(2023年5月号掲載)
食、歴史、野球、変化したアメリカでの受け止め方
全くの私事で恐縮だが、この3月でアメリカに引っ越して30年となった。この30年を振り返ると、日本とアメリカの関係ということでは大きな変化があった。両国関係は引き続き良好だが、その中身についていえば想像もできなかった変化が起きている。
まず、アメリカにおける日本文化の普及ということでは、アニメやゲームの普及に加えて食文化の普及が著しい。生の魚を食べる文化がなかったアメリカが、ここまで寿司を受け入れたのは驚きだ。今では「おまかせコース」を出す高級寿司店がアメリカ人で賑わうだけでなく、ホンモノを求めて日本に旅行に行く人も多くなった。さらに最初は忙しい学生がカップラーメンを食べはじめたところから徐々に広まったラーメンが、ここまでブームになったというのも驚きである。
歴史への受け止め方にも変化があった。1990年代には、真珠湾攻撃の記念日である12月7日には日本への批判をする教師がいたりするので、「現地校に行きたくない」という日本人の生徒も見られた。また1995年の「原爆投下50年」を契機として企画されたワシントンD.C.のスミソニアン博物館の展示が「原爆投下を否定するもの」だという批判を浴びて中止に追い込まれるなど、第二次大戦の「遺恨」が残る時代でもあった。そうした負の感情が年を追うごとに薄れていった結果、2016年には当時のオバマ大統領と安倍総理による、広島と真珠湾での相互献花外交が実現したのは感慨深い。
野球を通じた交流も特筆に値する。日本人の野球選手がメジャーで活躍するのは今では当たり前だが、93年の時点では皆無だった。その突破口となったのは、95年にドジャースに入団した野茂英雄選手である。「ノモマニア」と呼ばれるファンを集めるなどブームとなり、インターネットが普及し始めた中で日本人・日系人社会では皆が必死になって野茂選手の次の登板日を調べていたのは今でも記憶に新しい。その後、イチロー氏や松井秀喜氏の活躍があり、現在の大谷選手の活躍に至る流れは、一つの歴史となった。WBCが創設されて紆余曲折の中で今回の盛り上がりとなったのも隔世の感がある。
変化した人と経済の往来
日米の経済的関係にも大きな変化があった。90年代は、まだ日米自動車摩擦を引きずっており、銀行や商社などの駐在員は「摩擦を避ける」ためにアメリカ車を購入していたし、実際に日系メーカーの高級車のほぼ100%は日本からの輸入であった。その後、現地生産がどんどん拡大し、現在は北米で販売される日本車の9割は現地生産となっている。カラーテレビや音響機器などのエレクトロニクス製品についても、90年代はアメリカの電気店に並ぶ商品のほとんどが日本のブランドだったのが、現在はほぼ消滅。その代わりに、スマホをはじめとしたテック系の「ガジェット」に関してはアメリカのブランドが日本を席巻している。
日米の交流ということでは、コロナ禍で人の行き来が完全に停止となった。また円安の中で日本からアメリカへの旅行者は回復が鈍い。だが、アメリカから日本への旅行ニーズは、今年に入って爆発的な勢いで戻りつつある。また、過去には考えられなかった日本からアメリカへの「学部段階での名門大学への留学」が静かなブームとなるなど、新たな人の動きも出てきた。反対に、アメリカから日本への留学も増えている。
今年の7月は1853年に起きた「ペリー来航」の170周年に当たる。この間、第二次大戦で交戦関係にあった3年8カ月を除けば、日本とアメリカの関係はお互いに「最も重要な二国間関係」であった。文化も言語も国の成り立ちも異なる2カ国が、このように濃密な関係を維持しているというのは、人類にとって貴重な事例と考えられる。関係がここまで緊密に続いている背景には、関係の中身を時代とともにアップデートしてきたことが大きい。これからの「ポストコロナ」時代における、交流の再活性化に期待したい。
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