思いもよらぬ祖国からの攻撃で、アメリカ市民でありながら一瞬にして「敵性外国人」の烙印を押された日系人。現状を打破するにはアメリカ兵として出兵し、戦場で良い成績を残すしか生き残る道はないと、多くの若き二世が前線に向かった。
戦後、アメリカの日系社会はモデル移民と呼ばれ、各界に多数の成功者を送り出した。それも若き日系兵士の犠牲があったからにほかならない。今回は、第2次世界大戦という歴史に翻弄された日系人の苦闘と葛藤を紹介したい。
第1章)リメンバー・パールハーバー
パールハーバー攻撃で一瞬にして敵性外国人に
1941年12月7日(ハワイ現地時間)の朝だった。穏やかな日曜日の朝、ハワイ・オアフ島では多くの人が、アメリカ海軍基地パールハーバーに黒煙が上がるのを目撃した。それが日系人の歴史を変える悲劇の始まりだと気付いた人は少なかった。だが、戦闘機第2波がホノルル上空を旋回した時、人々はその機体に日の丸を見つけて愕然とした。パールハーバー攻撃で、誰よりも打撃を受けたのはハワイに住む日系人だった。
ハワイ選出のダニエル・イノウエ上院議員は、その時の衝撃を「人生が終わったと思いました」と告白している。彼らにすれば、祖国から裏切られた思いだったに違いない。後にハワイの日系兵が部隊のモットーに選んだのは「リメンバー・パールハーバー」だ。このモットーに、ハワイで生きてきた日系移民の無念さが凝縮されている。
パールハーバー攻撃の一報は、瞬く間に全米を駆け巡った。アメリカの日系人は一瞬にして「敵性外国人」のレッテルを貼られる。ロサンゼルスのリトルトーキョーでは戒厳令が敷かれ、日系人の5マイル以上の外出が禁止になった。FBIは日系人リーダーを一斉検挙し、翌朝6時半までに全米で763人の日系人一世が連行された。
翌日、当時のアメリカ大統領であったルーズベルト大統領は正式に日本に対して宣戦布告し、ドイツとイタリアがアメリカに対して宣戦布告すると、アメリカは全面戦争に突入した。この日を境に「ジャップ」という蔑称が連日、全米各紙のトップを飾るようになる。加熱した反日感情は容赦なく日系人に向けられた。日系人を狙った襲撃事件が増え、街の商店には「ジャップお断り」のサインが目立った。
1942年2月、ルーズベルト大統領は大統領命令第9066号に署名した。これは裁判や公聴会なしに、特定地域から日系人を排除する権利を陸軍に与える法律だ。基本的にアメリカ市民は、どんな重罪犯でも裁判や公聴会で無実を主張する権利が保障されている。大統領命令第9066号は、そのアメリカ人としての当然の権利を日系人から奪ったものだ。
その4日後、サンタバーバラ沖の製油所が日本軍の潜水艦から砲撃を受けると、アメリカ海軍はサンペドロ沖のターミナルアイランドに住む日系人に対して、48時間以内の立ち退きを命じた。当時、ターミナルアイランドは日系人約3千人が住む「日系人漁村」だったが、島の半分は海軍基地だった。人々は財産を二束三文で処分し、身寄りのない人はリトルトーキョーの寺などに身を寄せた。
アメリカ政府による日系移民排除政策は、世論のヒステリックな排日感情に後押しされて、この後次第にエスカレートしていく。
■公正な立場で報道したハワイと南カリフォルニアの2紙
パールハーバー奇襲後、一夜にして全米各紙が「ジャップ」と激しい攻撃を繰り広げたのに対し、あくまで人道的な報道を貫いた編集長がいる。1人はハワイの有力紙『ホノルル・スターブリテン』紙のライリー・アレン編集長だ。
アレン編集長は、パールハーバー奇襲を伝える報道に始まり、「ジャップ」という蔑称の使用を決して許さなかった。当時、同紙には日系人編集者が2人いたが、2人共解雇されることなく仕事を続けた。この日系人を含む編集者たちは「ジャップ」の使用を求める嘆願書をアレンに提出したが、彼は「ジャパニーズ」と綴る方針を貫いた。
もう1人が『オレンジ・カウンティー・レジスター』紙創設者のR.C.ホイルズだ。全米でも反日感情が特に高かった南カリフォルニアにおいて、彼は紙面で市民的自由のあり方を問い続けた。強制収容実施に傾く軍部に対しては「異国の地で生まれ、その地で何年も善良な市民として生活してきた人たちが危険だとは信じがたく、彼らの忠誠心に懐疑的になるべきではない」と訴えた。
「48時間以内に島を出ろ」、立ち退き令状で生活が一転
泉 敏郎さん
ターミナルアイランドで父は漁師として、母は缶詰工場で働いていました。私は島で小さな食料店を営んでおり、太平洋戦争が始まった時は27歳でした。コミュニティーのリーダー格だった父は、戦争が始まってすぐFBIに連行され、モンタナの収容所に入れられてしまいました。島内では日本人経営の店がどんどん閉鎖され、私の店もアメリカ兵の監視の下、1日1回だけ店を開けて食料を分けていました。これからどうなるか、不安な気持ちで2、3カ月を過ごしました。
そしてある日、海軍から「48時間以内に島を出なさい」という立ち退き令状が張り出されました。一世は英語の読めない人ばかりでしたので、英語の読める人が家族や近所の人々にそれを慌てて伝えました。私はベニスに住む遠縁の親戚から大型トラックを借りて、干物などの食料を積めるだけ積み、後の物は捨ててベニスに移りました。
その後、ロサンゼルスの姉の家に移りましたが、収容所に入れられるとの噂を聞いていたので覚悟していました。そして、カリフォルニア州トゥレーリーの集結センターで半年近く過ごし、アリゾナ州のヒラリバーの収容所に送られました。
収容所である時オフィサーに呼ばれ、「ターミナルアイランドの自宅や店にはこれだけの値打ちしかない」と、たった200ドルを渡されました。後で政府に訴えても良いと言われましたが、自分にはすでにその元気はありませんでした。島はすでに海軍の基地となり、漁業で栄えていた日本人町はすっかり破壊されてしまいました。もう戻る所ではなかったのです。
第2章)日系人の強制収容
アメリカの歴史に汚点を残す、日系人強制収容所
1942年3月2日、アメリカ西海岸各州の西半分とアリゾナ州南部がアメリカ陸軍によって第1軍事地域に指定されると、その3週間後にはシアトルのベインブリッジに住む日系人家族220人に対して、強制立ち退き令第1号が発令された。対象は「日本人を祖先に持つ外国人および非外国人」。「非外国人」とは、出生によるアメリカ市民である日系二世を指した。彼らが後述するマンザナー収容所の入居者第1号となった。その後、立ち退き令は軍事指定地域に住む日系人に次々と第108号まで発令され、夏頃にはアメリカ西海岸から日系人が完全に姿を消した。その総数は12万人以上に上る。
立ち退きに与えられた日数はほぼ1週間。人々は財産を叩き売らなければならなかった。それでも立ち退き当日、男性はスーツ姿に帽子、女性はスーツやドレスなどを身にまとい、まるで観劇にでも行くような装いで、秩序正しくバスや電車に乗り込んだ。それは日本人としてのせめてもの誇りであったのかもしれない。
人々はまずアセンブリーセンターに集められた。ロサンゼルス界隈のアセンブリーセンターはサンタアニタ競馬場だった。敷地内に仮設バラックが建てられたが、馬小屋も住居として当てられた。馬糞の匂いはきつく、どんなに拭いても取れなかったという。数カ月後には、さらに全米10カ所に特設された収容所へと移送された。どの収容所も砂漠など気候条件の厳しい僻地に建設され、ロサンゼルス界隈からは多くがマンザナー収容所へと送られた。
1万人が収容されたマンザナーは、ロサンゼルス北東、デスバレーの西に位置する砂漠のど真ん中で、砂漠風が吹き荒れ、多くの人が砂漠熱に倒れた。急ごしらえで建てられた住居用バラックは生木を用いたため、乾燥すると隙間ができた。朝目を覚ますと、毛布の上に砂が積もっていることも珍しくなかったという。
収容所は鉄条網で囲まれ、見張り台では番兵が銃を所内に向けて構えていた。住居バラック以外に共同の食堂、洗濯所、トイレなどがあった。トイレの個室に壁はなく、人々はダンボール箱などを持参し、便器の回りを囲った。収容所にプライバシーは一切なかった。大抵1家族につき1部屋のみ。隣室の話し声すら聞こえるほど壁は薄く、家具といえば軍用ベッドだけ。それでも人々は、バラックの周りに花壇や池などを作って環境を整え、生活の向上に努めた。そのうち公会堂なども建設され、娯楽を楽しむ場も作られた。
日系人は収容所内で仕事に就くことを奨励され、一般職で月16ドル、専門職で19ドル支給された。当初アメリカ政府は陸軍兵士と同じ額の支給を考慮していたが、激しい世論の反対に遭い、食事や医療を無料で提供することで、先の額に落ち着いたとの経緯がある。
立ち退きにより多大な財産を失った人がいた一方で、収容されたことで渡米以来、初めて3度の食事に困らなくなったという人がいたのも事実だ。日系移民に対する差別は戦前から充満しており、特に日系人一世は、ありとあらゆる差別を受け、開戦後は襲撃事件に脅えていた人も多かった。そのため収容されて「安心した」という一世も少なくない。
所内では無料のアダルトスクールも開講され、華道などの日本文化も継承された。さらに公会堂では、日本舞踊の発表会なども行われた。「敵性外国人」として有刺鉄線の中での生活だったが、「敵性文化」である日本文化を禁止されなかった事実は特筆しておきたい。
■強制収容に反対し続けた収容所の歴代長官
全米10カ所に設置された日系人収容所を管轄したのは、WRA(戦時転住局)だ。このWRAの初代長官は、後に大統領となるドワイト・アイゼンハワーの弟ミルトン・アイゼンハワー。彼は強制収容に先立ち、ネバダ、アイダホ、オレゴン、ユタ、モンタナ、コロラド、ニューメキシコ、ワイオミング、ワシントン、アリゾナ各州に、日系人の受け入れを打診した。だが快く受け入れを承諾したのは、コロラド州のラルフ・カー知事だけだった。
カー知事は「日系人は他のアメリカ人同様、忠実なアメリカ人だ」と歓迎する方針を採り、コロラドに収容所ができると日系人の子女を家事使用人として雇用して、アメリカの大学に進学させた。現在デンバーのサクラ・スクエアにある知事の銅像は、戦後日系社会が知事に感謝の意を表して建てたものだ。
アイゼンハワーは、長官の立場でありながら強制収容に辟易し、わずか90日で辞職した。辞職の理由を、後任のディロン・マイヤーに「この仕事をしていると夜も眠れない」と語っている。マイヤーもまた収容所の存在に疑問を感じ、「子供が有刺鉄線の中で番兵に見張られて育つのが、アメリカ的だと言えるだろうか」と訴えた。
マイヤーはシカゴに事務局を設置すると、日系二世の移住を斡旋した。3カ月後には身上調査に合格した一世の移住も許可しており、1943年3月までに約3000人が収容所を出ている。
砂漠の地・マンザナーで過ごした悲惨な少年時代
マス・オクイさん
バーバンクの家からマンザナーの収容所に移ったのは10歳の時。両親、3人の兄弟と3年半、そこで暮らしました。6×7.6メートルのバラックの部屋が割り当てられ、ワラ詰めのマットレスと毛布、石油ストーブが支給されました。1区画には15棟のバラックがあり、その中でトイレやシャワー室を共同で使いました。
収容所の中には学校、農園や養鶏所、貯水場などもあり、新聞も発行されていました。父はしょう油工場で働いており月給16ドル。食堂で働く女性などは月給8ドルでした。
夏は暑く、冬は寒く、強風で砂埃のひどい地域でしたが、子供だった私はよく同年代の友達と野球やバスケットボールをしていました。時々、屋外で映画の上映会なども行われました。嫌だったのは収容所を囲む鉄条網。1942年にはマンザナー暴動が起こり、軍警察の発砲で収容者2人が射殺されましたが、あれは暴動ではなく見せしめだったと思います。
父はアメリカの大学を卒業し、母は二世でしたので英語は不自由しませんでしたが、日本語しか話せない人はもっと不安な気持ちで過ごしていたと思います。両親からは、「心配してもどうにもならないことは心配するな」「今ある自分の人生を生きろ」「日本人であることを誇りに思え」と教えられました。
収容所の生活は悲惨でしたが、最初のクリスマスに娯楽室に子供が集められ、サンタクロースがぬり絵とクレヨンを配ってくれました。それが唯一、楽しかった思い出として印象に残っています。
「保護する」との名目の下 銃を向けられた中で暮らす
藤内 稔さん
日本人の両親の下、サンペドロで育ちました。父はLAにオフィスを持ち、12軒の八百屋を所有する経営者でしたが、祖父の危篤で日本に帰った時に徴兵され、従軍した経験があったためFBIに目を付けられ、戦時中は3年間、モンタナやルイジアナなど8カ所で拘留されていました。母と姉、弟と共に強制収容されたのは13歳の時でした。サンタアニタ競馬場で4カ月半暮らしましたが、元は馬小屋ですから、夏は湿った地面から匂いが立ち上り、とても居られたものではありませんでした。
その後、コロラド州グラナダのアマチという収容所に列車で移動し、そこで3年暮らしました。夏は43℃、冬は-12℃の砂漠の地で、バラックの家は足で蹴れば穴が開くという粗末な造りでした。牛や鶏もいる農場でさまざまな作物を作り、余剰は他の収容所に分けましたが、不作で食事がご飯にマヨネーズをかけただけという時もありました。
唯一の楽しみはボーイスカウト活動で、収容所の外に出られたことですね。ドラムとラッパのバンドを結成してメモリアルサービスで演奏したり、メンフィスからバラックの材料を運んだりしました。ひと晩中サーチライトが中を照らし、夜9時には軍警察が人数確認にやって来ました。彼らは我々を守るために収容所に入れていると言っていましたが、監視塔から銃を向けているのは私たちの方向です。ずっと不信感を抱いて暮らしていました。
不自由な暮らしの中で忍耐と感謝の気持ちを学ぶ
大平 千鶴子さん
和歌山出身の両親はリトルトーキョーで食料品店を営んでいました。強制収容された時、私はカトリック系の中学を卒業する直前でした。送られた先はアリゾナ州ポストンの砂漠の地です。私は第1キャンプのバラックで4年間、両親と3人の兄弟と暮らしました。兄は東海岸の大学に入るため、しばらくして収容所を出ることが許されました。
収容所の生活は、それまでとはまるで違う世界でした。周りには白人が1人もいません。高校の授業が終わると、私は病院の中で看護婦のアシスタントとして掃除などをしました。月給は6ドル程度でした。ガールスカウトでは山やコロラド川に出かけ、そこで拾ってきた木を彫って器や飾りを作ったりしました。
また女子生徒たちは戦地に向かう兵士のために壮行会を催し、歌ったり踊ったりしました。彼らは同じ学校で学んだ先輩たちです。複雑な気持ちだったと思いますが、みなアメリカのためにと言って出て行ったのです。高校卒業後は収容所のオフィスで働きました。上司は白人でしたが、従業員はみな日本人で、私の仕事は簡単な事務でしたが、月給16ドルがもらえました。
基本的に着る物は配給されましたが、自分の収入の中から通販カタログで注文して買うこともできました。トイレとシャワーは共同で、トイレに仕切りはありましたがドアはなく、シャワーヘッドは6つ並んでいました。ランドリーには洗濯機はなく、洗濯板を使って手で洗いました。不便でプライバシーもなく、とても暮らしにくい所ではありましたが、収容所の生活を通して、忍耐と感謝の気持ちを学びました。
第3章)アメリカ軍の歴史に残る日系人の戦い
引き取り手のなかった日系人部隊「ワンプカプカ」
パールハーバー攻撃の日、ハワイには数多くの日系兵がいた。1940年、アメリカ政府は史上初めて、平和時に徴兵制を導入しており、ハワイの第1回選抜制徴兵では、日系人二世が約6割を占めた。パールハーバー奇襲直後は、軍部の日系兵への対応も混乱していたが、最初のパニックが落ち着くと、日系兵は島の防衛任務に就いていた。
ところがミッドウェイ開戦が近付くと、再びハワイに緊張が走った。万が一アメリカ軍が負けるようなことがあると、日本軍がハワイに侵攻して来る可能性大だからだ。日本兵がアメリカ軍のユニフォームに身を包んだら見分けが付かない。そこで軍部は緊急対策として、日系兵だけを集めてアメリカ本土に輸送することにした。ところが日系兵は戦力として集められたのではなかったため引き取り手がなく、所属すべき連隊も師団もなかった。そこでアメリカ軍・第100大隊というとてつもない数字が付けられたのだ。
彼らはいつしか自分たちの部隊を「ワンプカプカ」と呼ぶようになった。ハワイ語で穴のことを「プカ」、ゼロも「プカ」と言うから。第100大隊長となったのは、ファラント・ターナー大佐。ターナー大佐はハワイ島ヒロ出身で、ハワイ兵を熟知しており、すでに47歳だったにもかかわらず、日系部隊編成の話を聞くとすぐに隊長に志願した。
ターナー大佐は日系兵たちを「マイ・ボーイズ」と呼び、不当な扱いから守ることに全力を尽くした。また出兵の可能性もないまま訓練に入った若い日系兵の士気を高め、彼らが問題を起こすと、「日系部隊の評判は君たち一人一人の行動にかかっているのだ。そして君たちの肩には親兄弟の将来がかかっているのだ」と諭した。
日系兵たちは、少しでも良い訓練成績を残して早く前線に出られるよう厳しい訓練に励んだ。陸軍マニュアルによると、重機関銃の組み立てに要する時間は16秒で「軍基準を満たしている」に達し、幹部候補生学校でも11秒で「速い」と評価される。ところがワンプカプカには、5秒という大記録を出した日系兵が数人いた。彼らの訓練ぶりを視察に来たある将校は、「今まで指揮したどんな100人よりも、彼らのような100人を部下に持ちたい」と報告している。
1943年2月、ルーズベルト大統領は志願兵からなる日系部隊第442連隊の編成を発表した。
どの指揮官も欲しがる輝かしい名誉の部隊へ
1943年9月、第100大隊に出兵命令が出た。アフリカ経由でイタリアに上陸すると、その勇敢さは「前線で決して振り返らない兵」と称された。イタリア前線で最も過酷と言われたカッシーノ戦を経て、アンツィオ上陸作戦に参戦した。ここでも多大な戦功を残すと、訓練を終えた第442連隊と合流した。第100大隊はこれにより第442連隊の第1大隊となったが、輝かしい戦功に敬意を表して、第100大隊と名乗ることを許可されている。
だがその名声をさらに広めたのは、フランス戦線においてだ。ドイツ国境にあるボージュの森で敵に包囲され身動きできなくなったアメリカ・テキサス兵のニュースは、「失われた大隊」としてすぐに全米に発信された。この時の師団長は、着任2カ月足らずのジョン・ダールキスト少尉。彼にドイツ入城1番乗りを果たしたいとの野望がなかったとは言い切れない。そんな少尉にとって「失われた大隊」の救出は、軍人生命をかけた作戦だった。
ナチス親衛隊が死守せんと固めていたブリエアの町を解放し、休息に入ったばかりの第442連隊に、「失われた大隊」救出作戦の出動準備命令が出たのは翌日だった。未明の森は、自分の手の先も見えないほどの暗闇だったという。ある兵士は「野戦装備の荷物が肩に食い込み、疲れ切っていて、僕らはさまよう幽霊のようだった」と述懐している。
絶叫しながら破れかぶれの「バンザイ・チャージ」が登場するのは、この戦闘においてだ。炸裂する砲弾の中を駆け抜けること6日間。第3大隊I中隊は185人で出陣したが、最後の地雷を突破し、「失われた大隊」にたどり着いた時に残っていたのは、わずか8人だった。ボージュの森に入って以来、ほぼ休みなしで戦い続けた34日間で、日系部隊はブリエアを解放し、212人のテキサス兵を救出し、その後9日間におよぶ前進を続けた。この間に出した戦死者は216人、負傷者856人。兵力は半分以下になっていた。
現在ブリエアの森へと続く道は「第442連隊通り」と名付けられている。森の入り口に建つ記念碑には「国への忠誠とは、人種の如何に関わらないことを教えてくれたアメリカ軍第442連隊に捧げる」と刻んである。
■日系人兵を受け入れた司令官と中傷記事に抗議した将校
受け入れ先のなかったワンプカプカを、快く引き受けたのは、第5軍司令官のマーク・クラーク中将だった。ワンプカプカが部隊として最高の栄誉である初のアメリカ大統領殊勲感状を授与されたのはベルベデーレ戦の戦功であった。
この叙勲式でクラーク中将は、「日本人を祖先に持つアメリカ人の諸君は、本日、誇りに思いたまえ。諸君は戦場で真のアメリカ人として戦ったのだ。もう1つ諸君が誇りに思っていいことがある。それは諸君が、アメリカ陸軍の高い水準に達したことだ。アメリカは諸君を誇りに思っている」と演説をしている。日系人であるがゆえに茨の道を、歯を食いしばって頑張っていた彼らにとって、クラーク中将の言葉は何にも勝る贈り物だった。
また、第442連隊第2大隊司令官のジェームズ・ハンレイ中佐は、日系兵を中傷する記事を書いた自分の地元紙に抗議の手紙を送った。「善良なジャップ・アメリカンがいるというが、どこに埋葬されているのかわからない」と書いた『デイリー・パイオニア紙』のチャールズ・ピアース編集長に、ハンレイ中佐は以下の抗議文を送りつけた。「善良な日系アメリカ人がどこにいるか僕はよく知っている。本隊には5000人ほどいる。(中略)君やフッドリバー在郷軍人会支部、ハースト系新聞、その他何人かの連中は、我々が一体何のために戦っているのか疑わせる。まさか人種偏見の支援戦争ではないだろう。ここに来てみろよ、チャーリー。『善良なジャップ・アメリカン』が埋葬されている所に案内するよ」
この手紙は1944年3月31日付の同紙に掲載された。ちなみにフッドリバー在郷軍人会支部はオレゴン州にある。同支部は出兵したフッドリバー出身の兵士の名を市庁舎前に大きく掲載したが、日系兵16人の名前を削除した。この一件が報道されると、激怒したのは日系兵たちと共に血を流したアメリカ兵たちだった。彼らが大統領や議員、全米在郷軍人会本部へ抗議の手紙を出す運動を起こし、それがさらにニュースとなって報道された。そして数週間後には、同会会長が日系兵の名前を復活させるよう指示する事態となった。戦時中から日系人を擁護してきた人たちは、戦後の自由獲得の闘いでも大きな力となった。
第4章)戦後に残された平等への願い
人種差別と偏見に立ち向かったアメリカの日系社会
日系人部隊は結果的にアメリカ戦史上、一部隊として最も多くの死傷者を出し、最も多くの勲章に輝いた。彼らの犠牲を無駄にしないためにも、戦争が終わると日系社会は即座に彼らの功績を材料に、自由と平等を勝ち取る運動に着手した。
まず強制収容の違憲性を訴え、外国人土地法の撤回を求めて立ち上がった。この時、日系人社会の大きな力となったのは、日系兵と共に前線で戦った将校たちであり、日系兵に救出された「失われた大隊」の兵士だった。こうして戦後間もない時期に、人種差別に端を発する法律の違憲性が連邦最高裁で次々と立証された。だが日系社会が戦後第一に取り組んだのは、高齢化する日系移民一世に帰化権を与えることだった。1790年、最初に制定された移民法からアフリカ系が移民権を獲得するまでに80年かかったが、日系人が帰化権を得るには、それからさらに82年を要した。
1959年、ハワイが統治領からアメリカ合衆国の50番目の州に昇格した。この原動力となったのは、戦後GIビル(除隊後、兵士に与えられる学費の援助)を利用して大学に進学し、後にハワイ政界の担い手となった日系人政治家たちだ。彼らがワシントンに進出するようになると、それまで滞っていた数々の人種差別的法律が撤廃された。
1970年代になると、強制収容に対するアメリカ政府の補償問題が語られるようになった。収容者に対する政府の正式謝罪と1人当たり2万ドルの補償金支給が決定したのは83年のことだ。この補償金の予算を確保するための法案が下院で提出されたが、第442連隊を記念してHR442法案と名付けられた。同法案は下院を87年に通過したが、レーガン大統領が署名するまでにさらに1年を要した。この法案は現在では、「1988年の市民自由法」として知られている。
戦後、移民法や外国人土地法が改正されていなければ、日本企業は工場を持つことも駐在員を送ることもできなかったはず。日系人の先達は、今ある日系社会の基盤を築いてくれただけでなく、敗戦後の日本の復興にも大きな功績を残したことも覚えておきたい。
●参考文献:
『Bridge of Hope‐日系アメリカ人のたどった道』(Japanese Executive Women’s League刊)
『Encyclopedia of Japanese American History』(Japanese American National Museum刊)
●取材協力:
Japanese Executive Women’s League(JEWL)
【日系人の闘いの歴史】
1800年 | 後半 | 日本人移民の渡米が始まる。多くが西海岸とハワイに定住 |
外国人土地法が制定 | ||
排日移民法が制定。日本人の移民が事実上禁止に | ||
1940年 | 11月 | 史上初めて平和時に徴兵制を導入 |
1941年 | 11月 | MIS(陸軍情報局)日本人学校が極秘に開設。 多くの日系人二世が志願し、後に太平洋戦線で活躍 |
12月 | ハワイ・パールハーバー攻撃 | |
1942年 | 1月 | 徴兵サービスが日系人を敵性外国人扱いに |
2月 | ルーズベルト大統領が大統領命令第9066号に署名。 この後、計12万人の日系人がアメリカ西海岸から強制退去させられ、全米10カ所の収容所へ |
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6月 | 第100大隊が極秘でアメリカ本土に移送。 キャンプ・マッコイでの訓練始まる |
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1943年 | 2月 | 第442連隊の編成発表。志願兵の募集開始。 収容所では忠誠登録始まる |
9月 | 第100大隊が戦地に。イタリアのサレルノ上陸 | |
1944年 | 1月 | 日系人の徴兵開始 |
6月 | 第442連隊がイタリア上陸し、第100大隊は同連隊に編成 | |
10月 | フランス戦線でブリエア解放後、「失われた大隊」救出 | |
12月 | 強制収容所を閉鎖 | |
1945年 | 5月 | ヨーロッパ戦終結 |
8月 | 太平洋戦終結 | |
1946年 | 7月 | トルーマン大統領がホワイトハウスで 第442連隊に第7回目の大統領殊勲感状を授与 |
1952年 | 6月 | 改正移民法が成立。 日系一世のアメリカ市民への帰化が可能に |
1957年 | 8月 | カリフォルニア州住民投票で外国人土地法が無効に |
1959年 | 8月 | ハワイが合衆国50番目の州に昇格 |
ハワイ選出のダニエル・イノウエ下院議員が日系人としてワシントンに初登庁 | ||
1988年 | 8月 | レーガン大統領が強制収容に対して正式謝罪。賠償法が成立 |
2004年 | 5月 | マンザナー収容所跡がマンザナー国立歴史遺跡としてオープン |
(2008年8月16日号掲載)