真珠湾攻撃の翌日から誰も話してくれなくなった
サンディエゴの日系人の歴史を収集し、伝承するThe JapaneseAmerican Historical Society of San Diego(JAHSSD)が設立されたのは1992年のこと。ミチオ・ヒマカさんは立ち上げ当時の役員の一人でもあり、自身の体験を積極的に語ってきた一人です。
「それまでは戦争中のことを日系人同士で話すことはあっても、公に語ることはありませんでした。決まりの悪い、言いにくいことだと思っていたんです。でも、戦後生まれの人が多くなり、 何も知らない人が増えてきて、 伝える時が来たと思うようになりました。そしてJAHSSDを立ち上げた頃から、学校などで話すようになりました。聞き手の多くは、戦後生まれの米国人の親と子どもたちで、話をすると『酷いことをした、申し訳ない』と言ってくれます」。
太平洋戦争が始まった時、ミチオさんは9歳。「今でも忘れないのが、真珠湾攻撃があった1941年の12月7日が日曜日だったこと。私は4年生で、 金曜日に『また来週ね。良い週末を』と同級生といつも通りに別れたんですよ。で、月曜日に学校に行ったら誰も話してくれなくなっていたんです」。
仕方がないので当時学校にいた4人の日系人で固まって行動するように…。一方で、戦争が始まっても、もともと親しくしていた人たちは離れていくことはなかったと言います。「当時、両親はサンディエゴのダウンタウンで豆腐屋をしていました。そこで一緒に働いていたアメリカ人の男性は私たち家族の良き友人でもあって、私たちが収容所に送られた後も新聞や雑誌を送ってくれ、時々会いに来てくれました。彼は収容所の中には入れないので、『何日に行くよ』と連絡を取り合って、フェンス越しに近況報告をしました」。
当時、サンディエゴの日本人・日系人の多くは郊外で農業に携わっていましたが、ミチオさん一家のようにダウンタウンで商売をする家族もいました。カフェやレストラン、グローサリーストア、靴屋、床屋、ビリヤード場など、業種は多岐にわたり、ダウンタウンの一画は日系ビジネス街になっていました。「42年4月8日に日系人が収容所に送られて、全ての店が一斉に閉まったので、『どうして皆いなくなったの?』と驚いた人がいたと聞いたことがあります」。
収容所生活で失ったもの 失わなかったもの
立ち退きの日、ミチオさん一家を含む、サンディエゴの日系人の多くは、まずサンタアニタ集合センターに送られました。馬小屋での約4カ月の生活を経て、アリゾナ州ポストン収容所に収容。ミチオさんの父親は日系コミュニティーのリーダー的存在であったため、太平洋戦争が始まった12月7日の夜に拘束されており、その後3年、家族とは別々でした。「私たちの世代はまだ子どもだったので、収容所ではスポーツをしたり、遊んだり。 一番大変だったのは母親だと思います。というのも、私の母を含めて、父親が別の収容所に送られていた家庭も多くありましたから。それまで家族の長は父だったのに、急に母親が全てを背負わなくてはいけなくなってしまった…。収容所生活の前後では、私たち日系人の家族における父親の存在のあり方が変わってしまったと思います」。
終戦直前になってようやく父と合流した一家は、戦争が終わると収容所を出て、職を求めてオハイオ州クリーブランドへ。そこで3年暮らし、サンディエゴに戻って来ました。しかし、戦前、活況だった日系コミュニティーは当然そこにはありませんでした。
88年、「市民の自由法」が成立し、立法時に生存していた日系人、永住者の被収容者に90年から各自2万ドルの補償金が支払われましたが、「商売をたたんで、収容所では月20ドル程度しか稼げなかったことを考えると、もっともらっても良かったと私は思っています。でも、それ以上に悔やまれるのは、本当なら補償金をもらうべきはずの世代の多くが他界していたことです」とミチオさん。
苦難の歴史を語ってくれたミチオさん。しかし、 「困ったことがあったらいつでも手紙を送って」と強制収容所に送られる子どもたちを見送りながら一人一人にハガキを渡して支援を続けた図書館司書の話や、収容所に志願してやってきた米国人教師の話、収容所の外の米国人チームとスポーツ親善試合の話など、厳しい状況の中にも暖かな交流があったことにも何度も言及されました。
Michio Himaka
1932年、サンディエゴ生まれの日系二世。10歳の時、アリゾナ州のポストン収容所に。終戦後はサンディエゴ州立大学でジャーナリズムを専攻し、卒業後、『San Diego Union Tribune』に就職。The Japanese American HistoricalSociety of San Diegoでは、立ち上げ時から2015年6月まで役員。会長も務めた。また、02年より現在までSouthwestern Collegeの事務補佐の仕事を続けている。
(2015年8月1日号掲載)