子どもの目から見た 戦前の日本町と収容所
ワシントン州・オレゴン州最大の家族経営の日系スーパーマーケット「宇和島屋」は、トミオさんの父、富士松さんが1928年にタコマで創業した食料品店から始まりました。富士松さんは20年代に愛媛県から渡米。実家は貧しく、森口家の長男として、お金を稼いだら日本へ帰るつもりでした。母の貞子さんは07年にシアトルで生まれ、日本で教育を受けて、結婚を機に帰国した帰米です。
多くの日本人・日系人が暮らしていたタコマで商売に精を出していた森口さん一家ですが、42年に日本人・日系人に対し、西海岸からの強制立ち退き令が出され、生活環境は一変。「シアトルの日系人はミニドカ収容所へ、タコマの私たちはカリフォルニアのパインデール集合所を経て、ツールレイク収容所へ送られたのです。集合所で妹のヒサコが生まれました」。
トミオさんは、収容所では、日本に帰った時に備え午前中は日本語の学校へ、午後は英語の学校へ通いました。「学校の後は収容所内の川で泳いだり、野球をしたり。食事は食堂ですることになっていて、簡素でしたが悪くはなかったです。父はそこでコックとして働いていました。家族に与えられた部屋も簡素で、狭いものでしたが、器用だった父が机や椅子を作ってくれました。収容所では、妹のトモコ、弟のトシが生まれました」。
翌43年、「忠誠登録」が実施。ツールレイク収容所は、アンケートの27番、28番に「ノーノー」と答え、米国に忠誠心がないと見なされた日系人らが収容される隔離センターの役目を担うことにななります。ただし、森口さん一家のように、他の収容所へ移転せず、そのまま留まることにした人たちも6千人以上いたそうです。
「父は日本に帰るつもりだったので、残ることにしたのだと思います。当時、私はまだ子どもでしたから、ツールレイクにノーノーボーイズが集められたことは、戦後に本を読んで知りました。父が忠誠登録で何と答えたのかは分かりません。戦争について父が話すのを聞いたことはないのです。それは母も同じこと。母は『アメリカは私たちを悪く扱っていない』と言って、不満を口にしたことは一度もありません。ただ、その母が一度だけ、不安を口にしたことがありました。『いつまでこの生活は続くのだろう。1年なのか10年なのか。刑務所にいる人さえ刑期を知っているのに…』と。収容所生活は肉体的にはさほどつらくはなかったものの、精神的にはとても厳しかったのだと思います」。
終戦から今日までのシアトルの移り変わり
そして迎えた終戦。富士松さんは家族より一足先に収容所を出ると、シアトルで生活再建のメドを立て、2カ月後に妻と子を呼び寄せました。「シアトルに来て約1年後、父はかつての日本町にあったフィリピン人が経営していた小さな食料品店を買い取りました。当時は不景気で、その店の経営状態はあまり良くなく、経営者は喜んで売ってくれたようです」。
やがて店は軌道に乗り、子どもたちも成長。そして富士松さんはアメリカに骨を埋めると決め、米国市民権を取得。しかし、62年に急逝し、当時ワシントン大学を卒業して、地元企業ボーイングで技術者として働いていたトミオさんが、急きょ、跡を継ぐことになったのです。その後、宇和島屋の躍進はシアトルに住む人がよく知る通り…。今やワシントン州、オレゴン州の日本人の生活になくてはならないスーパーに成長しました。富士松さん亡き後、店を切り盛りしてきた貞子さんも02年に他界。戦争中の出来事について、最後までひと言も話すことはなかったと言います。
戦後から今日まで、宇和島屋から街を見てきたトミオさんは、街の変化をこう語ります。「交通、建物は大きく変わりました。でも一番変わったのは人でしょう。戦前ほどではありませんが、戦後、日本町に日本人・日系人が戻ってきました。でも、高い教育を受け、所得が増え、また66年にワシントン州でも外国人土地法が無効になって日本人も土地を買えるようになると、皆、より良い場所へ引っ越して行きました」。日本町から日本人の姿が減ったこと、それは戦後の日本人・日系人がより豊かになった証でもあるのです。 日本町のあった場所は、今ではインターナショナル・ディストリクト/チャイナタウンと呼ばれ、日本人以外にも多くの外国人が暮らし、集う場所になっています。
Tomio Moriguchi
日系スーパーマーケット「宇和島屋」取締役会長。1936年、ワシントン州タコマ市生まれの日系二世。6歳の時、ツールレイク収容所に収容される。61年、ワシントン大学卒業。62年より宇和島屋で働き始める。長年、シアトル日系人社会のために尽力し、北米報知発行人、日系コンサーンズ役員会メンバー、全米日系人博物館サポーターなどを務める。2005年、日本政府から旭日小綬章を受章。
(2015年8月1日号掲載)