HPI Holding, Inc.プレジデント&CEO / 渡辺龍郎

ライトハウス電子版アプリ、始めました

子供の頃から趣味だったラジコンカー。親にすすめられた留学先はラジコンのメッカ・ロサンゼルス。喜んで留学し、自分で何かやろうと思った時に持っていたのは、ラジコンの知識だけだった。資本金200ドルで自宅のガレージから部品の輸入販売を始め、今や世界中に拠点を構える年商1億ドルの企業に成長した。その影にあったのは、小さな努力の積み重ねと、レースを通じて世界中に広げた信頼の輪だった。

お客さんにとってエキサイティングなものをこれからもずっと作り続けていくのが目標

わたなべ・たつろう◉1964年生まれ。福岡県出身。東京の高校を卒業後、83年に渡米。語学学校を経て、サンタアナ・カレッ
ジでスモールビジネスマネージメントを専攻。86年、21歳の時にラジコンカーの輸入販売会社、HPIを設立。自宅のガレージから出発し、87年にHPIジャパン、98年にHPIヨーロッパを設立。現在ではアメリカに3拠点、イギリスに2拠点、日本に2拠点、中国に1拠点を構え、年商1億ドルを超える。

10歳からレースに参加バイトして海外にも

小学生の頃からラジコンカーが趣味で、学校では勉強もせずにずっとラジコン雑誌を読んでいるような子供でした。おそらく最初に買ったラジコンカーが、日本で最初に発売された日本製品だと思います。当時で4、5万円しましたから、最初は雑誌ばかり読んでいました。ラジコンカーの販売促進のためにレースも始まると、アルバイトをしてレースに出るようになりました。最初に出たレースは長野県で開催された小さな大会で、2位になってトロフィーをもらったのがうれしかったですね。高校生になると、バイトでお金を貯めて海外のレースにも出ていました。最初の海外旅行は、17歳の時。ロサンゼルス近郊でのレースに出場するためでした。

高校の卒業が近づき、皆が就職や進学の進路を決めていた頃、私は何も決まっていなかったので、親が「格好が悪いから留学しなさい」と言ったんです。留学先はロサンゼルスだと言うので、喜んですぐに渡米しました。当時からロサンゼルスはラジコンカーのメッカで、大小50社ほどラジコン会社がありましたし、市場としても大きかった。

83年に渡米して、語学学校からサンタアナ・カレッジに進み、スモールビジネスマネージメントを専攻しました。その頃から、自分で何かをやりたいと思っていました。ですが、自分が知っているものと言えばラジコンカーしかありません。そこで21歳の時に、家のガレージで、パートナーと2人でラジコンカーの部品輸入販売の会社を起業しました。自分にあったのはラジコンの知識と、10歳の頃からレーシングをやっていたので、その間に築いた人との信頼関係だけでした。

起業といっても私が100ドル、パートナーが100ドル出しただけで、計200ドルで始めたので、朝起きると仕事して、昼は学校に行き、夜は仕事で、その合間にピザの配達などをして生活していました。

ラジコンカーを実車化したモデルカー。社内レクリエーションの時には、サーキットで社員を乗せて走る。

お金がなかったから真っ黒になって手作り

日本製のモーターは高性能なので、それをアメリカの会社に売ろうとしたのですが、1個680円のモーター100個1ケースを買うと6万8千円が必要です。でも資金200ドルですから買えません。でも「売れた時に払ってくれたらいい」と言ってくれ、船便で送ってもらって、ロングビーチの港まで受け取りに行っていました。その他にも、スポンジタイヤを自分で削ったり、お金のかからない方法で手作りしていました。プラスチックのホイールに接着剤を塗ってシンナーで溶かし、スポンジをつけてやすりで削るのですが、臭いし、真っ黒になるんですね。

でも最初は認めてもらえないし、誰も相手にしてくれません。2年目にガレージから300スクエアフィートのオフィスに移った時も、不動産屋から嫌味を言われたりなど、嫌な態度をされたことは何回もあります。でもそれがバネになった。若かったから、怖さもなかったし、くじけることもなかったのですね。

最初の1、2年は給料も出ないし、食べていけるようになったのは3年目くらいから。毎日が危機のようで、本当にやっていけると自信がつくまでに7年くらいかかりました。でも日本にHPIジャパンを設立したのは87年頃で、比較的早かったですね。というのも、その頃急に円高になって、1ドル130円台になったのです。すると日本から輸入していたものが為替レートの変動で値上がりしたので、単純にそれならその逆をすればいいと考えたのです。アメリカにも良い物はたくさんあるので、それを日本に輸出すればいいと。

日本のオフィスは、最初は4畳半のアパートで、朝起きて布団を畳むと、それがオフィスになるわけです。押入れが倉庫で、「アメリカのこんな製品はありますか」と電話が来ると、「はい、あります」と言って押入れから引っ張り出すんですね。電車がすぐそばを走っていたので、電車が通ると電話も聞こえないようなところでした。

HPIヨーロッパを設立したのは、友人にすすめられて。18歳の頃からレースを通じて、世界中に友達がいたんですね。そのなかには私と同じような人生を歩んでいる人もいて、スイス人の友達もそのなかの人です。今でも彼はスイスで当社製品の販売をしてくれていますが、ある時彼と「ヨーロッパに進出すれば」という話に。それまでは考えてもみなかったのですが、EUとして見たら、ヨーロッパは世界の3分の1を占める市場です。やらない手はないと思い8年前に設立したのですが、今ではグループ内で1番大きくなりました。

10カ国の仲間が集い、世界を転戦するレースチームメンバー。

エキサイティングなものを作り続けていきたい

食べていくのに必死だったのが、ここまでできたのは、「これが好きだから」というのが1番大きいですね。結婚したり、子供ができると、そのたびに「しっかりしなきゃ」という思いが生まれた。いつも思うのは、今世界中に従業員が300人くらいいますが、その家族を入れると約900人の生活があるということ。しっかりしないわけにはいきません。

今でこそ、失敗したらという思いや、潰れたらという不安はほぼゼロになりましたが、会社が小さな頃は毎日のように不安を感じていました。でも商売は売るということ自体が難しいので、お客さんに買ってもらえたのが第1の自信になり、給料を出して採算が取れ始めたことが第2の自信になった。お金がなくて部品しか作れなかったのに、車全体を作れるようになった。日本やヨーロッパに子会社を作って、少しずつ「もう少ししっかりしなきゃ」という意識が高まったのだと思います。

具体的な目標を立てて、ここまで絶対に行かなくてはならないというものがあると、怖くないのですね。最初の頃は、それがなかったから怖かったわけです。成長が止まると会社は下がると、ずっと自分に言い聞かせてきました。世の中から車がなくならない限り、ラジコンカーの需要はなくならないと思うので、これからもお客さんから見てエキサイティングなものを作り続けていくのが目標です。ずっと成長し続けなければならないと思っています。

会社の考えを社員に理解してもらって、社員のエネルギーの元になるやりがいを作っていくことも重要だと思います。後は人を理解するということですね。社員でもお客さんでも、相手を理解しないと適切な判断はできません。相手を尊敬して理解し、そして命令ではなくお願いするということです。これからはラジコンカーだけではなく、ラジコン飛行機やミニカーなども手がけ、お客さんに夢を与える趣味の輪を広げた展開をしていきたいと思っています。
 
(2007年1月16日号掲載)

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