難波勝利/Robert Crowder & Co. 副社長

ライトハウス電子版アプリ、始めました

1968年にメキシコ五輪の通訳としてメキシコに向かう道中、最初の寄港地、ロサンゼルスでひょんなことから日本画家のロバート・クラウダーと出会った。以来、古美術品の売買から壁紙の印刷技術の習得に始まり、ラスベガスのカジノでの壁面装飾シェアナンバーワンを獲得するまで、会社の成長を支えてきた。今後は中国、ロシアやアラブ諸国などのホテルを中心に、さらに海外へと活躍の場を広げていく。

日本人の持ち味を活かして勝負するのが一般アメリカ社会で一歩前に出るコツ

なんば・かつとし◉1945年生まれ。岡山県出身。大学でスペイン語を専攻している時に、メキシコ五輪の通訳として渡米。日本画家、ロバート・クラウダーのスタジオで仕事を見つけ、壁紙デザイン製造業務に携わる。UCLAでシルクスクリーン印刷技術を学ぶ。80年に新壁紙印刷製造会社、Robert Crowder & Co.の設立に伴い、経営のパートナーとなり、以来、徐々にシェアを広げ、現在ではラスベガスのカジノ、ボールルームの壁面装飾のシェアNo.1を誇る。家族は妻と息子3人。http://www.robertcrowder.com/

メキシコの学生暴動で五輪通訳から滞米

昔から外国に対する漠然とした憧れがありました。高校時代にトリオ・ロス・パンチョスというラテンバンドのファンになりスペイン語になじみがあったのと、当時、スペイン語はマイナーだったので、英語よりも外国に行ける可能性が高いのではと思い、大学ではスペイン語を専攻しました。卒業の前年、1968年にメキシコ五輪の通訳としてメキシコに行くことになったので、通訳が終わった後は、2年ほどメキシコの大学に留学しようと思っていました。

ところがアルゼンチナ丸という船で2週間かけてロサンゼルスに着き、いよいよメキシコ入りという矢先に、学生暴動が勃発。メキシコ政府が学生の入国を一時停止したため、しばらくロサンゼルスで入国の解禁を待つことにしました。

そんなある日、羅府新報に「日本語が読める人募集」という広告を見つけました。それがロバート・クラウダー氏のスタジオでした。彼は戦前に日本の第五高等学校(今の熊本大学)や明治大学などで英語を教える傍ら日本画を望月春江画伯に習った人で、当時は手描きの壁紙とか手織物を作っていました。日本滞在中に日本の古美術品や骨董品に興味を持って、当時、日本の屏風については、個人で全米一のコレクターでもありました。江戸時代の木版画など、浮世絵でできたような美術書の整理が私の仕事でした。

高校時代は建築科だったので、スケッチなどはしっかり仕込まれていましたから、次第に壁紙の仕事も手伝うようになりました。ところが手描きの壁紙は注文が多すぎ、とても追いつかない。それで印刷の方法を取り入れようということになり、UCLAに夜間に通って、写真製法のシルクスクリーン印刷の勉強をすることになりました。当時は写真転写のシルクスクリーン自体がまだ紹介されたばかり。シルクスクリーンという言葉を聞いたのも初めてで、毎日仕事から帰ると、家のガレージで研究しました。

シルクスクリーンは、まず写真に撮って版を起こすのですが、正確に写さないとできません。UCLAには一部屋分くらいある大きなカメラがあり、夜間の学生も使うことができたので、結局トータルで4年くらい通いました。いろいろな知識を持った人が技術を磨くために通っており、その人たちからの刺激が楽しく、多くのことを学びました。

古美術品を持ち帰った進駐軍戦後はアメリカから逆輸入

80年頃に壁紙の印刷会社を作ろうということになり、ロバート・クラウダー&カンパニーを設立。私は経営のパートナーになりました。最初の頃は、注文が来ないと1年間、サンプルばかり作っていることもありましたが、会社は壁紙だけでなく、日本の古美術品や骨董品の売買も手がけていたので、経営的には維持できました。

漆の塗り物は、日本では戦時中、誰も使っていなかったのですが、戦後、進駐軍の将校たちが宝石箱として購入するなどして、朝鮮戦争の頃になるとほとんどが海外に流れてしまったのです。日本経済が再生して骨董品が注目を集める頃には、日本には残っていなかったため、日本からアメリカに買い付けに来て、再び日本に持ち帰りました。その頃はたまにパサデナのガレージセールなどで、「祖父が日本から持ち帰った」という屏風が安く売られていたりして、調べると桃山時代や江戸初期のものだったということもありました。

印刷のほうは、サンプルブックを作ってアメリカ中にばら撒きましたが、競争相手が多いので、シルクスクリーン以外にもエンボス加工や作画、デザインのデジタル化など、すべてを手がけるようになり、さらに手作りのカスタムメイドなどあらゆる注文に応じているうちに、徐々に軌道に乗っていきました。

壁紙はカスタムメイドのため、実にさまざまなモチーフがオーダーされる。昔はすべて手描きだったが、現在はほとんどコンピューターで描く

ラスベガスはマフィア一掃で無名の日本人にもフェアに

ラスベガスに進出したのは、80年代後半です。キンキラのイメージだったのですが、実際に行ってみると思ったよりテイストが良かったので、ここで仕事ができたら面白いのでは、と思ったのがきっかけです。

ラスベガスを専門にしている室内装飾の会社を探し出し、毎日サンプルを作って持って行きました。最初は小さなオーダーから始まって、そのうち大きなオーダーが来るようになったのですが、ラスベガスはコネがないと大変だろうと思っていたのに、実際に仕事をすると、これほどフェアな場所はないと気づきました。

以前はマフィアが牛耳っていたのですが、それを一掃しようということになり、今ではホテルのオーナーでさえ、どこに注文を出すかを決める権限はありません。オーナーはデザイン会社にデザインを任せ、基本案にOKを出すと、後は口出ししないだけでなく、デザイン会社とは別に買い付け会社があり、注文はオークション形式で入札する仕組みになっています。おかげで無名の日本人であっても、他の人と同じように扱ってくれました。

ラスベガスがすごいと思ったのは、モンテカルロがオープンした時です。突貫工事で、建設から完成まで1年で終わらせたのですが、パブリックエリアの壁紙はほとんど全部、当社が手がけました。でも注文が来たのは、工事の最後の最後。それで昼夜働いて、ボールルームの一面300フィート、4面の壁を覆う壁紙をトラックに載せ、自分で運転して納入したのは、オープン前日でした。その夜はそこで泊まったのですが、翌朝起きて驚きました。一晩でボールルームの壁紙が、すべて貼り付けられていたのです。

ラスベガスでは手軽に雰囲気を変えるために、通常2、3年で壁紙を替えるのですが、そんな時でも絶対にカジノのスロットマシンは停止しません。機械を少しだけ移動させて、お客さんがギャンブルをしている裏で貼り替えるので、オープンも絶対に遅らせないのです。

塗り壁風にするため、数百フィートある壁紙に手作業で仕上げを施していく。創意工夫しながらクライアントの要望に応えてきた積み重ねが信頼につながっている

失敗は責任を持ってやり直す日本人の感性で勝負

最初の頃は失敗も多かった。ですが失敗を認めないアメリカ人が多い中で、失敗を認めて責任を持ってやり直すと逆に信頼してもらえ、次の注文につながりました。アメリカ人は権利を主張し、失敗を認めない面もありますが、根本的な人間の心は変わらないと実感しています。アメリカで成功するには、アメリカ人と同じラインで勝負していると難しい。日本人の感性を活かし、自分の持っているもので勝負するのが、一般アメリカ社会で少し前に出るコツではないでしょうか。

英語も含めて、すべての面でアメリカ人に負けてはダメだと考えなくてもいい。その分野に入って、日本人の持ち味で差をつければいい。古美術の売買をしていた時には、なぜ日本にいる時、もう少し日本のことを勉強しなかったのかと悔やみました。日本の伝統の良さというものは、日本にいる時には気づきませんが、アメリカに何年か住んでいるとわかってくるものだと思います。
 
(2007年1月1日号掲載)

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