闘機第2波がホノルル上空を旋回した時、人々はその機体に日の丸を見つけて愕然とした。パールハーバー攻撃で、誰よりも打撃を受けたのは日系人だった。
ハワイ選出のダニエル・イノウエ上院議員は、その時の衝撃を「人生が終わったと思いました」と告白している。彼らにすれば、祖国から裏切られた思いだったに違いない。後にハワイの日系兵が部隊のモットーに選んだのは「リメンバー・パールハーバー」だ。このモットーに、彼らの無念さが凝縮されている。
パールハーバー攻撃の一報は、瞬く間に全米を駆け巡った。日系人は一瞬にして「敵性外国人」のレッテルを貼られる。リトルトーキョーでは戒厳令が敷かれ、日系人の5マイル以上の外出が禁止になった。FBIは日系人リーダーを一斉検挙し、翌朝6時半までに全米で763人の1世たちが連行された。
翌日、ルーズベルト大統領は正式に日本に対して宣戦布告し、ドイツとイタリアがアメリカに対して宣戦布告すると、アメリカは全面戦争に突入した。この日を境に「ジャップ」という蔑称が連日、全米各紙のトップを飾るようになる。加熱した反日感情は容赦なく日系人に向けられた。日系人を狙った襲撃事件が増え、街の商店には「ジャップお断り」のサインが目立った。
42年2月、ルーズベルト大統領は大統領命令第9066号に署名した。これは裁判や公聴会なしに、特定地域から日系人を排除する権利を陸軍に与える法律だ。基本的にアメリカ市民は、どんな重罪犯でも裁判や公聴会で無実を主張する権利が保障されている。大統領命令第9066号は、そのアメリカ人としての当然の権利を日系人から奪ったものだ。
その4日後、サンタバーバラ沖の製油所が日本軍の潜水艦から砲撃を受けると、海軍はサンペドロ沖のターミナルアイランドに住む日系人に対して、48時間以内の立ち退きを命じた。当時、ターミナルアイランドは日系人約3千人が住む「日系人漁村」だったが、島の半分は海軍基地だった。人々は財産を二束三文で処分し、身寄りのない人はリトルトーキョーの寺などに身を寄せた。
米政府による日系人排除政策は、世論のヒステリックな排日感情に後押しされて、この後次第にエスカレートしていく。

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■公正な立場で報道したハワイと南加の2紙
パールハーバー奇襲後、一夜にして全米各紙が「ジャップ」と激しい攻撃を繰り広げたのに対し、あくまで人道的な報道を貫いた編集長がいる。1人はハワイの有力紙『ホノルル・スターブリテン』紙のライリー・アレン編集長だ。
アレン編集長は、パールハーバー奇襲を伝える報道に始まり、「ジャップ」という蔑称の使用を決して許さなかった。当時、同紙には日系人編集者が2人いたが、2人共解雇されることなく仕事を続けた。この日系人を含む編集者たちは「ジャップ」の使用を求める嘆願書をアレンに提出したが、彼は「ジャパニーズ」と綴る方針を貫いた。
もう1人が『オレンジ・カウンティー・レジスター』紙創設者のR.C.ホイルズだ。全米でも反日感情が特に高かった南カリフォルニアにおいて、彼は紙面で市民的自由のあり方を問い続けた。強制収容実施に傾く軍部に対しては「異国の地で生まれ、その地で何年も善良な市民として生活してきた人たちが危険だとは信じがたく、彼らの忠誠心に懐疑的になるべきではない」と訴えた。< /span>

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「48時間以内に島を出ろ」という
立ち退き令状で生活が一転
泉 敏郎さん
ターミナルアイランドで父は漁師として、母は缶詰工場で働いていました。私は島で小さな食料店を営んでおり、太平洋戦争が始まった時は27歳でした。コミュニティーのリーダー格だった父は、戦争が始まってすぐFBIに連行され、モンタナの収容所に入れられてしまいました。島内では日本人経営の店がどんどん閉鎖され、私の店もアメリカ兵の監視の下、1日1回だけ店を開けて食料を分けていました。これからどうなるか、不安な気持ちで2、3カ月を過ごしました。
そしてある日、海軍から「48時間以内に島を出なさい」という立ち退き令状が張り出されました。1世は英語の読めない人ばかりでしたので、英語の読める人が家族や近所の人々にそれを慌てて伝えました。私はベニスに住む遠縁の親戚から大型トラックを借りて、干物などの食料を積めるだけ積み、後の物は捨ててベニスに移りました。
その後、ロサンゼルスの姉の家に移りましたが、収容所に入れられるという噂を聞いていたので覚悟していました。そして、カリフォルニア州トゥレーリーの集結センターで半年近く過ごし、アリゾナ州のヒラリバーの収容所に送られました。
収容所である時オフィサーに呼ばれ、「ターミナルアイランドの自宅や店にはこれだけの値打ちしかない」と、たった200ドルを渡されました。後で政府に訴えても良いと言われましたが、自分にはすでにその元気はありませんでした。島はすでに海軍の基地となり、漁業で栄えていた日本人町はすっかり破壊されてしまいました。もう戻る所ではなかったのです。