3Dアーティスト(クリエイティブ系):金子ゆかりさん

アメリカは自分の才能を信じて、強い力でやっていければ評価してもらえる国

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は3Dアーティストの金子ゆかりさんを紹介しよう。高校時代に交換留学で渡米し、大学留学で再渡米。ウェブデザインからテレビや映画、ゲームなどのスペシャルエフェクトを手掛けるようになり、現在はシニアアーティストとして活躍している。

【プロフィール】かねこ・ゆかり■1972年生まれ。新潟県出身。高校3年の時、メリーランドの高校に1年間交換留学。帰国して高校を卒業後、91年に再渡米し、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校に。96年に卒業後、スクウェアUSAに3Dアーティストとして就職。98年、デジタルスカルプチャー設立。2003年、アクティビジョンに就職。現在はシニアアーティストとして活躍中。

そもそもアメリカで働くには?

就職は必死で売り込み。日本語がプラスに

大学生の頃、ゲッティー美術館の
インターンシップに参加した

 高校3年の時に、交換留学生としてメリーランド州のリバティーハイスクールに1年間留学しました。将来的にエンターテインメント業界で仕事をしたかったのと、自分のやりたいことができそうなアメリカの自由な環境が魅力で、以前からいずれ大学はアメリカで行きたい、と思っていました。1年後に帰国して日本の高校を卒業し、1991年、再渡米してカリフォルニア州立大学ノースリッジ校に入り、アートを専攻しました。メリーランドで留学したのは地方都市だったので、多人種の集まるロサンゼルスはずいぶん印象が違いました。
 
 大学では油絵、デッサンなどを基礎として勉強し、グラフィックデザインのクラスも取りましたが、その頃、人から聞いて3Dアニメーションに興味を持ちました。大学には3Dアニメーションのクラスがなかったので、UCLAのエクステンションを取ったり、専門学校に通って3Dの勉強をしました。在学中に「japanonline.com」というホームページを立ち上げて、デジタルハリウッドのコンベンションではベストアート賞を受賞しました。
 
 卒業後は3Dアニメーションをやりたいと思い、ポートフォリオやデモリールを作って就職活動を行いましたが、経験がないために就職先を見つけるのは大変でした。今でもそうですが、大学を卒業したばかりの人は経験がないため、就職するのは簡単ではありません。特に当時は、3Dがまだ新しい存在で、ソフトウェアなども高価で一般の人は買えないような状態でしたから、どの会社でもインターンとしてさえ雇ってもらえなかったのです。その頃はSGIというコンピューターを使っていましたが、これが最低万円もするような高価なもので、インターンに使わせるようなものではなかったのですね。
 
 結局3Dアーティストとして雇ってくれたのはスクウェアUSA(現スクウェアエニックス)でしたが、インタビューの後1カ月後に就職が決まるまで、多い時には1日に10回でも電話し、「1週間後にまた電話して」と言われたらその1週間後にはすぐに電話して、と必死で掛け合いました。受付の方から日本人のバイスプレジデントにつないでもらい、その人からさらにアートディレクターにつないでもらって、「一生懸命に働きます」とかなり売り込みましたが、結果的に日本語が話せることが就職のプラスになりました。同社ではちょうど『パラサイト・イヴ』のアメリカ制作が始まって間もない頃で、日本からデベロッパーが来て一緒に仕事をしていたのです。

朝10時から翌朝3時まで毎日、3カ月ぶっ通しで

手掛けた作品の1コマ。制作期間は、
作品によっては1~2年かかることもある
©Activision

 同社では『チョコボの不思議なダンジョン2』のカットシーンを担当するなど、ゲームをいろいろ手掛けましたが、98年に「デジタルスカルプチャー」という会社を、アメリカ人のパートナーと共同で設立し、独立しました。経営はアメリカ人パートナーに担当してもらい、私が制作を担当しました。ゲーム以外にも分野を広げて仕事をしたいと思っていたので、独立をきっかけにバラエティーに富んだプロジェクトに関わることができました。
 
 『頭文字D』アメリカ発売用の3Dの車や、ケーブルテレビのディスカバリーチャンネルで放送中の『モンスターガレージ』での3Dの車制作、DVDの表紙にするイメージ制作、映画では『ブレットプルーフ・モンク』のアクションシーンで、セーフティーケーブル(身体を吊るケーブル)を画面から消すデジタル処理の仕事、またゲームでは『スーパーカー・ストリートチャレンジ』などを担当しました。
 
 ですが、契約で独立して仕事をしていると責任が重く、プロジェクトの掛け持ちも多いため、毎日朝10時から翌朝3時までぶっ通しで仕事をするという日々が、3カ月続いたこともありました。
 
 そんな折、デベロッパーからの下請けで『スーパーカー・ストリートチャレンジ』でも仕事をしたことのあるアクティビジョンから、「正社員として迎えたい」という申し出があり、面白そうなプロダクションがあったので入社したのが、2003年のことです。

信じる心や夢があれば、負けずに頑張れる

 同社では『シュレック2』のゲーム制作に関わり、昨年11月に発売となった『トゥルークライム・ニューヨークシティー』ではシニアアーティストとして参加しました。この作品でスペシャルエフェクト部門が新設され、私が同部門最初の1人となり、水や火の爆発の映像などを担当しました。
 
 これからは映像方面に興味があるので、3Dアニメーションを作ってみたいですね。変わったビジュアルが好きなので、ミュージックビデオでもいいしギャラリーでもいいので、3Dの技術を活かして人に見てもらえればいいなと思っています。
 
 アメリカは自分の才能を信じて、強い力を持ってやっていけるのであれば、評価してもらえる国だと思います。1人でアメリカで生活していくのは簡単ではありません。親元を離れた不安や寂しさ、外国で1人でやっていけるのかといった思いも、自分の夢や自分を信じる心があれば負けずに頑張れます。
 
 この業界で言うと、市場にはアメリカが1番大きいですし、技術と才能があれば日本人でも入り込めます。アメリカで生活すると視野が広がるので、世界を広げてみたいと思う人は、異文化を経験でき、選択肢が多いアメリカは向いているのではないでしょうか。
 
(2006年2月1日号掲載)

特殊エフェクトアーティスト(クリエイティブ系):矢田弘さん

人生は1度きりだから楽しみたい
やりたいことをやったほうが良い

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は特殊エフェクトアーティストの矢田弘さんをご紹介。映画『星の王子 ニューヨークに行く』で特殊メークに興味を持ち、単身渡米。あこがれの特殊メーキャップアーティストのスタジオに就職して以来、数多くのハリウッド映画を手掛けている。

【プロフィール】やだ・ひろし■1964年生まれ。大阪府出身。特殊メークに興味を持ち、89年に渡米。メーキャップスクールを卒業後、95年、「SMGエフェクト」に入社。ミュージックビデオなどを手掛ける。99年、「シノベーション」に入社。手掛けた作品は『グリンチ』『猿の惑星』『メン・イン・ブラック2』『リング』『リング2』など多数。

そもそもアメリカで働くには?

英語力もツテもなく、さまざまな仕事を転々

 高校を卒業後、たまたま就職した会社が、映画などの美術と小道具をセットに運ぶ仕事をしており、そこで映画『ブラックレイン』の撮影に関わりました。その時初めてアメリカ人と一緒に仕事する機会を得たのですが、皆楽しんで仕事をしているのが伝わってきて、自分もアメリカに行って仕事をしたいと考えるようになりました。波乗りをしていたので、カリフォルニアには行きたいと思っていましたし、映画『星の王子 ニューヨークへ行く』の理髪店のシーンでの特殊メークに感動して、特殊メーキャップアーティストに興味を持っていました。『ブラックレイン』でアメリカ人と仕事をしたことで決心し、89年に渡米しました。
 
 ロサンゼルスに知人はいなかったので、最初はホームステイをしていました。そのうちに友人もでき、友人と一緒にカーペットクリーニングの会社を始めたり、貿易関係の仕事をしたり、古着の会社を作ったりしていましたが、波乗りをしに数カ月ハワイに行ったこともありました。英語力もツテもなかったので、特殊メークの世界に入るきっかけをつかめずにいたのです。
 
 転機が訪れたのは渡米して3、4年目でした。グリーンカードの抽選で当選したのです。「これでアメリカでもチャレンジができるかもしれない」と思い、メーキャップの学校に通いました。学校を卒業すると、メーキャップマガジンに載っていたスタジオに片っ端から電話をかけましたが、すべて断られました。ですが、特殊メークでは日本人で第一人者のスクリーミング・マッド・ジョージさんのスタジオ「SMGエフェクト」に何度目かの電話をかけた時に、秘書の人が「とりあえず作品を持っておいで」と言ってくれたのです。
 
 その作品は今思えばひどいものだったのですが、ジョージさんが「ちょうど大きなスタジオに移動したところだから、片づけを手伝ってみるか」と言ってくれました。ラッキーだったのは、この片付け作業をするうちに、特殊メークに必要なケミカルなどの素材を覚えることができたことです。またこの時にミュージックビデオの撮影に関わることができ、ノーダウトなどトップアーティストのビデオで特殊エフェクトの手伝いをする機会に恵まれました。

人脈を次々と広げて憧れのスタジオへ

 SMGエフェクトにいる間に友人を作って、他のスタジオに行ったりしながら人脈を広げていきました。どうしても『星の王子 ニューヨークへ行く』を手掛けたリック・ベイカーのスタジオ「シノベーション」で働きたかったのです。チャンスがやってきたのは99年でした。たまたま知り合った人が推薦してくれて、彼の会社「シノベーション」の面接を受けることができ、採用になりました。憧れのリック・ベイカーに会ったのは初日です。自己紹介で握手をした時は、手が震えました。彼に会うといまだに緊張します。以来、『グリンチ』『猿の惑星』『メン・イン・ブラック2』などを手掛けました。
 
 特殊メークは、まず俳優さんの顔の型を取り、彫刻を作り、ペイントしますが、大きいスタジオではすべて分業で、僕が携わっているのはメークをする前の型取りです。『猿の惑星』の撮影では、エキストラ用の猿のマスクを担当しました。北カリフォルニアの砂漠ロケでは毎朝3時や4時からの撮影だったのですが、ベーカーの作品を彼と共に手掛け、同じ現場で働いている、と思うと朝早いのも苦にならず、同じテーブルで朝食をとっているだけで感動するものがありました。
 
 『ホーンテッドマンション』ではゾンビのコスチュームを手掛けました。この映画は『星の王子 ニューヨークへ行く』と同じエディー・マーフィー主演でベイカーが特殊メークを手掛けたので、感慨深かったですね。別のスタジオでは、『宇宙戦争』の撮影でスティーブン・スピルバーグ監督に会う機会もありました。トム・クルーズが宇宙船に連れ去られそうになるシーン用に、自作のエフェクトを見せに行きました。

60歳になっても先を見ていたい

 これからアメリカを目指そうと思う人は、人生は1度しかないので、やりたいことをやったほうが良いと思います。ただ、学校に行くのは良いのですが、学校を出たからといって仕事はありません。やる気のある人だけが残っていくのです。それと人脈は非常に大切なので、友達はたくさん作ったほうが良いですね。アメリカに来たなら、アメリカ社会に飛び込んだほうが面白いものが発見できます。僕は英語も友人から学びました。ノーダウトのミュージックビデオに関わった時のことですが、ミーティングは全員イギリス人だったのです。僕はイギリス英語が苦手なのですが、その中にメタリカのミュージックビデオで以前一緒に仕事をして友人になった人がいて、後でその人が説明してくれて何とか事なきを得ました。
 
 これからは自分が撮影に関わった映画のスチール写真にも取り組んでみたいですね。またスキューバダイビングのライセンスを取って海の中の写真も撮りたいし、人生を楽しみたい。60歳になっても「5年後にはこれをするぞ」というものを持っていたいと思っています。
 
(2005年10月16日号掲載)

エフェクト・テクニカルディレクター(クリエイティブ系):岡野秀樹さん

CG業界はすごい勢いで進化しているので
スペシャリストと仕事すると勉強になる

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はエフェクト・テクニカルディレクターの岡野秀樹さんを紹介しよう。美大在学中にCGに興味を持ち、CG会社に就職。人生の分岐点で人と違う道を選んでいたら、アメリカのCG会社に就職することに。現在は主にハリウッド映画のCGを手掛けている。

【プロフィール】おかの・ひでき■1963年生まれ。広島県出身。87年、多摩美術大学を卒業後、日本最古のCG会社JCGLに就職。翌年富士通に移籍し、花博のプロジェクト終了後、ポリゴンピクチュアズに移籍、その後フリーに。97年、アメリカの古参CG会社リズム&ヒューズに就職するために渡米。代表作に『ソルジャー』『ザ・リング2』などがある。

そもそもアメリカで働くには?

将来性を見込んでCG会社に就職

映画『ザ・リング2』も岡野さんが手がけた作品
© 2005 Dreamworks SKG

 多摩美術大学でグラフィックデザインを勉強していた時、立体的に見えるホログラフィーにも興味があり、ハイテックアート展に作品を応募したりしていたのですが、ある日その会場で、コンピューターグラフィックス(CG)の専門学校のパンフレットを見つけたのです。ちょうどCGが産業として始まった頃だったので興味を持ち、夜はその学校に通うようになりました。当時はコンピューターを持っている人は少なく、私も専門学校に行くまでキーボードを触ったこともなかったので、最初は時間がかかりました。
 
 卒業後は、日本最古のCG会社であるJCGLに就職しました。CGは将来的に大きな産業になると思ったからですが、まさか今のように映画を作るほどになるとは思ってもみませんでした。仕事はかなりの重労働で、朝6時まで仕事してまた8時から始める、というような日もありました。それでも若かったし、仕事も楽しかったのですが、JCGLの親会社の意向で、私が入社して1年で会社を畳むことになったのです。その時、スタッフと機材を引き取ろうというナムコと、大阪で開催される花博用に映像のプロが欲しいという富士通の2社が名乗りを上げてくれました。ほとんどの社員はナムコに行きましたが、私は子供の頃から人と違うことがしたいタイプだったので、富士通を選びました。
 
 花博用の世界初のフルカラー立体ドーム映像の製作に関わり、それが終わると退社しました。プロジェクトベースで就職したわけではなく、正社員として雇用されたのですが、富士通は社員が5万人もいる大きな会社で、私には合いませんでした。

バブルがはじけて、アメリカのCG会社へ

同僚のブライアン・ベルさんと。彼は『ザ・リング2』の
ライティング・テクニカルディレクター

 その頃、「アメリカに負けないCGを日本で作りたい」という夢があって、その時声をかけてくれたのがポリゴンピクチュアズを作った当時の社長、河原氏でした。「受注は受けない、企画を立てて売り込む」という商売をしていた、業界では名物社長だったのですが、「『マイケル・ジャクソンと踊る恐竜』を作らないか」と誘われて、そちらに移りました。実際に踊る恐竜のデモリールも作ったんですよ。「マイケルに直接売り込もう」とか言って、楽しかったですね。
 
 他にもテレビ局の番組タイトルやドラマのCG製作を手掛けましたが、どうしても日本はマーケットが小さい。その頃アメリカでは、映画『アビス』や『ジュラシックパーク』などでCGが使われ始め、段々と日米の差が大きく開いてきました。
 
 その後、フリーランスになってCMなどを作っていましたが、バブルがはじけた影響で、日本でフリーランスを続ける将来性に対する疑問と、マーケットとして大きくなったアメリカで映画のCGがやりたいという気持ちが大きくなりました。いくつかのアメリカの会社にコンタクトを取っていたところ、それを知ったCG会社リズム&ヒューズが「デモリールを送ってみないか」と声をかけてくれました。ポリゴンがリズム&ヒューズの創設者と交流があった関係で、リズム&ヒューズの社長とも会ったことがあったのです。それでデモリールを送ったところ採用になり、97年に渡米しました。

アメリカでの就職は大学の学位が重要

 アメリカには高校と大学の時に短期留学をしたことがあり、楽しい思い出がありました。仕事面でもCGは日米で同じ機材やソフトを使うため、技術的な壁はありません。ただ日本とは仕事のやり方が違います。アメリカはスペシャリストの世界なので、自分でできることでもスペシャリストに頼らなくてはなりません。今は慣れましたが、最初はこれでイライラしました。でもCG業界はすごい勢いで進化しているので、すべてを実践レベルで理解するのは困難です。スペシャリストと一緒に仕事ができるのは、自分にとっても良い勉強になります。
 
 あとは言葉の問題です。アートディレクターは欲しいイメージを形容するのですが、それを把握するのが難しい。でもこれは日本人だからという問題だけではなく、「アートディレクターの言っていることが理解できない」と辞めたアメリカ人もいます。
 
 1つの仕事に与えられる時間はたっぷりあるので、その点では日本と比較したら天国です。最初に手掛けた作品は、『スピード2』。その後『キャットしてハット』『X2』などを手掛け、今は『スーパーマン:リターンズ』に取り組んでいます。
 
 他の国に比べると、日本の若い人はあまり来ていないような気がします。私の知る限り、韓国などと比べると明らかに少ない。映像関係は、日本語だと日本でしか売れないのでマーケットは小さいのですが、日本は豊かな国なので、アメリカに来る必要性を感じないということでしょうか。
 
 アメリカで仕事がしたいと希望しているなら、日本でもアメリカでもいいから、とにかく大学を出ることが大切です。アメリカは実力社会だと思い込んでいる人が多いのですが、実は意外と学歴重視の社会です。大学の学位がないと、まずビザの取得が難しい。すでに社会人で渡米するなら、元の上司の推薦状が必要になってくるので、会社を辞める際は円満退社を心掛けた方がいいですね。
 
(2005年8月1日号掲載)

コマーシャル・インダストリアルデザイナー(クリエイティブ系):後山真己博さん

24時間インスピレーションを得ている
個性的なデザインで人を驚かし続けたい

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はプロダクトデザイナーの後山真己博さんを紹介しよう。美大受験に失敗し、アメリカ留学を決意。趣味のモトクロスであこがれだったトロイ・リーさんに会いたくて「トロイ・リー・デザインズ」を訪問。そのチャンスを生かして、同社のデザイナーに。

【プロフィール】うしろやま・まきひろ■1971生まれ。愛媛県出身。高校を卒業後、90年、サンディエゴのアドバタイジング・アートカレッジに留学。カレッジ在学中からモトクロスのヘルメットやウェアデザイン製作会社「トロイ・リー・デザインズ」でインターンをし、93年、卒業と同時に正社員に。現在はウェアデザイナー兼アートディレクターとして活躍中。

そもそもアメリカで働くには?

あこがれの会社に電話したのがきっかけ

スケッチブックには、モトクロスウェアや
グッズのスケッチがぎっしり

 小さい頃から絵を描くのが好きで、ずっと絵を習っていました。高校も工業高校のデザイン科に進み、美大に行きたかったのですが志望校の受験に失敗し、「浪人するよりアメリカで勉強しよう」と思い、渡米することにしました。趣味がギターとモトクロスなので、「いつかアメリカに行ってみたい」といったあこがれもありました。
 
 サンディエゴのデザインスクールに行きましたが、学校の規模も小さく、日本人が1人もいない環境だったので、デザイン専門用語などと同時に、一般の英語を比較的早く学ぶことができました。「広告デザイン」を専攻していたので、課題では絵だけではなく、コピーライトもつけて広告としてのコンセプトを伝えるのが大変でした。好きなことなのでがんばれたのだと思います。ちょうどコンピューターでモノを作る始まりの時期で、抵抗なく入っていけたのもラッキーでした。
 
 モトクロスはサンディエゴでも乗っていましたが、高校時代からあこがれていた「トロイ・リー・デザインズ」という会社が、サンディエゴから1時間半くらいのところにあると知って、ある日、会社に電話しました。社長のトロイ・リーはアイデアマンで、それまで無地かラインが入っている程度だったヘルメットに、グラフィックをつけたことから始まった会社です。日本にいる時に雑誌で見て、僕もマネをして自分でヘルメットを塗ったりしていたのですが、電話した時は、「社長の知り合いになっていつか塗ってもらえるといいな」程度の軽い気持ちでした。すると「ショールームもあるから遊びにおいで」と快く誘ってくれたのです。

床掃除やゴミ拾いでも、毎日デザインを持参

ヘルメットはオーダーメイドの
オリジナルデザインも作っている

 会社に行った時に「採用していませんか」と訊ねたら、「学生なら週に3日ほど、昼から来れば」と言ってくれ、片道1時間半かけて通うようになりました。最初はインターンだったので、それこそ床掃除やゴミ拾いばかりでしたが、行くたびにデザインを持参して社長に見せました。初めの頃は当然「ダメ」ばかりだったのが、2、3カ月経ったある日、ようやく「おもしろい」と言ってくれ、「小さなプロジェクトをやってみるか」と持ちかけてくれたのです。それが認められて、少しずつデザインを担当するようになり、卒業とともに正社員として入社しました。
 
 20代の頃は、仕事が楽しくて、楽しくて仕方がなかったですね。自ら毎日残業して、週末も出勤していました。「とにかく仕上げて、翌朝社長に見せたい」とそれだけでした。30代になると、今度は会社が成長して忙しくなったので、残業せざるを得ない状況になりましたが。今はモトクロスウェアのデザイナーとアートディレクターを兼任していますから、24時間何かを見てインスピレーションを得ています。ナイキの靴やそれこそ壁紙から食器まで、見るものすべてからアイデアを吸収していますね。
 
 これまではとにかく次から次へと新しいデザインが出るので、後ろを振り返る暇もなかったという感じです。でもバイクは趣味だったので、苦労を苦労と思いませんでした。社長が理解のある人だったのも恵まれていました。意見が合わなくて、社長と泣きながらケンカしたこともありましたが、「ダメだけど、他にもやってみれば」と課題を与えてくれました。やはり「あきらめない」ことが大切だと思います。

アメリカは、言えばわかってくれる国

 アメリカでは「言わなくてもわかってくれるだろう」は通用しません。根性を見せて一生懸命がんばるのも大事ですが、それを口に出して言わないとわかってもらえません。でもアメリカは、言えばわかってくれる国です。「何がやりたくてこうしたから、こうしてくれ」と伝えることが大切です。
 
 アメリカでデザインの仕事をしたいのなら、遠回りをせずにデザイン会社に就職するべきだと思います。ただデザイナーを目指す人は、紙と鉛筆でアイデアを書くという基本を忘れないでほしいですね。最近は、コンピューターができたらデザインができると思っている人も多いのですが、まずはスケッチした絵を見せるという作業があります。これができないと、コンピューターに入れることもできないわけです。
 
 アメリカのモトクロス人口はすごく多い。レースに出るのは全体の2割程度で、あとの8割は家族で楽しむ人たちです。モトクロスが生活に根付いています。ですからウェアやギアなどアフターマーケットの裾野は、日本よりもはるかに広く、アメリカの方が2輪業界に入りやすいのではないでしょうか。
 
 モトクロス会場などで知らない人が、僕のデザインしたウェアを着ているのを見るとうれしいですね。世界中の人に買ってもらえるわけですから、それが1番うれしい。一時期、自分が成長しているのが見えた頃、自立を考えたこともありました。でも僕はこの会社とここの社長が好きなので、今は会社を成長させるためにやれるだけやってみよう、という心境です。
 
 人が「マキのデザインだ」とわかるような個性的なものを作り、「またこんなのを出してきたのか」と、常に人を驚かし続けていきたいと思っています。
 
(2005年7月16日号掲載)

オーディオ・エンジニア(クリエイティブ系):笠井 利朗さん

人のやっていないことをやるバンドと
意表を突くような曲を作るのが夢

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は「オーディオ・エンジニア」の笠井利朗さんを紹介しよう。音楽プロデューサーになりたいと夢を持って渡米したのが97年。人間関係を大切にして着実に人脈を築きあげ、現在はノースハリウッドのスタジオで多くのミュージシャンに頼られている。

【プロフィール】かさい・としあき■東京都出身。1997年6月、ロサンゼルス・レコーディング・ワークショップに留学のため渡米。同校在籍中に数々のスタジオでインターンをこなし、現在はノースハリウッドのスタジオを中心に活躍中。手掛けたアーティストに、トゥール、メルヴィンズ、ウィリー・ネルソン、フーファイターズなど多数。

そもそもアメリカで働くには?

ノートを取ったことが、仕事の足がかりになった

メルヴィンズとの録画風景

 父は趣味でキーボードを、兄と姉はエレクトーンを弾いていました。小学生の時に兄のすすめで初めて聴いた洋楽が、ビリー・ジョエルの『マイ・ライフ』。日本にはないさわやかな音と英語の流れが格好いいと思いました。
 
 中学の時からギターを弾き始め、地元でロックバンドを組んでいましたが、R&Bやサウンドトラックも好きで、20歳前後になると1つの音楽にこだわりたくないと思うようになりました。音楽を作る側に回りたかったのです。『スーパーマン』や『バック・トゥー・ザ・フューチャー』などの映画の影響でアメリカが好きだったし、どうせやるならアメリカで、と思っていました。
 
 その頃、ちょうど友人がロサンゼルス・レコーディング・ワークショップに通っており、その友人に誘われて渡米したのが1997年のことです。もともと音には敏感だったのですが、正式に勉強するとシェフが料理に何が入っているのかがわかるように、クリアに音の違いが整理されて納得できたのです。
 
 ロサンゼルス・レコーディング・ワークショップでは、すぐにいろいろなスタジオでインターンシップをさせてくれました。あるスタジオに行った時、ブラッドハウンド・ギャングのセッションがあり、その時は教えてもらう立場だったのでノートを取っていると、プロデューサーが「ノートを取ったのはお前だけだ」ということで、「明日から雇う」と言ってくれたのです。そのアルバムは200万枚弱売れました。
 
 でも最初の8カ月くらいは大変でした。一応日本で貯金して来ていましたが、使えるお金は月200ドル、なんていうのも珍しくありません。毎日インスタントラーメンばかりで、食生活はかなりひどかった。ある時、フロントページスタジオというところでベンチャーズと日本人アーティストの合同セッションがありました。僕は通訳兼アシスタントエンジニアとして参加させてもらったのですが、ベースプレーヤーのボブ・ボーグルの奥さんがユミさんという日本人で、仕事の合間に食生活の話を聞かれ、正直に答えたらかなり心配してくださったらしく、セッションが終わった後に電話を貰いました。「使っていない電子レンジをスタジオに預けておいたから取りに行くように」とのこと。スタジオに行ってみると電子レンジの他に新品のオーブントースターと小さな封筒があり、「これで何か食べてください。Yumi & Bob」と書かれた手紙と100ドル札が1枚入っていました。今でもその電子レンジとオーブントースターは使っています。感謝しても、しきれません。

誘われたら必ず参加する 。人とのつながりが大切

メルヴィンズとトゥールのアダム・ジョーンズと
フックスタジオにて

 このままでいいのかな、という思いは、4、5年前までありました。経済的なこともそうですが、自分の好きな音楽がなかったと言うか、僕が聴いて育った頃のような音楽は存在しなくなったのか、という不安があったのです。でもそのうち、フーファイターズ、メルヴィンズ、トゥールなど自分のスタイルを持っているバンドと仕事をするようになって、やってきて良かったと思えるようになりました。テキサスのバンド、シュガーボムのセッションに参加させてもらった時は、とても意見が合って、こういう人たちがいたんだと、うれしくなったほどです。
 
 僕もまだとても成功したとは言えない段階ですし、まだまだこれからですが、一応ここまでやってこられたのは、諦めなかったこと、必死で勉強したこと、そして人のつながりを大切にしたことだと思います。
 
 トゥールのアダムとはセッションを一緒にやって以来親しくさせてもらっていますし、アダムを通してメルヴィンズを紹介してもらい、プライベートでも映画やパーティー、コンサートなどに誘ってもらっています。僕はたとえばパーティーでも誘ってもらったら必ず顔を出します。ある時パーティーに行くと、小さな頃からあこがれていて一緒に仕事ができたらいいなと思っていたキング・クリムゾンがいて、さすがにその時は感動しました。

スターのいない音楽業界 。商業的になってきている

 セッションにかかる時間は、ジャンルによってまちまち。6カ月かかることもあれば、1カ月で終わることもあります。ヒップホップやテクノはプロダクションに時間をかけるので録音するのはボーカルだけ。ロックやジャズは生演奏するのでチャレンジが必要とされますが、その分やり甲斐があります。録音では楽器やボーカルを別々に保存することができるのですが、バラバラになった音をバランスよくステレオにまとめるミックスダウンという作業では、1日1曲が相場です。
 
 将来的には人のやっていないことに挑戦するバンドをプロデュースしたいですね。音楽プロデューサーは、映画でいうディレクターのようなもの。言ってみれば全体の指揮者ですね。レコード会社も勇気がなくて、無難な路線しか作らない。ビートルズとかエルビス・プレスリーのようなカリスマ性のあるスターがいないし、芸術性を無視して商業的だけになりすぎているような気がします。僕はその意表を突くような曲を作る音楽家、実験的で型にはまっていないバンドなどと仕事をしたいと思っています。
 
(2005年4月16日号掲載)

作曲家(クリエイティブ系):鋒山亘さん

一歩ずつ成功を積み重ねていくことで
いずれ心を癒す映画音楽を世界に発信したい

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は作曲家の鋒山亘さんをご紹介。高1の時にテレビで見たボストンポップスの来日コンサートに衝撃を受け、映画音楽を目指す。高2で交換留学生として渡米。名門クリーブランド音楽院からUSC映画音楽作曲学科へ。現在は日米を舞台に活躍中。
 

【プロフィール】ほこやま・わたる■1974年生まれ。福島県出身。インターローケン・アーツ・アカデミー卒。99年クリーブランド音楽院卒。2000年USC映画音楽作曲学科卒。作品にカンヌ映画祭パルムドール受賞『おはぎ』、サンダンス映画祭オーディエンス賞受賞『ONE』、スチューデント・エミー賞受賞『クリスマスにお茶碗を』、NHK『地球大進化』等。

そもそもアメリカで働くには?

高校留学で鍛えられて、クラシックの基礎を学んだ

鍵盤の音にコンピューターのキーボードで
長さを入力し、曲ができ上がる

 5歳の頃からピアノを始めてずっと続けていましたが、音楽家になるとは思っていませんでした。小学校3年生の時に『E.T.』を観て映画音楽に興味を持つようになり、高1の時にテレビで観た「ボストンポップス来日コンサート」で衝撃を受けました。映画音楽界の巨匠ジョン・ウィリアムスがオーケストラを率いて来日したのですが、その演奏をテレビで観て「これだ」と思ったのです。
 
 高校2年の時に、交換留学でオクラホマに行きました。映画音楽が夢なので最終目標はハリウッドでしたが、高校生でしか感じられないこともあるかと思ったからです。レーガン大統領が設立し、日本の旧文部省が認定した交換留学プログラムで、1年間地元の公立高校で学びました。オクラホマの人たちは温かく、すばらしい体験ができました。ただ覚えた英語は南部訛りで、しばらくは訛りが抜けませんでしたが(笑)。
 
 翌年、音楽の先生のすすめもあって、ミシガン最北端にある芸術高校、インターローケン・アーツ・アカデミーに編入しました。編入したのは、映画音楽を始める前に、クラシックを基礎からきちんと学びたかったからです。ピアノの先生は厳しいロシア人で、「1日5時間練習しなさい」といつも言われました。きちんと学ぶということは、これほど大変なものなのかと思いましたが、実にいい勉強になりました。
 
 でもそのおかげで、クリーブランド音楽院に入学することができました。ここは、クリーブランド管弦楽団の首席奏者たちが教授陣として構える大学で、在学中は作曲と指揮を勉強しました。その後USC映画音楽作曲学科に進学し、クラシックをどのように映画に活かせるのかを1年間勉強しました。

音楽参加した学生映画が、カンヌやサンダンスで受賞

 卒業後は、USC時代の教授に誘われて、『ダンジョン&ドラゴン』にオーケストレーターとして参加し、その後USCの学生映画3作に作曲で携わりました。そのうちの1作が、松田聖子さんの長女で女優のSAYAKAさんが主演してカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した『おはぎ』で、1作はサンダンス映画祭でオーディエンス賞を取った『ONE』。もう1作がスチューデント・エミー賞を取った『クリスマスにお茶碗を』という映画です。
 
 『ONE』をきっかけに、サンダンス映画祭のスポンサーでもあるNHKから依頼を受け、昨年放映された『地球大進化』というドキュメンタリー番組に、編曲と指揮で参加しました。
 
 ハリウッドでもエージェントと契約し、『アレキサンダー』や『パニックルーム』に出演した俳優ジャレッド・レトのバンド「30 Seconds to Mars」の新曲で、ストリングスのアレンジを担当しました。これは3月に発売されます。
 
 教育機関からの依頼も多く、ワシントン州の高校から作曲と指揮の依頼を受けたり、日本では故郷の小学校の校歌を作曲したり、長崎の高校で講演したりしています。
 こう言うと順風満帆で来たかのような印象を与えますが、そんなことはありません。私はフリーランスですので、仕事を取らなければならないという漠然とした不安はいつもあります。卒業直後は仕事がないのが当たり前。アメリカ社会では精神的なサバイバルが必要です。日本ではそんなことを感じたことはなかったけれど、こちらに来て友人や家族がいかに支えていてくれるかを痛感する機会がたくさんありました。
 
 でもどんなに落ち込んでも、日本に帰ろうとは思いません。日本に帰るのは逃げることになる。がんばればきっといつかは報われるから、日本に帰る時はアメリカで成功して帰りたい。普通は日本で成功してアメリカに進出しますが、私はその逆で行こうと思っています。

感謝の気持ちを忘れず。成功の階段は一歩ずつ

 アメリカで音楽を目指したい人は、いい音楽を毎日たくさん聴いて、本当にいい音楽とは何かがわかるように吸収することが大切だと思います。99%ダメだと思っても、1%の自信を感じたら成功するまで諦めない。でも1人では何も乗り越えられません。そこには支えてくれている人が必ずいるのです。そういった人に対して「ありがとう」という気持ちがあれば、つらい境遇も乗り越えられます。少しくらい仕事が評価されたからといって自信過剰になったり傲慢になると、人は落ちていきます。これは自分への戒めとして忘れてはならないことだと思っています。
 
 将来的には「ワタル・サウンド」と言われるような個性ある音楽を作って、徐々に大きな映画を手掛けられるようになりたい。昔は成功の階段を一気に駆け上がることを夢見ていましたが、今はそうでないことに気づきました。成功の階段は一歩ずつ上がっていかなければならないのです。
 
 私の音楽を聴いた人たちが、各々の懐かしい思い出に浸れるような曲、心にいい刺激を与えて元気が出てくるような曲を広く世界に発信したいと思います。私が音楽で参加した映画が世界中で上演されて、多くの人が「映画も良かったけれど音楽も良かった」と言ってくれるような、そんな作品を創りたいと思っています。
 
(2005年3月1日号掲載)

リード・デジタルアーティスト(クリエイティブ系):渡辺 潤 さん

CG学会で自作が入選したのをバネに渡米
常にアンテナを張って情報を吸収しています

 アメリカで働く人の中から、今回はリード・デジタルアーティストの渡辺潤さんをご紹介。学生時代に視察した米国CG学会で最先端の技術にショックを受け、その後、自作が入選したのをバネに渡米。現在は映画の大手ポストプロダクション会社で、ハリウッド映画やIMAX作品などを担当している。

【プロフィール】わたなべ・じゅん■1966年生まれ。横浜市出身。東京工学院芸術専門学校CG科卒。卒業後、CGプロダクションのリンクスに勤務。93年、自主製作したCGアニメーション作品がSIGGRAPHのエレクトリックシアターに入選。96年渡米。現在は大手ポストプロダクション・FOTOKEM FILM & VIDEOにて、リード・デジタルアーティストを務める。

そもそもアメリカで働くには?

学生時代に参加した視察旅行で「すごい」

渡辺さんのデスクにて。データだけでなく
フィルムチェックはいつも入念に

 学生最後の夏に、父親にお金を借りてダラスで開催されたCG学会「SIGGRAPH」を視察旅行したのですが、その時に受けたカルチャーショックが何しろ大きかった。 フルCG映画『Finding Nimo』や『The Incredibles』を製作したピクサー社は、当時は細々とCGソフトを開発している会社だったんですが、86年のSIGGPAPHで初短編作品『Luxo Jr.』を発表したんです。当時CGで短編を作るのは非常に困難だったので、それを見て「すごい!」とショックを受けました。
 
 また、それが僕にとって初めての海外旅行で、知らない人にも気楽に声をかけるアメリカ人の性格の柔らかさや気さくさ、子供の頃から触れていたアメリカ文化にも感動しました。
 
 卒業後はCGプロダクションに就職、番組タイトルやCM、博覧会映像の製作に携わっていましたが、出張や旅行で何度かアメリカを訪れるうちに、いつかこの国の映像業界で働いてみたいと考えるようになりました。
 
 渡米のキッカケは、SIGGRAPHに応募した僕の作品が、幸運にもエレクトリックシアター(SIGGRAPHのメインイベントで、世界中から応募されたCG作品が厳選なる審査の上、大シアターで上映される)に入選したことです。そこでロサンゼルスのCGプロダクション会社の社長と知り合い、その会社で雇っていただけることになりました。
 
 渡米後は常にアンテナを張って、プラスになり得る情報をなるべく吸収するように心がけました。進歩が激しい世界ですから、映画や特撮関係のセミナー、講演会など目に付くものはスケジュールの許す限り参加しています。常に最新情報を仕入れておくということは重要だと考えています。
 
 現在は、映画のポストプロダクション会社に勤務しています。ポストプロダクションとは、撮影されたオリジナル映像に何らかの処理や効果を加えて最終的な完成映像に持っていくプロセスを意味します。最近はハリウッドで公開される映画のほとんどが、1度全編をコンピュータ上に取り込む形で、デジタル処理のポスプロが行われるようになりました。
 
 そんな中で僕がメインで担当しているのは、そのデジタル画像化された映像に対して、合成ソフトやCGソフトを使ってビジュアルエフェクト(視覚効果)を加える作業です。ビジュアルエフェクトには大作映画でよく見る派手な爆発や洪水の類から、映画を観ても一見してそれとはわからないようなモノまであります。前者は大手エフェクトハウスへ発注され、後者は我々ポスプロで処理されることが多いですね。
 
 たとえば僕が手掛けるビジュアルエフェクトには、天候や空を違う雰囲気に差し替えたり、地面と地平線を描き足して構図を変更したり、ライオンの足元に砂埃を追加したり、空に稲妻や流れ星を入れたり、余計なものを消したり、オリジナル映像には含まれていないカメラのズームを加えたり。これが「エフェクト」だとは、映画を見た観客はほとんど気がつきません。逆に気づかれてしまうようでは「失敗」ということになり、そこが腕の見せ所です。

実力で評価される世界、日本人のハンデはない

趣味はトランペット。サンタモニカ・カレッジの
ジャズ・ビックバンドの仲間と

 僕はCGアニメーターでもあるので、その知識と経験を自分の担当ショットの中に常に盛り込むように心がけています。他の人とはちょっと違った感じに仕上げる。そこが面白味でもあり、毎回のチャレンジでもあります。今の会社で日本人は僕1人です。確かに言葉のハンデはありますが、この業界は実力で評価される世界なので、日本人だから、というハンデを感じたことはありません。
 
 僕が英語圏に違和感なく飛び込むことができたのは、母親の影響が大きかったと思います。母は英文科の出身で、僕が幼い頃から英語の絵本を読んだり、英会話のラジオを聴かせたりしてくれました。父はコンピュータのエンジニアで、家にはパソコンが転がっていまして、僕はそれをオモチャに簡単なゲームやアニメーションを作って遊んでいました。また父は8ミリを撮るのが好きだったので、それが僕が映像に興味を持つ原点になった。ですから両親には感謝しています。
 
 将来的には、心に染み入るような作品を手掛けてみたいですね。スクリーンのクレジットに自分の名前が載った時に、「やってよかった」と思えるような作品を担当できると、うれしく思います。
 
 アメリカで働くには、まずアメリカでの生活が楽しめないと難しい。心が常に日本を向いているようでは毎日がつらいだけですし。またビザについてもキチンとリサーチしてから渡米した方が良いと思います。映像、特にCG業界で就職をするには、美術か技術系の学校を出ているか、一定の実務経験がないと、ビザが降りない場合があるのです。そのあたりを知らずに渡米してしまうと、時間とお金の無駄にもなりかねません。それさえクリアすれば、後は本人の努力次第ですからね。
 
(2005年1月16日号掲載)

Japan Business Systems Technology営業(サービス・サポート系):工藤愛理さん

誠意を持って仕事をしていれば
必ず見てくれている人がいる

ホームステイで外国人を受け入れる家庭で育ち、次第に外国への憧れが高まったという工藤愛理さん。中学生の時に自身もホームステイして過ごしたアメリカ生活が忘れられず、高校卒業後、アメリカの大学に進学。卒業後もアメリカに留まり、就職した。「営業の仕事は、人に会って、知らない世界の話を聞けるのが楽しい」と話す工藤さんに話を聞いた。

【プロフィール】くどうあいり ◉ 高校卒業後、2004年に渡米。サンフランシスコのDiablo Valley College に入学し、07年にカリフォルニア大学サンディエゴ校へ編入。コミュニケーション学を専攻して、10年卒業。その後、ITコンサルティング会社JBS(Japan Business Systems Technology)に入社し、現職

そもそもアメリカで働くには?

英語を話すことに興味津々 使う機会を自ら作っていった

小学生の頃、私の家庭では、ホストファミリーとして外国人の受け入れをしていました。アメリカ人やオーストラリア人、フィリピン人やネパール人など、色々な国の方たちと接する機会がありました。日本語の勉強で日本に来ている留学生たちなので、家庭での会話は基本的に日本語でした。ですが、私の母が英語を少し話すので、時折留学生と母が英語で話しているのを見て、「いったい何を話しているんだろう?」と、興味津々でした。
 
中学生くらいになると、外国への憧れから、洋楽を聴いたり、洋画を観るようになりました。また、ペンパルを作り文通をしたり、学校のアメリカ人の先生と仲良くしたりなど、英語に触れる機会を自ら作るようにしていました。そして、中学2年生の時、今度は自分が、サンディエゴでホームステイをしました。
 
次に渡米したのは2004年、高校を卒業してからでした。中学生の時に体験したホームステイでのアメリカ生活が忘れられず、高校在学中も留学したいという気持ちがどんどん高まっていきました。そして進路を決める際、このまま日本の大学に進学をしたとしても、留学だけはいつか必ずしようという強い気持ちがあったので、どうせならばこのタイミングで思い切って行こうと決意し、サンフランシスコの郊外のカレッジに入学しました。

さまざまなジャンルの 人と出会う仕事がしたい

提案中の案件について、エンジニアと打ち合わせ中

コミュニティーカレッジを卒業後、USCD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)に編入。社会学、メディア学、女性学など幅広く勉強するコミュニケーション学を専攻しました。就職活動をする中で、PRの仕事も楽しいだろうなとも思ったのですが、営業という職業に以前からとても興味がありました。営業は、通常の生活では出会うことはない色々なジャンルの人とお話ができたり、サービスや商品の持つ良さを最大限に引き出してプレゼンテーションをしたり、自分が間に立って何かと何かをつなげるというイメージがありました。漠然とした思いだったのですが営業がしてみたいと思いましたので、業種は問わずに「営業職」で就職活動をしました。
 
実は、卒業後にこちらに残って仕事をするか日本に帰るか、悩んだ時期がありました。そこで、大学を休学して就職活動のために日本に一時帰国し、短期間で集中的に色々な企業を回りました。運良く、その中から2社内定をいただいて戻ってきたのですが、せっかくアメリカの大学を卒業するというのに、私はこちらで何もしていないではないかという気持ちになりました。それならば、何かチャレンジしてから考えようと思い、OPTを取得し、現在の会社で営業として働き始めました。

経験や知識が乏しく苦労も でもすべてが勉強になる

私の会社は、単にPC機器を販売するコンピューター屋さんではありません。システムとビジネスの視点から、効率化なども含めて提案をしていく、ビジネスコンサルタントとしてのサービスを提供しています。社内では、ネットワークのエンジニア、プログラマーなどからなる開発部、そしてERP(Enterprise Resource Planning)コンサルティングの、3つの分野に分かれていますが、私は営業アシスタントとして、それら3つの分野をすべて担当しています。お客様のご要望、悩みなどを聞き出し、技術的な話になる際は、エンジニアとセットでお客様をサポートします。つまり私の仕事は、お客様とエンジニアをつなげることです。
 
弊社のお客様の多くは、長いお付き合いをしていただいている企業、またはご紹介がほとんどです。元々「営業部」というものが確立されておらず、エンジニアなどの技術者が営業も兼任するというユニークな会社でした。そこに初めて、私が「営業職」というポジションで採用されました。営業職として仕事をする以上は、既存のお客様をケアするだけでなく、新規開拓が求められます。コールドコールでアポを取ったり、時には飛び込みでお客様の所にお邪魔するなどし、まずは私たちの会社を知っていただくことから始めています。
 
私は、ITのバックグラウンド、営業としての経験がなく新卒で入社しましたので、その点ではやはりとても苦労しています。IT用語を熟知していると、お客様も安心してお話してくださいますし、社内でエンジニアとの会話もスムーズになります。
 
弊社は、一人あたりのタスクがたくさんあります。営業だからお客様にサービスを紹介していればいいのではなく、さまざまな部署の仕事に関わります。おかげでどの人がどのような業務をしているのかが理解でき、とても勉強になりました。今年で入社3年目になりますが、ますます仕事が楽しくなってきたところです。
 
この仕事の醍醐味は、お客様が私の電話の声を聞いた瞬間に、「あ~、工藤さん」と言ってくださるなど、私のことを覚えてくださっていること、「ここが困ってるんだよね」と悩みを打ち明けてくださると、信頼していただいていると感じられて、とてもありがたく思います。
 
私は人と関わることが大好きなんです。知識不足のところがいっぱいある中で、お会いする方から知らない話をお聞きすることで、グッと世界が広がっていくのを感じます。仕事の話をしていても、それが人生に置き換えられたり、逆に仕事とはまったく違う話の中にも、何か仕事につながるヒントが隠れていたり、本当に勉強になります。

努力をした分だけ 結果が肌で感じられる

私の実家が店を経営しているということもあるのですが、学生の頃からいずれは自分も起業したいと思っていました。ですが、実際に社会に出て、まだまだ私にはとてもできないことだということに気付きました。社会人としての知識や経験が少ないので、たくさん勉強をして、起業するにせよ、企業の中で働くにせよ、率先して企画を出し、動いていける人材になることが目標です。今の会社は、色々なことを経験させてもらえ、大変貴重なことだと思っています。会社からもっと求められ、任せてもらえるようになって、いつか自分が中心となって人を引っ張っていけるようになりたいですね。
 
営業は、会社とお客様をつなぐ仕事です。お客様にも社内にも気を配れることが大切だと思います。私の目標でもあるのですが、それが上手にできた時には本当に達成感を感じられます。お叱りを受けることもあります。毎回ハッピーなことばかりではないですが、きちんと誠意を持って対応を続けていれば、それを見ていてくださる方が必ずいると思います。そして、後にその努力が返ってくるのを直に体験できる職種だと思います。
 
ひとつの大きなプロジェクトを終えると、そのお客さまから新しいお客様のご紹介を受けることもあります。大変なことをやり遂げた先に、喜びが隠れているんですね。10あるうち、8、9割が辛いことでも、うれしいことが1、2割あるだけですべて埋め合わせできてしまうくらい、面白味ややりがいのある仕事です。私はこの小さい喜びがたまらなくうれしくて、頑張れていると思うんです。
 
私は大変ラッキーなことに、会社に労働ビザをサポートしてもらうことができました。ビザの取得には、自分にも会社にも色々な条件が必要になり、誰もが得られるチャンスではありません。このような機会を得られたことに感謝し、これからも日々勉強をしながら、営業としてのスキルを高めていきたいです。
 
(2012年5月1日号掲載)

運輸 ・ サービス NASCARドライバー(サービス・サポート系):尾形明紀さん

ドライバーとして頂点を目指すのはもちろん
社会に良い影響を与えられる ドライバー、 人間になりたい

アメリカではプロフットボールに次ぎ、 テレビ視聴 者が多いと言われる自動車レースの NASCAR。 そこに2003年から参戦し、 奮闘中の日本人 ドライバーが尾形明紀さんだ。 今年から拠点を ノースカロライナに移し、 腰を落ち着けて取り組 む準備が整った。 現在、 年間参戦を目指し、 スポン サーを募集中と言う尾形さんにその魅力を聞いた。

【プロフィール】おがた ・ あきのり◉神奈川県相模原市出身。 1973年8月14日生まれ。 14歳の時にモトクロスと出 会い、 中高とレースに没頭する。 20歳の時、 負傷療養中に出会ったNASCARのミニカーに魅せら れ、 NASCARレースの世界に傾倒。 99年にモトクロスから4輪のミジェットレースに転向。 2002 年にスポンサーを獲得し、 翌03年3月にNASCAR WEEKLY RACING SERIESでNASCARデビュー。 09年にビザを取得。 今年からノースカロライナに拠点を移し、 奮闘中。 Web: www.akinoriogata. com (公式サイト) 。 現在、 スポンサーを募集している (☎ 310-989-8688 ・ 早川)

そもそもアメリカで働くには?

NASCARを知るほど 膨らんでいった憧れ

NASCARドライバーは、 地元の子供たちの尊敬の的。
イベントでは、 多くの子供たちに喜んでもらえるので、
参 加する方も楽しい

横浜に住む祖父母の家に遊びに 行くたびに、 おじいちゃんの車に乗 せてもらっていました。 そのおじい ちゃんの車が、 テールに羽根が突き 出るような大きなアメ車。 助手席に 座り、 ボワンボワンと優雅に揺れる 感じは、 今でも強く印象に残ってい ます。 今思えば、 私のアメ車との付 き合いは、 おじいちゃんの車から始 まっていたのかもしれません  
 
モータースポーツとの出会いは、 14 歳の頃、 実家隣のオートバイ店で 働くお兄さんたちのモトクロッサー に魅せられたのがきっかけです。 す すめられて乗ってみると、 楽しくて仕方がない。 それからは毎週末、 河 川敷までバイクを押して行って、 練 習に明け暮れました。  
 
1993年当時、 プロのレーサー を目指して本格的に活動していた のですが、 大きなジャンプで転倒し、 右足を複雑骨折してしまいました。 その療養中にたまたま入ったミニ カー屋さんで、 NASCARのミニカー と出会いました。 何も知らないまま カッコ良さに魅了されて購入しまし た。 後で調べると、 これが NASCARと いうもので、 全米でテレビ中継され ているほど人気があるレースだと知 りました。 そして、 衛星放送で観戦 するほど、 NASCARに夢中になって いったんです。  
 
22 歳の時、 新婚旅行で初めてアメりカを訪れました。 どこのおもちゃ 屋さんに行っても NASCARの商品が 置いてあり、 その人気の高さとカル チャーが深く根付いていることに衝 撃を受けました。 日本のレースとの 違いにとても驚きました。  
 
それで、 その翌年、 NASCARと言え ばデイトナということで、 友人とフ ロリダのデイトナビーチに NASCAR レース観戦に行き、 そのエキサイ ティングさに完全にハマってしまい ました。 帰国後も、 憧れの気持ちは どんどん大きくなって、 「どうにかし て NASCARと関わりたい」 、 そう強く 願い始めました。  
 
23 歳でモトクロスレースと並行し て、 NASCARのミニカーの輸入販売 を始めました。 その仕事の関係で、 NASCARチームや関連業者が集ま るノースカロライナにも足を運び始 め、 今度は 「 NASCARレースに出た い」 「 NASCARレーサーになりたい」 と、 気持ちがますます膨らんでいき ました。 しかし、 現実問題として、 資 金もないし、 環境も整っていない。 ど うしようと悩んでた時、 マイナーで すが、 「ミジェットカーレース」 とい うオーバルレースの登竜門的な4輪 のレースがあることを知りました。モトクロスに限界を感じていたこと もあり、 NASCARレーサーになるこ とを目標に、 99 年に思い切って4輪 レースに転向しました。

甘く見て受けた NASCARの洗礼

ミジェットカーレースに真剣に 取 り 組 ん で4年 目 の2002年 に、 スポンサーが付いて、 いよいよ NASCAR挑戦ができることになりま した。 しかし、 その時点では参戦チー ムもサーキットもまったく決まって いない状態。 ノースカロライナに直 接行き、 目星を付けていたサーキッ トのマネージャーに交渉することか ら始めました。 相談を持ちかけると すごく親身になって探してくれたの ですが、 南部ということもあり、 どこ の誰かもわからないアジア人を受け 入れてくれるチームはなかなか見つ からず、 結局この時の滞在では、 収 穫は得られませんでした。 2度目に 渡米した際のチャレンジで、 ようや く受け入れチームが見つかったので すが、 当時はかなり色眼鏡で見られ ることもありましたね。  
 
翌年2003年3月からレースが 始まることになっていたので、 2月に 渡米し、 すぐに練習を始めました。 初めて NASCARの車体に乗った時、 想像していたより簡単で、 「これは いいセン、 イケるんじゃないか」 と感 じました。 ですが、 NASCARレースは 接近戦で、 数台の混戦の中を走らな ければならない。 練習では1人で走 るだけだったので簡単に思えました が、 レースはまったくの別物でした。 いきなり NASCARの洗礼を受け、 そ の後も1年間で8戦ほど出走した のですが、 走れば走るほどオーバル レースの世界は奥が深いことがわか り、 良い結果を残すことはできませ んでした。  
 
それでも出場回数を重ねるうち に、 徐々に感触を掴んでいる感覚は、 自分の中でありました。 しかし、 不 況の影響もあって、 04 年にはスポン サーが下りてしまい、 参戦できなく なってしまいました。 当時も今も、 年 間通して支援していただけるスポンサーを見つけるのは、 レースで勝つ ことくらい難しい (苦笑) 。  
 
その時は、 日本でとにかくスポン サーを探すことに奔走して、 レース 関係やミニカー販売の仕事をしつ つ、 スポンサーとも交渉。 さらに、 ミ ジェットカーレースにも参加し続け ていました。 しかし、 08 年の終わり頃 から 「 NASCARドライバーが日本に 住んでいてはいけない」 と思い始め ました。 拠点を本場であるアメリカ に移すために、 色々苦労して、 よう やく昨年ビザを取得。 今年からノー スカロライナに拠点を置いて、 本格 的に活動を行っています。

幅広く社会貢献をする ドライバーたち

NASCARレースは、 車同士がぶつ かり合う荒々しいレースなので、 細 かい整備は行っていないと思われが ちです。 しかし、 実はオーバルコース をグルグル回るだけあって、 車体に ごまかしがききません。 少しでも車 のセッティングが甘いと、 ドライバー の技量ではどうにもカバーできない んです。 だから、 いかにレース前や予 選で、 良い車を作り上げられるかが すごく重要。 それにはチーム内でう まくコミュニケーションを取り合い、 コースに合うセッティングをしない といけない。 もちろん、 ドライバーの 技量も大事ですが、 チームワークを 上手く保つことがレースの鍵です。  
 
トム ・クルーズ主演の 『 Days of Thunder』という NASCARが題材の 映画では、 相手を挑発したり、 ぶつ かって妨害するシーンがあります。 しかし、 実際のレースでは、 全員ジェ ントルマンなんです。 いくら荒々し いレースとは言っても、 故意に相手 の進路を妨害する行為はルール違 反。 もちろん競走ですから対抗心を 持って臨みますが、 敵対心は持って いません。  
 
ファンから見ると、 エキサイティ ングさ、 わかりやすさが NASCARの 魅力だと思います。 僕にとっては、 多 くの人に影響を与えられるというの が、 大きな魅力の一つ。 アメリカ、 特 に南部では、 NASCARは一部のレース 好きの人たちだけのものではなく、 一般文化の一部で、 日常生活にも深く 根付いています。 また、 ドライバーた ちは、 レース以外にもスポンサーの 宣伝活動やファンサービス、 ボラン ティア活動と、 幅広く社会貢献をし ています。 だからこそ、 これだけアメ リカで愛されるスポーツになったの だと思います。  
 
僕も 「アキノリ ・オガタ ・ ファウン デーション」 を設立し、 障害を持つ子 供たちに夢を与えるためのチャリ ティー活動を行っています。 最初は お金を寄付するだけだったんです が、 自分が実際に何かを行って、 触 れ合うことが大切だと感じました。 僕がイベントに行くと、 子供たちは すごく喜んでくれる。 それは、 やは り僕が NASCARドライバーだからな んですね。 僕がもっとメジャーなド ライバーになれば、 もっと多くの人 と触れ合え、 喜んでもらえます。 そ のためにも1レースでも多く出て、 頑張っていきたいです。  
 
僕の目標は、 ドライバーとして頂 点を目指すのはもちろん、 社会に良 い影響を与えられるドライバー、 人 間になること。 僕自身、 恵まれた環 境でレースをやってきたわけではあ りません。 自分を信じ、 多くの協力 に支えられたからやってこられたん です。 そんな僕が、 アメリカで人気の レースでチャンピオンを取れれば、 「何でもない人間が、 ここまででき た」 と、 証明できると思うんですね。
 

(2010年11月1日掲載)

飲食・サービス YATAI Asian Tapas Bar・オーナー(サービス・サポート系):園部正和さん

やるからにはトップを目指すという
ハングリーな気持ちを持ってほしい

専門学校を卒業して就職という人生の既定路線 を外れ、海外でのチャレンジを選択した園部正和 さん。やりたいことがレストラン経営だと自覚 し、数々のレストランで修業を積んだ。2006 年に念願の自店を共同でオープン。 08 年に経営 を引き継いで自ら舵を取り、人気レストランへと 成長させた園部さんに話を聞いた。

【プロフィール】そのべ・まさかず◉神奈川県厚木市出身。専門学校を卒業後、21歳でロサンゼルスに渡る。留学 中滞在費を稼ぐために、レストランでウェイターとして働く。その後、酒店で2年間働き貿易会 社に転職。日本支社での勤務を経た後、ロサンゼルスの人気レストランHama Restaurantに入 店。永住権を取得し、上地勝也氏の日本食レストランKatsuyaのエンシノ店でマネージャーとし て采配を振るう。2006年、ウエストハリウッドにYATAI Asian Tapas Barを共同でオープン。08年 に経営を引き継ぎ、ハリウッドセレブ御用達の人気店に成長させた。Web: www.yatai-bar.com

そもそもアメリカで働くには?

レストラン経営の夢を アメリカで実現

昨年、ウエストハリウッドのSunset Blvd.をシェリフの協
力で全面封鎖して、結婚式を決行。一生の思い出に

僕は神奈川県厚木の出身で、専門 学校で建築デザインを勉強しまし た。当時は日本の景気が良かったの で、専門学校しか出ていなくても建 築関係の就職先がたくさんありま した。でも、このままではつまらない と思い、「海外に出て、何かやろう!」 と、留学を決意しました。そして、 1991年ロサンゼルスに渡りまし た。
 
お金は貯めて来たのですが、自 動車を買って、学費を払ったら3カ 月で底を突き、レストランでウェイ ターのバイトを始めました。僕の実 家は小さな居酒屋を経営していて、やっぱり飲食に縁があるのかなと思 いました。英語もろくに話せないし、 オーダーの取り方もわからなかった ので最初は大変でした。しかし、レス トランで働くのが楽しくて、語学学 校にもろくに通わず、2年間働き続 けました。その間に「自分にこれから 一体、何ができるんだろう」と考える と、飲食業だと思うようになり、いつ か自分でレストランを経営したいと 思い始めました。
 
そのレストランのオーナーは、大 変面倒見の良い方で、僕の労働ビザ をサポートしてくれそうな酒店を 紹介してくれました。そこでもまた 2年ほど働きましたが、結局経験の ある管理職でないと労働ビザ取得 は難しいと言われました。当時 24 歳で、アメリカにどうしても残りた かったので、次は酒店のオーナーの 経営する貿易会社の仕事に就きま した。日本支社での勤務もこなして 経験を積んだのですが、それでも移 民法の弁護士から「まだ経験が足り ない」と言われました。
 
そこで、当時ロサンゼルスで大人 気のHama Restaurantが2号店を 出すということで、雇っていただき ました。グリーンカードの申請もサ ポートしていただき、取得するまで の5年間、朝から晩まで週6日、身 を粉にして働きましたね。そして、念 願のグリーンカードが取得できた 後は、日本食のKatsuyaのエンシノ店 で、マネージャーを務めました。初め は経営が厳しかったのですが、2年 目にはスタジオシティーの本店と同 じ売り上げにまで、到達することが できました。
 
そして、2006年の夏、パート ナーたちと共に、ここウエストハリ ウッドにYATAI Asian Tapas Barを オープンしました。とうとうレスト ラン経営の夢が叶うので、コンセプ ト作りから自分の想いをすべて注 ぎ込みました。当時、「居酒屋」「ワイ ンバー」「タパスバー」が、ロサンゼルスのレストラン業界では流行り出し ていました。僕は人のマネをするの は好きじゃないのですが、トレンド は完全に居酒屋でした。だから、新 しく「Asian Tapas」というコンセプ トの店にしようとしました。今では 多分聞き慣れた「Asian Tapas」です が、当時はそんな店は1軒もありま せんでした。「YATAI」という店名は、 リーズナブルで、気楽に立ち寄れる 場所として名付けました。
 
初めはお客様にコンセプトを説 明しなければならなかったですが、 「ストリート・ベンダー風」のちょっと したアジア料理と一杯飲める店とい うのが次第に周囲に広まっていき、 理解されるようになりました。

ジャスティンとブリトニー 奇跡の遭遇

そうやって意気揚々と経営を始 め、オープンして3カ月は、知り合い や広告のおかげもありお客様が来 ました。ウエストハリウッド、しかも サンセット沿いというトレンディー なロケーションでしたが、その分、店 舗のレントはかなり高かったので、 その後はかなり苦戦しました。しか も、運悪く 08 年にリーマンショック が起こり、パートナーたちも「もう辞 める」って言い出したんです。最終的 に店を売ることになったのですが、 そんな時期に誰もレストランなんて 買いません。だったら僕が買い取っ て1人でやろうと思い、同年の暮れ に会社を作り、すべて僕の名義にし ました。
 
僕は日本のバブル崩壊を経験していたので、こういう苦しい時期に 何をすべきかわかっていました。レ ストランは顧客が減ると値段を上 げて、売り上げを補おうとします が、僕が経営を引き継いだ時は、逆 に値段を全部落としました。損益分 岐点のギリギリまで値段を落とし て、お客様には「安くしましたから 食べに来てください」と宣伝しまし た。そうしたら売り上げがドーンと 上がりました。しかし、値段を落と した分、人の何倍も働かないといけ ません(苦笑)。
 
そんななか、仲良くしている常連 さんが、友達だと言ってジャスティ ン・ティンバーレイクを店に連れて 来てくれました。僕は彼のことを まったく知らなくて、サーバーの女 の子たちが騒いでいたので、有名人 なんだとわかったくらい。また、ブリ トニー・スピアーズのマネージャー もウチの店を気に入ってくれてい て、その縁で 09 年1月にジャスティ ンとブリトニーが、偶然ウチの店で 鉢合わせとなったんです。パパラッ チにたくさん写真を撮られ、2人に は気の毒ですが、絶大な宣伝になり ました。

ここで踏ん張って もうひと越えしたら楽になる

HamaでもKatsuyaでも厳しい 思いをしましたが、今となってはそ こでの経験がすごく活きていると感 じています。Hamaでは、お客さん を楽しませたり、喜ばすというエン ターテインメントの部分、「こういう 風にすれば、お客さんは帰ってくる んだな」ということを勉強 しました。Katsuyaでは、 オーナーの勝也さんから 「儲けるコツは信者を増 やすこと。『儲ける』ってい う字は『信者』って書くだ ろ」って言われて納得しま した。そのレベルまで行け れば、勝也さんみたいにな れるんですね。
 
オーナーになってから は、すべてが違って見えま した。例えば、シェフでも サーバーでも、「○○はできる?」と 聞いて「頑張ります!」と答える人 は、ダメだと思うようになりました。 これでは、後々できなかった時に、「頑 張ったけど、できませんでした」とな るのがオチ。僕も昔言っていたので わかりますけど(苦笑)。
 
マネージャーの時は、オフの日は 頭の中をからっぽにできましたが、 今は常にビジネスのことを考えて います。人との関係が深くなり、人 脈の大切さを知りました。自分で店 を持ったら、どんなに楽になるかと 思ったら、逆にドンドン厳しくなる。 店を開けてから4年間で、連休なん てほとんどありません。何度も辞め ようと思ったことはありますが、「こ こで踏ん張って、もうひと越えした ら楽になる」といつも奮い立たせて います。そこまで苦労をして、今でも 経営を続けるのは、たくさんの従業 員を抱えている責任感もあります。
 
これからの目標は、新しい店をプ ロデュースすること。現在、僕の夢に 共感してもらえる投資家を探して います。ハイエンドのレストランでは なく、気軽に遊びに来て、楽しめる 店にしたいですね。シルバーレイク やダウンタウンに2、3軒開いた後 に、ニューヨークかな。そして、最終 的には日本にも店舗を出したい。
 
レストランの経営ですが、トレン ドに敏感なアメリカ人が、どういう 所で遊んで、どういう物が好きか知 らないまま、開業してもダメだと思 います。僕はアメリカで十数年レス トラン業界に身を置いてきましたか ら、日本でヒットした経営やコンセ プトが、必ずしもアメリカ人にウケ るとは限らないことが良くわかって います。
 
せっかくアメリカで経営するのだ から、ちょっと変わったコンセプトと か、ロケーションで試してみた方が いいと思いますし、アメリカ人が好 きな雰囲気にしないと、受け入れら れないと思います。これからレスト ランビジネスに挑戦したいという人 には、やるからにはトップを目指す というハングリーな気持ちを持って ほしいですね。
 

(2010年10月1日号掲載)

サービス/製造 美容師専門ハサミ研ぎ師(サービス・サポート系):カズ・セトさん

自分の仕事に嘘をつかない
職人としての矜持を持ってやっています

寿司職人として修業に励む最中、肺気胸を患って、その道を断念。しかし、寿司屋で包丁を研ぐ器用 さを活かし、美容師用のハサミの研ぎ師に転身 したセトさん。切れ味はカミソリ以上、 100分 の 1 ミリ単位での調整という職人技で、美容師から の信頼を得てきた。想像以上に奥が深いと言うハ サミ研ぎの世界について聞いた。

【プロフィール】せと・かず◉兵庫県尼崎市出身。高校卒業後、専門学校に進学。1988年に大学進学のために渡 米。92年に飛行機の操縦ライセンスを取得。ロサンゼルスの寿司屋に就職して、技術を磨き、グ リーンカードを取得。しかし、その後、肺気胸を患い、寿司職人の道を断念する。2004年に、シア トル在住の研ぎ師を紹介され、研修に参加。以来、南カリフォルニア全域で美容師のシザーのメ ンテナンスを手掛ける。ウェブサイト(www.SSS-KS.com)にて、シザーの構造や研ぎの世界を啓 蒙中。Eメール:kseto@sss-ks.com

そもそもアメリカで働くには?

寿司職人から心機一転 美容師のハサミ研ぎに

寿司屋勤務の際に作ったミニチュア寿司。
手先の器用さ が、ハサミ研ぎにも活きている

1988年の夏にロサンゼルスに来ました。1度は、日本を離れてみ たかったのが理由です。ただ、何をす るか具体的な考えはなく、漠然と何 でも経験してみたいと思っていまし た。
 
学校を出てからは、グリーンカー ド取得の可能性を考え、学生時代 にアルバイトをさせてもらっていた お寿司屋さんに雇ってもらおうと 思いました。私の「一生懸命頑張りま す!」という熱意を買っていただき、 「それならウチで修業するよりも、 もっと良い店を紹介してあげよう」 と、本格的な老舗のお店に口をきいてくださいました。
 
その後、紹介元のお店に戻り、楽 しんで仕事をさせていただいていま したが、肺の気泡が破れ、肺の外に 空気が漏れてしまう「肺気胸」とい う病気になってしまいました。1度 手術を受けて回復したのですが再 発し、左肺の3割の機能を失ってし まいました。行列のできるお寿司屋 さんですから、朝から晩まで立ち仕 事です。やりがいを感じていました が、年々体力に衰えを感じ始め、お 店を去る決断をせざるを得ません でした。
 
そんな時、美容シザー(注:美容の ハサミは、〝シザー〞と呼ばれる)を専 門に研ぐために開発された機械を 日本から持ち込み、シアトルで美容 師を対象にハサミ研ぎビジネスをフ ランチャイズでやっている方の友人 から、研ぎの仕事をやってみないか と誘われました。私が寿司屋で自分 の包丁を研いでいたのを知っていた ので、このビジネスが私に最適では ないかと、色々気にかけてくれたん です。とりあえず話だけでも聞いて みようと、シアトルまで出掛けまし た。2004年のことです。
 
実際に美容サロン業界でのメンテ ナンスの現状と、ハサミ研ぎのビジ ネスの可能性について聞いてみて、 面白いかもと思いました。
 

切れ味の鈍いハサミは 枝毛の原因

講習は受けたものの、ロサンゼル スに戻って実際にヘアサロンに出向 いてみると、色んな形状のシザーが あります。当然、「シザーの基本以外 の研ぎ方は、教えてもらってない!」 となります(笑)。だから、日本で活 躍している研ぎ師さんやシザーメー カーのホームページで、自分の研ぎ 方と何が違うか、熱心に勉強しまし た。実際に仕事を始めてから1年ほ どが大変でした。
 
シザーはどれも一見真っ直ぐに見えますが、お互いがしなり合い、プロ ペラのようにねじれているんです。 また、刃は、お互い押し合いながら 閉じます。それを「接触圧」と言いま すが、何も切らなくても開閉時に接 触圧が生まれるので、接触する部分 (注:シザー独特な刃の内側の構造 で、「糸刃」または「裏刃」と呼ばれる) が削れるんです。糸刃の端が丸く削 れてしまうのと、先端部分の劣化が、 切れなくなる原因です。この2方面 から発生する劣化を修正するのが、 研ぎ師である私の仕事の1つです。
 
髪の毛の太さは0・ 08 ミリと言わ れていて、その断面をキレイに切る には、それよりも細い単位で刃を付 けないと、その断面を傷めずに切る ことは不可能です。
 
研ぐ者がいい仕事をしないと、刃 の表 おもて 面と糸刃の表面が均一に整えら れることはありません。また、落下 等の衝撃で、刃の一番薄く、尖ってい る最も大切な部分に、傷やくぼみが できるばかりでなく、フレーム自体 のしなり具合が深くなって接触圧が 増し、もう一方の糸刃を彫り始める といった、全体的なバランスをも失っ ている場合があります。髪は自ら再 生できないので、噛み合わせの悪い メンテナンス不良のシザーで切る と、切断面が無理やり寸断された状 態になり、枝毛の原因になってしま います。
 
クライアントの美容師さんから は、研ぎに関して色々なリクエストが出されます。最初は研ぎの基本 しか知らなかったので、彼らの要求 がどういう感覚のことか、わかりま せんでした。そこで、実際に自分で も髪を切ってみようと思い、エクス テンション用の人毛を購入し、切れ 味を確かめ始めました。また、自分 では同じように研いでいるつもりな のに、微妙に出てくる感覚の違いを 知るべく、10 倍のルーペを買って、シ ザーの刃面をチェックするようにし ました。そうすると、鉄の表面で反 射する光が、わずかに屈折している 程度の微妙な違いが、わかるように なりました。
 

研ぎ上げたハサミの刃は カミソリよりも良く切れる

最初の3年は、新規の顧客を開拓 するために、サロンを飛び込みで訪 問していました。美容師の方に鏡越 しに話しかけても、聞いてはもらえ ません。ですからブローシャーを作 り、名刺とセットで置いていくよう にしました。ウェブサイトも素人丸 出しですが、作ってみました。
 
シザーの切れ味は体感的なもの ですから、口で説明してもご理解い ただけない部分があります。そこで、 1年ほど前から簡易式の顕微鏡を 使ってシザーの状態を撮影し、美容 師の方に見ていただき、より具体的 に説明するようにしました。おかげ さまで、今では北はサンタバーバラ、 南はサンディエゴの美容師さんたち にまで、お客様になっていただける ようになりました。他州からもウェ ブサイトを見たと言って、シザーを 送っていただくこともあります。日 本人スタイリストがいるサロンは、 全体のわずか0・5%くらいで、多種 多様な人種の地元サロンが圧倒的 に多いです。
 
同じ美容師でも知識、技術レベル が異なるので、個人個人への説明と アフターケアが重要だと痛感してい ます。シザーは使い手によってクセ が出てきて、1本1本違う物になっ てきます。それに配慮し、その人に 合った状態でお渡しすることが肝 心です。ですから、美容師の方との コミュニケーションが非常に大切に なってきます。サロンを訪問して、そ の場でメンテナンスをすることは、 郵送されてくるよりも、時間的に早 く仕上がるというだけでなく、使い 手との対話が直接できるということ で、重要な意味合いがあるんですね。
 
私の研いだシザーは、カットした 時のフィーリングと切れ味の保ち が違うと、お客様から言われます。 髪を切る時、スーッと気持ち良く切 れる。バターを切る時のような感触 に似ていることから業界用語で「バ ターカット」と言うんですね。また、 研ぎ上げた刃を手の甲に滑らすと、 産毛が剃れます。カミソリよりも良 く切れます。
 
「あなたに研いでもらって、新品の 時より良く切れるようになった」と 言っていただいたりすると、本当に やってきて良かったなと思います。 そんなお褒めの言葉に支えられて、 これまで仕事をしてきました。
 
どの職業にもおそらく言えるこ とでしょうが、私が職人として大切 にしていることは、当たり前の事を 当たり前に、完璧にやる。それだけ です。たとえお客様にはわからない 違いだとしても、自分の仕事に嘘を つかない、職人としての矜持を持っ てやっています。
 
1本にかける時間や手間を短縮 すれば、利益が上がります。時間を かけて完璧に仕上げていると、生産 性は下がりますが、お客様に満足し ていただくのは、かけがえのないこ とですから。誠実な仕事の延長線上 に売上があると思います。
 
この仕事が、こんなに奥が深いと は思っていませんでした。面白そう だと思って始めましたが、やればや るほど勉強することもたくさん出て きて。目下の課題は、コンピューター の3Dソフトを使いこなすこと。そ して、もっとビジュアル的にシザーの 構造、動作、さまざまな要因をプロ のお客様に紹介したいです。1人で も多くの美容師さんに、どうして切 れなくなるのか、また、髪はどういう 風にシザーで切られているのかを、 イメージで伝えていきたいですね。
 

 
(2010年7月1日号掲載)

リムジンドライバー(サービス・サポート系):戸倉 正文さん

車を清掃しながらお客様を待つ、
その姿がお客様の安心につながるのです

今回は、旅行会社勤務を経て、現在、リムジン会社マックウェーブを経営する傍ら、自らハンドルも握る戸倉正文さんをご紹介。アメリカでも日本式のきめ細やかなサービスを提供し、幅広い固定客を持つ。

【プロフィール】とくら・まさふみ■京都府出身。パサデナのカレッジでグラフィックデザインを専攻後、デザイン専門大学に入学、中退。旅行会社で商品企画、オペレーション・マネージャーなどを経験。1998年M.A.K. WAVE, Inc.を設立、2002年リムジンサービスを開始。リムジンカーの保有台数は日系最大級

そもそもアメリカで働くには?

昔に得た旅行のいろはが今の仕事に活きる

戸倉さんも自慢のドライバーとリムジンと共に

ロサンゼルスに来たのは30年前。何も目的を持たずに来たから、「このままではマズイ」と、カレッジに行くことにしました。メジャーはグラフィックデザインで、卒業後はパサデナのデザイン学校に。何とか入れたはいいものの、他の学生のレベルは次元が違う。授業料も続かないのであっさり辞めてしまいました。
 

 

そうしたら、旅行会社がアルバイトとして雇ってくれたんです。余裕のある会社でしたから、教育面にとても力を入れていて、1カ月かけて“旅行のいろは”を教えてもらいました。現在、私がリムジン会社をやっていて、当時のノウハウが役立っているので感謝しています。
 
 その旅行会社を辞めると、日本で熟年層をターゲットとしている旅行会社に移って、熟年層向けの安くて盛りだくさんの内容のツアーを立ち上げました。そこの所長は努力家で親分肌、旅行業界ではとても知られた方で、私にとっては“アメリカのお父さん”的存在でした。その方の下で働いた8年間で自分自身が開花しました。
 
 でも、人間って絶頂期にいると、運を実力と錯覚してしまうんです。自分も何もかもうまく行き過ぎて天狗になっていたと思います。それに気付いた時、「これじゃダメだ」と辞めました。それで違う分野にチャレンジしてみたいと、ホテルでセールスを始めました。それまで旅行会社でエージェントとして発注側にいたのが、今度は逆の立場。切り替えが大変でしたが、エージェントは概してベンダーの気持ちがわからないし、ベンダーはエージェントの気持ちがなかなかわからない。やはり今、私がリムジン会社をやっていけているのは、そのどちらも経験したからです。
 
 その後、別の大手旅行会社で、オペレーション・マネージャーも務めたのですが、身体を壊して、退職を余儀なくされました。無職の状態で2、3カ月が過ぎた時、旅行業界の知り合いを訪ねたら、ツアーガイドを頼まれました。引き受けたんですが、社員になるのは抵抗があったので、当初はフリーランスで。
 
 その後、知り合いの会社が急成長すると、「もっと人を雇って、うちの仕事を受けてほしい」という話になって。それで私も送迎用の車を買い、人を雇ったら、会社組織として対応することになりました。それが1998年にマックウェーブを起業した一歩でした。
 

旅行業界を一気に再編した9・1テロの激震

起業後は順調に成長しました。しかし、9・11テロで一気に旅行業界全体が冷え込んでしまいました。日本からのツアーが減り、お客様も激減しました。当時のスタッフには本当に申し訳なかったのですが、1人だけ残して全員レイオフしました。ダウンタウンに駐車していた車も、自宅の裏に全部停めて。ご近所には同情されましたね。
 
 ですが、この時期に旅行業界は再編されました。当時あった大きなベンダーさんが淘汰され、業界に見切りをつけて、去った人も多かったですね。でも私は踏ん張って、この仕事にこだわりました。
 
 ある日、たまたまサンディエゴでゴルフショップを経営している友人の所へ遊びに行ったら、「サンディエゴの人は、ロサンゼルス空港に行くのも大変だ。お前のところの車を出せ」と言われました。それがリムジンサービスを始めたきっかけです。
 
 でもリムジンといえばリンカーン・コンチネンタルの黒塗り。私が持っていたのは観光サービスで使用していた白のバン。全部車を買い替えなくてはいけないと焦りました。1台のリンカーン・タウンカーを買うのにも相当悩みました。
 
 スタッフはレイオフしてしまって誰もいませんから、最初は全部自分で走らせていました。長年旅行業界にいたおかげでカスタマーケアは得意でしたので、そのうち固定のお客様が付き、ビジネスとして軌道に乗ってきました。この仕事は、お客様にいかに気に入っていただけるかが成功のキー。常連の方でも、サービスに不満を感じたら離れてしまいます。お客様をよく観察して、カスタマーサービスを常に向上させる努力が重要です。
 

普段会えない人と接し幅広い視野を得られる

リムジンドライバーに第一に求められるものは安全運転。重要なお客様の命を預かる仕事だけに、ドライバーとしての資質を問われます。運転が好きだからと希望する人が多いですが、それだけでは務まりません。仕事として責任を持って運転するとなると、普段の運転とは異なり、緊張も高まり、細心の注意が必要になるからです。
 
 あとは、「時間に正確」であること。しかし、アメリカは、サービスに対しての根本的な考え方が日本と違っていて、9時と言ったら9時にしか来ません。そうなると渋滞で遅れたりするわけです。私は遠隔地ですと、1時間前にお迎えに上がるようにしています。そして車を清掃しながらお客様を待つ、その姿がお客様の安心につながるのです。
 
 そしてお客様に対して「最善を尽くします」というホスピタリティー。快適に過ごしていただけるように、車内に水のボトルやキャンディー、おしぼりなどのアメニティーや、日本人には日本語の雑誌を置いたりしています。
 
 リムジンドライバーという仕事は、普段お会いすることがないような業界や会社の方々とも接する機会が生まれ、より幅広い視野や知識を得ることができます。接客を通して一般の人が得られない人脈が築け、感動が生まれ、人生の飛躍のステップになることもあります。しかし、現在、業界全体で高齢化が進んでいます。ですから若い人たちに、この仕事には情熱を注いで、一生懸命になる価値があるということを感じてもらいたいですね。今が1番良いチャンスだと思いますよ。
 

(2008年11月1日号掲載)

ウエイター/ソムリエ(サービス・サポート系):佐藤 恵一さん

ワインは美味しく楽しんでもらえれば正解
ソムリエはその手助けをするだけです

1千種類ものワインリストを誇るアナハイムの高級レストラン「ナパ・ローズ」で、ウエイターのキャプテン、ソムリエとして活躍する佐藤恵一さんを紹介。国際的なソムリエ認定の第3レベルまで取得している。

【プロフィール】さとう・けいいち■1967年岩手県生まれ。東京調理ビジネス専門学校卒業後、87年に渡米し、ハンティントンビーチの日本食レストランで働く。95年、アナハイムのパン・パシフィックホテルに就職、2000年10月より「ナパ・ローズ」に勤務。The Court of Master Sommeliersのアドバンスド認定

そもそもアメリカで働くには?

飲食業の基本はお客様を喜ばせること

「今の私があるのはみんなの助けがあってこそ」。
The Court of Master Sommeliersの前プレジデント、
フレッド・デイム氏(中央)と

小学校から高校までずっとバスケットボールを続けており、大学もバスケで入ろうと思っていたのですがうまく行かず、専門学校に進むことにしました。岩手の実家では納豆とパンの製造・販売をやっており、父の代には喫茶店と小売店をやっていましたので、元々商売に興味があったのです。自分もいつかビジネスを始めたいと思い、東京食糧学院の経営する東京調理ビジネス専門学校に入学しました。日本料理やフランス料理などひと通りの調理を覚え、外食文化やビバレッジについても学びました。
 
卒業後、日本では得られないものを得たいと思い、アメリカに行くことに。専門学校の先生から教え子の勤めるハンティントンビーチの日本食料理店での仕事を紹介してもらったのです。
 
ご飯炊きに始まり、天ぷらや寿司などを調理させてもらうようになりましたが、厨房ではスペイン語と日本語しか使いません。せっかくアメリカに来たのだから、英語を上達させたいと思い、お客さんの前に立つ鉄板シェフを希望しました。その後、ウエイターやバーテンダー、フロアマネージャーまで担当し、7年間同店に勤めました。
 
そこでは、いかにしてお客様を喜ばせるか、常連客のありがたさなどを学びました。ですが、もっと外の世界が知りたいと思い、店を辞めることにしました。その後、ベニハナでウエイターをしたり、知り合いの居酒屋を手伝ったり、ハリウッドのイタリアンレストランの厨房で働いたりと、しばらくは社会勉強で、色々なお店で働きました。

いつかは自分の時代が来る 陰の努力を重ねる日々

ある時、アメリカ人の同僚から「アメリカのレストラン産業をもっと知りたいなら、ホテルで働いてみては」と言われ、アナハイムのパン・パシフィックホテルのメインダイニングのウエイターに応募。日本人としては私が唯一採用されました。ところが入社した途端、ホテルがディズニーランドに買収されることに。採用間もない私は、そのままディズニーの社員として残ることになりました。そこで5年近く朝のシフトで働きました。
 
すると今度は、ディズニーが新しいホテル、ディズニーズ・グランドカリフォルニア・ホテル&スパを開けるという話が。私は上司から、ホテル内のナパ・ローズというレストランへの異動を推薦されたのです。
 
当時私はトレーナーもしていましたし、その働きぶりを買われたのでしょう。日本人は基本的に真面目。それに私は商売をやっていた父親譲りで、雇われている身でも自分のレストランだと思って働いています。実際、病欠したことはありませんでしたし、人の見ていないところでもしっかりやっていました。そういった心がけが認められたのだと思います。それに、そこではソムリエの資格も取らせてくれるというのです。専門学校時代からビバレッジには興味があったので、移ることにしました。

ソムリエは才能がなければその分努力するのみ

ファインダイニングで勤務するのは初めてでしたので、ディナーのシフトは経験者が優遇され、私の担当はずっとランチとブランチ。また日本人客も多くなく、日本語が強みにはなりません。一生懸命やっていても報われず、悔しい思いばかりでした。ただ、そこでソムリエの勉強をして、キャリアのある人たちよりも高い成績が取れたことが励みとなりました。私の場合、英語の筆記には苦戦しましたが、テイスティングが得意だったのです。
 
やがて働きぶりも認められて、ランチのキャプテンに抜擢され、ディナーのシフトに変わりました。現在はウエイターのキャプテンとして、フロア全体を見ています。
 
ソムリエの資格を取得するには、「The Court of Master Sommeliers」の認定試験を受けます。4段階あり、最終のマスターまで行くとディプロマ(修了証)がもらえます。私はその1つ前のアドバンスドまで取りました。
 
試験では実技とテイスティング、筆記があり、どれも同時に合格しなければなりません。実技ではデキャンティングやフードとワインのペアリング、葉巻のカッティングの仕方まで試されます。筆記はワインの知識を問うもので、各国のワイン法、産地、名称や製法のほか、ドイツ語やフランス語のワインリストから間違いを探す問いなどもあります。テイスティングも世界のワインから、色、香り、味でどこのものか判断できなければなりません。
 
ナパ・ローズはワインを売りにしていますので、マスターを持っているマネージャーが、店のワインリスト作りやワインの買い付けを任されています。アドバンスドも私を含め4人もいます。ワインリストは350、実際は1千種類以上あります。また、グラスワインだけでも60種類あり、我々はその味をすべて把握していなければなりません。
 
とはいえ、ワインは楽しむものです。実際に店で給仕をする時にワインの知識を語る必要はありません。相談を受けた時に選ぶ手助けをするというのが基本姿勢です。「ワインを飲んだことがない」「赤ワインは渋くて敬遠しているが…」といったお客様が、「美味しい」「ワインの世界が広がった」と言っていただける時が1番うれしいですね。
 
いつかはマスターを取りたいと思っています。1つの頂点を極めるのは大切なことですから。でも、目標は自分の店を持つことですね。あまり敷居は高くないが、置いてあるワインがちょっと違う、ビールはとても冷えているといった、サービスの行き届いた店を開きたい。
 
飲食業を目指す人は、どうやって人に喜ばれるか、思いやりを持つことが大事ですね。「欲しい」と言われる前に持って行く。黙って動ければ1番です。また、ソムリエを目指す人には、「努力するのみ」とアドバイスします。近道はありません。才能がないと思ったら、私のようにそれを補うよう努力すればいいんです。
 
(2008年8月1日号掲載)

ファイナンシャルアドバイザー(サービス・サポート系):福士 俊輔さん

情報ひとつで、
子供たちの人生を変えてあげられる

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はファイナンシャルアドバイザーの福士俊輔さんを紹介。日本人にはなじみの薄い米大学のファイナンシャルエイドを最大限に活用するための方策を指南している。

【プロフィール】ふくし・しゅんすけ■ワシントン州ベレビュー生まれ。8歳の時に日本に帰国。一橋大学卒業後、アクセンチュア入社。同社退職後、渡米。ニューヨークのファイナンシャルプランニング事務所に勤務、Midtown Planning社を立ち上げる。ホームページ:www.midtownplanning.com

そもそもアメリカで働くには?

コンサル業界での経験が役に立つ

リーダーを務めたニューヨークでの
起業家ミーティングで

 父親がワシントン州ベレビューに駐在していて、私はそこで生まれました。8歳の時に父親の帰任と共に日本へ行き、大学を出てアクセンチュアという会計事務所系のコンサル会社に就職するまで、ずっと日本で過ごしました。
 
 2000年に同社に入社した時の新人研修がシカゴ郊外の研修施設で行われ、その帰路にニューヨーク市に立ち寄りました。マンハッタンの街並みを見て、「はぁ、スゴイなぁ。よし、数年後はここで働くことにしよう」と、いっぺんに好きになってしまいました。
 
 最初は、駐在員としてニューヨークに派遣されることを夢見て働いていたのですが、なかなかその機会はありませんでした。それじゃあと、ニューヨークの金融関係の事務所に片っ端から電話をかけました。
 
 すると、今でも顧問としてビジネスのつながりが続いているマーク・ゲシュウィンドというユダヤ系ファイナンシャルプランナーが、私をインタビューしてくれました。「頑張るから、雇ってくれませんか」と訴え、幸いにもインターンとして採用が決まり、会社を退職してニューヨークに渡りました。
 
 マークの顧客を相手に、初めてファイナンシャルプランニングの業務を経験しました。アクセンチュアで身に付けた、現状を分析し、あるべき姿を決めて、ギャップを見きわめ、解決策を提案する、というプロセスは、ファイナンシャルプランニングでも応用できると考えていました。
 
 ファイナンシャルプランニング業界は、保険会社に属し、保険を売るために色々提案してきたという人が多かったんです。ですから全体的な視点からプランニングをして、解決策を提案するというアプローチは、ありそうでなかった。
 
 マークのお客さんに全体的な資産のポートフォリオを示すチャートやグラフ、表をエクセルやパワーポイントで手作りしてあげたら、「こんなことをしてくれるファイナンシャルアドバイザーには会ったことがない」と、大変喜ばれました。コンサル業界では当たり前だったことが、ファイナンシャルプランニング業界では新鮮に受け取られ、「これは面白いなぁ」と思いました。

ファイナンシャルエイドで助かる人がたくさんいる

 働き始めて半年で、自分で営業したいと考えて独立することにしました。その時、アメリカ人の家庭に対して最もインパクトを与えているものの1つが、大学の学費だと気付きました。それに対して従来のファイナンシャルアドバイザーのアプローチとしては、「貯蓄をしましょう」というものです。子供の名義で貯蓄すれば、子供の税率しかかからないので節税になるというのが、基本的な提案のアプローチでした。
 
 ところが貯蓄をすれば、逆に学費負担が増えるという矛盾があることがわかりました。そういった現象の背後にあるのが、アメリカの大学特有のファイナンシャルエイドというシステムなんですね。ファイナンシャルエイドというシステムは、全米で適用されている仕組みや計算式があって、これを知ると、ある家庭の子供が、ある大学に行くとファイナンシャルエイドがいくらもらえるか、どうすればよりファイナンシャルエイドをもらえる可能性を高めることができるかが、わかるようになるんです。
 
 このファイナンシャルエイドの仕組みを勉強したら、助かる人がたくさんいるんじゃないかと、アメリカ人でカウンセリングやセミナーを行っている人たちから色々ノウハウを提供してもらいました。そして、彼らと協力して、最初はアメリカ人の家庭を対象にセミナーを行っていましたが、数カ月後に「日本人を相手にやっている人はいないんじゃないか」ということに、はたと気付いたんです。
 
 早速ニューヨークで日本人対象に始めたところ、「こんなことを教えてくれる人はいなかった!」「もっと早く知っておけば良かった」と、反響がいっぱいありました。もっと日本人がいるカリフォルニアでセミナーをすれば、さらに反響があると考え、06年からカリフォルニア州でも開催しました。やはり多くの日本人が集まり、ニューヨーク以上に情報に対する欲求の度合いが強いということを実感しました。
 
 しばらくはニューヨークとカリフォルニアを行き来していたのですが、ロサンゼルスのお客様が増えてきたこともあり、昨年11月にトーランスに本拠地を移しました。

子供たちに学ぶ希望を与えられる

 私が実際に提供しているサービスは、ファイナンシャルエイドの申請フォームの記入代行で、ファイナンシャルエイドが最大限もらえるようにコンサルティングします。申請フォームの記入には、もちろんライセンスは要りませんが、ミューチュアルファンドなどの金融商品の販売をするのには、シリーズ6、63といったライセンス、生命・健康保険の販売には、Life & Healthというライセンスが必要です。また、シリーズ65というライセンスを持っていないと、個人へのコンサルティング・サービスに対して課金することができません。
 
 私のアドバイスで、今まで費用の面で諦めていた私大進学の道が開けたりすれば、子供の可能性が一気に変わります。子供たちに学ぶ希望を与えられるのが1番のやりがいですね。ファイナンシャルエイドの情報ひとつで、子供たちの人生を変えてあげられるんです。ミューチュアルファンドなどと比較して、得られる金額も大きいですから、感謝される度合いも大きいですしね。
 
 業務が拡大するにつれ、顧客1人1人のケアが疎かにならないように、今、顧客データベースを開発していて、きめ細かいケア、フォローができるようにしています。意識していませんが、コンサル会社での経験が役に立っているのかもしれませんね。
 
 これからも、全米の日本人の皆さんに、ファイナンシャルエイドに関する情報を広めていって、家計の改善を全体的にサポートしていけたらと思います。

フライトアテンダント(サービス・サポート系):モートン えみこさん

私自身が受けてうれしいと感じる
サービスを提供し
誠実な態度で取り組んでいきたい

 アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はフライトアテンダントのモートンえみこさんを紹介。ロサンゼルス=成田間を中心に、ヨーロッパから南米まで、世界中を飛び回る多忙なスケジュールをこなしている。

【プロフィール】モートン・えみこ■大阪府生まれ。東京にある短大の英文科を卒業後、英会話教師となる。テネシー大学卒業後、語学学校ベルリッツでの日本語教師を経て、1988年、アメリカン航空に入社。国際線のフライトアテンダントとして世界中を飛び回る毎日。日本語、英語、ドイツ語のトライリンガル。

そもそもアメリカで働くには?

日独語が活かせると
求人広告を見て応募

ボーイング777(Flagship Suite)のお披露目
のために訪れたブエノスアイレスにて

 東京の短大で英文学を専攻し、卒業後、本格的に英会話を学んだ後、「Experiment in International Living」という団体が主催する2カ月間のキャンパスステイ・プログラムに参加し、アメリカでの生活を体験しました。帰国後、しばらく英会話講師として働きましたが、アメリカで生きた英語を学びたいという思いから、テネシー大学へ留学しました。しかし、英米文学専攻では、どんなに頑張ってもネイティブの学生を超えることは大変難しいと実感し、思い切って専攻をドイツ文学に変更しました。
 
 その後、結婚・出産を経て、数年後にHonorsをいただいての大学卒業となりました。それは後々、目標を達成した充実感として私自身の心の支えとなり、アメリカン航空に入社する際にも、大変大きな助けとなったと確信しています。
 
 ベルリッツという語学学校で、日本語のインストラクターとしてアメリカ人に日本語を教えたのが、アメリカでの最初の仕事でした。やりがいもあり、好きな仕事だったのですが、ある時「私は大学であんなに頑張ってドイツ語を勉強したのに、それをまったく活かしていない」ということに気がついたのです。
 
 そんな思いを抱いていた時に、ある求人広告が私の目に飛び込んできました。それは、外国語を話せるフライトアテンダントの募集広告でした。私は当時アリゾナに住んでいたのですが、「日本語とドイツ語が活かせる職業に就けるかもしれない!」と、迷わず応募しました。

明日は世界の
どこにいるのかわからない

成田でステイしたホテルにて。クルーのため
にお茶会が催された

 書類審査後、アメリカン航空本社のあるダラスへ面接を受けに行きました。そこではまずグループ面接があり、それに合格すると個人面接が行われ、フライトアテンダントとしての資質を問われる質問などがなされました。
 
 個人面接、身体検査をクリアし、合格通知が届くとすぐに約6週間のトレーニングに入りました。連日カリキュラムがびっしりと組まれていて、頻繁に行われたテストも90点が合格ライン。厳しい規律の中での緊張感は、精神的にもかなりキツイものでした。クラスではガムをかむことが禁じられていたのですが、うっかりかんでいた訓練生がいて、教官からポンと肩を叩かれたかと思うと、「今すぐ荷物をまとめてここを去るように」と、その場で訓練から外されるなど、6週間後には何人もの訓練生が脱落していました。
 
 厳しい訓練が終わり、1988年に正式にアメリカン航空に入社となりましたが、入社後3年間は、1カ月おきに「リザーブ」という勤務シフトで、お休みの日だけは知らされるものの、それ以外はいつ、どこに飛ぶことになるのか見当もつきません。自分が明日は世界のどこにいるのかわからないという状態です。
 
 私の最初のベースはダラスでしたが、まもなくシカゴでドイツ語を話せるフライトアテンダントを必要としていると知り、シカゴに移りました。当時は、住まいのあるカリフォルニアからフライトの都度、4時間かけてシカゴに飛び、そこから乗務したものです。現在は、ロサンゼルスがベースで、基本的には月に4回、成田への往復便を担当しています。
 

緊張感が漂った
テロ事件直後のフライト

 今まで色々な出来事がありましたが、やはり同時多発テロ事件は大変辛い出来事でした。あの日、私はシカゴから東京に飛ぶ予定で、シカゴのホテルに滞在していました。朝、テレビでテロが起きたことを知り、ただただ呆然とするだけ。会社からは、ホテルにそのまま待機という指示が出され、部屋のテレビに釘付けになり、何も手に付かない状態でした。
 
 それから2日目の夜に、フランクフルト行きの乗務の打診があったのですが、乗務を拒否する同僚や、出勤する手段のない同僚が続出し、私自身も正直なところ非常に迷いました。でも、フライトアテンダントとして私に課せられた任務は何であるのかと自問した時、引き受ける決心がつきました。それは同時多発テロ直後にアメリカン航空がシカゴから飛ばした、最初の便でした。
 
 主人には「自分に何かあった時は、娘をお願いします」と電話し、空港に到着すると、その便に搭乗するお客様たちから大きな拍手で迎えられたことを覚えています。
 
 さすがに乗客の間にも、乗員の間にも、今までに感じたことのない張りつめた緊張感が漂っていた、私にとって決して忘れることのできないフライトでした。
 うれしいこともたくさん経験しました。例えば、お客様が会社宛に、私に関する好意的なご意見やお礼の手紙を書いてくださった時などです。そういった手紙は、スーパーバイザーからコピーが個人に渡されます。お客様が私の仕事やサービスに満足してくださったということは、やはりうれしいものです。
 
 また、数年前まで「PFA(Professional Flight Attendant)Award」という社内表彰があり、これを6回受賞すると「Hall of Fame」というタイトルがいただけるのですが、数年前、まだ勤務年数が15年にも満たない私もこのタイトルをいただくことができ、大変感激しました。
 
 フライトアテンダントという仕事は、人が相手の仕事ですから、忍耐力、柔軟性が必要です。私自身が受けてうれしいと感じるようなサービスをお客様に提供し、何事にも誠実な態度で取り組んでいきたいですね。
 私は、この会社に深い愛情を持っており、仕事に誇りを持って勤務しています。会社のモットーでもある「次回もアメリカン航空を選んでいただけるようなサービスの徹底」を胸に、今後も最高のサービスをお客様に提供していきたいと思っています。
 
(2007年9月1日号掲載)

ピアノ調律師(サービス・サポート系):中島泰浩さん

耳が慣れると、ズレにどんどん気づく
パーフェクトってないんですよ

自動車の整備士から貿易の仕事を経て、ピアノの調律という異分野に飛び込んだ中島泰浩さん。師匠の厳しい指導を受けながら、ノウハウをゼロから学んで独立し、活躍している。

【プロフィール】なかしま・やすひろ■熊本県出身。東海大学に在学中、オートバイによる世界1周に憧れ、本田技研で働き、資金を貯める。1987年に渡米後、デイトナビーチのアメリカン・モーターサイクル・インスティチュートに留学。カリフォルニアに移住後、自動車修理会社、貿易会社に勤務後、ピアノ修理・調律工房で調律の技術を学ぶ。2004年、調律師として独立。

そもそもアメリカで働くには?

目の前にあったから
とりあえずやってみた

バイクで世界1周に憧れ、各地をツーリング

 日本で大学に進学したんですが、ちょっと難しくて勉強に付いて行けませんでした。この先、どうしたらいいかなと考えていた時に、本屋さんでオートバイで世界1周する本を読み、それでアメリカに行ってみようと思ったのが、渡米のきっかけです。留学資金を貯めるために、すぐにホンダでの就職を決めました。当初の予定通り、がむしゃらに5年間働いてお金を貯め、1987年にアメリカに来ました。
 
 まず、フロリダのオートバイの整備学校に5カ月間通いました。それでお金をほとんど使い果たしてしまい、永住権を取ろうと思い、カリフォルニアに移って来ました。バイク屋さんで仕事を探したんですけど、永住権がないので、なかなかどこにも雇ってもらえません。それで最初はレストランで働いて、そこにいたウェイトレスに紹介してもらって、車の修理屋さんで働き始めました。そして、そこで永住権を取らせていただきました。
 
 その後、貿易会社の仕事に就いたのですが、それは本当に生活のためだけでした、特に何がしたいというわけではなく。ついつい長居しまして、10年くらい経ってしまい、自分ももう40。あっという間でしたね。今思うと、結構もったいないことをしたと思います。
 
 バブルが弾けて、貿易の仕事もそのまま続けられないような、居づらい状況になりました。それで、そこを辞めたものの、半年間、何をしていいのか、まったくわからなかったですね。で、たまたまピアノのリビルトショップを見に行く機会がありまして、そこで調律師の仕事振りを見て、やってみようかなと思ったのが、この仕事を始めたきっかけですね。
 
 だから音楽のバックグラウンドは、まったくなかったです。ピアノの中身がどういう構造になっているかなんて、全然知らなかったし。ただ、仕事場が地下室で、変わっていたので。何となく『フラッシュ・ダンス』のようで、ちょっと興味を引かれたんですね。特にこれがしたいというものがなかったので、とりあえず目の前にあるからやってみようって(笑)。ただ、実際働いてみると、地下室に1日中閉じ込められてるみたいで、結構辛かった。
 
 その工房は、弟子入り制と聞いたので、師匠に履歴書を持って会いに行きました。かなりキツいアメリカ人でしたけど、言葉のわからない私に、よく教えてくれたなと思います。口は悪かったけど、誰でも拒まず使ってくれる人でした。でも、「わからなかったら聞けよ」と言うのに、聞くと怒るような人(笑)。日本の職人さんのような感じですね。

作業は楽になるが
調律は難しくなる

部屋にある練習用のピアノで、いつも訓練する

 実際に調律を始めたのは、弟子入りしてしばらく経ってから。最初はユニゾンですね。1つのキーに弦が1本から3本あるんです。その3本を同じテンションに張らないと、ビートが出てしまうんですね、「ウワン、ウワン」といった。それをなくす練習が1番初めでした。
 
 3本がずれているかどうかさえ、わからなかったですね。でも、聴いているうちに、最初は「きれいにできた」と思っていたのが、実は合っていない、揃っていないというのが、わかってきます。作業自体は楽になって行くんだけど、耳が慣れてくると、ズレにどんどん気づくようになるから、調律は難しくなって行きます。師匠は、私の調律が間違っていると、隣の部屋で仕事をしていても、走って来て、「何やってるんだ!」って、怒って来ました(笑)。
 
 調律をやっていて難しいと思うのは、理想的なピアノっていうのがほとんどないこと。パーフェクトってないんですよ。だからどこで妥協して、どことどこに合わせてっていう作業です。

自分が集中していく
過程が面白い

 師匠の店を辞めて独立した後は、学校のピアノ調律師の仕事を紹介してもらいました。でもその収入だけだと、かなり苦しい時もありました。今は、ピアノのディーラーと学校だけですが、コンサートホールなどでの仕事が増えるとうれしいですね。行く行くは、有名ピアニストの調律をやってみたいですよね。コンサートで。
 
 そのためには経験が必要ですが、経験を積むと、弾き手の要望に応えられるようになりますね。でも、そのレベルでは、音だけじゃなくて、キーの感触が違うというようなことが問題になることもあります。コンサートなどになれば、より高いレベルの技術が必要となります。音だけじゃどうしようもないです。私は、まだまだそのレベルまで行っていませんね。
 
 調律は実際やっていて楽しいですよ。ビートを聞きながら合わせていくことが、パズルみたいで。解決して当たり前なんですけど、ピアノ1台1台でその感覚がまったく違います。とにかく仕事をしていて、自分が集中していく過程が、面白いんですよ。
 
 調律師は、日本だと若いうちから始めないとダメだし、精神的に落ち着いていないといけないと聞いたことがあります。私は、日本だったら学校に入ることもできないんじゃないですか。アメリカだから簡単に始められたっていうのはありますね。弟子入りして教えてもらうっていうのは、日本では難しいのではないでしょうか。
 
 調律師を目指そうと思うんだったら、とにかくやってみたらいいでしょう。私は、今まで他の仕事も中途半端でした。それで師匠に、「やり始めたんだから、続けろよ」って言われたことがあります。最近、調律師としてうまく行くようになって、余計にその言葉をよく思い出します。
 
(2007年4月1日号掲載)

保険ブローカー(サービス・サポート系):安岡忠展さん

独立に際してついて来てくれた社員に感謝
従業員が成長することで会社を拡大したい

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は保険ブローカーの安岡忠展さんを紹介しよう。受験に失敗し、弱点の英語を克服するために留学。自動車保険を買った保険代理店でアルバイトを始め、瞬く間にトップセールスを売り上げた。2001年に独立し、現在は18州で業務を展開している。

【プロフィール】やすおか・ただのぶ■1968年生まれ。兵庫県出身。88年、ラッセン・コミュニティーカレッジに留学。90年、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校に編入。在学中に損害保険のライセンスを取得。92年に同校卒業、保険代理店に就職。2001年、ダイワ保険を設立。現在は損害保険、生命保険、証券などを取り扱い、18州で業務を展開している。

そもそもアメリカで働くには?

たまたま取った統計学が
保険業で役立つことに

ラッセンにいた頃、夏場はチェーンソー片手
に木こりの手伝い

 希望する大学の受験に英語が原因で落ちたので、英語力をつけるために留学。1年の予定でしたが、こちらでの生活が気に入り、そのまま残ることにしました。北カリフォルニアにあるラッセン・コミュニティーカレッジに入学し、これほど勉強したことはない、というくらい勉強しましたね。スーザンビルという町は本当に何もないところで、休暇中はスキーや木こりの手伝いをしていました。
 
 その後、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校に編入し、得意だった数学を専攻。中学生の頃からコツコツとお金を貯めていたので、最初のうちは自分で費用を工面しましたが、そのうち足りなくなり、親に出してもらっていました。だから、どうしても2年で卒業したかったのですが、数学科はスケジュール的に無理だったため、統計学に変更しました。保険というのは統計から入るので、今になればこれが1番役に立っています。よくあの時、統計学を専攻したものだと思います。
 
 大学に入って半年ほど経った頃、自分の自動車保険を買った保険代理店の社長からアルバイトの誘いが。最初はファイルの片づけを手伝う程度でしたが、1990年に損害保険のライセンスを取得しました。ライセンス試験を受けるには、まず州の保険局が認可した学校で必要な時間数のクラスを受けます。詰めて受ければ1週間ほどで終わりますが、私は週末しか受けられなかったので、約1カ月かかりました。内容は法律などのルールに関する勉強で、実践は先輩に教わりました。

瞬く間に顧客200人以上
働く分増える収入に感動

新しい保険が出たら誰よりも先に学ぶ姿勢は、
経営者となった今も変わらない

 ライセンスを取得すると保険を売ることができますが、自分で顧客を取って来なければなりません。でもセールスをやったこともないし、どうしようかと考えて、まず、大学の外国人学生アドバイザーオフィスの掲示板に手書きのフライヤーを貼りました。これが成功して、番号を載せていたページャーが授業中もしょっちゅう鳴って、困ることすらありました。また、学生寮のルームメートとして入ってきた日本人に、「知り合いを紹介してくれたらお礼をするから」と頼んだところ、彼と同じ英語学校に通う人を紹介してくれました。それも数カ月で200人くらい。ラッキーでしたね。
 
 親に「仕送りはもう要らない」と電話できるくらいの収入になり、会社も「日本人は利益が出る」と認識し、広告の費用を出してくれ、それで顧客がまた増えました。コミッション制で働いたのは初めてだったので、やればやるほど収入が増えるのは新鮮な感動でした。
 
 92年に大学を卒業し、そのままその代理店に就職しましたが、その時点ですでにトップセールスマンになっていました。入社した時点では自動車保険しか扱っていなかったのですが、自分の知らない分野の問い合わせを受けるようになり、自力で勉強を始めました。でも、先輩にも知っている人がいなかったので、基本的なことすらわかりません。保険会社に直接電話して教えてもらいましたが、これは恥ずかしかったですね。
 
 全種の保険知識を習得した後は、会社でも先輩に教えるなど、リーダーシップを取って業務を拡大。皆がすべての分野を手がけるようになると、会社としても売上げが倍々で増え、会社全体の活気も出てきて、3人だった社員が10数人にまで増えました。
 
 2001年に独立しましたが、その時、自分の顧客を会社から買い取りました。訳のわからない学生を雇ってくれ、世話になった会社には本当に感謝しています。だから、きっとお客様はついてきてくれたと思うのですが、「買い取りたい」と申し出ました。独立した時は、さすがに不安でした。知識面では誰にも負けない自信はありましたが、実はセールストークとか苦手でしたから。マーケティングに関しては、しっかり勉強しました。
 
 私のアシスタント2人が、私の独立に合わせてついてきてくれました。これが1番うれしかったですね。だから絶対に、この2人の給料だけは確保しなければならない、意地でも彼らの給料の1年分は貯めようと決意し、最初の1年間は自分の給料を受け取らずにやりました。

ともに働く従業員に感謝
今後の目標は彼らの育成

 保険会社が持っている商品を売るのが代理店の仕事。お客様の心配を見極め、最適なアドバイスをするのが保険のプロです。知識は当然ですが、コンセプトを理解し、リスクを的確に判断できないと生き残っていけません。「紹介してもらった保険に入っていたから訴訟を免れた」などと聞くと、うれしくて仕方ないですね。
 
 今の課題は、従業員をいかに育てていくかです。会社のために働いてくれている彼らには感謝しているので、これからは彼らが成長するのを手伝いたい。彼らが自分のキャパシティーを上げてくれ、それに伴って会社が大きくなればいいなと思っています。
 
 アメリカで働きたい人にとって、1番にクリアしなければならない問題はビザです。だからまず、どの業種で働きたいのか目標を決めて、そのために何を学ぶべきかを考えるといいでしょう。また人員募集がなくても、積極的な就職活動をおすすめします。経営者はいつも良い人材を探しているはずですから。
 
ダイワ保険詳細ページ>>
 
(2007年1月16日号掲載)

ソーシャルワーカー(サービス・サポート系):谷口未歩子さん

子供は学ぶ力があるから、回復も早い。
笑顔を見るとどんな苦労も帳消しに。

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はセラピストを目指して実務経験を積む谷口未歩子さんを紹介しよう。人助けがしたいと思っていた時に出会ったのが、大学で取った心理学のクラス。大学院で修士号を取得し、現在は子供たちのケアをしながら、資格取得のための実務に励んでいる。

【プロフィール】たにぐち・みほこ■1978年生まれ。三重県出身。高校卒業後、97年渡米。シトラス・カレッジから99年、カリフォルニア州立大学フラトン校に編入。大学卒業後、同大学院に進学。2004年、臨床心理学で修士号取得。現在は非営利団体インナーサークル・フォスターケア&アダプテーション&コミュニティーサービスで、子供たちの心のケアに当たっている

そもそもアメリカで働くには?

児童虐待の実態に衝撃
助けたいと修士号取得へ

保護される子供たちは、着の身着のままで来
ることも多いので、服などの寄付品は不可欠 

 日本で受験勉強をしていましたが、ストレスが募ったため留学しようと考え、郊外で穏やかそうなシトラス・カレッジを選びました。高校は英語科でしたが、留学して受験英語は通じないと実感しました。使われている言葉が違うし、文法はわかっていても聞き取れないし、言葉が口から出て来ず苦労しました。
 
 カレッジの心理学のクラスで先生が自分の体験談を話してくれて、アメリカには心理面でのケアがあることを知りました。受験で気が滅入っていた時に助けてくれる人がいたら、と思っていたので、日本に帰ってティーンエイジャーのカウンセリングをしたいと思い、心のケアの勉強を始めました。
 
 2年でカリフォルニア州立大学フラトン校にトランスファーし、経験を積むためにインターンのクラスを取りました。児童虐待のエージェンシーに所属し、現実としてこんなことがあるんだというショックを受けたと同時に、アメリカではきちんとケアするところがすごいと感動しました。インターンをしているうちに、本当に困っている人を助けるには資格を持った専門家になる必要があると思い、また子供たちと直に接する仕事がしたかったので大学院に進みました。
 
 大学院では臨床心理学を専攻し、学校のカウンセリングセンターや家庭内暴力を専門とする非営利団体などでインターンをしました。ここでも苦労したのは英語です。まず第1に、私はアメリカで高校に行っていないので、普通なら誰でも知っているような専門用語を知りません。またカウンセリングに来る人は興奮したり、うつでぼそぼそ話したりする人もいるので聞き取りが大変です。その上、私は母国語が英語でないため、相手に「わかっていないんじゃないか」と思われたりして、信頼を得るのに時間がかかりました。
 
 また授業では、提出したペーパーに「こんな英語力ではマリッジ・アンド・ファミリーセラピストになるのは無理」と先生に書かれて、学校で泣いたこともあります。英語力のせいで自分に自信が持てなくて、落ち込むことも多くありました。でも救われたのは、私が取っていたプログラムは生徒が10人強の少人数で、皆でサポートし合って一緒にがんばるようなクラスだったこと。仲間に励まされて乗り切りました。

赤ちゃんの記憶にも
虐待は残っている

学生時代の友人たち。互いに励まし、支え
合ってきた大切な仲間だ

 2004年に卒業し、現在働いているのはインナーサークルという団体です。ここは児童虐待でフォスターケアに預けられた子供を対象にしており、現在15人の子供たちを担当しています。子供たちの年齢は0歳児から17歳まで。1人当たり週に1回は会い、学校に行って様子を聞いたりします。
 
 フォスターファミリー(里親家族)は登録制です。フォスターファミリーに登録する人は、自分がフォスターケアを受けたり、虐待の経験がある人も少なくありません。子育ての経験や犯罪歴などのバックグラウンドチェックをし、さらにクラスを取ってある程度の知識を持った人が登録していますが、子供が暴れたり奇行があるなどの相談を受けると、原因を突き止めて対処法をアドバイスします。
 
 私は子供がいませんが、この仕事を通して、子供を育てるということはどういうことかを学んでいるような気がします。たとえ赤ちゃんであっても、虐待されたことは覚えているんですね。虐待した親の元に連れて行くと激しく泣き叫んだり、何を与えても嘔吐したりするんです。
 
 最初はケースのことを家まで引きずってしまって、夢に出てきたりしました。ですが自分が精神的に健康でないと、人を助けることはできません。それで今はストレス解消のためにヨガをやっています。自分が落ち込まず、精神的にいつも健康でいることに気をつけていますね。
 
 この仕事をしていて良かったと思うのは、人が幸せになるのを見る時です。子供の笑顔を見ると、どんな苦労も帳消しされます。子供の力というのはすごくて、大人のうつ病に比べると、学べる力がある分、回復も早い。大人の場合は、長い間悩んでいたけど言えなかったというケースが多いので、その分症状も重くて回復が遅いのですね。子供の時に虐待を受けたのがトラウマになって、大人になって引きずっている人もいます。

守秘義務があるので
疑いがあれば通報を

 マリッジ・アンド・ファミリーセラピストの資格試験を受けるには、修士号の他に3千時間の実務経験が必要です。今で2千時間くらいの実務経験があるので、あと1年ほどで受験資格ができます。資格修得後はトーランスで心理学の先生と一緒に開業する予定で、日本人の方の助けになりたいと思っています。
 
 精神的にも大変だし、苦労も多い仕事ですが、やり甲斐は大きいので、興味のある人はどんどんチャレンジしてほしいですね。また、周りで児童虐待の疑いがあると思ったら、Child Protective Services(LAカウンティー・☎1-800-540-4000、オレンジ・カウンティー・☎1-800-207-4464・SDカウンティー・1-800-344-6000)に電話してください。守秘義務があるため、誰が通報したかわからないようになっていますので、見て見ないふりをせずに通報してほしいと思います。
 
(2006年12月16日号掲載)

ホテルディレクター(サービス・サポート系):中野一章さん

地元の日本人・日系人に支えられる
コミュニティーホテルであり続けたい

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はホテルディレクター/総支配人室長の中野一章さんをご紹介。幼児期をアメリカで過ごした経験から留学を決意。ハワイ旅行でホテル業の素晴らしさを再認識し、留学してホテル学を学ぶ。LAでのインターンを経て、帰国後にニューオータニに正式入社した。

【プロフィール】なかの・かずあき■東京都出身。1958年生まれ。80年ネバダ州立大学卒業後、ロサンゼルスのニューオータニで研修。帰国後、ホテル・ニューオータニ東京入社。入社後、休職してコーネル大大学院ホテル経営学部に留学。83年に同校卒業後、東京勤務。88年ニューヨーク営業所長に就任。帰国後は大阪・東京・幕張勤務を経て、93年にロサンゼルス赴任。

そもそもアメリカで働くには?

授業では肉の切り方やワインテイスティングも

ニューヨーク営業所時代、トレードショーにて

 父の仕事の関係で、2、3歳の頃、ニューヨークに住んでいました。当時のことは記憶にありませんが、写真を見ていたせいか、中学生の時には、アメリカの大学に留学しようと決めていました。せっかく留学するなら専門知識を身につけたいと思っていましたが、建築家やCPAなど数多くあった夢の1つがホテル業でした。そこで高校2年の夏休みに、自分の気持ちを確かめようと、1人でハワイに旅行しました。ワイキキビーチ沿いのリゾートホテルに宿泊したのですが、スタッフ全員が「ハワイにようこそ」と温かく迎えてくれている気がして、「ホテルってこんなにすてきな思い出をプレゼントできるんだ」と感動し、ホテル学を専攻することにしました。
 
 ネバダ州立大学ラスベガス校に決めたのは、観光都市にある上、独立したホテル学部があり、授業内容が充実していたからです。高校を卒業後、渡米したのが1976年の春。最初の2年間は一般教養科目に加え、経済学や会計学の基礎など、ビジネス全般の勉強が中心ですが、3年目からはホテル関連の授業が増えました。専門授業では、ワインテイスティングや業務用の肉や魚をカットするクラス、客、サービス、調理を生徒が交代で担当するクラスや、ラスベガスらしくカジノゲームの確率を試算するクラスなどもあり、楽しかったですね。

就職1年目に休学し大学院で修士号取得

憧れだったコーネル大学ホテルスクール前にて

 学位を取得するためのインターンシップで就職したのが、今働いているホテル・ニューオータニです。79年の暮れも押し迫った12月29日に飛び込みで人事課を訪ねたところ、「大晦日の夜から働いてください」と言われ、「なんとラッキー」と思いました。最初の仕事はナイトクラーク。夜11時から翌朝7時までの勤務で、お客様のチェックインからチェックアウト、その日の売上計算や売上日報をまとめるまでが日課でした。夜間はマネージャー兼務で、フロントも1人。朝帰って、またその晩に出勤というきついシフトでしたが、短い期間にフロント業務のすべてを体験できました。これほどの研修は他にはなかったと感謝しています。
 
 1年後に帰国し、東京のニューオータニに正式入社しました。ですが帰国して半年後に、コーネル大学大学院から合格通知が届きました。ロサンゼルスでの研修中に、大学院入試を受けていたのです。ホテル学ではナンバー1といわれる同大学院で修士号を取得するのは、以前から目標の1つでした。入社1年目の新入社員が留学中1年半も休職するのは無理だと思い、退職願を出しました。ところが社内には同校の卒業生も多く、サマースクールに社員を送っていたこともあり、温かい計らいをいただいて休職扱いとなりました。コーネルでは、主に財務管理や市場調査、人事管理など、経営サイドからのホテル学を勉強しました。卒業して帰国したのが83年、25歳の時です。
 
 帰国後は、東京でフロントと営業に籍を置いた後、88年にニューヨーク営業所勤務になりました。ニューオータニグループの各ホテルに、アメリカからの送客をサポートするのが主な仕事でしたが、カナダを含む北米東海岸が担当で、1年の3分の1は出張という生活でした。3年間の駐在後、大阪、東京で宿泊企画プランや広告などのマーケティングを担当、幕張のホテル開業にも関わることができました。

同時テロでは全米の日本人から問い合わせ

 93年よりロサンゼルス勤務になりましたが、赴任して間もない翌年1月17日未明、ノースリッジ地震が発生しました。私はまだホテル住まいで、いきなり体がベッドから飛び跳ねるような感覚で目を覚ましました。急いでフロントに下りると、既にお客様の安否を尋ねる電話が殺到していました。幸いホテルには大きなダメージはありませんでしたが、現地の様子を知りたいと、ニューヨークや東京の新聞社など、マスコミ数社から電話が入ってきました。また2001年の同時多発テロの直後は、全米の空港が閉鎖されるなど大混乱の中、全米を旅行中の日本人から多くの問い合わせがありました。総領事館の緊急対応事務所も、ホテル内に設置されました。これらの緊急事態での経験から、アメリカにある日本のホテルとして、困った時に頼りにされる、期待に応えることのできるホテルでありたいと常に感じています。
 
 さらに、リトルトーキョーという土地柄、地元の日本人・日系人に支えられるコミュニティーホテルであり続けたいとも思っています。そのためにはコミュニティーの一員として、誇りに思ってもらえるホテルでなければならないと認識しています。地元の人々はもちろん、世界中からロサンゼルスに旅行する人々に、親しみを持ってもらえるようなホテルを目指して努力していきたいと思っています。
 
 ここでは、いろいろな国やバックグラウンドの人が集まってチームを作っています。アメリカで働きたい人は、自分の意見を積極的に相手に伝える力を身につけることが重要です。ホテル業に限らずどんな仕事でも、言葉だけではなく、表現力や理解力など広い意味でのコミュニケーションスキルが大切だと思います。
 
(2006年7月16日号掲載)

イルカトレーナー(サービス・サポート系):石田絵里子さん

テレビでシャチのショーを観て「これだ」と
次なる目標はシャチのショー

アメリカで夢を実現させた人の中から、今回はイルカトレーナーの石田絵里子さんを紹介しよう。動物好き、水が好きだった石田さんはテレビでシャチのショーを観て一目ぼれ。大学卒業後、念願のサンディエゴのシーワールドでシーズナルポジションで採用、そして現在、正規職員として働いている。

【プロフィール】いしだ・えりこ■1974年横浜出身。日本の高校を卒業後、渡米。サンマルコスにあるパロマーカレッジに入学し、95年9月にUCSDに編入、バイオロジーを専攻する。98年に同校卒業、バイオテクノロジー関連の企業勤務を経て、2003年5月からサンディエゴの海洋テーマパーク「シーワールド」で正規職員として勤務中。

そもそもアメリカで働くには?

動物好きで水泳も得意。「これしかない」と思った

来園者へのプレゼンテーションも
この仕事で最も必要な能力のひとつだ

 小さい頃から動物が好きで、何か動物にかかわる仕事をしたいと思っていました。高校生の頃、サンディエゴのシーワールドで行われているシャチのショーをテレビで観て、「これだ」って思ったんです。動物も好きだし、昔から水泳が得意で、水の中にいるのが好きでしたので、この仕事をしようとその時決めました。同じ頃に友達が1年間交換留学でアメリカに行っていて、その話を聞いて楽しそうだなと思い、大学に留学することも考え始めました。
 
 高校卒業後、すぐに留学してホームステイしながら、パロマーカレッジに2年間通いました。その後、UCSD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)に編入し、バイオロジーの専攻で、アニマルコミュニケーションや動物の行動学、調教の基礎なども学びました。
 
 4年生の時に、シーワールドのトレーナーのポジションに応募し、難関の水泳のテストに合格。その年は採用されなかったのですが、翌年、大学卒業後すぐ、プラクティカルトレーニングビザでイルカのトレーナーとして採用されました。5月から9月の夏限定のシーズナルポジションでしたが、憧れの職場で働けることになって本当にうれしかったです。
 
 プラクティカルトレーニングの期間後、H-1Bビザをサポートしてくれるところを探し、2000年にバイオテックの会社に入社して、リサーチ系の仕事などをしました。ビザのステータスが安定した分、安心感はありましたが、いつか必ず海洋動物の業界に戻って、トレーナーになりたいという思いは募っていくばかり。その後、別のバイオ系のコンタクトレンズの研究の会社にも勤めました。生活が安定したことと、違う分野での仕事ができたことは良い経験となりました。
 
 いつかアメリカでトレーナーをという思いで、グリーンカードの申請を要請していたところ、アメリカ人の夫と知り合って02年に結婚。私に好きなことをさせてくれる人でしたので、これをきっかけに、迷わずトレーナーの道へと再びシーワールドに戻りました。

ナレーターや餌付け、レスキューの仕事も

芸をしていたイルカはメス同士。
ベストフレンドのように息もピッタリ

 再入社後、最初は教育部門に所属。いろいろなエリアのナレーターとしてナレーションを4カ月やり、さまざまな動物の解説をするため猛勉強しました。不意に質問され、困惑することもありましたが、お客さまと話すことで学ぶことも多く、自分の知識の幅が広がり、プレゼンテーション力もつきました。
 
 次に飼育部門の飼育係のアシスタントとして採用され、早朝から重いバケツを持って、シーワールド内の動物の餌の準備をしていました。
 その後、トレーニング部門で鳥のトレーナーを5カ月やりました。初めは鳥にあまり興味はなかったのですが、フクロウやハゲタカの担当になって鳥も好きに。鳥のトレーナーもとてもいい経験になりました。
 
 それからまた、飼育部門に戻り、野生動物のレスキューリハビリにもアシスタントとして携わりました。ケガや病気で海辺に打ち上げられた野生動物の保護やリハビリをする仕事で、獣医の指示のもと、治療の補助をしました。子供でも100キロ以上あるゾウアザラシを運んだ時は、本当に重くて大変でしたね。

イルカの調教は根気が必要。体力的にハードな仕事

 そして、05年3月に、ようやく念願のイルカのトレーナーになりました。調教師としての仕事がようやくスタートしたんです。イルカのトレーニングは根気が必要。ステップ・バイ・ステップでいろいろなことを学んでいきます。こちらがイライラしてはダメ。少しずつ時間をかけてやる必要があるんです。そして、ある日突然できるようになると本当に感動します。
 
 私の職場である「ロッキーポイント」にはトレーナーが16名おり、ローテーションで皆、さまざまな仕事を担当します。パブリックフィーディングは1日3~6回。トレーニングセッションは4~5回。ドルフィンエンカウンターは1日1、2回。これはトレーナーのガイドのもと、イルカと遊び、触れあうプログラムで、私が担当の時は日本語でも行っています。
 
 この仕事は体力的にもハードで競争も激しいですね。特殊な職業でポジション数に限りがある上に、希望者も多く、上にいくのも大変で、常に自分でスキルを高める努力が必要です。トレーナーの資格を取るには、水泳のテストにパスすることが第一。大学の学位は特に必要ではありませんが、シーワールドのスタッフはほとんどが持っています。でも、経験がより重視され、特に公共でのプレゼンテーション力が問われるようです。私自身、プレゼンテーション力を高めるため、演技のクラスを取り、ボイスレッスンを受けています。
 
 これからも、もっとトレーナーとしての経験を積んでいきたいですし、もっとショーをやっていきたい。次なる目標は「シャチ」。とてもダイナミックなシャチのトレーナーをやってみたいですね。
 
 トレーナーになりたい人へのアドバイスは、「努力と根性」。道のりは長くて大変ですが、私もゼロから始めて今に至っています。アメリカはそういう国ですので、続けてがんばれば、きっと道は開けると思います。
 
(2006年1月16日号掲載)

宝石鑑定士(サービス・サポート系):大木志保さん

資格を取得してもそれは始まりに過ぎない
現場を見て接客がすべてだと気がついた

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は宝石鑑定士の大木志保さんを紹介しよう。大学時代に宝石店でアルバイトをしたのがきっかけで、鑑定士の資格を取るために渡米。日本では引っ込み思案だった少女が、アメリカでGIAの資格を取得した。現在はサンディエゴの宝石店で活躍中。

【プロフィール】おおき・しほ■1973年生まれ。札幌市出身。北星学園大学英文科卒業後、中央宝石研究所札幌支店の鑑定所に就職するが、鑑定士を目指して97年渡米。翌年、GIA資格を取得し、宝石鑑定士に。以来「ehimepearl」で、細やかなサービスで顧客の信頼を得ている。

そもそもアメリカで働くには?

両親に背中を押されて、アメリカ留学を決意

顕微鏡を使って慎重に同店の
ダイヤモンドを鑑定する大木さん

 小さな頃から自然の石に魅かれ、石ころを拾っては観察して大事に取っておくような子供でした。大学時代に宝石店でアルバイトをしていた時は、店頭に並ぶ石を見ているだけで幸せで、できあがったジュエリーよりも、石そのものに魅力を感じていました。卒業後は、その宝石店と取引のあった宝石鑑定所に就職しました。鑑定士のアシスタントとして1日300個のダイヤモンドの重量を量る仕事などもありましたが、ラボでの仕事はとても興味深く楽しいもので、独学で勉強するうちに、いつか鑑定士になりたいと思うようになりました。
 
 母の友人に、GIA(米国宝石学会:Gemological Insti-tute of America)の資格をアメリカで取得して、宝飾関係の仕事をしている方がいたので、GIAの学校のことは中学の時から知っていました。宝石鑑定士はそのころから憧れの職業としていつも頭の隅にありました。
 
 GIAのGraduate Gem-ologist(G.G.)は、世界中で信頼されている鑑定士の資格です。宝石の鑑定機関はたくさんありますが、GIAの鑑定はとても高く評価され、有名宝石店の中にはGIAの鑑定書付きのダイヤモンドのみを取り扱っているところが数多くあります。またGIAの鑑定士がいる宝石店は、それだけでお客様の信用が得られるという状況です。
 
 私は生まれも育ちも札幌で、大学時代に1カ月シアトルに短期留学した時も「やっぱり札幌が良い」と思ったほど。何不自由なく過ごせた実家を離れたくなかったのですが、その反面「自立しなければ」という思いも当然ありました。背中を押してくれたのは両親です。「アメリカでGIAの鑑定士資格を取ってみては」との母の言葉は、高校の頃から留学をすすめられても嫌がってばかりの私に、しっかりとした人生の目標を定めてくれました。

GIAの資格だけでは採用してもらえない

「ehimepearl」はにぎやかなファッションバレーの
モールにある。浜田社長と

 アメリカの生活に慣れるために、まず語学学校に5カ月通いました。1人暮らしも初めてで、言葉も何もわからないことばかりで大変でした。さまざまなトラブルにも巻き込まれ、その経験から多くのことを学び、昔からは想像がつかないくらい、たくましく成長できたと思います。
 
 GIAでは莫大な量の教科書を読み、宿題や試験に追われ、1日のほとんどを顕微鏡に向かうような地味な作業の繰り返しでした。ですが今まで見たこともない石に出会い、手で触り、その特徴を調べて名前を言い当てるという授業は、拾ってきた石を眺めていた子供の頃と同じ幸せな遊びの延長のようで、カラーストーンの授業ではいつもトップの成績でした。
 
 卒業したばかりの頃は、資格を持っているというだけでこの業界ではどこでも通用するような気になっていましたが、30社ほどに履歴書を送ったものの結果は散々でした。ビザも経験もない私を、採用してくれるところはなかったのです。海外からきていたほとんどの生徒はあきらめて帰国しました。私はアメリカの宝石業界で活躍してみたい、という思いが強かったので、サンディエゴのファッションバレーにある「エヒメパール」に何度も電話をかけて、やっと面接していただくことができました。
 
 面接の前は同店が主に扱う真珠のことを調べ、面接の後も手紙を出して熱意を伝えました。ダウンタウンからファッションバレーという大きなモールに引越しをしたばかりの成長段階の会社だったので、ようやく「現場を見てみたい」という思いが通じ、仕事が決まった時には、これからこの会社をより良くしていくために自分ができることは何でもしようと、決心しました。
 
 雑用から始まっても、経験を積むと可能性が広がります。これからアメリカを目指す人も、資格を取ったり大学院を卒業するのは始まりに過ぎないと思ってがんばってほしいですね。私も今までやってきたことで、無駄になったものはありませんので。

宝石に触れる楽しさを、多くの人に伝えたい

 日本では引っ込み思案で、自分が接客するなど考えられませんでしたが、就職して、接客がすべてだと気づきました。「エヒメパール」は開店当初からの長いお付き合いの方が多く、お客様には大変恵まれています。まるで昔からの友人のように感じられます。日本と違って、宝石店を訪れるのはほとんどが男性なので、贈られる相手の性格やライフスタイルなどをお伺いして、その方に1番合う品物をお選びしています。今はほとんどがアメリカ人のお客様なので、これからは日本のお客様にも気軽に来ていただけるお店づくりをしていきたいですね。こちらの方はジーンズに真珠のネックレスを合わせたり、男性が黒真珠のネックレスを付けています。日本の方も冠婚葬祭だけでなく、さりげなくカジュアルに真珠を身につける習慣ができるといいなと思います。
 
 右も左もわからず言葉も通じなかった8年前からは考えられないほど、今の生活は充実しています。やさしい主人と出会い結婚して、心のゆとりもできたこれからは、私自身が経験してきた宝石の素晴らしさを多くの方に伝えるために、さまざまな石の魅力をまとめた本を書いてみたいと思っています。

事業用パイロット(サービス・サポート系):アキコ・カナ・ジョーンズさん

人命を預かっているという自覚で飛ぶ
いつかアフリカの大地を空から見たい

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は事業用パイロットのアキコ・カナ・ジョーンズさんをご紹介。アフリカでボランティア活動がしたくて、航空留学でパイロット免許を取得。チーフパイロットなどを経て、今はカタリナ島と本土を結ぶラインパイロットとして充実した日々を過ごしている。

【プロフィール】あきこ・かな・じょーんず■福岡県出身。89年、マイアミのフライトスクールでヘリコプターの自家用免許を取得後、LAで事業用と教官免許を取得。チーフインストラクター、チーフパイロット、チャーターパイロット、ハワイ島での飛行経験を経て、01年、カタリナ島へのフェリー飛行をするアイランドエクスプレス社に勤務。

そもそもアメリカで働くには?

航空留学のきっかけは、アフリカでの慈善活動

教官時代の仲間と。仕事はとてもハードだった

 20年ほど前、アフリカで飢餓に苦しむ子供たちや、自然破壊で絶滅の危機に瀕している動物たちを救うために、ボランティア活動に参加してアフリカへ行きたいと思っていました。ある日、日本にある非営利団体に問い合わせをしたところ「資格や専門技術が必要」と断られました。そこで短期間で国際的に通用する資格は何か、と思い立ったのがアメリカへの航空留学でした。
 
 当時は、バブルの影響で航空留学のピークでした。学校も試験官も日本人留学生に慣れていて、「そんなに気前良く免許をくれていいの?」と冗談を言いたくなるほど簡単な試験で、ヘリコプターの自家用免許を2カ月で取りました。でも事業用と教官免許取得はもっと大変で、この時は、さすがに勉強嫌いの私もしっかり勉強しました。免許が取れた後は、アメリカの会社を通じてアフリカへ行こうとも思いましたが、アメリカには軍隊出身や未開地での飛行経験が豊富なパイロットが多く、免許を取り立ての私に簡単に仕事が見つかるわけはありませんでした。
 
 教官免許取得後、アメリカ人の主人と知り合い、結婚。とにかく地元で経験を積もうと、トーランス空港やロングビーチ空港のフライトスクールで教官を始めました。日本ではバブルがはじけ、日本人留学生を専門にしていたフライトスクールは軒並みつぶれましたが、アメリカでパイロット免許を取りたいという留学生が世界中からやって来ていましたので、仕事はすぐに見つかりました。

父の死をきっかけに、何が幸せかを考えた

同僚たちと。職場で女性パイロットは1人だけ

 96年からは、チャーターの仕事が中心になりました。チャーターフライトをするには、さらにエアタクシーの国家試験が必要で、試験は毎年1回、それぞれ乗る機体別に受けます。97年に1年間、ハワイ島でもチャーター飛行をしました。パイロットにとっては、ハワイ、アラスカ、グランドキャニオンのいずれかで経験を積むのが一般的で、寒いのが苦手な私はハワイを選びました。ちょうどその年まで、キラウエア火山が溶岩を噴き上げていましたので、まさに自然の醍醐味を味わいながら、毎日飛んでいたわけです。天候や地形の過酷な条件の中を飛行することで、その時に身に付いた経験は今も役に立っています。また、ベトナム戦争帰りのベテランパイロットたちと飛んだ経験も、良い思い出です。
 
 ロサンゼルスではチーフパイロットをしていましたが、この業界は会社の中も外も競争が激しく、ストレスが溜まっていました。その頃、父が他界し、人生を振り返る大きなきっかけとなりました。それまではひたすらゴールへと昇り続けてきましたが、家族や友人との時間を大切にして生きるほうが幸せなのかもしれないと思ったのです。
 
 そこで01年から、カタリナ島とLAを結ぶアイランドエクスプレス社で仕事を始めました。ここではLAと島を往復するフェリーが主な仕事で、上空から鯨やイルカを見つけてははしゃいでいます。会社はアットホームで、地元の人たちとの触れ合いが多いのも利点です。アフリカまで行かずとも、この土地で自然に親しみ、また仕事とは別にやっている動物救済のボランティアを通して、できることから1つずつ、の精神で行くことにしました。

女性パイロットには、不利な面と有利な面が

 女性パイロットはロサンゼルスでも少なくて、警察や海洋保安を含め10人くらいです。女性パイロットを雇ったことがない会社にとっては冒険になりますから、女性であるということは不利な場合もあるでしょうね。でも実際は、女性の方がヘリコプターの習得は早いとも聞きます。操縦は優しいタッチが必要で、力を入れすぎると上手く行かないからです。またパイロットの体重が軽いと、その分乗客や荷物を多く載せることができますから、会社にとっても女性パイロットは得です。私が勤務する会社も採用するパイロットの体重制限があります。
 
 アメリカでの飛行訓練は、他国に比べて費用も安く、規制が少ないし、飛行学校や試験官の数が多いですから、免許取得を目指す人には恵まれた環境だと思います。今でもたくさんの航空留学生が日本から来ているようですが、皆さん頑張ってほしいですね。ただ日本より簡単とは言っても国家試験ですから、学校や教官に任せないで自分自身でしっかり勉強していただきたいと思います。免許はお金では買えませんから。また人命を預かる行為であるという自覚を充分に持つこと。狭い世界ですから、この仕事で1番つらいのは、仲間の事故の知らせを聞くことです。
 
 元気なうちはいつまでも飛び続けたいですね。子供の頃から飛行機の操縦が夢だった主人は、飛行機とヘリコプターの自家用免許を持っています。私は他の目的の手段として免許を取ったのですが、後になって飛ぶ楽しみを発見したわけです。私の仕事に対する主人の理解とサポートには心から感謝しています。いつの日か主人と2人で、アフリカの大地の上を飛び、動物たちが大自然を悠々と横切って行くのを見るのが夢です。そして子供たちに、自然と科学の楽しさを、また1人でも多くの人たちに、空から見た地球の美しさが伝えられたら良いと思っています。
 
(2005年6月16日号掲載)

ドッググルーマー(サービス・サポート系):加藤真理さん

飼い主にとって犬は赤ちゃんのようなもの
ワンちゃんが快適に過ごせる空間を作りたい

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はドッググルーマーとして活躍する加藤真理さんを紹介しよう。結婚のために渡米した後、以前から興味のあったグルーミングの学校へ。マリブの店で修業を積み独立。5月中旬には、ついに夢だった犬のブティックとグルーミングショップをオープン。

【プロフィール】かとう・まり■1974年生まれ。東京都出身。99年、結婚を機に渡米。02年、ハシエンダ・ラプエンテ・アダルトエデュケーションのグルーミングスクールを卒業後、マリブのショップに勤務。マリナデルレイの店の一角を借りて独立。05年5月、ベニスにペットブティックとグルーミングショップをオープン。

そもそもアメリカで働くには?

ウェブに掲載したら、高級店からオファー

ヘアカットの真っ最中

日本にいた頃、黒いプードルを飼っていたのですが、月に1度トリミングに連れて行くとかわいくなって帰ってくるので、家でもトリマーの真似事をしていました。トリミング学校にも行きたかったのですが、仕事をしていると忙しくて実現しませんでした。
 
99年、結婚を機に渡米して2カ月ほど経った頃、新聞でグルーミングショップの求人広告を見つけました。日本ではトリミングと言いますが、アメリカではグルーミングと言うのですね。未経験者可だったので応募したのですが、私はまだやっと車の免許を取ったばかりで、結局不採用になりましたが、オーナーが6、7人集めて、ハシエンダ・ラプンテ・アダルトエデュケーションという州運営の職業訓練所の中にあるドッググルーミングコースを紹介してくれました。州運営ですので学費も安いし、先生が元全米トップグルーマーで、今では3年先までいっぱいだそうです。
 
でも渡米後間もなかったので英語も話せなかったし、主婦には週4日11時から7時までの授業も大変でした。「グルーミングよりアルファベットを勉強したら」などと意地悪を言う人もいて、本来なら9カ月で卒業なのですが、なかなか続けて通えませんでした。でもある時ふと、せっかく道具を買ったのだし、犬も好きだから最後までやろうと思ったのですね。それからは毎日しっかり通いました。同時に入学して卒業したのは結局2人だけでした。
 
学校に通っている時から、週末はグルーミングショップで犬を洗ったりブラシをかけるバイトをして、卒業後は近所の店でインターンをしていました。私は電話帳で調べて就職活動をしたり、グルーマーのウェブサイトに自分の経歴を掲載していたのですが、ある日、ウェブサイトを見たマリブの店から仕事のオファーが来たのです。面接に行ったら、日本人で経験もないのにオーナーがなぜか気に入ってくれて、教えてもらいながら仕事をすることになりました。と言っても給料は通常通り払ってくれると言うので、願ってもない話でした。

今ある技術のすべてを、マリブの店で教わった

マリブの店でオーナーと

店長はドッグショーの出身で技術も高いし、客扱いもうまい。小さな店でしたが、場所柄セレブの顧客が多く、アダム・サンドラー、ジャネット・ジャクソン、ケイト・ハドソン、ダイアナ・ロスなどが気軽に遊びに来るような店でした。ここでは、技術はもとより電話の受け方、顧客との接し方から英語まで、本当に多くのことを学びました。私の技術は、すべて店長の技術だと言っても過言ではありません。学校を出ても基礎しか知らないのですね。実践を通して、骨組みに肉をつけていくんです。今の私があるのは、この店で働くことができたおかげだと思います。
 
ただその分厳しい面も多く、店長には「速く、速く」と急かされて泣いたことも多々ありました。この仕事はスピードも重要なのです。でも悔しいと思っているうちに、気がついたらスピードも速くなり、指名客もたくさん付くようになっていました。高級店だったので収入も良かったし、チップも多かったのですが、将来的には自分の店を持ちたいという夢がありました。
 
そんな時、ペットショップを経営している友人から、「店のスペースが空いているからグルーミングをしないか」と話がありました。できる範囲でやっていこうと思って始めましたが、びっくりするくらい顧客が付いたのです。ですが残念なことに、事情があってその店が今年の2月、急に閉店することになりました。

夢だった店をオープン。不安もあるが夫に感謝

せっかくこの界隈でやり始めたので、今度こそ自分の店を開けたいと思い、ベニスでこの5月中旬にオープンするのが「マリナドッググルーミング」と「ベニスペッツ」です。ベニスペッツは犬のブティックで、学校に行っていた頃から、半分がグルーミングショップで残りの半分がブティック、という店をやるのが夢だったのです。
 
飼い主にとって、犬は赤ちゃんみたいなものです。ですので飼い主が安心して赤ちゃんを預けられるように、すべてオープンウィンドーにしてカメラも設置しました。またハイドロサージシステムという装置も導入しました。これは水のプレッシャーでアンダーコートまできれいに汚れを落とすだけでなく、ツボも刺激してくれるものです。シャンプーなどもすべて高級製品を使用し、ワンちゃんができるだけ快適に過ごせるようなスペースを作りたいと思っています。厳選したハイクオリティーのフードやかわいい洋服、首輪、ベッドなどをたくさん用意しています。
 
新しく自分の店を立ち上げるに当たって、不安はもちろんあります。最初に考えていたよりスペースも倍ほど広い。でも学校に行っている頃から主人が協力的で、全面的にサポートしてくれているので感謝しています。
 
アメリカのグルーミングのスタイルは、カットの仕方なども日本とは違うようです。日本では、学校を出ても最初は洗わせてもらうことすらできないと聞きますが、アメリカは実力主義です。日本のトリミングスクールを出た人がこちらに勉強に来れば、日本とは違った技術が学べるのではないでしょうか。
 
(2005年5月16日号掲載)

観光コンサルタント(サービス・サポート系):恵子・ギャリソンさん

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は観光コンサルタントの恵子・ギャリソンさんをご紹介。看護婦になる夢を、病気のために断念。方向性を失い模索を続ける中で見つけたのが観光の仕事だった。21年間勤務したロサンゼルス観光局を退職後、フリーの観光コンサルタントとして活躍中。

【プロフィール】けいこ・ぎゃりそん■神戸市出身。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に留学。77年に再渡米し結婚。82年、ロサンゼルス観光局入社。96年、同局アジアマーケット担当ディレクターに就任。03年、同局を退社。現在はThe Garrison Groupを設立し、観光とその周辺ビジネスのコンサルティングを中心に、活躍の場を広げている。

そもそもアメリカで働くには?

病気で看護婦を断念。模索していた20代

観光の仕事はまさに天職。LA観光局の上司たちと

 子供の頃から人助けになるような仕事がしたいと思い、看護婦になるのが夢でした。アフリカでシュバイツァー博士の下で働けるようになりたいと思っていたので、アメリカで看護の勉強をしたかったのですが、両親に反対されていました。ところが高校生の時に、私は甲状腺ガンになって大手術を受けたのです。私の余命が短いと思った両親が、「あと何年も生きられないなら好きなことをさせてやろう」とアメリカ留学のOKを出してくれました。
 
 カリフォルニア州立大学ロングビーチ校で看護の勉強を始めましたが、手術の影響で右腕の神経に支障をきたし、看護婦になる夢は諦めなければならなくなりました。その後、いったんは帰国したのですが、日本に帰っても何をしていいのかわからないという状態。東京に行ったりニューヨークで美容学校に行ったりといろいろなことにトライし、それでもしたいことが見つからずに混沌とした日々を過ごしました。そこで大学が中途半端になっていたこともあり、とりあえず大学を卒業しようと再渡米したのが1977年のことです。
 
 この渡米で以前に大学で知り合った主人と再会して結婚しました。でも結婚後も夜はずっと大学に通っていて、振り返ってみれば私の20代はやりたいことを模索しているような状態でした。
 
 そのうち日系の銀行に就職したのですが、同じビルに入っていたのがロサンゼルス観光局でした。私は昔から旅行パンフレットを見るのが好きで、休み時間によく観光局に行ってパンフレットなどを見ていました。当時はロサンゼルスオリンピックの前で、世界中から若者がロサンゼルスに来ているような時だったので、「こんな仕事ができれば」と思っていました。

いまわの際に父が無言で「仕事に戻れ」

03年に横浜で開催されたJATA世界旅行博の
LAブースにて

 そのうち子供ができて、私は子育てに専念するために仕事を辞めました。両親に「子供ができたら仕事を辞めろ」と言われていたのですね。ところが家でじっとしているのは私には合いませんでした。どんどん痩せてしまって、子供を連れて日本に里帰りした際に両親が驚くほどでした。それで「お前は仕事をした方がいい」と反対に仕事するのを奨励されたのです。さっそくロサンゼルスに戻って日曜版の求人広告に眼を通したら、ロサンゼルス観光局で日英両語できるトラベルカウンセラー募集、というのを見つけ、「これだ!」と思いました。
 
 面接は計4回ありましたが、必死でした。後で聞かされた話ですが、本当は他の人に決まっていたそうです。ところが私があまり必死で頼み込んだので、「かわいそうだから」私に決まったとのことでした。
 
 82年に入社し、すぐに日本のトレードショーに出張させてもらいました。日本で学生の卒業旅行が流行っていた頃で、仕事がすごく楽しかった。ビジターセンターを訪ねてきた若い人たちと一緒にランチを食べながら夢を語り合い、なんていい仕事なのだろう、としみじみ思ったものです。
 
 84年、父がガンになり、上司が快く帰国を許可してくれたので、1カ月半日本に帰りました。その時に父が言ったのです。「恩返しのためにも、できるだけ長く働きなさい」。いったんこちらに戻ってきて1カ月後に今度は危篤の報せが届きました。帰国した時には父はもうしゃべれない状態でしたが、私の顔を見るなり手を振って追いやるような仕草をしました。父は「仕事に戻れ」と言っているのだとわかりました。父が他界したのはロサンゼルスに戻る飛行機に乗っている最中でした。私が仕事に戻ったのを確認して安心したのだと思います。それで私は父の言いつけ通り、少なくとも息子が高校を卒業するまでは仕事を続けようと決心しました。

夢を持っている人のお手伝いができれば

 96年にはアジアマーケット担当ディレクターになり、ロサンゼルス市長のアジア訪問に同行したりしました。ところが9・11以降、ロサンゼルスの観光業はどこもかしこもレイオフだらけになり、旅行という本来の仕事を忘れてしまったようでした。私がやりたいことと違うようになってしまった、と思っていた矢先の一昨年の6月、世話になった社長のジョージ・カークランドがガンで他界しました。それで私も21年もお世話になったからそろそろ卒業かな、という気がして、その月観光局を離れました。
 
 その後、1年間、東京都産業労働局観光部のロサンゼルス担当として、東京都に観光客を誘致するための企画を推進。現在はフリーでロサンゼルス、ビバリーヒルズ、サンタモニカなど各観光局のお手伝いをしています。
 
 観光は夢を売る仕事なので、夢を持っている人のお手伝いができれば、というのが私の願いです。観光の仕事というのは学校では学べないものが多くあります。これまで時間をかけて培ってきた人脈や経験を無駄にしないように、ロサンゼルス観光局ではできなかったことを、私なりに悔いのないようにやり遂げたいと思っています。
 
 また結局卒業しないままになっていた大学にも戻るつもりです。パブリックリレーションやコミュニケーションなどを勉強したいし、大学院も行きたい。私は120歳まで生きるつもりなので、生涯現役でありたいと思っています。
 
(2005年4月1日号掲載)

医療 アスレチックトレーナー(医療・福祉系):ルック辻野史枝さん

まだまだ圧倒的に男社会のスポーツの世界外国人女性がアスレチック トレーナーとして働くのは、 本当に難しい

アスレチックトレーナーを取り上げたテレビの特 番を観たのがきっかけで、 その道に進むことに 決めたルック辻野史枝さん。 日本では専門的な 教育を受けられる学校が、 当時あまりなかった ことから、 本場アメリカで学ぶことを決意。 大学 院まで卒業し、 資格を取得した。 〝アスレチックト レーナー〞 という仕事の中身と醍醐味を聞いた。

【プロフィール】るっく ・ つじの ・ ふみえ◉京都府出身。 幼少の頃、 体操選手を目指すが、 高校卒業後は、 アスレチッ クトレーナーを目指す。 1996年に渡米し、 アスレチックトレーナーのプログラムを提供する北カ リフォルニアのフットヒルカレッジに入学。 その後、 カリフォルニア州立大学サンノゼ校に編入 し学士号、 さらに、 同大学院スポーツ科学部修士課程修了。 高校のスポーツチームでインターン として働きながら、 2008年、 ATC (Certifi ed Athletic Trainer) を取得。 結婚後、 リバーサイドに移り、 地元の高校のチームで、 アスレチックトレーナーとして勤務。

そもそもアメリカで働くには?

選手からサポーターに転換 念願果たして公式資格を取得

大好きなアメリカンフットボールで、 チームの一員として帯同できるのは大きな喜び (サンノゼのリーランド高校サマーキャンプでの一コマ)

父は高校の全日本クラスの選手 も指導するような体操の監督でし た。 それで、 一緒にアリゾナに遠征し たのが、 アメリカとの出会いです。  
 
それまで私は、 体操の選手だった のですが、 ワシントン州で活躍する 日本人アスレチックトレーナーの特 集番組を、 偶然見たのがきっかけで、 選手からアスレチックトレーナーを 志すことにしました。 スポーツ関連 の分野で、 人の世話ができる仕事に 就きたいと思っていましたから、 そ の番組を見た瞬間に 「これだ!」 って 思いました。 この仕事こそ、 私に一番向いていると感じました。  
 
英語が苦手だったので、 高校卒業 後に語学を学ぼうと英語の専門学 校に通い、 1996年に渡米しまし た。 私1人での渡米を父が心配した ため、 スタンフォード大学で体操の ヘッドコーチをしていた父の知り合 いを頼って、 北カリフォルニアにやっ て来ました。  
 
半年ほど語学学校で学んだ後、 アスレチックトレーナーの養成プ ログラムが充実していると評判の フットヒルカレッジに進学しまし た。 在学中は、 主にNATA ( National Athletic Trainers’ Association)とい う団体の歴史やトレーニングルー ムのセットアップ法や道具の使い方 などを習いました。 ラボの授業では、 テーピングの切り方や片足を遅く とも1分半で巻き上げる訓練のほ か、 スポーツ外傷や障害について学 習しました。 また、 ケガの種類によっ て、 どんな治療が必要か、 治療に何 が必要か、 なども学びました。  
 
公認のアスレチックトレーナー になるには、 NATAが認定する4 年制大学の卒業資格が必要なため、 カリフォルニア州立大学サンノゼ 校に編入しました。 さらに、 学士号 取得後は、 同校の大学院に進みまし た。 在学中にサンノゼにあるリーラ ンド高校で3年間インターンとし て勤務しながら、 2008年に試験 を受けて、 ATC ( Certifi ed Athletic Trainer)の資格を取得しました。し かし、 取得後も定期的に講習を受け て、 常に最新の知識と情報を修得し なければなりません。

女性には大変な職業だが プロとしての矜持を持つ

私は今、 デザートホットスプリン グスの高校で働いています。 ここで の勤務は、 今年の8月から来年の6 月半ばまでの 10 カ月。 その後は、 サ マーキャンプなどで仕事をします。  
 
普段は午後2時に学校入りし、生徒たちの授業が終わる3時頃ま で、 事務や雑務をこなします。 3時に なったら生徒たちが、 練習前にアス レチックトレーニングルームにやっ て来ます。 テーピングを巻くことか ら始まり、 選手たちを練習に送り、 ケガしている子がいたら、 その診察 や治療にあたります。 リハビリも行 いますし、 時間がある時は、 フィール ドに行って、 選手たちにどういう練 習をしているのか、 調子はどうなの か声をかけます。  
 
その後は、 診断書 ( Injury Report ) などを書きます。 やっと落ち着くの は、 大体5時半くらいですから、 出 勤後、 3時間半はフル回転です。 ど の生徒も6時くらいには練習を終え ますので、 必要に応じてケガの手当 てなどをします。  
 
今まで色んなスポーツチームで 働きましたが、 まだまだ圧倒的に男 社会のスポーツの世界で、 女性、 しか も外国人がアスレチックトレーナー として働くのは、 本当に難しいこと だと感じています。  
 
練習前後や試合前後の着替えの 時には、 女性の私はロッカールーム に入ることはできません。 選手の中 には、 女性である私に入って来てほ しくないと思う人もいますから。 だ から、必要な時は、必ずドアの近く にいる子に 「誰々はいる?」 と聞きま す。 そうすることで、 私がロッカーに 入る必要はありません。 もちろんこ ちらは、 プロとして仕事をしている わけですから気にしませんが、 選手 に不快感を持たれる以上、 やはり立 ち入るわけにはいきません。  
 
私がインターンをしていた 05 年 に、 MLBのホワイトソックスの春 季トレーニングに参加しました。 し かし、 アウェイでのゲームには、 ほと んど同行させてもらえませんでし た。 理由はやはり、 相手チームのロッ カールームがどういう状態かわか らないから、 女性を連れて行くこと はできないということでした。  
 
大変なことは色々あります。 例え ば、 主力選手が大きなケガをした 時。 数日間は試合に出場できないと 判断しても、 コーチにしてみれば、 刻も早く出てもらいたいわけです。 私としても、 何とか出させてあげた いのですが、 無理して出したら症状 が悪化する場合もあります。 ある意 味、 私もとてもプレッシャーを感じ ます。 その選手にどんな治療を施せ ばいいのかなどの状況把握と先をど う読むかが、 とても難しいですね。  
 
高校生は、 大学やプロの選手と比 べ、 若い分、 治りが早いのですが、 逆 に身体を休める期間も必要なんで す。 ですから、 いくら焦っても、 その 時期はどうすることもできません。 回復したら、 後はどういうテクニッ クとスキルでリハビリするのが一番 有効か、 そんなことばっかり考えて、 頭が常にいっぱいになっています。

仕事を続ける条件は 心からスポーツを愛すること

ケガをした選手が、 フィールドに 戻って活躍している姿を見た時、 「こ の仕事をやっていて良かった」 と思い ます。 子供たちも皆かわいいし、 ワイ ワイ賑やか。 そういう環境で仕事が できるのがとても楽しいです。  
 
独身の時は、 プロチームで働くこ とも考えましたが、 結婚後は、 家庭 と仕事を両立させることに重点を 置いています。 ですから、 長期遠征 がない地元の高校でアスレチック トレーナーを続けたいと思っていま す。 私もそうでしたが、 アスレチック トレーナーを目指す人なら、 誰しも プロの世界に挑戦してみたいと思う はずです。ですが、その前に高校、大 学と、 それぞれのレベルを経験して みてほしいと思います。 仕事の内容 は、 どこにいても変わりませんが、 経 験できる内容は変わってきます。 す べてを経験した上で、 自分がどこに いたいのかを決めても遅くはないと 思いますよ。  
 
そして、 あまり好きではなくても、 さまざまなスポーツで仕事をしてみ るのもオススメです。 それぞれのス ポーツによってケガに違いがあり、 多彩な経験が積めるので、 価値はあ ると思います。 実際私も野球はあま り興味がありませんでしたが、 イン ターンを経験して大きなものを得 たと思います。  
 
最終的にプロの世界で仕事がし たいという人は、 インターンシップ を利用するといいでしょう。 セミ ナーやNATA系のコンファレンス、 ミーティングなどに積極的に参加 し、 その世界の人たちと知り合いに なること。 そういった地道な活動を 経て、 ネットワークを築くことが、 プ ロチームで働くためにはとても大切 だと思います。  
 
アスレチックトレーナーの仕事 は、 心から好きでないと続きません。 私のように高校で働く場合は、 ある 程度自分の時間を確保できる生活 が送れますが、 大学やプロの世界に 行くと、 チームのスケジュールに自 分の生活を合わせることが要求さ れますから、 自分の時間がまったく 取れません。 あと、 お金儲けを考え ている人にも、 この仕事はあまり向 いていないかもしれません。 心から スポーツを愛し、 選手のお世話をし ていきたいと思える人でないと、 続 かないと思います。  
 
とにかく、 セミナーなどに出席し、 常に色んなことを学ぶ姿勢でいてく ださい。 私も大学院を卒業したとは 言え、 まだまだ学ぶことがたくさん。 医学は日々進歩していますから、 今 までの 〝正解〞 が 〝間違い〞 になること だってあります。 ですから、 研究に基 づく勉強はとても大切。 いったん学 校を出てしまったら、 後は自分の責 任で学ぶしかないですからね。
 

(2010年12月1日掲載)

正看護師・保健師・CWOCN(医療・福祉系):柏井喜代子さん

私の手当てで症状が大きく好転していると、
「やった!」って思います。それが看護師の醍醐味なんです。

日本での豊富な看護師経験を背景に、アメリカでも正看護師(RN)として活躍する柏井さん。現在担当するのは創傷ケア。見るに耐えない、ひどい傷を負った患者を、日々手当てする。アメリカにいても、日本人看護師としての意識を忘れたくないと言う柏井さんに、自身の過去、現在、そして今後をうかがった。

【プロフィール】かしわい・きよこ
大阪府出身。幼い頃から医療分野に興味を持つ。高校3年の時父ががんを患い、看護師の働きを目の当たりにするなどして、看護師の道へ進む。1990年、大阪大学医療短期大学部看護学科に入学。93年卒業と共に、東京大学医学部保健学科に編入学。98年、大阪大学医学部保健学科看護学専攻に教授の助手として勤務。2001年、夫の仕事の関係で渡米。03年からLong Beach Memorial Medical Centerで、正看護師(RN)、CWOCN(認定創傷・人工肛門・失禁ケアナース)として勤務する。 www.kiyokocwocn.com

そもそもアメリカで働くには?

がんと知らずに死んだ父
患者の知る権利は大切と気付く

患者の下肢にある静脈性潰瘍の壊死組織を切除
する柏井さん。ドクター以外で、この外科処置がで
きるのは、創傷ケアの資格を持った看護師のみ

実は、看護師を目指した明確な理由がないんです。しかし、小さい頃から自分の腕に刺される注射針をじっと見つめたり、オキシドールの消毒で泡がジュワーって立つのが好きでした(笑)。また、高校3年生の時に父が肺がんになり、看護師さんの働きを目の当たりにしていたのも影響したのかもしれません。
 
1990年に、大阪大学医療短期大学部看護学科(以下、看護短大)に入学し、93年の卒業と共に正看護師の資格を取得。そして同時に、学士号を得るため、東京大学医学部保健学科に編入しました。
 
大学を出てから3年間、国立がんセンター中央病院に勤務。その後98年に、大阪大学医学部保健学科看護学専攻に助手として勤務しました。この学校は、名前こそ変わっていますが、母校の看護短大。その当時は4年制大学になっていたんです。仕事は、授業や教材の準備・試験の採点など教授のアシスタント業務、そして看護技術の実習や病院実習の引率などでした。しかしこれは全業務の4割程度。残りは研究や論文の執筆でした。大学は文部科学省から科学研究費を割り充てられますから、それに見合った研究報告が義務です。だから常に研究と論文に追われていましたね。私の当時の研究課題は「床ずれ」。マットレスによってどう体圧が分散するか、マットと接する部分の血流はどう変化するかなどをグループで実験研究していました。
 
話は戻りますが、父は、私の看護短大受験の5カ月ほど前に亡くなりました。当時の日本は、患者にがん告知をしないのが一般的。抗がん剤にも「ビタミン剤」と書かれていたほどです。父も、自分ががんであることを知らずに亡くなりました。
 
しかし、父は自分の病状を見て、がんに気付いていたと思います。それでも、医師も看護師も私たち家族も、全員でがんを隠し通す。いつも「良くなるよ」って、ある意味ウソをついていました。もし父ががんを知っていたら、私や母の態度も違っていたと思います。父ももう少しやりたいことをやって、そして言いたいことを言って逝くことができたのではないかと思います。
 
驚かれるかもしれませんが、がんセンターで働いている時に出会った患者さんの中には、「がんで良かった」とおっしゃる方が何人かおられました。なぜなら、がんは交通事故死などに比べて余命がある程度わかるし、自分らしい生き方と死の準備ができると言うんです。あるがん患者の女性は、どう「生」をまっとうし、どう死ぬかを前向きに考えるようになったとおっしゃっていました。そういった方々の考えには、大きな驚きと感銘を受けましたね。ですから、がん告知は患者さんの人権を考える上で、とても大切なことだと私は思います。
 

どこにいたって私は日本人看護師

2001年の2月に日本で結婚。同年4月に、主人がアメリカの会社に就職したのを機に渡米しました。そして02年の6月に、アメリカの看護師の資格を取得。私の就労ビザをサポートしてくれる病院を探し、今働いているLong Beach Memorial Medical Centerに就職しました。
 
1年近くビザの手続きに時間がかかり、03年の7月に勤務を始めました。最初はAdult DiabeticMedical Care Unit(成人の糖尿病患者病棟)に配属され、05年4月に、Wound Care Unit(創傷ケア病棟)に異動しました。私はアメリカで、CWOCN(Certifi ed Wound Ostomy and Continence Nurse)という資格を取得しましたが、その名前の中の「Wound」が創傷ケアに当たります。
 
創傷ケアとは、術後にきちんと閉じなかった傷や糖尿病による壊死組織の傷、交通事故による腕や足の切断後の傷など、あらゆる〝傷〞の治療を含みます。この病棟では、患部が皮膚一枚でつながっているようなひどい状況の患者さんにも出会いました。実は、私は希望してこの病棟に入ったんです。日本で床ずれの研究をしていたと言いましたが、専門的には創傷ケアの研究。ですから、元々興味がある分野だったんです。
 
08年2月からは、Wound Healing Centerで勤務しています。同病院の創傷ケア外来部門で、病歴アセスメントや傷の状況と治療薬の判断、そしてそのケアなどが業務内容です。また外来特有の業務としては、患者さんの保険の種類によって治療方針や治療薬を選定したりすることです。これは色々な保険システムから成り立っているアメリカの医療現場ならではのことですね。また、人工肛門や人工膀胱を付けた患者さんの手当てやそのパウチ(袋)の選択、治療法の決定なども担当します。これは、先ほどのCWOCNの「Ostomy」に相当する仕事になります。
 
日米の医療現場比較を、ひと言私の言葉で表すなら、「患者になるなら日本、働くならアメリカの医療」です。日本人はとても優しく、しかもきめ細やかで丁寧。日本では、自分の就業時間後でも、担当患者から要望があればトイレの介助や悩みの相談などに対応します。それが日本の医療の常識。
 
でも、アメリカはとてもドライ。時間外のナースコールには対応せず、そのシフトの人が対応します。また、分業が進んでいて、私が日本でやっていたような雑務はそれぞれ専門の人が対応します。アメリカでは、時間内に自分の仕事を終えることで評価が上がりますから、私も時間が来れば家に帰りますし、働く方としては楽です。
 
またアメリカでは、医師が看護師をチームの一員と見てくれます。日本では、どうしても医師と看護師では上下関係が存在しますが、アメリカは違う。医師から看護師へのリスペクトが感じられます。
 
日米共に一長一短ですが、私はどこにいても、日本人魂を忘れたくないと思っています。日本で身に付けた看護師としての意識や振る舞い方を、アメリカの医療現場に上手くミックスさせながら働きたい。傷にテープを貼るにしても、丁寧に貼ってあげたいですし、患者さんから「ありがとう」のひと言をもらえるようなケアをしたい。創傷ケアはとてもグロテスクな現場ですが、患者さんが次にやってきた時には、目に見えて良くなっていることも多いです。私のアドバイスや手当てで大きく好転していると、「やった!」って思います。それが一番の対価。看護師の醍醐味なんです。
 

女性の私にできること、まずはそこから役立ちたい

私は今、CWOCNの3つ目の資格である「Continence」を活かしたいと思っています。これは、日本語で「失禁ケア」とでも言えばわかりやすいでしょうか。
 
女性の失禁というのは、あまり表に出て来ませんが、実は結構あるんです。例えば、産後や更年期などが引き金になって起こります。笑ったりくしゃみをした際に少し尿もれが起きるケースから、常にパッドが必要な状態の方まで色々です。このような方で医療機関にかかるのを躊躇し、とりあえず自己流でしのいでおられる方は多いようです。たしかに失禁は病気ではありませんから、病院に行ってもあまり重要視してもらえないのが現実です。でも当人からすると、これは日常生活の大きな障害です。そういった悩みを持つ女性の方々に、この度取得したこの資格が活かせないか、自分の勉強した知識や情報を提供して、生活の質を向上させるお手伝いができないかと考えているところです。
 
今は2歳になった息子が自分の言葉で話し始めて、かわいくて仕方がない時期です。ワークライフバランスを大切にしながら、「人が喜んでくれるようなケアを提供し、かつ自分自身もそれを楽しむ」というスタンスで仕事を続けて行きたいと思っています。
 

(2010年2月1日号掲載)

クリニカル・セラピスト(医療・福祉系):松田佐世さん

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、最終回となる今回はクリニカル・セラピストの松田佐世さんを紹介。現在、MASADAホームで、問題行動を起こしたティーンエイジャーをカウンセリングする。

【プロフィール】まつだ・さよ■福岡県出身。宮崎国際大学卒業後、渡米。同大在学中に出会った日本人心理学者の影響でカウンセラーを志す。マウント・セント・メリーズ・カレッジにてカウンセリング・サイコロジーを専攻、修士号取得。卒業後、ガーデナにあるMASADA HOMESで、問題行動を起こしたティーンエイジャーたちの更生をカウンセリングを通じて行っている。

そもそもアメリカで働くには?

日本人教授との出会いが
心理学を志すきっかけに

宮崎国際大学という、授業のほとんどを英語で行う学校に通いました。2年生の後半になると、全員が半年間留学するプログラムがあったんです。私はオーストラリアに留学し、海外で生活をするという貴重な経験をしました。
 
大学3年の時に出会った日本人教授の影響で、心理学に興味を持ちました。教授がアメリカの心理学学会に参加するのに同行する機会を得て、それがきっかけとなってアメリカで勉強したいと思いました。3、4年生で心理学を本格的に勉強し、2000年3月の卒業後、ロングビーチの語学学校に入学しました。
 
語学学校在学中に大学院を探し、マウント・セント・メリーズ・カレッジ大学院に入学しました。カウンセリング・サイコロジーを専攻し、心理学の基本的なことはもちろん、セラピストになるための理論やテクニックを勉強しました。英語は問題ないと思っていたのですが、いざクラスが始まると自分の意見が言えない。読書量やペーパーの多さと言葉の壁に、睡眠時間を削って勉強に費やして対応しました。
 
アメリカに来た時からセラピストになろうと思っていましたが、セラピストにも色んな分野があって、どの分野で働きたいかという希望は全然なくて、とにかく人を助けたいという思いが1番にありました。
 
大学院にはインターンシッププログラムがあり、アジアン・パシフィック・カウンセリング・アンド・トリートメント・センターという所で、トレーニングさせていただけることになりました。そこでは、メンタルヘルスの問題がある重度な障害者たちが毎日来て、グループで活動して、1日を過ごして帰って行くというリハビリテーションを行っていました。その人たちに問題が起きた時、どうやって解決していくかという簡単なグループセラピーなどをさせていただきました。このインターンシップをするうちに、私は子供と仕事がしたいと思うようになりました。子供といる時の方が、自分が楽しんでいることがわかったんですね。
 

カウンセリング対象の
子供たちが面接を担当

最初に面接をしてくれたルイス・ロッケさん(中央)
と、現在グループホームで子供の独立を手助け
するハリー・フレッチャーさん

大学院卒業後、結婚の準備などもあり、就職活動を後回しにしていたら、プラクティカルトレーニングが切れる寸前。あせって新聞でメンタルヘルスのセラピストの求人を探して、10件近くインタビューを受けました。現在、働いているMASADAホームズからも、フォスターケア・プログラムの方から電話がかかってきました。しかし、私はソーシャルワークよりもセラピストになりたいから、一旦はお断りしたんです。そうしたら、今度はグループホームの方からインタビューしたいと電話がかかってきたんです。それならと、インタビューを受けることにしました。
 
このMASADAホームズというのは、ロサンゼルス・カウンティーと契約をして、ソーシャルサービスを提供しています。学校や住居の問題などに関して、専門家が家族を助けたり、ドラッグ問題のある子や、提携を組んでいる学校から問題ありと言われた子たちを、カウンセリングするプログラムもあります。
 
インタビューは、1回目は電話をかけて来た人と、2回目は何と、グループホームにいる子供たちとしたんです。グループホームの子供たちにとって何が1番必要かというと、その人が信用できるか、ウソをついていないか、本当に自分たちのことを思ってくれているのかということです。多分そういうことをテストされていたと思うんですね。最後に私をインタビューしてくれた担当の人が、「じゃ、サヨを雇うかい?」って子供たちに聞くと、「イエス」と言ってくれ、採用が決まったみたいです。
 

身体が大きくても
中身はまだ子供

私は、今、グループホームというプログラムに所属しています。グループホームでは13歳から18歳くらいの男の子で、窃盗、強盗、ギャング問題、ドラッグ、不登校、暴力などで、保護観察処分になっている子供たちが集団で生活をしています。重大な事件を起こし、裁判官に命じられてグループホームへ来た子たちを担当しています。ほとんどの子供が少年院から来ます。だから、「怖くないの?」とよく聞かれます。ガタイが大きい子でも、中身はまだ子供。本気で面と向かってくれる人、悪いことをしたら叱ってくれる人、そういう人が今までいなかったために、問題を起こしてしまったんじゃないかなと、私は思うんです。反抗する子もいますが、繰り返し会って、何かしてあげようとする姿勢があると、大体の子が理解してくれます。
 
グループホームにやって来る子供は、絶対にセラピーを受けないといけません。だから、しょうがないという投げやりな子もいます。でも、「ここに来る時は、あなたにとって楽しく、有効な時間でなければいけない。だから嫌々来てほしくない」と、最初に私の方針を伝えるんです。そうしたら、ちゃんと自分から受けに来ますね。彼らの中でも、自分にはカウンセリングが必要だって、わかってくるみたい。
 
子供と接していることは、全然苦になりません。1番大変なのはペーパーワーク(苦笑)。子供に、「Fxxk you!」とか言われる時もありますが、たしかにその場では「キーッ」となるんですが、何か理由があるんだろうなって。逆に1番うれしいのは、子供たちがここを去って行くこと。たまに電話があったり、会いに来てくれたりすると本当にうれしいですね。
 
カウンセラーは色んな本を読んで、日々、勉強しなきゃいけない。今はそういう時間がないんですけど、常に学ぶ姿勢が大切かもしれませんね。終わりがないんですよ、カウンセラーって。
 
将来の目標は、まずセラピストのライセンスを取って、スーパーバイザーになること。インターンシップをしていた時に私のことをサポートしてくれた日本人のスーパーバイザーがいたんですが、その人のようになりたいと思っています。そして、学校に戻って博士号を取りたいと思います。セラピストは、いくつになってもできるんです。60、70になっても、ティーンエイジャーの気持ちがわかるおばあちゃんになりたいと思いますね。子供たちにとって、今の私の年齢は、親とあまり変わらない時もあるんです。それでも、「私も昔はティーンエイジャーだったから、あんたたちの気持ちはわかる!」っていつも言ってるんですよ(笑)。
 

(2009年6月01日号掲載)

音楽療法士(医療・福祉系):羽生 恵津子さん

大切なのは、目の前にいる人に
今できることを精一杯やること

今回は音楽療法士の羽生恵津子さんを紹介。好きな歌と医療に関する仕事に就きたいと出会った仕事。末期ガン患者や精神障害を持つ犯罪者と接しながら、真のセラピーを探求している。

【プロフィール】はにゅう・えつこ■1974年埼玉県生まれ。国立音楽大学幼児教育科を卒業後、23歳でイギリスに語学留学、ロンドンとウェールズで音楽療法を学ぶ。イギリスのホスピスでボランティアとして働き、いったん帰国。今年2月に渡米し、現在サンバナディーノの司法精神科病院、パットン州立病院に勤務

そもそもアメリカで働くには?

患者さんに何があっても受け入れることが役目

イギリスで開いた日本の曲を中心にした
コンサート。涙してくれたお客さんを見て、
国境を越えた音楽のエネルギーを実感

音大卒業後、専攻だった教育の道に飛び込めず、進路を迷っていたところ、恩師より留学をすすめられたのですが、同時に私には生まれつき側弯症という障害があり、障害者として見られることが段々つらくなり、日本を飛び出してみたいという気持ちもあったのです。
 
イギリスのブライトンという町で英語を1年間学んだ後、ロンドンの学校で音楽療法の専門コースを取りました。元々歌が得意で音大に入ったのですが、医療的なことにも関わりたいと思っていたので、進む道はこれだとひらめきました。イギリスでは音楽療法のコースを取れるのは4年制大学卒、25歳以上という制限があります。また楽器が弾け、音楽の専門知識があることも必要条件です。
 
そこで1年学んだ後、さらに1年、精神分析を中心に行うウェールズの学校で学びました。最初は自分自身が障害者であることを受け入れ切れず、患者の気持ちに添うことができませんでしたが、2番目の学校では自分というものが少しずつ見え始め、患者の気持ちも徐々に受け入れられるようになりました。
 
音楽療法は精神障害者、発達障害者、身体障害者など、さまざまな人を対象としています。私が学校を卒業してからボランティアで始めたのは、ホスピスでの仕事、末期ガン患者へのセラピーでした。人の死に立ち合うことは精神的にきついものですが、その場に自分が関われることは光栄でした。
 
即興で歌を作ったり、目を閉じて音楽を聴いてもらい、人生の1番楽しかった場面を思い出してもらったりしました。音楽を通じて一緒に笑ったり、泣いたりしました。死を避けることはできませんが、それを受け入れようとする患者さんを見守る、それが私たちに唯一できることです。患者さんに何があっても、私たちセラピストはそれを受けとめる。そういう存在が身近にいるだけで、患者さんは気が和らぐのだと思います。

音楽は人生に深く関わっているもの

イギリスでは音楽療法の歴史は古く、理論も確立していますが、それで職を得るのは難しく、イギリス人でもフルタイムの仕事はあまりありません。私もビザが取れず、いったん日本に帰国することになりましたが、ソーシャル・ネットワーキング・サービスのmixiでカリフォルニアのインディオで働く日本人の音楽療法士、鎌原大作さんと出会い、アメリカに仕事の口があるというので応募してみることに。それが現在の職場、パットン州立病院です。幸い面接にも受かり、ビザのサポートも得られました。
 
ここは犯罪者や犯罪容疑で裁判中の精神障害者を対象とした司法精神科病院で、1500人が収容されています。この類の病院としては全米でも最大、恐らく世界一の規模だと思います。この施設の目的は、不安定な精神状態にある患者を裁判が受けられる状態に持っていくこと。そのためには、罪状の種類や自分の弁護士の名前を覚えたり、自分がどんな容疑を持たれているかなどを認識してもらいます。
 
私の役割は、音楽療法を施すリハビリテーション・セラピスト。精神科医、臨床心理士、ソーシャルワーカー、看護士と5人で1つのチームとなり、25人を担当します。患者には薬物依存が多く、殺人やレイプを犯した人、銃刀法違反で捕まった人もいます。仕事に就く前は「怖い」と思っていましたが、1人1人と向き合うと、やはり同じ人間ということがわかります。どんな罪を犯した人でも、人間的な部分が見えてくるんです。
 
治療では、歌詞分析をして人生を振り返ることもやります。例えば、友達をテーマにした歌を歌った後に、「友達ってどういうもの?」「ここから出た後にもう1度ドラッグをすすめる人がいたら、それは本当に友達?」などと問いかけたりします。
 
皆さん音楽が好きですから、心に響くものがあるんだと思います。「ありがとう」と言ってくれることもあります。音楽というのは、生まれてから空気のように触れている存在。誰もが音楽と色々な場面で接し、人生に深く関わっているものなんですね。
 
究極の目標は患者さんの社会復帰ですが、実際は病院から裁判所に送り出した後、刑務所に収容されても、再び病院に戻って来る人も多いのです。ですが、いずれ社会に戻った時に、ここで経験したことが何らかの形で役立ってほしい。今、彼らに種をまいておけば、いつかそれが芽を出すかもしれません。将来のことを思いあぐねるより、目の前にいる人に、今できることをやる。その方が大切なのではないでしょうか。

自分の人生の目標は喜ばれる存在になること

日本やイギリスと比べても、アメリカは色々な意味で広いですね。カリフォルニアは、人種もさまざま。背景にある文化もさまざまなのがセラピーの上でも難しいところです。人間関係の難しさはどこにいても一緒ですが、職場では言いたいことを直接的な英語で伝えるよう努力しています。また、毎月の患者1人1人の進捗状況の記録や、裁判所に提出するレポートなど書類作成にも時間を要します。今、セラピーで歌の伴奏として使うために、ウクレレを習っています。週1回、個人レッスンを受けており、家でも毎晩練習しています。
 
仕事でうれしいのは、患者さんが楽しんでくれている時。何かを感じ取ってくれた時。精神障害は一生続くものかもしれませんが、それとどう付き合っていくかを身に付けてもらえたらと願うばかりです。私の人生の目標は、「喜ばれる存在になること」。これからもアメリカに残れたらいいですが、先のことはわかりません。基本的には流れに任せています。目の前に来たきっかけを大切にして、1つ1つ受け入れていくことが人生だと思っています。
 
音楽療法士になりたい方へのアドバイスは、「好奇心と自分を含め、人間が好きであること」。とてもいい仕事だと思いますので、ぜひ学んでみてください。
 
(2008年7月16日号掲載)

マッサージセラピスト(医療・福祉系):山口 徹也さん

大事なのは、お客さんの心を理解すること
そうすることで身体の痛みも消える

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はマッサージセラピストの山口徹也さんを紹介。数々の職業を経てたどり着いたマッサージの道で、人の心と身体を癒し続けている。

【プロフィール】やまぐち・てつや■鹿児島生まれ。15歳で渡米。大学では農学を専攻した。趣味で通い始めた航空学校で航空ライセンス取得。その後、マニキュアリストとしてのキャリアを経て、マッサージセラピーを学ぶ。現在、ウエストコビナの女性専用のサロン「M’s Salon & Day Spa」で活躍中。

そもそもアメリカで働くには?

身体の仕組みから技術・心のあり方まで学習

キングストン・ユニバーシティーから
マッサージセラピストの修了証を授与

 父親が帰米2世で、私は中学卒業後に渡米しました。大学では農学を専攻し、農薬管理指導士の資格を取得しましたが、飛行機に興味があったので、航空学校に入り、日本人向けの通訳をしながら練習を積んでいました。生徒の中の1人がカイロとマッサージの仕事をされている方で、ちょうど肩を痛めた時に診てもらい、マッサージに興味を持ちました。
 
 また、その学校で日本人の美容師の方にも出会い、美容にも興味を持ったので、美容学校に通ってネイルの資格を取って、マニキュアリストとして仕事を始めました。マニキュアリストの仕事は2年ほどやっていましたが、お客さんの中には、肩凝りなど、身体の不調を訴えてくる人も多く、マッサージの需要があるのではと思い、東洋と西洋のマッサージ技術が学べるキングストン・ユニバーシティーに入りました。
 
 大学では、東洋式とヨーロッパ式のマッサージ知識と技術を集中して学びました。人体の仕組みや、ボディーワーク、マッサージのテクニックを習得、精神的な面では、ポジティブエナジーを学び、悩みを抱えるお客さんを良い方向に導き、ストレスを解消するといったマッサージ方法も学びましたし、身体が痛いという人に対するペインマネジメントなども学びました。
 
 私の通った大学はメディカルクリニックですので、身体の仕組みから精神的なものまで、広範囲にわたり、専門的な知識や技術を得ることができました。マッサージを習うといっても、ただひと通りのテクニックを学ぶだけではないんですよ。1人1人身体のつくりも違いますし、悩みも違いますし、痛みの原因も違います。また、受ける側にも1人1人好みがありますし、ニーズも違います。実際のところ、マッサージについて、学ぶことに終わりはありません。

開業には覚悟が必要 年月と共に発展

 集中講座を取りましたので、学校は6カ月で卒業できました。卒業して免許を取得すれば開業できますので、あとは個人のテクニックとスピリット次第です。まずは見習いとして働き始めるのが順当なのでしょうが、私の場合、マッサージセラピストだけでなく、美容師やマニキュアリストの免許も持っていましたし、これまで色々な経験を積んで来ていましたので、卒業後、すぐに開業できました。
 
 ウエストコビナで開業する時に、日本人を対象にしようと日系スーパーの近くの場所を選びましたが、来られる方はやはりアメリカ人が中心です。開業には、よほどのやる気がないと。オープンしてすぐにお客さんでいっぱいになるわけではありませんから、そうした覚悟が必要です。最初の頃は、1週間に1人ということもありましたが、現在はおかげさまで、遠方から来られる方も多く、サンディエゴやサンオノフレから来られる方もいます。看護師や医師など、なぜか医学関係のプロフェショナルの方が多いですね。
 
 私のクライアントは99パーセントが女性客ですが、直接女性の肌に触るので、そこに気を遣いますね。プロだからということで信用していただいています。これまでの経験を活かし、スキンケアとマッサージをする女性専用のサロンになったというのも、結果的には偶然ではないのかもしれません。来られる方は皆さん、口コミです。ありがたいことですね。この仕事は、年月が経てば経つほど、忙しくなると思っています。

まず自分を信じ、相手の気持ちになる

 東洋の思想に「一心一体」というのがあります。1つの身体には、1つの心が宿る。心と身体はつながっているんです。ですから、痛いからといってその部分だけをマッサージしても、あまり効果はないんです。テクニックも大切ですが、マッサージをする時に、お客さんの気というか、心が見えていないとダメ。こちらの気も伝わりませんから。
 
 マッサージをする上で1番大事なのは、お客さんの心の中を理解すること。なぜ、どこから、その悩みが来ているのか、なぜ、その身体の一部が痛いのか。そういったことを見抜けないと、いくらマッサージをしても痛みは消えませんし、心の悩みも消えません。
 
 足が痛いと来られた方も、ただそこをマッサージするのではなく、「なぜ、この足が痛くなったのだろう」ということから始めますので、まず2ページ程度のカウンセリングシートに情報を書いていただき、マッサージが終わった後も、一緒に座って話し合います。患者さんというより、友達という感じで親身になってお話しします。会話の中で、身体の問題ではなく心の方に問題があるということもわかるんです。私自身、色々なことを経験してきていますし、年の功かもしれませんね。皆さんは、そういうところを気に入ってくださるのかもしれません。
 
 この仕事をやっていて、つらいことは1つもありません。毎日が楽しいです。自分の行っていることで、身体の痛みがなくなったり、心のあり方が変わったりして、人の人生を変えている。不思議な仕事だと思っています。
 
 この仕事を目指す人は、まず、自分を信じることが大事。勉強する時も、ただ知識やテクニックを身に付けるのではなく、どうやったらお客様から信用してもらえるかということを考えながら学んでほしい。それには、まず自分の気持ちと技術を信用すること。そうすれば、お客様にも通じます。
 
 これからの目標ですか? 今やっていること自体が目標かもしれませんね。色々な人の人生を変えられるし、痛みも取れるし。アメリカで言う、「ヒーリングハンド」、人を幸せにする手を神様からもらえたのかなと思っています。そういう力を手の中にずっと持っていたのかもしれませんし、色々な経験をしてきたからこそ、この仕事にたどり着いたのかもしれません。これからも自分の手足が動く限り、人を幸せにしていきたいと思っています。
 
(2008年4月16日号掲載)

フィジカルセラピスト(医療・福祉系):安中 崇恵さん

手厚い看護とリハビリで
奇跡の回復をとげた患者さんも。
人間の生命力に驚かされます

今回はフィジカルセラピストの安中崇恵さんを紹介。患者とのコミュニケーションを大切に、ケガや病気の後遺症と闘う人々をサポート。フィジカルセラピストという立場や仕事内容、これからの抱負などを聞いた。

【プロフィール】あんなか・たかえ■1974年、群馬県生まれ。カリフォルニア大学リバーサイド校を卒業後、ロマリンダ大学大学院に入学。フィジカルセラピストの博士課程を修了する。現在、カリフォルニア大学サンディエゴ校のリハビリテーション科に所属し、フィジカルセラピストとして勤務する。

そもそもアメリカで働くには?

ヘルスケアに興味
経済専攻から医療の道へ

外来クリニックの様子。患者は
指導を受けながら個々のプログラムをこなす

 私は現在、フィジカルセラピストとして働いていますが、実を言うと、最初からこの職業を目指していたわけではありませんでした。当初は経済の勉強をするために、カリフォルニア大学リバーサイド校で経済学を専攻していたのですが、3年生の時に、医療の分野を目指している友人からヘルスケアや薬剤の話を聞いたり、当時、慢性の腰痛に悩まされていた妹に付き添って病院やカイロプラクティックに通院しているうちに、医療という道に少しずつ興味を持ち始めたのです。
 
 大学卒業後は日本に戻って就職するつもりでいたのですが、色々と考えた末、やはり、医療の道を目指すことに決めました。それでロマリンダ大学に入学したのですが、せっかくならフィジカルセラピーを究めたいと思い、マスターコースではなく、ドクターコースで勉強をし始めました。
 
 学士では経済専攻だったので、医学の勉強は本当に大変でした。とにかく膨大な量の本を読まなければいけませんでしたし、それを1つ1つ、頭できちんと理解しなければなりません。言葉の壁もありましたので、とても苦労したことを覚えています。今、振り返ると、あの時の勉強は学士とは比較にならないほど大変でした。
 
 大学院での1年目は、実際に検体を使った人体解剖での学習です。筋肉や骨格、脳など、人体の構造についての学習が中心でした。2年目は病院での臨床研修で、1年目に教室で学んだことを現場で直に体験します。「あの時に習ったのは、こういうことだったんだ」と、色々なことが結びついていった年でした。3年目は、過去のデータやレポートを勉強したり、数値をもとに、どうすれば効率の良いセラピーができるかといったリサーチ、実際の患者さんの病状をもとにしたケーススタディーなどを勉強しました。
 
 卒業後は、いくつかの病院でインターンとして働き、そのうちの1つであったロサンゼルスのカイザーパーマネンテに就職が決まりました。その後、インターネットでカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)のメディカルセンターで、フィジカルセラピストを募集していることを知り、応募してみたところ採用となり、現在に至っています。

手術後のリハビリを
担当制でサポート

チームワークを大切にしている
仲の良いリハビリスタッフの仲間たち

 UCSDメディカルセンターは、保険のない人でもホームレスの人でも、運ばれて来た人たちは皆受け入れるというポリシーを持っているため、他の病院と比べて急患や重篤な人、複雑なケースの人が多く、ここで働き始めた時はその違いにとても驚きました。
 
 リハビリが必要な患者さんの幅も広く、交通事故で複雑骨折した人や、脳卒中により身体が麻痺してしまった人、ヤケドを負った人、小児麻痺の子供、ケガをしたスポーツ選手、ガンの手術後のリンパ浮腫のためのマッサージなど、その必要性はさまざまです。なかには認知症のお年寄りや、家族がサポートしてくれない人、1人暮らしのお年寄りもいますので、患者さんから色々な事情を聞いたりするなど、コミュニケーションを大切にしながら、1人1人に合ったリハビリプランを立てています。
 
 退院までのプランは、その人が入院前はどんな生活をしていたのか、術後の経過、退院時の状況、家庭環境、老人ホームやホスピスなど他施設の紹介、また医療保険の適用範囲なども考慮しつつ、家族の方々やメディカルチームと相談しながら決めていきます。
 
 UCSDメディカルセンターは、セラピストも担当制となっています。私は現在、膝や関節などの手術を受けた人たちのリハビリを担当しており、患者さんができるだけ早く普段通りの生活に戻れるよう、さまざまな面でサポートをしています。

関心高まる職業
日本での活動も視野に

 この仕事をしていると、人間の生命力や気力に驚かされることがたびたびあります。例えば、医者が回復の見込みがないと判断した脳梗塞の患者が、奇跡的に歩けるまでに回復することもあり、時々、医学では説明のつかないことが起きたりするんです。また、家族の手厚い看病とサポートによって、手術後の回復がとても速くなることもあります。
 
 またそれとは逆に、何度も手術を繰り返している人は、悲観的になることもしばしばありますし、術後に痛みがある人は、リハビリをしたがらないこともあります。そういう人たちにはリハビリの必要性をしっかりと説明し、フィジカルな面だけでなく、メンタルの面でもサポートしなければなりません。
 
 私は日本のリハビリの現状についても興味を持っています。今後、日本でフィジカルセラピストとして働くチャンスがあるかどうかはわかりませんが、その機会が急に巡って来てもいいように、準備だけはしておきたいと思っています。これから意欲的に研修会などにも参加して、多くの人たちと知識や体験談を交換し合い、日本の情報を収集しておきたいですね。
 
 私が大学院で勉強していた頃は、フィジカルセラピストという職業は、あまり日本人には人気がなかったように思うのですが、この頃、なりたいという人が増えてきて、とてもうれしく思います。
 
 フィジカルセラピストは、体力的にも精神的にもハードな仕事ではありますが、職場のスタッフや日本にいる家族に支えられているお陰で今の自分があると思いますし、地道にやっていけばチャンスは巡って来るものだと思いますので、これからも元気に頑張っていきたいです。
 
(2007年12月16日号掲載)