(2022年12月1日号掲載)
討論や演説で鍛えられるアメリカの議員
現在のアメリカの政治は、決して評判がいいとは言えない。左右の分断はあまりに激しくなっており、国際社会からは呆れられている。11月初旬には中間選挙が行われたが、毎度のこととはいえ、相手候補を罵倒するだけのCMなどはとても子どもには見せられたものではない。では、例えば日本の場合は、アメリカの民主主義や政治制度からは学ぶことはないのだろうか?必ずしもそうとも言えない。
まず、アメリカには予備選挙がある。予備選挙というと、大統領候補の予備選が思い浮かぶ。大統領選の前年の夏頃からテレビ討論が本格化する。不人気な候補はこの段階で資金が尽きて撤退する。やがて、投票日を11月に控えた選挙の年に入ると、アイオワ州やニューハンプシャー州などから、全米各州の予備選が行われ、最終的に誰か1名が過半数の代議員を獲得するまで戦われる。一番の効果は、1年以上にわたる予備選で各候補がメディアを通じて有権者の目に徹底的に晒されるということだ。歴史上、多くの候補が、最初は無名だったのが、予備選を通じて注目を浴びて、候補自身も鍛えられ堂々たる大統領候補が育っていくとい。
この点で、日本の場合、特に総理大臣が与党内の密室で決まっていくというのは、政治家本人にも過酷なシステムのように思える。まず、総理になるまでは、政権与党内の密室、多くの場合は一対一のコミュニケーションで少しずつ味方を増やし、派閥間の秘密協定を結ぶといった特殊な能力が必要となる。だが、総理になった途端に、政策そのものについて「自分の言葉」で「国民に分かりやすく」語ることが要求される。この落差は大きい。例えば、同じ野球場で働いているにしても、ボールボーイに、急にバッターボックスに立って100マイルのボールを打てというようなものだ。必要な訓練のないままいきなりに演壇に立たされるということで、総理大臣の方が何百倍も難しいし、なってみて初めて「向いていない」ことが分かるという悲劇が起きるのはこのためだ。
日本で予備選となると、ルールがどうとか、党員票と議員票のバランスがどうとか、面倒な議論になるが、とにかく候補になるための推薦人数を少なくして、5人なら5人の候補を集め、2カ月とか3カ月とか徹底的に全国巡業して、何度も何度も立会演説会をするとか、テレビ番組でボロが出るまで質問攻めにするとか、いくらでも工夫のしようがある。とにかく、泳げない人をいきなりプールに突き落とすような総理大臣の「作り方」は良くないし、ここ数年起きていることが正に問題を示していると思う。
採決で党の決定に従う日本の議員
もう一つは日本の場合、各政党には党議拘束というのがあって、法案の採決の際には党の決定に従わなくてはならないという問題だ。党の決定は、党内の序列によって権力を得た集団が決定する。その党内の序列は、例外はあるものの、当選回数によって決まる。
各議員は、選挙運動の時はそれなりに自分の言葉で、選挙区にアピールし、その選挙区の民意を代表して国会に行くようなことを言う。ところが、いったん当選して登院すると、選挙区の民意はどこかへ消えて「単なる一票」というモノになってしまう。部会とか研究会とか派閥の会合など、それなりに発言や意見交換の場はあるが、基本的に密室であり、当選回数の多い高齢議員が発言力を行使する。若者や女性など少数者の民意がほとんど国会に届くことがないのはそのためだ。
アメリカの場合は、上下両院ともにこの党議拘束はなく、各議員はブレーンを抱え、自分の選挙区の民意と相談しながら法案への態度を独立して決定する。よく考えれば、党議拘束のある日本の場合は、個々の法案については民意を届ける仕組みがないとも言える。議員本人たちは現状のほうがラクだから動く気配はないが、有権者が声を上げて行って、党議拘束という「岩盤規制」を崩すことは必要だと思う。
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