見直しが始まった日本の学生スポーツ
日本では、中高、大学、そして五輪代表チームに至るまで、スポーツ指導のあり方が厳しく問われている。異常な長時間練習、熱中症などの健康被害、そして暴力や暴言、人格否定の横行…こうした問題がようやく反省されるようになった。国民的行事とされてきた甲子園の野球にも批判が向けられているし、中高の部活に関しては練習時間の規制も始まるという。背景には、2020年の東京オリンピックが改革を後押ししている面もある。
この点について、確かにアメリカでは事情が全く違う。先輩後輩の上下関係はなく、むしろリーダーが率先して地味な裏方を務めるとか、高校1年生でも球拾いなどはさせずに、どんどん試合形式でスポーツを楽しむようにする姿勢などは、アメリカの良さであろう。暴力や暴言も社会的に許容されることはない。むしろ、良い指導者になれば、選手の自発的なモチベーションを引き出すスタイルが普通だろう。
例えば「水を飲むな」とか「倒れるまで頑張れ」といった根性主義もないし、中高のレベルでは多くの場合、勝利至上主義もそれほど強くない。基本的にポジティブ思考で、スポーツ医学に忠実な指導がされているのは事実だ。
大学スポーツの加熱と、エリート中心のアメリカ
では、部活動、特に中高の部活の場合、アメリカ型が理想であって、日本もその方向に学ぶべきなのだろうか?
この点に関して言えば、全面的に「イエス」とは言えない。参考にすべきところは多いが、そのまま日本に導入すべきとは思えない部分もあるからだ。
まず一番の問題は、「誰でも入れるわけではない」という点だ。日本の中高の部活は、基本的には希望者は全員入れるが、アメリカでは違う。トライアウトという入団試験があって、これにパスしないと入れてもらえない。理由は2つあって、1つは純粋な定員の問題だ。テニスコートは無限にはないし、野球チームに60人も70人も選手がいたら全員を出場させることはできなくなる。そこで、人数を絞るということになる。2つ目は、安全面の理由だ。硬式球を使う野球や、フットボールなどは「最低限の技術のない」選手が参加するのは危険だ。それに日本のように、危険だから厳しく叱るというカルチャーもない。そうなると、ある程度の経験と技術がない生徒は「入団させない」ということになる。
ということは、小さい時から地域cスポーツなどで経験を積むとか、個人レッスンを受けて上手になるということが必要で、そうでない生徒の門戸は閉ざされてしまう。経済的な事情があって、低学年の時にはプレーする機会がなかったような場合もある中では、格差社会がスポーツにも及ぶことにもなりかねない。
もう1つの問題は、「スポーツエリート」の問題だ。アメリカの場合は、大学スポーツが非常に盛んであり、中高では大学の体育会入りが1つの目標となっている。中高の部活は、そのためのステップとして位置付けられている。そのために、競争が過熱したり、花形選手が校内の人気者になったりという現象が起きやすい。
また、学業成績が良くないと大学の体育会のスカウトでは不利になるので、文武両道が徹底されるということもある。さらに、将来プロになることを意識する際、一部の親や指導者は「容姿端麗なので余計に熱心に練習を勧める」という傾向もあるようだ。そのようなスポーツエリートを中心に、高校の人間関係やカルチャーが回っているのは事実で、それはそれでアメリカらしいのは確かだ。だが、そこには1つの問題がある。それは何の取り柄もない若者が居場所を失うという点だ。アメリカでは日本と比べ高校で暴力事件が多いことにも、このスポーツエリート中心の高校生活という背景がある。
アメリカの中高部活カルチャーは、長い歴史と広がりのある問題で、それを変えるのは難しいし、その必要もないのかもしれない。だが、日本として参考にする場合には、こうした問題点も考慮すべきではないだろうか。
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(2018年10月1日号掲載)
※このページは「ライトハウス・ロサンゼルス版 2018年10月1日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。