俳優・コメディアン / 神田瀧夢

ライトハウス電子版アプリ、始めました

日本の素晴らしさを伝えたい。それが僕の生き様だからいまだにサムライを続けてる

ABCテレビの『I Survived A Japanese Game Show』の司会者に抜擢された神田瀧夢さん。米4大ネットワークのプライムタイムの番組に、日本人が司会者として出演するのは初めての快挙。コメディアンとして、俳優としてNY、LAで精力的に活動を続け、「国際人であるということは、無国籍人ということではない」と、空手道、剣道などの武道に通じ、能・狂言、日本舞踊などの伝統芸能に精通する「ホンモノ」の俳優。渡米のいきさつから、今後の夢まで語ってもらった。

大阪と日本を背負って立とうと決めた

第2期放送が決定した『I Survived A Japanese Game Show』

海外に出ようと決めたきっかけは、19歳で大阪からロンドンに遊学した時。当時はみんな日本のことすら知らなくて、ブルース・リーは日本人、ナショナルや富士カラーが「Made in England」と信じている人もいました。これではダメだと、大阪と日本を背負った人物になろうと思ったんです。世界で通用する人物になるには色んな方法がありますが、僕にはショービジネスの世界で人を喜ばせたり、楽しませたり、感動を与えたりすることが向いてるかなと。でも、僕自身、どれだけ踊りを勉強してもマイケル・ジャクソンには勝てないし、どれだけ歌を勉強してもローリング・ストーンズのようにはなれない。「じゃあ、芝居で行こうか」と思って俳優になりました。

 

俳優界の世界最高峰がハリウッド。でも、僕と同じような顔をして、英語が話せて、演技ができるような人は山ほどいる。その人たちに勝つためには、日本で生まれ育った日本人の魂、伝統文化と芸能が必要だと思ったんです。空手、剣道、居合道、日舞に能・狂言、書道、華道、茶道、全部やりました。その間、K-1のリングアナウンサーや、司会の仕事などもやってきました。16年間かけて修得してきたそれら伝統芸能が、米移民局から特殊技能であると認められ、グリーンカードを取得することができました。

 

永住権取得後は、NYに渡りました。TVや映画のオーディションを受け続けましたが、ほとんど受からない。寂しさと屈辱と敗北と、地獄のような6年間でした。NYでは生きて行くこと自体が大変。毎日、自分を表現して、誰かに対して怒っていないとダメ。負けてしまいます。LAは生きていくのは楽だけど、自分でハッパかけていかないと堕落してしまいます。だから、LAに来てからの方が、表情が厳しいって言われたこともあります。

LAには2006年に来ました。それまで映画に何本か出た実績があるので、それでエージェンシーやマネージャーを探して、オーディションの情報を送ってもらいました。NYは舞台の街、LAはTVと映画の街。それにアジア系が多い。でも、競争とかライバルとかって特に考えたことはありませんね。自分との戦いなんですよ。それに、自分は殺陣や空手、コメディーなど人にできないものを究めることが成功の秘訣だと思っています。

 

映画『ラスト・サムライ』のオーディションも受けましたが、結局通ったのは渡辺謙さんと真田広之さん。僕に勝ち目はありません。でも、彼らができないことで自分ができることは、「お笑いだ!」と。友達と漫才を英語でやって、ショーがヒットしたし、コンビを解散した後もスタンダップ・コメディーの大会に1人で出て、優勝したこともあります。コメディーの分野に進んだのはそこからです。

 

僕はわかりやすいネタが好き。日本文化とからめて、アメリカ人が笑い終わった後に、「日本って面白い」「日本に行ってみたい」って、日本人の文化の素晴らしさに気付くようにしたい。それが僕がアメリカにいる目標というか、生き様ですから。「サムライ」をいまだに続けてるんです。

 

ABCTVのリアリティー番組は、最初から極秘のインタビューでした。僕のコメディーを気に入ってくれて、1カ月後に「お前が第1候補だ」と。その後のカメラテストでは、3ページの英語の台詞を丸暗記して、それをやりました。それに通ったと分かったのがロケで日本に出発する2週間ぐらい前です。

 

日本ロケでは毎日10ページくらいの英語の台詞が届きます。日本に3週間滞在しましたが、連日朝から晩まで収録で、セットとホテルとファミレスの3カ所しか行ってないですよ、忙しくて。収録は、日本人の観客が100人映っていて、その周りに日本人制作スタッフが50人、さらにその周りを100人のアメリカ人クルーが取り囲む。僕はその間に入って大変でした。通訳が3~4人しかいないから、僕がアメリカ人と日本人スタッフ、アメリカ人出場者10人をケアして、なおかつお客さん100人を笑わせないといけない。英語の台詞も覚えないといけなかったし。

日本人にも応援してほしい

『I Survived A Japanese Game Show』はアメリカ人が観たら、すごく面白いと思う。僕のキャラが活かされてたし、「面白い日本人だな」って思うんじゃないかな。台本にはアメリカ人ライターの考えたジョークがいっぱい書いてあったのですが、実際にオンエアで使われたジョークのほとんどは、僕がアドリブで入れたものでした。

 

おかげさまで、番組に出てからアメリカ人が作るファンサイトもできました。「ロム・カンダ・プロジェクト」っていう僕を売り出すためのプロジェクトも立ち上がってて、マネージャーもいます。ただ、僕自身、アメリカ人から注目されているという自覚はあまりないんです。私利私欲なんか1つもないんですよ。ただ日本を背負って、日本人の素晴らしさをアメリカ、世界各地にアピールするためにやっているつもり。ショービズ界の親善大使ですから、アメリカにいる日本人の皆さんと一緒に、盛り上げて行こうと思います。

 

うれしいことに『I Survived A Japanese Game Show』はセカンドシーズン制作が決まり、僕も続投することになりました。09年公開予定のスティーブン・ソダーバーグ監督の『INFORMANT』にも出演します。ハリウッドで映画のプロデュースや、殺陣と芝居の指導もしています。

 

まだまだアメリカでの日本人のステータスは低いです。僕が生きている間にそれをグッと上げたいですね。その方法が、映画だと思って頑張っています。いつも日本という国が良くなること、その日本で自分を生んでくれた両親と先祖に感謝すること。この2つだけを考えていますね。

 

アメリカでショービズを目指している人にアドバイス?ネバーギブアップの根性、礼儀と忠義を重んじてほしいです。「英語と芝居を勉強しなさい」なんて、当たり前のことは言いません。僕も間違えることはいっぱいありますけど、間違いは反省して。

 

目標はでっかければでっかい方がいいですよね。僕なんか、一生かけてできないようなことを目標に掲げてます。それぐらいの方がいいと思います。

かんだ・ろむ●大阪・清風高校を卒業後、イギリスとアメリカに留学。英知大学卒。演技は奈良橋陽子らに師事するほか、NYアクターズスタジオで学ぶ。他に講談、日本舞踊、能・狂言、舞踏に精通。LA留学中にコメディークラブに出演。87年には日米合作の『トーキョーポップ』で映画デビュー。89年北野武主演・監督の『その男凶暴につき』出演、93年『ソナチネ』から96年までの北野監督全作品に出演する。2008年、ABC『I Survived A Japanese Game Show』で司会者に抜擢。09年3月公開のマット・デイモン主演『INFORMANT』にも出演している。www.romekanda.com
 
(2009年1月1日号掲載)

「特別インタビュー」のコンテンツ