アメリカの隣国・メキシコ。カリフォルニアへの移民も多く、メキシコ料理もポピュラーだけど、国の歴史や現状を知る機会は意外と少ない。メキシコシティーに支店を持つHISのツアーで、にぎわう街とエキゾチックな遺跡を旅した。
【1日目】LA→メキシコシティー
交通渋滞と喧噪 人であふれるシティー
朝7時20分LAX発のアエロメヒコでメキシコシティーへ。約3時間で国際空港に到着する。時計を2時間進めて、空港でHISの看板を持つガイドの廣田芙美さんに挨拶。周りで交わされている言葉はスペイン語ばかりで、ちょっと緊張する。
メキシコは特別連邦区のメキシコシティーと31州から構成される合衆国。日本の約5.2倍の国土に約1億300万人が暮らす。メキシコシティーは周辺部分を合わせて2千万人が集中しており、人口密度は世界最大級だ。通常は5月末から10月前半までが雨季だが、今年はすでに雨季に入っており、夕方から夜にかけて1、2時間、雨が降るとのこと。1日の寒暖の差も激しく、日中は30℃を越え、紫外線も強い。「標高2240メートルで空気が平地の約4分の3となっています。最初は疲労感やめまいを起こすこともありますので、水分と休息を十分に取ってください」と廣田さん。市街地の中心、独立記念塔のそびえ立つレフォルマ大通りを通る。何しろ交通渋滞がひどい。大気汚染でも大きな問題を抱えるメキシコシティー、所持する車の排気ガス量により運転できない曜日を指定して交通規制をしているそうだ。
ツアーの宿泊場所となるホテル「カリンダ・ヘネベ」のあるソナロッサは、洒落たカフェ、ブティックが建ち並ぶ繁華街。マクドナルドやスターバックスなどおなじみのチェーン店も軒を列ねている。また、ソナロッサは「ピンク色の地域」の意。実はこの一帯はゲイの集う場所である。レストランからであろう、にぎやかなマリアッチの音楽を聞きながら、夜が更けていった。
【2日目】国立人類学博物館→国立宮殿→大聖堂→グアダルーペ寺院→ティオティワカン→メキシコシティー
歴史を見て学べる国立博物館
朝9時、ホテルのロビーで廣田さんと島津裕太さんが出迎えてくれる。今日は博物館から巨大ピラミッドまで盛りだくさんのスケジュールだ。遺跡が大好きという日本からのOL 2人組と一緒に、まずは国立人類学博物館へ。日比谷公園の50倍あるチャペルテペック公園の北端に1964年に建てられたもの。1階がメキシコの考古学、2階が民族学に関する展示となっており、1週間あっても見切れないと言われるほどコレクションが豊富。島津さんがメキシコの歴史を解説してくれる。
アメリカ大陸最初の住民は、2万5千年前にアジア大陸からベーリング海峡を渡ってきた人々。トウモロコシ農耕を基盤にした村落が紀元前2千年頃に誕生、オルメカ文明やマヤ文明など地域ごとに特徴のある文明が生まれていった。メキシコシティーの北東には、紀元前8世紀から紀元2世紀までティオティワカン文明が栄え、その後、16世紀初頭にスペインからエルナン・コルテスが上陸するまで、メキシコシティー全域にアステカ文明が栄えた。今回訪れる巨大ピラミッドは、ティオティワカン文明の頃に作られたもの。メキシコ最大の宗教都市と言われるこの古代都市には15万人もの人々が住み、雨の神や豊穣の神など多くの神々の土偶や壁画が作られ、崇拝されていた。
特徴的なのが生贄の風習。人々は生きた人間の心臓を神々に捧げなければ、太陽が昇らないと考えていた。そこで、フエゴ・デ・ペロータという球技で勝った人が生贄となり、黒曜石のナイフで心臓をくり抜かれた。生贄は当時、栄誉あるものだったのだ。ティオティワカン文明には戦争もなく、消滅した原因は不明。そして、その1千年後にアステカ文明が栄える。
アステカ族はテスココ湖の島に首都・テノチティトランを築き、碁盤の目に美しい都市を発達させる。王の下に貴族・神官が置かれ、神権政治が行われたが、生贄の風習も残っており、大量の生贄を捧げるために他の部族への戦争も仕掛けるように。1日100人以上の生贄が捧げられ、街には死臭が漂っていたそうだ。アステカ文明の展示館の真ん中には、太陽カレンダーの石盤が飾られている。石盤の中心にある太陽は5番目の太陽で、舌を出しているのは、「もっと生贄をくれ」という意味とのこと。「1519年にスペイン軍のコルテスが上陸し、コルテスはアステカ神話の善神・ケツァルコアトルと見間違われ、歓迎を受けたため、これを逆手に取り、アステカを滅ぼしました。テノチティトランにメキシコシティーが建設されたのです」と島津さん。実際儀式に使われた生贄の台などを見ていると、メキシコにはなんとも血生臭い文明と歴史があったということを実感する。
博物館を後にソカロ地区へ。植民地時代に築かれた狭い道路と石畳のヨーロッパ風の街並みを抜けると、ソカロ広場に出る。アステカ文明の中心地でもあり、広場の一角には、道路工事中に見つかったというテンプロ・マヨール(大神殿)跡もある。物売りや観光客、地元の人々であふれるにぎやかな広場から、国立宮殿に一歩足を踏み入れると、嘘のように静か。現在、大統領執務室と大蔵省として使われている宮殿には、壁画の巨匠ディエゴ・リベラの代表作「メキシコの歴史」がある。
1920年代、文盲の多かったメキシコでは壁画運動が盛んになり、メキシコの歴史を絵伝えようとこの壁画が描かれました」と島津さん。2階に上がる階段の踊り場の壁一面には、メキシコの歴史が3部に分かれて描かれている。向かって右側はスペイン軍征服前、正面はスペイン軍の征服から独立まで、そして左側は現在の資本主義。植民地時代に改宗を強いている様子や1800年代の独立運動の模様なども細かく描かれている。リベラはこの壁画に6年の歳月を費やしたそうだ。2階の回廊にはその他にも10以上の壁画がある。テキーラを作ったり、トウモロコシを栽培する様子などが美しく描かれ、見応えがある。なかには歴史の教科書で見た、奴隷商人と取引をしている青白い顔のコルテスの絵もあった。
続いてメトロポリタン・カテドラル(大聖堂)へ。アメリカ大陸最古で最大のこの教会は2つの建物がつながっている。「スペイン軍が侵略してきた時に、新大陸にふさわしいものをと250年かけて建てたものですが、長い歳月の間、バロック、ゴシック、ルネッサンスと多くの様式を取り入れてきました」と島津さん。地盤沈下により、この教会もどこかゆがんでいるのがわかる。中央の祭壇は豪華絢爛。しかし、現在は修復工事中。メキシコは80%以上がキリスト・カトリック教。敬虔な信者が熱心に祈る姿が印象的だった。
褐色のマリア像グアダルーペを見た
さらに車を走らせ、今度はグアダルーペ寺院へ。この寺院の建つテペヤックの丘は褐色の聖母・グアダルーペが出現した場所としてメキシコ・カトリックの聖地とされ、全国から信者がやってくる。メキシコが好きだったというローマ法王、故ヨハネ・パウロ2世も訪れたそうで、大きな銅像が置かれていた。
興味深いのは、このグアダルーペの伝説。スペイン征服から10年後のこと。聖母マリアが先住民ファン・ディエゴ青年の目の前に現れ、「この地に教会を建てなさい」と告げる。司教はその話を信じなかったが、マリアは冬のある日、再び青年の前に現れてバラの花を咲かせ、青年がそれをマントに包んで司教に見せると、マントに光り輝く聖母の像が浮かび上がったため、「新大陸にも聖母が現れた」と司教は喜び、教会を建てることになったという。
「この聖母マリアは先住民と同じ褐色の肌をしていたため、受け入れられやすかったようです。新聖堂にはマリアが出現したというマントが奉じられています。500年も前のものですが、色あせず、にじみもなく、調査によるとこの世にはない成分で描かれているそうです」と島津さん。世界3大奇跡と呼ばれる聖母のマントはモダンな新聖堂の奥の壁面に飾られ、一般公開されている。色あせの心配がないため、フラッシュ撮影してもいいのだという。とても不思議な話だが、そのマリア像はとても優しい目をしていた。
世界3位のピラミッドティオティワカンに登る
市内観光をひと通り終えると、いよいよ巨大ピラミッド・ティオティワカンへ。市街地を抜け、フリーウェイを30分ほど走る。途中、山の斜面にびっしりとコンクリートの家が建つ不法移民の住むサン・ファンと呼ばれる地区を通る。メキシコシティーにはこのように戸籍も持たず、地方や中米から不法入国してきた人たちが何百人も住んでいるのだそうだ。「スペインの征服以来、階層の差はいつまでも続いています。先住民の血が多いほど身分は低く、貧富の差は25倍とも言われています」と島津さん。メキシコは国内総生産(GDP)が世界第10位と経済的にも実力のある国だが、国内の問題は根が深そうだ。
車窓は食用のウチワサボテンの畑など、のどかな田園風景に移り変わる。「PIRAMIDES」の標識が出てきた。この先に、ティオティワカン文明の遺跡がある。当時、15万人が住んでいたという同地には、死者の大通りと呼ばれるメインストリートに沿って神殿群や住居が建ち並んでいたそうだ。そして、目玉は巨大ピラミッド「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」。太陽のピラミッドは高さ65メートル、底辺の1つが225メートル、17階建てのビルと同じ高さがあり、エジプトのクフ王、カフラー王のピラミッドに次ぐ世界3番目の規模。登れる遺跡では世界最大という。また、死者の大通りの北端に位置する月のピラミッドも高さ42メートル、底辺は150メートルで、上からの眺めは最高らしい。昼食のバフェも腹8分目に、一同はピラミッド登頂に準備万端だ。
ジャガーの神殿、ケツァルパパロトルの宮殿を見た後、まずは神聖な儀式に使われた、月のピラミッドへ。最初の階段の傾斜が少しきつかったが、上まで登ることができた。真っ直ぐにのびる死者の大通りの両脇には神殿が並んでいるが、すべて石だけで作られている。よほど計画的でなければ、この形は実現できなかったはずだ。続いて太陽のピラミッドへ。全部で248段あるという階段をゆっくり登り、頂上へ。周囲の山々を見渡しているうち、雲行きが怪しくなってきた。最後に、シウダデラ(城塞)の奥にあるケツァルトアルコルのピラミッドに施された雨の神と農耕の神の彫刻を見て、市街地に戻る。夜は雨となった。にぎわうソナロッサにあるチキングリルの店でサボテンステーキとビールを味わい、1日の幕を閉じる。
【3日目】バラガン邸→サテライトタワー→シウダデラ市場→ソナロッサ
メキシカン・モダンの巨匠バラガンの邸宅
今日は廣田さんの案内で、メキシカン・モダンを代表する建築家ルイス・バラガンの自宅を見学する。世界遺産として登録されている建物だ。バラガンはメキシコ国内で個人住宅を中心に地道な活動を続けていたが、1980年に建築のノーベル賞「プリツカー賞」を受賞し、一躍世界の脚光を浴びた。日本でも建築家の安藤忠雄を始め、バラガンファンは多い。
住宅地タクバヤの一角にあるグレーの家がそれ。隣接するオルテガ邸も彼の作品だ。見学するバラガン邸は1947年から2年かけて作られたもの。目立たないドアを開けると、縦に長い玄関ホール。ドアの上の黄色いステンドグラスだけが柔らかい光を放つ。床はどこも黒い火山岩。ホールの先のドアを開けると、今度はピンクの壁が一面に広がる。「メキシコの民家に見られるピンクや茶色、紫、赤、黄色などを取り入れています」と廣田さん。メキシコの強烈な色彩を好んで取り入れ、モダンアートの中に昇華していったバラガン。無機質になりがちな現代建築に光、溶岩といった自然の要素を取り入れ、詩情あふれる世界を築き上げた。メキシコにはこんな偉人もいたのかと感心する。
その後、市街地の北西にあるサテライトシティーに向かう。このシティーの境界線として、建てられたサテライトタワーもバラガンの作品。30~50メートルの5本の柱は地元のランドマークとなっている。バラガンは広大な土地を買い取り、美しい庭園を作って高級住宅の分譲地として売却する事業にも着手した。建築家であると共にデベロッパーでもあったのだ。今度はシウダデラ市場に。メキシコの民芸品好きにはたまらない、買い物天国の時間だ。
民芸品パラダイス シウダデラ市場
この市場、メキシコシティーの民芸品市場では1番充実しており、値段も手頃と言われているところで、メキシコの各地方の民芸品を売る店がずらりと軒を並べている。迷いそうになったら、グアダルーペ像が祭られた中庭に出れば位置が把握できると廣田さんに言われ、買い物開始。銀細工、イダルゴ・プレブラの陶器、ガラス細工やテキーラグラス、手作りギターや張子の人形、刺繍を施した素朴な民族衣装やソンブレロ、もう本当に枚挙に暇がないとはこのこと。芸術品に近いものから日常の雑貨まで、あらゆる民芸品が売られている。
集合時間までめいっぱい買い物をしたと思ったが、それでもまだ買い足りないという気分。ソナロッサに戻って解散してから、別の民芸品市場・インスルゲンテ市場にも歩いて出かけたが、シウダデラの方がずっと安かった。そう思いつつも、インスルゲンテでシルバーのアクセサリーをたくさん購入して、物欲旺盛な記者は大満足。
【4日目】メキシコシティー → ロサンゼルス
伝統と文化豊かな国メキシコに再び…
帰国の日となった。やっとスペイン語にも慣れてきたのに残念。メキシコシティーはごちゃごちゃしているけれど、暮らす人々の息遣いが感じられる。ちょっぴりいい加減ではあるけれど、人間味にあふれている。陽気で素直な生来の性格からだろう。現地で暮らすガイドの廣田さんや島津さんの話を聞いていると、メキシコの人々になんとなく親しみが湧いてくるから不思議だった。
HISの提供するロサンゼルス発メキシコシティーのツアーは4泊5日の設定で、4日目は1日フリーとなっている。オプショナルツアーでタスコやプエブラ、ソチミルコなどの郊外の街に出かけることもできる。また、遊びに行きたいと思う。伝統と文化の豊かなロサンゼルスから1番近い外国・メキシコ。リゾート地や自然もいいけれど、たまにはこんなに人間臭い土地に出かけて見聞を広げるのもいい。