一見役に立たなくても人間の本性とは何なのかに少しでも迫る研究ができれば本望だな。
知覚心理学、認知神経科学の観点から、脳、環境、身体の関係を問うという普遍的な研究を行うと同時に、社会、政治といった現代的な問題にまで迫る、カリフォルニア工科大学生物・生物工学学部教授の下條信輔さん。そのユニークな研究の一端を伺いました。
(2016年4月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版掲載)
ー研究のきっかけは?
下條信輔さん(以下、下條信輔):僕は「人間の本性とは何なのか」、もっと言うと「自分って何なのか」という問題を何とか理解したいと思っているのです。けれど、僕が哲学や文学の分析法でそれに取り組んでも、何十年経っても同じところを回っている気がした。それで科学的に取り組もうと思った大学時代に実験心理学に出会ったのです。なかでも、研究者としてのの原点になったのは、卒論のために自分で「さかさめがね」を8日間かけたことでした。
ー「さかさめがね」とは?
下條信輔:人間の目の網膜像は、針穴写真機と同じ原理で上下左右逆転して像を結んでいるのですが、でも事物は正立して見える。それは僕たちの目がこの世界に慣れているからなんです。さかさめがねはそれを再び逆転させる。さかさめがねは、1世紀以上前からある有名な研究で、知覚心理学で一番キツい実験と言われています。僕がかけためがねは、両眼の網膜像が左右ひっくり返るもの。最初は右手を出すと、左手が出ているように見えて、自分の体に思えず、気持ち悪くて吐きながらやりました(笑)。そうすると、4日目か5日目くらいに、左右適応して見え始めたんです。
人間の性格などが学習や経験で変わるのは当然だと思っていたけれど、「物の見え方」という原始的なことが人間の経験でそこまで変わるのかと驚きました。それで、人間は経験の効果でどこまで変われるのか、あるいは脳はどこまで外界に対して適応していく器官なのかと、知覚心理学、認知神経科学の研究に進むことになったのです。
ー下條さんの著作では、認知心理学に留まらず、マーケティング、社会、政治、経済、文学にまで、研究が展開されていますね。
下條信輔:どの分野で研究をするのかということでなくて、関心は「人間の本性とは何なのか」「自分とは何なのか」というということだからでしょうね。自分を成しているのは知覚経験や記憶、感情、今感覚していることであり、それらを理解することが自分、人間を理解することにつながると思うんです。
人間の時間に対する感覚の研究なども行っていますが、ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プロジェクトでは、「人間に磁気感覚があるか」、つまり第六感があるかというスキャンダラスな問題を扱っています。ハトやクジラなど動物には磁気感覚があるのは知られていますよね。まだ結論は未発表ではありますが、人間に第六感があることが判明すれば、五感が発見されたギリシャ以来の大発見になるわけです。それ自体も興味がありますが、こうした実験で重要なのは、ターゲットになる問いの価値と同時に、その実験過程で使う技術が他でも役に立つことがあるという、技術の進歩の面です。
とはいえ、僕は「潜在知「」暗黙知」の研究も行って、そうした意識と無意識の間にある前意識の領域から生まれる大発見や創造性の科学的根拠を提示したのですが、役に立つように見えるものばかりやるのでは浅知恵過ぎる。未来は想定外だし、人間は全知全能ではありませんからね。一見役に立たなくても、人間の本性に迫る研究ができれば本望だな。
ー人間の本性を理解する研究は、もし悪用しようと思われたら、危険なものでしょうか?
下條信輔:例えば、選択行動に関するニューロマーケティングの研究を使えば、消費者が2つの品物から一方を選ぶ確率を50%から60%にすることは可能です。それは大したことだとも言えるし、その程度なら旧来のマーケティングと本質的には変わらないわけで、大したことでもないと言える。でも、それが90%になれば非常に危険だけれど、幸か不幸か、そう簡単に科学がそこまでいけるとは思えない。
同時に、科学が人間の本性に関わる部分で進歩すれば、危険な武器になるのは当然で、そうでなければ進歩が足りないとも言える。それは脳科学、神経科学に限りません。科学が威力を発揮すれば、科学者の倫理的責任も広がるし、その情報に誰がアクセスできるようにするかという科学者の周囲の責任も大きく出てきます。しかし現状では、僕が心理学をやっているからと言って、麻雀に勝てるわけでもないわけです(笑)。
ー今後の研究のご予定は?
下條信輔:今、取り組んでいる研究の一つは感覚代行の研究です。CCDカメラが付いたサングラスをかけてもらい、映像を音に変換して、盲人に視覚経験を与える研究なのですが、この装置で訓練をしていると、一部のスーパーユーザーと言われる人に「見える」人が出てくる。目が見えないはずなのに、脳を調べると視覚質が活性化している。今のところ、全員に起こるわけではなく、後天盲と呼ばれる比較的大人になってから見えなくなった人に限られているのですが、でも、もしそれが全ての盲人に実現できれば、一切手術的なことなしに、視覚経験が快復できるかもしれないと考えています。
面白いことにこの感覚代行の研究は、研究の原点であるさかさめがねの研究に似ているのです。実験の見た目も似ているし、感覚系と運動系のマッピングができて見えてくるのも似ているんです。僕の研究の動機は「人間の本性を知りたい」という世の中に全然役に立たないことなんだけど、今度は少し役に立つことをしている気もするのが不思議ですね。
※このページは「2016年4月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版」掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。