頼るものは互いしかない…日系コミュニティーの絆
幸雄さんの生まれ育った、ロサンゼルス港にある人工島ターミナルアイランドは、戦前には約3500人の日本人・日系人が住んでいた漁村。和歌山県出身の幸雄さんの父はそこで缶詰工場を経営していました。当時のターミナルアイランドは、「家にカギをかけたりすることもなくて、皆が家族のようなコミュニティーでした。悪いことをしようものなら、家に帰る前に親にもそれがもう知れているようなね(笑)」と幸雄さん。
周りの子どもたち皆で現地校に通い、それが終わると毎日、日本語学校に通っていたといいます。
日本で商業学校を卒業後、米国でも高校を卒業し簿記係として勤めた後、友人に誘われて商業漁業の道へ。危険と隣り合わせではあるものの、簿記係の10倍近い稼ぎを得られることもあったそうです。その頃は野球にも熱中し、SanPedro Skippersという強豪チームのスター選手でした。「毎週日曜の試合には一世も二世も皆やって来て試合を見ていました。カリフォルニアには10チームくらい日本人チームがありましたね」。
そのターミナルアイランドの日本人コミュニティーが変化を余儀なくされたのは1942年。2月9日に同の一世の男性が一人残らずFBIに連行されたのです。残った一世、二世も2月19日の大統領令9066号の発令後48時間以内の立ち退きを命ぜられ、幸雄さん家族はマンザナー収容所へ。そこにはターミナルアイランドから約1千人が収容されました。助けてくれる国もない場所で頼りにできたのは、ターミナルアイランドの仲間ばかり…。そこでコミュニティーの紐帯はいっそう強く結ばれたと言います。
しかし、「米国市民であるにもかかわらず、敵性国民として収容されたことは、長い間、父をはじめ二世の心に『恥』として刻まれていたのだと思います」と幸雄さんの長男、一郎さんは語ります。
「私が子どもの頃に、父が家族を連れてマンザナー近くに住んでいた白人の女性を訪ねたことがありました。その時父は『マンザナーの郵便局で働いていた時の上司で、古い友人』だと紹介してくれたのですが、なぜ収容所にいたのかなど、政治的な背景を話すことはありませんでした。父や母をはじめ二世が収容所について語り始めたのは、88年に『市民の自由法』が成立し、米国政府が正式に謝罪をしてからです。二世はそれでようやく汚名を雪げたと顔を上げて話せるようになったのだと思います」(一郎さん)。
世代を経て変わりゆく中で かつての時代を伝える碑
戦争の後、幸雄さんはロサンゼルスに帰郷。しかし、ターミナルアイランドは戦中に跡形もなく破壊され更地になっていました。幸雄さんは友人の商業漁船の乗組員として働き、53年にロサンゼルス港近くのロングビーチに家を購入しました。「ターミナルアイランドの住民の多くは、戦後ロングビーチに戻ってきました。故郷はなくなってしまったけれど、一番近い所と言ったらここですから」と幸雄さん。また、56年にはロングビーチの一角にあった日本食等の食料品店「オリエンタルフードマーケット」を購入し、26年間にわたって同店を経営。そのブロックは、薬局、レストラン、保険、理髪店…とさまざまな日系のビジネスが軒を連ねていたそうです。
「当時のロングビーチのコミュニティーは、かつてのターミナルアイランドのように、皆が家族みたいでした」(一郎さん)。日米間の戦争、収容所と苦難を経てなお戦後も脈々と続いていた日系コミュニティーですが、日本語が主要言語であった一世が世を去り、バイリンガルの二世とは英語でのコミュニケーションが主となると、日本語を話さない三世も増加。また日本との関わりゆえにスパイと疑われた戦中の経験から日本語を教えない選択をした家庭も多くありました。そして、英語を母語にアメリカ社会の中で活躍する三世は、より良い住環境や教育を求めて、他のエリアや他州へと転出。今、ロングビーチの日系コミュニティーは拡散し、確たる姿は見分けづらくなっています。
今は港からの荷を運ぶトラックが行き交うばかりのターミナルアイランド。かつて多くの日系人が暮らしたその場所には、2002年にターミナルメモリアルが建立され、そこに暮らす人々の生業であった漁業に励む漁師の像や鳥居、幸雄さんの歌碑が、日系移民の歩みを伝えています。
Yukio Tatsumi
1920年、イースト・サンペドロ(現在のターミナルアイランド)生まれの日系二世。33年から日本に。和歌山県下里の商業高校を卒業後にアメリカに戻り、サンペドロ高校を卒業。戦争中はマンザナー収容所に収容される。終戦後、ロサンゼルスに戻り、漁業等を経て、日本食などのスーパーマーケットを経営。ターミナルアイランドの元住人たちで構成される「ターミナルアイランダーズ」元会長。2014年、日本政府より旭日双光章受章。
(2015年8月1日号掲載)