[acknowledge]認める、認識する、受け入れる、白状する、告白する(Newsな英単語 Vol. 3)

みどり・アナカレア

【 ニュース原文 】
Stephen Hunter, movie critic for The (Washington) Post, says that of the more than 600 English-language movies made about World War II since 1940, only four — most notably “The Bridge on the River Kwai” (1957) — ” have even acknowledged the humanity” of Japanese soldiers.

【 訳 】
『ワシントンポスト』の映画評論家、スティーブン・ハンター氏は、1940年以降、第2次世界大戦に関する英語の映画が600以上あるにもかかわらず、日本兵がわずかでも人間性を持っていると認めたものは、1957年の『戦場に架ける橋』を筆頭に、たった4本しかないと述べている。

出典:Washington Post(電子版)・2007年2月25日

【 解 説 】
 渡辺謙さん主演の『硫黄島からの手紙』は惜しくもオスカーを逃しましたが、日本軍=悪という、映画界の「常識」を打ち砕いたという点でも評価されていたようです。
 「acknowledge」は、事実を「認識する」ことを意味しますが、「白状する」=認めざるを得ない状態に追い込まれる、「知らせる」=事実を認識させる、という文脈で使われることもあります。法律用語では、子供を認知することも「acknowledge」です。
 
【 例 文 】
Mike finally acknowledged his proposed resolution was of total distortion.
マイクはついに、自分が提出した法案は完全なこじつけだったと白状せざるを得なかった。
 
Sally felt that the time has come for her to acknowledge the truth to Yoshiko.
サリーはヨシコに、本当のことを告白する時が来たと感じた。

[counter]反論する、対抗する、迎え撃つ、反対の、窓口(Newsな英単語 Vol. 2)

みどり・アナカレア

【 ニュース原文 】
President Bush has authorized U.S. forces in Iraq to take whatever actions are necessary to counter Iranian agents deemed a threat to American troops or the public at large, the White House said Friday.

【 訳 】
 (1月26日)金曜日にホワイトハウス(のスポークスマン)は、ブッシュ大統領がイラクに展開する米軍に対して、イランの工作員が米軍や市民に対する脅威であると判断された場合には、必要ないかなる措置をも講じる権限を米軍に与えたと発表した。

出典:LA Times(電子版)・2007年1月26日

【 解 説 】
 ブッシュ大統領のイラクへの米軍増派方針には、与党からも反発が…。現地の米軍にこういった権限を与えることは、問題を複雑にしそうな気がします。
 Counter punchやCounter offerという使い方で想像がつくように、動詞の「counter」には、「反撃」や「反論」のような、対抗措置を取るという意味があります。相手が何もしないうちには、基本的に「counter」は使いません。
 
【 例 文 】
Just after Bob handed in his resignation to his boss, he received a counter offer too good to resist.
ボブが上司に辞表を出した後、彼は断りきれないほど好条件のカウンターオファーを受け取った。
 
The Giants counter by acquiring Zito, as their ace pitcher Schimdt contracted with the Dodgers.
ジャイアンツはドジャーズにエースのシュミットを取られたので、対抗措置としてズィートを獲得した。

[elaborate] 凝った、精巧な、複雑な、詳しく述べる(Newsな英単語 Vol. 1)

みどり・アナカレア

【 ニュース原文 】
The elaborate invitation-only service at the Washington National Cathedral was the final assembly in the capital’s portion of the state funeral for the 38th president, before Ford’s interment Wednesday in Grand Rapids, Mich.

【 訳 】
 ワシントン国立大聖堂で行われた第38代大統領フォード氏の国葬は、(1月3日)水曜日にミシガン州グランドラピッズ市での埋葬式の前に行われる、首都ワシントンでの最後の集会となった。国葬は凝ったつくりの招待状を受け取った、招待客のみが参加できるというものであった。
出典:LA Times(電子版)・2007年1月2日

【 解 説 】
 フォード元大統領の国葬が1月2日に行われました。こういった場所には、招待状を受け取ったVIPだけが集まるわけですが、その招待状も、容易に偽造できないような、凝ったつくりになっているんでしょうね。
 ここで、招待状の形容詞として使われた「elaborate」には、「手の込んだ」「精巧な」という意味があります。模型や機械などが細かく作り込まれているような場合に使います。また、「elaborate design」のように「複雑な」と訳す場合、下記の例文のように「詳しく述べる」と訳すのが適当な場合もあります。
 
【 例 文 】
There was an elaborate ship model displayed at the museum.
博物館には精巧な船の模型が展示されていた。
Would you care to elaborate a little more please?
もう少し詳しく説明していただけますか。

デニム・ヘッドデザイナー(クリエイティブ系):松原正明さん

「プロダクトに対して純粋」であるべき。
デザイナーのエゴは、現場に伝わります。

日本で大手ジーンズメーカーに勤務し、ジーンズ制作のいろはを学んだデザイナーの松原正明さん。デニムジーンズの本場でデザインをしてみたいと渡米し、プレミアムジーンズを製造するAG Adriano Goldschmied, Inc.社に入社。「エゴを出さないのが僕のスタイル」と謙虚に語る松原さんに話を聞いた。

【プロフィール】まつばらまさあき◉東京都出身。日本の大学で経済学を専攻した後、大手ジーンズメーカーに入社。企画生産部に配属される。2007年にプレミアムジーンズ「AGジーンズ」を製造/販売するAG Adriano Goldschmied, Inc.転職のため渡米。以来ヘッドデザイナーとして、同社で活躍中

そもそもアメリカで働くには?

ジーンズ発祥の地で一度は働いてみたい

大学は経済学部を出ていて、卒業後は大手ジーンズメーカーに入社しました。ですから、ジーンズに関するノウハウは、すべて社会人になってから覚えたんです。元々洋服が好きで、特にジーンズが好きだったのが、入社のきっかけでした。企画生産という部署に配属され、デザインだけでなく、初めは生産やアシスタントなど、色んなことを経験しました。
 
デニムジーンズ発祥の地である西海岸には、出張や個人的趣味もあって何度も来ていました。それで業界の色々な方たちとお話しする機会にも恵まれて、ひょんなことから今の会社(AGAdriano Goldschmied, Inc.)で働くことになりました。
 
AG Jeansは、ロサンゼルス初のプレミアムジーンズ・ブランドで、社名になっている有名なデニムデザイナー、アドリアーノ・ゴールドシュミットと、アメリカ有数のデニム工場、Koos Manufacturing Inc.が合併して誕生しました。そういう経緯で生まれたブランドですから、縫製、ウォッシュ加工の工場が、デザインオフィスと一緒になっているという、稀で、恵まれた環境にあるんです。「ここなら思いっ切り、力を発揮できるかも」という感覚になりましたね。
 
西海岸はジーンズ発祥の地で、歴史もあります。ジーンズに関わっている者なら、誰もが一度は働いてみたいと思いますよね。それまで日本のブランド一筋で11年間ずっとやってきましたから、今度は異なるグラウンドで、チャレンジしてみたいと思い、渡米を決意しました。2007年のことです。
 

ファーストサンプルでも 即商品化される

松原さんデザインの今年のコレクション

こちらで働き始めたら、渡米前とはずいぶんイメージが変わりましたね。もちろんアメリカはやっぱりスゴイのですが、本場に来て初めて、日本のジーンズの水準の高さに驚きました(苦笑)。どちらが良い、悪いということではなく、「違い」はやっぱりあります。例えば、アメリカは決定から商品化のスピードがとても速い。日本では散々考え抜いて決定を下すわけですが、ここでは「イイと感じたら、考え抜く前にやってみよう」っていう感じで、決定が単純明快です。
 
僕がサンプルを作って、「こういうデザインでやりたい」と言った時に、日本だったら「こんな物もある」「こういうサンプルの作り方がある」とか色々意見が出てくるんですね。でも、ここでは、「作ったんだから、さあ売りましょう」と、ドンドン先のステップに進んでいきます。うちの会社は、工場とオフィスが一緒になっている環境が恵まれていると言いましたが、デザインしたサンプルは、急げば2日以内に上がってきます。通常は外部の工場に送って、最速でも1週間はかかります。ただし、その分、すぐに決めていかなくちゃいけないのですが…。
 
また、日本で働いていた時は、自分がファーストサンプルを作っても、それがすぐに商品化されることはなかったです。最初のサンプルからもっと練り直して、またサンプルを作って、やっと皆にプレゼンして、そこで会議にかかって、ようやく商品化でした。今は、最初のサンプルの出来が良ければ、いきなりマーケットに出されることもあります。だから、ファーストサンプルを作る時に、時間がない中で、自分の持てる物を全部注ぎ込まないといけない。のんびり考えている暇がないほどスピードが速いです。「もっとじっくり作り込ませてほしい」と思ったこともありましたが、このペースで全体が動いていますから、僕だけが時間をかけて、歩調を乱すわけにはいきません。
 
嗜好の部分での違いもありました。日本で人気のあるフィットや素材と、アメリカで人気のあるものは全然違いました。日本と同じようにいけるだろうと思って来ましたから、戸惑いましたね。感覚の違いでしょうか、売れる物がやはり違うんですね。日本で、「これなら絶対売れる」という鉄板的なアイデアがあっても、アメリカでは全然売れないこともありました。そういう違いを理解するのに苦労しました。
 
最初の1年くらいは、それでミスをしました。知識があってもミスしちゃうんで、悩みましたね。ですが、大きなミスにならずに済みましたし、今もそうですけど、当時から会社の売上が伸びていて、前向きな失敗はある程度許容する流れにあったのは幸いでした。
 
現在、ヘッドデザイナーとして、デニムに関することは、全部僕が最終決定をしています。アシスタントデザイナーが数人いますので、彼女たちと一緒に生地を選んで、デザインを起こして、パタンナーと打ち合わせして、フィッティングして…。その生地が上がったら、ウォッシュの開発をします。そうして季節ごとに年4回のコレクションを作り上げるのが大きな仕事です。リサーチやコレクションを出品している展示会に出るために、ヨーロッパやニューヨーク、日本にも出張します。

ムダを省くのが僕のスタイル

ジーンズのデザインは、基本的にLevi’sの5ポケットがベースとして存在します。素材にしてもデニムに決まっていますから、その中でどうするかです。あとはウォッシュという色の洗い落としで差別化を図るしかありません。素材のデニムを擦ったり、石と一緒に洗ったり、ブリーチをかけたりして色を落とすという作業をどういう風にするか、そこに個性が出ます。染め方によって落とし方も違いますし、糸の作り方によって擦り方が違ってきたり。他の洋服のデザインとは、かなり異質なものですね。
 
基本的に僕は、デザインに我を出さないようにしています。デザインに我を出すと、それは値段に跳ね返ってきます。なぜなら我を出すということは、何かを付け加えることになり、それはコスト増を意味します。できる限りムダを省くというのが、僕のスタイルです。それが個性と言ったら個性かもしれないですね。プレミアムマーケットでは、珍しいデザイナーなのかもしれません。
 
例えば個性を出したいのであれば、クオリティーの高いボタンを使うとか、良い素材を使ったり、そういうところでプレミアム感、圧倒的な違いを出したいと、僕は思います。うちのジーンズは1本200ドル以上、300ドル台の商品が多いですが、実際使っているボタンはイタリア製、素材も7~8割は日本の物を使って品質にこだわっています。
 
この仕事をしていてやりがいを感じることは、日本で初めてデニムを自分で企画して作った時から変わらないです。それが売れて、誰かに履いていただけることです。今は、それに加えてAGジーンズというブランドがうまくいくことが、うれしいですね。

経験を積むエゴを出さない

デザイナー志望の人にアドバイスですか?僕が言うのもなんですけど、「経験を積む」ことが大切かもしれません。うちのインターンの子たちを見ていても、経験を積んでのし上がってやるという強い想いをすごく感じますね。チャンスはいっぱいあると思いますよ。特に日本人でしたら、それくらいの積極性がないと、ただでさえ言葉や文化でハンデがあるわけですから。遠慮していては、やっていけないでしょうね。
 
あとは、先にも言いましたが、デザインで「エゴを出さないこと」でしょうか。「ここをこうすれば、自分をアピールができるんじゃないか」。そういうものは、実は余計であることが多い。デザイナーのエゴが入ると、製造現場の人たちって気付くんです。そうすると、現場から信用されなくなります。だから、「プロダクトに対して純粋」であるべきなんです。現場から信頼されれば、必ず良い物が上がってきます。難しいことかもしれませんけど、そういう純粋さが大切です。
 
(2012年7月1日号掲載)

エンターテインメント(クリエイティブ系):緒方 篤さん

ふとしたところに発見がある
刺激のある作品を創っていきたい

ハーバード大学卒業後、大手コンピューターメーカーにてソフトウェアの研究者として勤務。その後、芸術を学びたいと大学院入り、映像作家、監督としてヨーロッパ、日本、アメリカを舞台に活躍した緒方 篤さん。「世界的にインパクトのあることをしたい」と話す緒方さんに話を聞いた。

【プロフィール】おがた・あつし◉13歳の時に父親の仕事の関係で、家族でアメリカに移住。ハーバード大学卒業後、富士通に入社。休職し、 マサチューセッツ工科大学(MIT)修士課程でビデオアートを学ぶ。富士通復職後、フリーランスの映像作家、監督としてドイツ、オランダを中心に活動。ショートフィルム『不老長寿(Eternally Yours)』が世界各地の映画祭で高い評価を得る。初の長編映画『脇役物語(Cast me if you can)』は数々の海外映画祭に入選。北米でもDVDが配給開始。DVD情報www.amazon.comにて「Cast me if you can」を入力

そもそもアメリカで働くには?

不器用でアートは苦手 カメラでは感性を表現できた

13歳の時、父の仕事の関係でニューヨークに引っ越してきました。子供の頃は芸術の世界に入るとは思ってもいませんでした。学校の工作の時間でも、彫刻刀で何かを彫っても上手くできない、どちらかというと不器用なタイプでした。ところが、高校生の時に父が買ってくれたスチルカメラで写真を撮ったり、現像したり、焼き付けたり、それから8ミリフィルムを使って、自分で撮影したものを編集して遊んでいました。カメラを使っていると、まるで筆で何かを描くみたいに、自然に感性を表現することができたんですね。そういうことが非常に面白くてたまりませんでした。
 
大学ではいくつかアートやデザインのクラスは取りましたが、プロになるとは、まだ思っていませんでした。家族にも周りにもアートの分野で活躍している人はいなかったですし、そういう学部で学んでいたわけでもなかったですし。
 
大学を出て日本に戻り、富士通の研究所に就職してソフトウェアの開発をしていました。その頃、アメリカ人の友人が僕が撮った写真を見て、「才能があるよ」って言ってくれて。そこで初めて、やっぱり自分の感性を使って仕事がしたい、試してみたいという気持ちになったんです。それで、少し芸術的なことを学ぼうと大学院に行きました。大学院では、ビデオカメラや編集機材が使い放題でした。それで、写真やビデオを、思う存分やったんです。基本的にこれが、私の人生の大きな分かれ道だったと思います。

漠然とした監督業への憧れ やれることからやってみた

『脇役物語』の撮影現場より。主演の益岡徹さんと緒方監督 © 2010 Dream On Productions

大学院を卒業後、いったん富士通に戻ったのですが、ドイツにあるメディア・アート・アカデミーに客員作家として呼ばれ、半年くらいの予定でドイツに行きました。結局そのままフリーランスとしてヨーロッパに残って、ドイツ、オランダなどを中心に脚本を書く助成金もらったり、テレビに俳優として出演したりという機会に恵まれました。
 
もともと映像作家だったのが、脚本を学び、演技を学び、演出を学びという形で広がり映画監督に行き着いたので、監督という仕事は、今まで自分のしてきたことの集大成という感じ。それらを全部経験していなかったら、できなかったと思っています。スチル写真が動画になり、ストーリーを書き、それを全部まとめて監督すると、自分の作品になって、発表できることになります。そういった形で監督になりました。

映画は色んな人の知識が コラボされて作られる

2005年に、オランダで短編作品を初めて監督。その後、冬休みで日本に帰国しました。その時に父の具合が悪くなり、少し長く日本に滞在することになりました。そこで、せっかく日本にいるのだから、日本でも何か作品を作れないかなと思ったんです。
 
新潟の十日町で、屋外彫刻を主にやる芸術祭があるんですが、映画をやりたいと思って、その十日町を舞台にした作品を提案してみました。すると企画が通って、製作費を出していただいて、製作できることになったんです。それが、短編映画『不老長寿』を作るきっかけでした。
 
『不老長寿』がうまくいったので、今度は長編作品の監督としてデビューしたいと考えました。実は、ヨーロッパで長編デビューをしようと何回も試みたことがありました。一部製作費が出るようなところまで話がいったこともあったんですが、デビューにまでは至りませんでした。
 
アメリカで長編デビューをするのはとても難しいことなので、それだったら日本の方がデビューしやすいのではないかと。『不老長寿』でとてもレベルの高いスタッフと、プロの役者さんに出ていただけたので、同じ方たちなどに協力していただいて、長編作品の『脇役物語』を作ることになったんです。
 
撮影の現場では、コメディーを撮ってますし、基本的にユーモアを持った形でやるようにはしています。小学校の頃、先生の後ろに立って変な格好をしたりして皆を笑わせるタイプの子っているでしょ?僕がそんなタイプ。そういう感じでチームをリードしていった部分がありました。日本の撮影現場は、監督だけでなく目上のスタッフがやたら怒鳴ったりするらしいんですけど、私にしてみたら、スタッフの皆さんに自分の作品を作るのを手伝ってもらっているという気持ちもあるし、怒ったってみんな萎縮しちゃうだけ。もちろん、「こうしてください」と監督の立場として強く主張する部分もありますが、もっと論理的に「こうだから、こうした方がいいんじゃない」と、励ますような形で皆の気持ちを動かすようにしていますね。
 
映画は色んな人の色んな意見を取り入れて、その人たちの経験や才能をうまく組み合わせていくことによって作られていくものなんです。さまざまな意見をうまく取り入れることによって、1+1+1が1万になるような、良いコラボレーションをしていかなくてはならないと常に思っています。
 
脚本を書き、役者さんと一緒に考え、スタッフと撮影をして、作品を作るというプロセスすべてが楽しいですね。それを観てもらって、「感動した」とか、「面白かった」とか、「泣けた」とか、そういうフィードバックをもらえるのは、やっぱりすごくうれしいですし、とても励まされます。商業的には、ターゲット層を絞って作った方が良いのかもしれないですが、そうなると特定の人にだけ向けた物しか作れなくなってしまいます。いつもは別々の世界、別々の社会にいる人たちが、映画を観る時は一緒の空間で一緒に笑ってほしい。僕の場合は「色んな人が一緒に観る」ことが大事だと思っているんです。『脇役物語』が北米でも配給されることになったので、できるだけ多くの人たちに観ていただきたいですね。

社会のためになる刺激を 作品に入れていきたい

今は次の映画の脚本を書いています。今度の映画は英語でやろうと思っていて、これもコメディーです。これから、どんどん世界的にインパクトのある仕事をしたいという思いがあります。もちろん簡単にできることではないですし、どういう世界を描きたいかということが明確にあることが大切だと思います。
 
先日、大学の同窓会のイベントに参加してきたんですが、そこでアメリカのTV番組に携わる先輩が話していました。ハリウッドはエンターテインメント性を狙っていますから、そういう観点しかない人たちと一緒に仕事をしながらも、社会を少しでも前に動かすような努力をしているんだそうです。
 
例えば『ER』というTV番組では、初めてアフリカ系アメリカ人のエイズに感染している女性を主人公の一人として登場させることを実現させました。普通のエンターテインメントなんだけれど、メッセージを作中に埋め込んだんです。もちろん、それを前面に押し出して企画を進めたわけではなかったらしいんですが、社会のためになるようなメッセージ性のあるものをこっそり混ぜる。そういうふとしたところに発見があるような、人を刺激できる作品を作っていけたらと思っています。
 
映画監督を志す前に、自分が何になりたいか、何に一番向いているか、自分がどういうことを表現したいかをよく考えてみるべきだと思います。技術的なことはいくらでも後で習えますから、たくさんの映画を観たり、たくさんの本を読んだり、実際に色々な体験をしてみることが大切だと思います。そうしないと、他の人が作った作品を真似るだけになってしまいます。それでは監督である意味がないと思います。脚本を書いてみたり、演技をしてみたり、そういうことは、私の現在の監督という仕事に対し、全部プラスになっています。色んなことを経験して、自分が何を求めているのかを知ることが大事だと思います。
 
(2012年2月1日号掲載)

Royal/T チーフウェイトレス/女優・ダンサー(クリエイティブ系):朝倉 優さん

人を楽しませるウェイトレスは女優と同じ
日本の文化や言葉を自分流に伝えたい

アメリカ初の〝メイドカフェ〞として話題の「Royal/T」に、立ち上げから携わってきた朝倉優さん。女優として活躍するかたわら、メイド姿のウェイトレスやバリスタとして店のサービスを仕切っている。アメリカの若い世代に今の日本文化、日本語を伝えていきたいと意欲を燃やす朝倉さんに聞いた。

【プロフィール】あさくら・ゆう◉横浜市で生まれ、兵庫県川西市で育つ。東京外国語大学英語学科卒業。2000年に渡米。Theater of Artsの演劇科で4年間学ぶ。ハリウッドの映画制作会社で通訳として勤務した経験を持つ。2008年より、カルバーシティーのギャラリー・カフェ「Royal/T」にウェイトレス、バリスタとして勤務。UNION SAG、AFTRAメンバー。Infi nite Talent Agency所属。出演作品に『Love Talk』(2005)、『現-Utsutsu』(2010)など。ハリウッド在住。公式サイト:www.yuuasakura.com 

そもそもアメリカで働くには?

日本文化を伝える 身近な女の子という役割

カフェも演技を磨くための〝舞台〞。スタッフと

Royal/Tは、2008年初めにオープンした店で、アートギャラリーとカフェ、ショップの3つから構成されています。日本のポップアートのコレクターであるアメリカ人女性、スーザン・ハンコックがオーナーです。彼女のプライベートコレクションを中心としたポップアートを展示するギャラリーを開くことが店の当初の目的でしたが、それに秋葉原のメイドカフェの要素を加えたカフェと、ポップアート系の商品を扱うショップを併設した複合施設としてオープンしました。
 
ギャラリーでは、モダンアートを中心に、毎回違うキュレーターによる企画展を6カ月ごとに開催し、多目的スペースでは、世界のお茶のフェスティバルや、ジャズコンサートなど、多彩なイベントも行っています。私は、オープン当初からウェイトレスとして入り、現在はチーフウェイトレスとして、またバリスタとしてフロア全体をまとめています。
 
「メイドカフェ、アメリカ初上陸」といった触れ込みで、さまざまなメディアにずいぶん取り上げられてきましたが、秋葉原のメイドカフェのようなサービスはしていないんですよ。コスプレーヤーやアニメファンをターゲットにしたカフェと言うよりも、コンセプトはあくまでも〝アート志向〞と言ったらわかりやすいでしょうか。
 
カフェのメニューもハンバーガーやサンドイッチのほか、カツカレーや丼物、ヤキソバなど、日本の料理も出しています。ソニースタジオなどが近いので、エンタメ業界の方々のビジネスランチや家族連れ、デートなどで来られる方も多いですね。特に当店が日本のメイドカフェということを知らずに入って来られる方も多いようです。
 
ここの求人を知った時、私も最初「メイドカフェなんて、自分には無理!」と思いましたが、実際にこの制服を着てみると、意外と普通だったのにびっくり(笑)。最初は週1日のお手伝いだったのが、2年ほど前から頻繁に入るようになり、現在ではフロアの取りまとめ役を務めるチーフウェイトレスとして、またバリスタとして働くように。ギャラリー、ショップ含めてスタッフは総勢20名ほど、そのうちカフェは14人、なかでもウェイトレス、バリスタは約10人ですが、日本人は、私を含めて3人ほど。皆若く、人の入れ替わりが頻繁ですので、マネージメントはなかなか大変です。
 
日本文化を紹介する「Japan-ology」というイベントを開催していて、日本映画の上映と映画に登場する日本食の試食、お酒のテイスティングなどを行っています。こういったイベントで来店されるお客様は、特に日本文化に興味を持っておられるので、話していて楽しいですね。日本語や日本文化、ファッションなど、色々なことを聞かれます。
 
私たちウェイトレスは、彼らにとって一番身近な所にいる〝普通の日本人の女の子〞代表としての役割を、果たしているのではないかと思います。ランチタイムには行列もできるほど忙しい店なので、サービスはスピード優先の面もありますが、テキパキと仕事をしつつ、せっかく楽しみにして来てくれているお客様との会話も楽しみながら、この店のイメージや品位を守っていきたいと思いますね。お客様の気分を、明るく楽しくすることがカフェのモットーです。

女優としては 日本人にこだわらない

アメリカには、女優を目指してやって来ました。日本で大学を卒業後、1年間バイトをして資金を作り、ロサンゼルスに来たのは00年のクリスマスのことでした。
 
兵庫県川西市出身で、宝塚市が隣にあり、中学・高校の頃はずっと宝塚歌劇団に憧れ、宝塚に入りたいと思っていました。宝塚音楽学校に入るため、踊りやお芝居の勉強もしてきました。でも、高校卒業後に入試を受けたところ、見事落ちてしまって。ちょうど阪神・淡路大震災の後で、これから自分はどうしようか、途方に暮れてしまいました。関西で生まれ育ってきたので、一度、東京に出てみようと思い、東京外国語大学を受験、英語学科に入学しました。
 
そして、英語学科の講義で出会ったのが、ハリウッド映画の世界でした。宝塚がダメなら、ハリウッド女優を目指すしかないと思いました。英語は得意でしたし、アメリカに行ってみたいという気持ちが膨らんで、卒業後、ロサンゼルスに渡り、アクティングの学校に入って4年間学びました。
 
CMや映画出演などのほか、年に1、2回は舞台に立つようにしています。ハリウッドの劇団のほか、昨年は日本人の役者で構成された劇団「IKI・粋」で、時代劇に出ました。演技力を磨き、自己表現力を付けるために舞台は大切。ロサンゼルスでは舞台役者だけでは生活していけませんが、いい演技ができるよう、楽しんでやっています。
 
映画で仕事を得るのは、大変なこと。これは日本人のみならず、アメリカ人でも難しいことです。最近は、オーディションで人種が問われないことが増えていますが、日本人だからといってチャンスが増えるわけではありませんし、自分自身、日本人であることに、こだわらないようにしています。以前、Lizard Theaterでもらったのが、50代のおしゃべり女教師の役。「面白いからやってみろ」と言われて。また、渡米間もない頃に口汚い女の子の役をもらい、辞書にも載っていないようなスラングを連発するという経験もしました。気合でやり遂げましたよ。こうした経験から、「そうか、日本人ということにこだわらなくてもいいんだ」と実感したわけです。
 
どんな役にも挑戦してみたいですが、やはり「この役は優ちゃんにしかできない」と言われるような仕事がしたい。俳優仲間からは、〝極妻系〞が合っているなどと言われますが、それもいいかなと(笑)。自分自身、年を重ねてから売れるタイプだと思っていますので、これからもどんどん自分を磨いていきたいです。演技のセミナーやクラスに参加し、ヒップホップやジャズ、フラなどダンスにも力を入れています。最近は少林寺拳法も始めました。

楽しい日本語クラスを 提供したい

店の仕事とはうまく両立できていると思います。やはり女優業がメインですので、オーディションがある時、舞台のある時などは、そちら優先させますが、理解してもらっています。また、店に出ることで、世の中の動きにアンテナを張っていられます。アメリカ人にどう接したら喜んでもらえるかという勉強にもなりますし、人に見られているという意味では女優と同じ。メイドカフェのウェイトレスは女優のような部分もあるように思います。
 
また、Royal/Tはユニークな店ですので、店のブランドを確立するための手助けが何かできたらという思いもあります。日本に帰るたび、ショップで扱うポップアートっぽい商品を買い付けたり、東日本大震災の被災地に向けたチャリティーイベントの企画に参加したりしてきましたが、これからもできる範囲で店に貢献していきたいです。
 
それから、店でお客様と接していて気付いたのですが、日本語会話の練習相手を探しているアメリカ人が随分といるようです。文法も習得し、ある程度話せるのに、ブラッシュアップする場が少ないようなのです。また、以前ハウツーもののビデオクリップに日本語講座の講師として出演していたのですが、インターネットで見た人たちは、私が日本語教師だと思ってコメントをたくさんくださりました。反響がとてもうれしかったですね。自分が語学を専攻していたこともあり、とても興味のある分野ですので、店内にクラスを設けて直接教えてもいいですし、世界どこからでもアクセスして学べるオンライン講座を立ち上げるのもいいですね。何か実現させたいと構想しているところです。
 

(2011年7月1日号掲載)

エンターテインメント プロデューサー/プロダクション・スーパーバイザー(クリエイティブ系):蔭山京子さん

高いレベルで、本当に尊敬できる人たちと
一緒に仕事ができることを、すごく誇りに思います。

生き馬の目を抜くハリウッド映画業界で、フリーでプロデューサー/プロダクション・スーパーバイザーとして活躍する、数少ない日本人の一人が蔭山京子さん。映画『The Last Samurai』でProduction Supervisor-Japanとして、日米撮影チームのキーパーソンとなった。常に前向きに、チャレンジを恐れない蔭山さんに聞いた。

【プロフィール】かげやま・きょうこ●大阪府生まれ。サンディエゴ州立大学に編入し、広告を専攻。卒業後、パサデナのアートセンター・カレッジに入学し、フィルムを専攻。1986年東京のCM制作会社・東北新社に入社。90年同社ロサンゼルス支社に転勤。2年間同支社に勤務後に独立し、NBCミニシリーズ『Gai-jin』を担当。その後、映画『Jingle All The Way』『Road to Perdition』『Beowulf』『A Christmas Carol』などを手がけ、『Brother』『Driven』『Silk』『The Last Samurai』でProduction Supervisorを務める。http://dancingsparrow.blogspot.com(ブログ) 

そもそもアメリカで働くには?

TVCM絶頂のバブル期に 大手クライアントの仕事を経験

1931年のシカゴの街を再現した『Road to Perdition』の撮影現場にて

日本の大学に通っていた夏休みに、サンディエゴにホームステイしました。その時にステイ先のファミリーが、「アメリカの大学で学んでみたらどうか」とすすめてくれ、私の親に手紙を書いてくれました。それがきっかけとなって、サンディエゴ州立大学(SDSU)に編入しました。TVコマーシャルに興味があったので、メジャーを広告、マイナーでテレビと映画を専攻しました。
 
卒業後は、専門誌でメジャーなCMを手がけている広告代理店やアートディレクターの名前を調べて、直接就職希望の手紙を送り、面接してもらいました。大学時代に作ったポートフォリオ(作品集)を持参したのですが、実習に力を入れた大学ではなかったので十分ではなく、パサデナにあるアートセンター・カレッジに通ったらいいと言われ、進学しました。
 
アートセンター終了時の80年代後半、日本はバブル期。東京で就職しようと帰国し、CM制作会社の入社試験を5社ほど受けました。激しい競争の中、東北新社に制作として入社することができました。
 
当時は今では考えられないくらいCMの仕事はあり、新人の私もしょっちゅう海外ロケ。世界各国を休む間もなく回り、疲労困憊しました。ある時、ロサンゼルスでの仕事があり、久しぶりにすごく気持ち良いと感じたんですね。ロサンゼルスが恋しい気持ちになっていると、ロサンゼルス支社の社長から声が掛かったんです。ソニーやサントリー、富士フイルムなど、大手クライアントのCM制作を手がけました。マイケル・ジャクソン、エリック・クラプトン、レイ・チャールズ、アーノルド・シュワルツェネッガーといった大物と数多く仕事ができて、今振り返ると本当にラッキーでしたね。
 
具体的な私の仕事は、日本から送られてきた絵コンテに基づき、アメリカでの予算を作ること。それから、クルーを何人雇い、どこで撮影するのか、衣装やメイクなどのスタッフは現地で雇うのか、日本から連れて来るのかなどを決めます。そして、これらをすべて予算内に収めるよう調整します。その全行程を私が指揮していました。
 
2年間そこで働いたのですが、アメリカ社会の中で働きたいという新たな目標が生まれてきて、1992年に東北新社を退職、フリーランスとして仕事を開始しました。それまでは自動的に仕事が入って来たのですが、独立すると当然すべて独力です。ただ、それまでの仕事でコネクションができていたので、声をかけてもらえることがありました。ある時知人を通じて、NBCのミニシリーズ『Gai-jin』の仕事の話が飛び込んできました。ロケは日本でも行われ、私はアメリカ側のプロダクション・コーディネーターとして携わりました。これが転機となり、映画の仕事を始めるようになりました。
 
『Gai-jin』でのアメリカ側のプロデューサーから声をかけられて受けた仕事が、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の『Jingle All The Way』。FOXのセンチュリーシティーのスタジオの中にいると、やはり緊張したし、自信もなくて、ちゃんと仕事ができるか不安でした。が、ハリウッドの映画業界で働けることが同時にうれしかったですね。
 
現場のことがわからない私に、失敗の責任を転嫁されることが何度かありました。そういう時アメリカ人だったら、言われた100倍言い返すところですが、日本人って「そんなくだらないことで言い争ってもしょうがない」という気持ちになりますよね。ですが、直属の上司は私が一生懸命仕事をしているのを見ていて、理解してくれていました。失敗を転嫁しようとするアメリカ人と英語が完璧に話せなくとも、仕事をちゃんとする私を、冷静な目で見てくれた上司を素晴らしいと思いました。
 
そういった経験を何度もしているうちに、「日本人でいてはいけない」と思いました。もちろん日本人であることは誇るべきだと思いますが、ハリウッドでやっていこうと思ったら、自分を主張し、前に出ていくことが、一番大切なのです。

『The Last Samurai』で試された 問題解決の腕

今までの仕事で1番印象に残っているのが、プロダクション・スーパーバイザーとして関わった『The Last Samurai』。日本に半年、その後ニュージーランドにも半年、計1年以上携わったこと、任された責任が大きかったこと、そして予算も大きかったことが理由です。
 
京都と姫路で撮影したのですが、撮影の許認可など多くの問題があり、日本での撮影は大変だということがしみじみわかりました。例えば、主演のトム・クルーズがいつも楽屋として使う大型トレーラーをハリウッドから京都に輸送する予定だったのですが、京都の狭い道路では角を曲がれないことがわかりました。仕方がなくお寺の一室を控え室にしたりしましたが、彼は文句一つ言いませんでした。
 
ニュージーランドでは、監督の意向で300人のエキストラすべてを日本 人で実施。日本と現地からそれだけの日本人を集める手配や許認可申請をスタッフに指示し、すべて私が最終チェックをしました。そうやって集まったエキストラがハッピーなのを見ていると、この仕事をやっていて良かったなと思いますね。
 
プロダクション・スーパーバイザーの仕事は、〝プロブレム・ソルビング( 問題解決)〞です。『The Last Samurai』では、監督やカメラマンの望むロケ地、機材の手配、撮影時のシミュレーションなどを、松竹京都映画を通して円滑に進めるのが大変でした。日米の撮影習慣や文化の違いで色んな問題が起きましたが、そんな時こそ、どれだけ双方の要求を叶えられるか。そこに腕が求められました。

ハリウッド=コネクション コミュニケーションがすべて

この仕事はコミュニケーションがすべてなので、最初の頃は苦労しました。日本人なら以心伝心で伝わることもありますが、アメリカ人にはそれはないですから。
 
それから、広くコネクションを築くことが重要です。基本的にハリウッドは、人とのつながりです。色んな場所へ出かけ、色んな人たちと会って、色んな仕事をこなしていく。あと、どこにどんな人がいるかわからないから、お手伝いの現場からパーティーまで、あらゆる場で自分が何をやりたいか、恥ずかしがらずに人に話すことが大切ですね。やはり自分を売り込むことは重要。そうしているうちに、つながりが生まれます。そこからは個人の努力ですね。
 
日本が関わっている映画では、現在、スーパーバイザーを担っています。ディレクターから直接台本の構想、撮影の要望を聞き、日本側に伝え、監督の希望通り撮影が成立するよう、全工程を確認していきます。同時に、日本と関係のない仕事では、今までの経験を活かし、撮影がすべて上手くいくようにコーディネートする制作関係の役割を果たしています。日本での仕事と比べれば、細かく分業されているので、アメリカの方が仕事はしやすいですね。直近の作品では、『Mars Needs Moms』で俳優をコーディネートする仕事をしました。
 
私自身の今後の目標は、現在進行中の脚本を、何とか私の企画で、進展、実現できればと思っています。監督に近い立場で内容の話ができるプロデューサーとして、ハリウッドで映画化できればいいなぁと。
 
あとは、「自分を発見する本」を企画しています。優秀なキャリアウーマンを含め、自分に自信を持てない日本人女性が多くいると思います。自分がどんなに素晴らしいか発見し、自信を持てば、どれだけ人生が明るくなるか、私自身のアメリカ、特にハリウッドでの仕事の教訓を通して伝えていきたいですね。
 
(2011年4月1日掲載)

芸術陶芸家(クリエイティブ系):国崎ロイ雄一郎さん

陶芸は、一筋縄ではいかない、上手くいかないところに、かえって魅力を感じます

「一筋縄ではいかない。同じ物は2つとしてできあがらない難しさに挑戦し、乗り越えるのが楽しい」と、陶芸の魅力を語る国崎ロイ雄一郎さん。高校時代に触れた陶芸に大学時代も没頭し、4年制大学在籍時にアトリエを構え、陶芸家として生きていくことを決意した。「今も毎日が学びの連続」と話す国崎さんに話を聞いた。

【プロフィール】くにさき・ろい・ゆういちろう◉1971年、福岡県生まれ。85年に一家で渡米し、ハンティントンビーチに移り住む。ゴールデンウエスト・カレッジで陶芸を専攻。その後、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に編入し、陶芸で学士号取得。98年に、サンペドロにあるAngels Gate Cultural Centerにアトリエを構える。Santa Barbara Art Festivalにて1st place、Aff aire in the Gardenにて
Honorable Mention(共に2001年10月)。現在、週4回陶芸教室を開催。問い合わせは、
☎310-984-9923、E-mail: kunisakiart@hotmail.com。
公式サイト:www.artawakening.com/roy

そもそもアメリカで働くには?

最初の頃は1日 18 時間 土を触っていた

「土に触れ、自分の世界に没頭すると安らぎます」と、作品作りに励む

僕が中学の途中で、一家でハンティントンビーチに引っ越しました。それで、中学、高校、大学はアメリカの学校に通いました。陶芸との出会いは高校の時。最後の学期でたまたま陶芸のクラスを取りました。その時は、単に「楽しいなぁ」と思ったくらいなんですが、コミュニティーカレッジでもずっと取り続けていたら、「面白いぞ!」となって、ドンドンはまっていきました。
 
コミュニティーカレッジの陶芸クラスの先生が、僕があまりにも陶芸に熱心だったので、「CALステート・ロングビーチ(カリフォルニア州立大学ロングビーチ校)は陶芸のコースが充実しているから編入してみてはどうか」と、すすめてくださいました。「先生がそうおっしゃるなら行ってみようか」という軽い気持ちで進学したら、止められなくなってしまいました(笑)。
 
思えば、それまでは自分が何がしたいのか、わかっていなかったんですね。確かに小さい頃から美術全般は好きで、絵を描いたりしていました。ですが、周りを見ると自分より上手な人は既にたくさんいましたから、絵描きの才能はないということは、自覚していました。そこで出会った陶芸に、一気に恋に落ちてしまったわけなんですよね。土に触れるというのが、自分の性格に合ってたんじゃないかな。
 
大学という大らかで安全な場所があるのは、すごく心地が良かったし、仲間もいっぱいできました。毎日自分なりの新しい陶芸の試みを繰り返していました。その実験で色々な知識を得ましたね。
 
そんな時、大学の仲間が、Angels Gate Cultural Centerにあるアトリ エを紹介してくれました。ここには 50 くらいアーティストのアトリエが集まっていて、制作に没頭するには最高の環境です。「スペースが空くけどどうする?」と聞かれたので、「じゃあちょっと見に行ってみようかな」と見学に行ったら、何となく借りることになっちゃって。大学卒業前でしたが、先にもうアトリエを構えてしまった(笑)。
 
陶芸の単位は全部取り終えてしまっていて、機械系の仕事をフルタイムでやっていましたが、あまり好きになれませんでした。それに、ろくろが本当に面白かったので、今思えば無謀だったのですが、将来のことはあまり深く考えず、陶芸家の道を選んでしまいました。僕は元々九州男児でしたから、ちょっと頑固なところもあるんです。自分がやりたいと思ったことは、意地でもやります。でも、それだけ人一倍頑張ったと思います。最初の3~4年は、アトリエに寝泊まりで1日18時間くらい土を触っていました。陶芸は、土に触れば触るだけ腕が上がっていくものですからね。
 
正直最初の頃は、腕は未熟で自信がなかったし、不安でした。ですから、そういう気持ちを吹っ飛ばすために、自分の世界に入り込むようにアトリエにこもっていました。今もまだまだという気持ちはありますが、初めの頃は全然でしたからね。

同じ作品を作りたくても まったく同じ物はできない

陶芸で収入を得るには、制作して自分の作品を売ることになります。ギャラリーや陶芸店に卸したり、週末に行われるアートショーにブースを構えて、直接お客さんに売ったりします。でも、やっぱり最初は売れなかったですね。同時にバイトもしていました。やっぱり収入が陶芸だけでは食べていけないので。
 
アーティストと言えど、作品を売るにはある程度は、〝セールストーク〞が必要です。自分の作品をお客様に説明し、価値を理解していただく。一般企業の営業の仕事と同じですよね。作品制作以外にそういう分野も勉強しないといけなかったですし、自営ですから経理とか経営なども大切です。自分はアトリエに一人こもって自分の世界に生きる、というスタイルが好きなので、お客様に営業するのに苦手意識がありました。ですが、それでは作品は売れませんからね。プロダクト、コンシューマーデザインなども勉強し、さらにアートの世界での作品の取引の仕組みなどがわかってきた頃に、作品はようやく少しずつ売れていきました。
 
作品がまったく売れないと、やはり辛いですね。ショーを開いてもお客様がほとんど入らず大失敗したりもしました。それはやはり悔しいですし、猛省します。また、招待アーティストのみのショーもあるので、応募したけれども、落選の通知が来た時なんかは悲しいです。特に自分のスケジュールが空いてしまうと、「何かやらないといけない」と焦りが出てきます。
 
それとは別の次元で辛いこともあります。陶芸は、焼く時にどうしてもある程度の確率で割れてしまうことは避けられません。ですが、数週間かけて作った力作が割れてしまうと、もう言いようのない気持ちになります。陶芸はそういうことがあるとわかっていても厳しい。画家でしたら、描いたキャンバスが、ある日突然破れてしまうなんてことは、ほとんどないですからね。
 
そういう神様の気まぐれみたいなことがありますから、やはり自分がイメージしていた通りの壺ができた時は、本当にうれしいです。焼き方にも色々ありますし、気候などによって焼き時間も違います。例え同じ焼き方をしても、違う感じにでき上がることも珍しくありません。ですから、同じ作品を再度作りたくても、まったく同じ物はできません。
 
そんなに苦労して、酷い目に遭っても、一筋縄ではいかない、上手くいかないところに、かえって魅力を感じます。上手くいかなければ悔しいですが、「それを乗り越えてやる!」という根性が必要です。そういう気持ちがないと、陶芸家としてはやっていけない。失敗は多いし、時間もかかります。作業は大変ですし、セールスもしないといけない。本当に好きではなければ、続けられません。

陶芸は本当に奥が深い まだまだ学びの毎日

自分はやはり日本人ですから、日本の焼き物の影響も受けています。僕が一番好きな日本の焼き物は、山口県の萩焼です。そこで今、萩の土を使って、モダンで新しい作品を焼いている陶芸家がいらっしゃるのですが、そういった方たちの作品が特に好きです。そういう作品を見ると、僕もどうしても真似して作ってみたくなります。これは多分人間の本性でしょうね。カッコいい物を見ると憧れて、自分でもやってみたくなるのは。
 
僕は、好きで好きでたまらない陶芸を職業にできているという点で、幸せです。陶芸を仕事にしたいと思っている人に僕からできるアドバイスがあるとすれば、陶芸に懸ける「執念」ですね。あとは、色々チャレンジしてみること。その方が知識が得られると思います。それから陶芸の中で、自分の道を築いていっても遅くないです。
 
最近は、口コミや媒体に広告を載せているおかげで、陶芸を教える仕事が増えてきました。生徒さんが上手になると、私も満足感、喜びを感じるようになりました。これは制作の楽しさとはまた別物で、面白いですね。自分が苦労して得てきた知識も、惜しみなく伝えています。そうやって上達すると、生徒さん独自の味や個性が出てきます。そこから学ぶこともしょっちゅうあります。
 
陶芸は、本当にすごく奥が深い。未知の世界がまだいっぱいあるから、学びの毎日ですね。然にある物の形は、やはり美しいと思っているので、造形は自然に目を向けています。釉薬も一つ一つの成分を勉強して、新しい釉ゆうやく薬を作ってみたりしています。ある程度で満足してしまうと成長しませんので、自分に厳しく、目標を高くして、もっと、もっと素晴らしい作品を作っていきたいと思います。
 
(2011年2月1日掲載)

服飾デザイン・販売 「2WJD」代表取締役・デザイナー(クリエイティブ系):織部しほさん

「2WJD」が、ポジティブに頑張れる
アイコンのような存在になったらいいなと思っています

将来について悩む中、新たな可能性を求め、渡米 した織部しほさん。「本当にやりたいこと」に気付 き、服飾デザインの道を志し、大学在学中、「もっ とコンシャスなデザインを広めたい」と自社ブ ランド「2WJD」を立ち上げた。今年、新たにハ イエンドのラインを準備中の織部さんに、服飾デ ザイナー、経営者としての心構えなどを聞いた。

【プロフィール】おりべ・しほ◉福岡県出身。海外で世界の人との交流を深めたいと思い、20歳でオレゴン州に 渡米。語学を学び、同地の大学に進学するが、ファッション分野を追究するため、ハリウッドの あるロサンゼルスに移住。American Intercontinental Universityでデザインの学士号、名誉マグ ナクンローを取得。大学在学中にデザイン事務所でインターンを始め、欧米の大手ブランドの デザインを手掛ける。2006年、オリジナルブランド「2WJD」を設立。09年8月、ソーテルに販売 店舗をオープン。今年から日本の店舗でも、同ブランドの取り扱いが始まる

そもそもアメリカで働くには?

紆余曲折を経て見つけた 自分が本当にやりたかったこと

ソーテルにある2WJD店舗。単にショップというだけ
でなく、夢に向かって頑張る人を応援する場でもある

幼少の頃から医者を目指して いました。高校時代に映画『Patch Adams』を観て、彼のように親身で 患者に接し、笑いで人を癒し、信頼 を得られるドクターになりたいと 思っていました。チャリティーワーク にも大変興味があり、それには世界 の共通言語である英語が話せなけ ればダメ。当時、英語が一番苦手だっ たこともあり、1日 13 時間勉強す る缶詰状態の日々が続きましたが、 思ったような結果が出ず、悩む日々 も多かったです。それを見かねた両 親が、アメリカ留学をすすめてくれ て、英語を学ぶのを第1の目標に、新たな可能性を求め、 20 歳の時に渡 米しました。
 
アメリカ留学で、苦手だった英語 を克服し、会話だけでなく、色々な 文化に触れ、その違いを学ぶだけで なく、個々の文化に接することもで きるようになりました。異文化の人 たちへの対応は、その中で実際に生 活し、経験してみないとわからない ことも多いので、そういったことを肌 で実感してみたかったというのも、 留学の動機にありました。
 
最初はオレゴン州のアッシュラ ンドという、アートにあふれる小さ な田舎町の語学学校に通いました。 アッシュランドは、自然の中にある ので、車で3時間くらい運転しない と、お洒落な買い物はできません。ですから、天候が厳しい冬などは、部 屋にこもって将来について考える時 間がたっぷりありました。「自分はど ういう人間なのか?」「何ができるの か?」。それらに対する答えが自分 の中で出た時、「自分が居るべき場 所は、ここじゃないかもしれない」と 思いました。
 
そうして自分の得意分野はファッ ション分野だと自覚し、ファッション と言えば西海岸ではハリウッドです から、ロサンゼルスに旅行に出かけ ました。そして、業界の幅広さ、レッ ドカーペットでのドレスのクオリ ティーの高さに感動し、この地で学 びたいと思いました。常に何らかの 形で自然に触れていたかったことも あり、海のあるウエストロサンゼル スに移住しました。
 
一般教養のクラスを取っている間 に、ファッションのどの分野を勉強 するか考える中で、ファインアート を含むデザインに興味を持ちまし た。デザインは本当に多くの経験を し、技術を磨かなくてはいけないの で、ロサンゼルスにある4年制の芸 術大学、American Intercontinental Universityに編入しました。視野を 広げるために、モデルやスタイリストも経験するうち、デザイナーは 「デザインやアートを通して、世界に 意思表現ができる」という点に感動 し、服飾デザイナーの道を志すこと にしました。
 
在学中にデザイン事務所でイン ターンを始め、大手ブランドの靴の デザインをさせていただきました。 過去の顧客層を保ちつつ、ブランド ネームを崩さないよう、いかに新し いラインを導入するかという、大手 会社ならではのチャレンジにも取り 組ませていただきました。
 
私は、絵画や建築、そしてファッ ションの本だけでなく、ゴシップ紙 や興味があまりないような本も普 段からよく見るように心がけてい ます。各企業の視点や顧客層などの 違い、商品の特徴などをすぐにつか めるようになるには、「目」を肥やす ことが本当に重要です。プロトタイ プのデザイン修正に携わることが多 かったので、改善方法をすぐに提案 できるよう、視野を広げ続ける努力 をしてきました。
 
ファッションを通して色々な人を 応援したい、頑張っている人たちが 出会うきっかけになるような商品を 作りたいと思い、ポジティブやエコの メッセージを込めたTシャツブラン ドを立ち上げました。そのブランド の社名が「2WJD」。ポジティブに 人生の選択をしてほしいと、〝What Would Jesus Do?〞というフレーズ の頭文字から来ています。人生において数々の選択をする際、人の意見 に流されず、夢に向かって頑張って いってほしいという願いが込められ ています。

アーバン系で コンセプトは「ポジティブ」

アーバン系のブランドは、ネガ ティブなデザインやコンセプトが 多い中、2WJDのデザインは、すべ てポジティブでオリジナル。チーフ デザイナーとして、他の2人のグラ フィックデザイナーと一緒に、いかに メッセージをデザインとして、グラ フィックに組み込んでいけるかをい つも研究中です。若い子たちにとっ て、2WJDがポジティブに頑張れ るアイコンのような存在になったら いいなと思っています。
 
ポップカラーの 80 年代系デザイ ンからシンプルなロゴやロックのモ ノクロなデザインまで、幅広くお客 様に気に入っていただけるよう努力 しています。素材は、肌にやさしいソ フトコットン 100% 。 今 年 か ら 東 京 近 辺の店舗でも、取り扱いいただいて います。
 
最初は地元のコンサートなどに ブースを出展し、商品の販売・促進 をしていました。おかげさまで徐々 にリピーターが増え、お客様が好き な時に立ち寄れるようにと、昨年 ソーテルに店舗を構えました。店の コンセプトは、ブランド同様「ポジ ティブ」。目指しているのは、買い物 だけでなく、頑張っている人たちが ネットワーキングでき、色んなアー トやプロジェクトが生み出される空 間です。
 
経営者となるのは初めてでした が、やりたいことが本当に実現でき るのか、その可能性を試したいと思 いました。最初は当たって砕けても、 その経験が肥やしになるという思い で、色々学んでいきました。自分なり に目標を立てて、ただひたすらその 目標を達成していくことに集中しま したので、不安を感じたことはあま りありません。今は経営から接客、 デザインと、まだまだ学ぶことも多 く、多忙な毎日を送っています。

最初の勝算 60 %でも、経験を積み 90 %の結果が出せるようになる

若い時は、何がうまくいくのかわ からず、色々な選択に悩むことが多 いかもしれません。やろうと思って から実行に移るまでのクヨクヨ期間 が長い人もいると思います。でも、そ の期間を短くすれば、できることも 増えてきますよね。私が一番落ち込 むのは、期間設定をしたにも関わら ず、その目標を期間内に達成できな かった時です。クヨクヨ不安に感じ ている間に、ドンドン時間が経って しまって、振り返ると達成できてい なくて、ショックを受けましたね。
 
トライして 60 %の結果より、ト ライせず0%だった方が、すごく後 悔することに気付きました。最初は60 %でも、経験を積むことで 90 %の 結果を生み出せる可能性もあるの で、思ったら即行動の方が、1歩でも 前に進み続けられると思ったので す。日本では 100点 満 点 が 取 れ な い な ら、最初からテストを受けない、とい う感覚もありますが、少しでも夢に 近付くこと自体にすごく意味があ ると、私は感じます。やってみないと わからないですから。「オッケー、ま ずやってみよう」というトライ精神 を持つことが、私は大好きです。弊 社で迎え入れたインターンの子たち とも、このトライ精神をシェアしま す。自分の中にある可能性にチャレ ンジしてほしいからです。
 
私が日本にいた時、決められた一 視点からの価値観のみを持っていた 気がします。アメリカで生活をする 中で、自分の持っていた価値観だけ が正しい訳ではないと気付きまし た。そのおかげで新しいことを学び、 チャレンジでき、その可能性を探索 することもできました。結果がどう であれ、経験はその人自体を磨いて くれます。失敗を恐れず、自分の信 じたことを実行してほしいと願って います。悩んだ時には、いつでも2W JDにおいでください。色々な先輩 が、過去に私を励ましてくれたよう に、何かポジティブなお手伝いがで きるとうれしいです。
 

(2010年9月1日号掲載)

製造/販売 ギター職人/Performance Guitarオーナー(クリエイティブ系):須貝邦夫さん

アメリカの音楽の歴史に残るような
ギターが作れたらいいなと思います

15歳の頃にギターが欲しくて始めたギター製作。持ち前の器用さと探求心で瞬く間に技術は上達し、プロ級の品質のギターを作れるようになった須貝さん。本場アメリカで自分を試してみようと渡米し、自らのショップをオープン。以来30年以上にわたりトップミュージシャン御用達となった須貝さんのギターの秘密を聞いた。

【プロフィール】すがい・くにお
◉1947年東京生まれ。15歳の頃からギターを作り始める。ギター製造会社に就職後、70年に一念発起して渡米。2年後に一旦帰国し、日本で再渡米の下準備を進める。75年に再渡米し、技術アドバイザーとしてFender社と日本の会社をつなぐ仕事を担う。79年1月、ハリウッドに自身の工房兼ショップ「Performance Guitar」を創設。フランク・ザッパ、ウォーレン・デ・マルティーニ、ジョー・ウォルシュ、スティーヴ・ヴァイ、マイケル・シェンカー等、多くの著名ミュージシャンからの信頼を得、数多くのカスタムモデルを製作。
www.performanceguitar.com

そもそもアメリカで働くには?

「やってみよう」の精神で 挑んだアメリカでの人生

自慢の手製ギターで演奏する須貝さん(77年当時)。
後ろには、お気に入りのEaglesのレコードジャケットが

父親が社交ダンスの先生、叔父が喫茶店を営んでいたこともあり、子供の頃から家には色んなレコードがありました。特に影響を受けたのは、ポール・アンカ、エルビス・プレスリー、グレン・ミラー、ビートルズなどです。彼らの影響でギターを弾きたいと思い始めました。けれど、ギターを買うお金がない。だから自分で作ろうと思ったのが15歳の頃でした。当時はギター作りの知識なんてありませんでしたが、材木屋だった隣の家から材料を入手して、趣味感覚で始めました。しばらくして、バンド仲間たちからも頼まれるようになりました。皆は練習して上手に弾けるようになっていくのですが、自分はひたすらギターを作っていましたから練習する暇がなくて、全然うまくならない(苦笑)。
 
ギター作りを始めてから技術面で困ったことがなかったのは、小さい頃から父親のオートバイや自動車修理、大工仕事を手伝って、技術を教わったからだと思います。それに、ラジオやステレオなども自作していて、そこからエレキギターに必要な電気技術の知識を身に付けられました。
 
ギター製作などモノ作りをする能力は、当人が持っているセンスやアイデア、応用力で決まると思います。それから、「やってみよう」という心構え。あと、技術を習得するには、色んな発想が大事だと思います。ある時は、どうしてもギターの中の構造を知りたくて、知り合いの歯科医院にギターを持ち込んで、レントゲンを撮ってもらって調べたこともありました。普通はこういうことはしないでしょうが、こういう背景があって、応用力が磨かれたのだと思います。
 
初渡米は1970年、20代前半の時でした。ギター以外に飛行機や自動車も好きだったので、飛行場でメカニックとして仕事を得られ、操縦免許も取得できてうれしかったですね。そのままアメリカで人生を懸けてみようと思ったのですが、2年後に一旦帰国。それから3年間、再渡米の準備をしていました。 
 
75年に準備が整い再渡米。アメリカのギター会社、Fender社と日本のモーリスギター・グループを結ぶ仕事を始めました。 ハリウッドでは、色んなアーティストがレコーディングをします。そういった人たちの手伝いができたらと思ったんです。初めは片手間で手伝っていたのですが、そのうちそちらの方が忙しくなり、79年1月に今のショップを始めました。
 

1本1本のギターから甦る その時々の思い出

ショップを創立以来、アメリカの第一線で活躍するアーティストたちへのギター提供、メンテナンスや音作りを手掛けてきました。
 
Ratt というLAメタルロックバンドのリードギタリスト、ウォーレン・デ・マルティーニに、自身のヘビ柄のコスチュームに合わせたギター作りを依頼されたことがありました。クリスマス前のショーに間に合わせたいと言われて、生後4カ月の娘をおんぶしながら作りました。そんな感じでギリギリで仕上がって、本人が取りに来たのですが、すごく喜んでくれました。今でも忘れられないギターのうちの1本です。
 
アーティストの中で個人的に特に好きなのは、Eaglesのジョー・ウォルシュです。彼のギター作りとメンテナンスも、ずっと手掛けてきました。また、彼らの日本ツアーには、私たちが帯同して、テクニカルな仕事の手伝いなどもしました。近くでコンサートがある時には、いつも招待してくれます。ビッグプレーヤーの素晴らしいショーに招待されるのはうれしいですね。
 
ちょっと個性的な方だと、フランク・ザッパという人がいます。10年くらい前に亡くなりましたが、この方の伝説はいまだに広まっていて、ザッパのギター、そのサウンドをどのように作ったのかと、今でも随分聞かれます。それぞれのギターにそういったエピソードがあります。
 
もちろん一般のお客様のギターも手掛けます。「こういうことはできないか」「こんな音のギターは作れないか」という要望を度々受けては、風変わりなギターを作ったりします。例えば、琵琶のエレキ版を作ったり、エレキ琴を作るために琴にマイクを付けたり、特製エフェクターを作ったり…。今まで色々な音作りをしてきましたし、これからもやっていくつもりです。
 

オリジナリティーの国で 認められた技術

ギターを作る上で、まず大事なのが素材。良い木を選択し、それから高い精度で作り上げていきます。
 
しかし、もう1つの大事な要素は、お客様の要望です。お客様の好みの音に合わせてアレンジするのはもちろんですが、ステージで弾きますから、色や形など、見た目にもこだわります。例えばスティーブ・ヴァイからは、有名になるために「Something special, something diff erent」なギターをと、頼まれました。それでホットロッド・カーのような炎のギターを仕上げました。
 
お客様からの要望、例えばどういうジャンル、どういうスタイルでそのギターを使うかを考えなければなりません。既に何十本、何百本もギターを持っているプロの人たちは、音楽やショーに合わせてギターを作りますから、次のツアーのテーマをうかがってアイデアを得たり、動画を一緒にインターネットで見て「こういうスタイルで弾きたい」と言われたら、それを基にアイデアを出します。もちろん私からも「こういうこともできるよ」と、提案することもあります。
 
そうして完成したギターを、ステージやレコーディングで使ってみて気に入ってくれれば、私たちの仕事を全面的に受け入れてくれます。そして、ギターの持ち味を100%活かすよう使ってくれるところが、やはり素晴らしいですね。さすがオリジナリティーの国だと思います。
 
日本のミュージシャンは非常にレベルが高いですが、やはりアメリカでは個性、スタイルを持っていないと、この業界では食い込んでいけません。アメリカでは自分たちのスタイルを生み出さないと、プレイヤーとしての地位を確立できないのです。そういうこともあって、カスタムメイドでオリジナルを作る、私たちの仕事がアメリカで受け入れられたのでしょう。
 
アメリカのプレイヤーたちは、新しいアイデアや音を目指しています。そういう人たちを手伝い、一緒に仕事ができて、すごくうれしい。日本では決してできないことを、アメリカで達成して、それがミュージックビデオやCDに残り、さらにジャケットの後ろにスペシャルサンクスで私たちの名前が入ったりします。そういうのを見ると、自分の仕事を思い出して、満足感が得られます。
 
アメリカ人は、物を粗末に扱うと思われがちですが、私たちが手掛けたギターを、皆さんすごく大事に使ってくれます。長年使ってくれて、「ほかのギターはボロボロになっちゃうけど、君が作ったギターは何でこんなに丈夫なんだ」と言われたこともあります。
 
また、開店当時のお客様から問い合わせがあって、「君の店、まだあったのか!」って言われることも(笑)。「いまだに気に入っているので、もう1本作って」という依頼も度々あります。
 
「ずっと前に作ったギターを送るから、メンテナンスしてもらえませんか」という問い合わせもあります。それで30年近く経ったギターの中を開けて見てみると、しっかりしていて、「あの時ベストを尽くして仕上げておいて良かったな」と思ったりします。
 
これからもお客様の要望に応え、アメリカの音楽の歴史に残っていくようなギターを作れたらいいなぁと思います。
 

 
(2010年6月1日号掲載)

建築デザインコーディネーター、LEED認定プロフェッショナル(クリエイティブ系):濱田香織さん

既存の建物をリノベーションによって
LEED基準に適合させるプロジェクトを手がけてみたい

日本で銀行に就職したが、語学留学で訪れたロサンゼルスで働く夢を捨て切れず再渡米した濱田さん。専門短大でインテリアデザインを専攻し、建築事務所に入社。先輩建築士の仕事を見ながら学び、注目を浴びるLEED(環境性能評価システム)の資格を取得。現在、建築士の資格取得も目指す濱田さんに聞いた。

【プロフィール】はまだ・かおり◉愛媛県松山市出身。地元の短期大学を卒業後、1年間ロサンゼルスに語学留学する。日本帰国後、地元の銀行に就職した後、2003年、ダウンタウン・ロサンゼルスにある専門短大、FIDM(Fashion Institute of Design and Merchandising)に入学。インテリアデザインを専攻する。05年の卒業と共に、日系建築事務所、M. Okamoto & Associates, Inc.に入社。デザインコーディネーター、インテリアデザイナーとして勤務。08年7月に、LEED(環境性能評価システム)の資格を取得。LEED認定プロフェッショナルとしても活躍。www.moainc.net

そもそもアメリカで働くには?

建築のイロハをすべて学べる

現在進行中のプロジェクトサイトにて。現場を訪
れる度に、自分が手がけた建物ができあがって
いく様を見ると感動

地元の短大を卒業して、1年くらいロサンゼルスに語学留学しました。その後、日本に戻って地元の銀行に就職し、5~6年くらいで働きましたが、ロサンゼルスのことが忘れられなくて。2003年にダウンタウン・ロサンゼルスにある専門短大、F I D M(Fashion Institute of Design and Merchandising)に入学、インテリアデザインを専攻しました。映画のセットデザインがしたかったのですが、建築やインテリアにも興味がありました。
 
在学中にインターンシップをして、05年の卒業後、何社か就職活動した中から、建築事務所のMOA(M.Okamoto & Associates, Inc.)で働くことが決まりました。FIDMの先輩の縁で、たまたま募集があると聞いたのでラッキーでした。面接では、「私、インテリアデザインの勉強したんですけど、銀行で働いていたので、アカウントもやろうと思えばできます!」とか、「とにかく何でもやります!」って猛烈にアピールしました(笑)。
 
働き始めて、最初は何もわかりませんでした。でも、学校で色々習っても、事務所によってやり方も違いますし。建築のすごい学校を出ていたとしても、やっぱり働き始めは「???」じゃないかなと思うんです。私は入ってからの3年間、「えっ?」って感じの連続。先輩の建築士の仕事を見て学ぶという毎日でした。図面も今は1セット作れるようになりましたが、やはり最初は図面を描いているというよりも、アシスタントという感じ。とにかく習うより慣れろだと思います。
 
大きな事務所だと、仕事が細かく分業・専門化されています。その点、小さな事務所では、図面を描くところから、市とか郡に許可を取りに行ったり、市の担当者の人たちやクライアントとのやりとり、お金のこととかも手がけさせてもらえます。建築に関する仕事を全部まとめてやらせてもらえて、すごくありがたいと思っています。
 
今もなんですが、やはり苦労させられるのが英語。難解な専門用語もありますが、アメリカ人クライアントや仕事相手に、きちんと説明し、自分の思っていることを100%伝えるのは難しいですね。性格的にもそんなに強く言える方ではないので、市や郡の担当者との交渉も、最初の頃は黙って帰ってきて、先輩から「もっと押さないと!」と言われたり(笑)。コミュニケーションは、まだまだ勉強中です。
 
それから、一番悔しかった経験は、働き始めて半年くらいの時。あるクライアントに仕事を頼まれました。簡単な図面の修正だけだし、私のほかに誰も事務所に居なかったので、私がやってクライアントに返しました。図面を返しに行った時、そのクライントと話していたら「君は、どこの学校出てんの?」という話になりました。私が「FIDMのインテリアデザインです」と正直に話したら、「えっ、君、建築士じゃないの?」って言われたんです。「でも、全然仕事はできます」と答えて帰って来ましたが、その後、ボスに電話があって、「直した子、建築士じゃないから、お金は払わない」って言われたんです。「私は何も間違ったことをしていないのに…」と、ものすごく悔しかった。
 

LEED資格試験に一発で合格

LEED(環境性能評価システム)の資格を取ったのは、08年7月。事務所での仕事に徐々に慣れてきて、インテリア以外の何かがやりたいと思ったのがきっかけです。ちょうどLEEDが注目され始めた時期で、「環境のことを勉強するのもいいな」と思いました。何回も試験勉強はしたくなかったので、必ず一発で合格しようと決めて取り掛かりました。事務所での仕事に加え、資格の勉強もしました。とにかく、グッと集中した甲斐があって1回で受かりました。
 
そして、取得した直後にLEEDを使ったホテル建設プロジェクトの仕事を手がけることになり、実際の仕事でも知識を使う機会に恵まれました。ミーティングに出ても、LEEDの知識がなかったら、まったく何の話をしているか、わからなかったと思うんですね。それが理解できるようになって、自分に自信が付きました。また、そのプロジェクトを通して、試験だけではわからないLEEDのプロセスが理解できたのも幸運でした。
 
LEEDはアメリカの基準ですが、最近、日本の企業や政府機関でも興味を示しているところが多いのです。日本人で有資格者がまだあまりいないですから、日本人の皆さんにコンサルティングできるよう、内容を日本語で理解していこうと、最近少しずつ勉強しています。
 
昔の自分と違うと思うところですか? 自分一人で現場に行って、コントラクターやマネージャーと話し合えるようになったところでしょうか。最初はボスの後ろに付いていて、「何を話しているんだろう?」と、ずっと考えていましたから。それこそ壁がどうやって立つのか、天井がどうやって下りてきているのかすら知りませんでした。それが現場でちゃんと意見できるようになったので、随分進歩したと思います。
 
今の仕事は、もちろん嫌になる時もありますけど、本当に楽しんでやっています。インテリアの仕事をしている時やLEEDの勉強の時などは、自分でも「頑張ってるな」と思えて、やりがいを感じます。
 
また、現在進行中のプロジェクトが完成したら、すごく感動すると思います。毎回、現場に出かける度に建設が進んでいるのを見て、「すごい進んでる!ちゃんと自分が設計した物が形になっている」っていう感動があります。そういうプロセスが見られるのは、色んな仕事をさせてもらっているからです。
 
あと、自分が提案したデザインをクライアントに理解してもらえると、やる気が出ますよね。デザインには、人それぞれの感性がありますから、理解してもらえない時は、「感性が違うからしょうがない」と思うようにしています。「自分のセンスが悪いからだ」と思うと落ち込んでしまうので。
 

仕事を理解できない自分に無性に腹が立つ

仕事を理解できない自分には、無性に腹が立ちます。自分にイライラする時が、一番辛いですね。例えば、設計図面のディテール部分で、理解していないと修正できない部分があるのですが、ひたすら調べても結局わからなくて、「何でできないの、私」っていう時がありますね。小さな失敗は日々ありますし、失敗した時は自己嫌悪に陥って落ち込むことも多いんですが、あまり気にしないで忘れちゃうようにしています。
 
今後の目標は、LEEDの理解と建築の勉強を深掘りすることです。自分の力不足をもっと勉強して補って、一から全部自分でデザインした物を建てたい。レストランとか環境に調和した店舗デザインをやってみたいですね。あと、LEED基準の新ビルを建てるというのは、今の景気だと難しいですが、既存の建物をリノベーションによってLEED基準に適合させるプロジェクトなら需要があります。LEEDのリノベーションを勉強してやっていきたいです。
 
プライベートでは、家族を持つことが目下の目標。フィアンセはドイツ人で、ドイツも日本も環境先進国。それでよく環境の話をしたりしています。アメリカで生活していくのは大変だけど、アメリカほど万人にチャンスを与えてくれる国はないと思います。なので、2人で「頑張って生きていこう」と言っているんです。
 
こんな景気ですから、本当に自分がやりたい仕事を、最初からやらせてもらえるような企業に就職するのは無理かもしれません。でも、とにかく落ち込まず、ひがまないで、失敗して怒られたとしても、それも将来への勉強だと思って、強く生きることが大切ですね。
 

(2010年3月1日号掲載)

フラメンコ・ギタリスト(クリエイティブ系):田中保世さん

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はフラメンコ・ギタリストの田中保世さんを紹介。幼少の頃からフラメンコやギターに慣れ親しみ、本場スペインでその真髄を学ぶ。現在、全米中で音楽としてのフラメンコの普及に邁進している。

【プロフィール】たなか・ほせ■京都府出身。実家が楽器屋で、父親と叔父がフラメンコ・ギタリスト、母親がフラメンコダンサーという環境に育った。高校卒業後に渡米。ハリウッドの音楽学校「GIT」で学び、永住権取得。アメリカでギターを教えながら、スペインでフラメンコギターの修業を続ける。レッスンの問い合わせは、E-mail: jose@josetanaka.comまで

そもそもアメリカで働くには?

ロックに憧れ渡米
幼少の原点に戻る

実家が楽器屋で、父と叔父はフラメンコ・ギタリスト、母はフラメンコの踊りをやっていました。それで「ホセ」という名前も付けられたんですよ。
 
そういう環境ですから、自然と小さい頃からギターをやっていて、中学・高校はロックにハマっていました。高校を卒業して音楽留学しようと思った時に、スペインかアメリカという選択があったんですが、フラメンコは当時、両親にやらされてたという面があったので、アメリカでロックをやろうと1987年に渡米しました。
 
ハリウッドにGITという音楽学校があって、当時は有名人でもオーディションで落とされたりする有名校。最初は英語ができないからESLに通って、それからデモテープを持参して筆記テストを受験。「これで落ちたらシャレにならない」と思いながら、何とか受かったんです。
 
GITには1年半くらい在籍したのですが、運良くグリーンカードが取れて、ギターを教える仕事も見つかりました。当時、私がプライベートレッスンでエレキギターを教えていた子は30人はいました。「アメリカでこんな仕事ができるなんて、やりがいがあっていいなぁ」と思っていましたが、毎日同じことをするのに飽きてきちゃったんです。それに、自分だけが奏でられる音楽がやはりいいなと思い、子供の頃にやっていたフラメンコをまた弾き始めたんです。そうしたら、またフラメンコにハマってしまって。アメリカをベースにして、スペインにたびたび修業に行きました。スペインでは、現地ですすめられた先生に弟子入りする形で修業しました。先生が実際に弾いている横で、見よう見真似で弾かせてもらうという感じ。

フラメンコは
歌から始まった

両親と叔父の影響で、
幼少からギターとフラメンコを始めていた

フラメンコギターは、もちろん使用ギターが良ければいい音が出ますが、良いギターを使っていてもテクニックがないと、ごまかしが利きません。良い音を出す技術が結構難しいわけですよ。フラメンコギターは、ロックとかほかの音楽をやってから入る人も多いんです。そういう方たちは、教本やビデオを観て学ぶのですが、それだけでは、正確な知識や情報が伝わり難いんです。やはり本場に行って、先生の間近で生の音を体感しないと、なかなか難しい。私もわからない所が未だにいっぱいあるので、ずっと勉強・研究を続けています。知れば知るほど、知らないことが増える、フラメンコはそういう奥が深い音楽なんです。
 
元々フラメンコというのはロマの伝統芸能で、ジャズやクラシックのようにメソッドが確立されていません。こう弾いて、こういう風にしなさいというように教えてくれないんです。本場の先生も、ただ弾いて見せるだけ。また、親から子に伝承していくので、仲間に入れてもらえると親切に教えてもらえるんですが、お金を払ってレッスンを受けに行ってもちゃんと教えてくれないんですよ。それでほとんどの人が、大事な所がわからないまま辞めたりする。難しいですね。
 
フラメンコは、踊りから入って来る人がすごく多いですが、元々歌があって、踊りはその歌から発生してきたんですね。スペインのコアなフラメンコファンの人は、フラメンコと言ったら歌。ですが、ちゃんと音楽と歌を勉強しないで踊りを始めちゃう人が多いんです。本来は、踊りも歌もギターも一緒に作っていきます。だから、私はチームワークを大事にしますし、ショーの時も自分のチームで、同じコンセプトを持った人とやらないと、ただの下請けみたいになっちゃいます。そう感じて、スペインから帰ってきて自分でショーをやるようになりました。
 
今まで、ショーをやったりツアーに出たり、CDを制作したり、レコーディングに雇ってもらったり、アップダウンが激しいですけれど、何とかギター一筋でやっています。ツアーでは、フランス、スペイン、モンテカルロ、日本にも行きましたね。最近は、アメリカ国内が多いですけど。

口伝されていく
フラメンコの伝統

スペインの次にフラメンコ人口が多いと言われているのが日本です。アンダルシアのロマ族は、元はインドから来た民族。だからどっちかと言うと東洋系です。でもアメリカ人はフラメンコと言うとラテンだと思っています。確かにラテンの部分はあるけれど、私たち日本人に近いところがありますよね。
 
文化も、例えば民謡でも歌の人がいて、それを三味線が伴奏して合いの手を入れたり、そして、色んな決まり事があるらしいです。フラメンコもそうなんですね。暗黙の了解みたいなものがいっぱいあります。ロマの人たちは、基本的に全部口伝していますから、そういった決まり事は本には出ません。ちゃんと勉強しようとしたら、仲間に入れてもらうしかないんです。僕はなぜか気に入られて、色々教えてもらえたんですが、ほかの外国人が来たら「出て行け!」とか、厳しくて。
 
私がフラメンコギターでポリシーにしているのは、小さなレストランであろうが、ハリウッドボウルであろうが、自分が大切にしている音楽だから、1回、1回、大事に弾くということ。実際ハリウッドボウルで演奏したり、全米放送の番組に出たりすることもありますが、大切なのはそういう部分ではありません。私がやっているのはエンターテインメントではなく、芸術性のある伝統芸能ですから、そういうところを皆さんに理解していただけるとうれしいですね。
 
どんな小さなステージでも、演奏している時はいつでも楽しい。この仕事をやっていて良かったなぁって思うのは、演奏でお客さんに励まされたり、辛い気持ちを忘れて楽しんでもらえたりすること。こういう仕事をやっていると、上手く演奏することや売れることばかり考えて、初心を忘れてしまいます。ショーができるのは、お客さんあってのことですから、この初心をいつまでも忘れないようにしたい。
 
これからの目標は、自分にしか出せない音、自分にしか表現できない音楽を、フラメンコの伝統の中で表現していけたらと思います。この音、この曲が、ホセ田中だっていうようなものを創っていきたいですね。

チェンバロ奏者(クリエイティブ系):大西 孝恵さん

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はチェンバロ奏者の大西孝恵さんを紹介。バッハの自筆譜に衝撃を受け、バロック音楽チェンバロの世界へ。現在、講師をしながら、演奏活動やレコーディングに励む。

【プロフィール】おおにし・たかえ■6歳からピアノを始め、相愛大学音楽部、桐朋学園音楽部門研究科にてチェンバロを学ぶ。1998年に渡米、New England Conservatory of Musicチェンバロ科で修士号取得。その後、Stony Brook Universityにて博士号取得。現在、UCSDおよびUSDで講師を務める。San Diego Early Music Society会員

そもそもアメリカで働くには?

チェンバロの黄金期
衝撃のバッハの自筆譜

バーモント州で行われたコンサートの
リハーサル風景

子供の頃からピアノ教室に通っていましたが、チェンバロを知ったのは、高校生の時でした。ある日、何かの本にバッハの自筆譜が載っていて、それを見て大きな衝撃を受けたのです。それは、私が普段目にしている楽譜とはまったく違うもので、強弱を表す記号など、どこにもない楽譜。バッハの時代は、チェンバロの黄金期で、私がいつも弾いていた曲は、ピアノのために書かれた物ではなく、チェンバロ用の曲だったことを、その時に初めて知りました。
 
それまで、バッハの曲はあまり好きではなかったのですが、それを知ってからは、1つ1つのフレーズや指使いに納得し、古楽のロマンに目覚めていきました。
 
大阪の相愛大学音楽部に入学し、音楽学とチェンバロの勉強をしながら、東京にも定期的にレッスンに通っていました。卒業後は、東京の桐朋学園の研究科で、2年ほどチェンバロを学びました。大学時代はコンクールに向けて、ただただ練習ばかりの毎日でしたね。
 
卒業してからは、4年ほどフリーランスで演奏をしていました。しかし、その頃の私の演奏は、自分のコンフォートゾーンの中での演奏。リスクや新しいことになかなかチャレンジできない「守りの演奏」をしていると、いつも自分の中で感じていました。
 

 

「助けてほしい」
心情を素直に打ち明けた

ボストン郊外で開催された
チェンバロワークショップにて

その壁を、なかなか越えることができず、次第に「変わりたい」「もっと上を目指したい」という思いが強くなり、1998年にアメリカ留学を決心しました。留学先は、ボストンにあるニューイングランド音楽院(New England Conservatory of Music)のチェンバロ科の修士課程。
 
留学前に、教授に手紙を書き、「助けてほしい」と、その時の心情を素直に打ち明けました。すると、私の状況をすぐに察してくれ、もっと色々な人の演奏を聴くようにと、アドバイスをいただきました。それからは、1つ1つのフレーズを細かく分析したり、音楽の中の戯れを聴けるようになったりと、私の演奏はどんどん変わっていきました。この教授が、私を変えてくれたと言っても過言ではないと思います。
 
ニューイングランド音楽院在学中は、言葉の壁もありましたし、環境に慣れるのは本当に大変でした。クラスメイトたちは、自分の意見をはっきりと言うだけでなく、人の演奏までも批評したり、ディベートしたりと、それはもう日本の大学とは大違いです。でも、レベルが高いからこそ、それが可能であり、同時に真剣に音楽に取り組んでいるからこそのぶつかり合いなのだと感じました。
 
勉強は大変でしたが、実際に演奏するチャンスも積極的に探しました。キャリアオフィスに毎日のように電話し、演奏の機会があれば、何でも挑戦しましたし、知り合いからの紹介で演奏させてもらうこともありました。
 
ボストンに住んでいた時に結婚したのですが、夫は現代音楽の作曲家です。彼がUniversity of California San Diego(UCSD)で、教授として仕事のオファーを受けたのをきっかけに、サンディエゴに移り住むことになりました。私も現在、講師としてUCSDとUniversity of San Diego(USD)で、チェンバロと室内楽を教えています。
 
サンディエゴでは、San Diego Early Music Societyのメンバーとして、演奏会でチェンバロを弾いたり、UCSDでリサイタルを開いています。少し前にランチョ・サンタフェにある個人宅で演奏会があったのですが、リビングルームにはステージがあり、調度品はどれも重厚で豪華絢爛。美しいバラの庭園など、それはもうバロック音楽が良く似合うお宅で、楽しい体験をさせていただきました。
 

 

強く願っていると
自然と機会が舞い込む

世の中には、将来、音楽で生きていきたいという人も多いかと思います。でも、夫ともよく話すのですが、音楽で成功する人は、ほんのひと握りの人だけというのが現実です。ニューイングランド音楽院時代、相当なレベルに達していても、生活のためにキャリアチェンジをしなければならない人たちが、たくさんいました。
 
でも、夢や目標を明確に持っていれば、それに向かって頑張れますし、その強い思いが、チャンスを呼び寄せてくれることもあります。だから、諦めずに頑張ることが大切だと思います。実際、私
「あれがやりたい!」と、強く願っていると、自然とその機会が舞い込んで来ることがあります。主人は、「君が何かをやりたいと言う時って、子供が『あの乗り物に乗りたい!』とダダをこねているのと同じくらいの強さがあるよね」と、笑っていますけど(笑)。
 
私にとって音楽は言葉と同じで、自分を表現する方法の1つでもあり、生きるためのエネルギーです。学生時代に、やりたくても忙し過ぎてできなかったことを「いつかやりたいリスト」にして書きためていました。それを今、少しずつ行動に移しているところなのです。
 
その1つとして、年内にはレコーディングを予定しています。CDは、これまでにもリリースしているのですが、今回はチェンバロ用に作られた現代曲を集めたもので、今からどんな物になるのか、私自身も楽しみにしています。
 

 
(2009年3月16日号掲載)

特殊メーク/ファインアーティスト(クリエイティブ系):AKIHITOさん

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は特殊メーク/ファインアーティストのAKIHITOさんを紹介。環境と機会に恵まれたアメリカで腕に磨きをかけ、さらに高い目標を実現するために努力の毎日だ。

【プロフィール】あきひと■福岡県出身。『TVチャンピオン特殊メイク王選手権』3連覇。「International Trade Show」のアバンギャルド・メーキャップ部門で、日本人初の優勝。2002年に渡米し、KNBスタジオで『ナルニア国物語』『ハルク』のキャラクター造型に携わる。現在、Legacy Effectsにて『T4』などの造形を手がける。www.shiniceya.co.jp

そもそもアメリカで働くには?

『TVチャンピオン』3連覇
閉塞感を感じて渡米

小さい時から作り物が好きでした。高校2年生の時に観たTV番組の中で、当時アメリカで日本人特殊メークとして活躍していたスクリーミング・マット・ジョージさんが特集されていました。日本人なのにアメリカで大活躍している姿を見て感動したのが、特殊メークをやりたいと思ったきっかけです。
 
短大のデザイン学科を卒業後に東京に上京。特殊メークや造型の専門学校に入学しました。張り切っていたのですが、入学と同時に特殊メークの分校が燃えちゃった。2年目になったら今度は先生がいない。幸い、ゴジラやガメラの造型を手がける先輩が多くて、その人たちから直接色々と教えてもらいました。そして、卒業が迫った時、教えに来ていた先生が、「ユニバーシアードのプロジェクトがあるから一緒にやらない?」と誘ってくれました。それで上手い具合に卒業と同時に業界に入れました。
 
ユニバーシアードでは、150体ものロボットを作って、デザインもさせてもらったし、粘土彫刻で1番重要な部分も担当させてもらえました。その後、自分で会社を設立してアトリエを持ちました。
 
『TVチャンピオン』の特殊メイク王選手権は、一緒に仕事をしたボスが、「アキヒト、これに出たら優勝できるから出なよ」って電話をくれたんです。TVに出て優勝したら仕事が増えると思っていたら、そんなに甘い業界ではなかったですね。「TVチャンピオンで優勝」というより、今まで一緒にやってきたキャリアのある、よく知っている人の方が誘いやすい、ということです。
 
3連覇して知名度は上がったのに、収入はあまり上がらない。だけど、みんなに「儲けてるんでしょ?」と羨ましがられる。そのギャップの大きさと閉塞感に、嫌気が差し始めていました。そんな折り、文化庁の在外派遣制度というものがあることを知り、応募したら受かって、2002年に渡米しました。
 

倉庫に転がる作品にも
歴史を感じる

『エイリアンvsプレデター』のメイン
キャラクター、クイーンエイリアンの
4分の1サイズ、ボディーの粘土彫刻

ロサンゼルスに来たもののコネクションはまるっきりなかったので、レジュメを色んな工房に送りました。そうしたらKNBという大きな工房が僕を雇ってくれることに。いつも忙しい工房だったので、運良く仕事をもらえたのでしょう。当時は、映画『ハルク』を手がけていたので、それに関わり、仕事を続けていくうちに、『ナルニア国物語』など大きな仕事に携わるチャンスを得ました。
 
僕は制作の最初のデザイン粘土彫刻という最も重要な部署にいきなり配属され、毎日粘土をいじりながら何かを作るという作業に没頭しました。英語は話せなかったけど、仕事ができさえすれば、とりあえずは置いてくれたので、腕は上がりました。
 
KNBからADIという『エイリアンvsプレデター』などをやっている会社に転職し、ほどなくして現在勤務しているLegacy Effectsに移ることに。ここは以前スタン・ウィンストンスタジオという名前で、『ジュラシック・パーク』や『プレデター』『ターミネーター』などの特殊メークを手がけ、業界でも知名度、技術共にトップクラスの工房。そんなスタジオに入れたきっかけは、KNBで一緒に造型をやっていた人がデザイナーとして雇われていて、「今度『ターミネーター4』をやるから誰かいい人がいないか?」という時に、僕を推薦してくれたから。トップクラスのスタジオほど、業界や工房内の人の紹介で仕事が決まるという面があるので、人脈は本当に大切です。
 
公開前なので、『T4』で僕が具体的にどんな仕事を手掛けたか言えませんが、悪役のロボットの粘土彫刻など色々関わりました。ただ、CGが凄い映画なので、確実に昔のような作り物全盛ではなくなりましたね。今は、コンピューターの3Dソフトを使ってモデリングして、そのデータから立体プリントしてモデルができあがっちゃう。それを磨いたり修正したりする仕事の方が多く、粘土をいじることが少なくなりました。
 
ここのスタジオでは、レベルの高さをヒシヒシと感じています。僕の中でトップレベルの作品を作っても、そのレベルが当たり前。倉庫に無造作に転がっている作品だけ見ても、もう信じられないレベルです。そういうのを見ると、歴史を感じますし、刺激を受けるところは多いですね。
 

毎日少しでもいい
続けることが重要

この仕事で楽しいことは、ほかの人ができない仕事をしているというプライドを感じられるところや、良い仕事をすれば、必ず誰かに評価してもらえるところです。
 
嫌なところですか? いっぱいありますよ(笑)。自分の作りたい物じゃない作り物の仕事は辛いですね。1、2日ならいいですけど、2~3カ月続きますから。やはり、自分のスキルを活かせる仕事がしたい。それはこの業界のトップの人や造型家の人は皆そうですね。あとは、やはり一生懸命作ったのに、監督から「イメージが違う」って言われたり、何回も作り直しているのに、全然ダメだったら、やはり焦ります。逆に「これ凄いよ! 大好き!」って1回で言ってくれたら、もう鼻高々。
 
夢はアカデミー賞のメーキャップ部門受賞ですが、今はそれよりも、自分がもっと舵取りできるポジションに行くのが第1目標。コミュニケーション能力を高めてステップアップし、自分の作風が活かせる仕事をしたい。僕は、映画のために特殊メーク作品を作るんじゃなくて、自分の作風を出すために特殊メークを使いたいんですよ。特殊メークという自分が身に付けたスキルを活かした芸術作品作りをして、それで評価を受けるのが夢かな。
 
この業界を目指している人へのアドバイスは、毎日ちょっとでもいいから続けるということ。こういう仕事って、1、2年ぐらいで評価は出ません。僕も今まで十何年続けてなかったら、多分、ここにいないと思うから。
 

 
(2009年2月16日号掲載)

陶芸家(クリエイティブ系):島崎 浩太さん

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は陶芸家の島崎浩太さんを紹介。手直しがきかない陶芸は、すべての工程が真剣勝負。売れる物を作るのではなく、心のこもった作品を作り続けたいという信念を貫く

【プロフィール】しまざき・こうた■1967年、千葉県生まれ。サンディエゴ州立大学(SDSU)ファインアート学科卒業後、同大エクステンションにて、陶芸講師となる。表千家茶道講師の資格も持つ。現在、サンディエゴにスタジオ&ギャラリーを持ち、精力的に制作活動に励む一方で、陶芸クラスも開講中。http://sdceramic.com

そもそもアメリカで働くには?

アメリカでは
陶磁器はただの実用品

オープンして12年になる
ノースパークスタジオ

私の父は画家でした。糖尿病を患い、それがきっかけで外出することがほとんどなくなってしまいました。そんな父に少しでも行動範囲を広げてもらおうと、近くの文化センターで開催されていた陶芸クラスに、一緒に参加することにしたのです。父はそこで絵付けを楽しみ、私は初めてろくろを回したのですが、その時に陶芸の面白みを知りました。それが私と陶芸との出会いです。
 
私は19歳でロサンゼルスの語学学校に留学し、その後、サンディエゴのグロスモントカレッジに入学しました。カレッジ在学中も陶芸には触れていましたが、本格的に再開したのは、サンディエゴ州立大学(SDSU)に編入し、ファインアートを専攻してからです。
 
アメリカで陶芸をしていて驚いたのは、陶芸は芸術ではないということです。日本では、人間国宝の陶芸家の方もたくさんいらっしゃいますし、陶器や磁器は、文化や歴史のある芸術品として広く受け入れられています。しかし、アメリカでは、ただの「実用品」なんですね。それでも、この7~8年で、陶芸もアメリカでアートとして認められてきていて、時代は変わりつつあるようです。
 
そんな具合に、アメリカと日本の間で「陶芸」に対する認識の違いもありましたので、大学時代は日本に帰国する度に、図書館や資料館に入り浸って、独学で知識や技術を習得しました。
 
SDSU卒業後、同大のエクステンションで、「陶芸のクラスを受け持ってくれないか?」という声が掛かり、教えることにしました。教え始めてから数年後、エクステンションがほかのビルに引っ越しをすることになりました。ですが、陶芸の設備というのは、窯など大がかりな物が多く、予算などの面から引っ越しは不可能と断念。結局、陶芸クラスは、その時点で終わってしまいました。
 

土との出会いがなければ
今の私はなかった

ダイナミックなデザインの大皿から
繊細な茶碗まで、その作風はさまざま

移転の際に、今までクラスで使っていた設備や道具類を譲り受けるチャンスがあり、それをきっかけに、自分でスタジオを開くことを決心しました。その頃、私は既に結婚していたのですが、果たして陶芸だけで家族を養うことができるのかと、先行きの不安は大きかったですね。でも、「絶対、家族に迷惑はかけないから」という妻との約束で、小さなスタジオを持つことができました。
 
幸いSDSUのエクステンションで私のクラスを取っていた生徒たちが、引き続き私のスタジオに通ってくれたこともあり、生徒も少しずつ増えていきました。そのため、さらに大きなスペースが必要になり、スタジオを移転することに。それが現在のスタジオです。2年間も空き家になっていたスペースで、ひどく傷んでいたのですが、私はDIYが得意だったので、少しずつ改造してスタジオとして使えるように変えていきました。
 
現在、巨大な窯が2台、ろくろ数十台を置き、制作活動とクラスをこのスタジオで行っています。隣接したスペースには、私の作品や生徒さんの作った作品を置き、生徒さんが自由に語り合えるちょっとしたギャラリーになっています。
 

「量産」と聞くだけで
鳥肌が立つ

陶芸の魅力は、ひと言では語れませんが、私はなぜか、土に魅了されてしまい、土を触っている時が、本当に幸せなんです。若い頃は、波乱に満ちた生活を送っていたこともあり、土が私の人生を救ってくれたと言っても過言ではありません。土との出会いがなければ、今の私はなかったでしょうし、どんな人生を送っていたのか想像もつきません。変な言い方かもしれませんが、土には本当に感謝しています。
 
最近は、私の作品を買いたいと申し出てくださる方もいて、周りからは「大量に作ったら?」とか、「売れる器をもっと作ったら?」と言われることも多いのです。ですが、土を金儲けのためだけの道具として使うなんて、私の中では絶対にできないことなんですよね。「量産」という言葉を聞くだけで、鳥肌が立っちゃうほどです(笑)。
 
陶芸は、アート、物理、化学、色々な要素を含んでおり、さまざまな条件によって、まったく違った風合いを持つ作品ができあがります。ちょっとしたことが原因で、割れることもありますし、すべての工程が真剣勝負の連続です。
 
器ひとつにしても、ただ実用品として作るのと、作家の情熱や気持ちが入った物では、その違いは明らかですし、心に乱れがあると、それが作品にも反映されます。逆に優しい気持ちで作った時は、良い作品ができるものです。ですから、できるだけ普段から優しい心が持てる人間になろうと、努力しています。
 
現在、作品制作、クラス開講のほか、公立学校でも子供たちに陶芸を教えています。なかなか公立の学校というのは予算が厳しく、アートの先生が極端に少ないのが現状なんですね。でも、1人でも多くの子供たちに陶芸の魅力を知ってもらいたいと思い、ボランティアで教えています。子供たちの創造性や発想は、私自身にインスピレーションを与えてくれますし、私にとって大切な活動の一部となっています。
 
私の作品は、スタジオにもいくつか置いていますが、サンディエゴのバルボアパークにあるMingei Museum(民芸美術館)にも、20点ほど展示されています。また、私が焼いた器を、実際に使ってくださっている日本食レストランもいくつかあります。手に取って持ったり、食事に使っていただくことで、陶芸の魅力を多くの人に理解してもらえたらうれしいですね。
 

(2009年2月1日号掲載)

ゲームソフト・プロデューサー(クリエイティブ系):千綿 浩之さん

今回は、ゲームソフト・プロデューサーとして活躍する千綿浩之さんを紹介。プログラマーとして制作畑に入り、自ら希望しアメリカへ。プロデューサーとしての役割から日米の市場戦略の違いまでを聞いた。

【プロフィール】ちわた・ひろゆき■国際基督教大学教養学部でコンピューターサイエンスを専攻。卒業後、コナミに入社する。入社3年目にシカゴの現地法人に赴任。サンフランシスコでの勤務を経て、2000年ハワイでコナミの制作拠点の立ち上げに携わる。06年ロサンゼルスのコナミデジタルエンタテインメントに異動し、現在に至る

そもそもアメリカで働くには?

企画から発売まで
ゲーム制作の進行役

大学でコンピューターサイエンスを専攻し、コナミにゲームプログラマーとして就職しました。入社2年目に上司にアメリカ赴任希望を告げたところ、3年目にシカゴの事務所に赴任することに。その後、サンフランシスコとハワイの拠点に異動。ハワイではリードプログラマーを経て、音楽ソフト「ダンスダンスレボリューション(DDR)」の制作でディレクターとしてチーム全体を統括する役職に就きました。ハワイでプロデューサーに昇格し、2006年秋にハワイのオフィスがLAに統合され、こちらに移ってきました。
 
日本では私のようにプログラマーや音楽系、映像系などの現場からプロデューサーになるのが典型的なキャリアパスですが、アメリカの場合は、例えば小さなチームのマネジメントを任され、サブプロデューサーからプロデューサーへというように、現場を通らない人もいます。
 
プロデューサーは企画・立案から予算・コストの管理、制作までの進行を担当します。映像、プログラム、ゲーム内容のデータ、契約などをまとめていくのが役割です。私は現場上がりですので、自分で企画・立案することも多いのですが、アメリカでは外部の制作会社から買い取るという形が多いですね。逆に日本は内部ででき上がっていくことが多いです。
 
ハワイでDDRのPC版を担当して以来、DDRのXbox版を作り、「DDRウルトラミックス1~4」を毎年出してきました。06年からはXbox360版の「DDRユニバース」を毎年ホリデーシーズンにリリースしており、現在は新しいプロジェクトの準備中です。
 
典型的な毎日の業務は、朝夕に日本からのメールをチェックし、日中は企画の内容を吟味したり、試作品を検討したりします。企画が走り出すと作業が中心になり、例えばDDRは70以上入っている曲の1つ1つについて、外部と制作やライセンス取得の交渉を繰り返します。納期に合わせて作業を進め、トラブルに対処していくことも仕事の1つです。

玩具だけどビジネス
そのバランス感覚が肝

DDRシリーズXbox360版のゲーム画面。
ジャミロクワイら有名アーティストの楽曲を
使用するため、ライセンス取得なども重要な仕事

プロデューサーに求められるのは、コミュニケーション能力と、ゲームを作る流れやノルマをわかっている頭、そしてクリエイティビティー。もちろん個人差はありますが、それを意識することは重要だと思います。
 
コミュニケーション能力はどんな職種にも最も重要なスキルでしょう。やはり「ほう・れん・そう(報告・連絡・相談)」が大切。自分だけで対処できないトラブルは上司にすぐに報告し、外部制作会社の方などとも同様に対応しています。
 
職場はほとんどがアメリカ人ですが、コミュニケーションの難しさは言葉の問題というより、考え方の違いである場合が多いです。相手も同じように思っていると思うと、まったく違う答えが返ってくることもあります。また、アメリカと日本では市場の動き方が違うので、お互い理解しないといけません。
 
例えば、日本では新しいゲームの発売時には、全国ネットのテレビや雑誌で一斉に告知すればバッと売れることも多いのですが、広いアメリカではそのような手法が通じません。ただ、いったんヒットしたら地道に長く支持されるという市場特性もあります。もちろん、続編を維持する努力も必要。立ち上げるのは難しいけれど、大事に守っていくことが非常に重要です。
 
プロデューサーは予算や発売日も厳守しなければならないので、かっちり管理していかなければなりませんが、同時に遊び心も忘れてはなりません。また自分が面白いと思ったゲームでも、それが売れるかどうかを客観的に判断する感覚が必要です。1つのゲームを作って売るというのは大変なこと。1つが何万と売れていくので、細かいところまできちっと作っていかなければなりません。玩具だけれどビジネス。ビジネスだけど玩具。そのバランス感覚が難しいですね。

自ら企画したゲームを
世に出すのが夢

企画段階で社内の同意を得るために、社内営業をしていくのも大事な業務です。形のないものを形にしていくわけですから、立ち上げは難しいですね。また、決まった納期に向かって計画を立てるのですが、それも2週間ごとにどんどん変わっていく。帳尻を合わせるのも至難の業です。
 
逆にこの仕事の醍醐味は、発売した商品をみんなに知ってもらえるところ。「あれを作っているんだ」と認められたり、子供たちから「すごい」と尊敬の眼差しで見られたりするとうれしいです(笑)。
 
それに、「こうしたい」と思うことが現実化されるところが何よりも楽しい。ユーザーの声を聞くのもうれしいことです。もちろん、それで売り上げを出せれば1番。社内での発言力も強くなり、次の企画の立ち上げもやりやすくなります。
 
こちらに来て11年。実は06年にハワイを統合する時点で日本のコナミに帰るという選択肢もあったのですが、アメリカに残ることに決めました。自分で企画を立て、ゼロからゲームを手がけてみたかったからです。非常に難しいことなのですが、ぜひ実現させたいと思っています。
 
この業界で働きたい人は、まず技術を高めることが大切です。グラフィックや音楽、プログラム、それぞれの分野で自らの技術を強化すること。すでにゲーム業界や専門学校、大学でゲームの知識がある人は、そういった点をアピールすると良いのではないかと思います。そして、現場でコミュニケーションをしっかり取る努力をすること。スゴ腕のプログラマーでも一緒に仕事ができないようでは採用が難しいですね。また、営業などの分野でこの業界に入りたいという人も、他の業界と同様、それぞれのビジネススキルを身に付けなければならないと思います。
 

(2008年12月1日号掲載)

画家(クリエイティブ系):クライメンソン 弓さん

信じて続けていれば、
必ず道は開けていくもの。

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は画家のクライメンソン弓さんをご紹介。幼少時代に見たゴッホの絵画に感銘を受け、油絵の世界へ。良い作品を作り、社会の役に立ちたいと制作活動に励んでいる。

【プロフィール】くらいめんそん・ゆみ■東京都生まれ。慶応義塾大学文学部美術・美術史学科卒業後、Academy of Fine Arts in San Franciscoで油絵やデッサン、コマーシャルアートを学ぶ。オランダでの制作活動、La Jolla野外ギャラリーへの出展、サンディエゴや東京で個展を開催。La Jolla美術協会元会長、美術展審査員。現在、La Jolla Fine Arts幹事。www.yumi-art.com

そもそもアメリカで働くには?

強い感銘を受けたゴッホの油絵

6/21~/23までバルボアパーク
「ギャラリー21」にて個展を開催中

 母や祖母が絵を描いていたこともあり、私も幼い頃から絵を描くのが好きでした。13歳の時、書家であり水墨画家であった内山雨海先生に弟子入りし、水彩画を習っていたのですが、上野の美術館で開催されていた「ゴッホ展」で見た「夜のカフェテラス」に強い感銘を受け、それをきっかけに油絵を描き始めました。油絵は、日本を代表する画家、藤田嗣治先生とパリ時代に先輩後輩として親しかった成井弘画伯に指導を受け、大学では美術と美術史を学びました。
 
 両親は大学を卒業した私に、すぐに嫁に行ってもらいたかったようですが、もっと絵の勉強がしたかったのでアメリカ留学を決意し、1964年にサンフランシスコにある「Academy of Fine Arts in San Francisco」へ入学しました。
 
 まだ若かった私は、現実の厳しさも知らずに、「もう仕送りはいらないから」と両親に告げ、アルバイトしながら自活していこうと頑張りましたが、生活は苦しくなるばかり。スケッチブックを買うお金もなく、新聞にチャコールで絵を描いていた時期もあったほどです。ところが、新聞に描いた絵を見た先生が、クラスで「これこそが芸術だ!」と褒めてくれ、翌週からみんな新聞に絵を描いていたのが、面白かったですね(笑)。
 
 卒業後は、アメリカ人と結婚し、3人の子供に恵まれる一方、画家としての活動も続けました。当時はサンディエゴで生活していたのですが、サンディエゴの画家たちのリーダー的存在だったジョン・フーパー氏が、何かと私を助けてくれ、展覧会にも積極的に出展するようすすめてくれました。
 
 徐々に私の絵が展覧会で入賞するようになり、権威ある賞を受賞したのをきっかけに、絵が売れ始めるようになりました。

交通事故で左手が一時麻痺

La Mesaのイタリアンレストラン
「Ciao Bella」に飾られている作品

 そんな時、結婚生活にピリオドを打つことになり、3人の子供を引き取った私は、絵を売って、子供たちを養わなくてはいけませんでした。私が引き取ったことで子供たちの生活レベルが落ちるようなことは、絶対にあってはいけないと思い、制作活動を続け、野外美術展などに出展していました。幸いにも絵はよく売れたので、まとまったお金ができると子供たちと一緒に旅行に出かけたりしていたものです。
 
 その後、ちょっとしたことがきっかけで、オランダで制作活動をするチャンスが訪れました。オランダと言えば、私が上野で感銘を受けたゴッホの生誕地。しかし、そうは言っても3人の子供がいましたので、大変悩みました。
 
 結局、前夫や子供たちと相談し、上の2人の娘は前夫に預け、末っ子の息子だけを連れて行くことに。オランダでは、アントーベンという町の画廊で制作活動をしていました。
 
 同時にサンディエゴのコロナドアイランドにあるアートギャラリーにも私の描いた絵を置いてもらっていたのですが、私の絵を買ってくださった方が、わざわざオランダまで会いに来てくれ、その方の依頼でノルウェーでも絵を描く機会に恵まれました。
 
 順調に活動を続けていましたが、ある日、ニューヨークで仕事を終え、オランダの自宅に向かっていた時、友人が運転していた車が交通事故に遭い、同乗していた私は頭部を打撲し脊椎を痛め、左手が不自由になってしまったのです。右利きだったので絵を描くことはできたものの、パレットを持つことはできず、この時ほど人生のどん底を経験したことはありません。
 
 地道にリハビリに打ち込んでいましたが、主治医から「オランダは寒過ぎるから、スペインに引っ越してはどうですか?」と提案されました。それならいっそサンディエゴに戻ろうと、85年にオランダを後にしました。その後、リハビリの甲斐があって、左手は1年ほどで元の状態に戻りました。

人生には昼もあれば夜の時もある

 サンディエゴに移ってからは、ラホヤ美術協会の会長を務めたり、美術展の審査員を務める一方、バルボアパーク・スパニッシュビレッジ・アートセンターにある「ギャラリー21」で個展を開いたり、市からの要請でアダルトスクールの講師をして絵を教えていました。
 
 2005年には、東京で初の個展も開いたんですよ。その時には両親は他界していましたが、ずっと「日本で、いつ個展を開くの?」と待ち望んでいてくれたので、画家としての私をサポートしてくれた両親への恩返しのつもりで開きました。そして、この個展をきっかけに日本のエージェントが付いてくれたので、来年あたり東京で2回目の個展を開く予定でいます。
 
 人生には、昼の時もあれば夜の時もあります。私はこれまで多くの夜を経験しましたが、私の父は、「人から助けられたお陰で今の自分があるのだから、人への恩返しをしなければいけないよ」と、常々、私に言っていました。その教えを胸に、美術協会や学校を通して美術教育を行ったり、市のパブリックアートやバルボアパークのミュージアム・チャリティーオークションに作品を出展するなど、さまざまな形で社会貢献できるよう活動しています。
 
 真剣に画家を目指している方がいらっしゃいましたら、どこかの美術協会に登録し、自分の作品をどんどん展覧会に出展して、チャンスを掴んでいってほしいと思います。好きなことは情熱を持って続けていれば、必ず上手になります。信じて続けていれば、必ず道は開けていくものだと思いますよ。
 
(2008年6月16日号掲載)

建築デザイナー(クリエイティブ系):千綾 康弘さん

創造性と現実性の絶妙なバランスが
超一流の建築デザイナーの手腕

今回は建築デザイナーの千綾康弘さんを紹介。職場で建築の基礎を学んだ後、渡米して、ハーバード大学院へ。現在は世界的に活躍するフランク・ゲーリーの事務所に勤め、エキサイティングな日々を送っている。

【プロフィール】ちあや・やすのり■1968年横浜生まれ、大阪育ち。南カリフォルニア建築大学にて建築学士号取得後、ハーバード大学大学院デザイン学修士課程修了。現在、フランク・ゲーリーの事務所「GEHRY PARTNERS, LLP」に勤務。アソシエイト。www.gehrypartners.comwww.gehrytechnologies.comwww.barclayscenter.com

そもそもアメリカで働くには?

実務を2年間叩き込まれて渡米

2001年夏、当時働いていた事務所仲間と

 昔から絵が大好きで、カーデザイナーや画家を夢見ていたのですが、小学校に上がる時の実家の改築をきっかけに、建築にも興味を持ち始めました。高校に入るまでは、漠然とデザインの仕事に就くと決めていました。
 
 高校2年の終わり頃から家の経済状況が悪化していたにも関わらず、自分には実感がなく、現役で大学に合格しようと真面目に取り組まず、浪人することに。ただ、浪人しても志望校に合格するとは限りません。自分にとって何もうまく行かない、非常につらい時期でした。
 
 でも突き詰めて考えると、自分のやりたいことは「建築」。逃げ道がなかったからこそ、その思いだけが残っていました。大学に行かなくてもいいと気持ちを切り替えられた21歳の春、新聞の求人広告欄から見つけた建築事務所に夢中で連絡しました。バブルがはじけていなかったのが幸いしたのか、経験なしでも運良く採用となりました。当時、大阪の心斎橋にある一連の作品を通して安藤忠雄氏の活躍を知っていましたから、独学で建築を目指すことも可能だと、勝手に思い込んでいました。これが人生の転機でした。
 
 面接の翌日から初出勤。月曜から土曜日、毎朝9時から夜遅くまで仕事の毎日。日曜出勤もあり、非常に忙しい2年間でしたが、良い実務経験になりました。そして、偶然、事務所からロサンゼルス派遣の話をいただき、渡米したのが1991年4月のことです。LAの建築事務所には、約7年間在籍しました。
 
 20代も終わりに近付き、色々と不安もあったのですが、やはりアメリカで建築の勉強がしたいと思い、SCI-ARC(南カリフォルニア建築大学)に入学しました。学部は5年制なのですが、面接とポートフォリオ審査の結果、2年からのスタートとなりました。
 
 週3回のスタジオでは、毎回のように課題が出ます。リサーチ、ドローイング、模型。時にはグループで課題。プレゼンテーション前になると、スタジオで夜遅くまで作業していました。もちろん、歴史、構造、理論などのクラスもあります。途中で他校に転学する人や建築を諦める人もいました。
 
 私の場合、グリーンカードを持っていたので、スチューデントローンが組めましたし、4、5年目にはスカラーシップも貰えました。それに、何より家族のサポートのお陰で学生生活を続けることができました。同校は建築理論中心だったこともあり、もう少し幅広くデザイン分野の勉強をと思い、卒業後はハーバード大学大学院に進学しました。

憧れのゲーリー事務所勤務に

 ハーバードでの初日、オリエンテーションは01年9月11日でした。自分のことに精一杯で9・11テロに気付いたのは、午前11時近くでした。デザイン学部校舎から歩いて5分ほどの大学院寮に帰る時、上空に飛来した戦闘機を見て異様な感覚に襲われました。
 
 翌年に卒業したのですが、テロの影響で仕事探しは困難でした。アドバイザーも「自分の出身地に戻りなさい」と。そういうわけでLAに舞い戻って来て、厳しい状況だったのですが、SCI-ARC時代の友人や教授のお陰で、何とか職に就くことができました。
 
 結局、規模も方針もまったく異なる3社の建築事務所で、カノガパークの小学校、東京・南新宿の美容専門学校新校舎、上海、深、ジャカルタのショッピングセンターなどのプロジェクトに関わりました。
 
 その後、06年1月、フランク・ゲーリーの事務所に移りました。ファースト・インタビューの翌日に電話でオファーをいただいたのですが、その時の喜びは今も忘れられません。
 
 当初は、ディズニー・コンサートホールの前に建設される、グランド・アベニュープロジェクトのチームだったのですが、現在は、ニューヨークのブルックリンに完成するBARCLAYS CENTERのチームに所属しています。実施設計が始まった現段階では、構造・設備・外装などのエンジニアやコンサルタントと共同してデザインを進めています。
 
 GEHRY PARTNERSでは、デジタル・プロジェクト(DP)と呼ばれる3Dソフトを使って、構造、設備、外装、内装、すべてをコンピューター上で製作します。それを駆使し、コンクリートや鉄骨の積算から、3次元でのデザインの確認、コンストラクションまでをすべてをコントロールします。
 
 アリーナは規模が大きいので、ライフセーフティー、ライティング、音響、そのほかさまざまな専門分野の人々との共同作業となります。しかも、地下鉄の駅出口が敷地内にあり、将来的に隣接するオフィスビル1棟と高層住宅3棟も考慮してデザインしているので、非常に複雑なプロジェクトです。ちなみにDPは、3次元モデルの建築分野での応用を目的に、02年に設立されたGEHRY TECHNOLOIES社で開発されています。北京オリンピックのメインスタジアム、通称「鳥の巣」の設計にも使われています。

現実的問題を予見し解決していく

 デザインと言うと、表に現れる美的な部分に関心が集中しがちですが、そのバックグラウンドには、コスト、材料、構造、スケジュール、市場動向、あるいはチーム内やクライアントとのコミュニケーションも含め、さまざまな現実的な問題が隠れています。それらを予見し、解決していくプロセスもデザイナーの仕事です。そういった要素のバランスが崩れる一歩手前ギリギリで、クリエイティブなことに挑戦できる人たちが、超一流デザイナーなのでしょう。
 
 制約の多い建築の領域から抜け出そうとして大学院に行ったのですが、まだまだ建築が中心です。今の目標は、残りのテストに合格してアーキテクトのライセンスを取ることです。将来は色々な分野のデザインに関わりたいと思っています。そういう意味で、家具やティファニーのジュエリーまで手がけるフランクの事務所で働けるのは、貴重な経験だと思っています。

メーキャップアーティスト(クリエイティブ系):松下 葉月さん

自己満足で終わったらただの趣味
プロとして相手のニーズをつかみ
100%実力を出すことが大事

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はメーキャップアーティストの松下葉月さんを紹介。情熱を持ってやり続けることの大切さを、メーキャップの魔法と共に若い人たちに伝えたいと意欲に燃えている。

【プロフィール】まつした・はづき■埼玉県生まれ。2000年に渡米、ハリウッドのエレガンス・インターナショナル・アカデミーなどで学ぶ。卒業後、07年10月に出張メーキャップサービス「Beauty Box」を設立。
www.hazukimakeup.comwww.myspace.com/beautyboxca

そもそもアメリカで働くには?

ハリウッド映画にも興味 ヘアメークを学びに渡米

浅草で警察官500人が集まって行われる
恒例の新年会で、タトゥーのメークを施す

 10代の頃から美容に興味があり、時々メークをしたり、エステに行ったりしていました。お金がなかったので月に1回くらいでしたが。それでエステティシャンに憧れて、ファッション系の専門学校を卒業後、東京のチェーン店でエステティシャンをしていました。
 
 幼少時代にニュージーランドで暮らしていたので、また英語圏の国に住んでみたいと思い、親友の留学しているアメリカに遊びに行った時、留学することを決意。ハリウッド映画にも興味があり、メークや英語も学びたかったんですね。ハリウッドは本場というイメージがあったので、留学先もLAに決めました。
 
 アーバインの語学学校に通った後、ハリウッドのメーク専門学校に通うように。その間に、日本のミュージックビデオを手伝うチャンスに恵まれたり、学校がない週末は、ビバリーヒルズのタレント・モデルエージェンシーでアルバイトをすることにもなりました。
 
 学校を出てから1年半ほどフリーランスで働き、サンタモニカ・カレッジに入って美容師の資格を取ってからは、日系の美容室で働き、メークもやらせてもらいました。また、サンタモニカやウエストウッドのホテルの美容室でも働き、映画撮影の現場や日系企業からも仕事をもらったりしていました。
 
 その後、周りの方々のサポートがあり、ハリウッドの有名なアーティストを紹介していただくことに。1人は最近ハリウッドのトップメーキャップアーティストとして選ばれた方と、80年代に特に活躍されたヘアの大御所。現在、その2人の師匠にアドバイスをいただいています。

好きなことをやり続ける それが成功への唯一の道

 「Beauty Box」を立ち上げたのは、昨年の10月末ぐらい。日本人やアジア人を対象にした出張メーキャップサービスの会社です。ハリウッド以外でもディズニーを始め、有名なメークさんとたくさん知り合えました。このつながりを活かして、日本の若いアーティストたちに何かできたらいいなと考え、日本からの人たちを対象にしたメーキャップ教室も始めました。先日も、日本から生徒さんが30人も来られたので、アメリカ人のトップのメークさんを雇って教室を開きました。
 
 これまでに手がけた仕事の中には、氷室京介さんのヘアメークや、最近乳ガンから復活したカイリー・ミノーグさん、アシスタントとしてですが、キム・ベイシンガーさんなどがあります。
 
 成功への道は1つしかないと思うんです。色々なアプローチの方法はあっても、みんな同じことで、結局は同じ道になるのでは。それは「やり続けるしかない」ということ。私はメークをやり続けたい気持ちだけで、手探りでやってきたら、こうなっていました。好きなことだったらお金がなくても、情熱があればできると思います。例えば、彼や友達にメークしてそれを写真に収めたり。そうしていくといつの間にかメークの対象がセレブになっていったりするんですね。
 
 やり続けたらステップアップしていきます。同じことをしていても腕が上がっていくんですね。後は周りのサポート。何かやりたいとずっと言い続けていたら、絶対誰かが助けてくれます。
 
 メークは素早さがないとダメですね。昔は遅かったので、撮影のクルーの方にも迷惑をかけていました。時間と監督の要求に応じることと、特に大きなプロジェクトでは、チームワークでどれだけ仕事が早くできるかが重要です。
 
 私がメークをすることでキレイになったり、思い描いていたイメージを超える時が楽しいですね。自分の思っていた以上の出来で、お客さんや俳優さんが喜んでくれると、やっていて良かったと思います。いつもいい緊張感がありますし、終わったらすごく充実感があります。大物やセレブに会う前は緊張したり、失敗したらどうしようと思いますが、それがうまくいってみんなが喜んでくれたらすごくうれしいから、それがクセになりますね。
 
 好きなことを通して自分も成長できるし、色んな人に会えて貴重な体験ができるのがやりがい。私のメークで、普段メークしない方が、120%キレイになります。ひと筆ですべてが変えられる、魔法みたいなところが魅力です。

自分の学んだすべてを 目指す人たちに伝えたい

 メーキャップアーティストを目指す人へのアドバイスは、「人の言うことを聞くこと」。自己満足で終わったらただの趣味です。
 
 例えばモデルさんにするべきメークがあるのに、自分なりのメークをしてしまってはダメ。今日はCMだからナチュラルで、と言われたらナチュラルにしなくちゃいけないし、いかにキレイにするか、腕をいかに上げるか、それは仕事をもらう上で大切なことです。そして、自分ができたと思ったことはすぐに人に伝えることです。
 
 それから、この業界では技術はあって当たり前、だからいかに人脈を広げていくかが大切です。ただし、人脈を広げることに忙しくて、最新の技術を学ぶのがおろそかになってもいけません。人脈作りと技術向上のバランスの取り方が大切になります。
 
 今度、Beauty Boxは「Blue Machine Global」という名前に変わります。将来はBlue Machineを通してみんなでチームを組んで、何かできればいいなあと思っています。私もまだまだハリウッドではひよっこアーティストなので、将来はエージェンシーに入って、セレブのイメージ作りに携わりたいです。
 
 日本から来たメークを学ぶ生徒さんたちは、みんな目をキラキラさせて、「教えて、教えてー!!」って感じでした。こんな子たちがまだ日本にもいるんだとわかって、彼らに何でもしてあげたい、すべてに応えてあげたいと思いました。
 
 ある程度自分で何でもできるようになったら、「自分だけいい思いをすればいい」じゃなくて、若いアーティストの手助けをしたいです。自分の今までやってきたことを伝えていきたいんですね。
 
(2008年4月1日号掲載)

ランドスケープ・アーキテクト(クリエイティブ系):橋本 純さん

デザインがきちんとした根拠に
基づいていなければ、
納得してもらえません

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はランドスケープ・アーキテクトの橋本純さんを紹介。つらいことも大変なこともすべてが勉強と、個人邸から商業施設まで、さまざまなプロジェクトを手がけている。

【プロフィール】はしもと・じゅん■1974年宮崎生まれ。アリゾナ州立大学を卒業後、ハーバード大学院でランドスケープ・アーキテクチャーを学んだ後、ワシントンD.C.で就職。現在、ソラナビーチにある「The Office of James Burnett」(www.ojb.com)で働く一方、友人と設立した「skye design studio」(www.skyedesignstudio.com)でも活躍中。

そもそもアメリカで働くには?

職業適性検査で適職のキャリアを選ぶ

集めた雨を循環させるレインガーデン

 私がランドスケープ・アーキテクトになったのは、実は1つのテストがきっかけでした。
 
 日本で短大の英文科を卒業後、ペンシルベニア州の中学校で、日本の文化を教えるインターンシッププログラムに参加したのですが、その学校にいた美術の先生にすすめられて、「職業適性検査」というテストを受けてみたのです。そのテストによると、私の適職は「ランドスケープ・アーキテクト」。それを機に興味を持ち始め、インターンシップ終了後、ランドスケープ・アーキテクトを目指すことに。
 
 宮崎出身の私は、寒い冬が苦手だったので、アリゾナ州テンピにあるArizona State Universityに入学を決めました。そこで4年間ランドスケープ・アーキテクチャーについて勉強したのですが、例えば、「もし、ここに公園を造るとしたら?」「もし、この街を再開発するとしたら?」といったことを仮定し、その場所を取り巻く環境やさまざまな条件を考慮しながら、自分のアイデアを出したり、実際に図面を描いたりするクラスがありました。
 
 2年目の最終学期では、生徒が半分に減らされるので、そのプレッシャーもありましたし、つらくて止めようと思ったことも。ですが、先生に励まされながら、なんとか乗り越えることができました。

夢を実現するためにハーバード大学院進学

ショッピングモール内のコートヤード

 卒業前のインターンシップは、この業界の先端を行くオランダで行いました。
 
 まずは、「Wageningen Agrucultural University」という大学が設けている、ランドスケープのためのインターナショナルスクールに2カ月間参加し、オランダの街を活性化させるためのディスカッションを行ったり、公園や街並みを実際に見ながら学習しました。
 
 その後、アムステルダムにあるランドスケープ事務所でインターンをすることになり、そこでは個人邸から大きなプロジェクトまで、積極的に参加させてもらいました。オランダは、伝統や文化の中にモダンなデザインやトレンドを織り交ぜていくというスタイルも多く、アメリカのランドスケープとの違いを勉強する良い機会でした。
 
 アリゾナ州立大学を卒業後は日本に戻り、少しの間、ランドスケープから離れてみたのですが、やはり、どうしてもランドスケープのことが気になって「もっと勉強したい」という気持ちが強くなり、結局、ハーバードの大学院に入学することを決めました。
 
 なぜ、ハーバードにしたかというと、国際的な雰囲気の中で勉強できることや、世界的に知名度も高いため、色々なことを学ぶチャンスがあると思ったからです。ハーバードは、実際に色々な分野間でのコラボレーションがあり、自分の未知の分野に触れられることも大きな魅力でした。ただハーバードは、世界中から優秀な人たちが集まって来ているため、競争も激しく、在学中に2回「Low Pass」という成績を取ると退学になるという厳しさ。みんな泊まり込みで必死に頑張っていましたね。
 
 大学院卒業後は、ワシントンDCでの就職が決まりました。DCのオフィスでは、病院内のヒーリングガーデンや、コンドミニアム周辺の景観、リゾートスパのランドスケープなどを手がけました。
 
 病院のヒーリングガーデンのプロジェクトでは、水の使い方や植物の種類に配慮したり、パーキングエリアや待合室から見た時の景観にもこだわりました。また、この場所で患者さんのカウンセリングが行えるよう、さりげなくプライバシーが保たれる小さな空間も作りました。ランドスケープは、ただ美しく見えるだけでなく、その場所の目的や機能性など、幅広い視点で考えていかなければいけません。
 
 DCでの仕事も順調だったのですが、2年半経った頃、「他社ではどんな仕事をしているのだろう?」と思い、アリゾナ州立大学の先生に相談したところ、現在働いているサンディエゴのソラナビーチの「The Office Of James Burnett」を紹介され、現在に至っています。

つらいと思うこともきっと将来役に立つ

 デザインは、日照時間の問題や、建物の位置、その土地の天候や植物の特性、そして予算など、諸条件を基に考えていきます。ランドスケープ・アーキテクトが手がけるのは、個人邸や商業施設のほか、ゴルフ場や公園などさまざまです。ですが、どのプロジェクトにも共通することは、「どうしてそのデザインにしたのか」という理由が必要だということで、そのデザインがきちんとした根拠に基づいていなければ、クライアントになかなか納得してもらえません。
 
 また、ランドスケープの仕事依頼は、建設プロジェクトの最後の方で決められることも多く、予算がタイトな場合もよくあります。実際にクライアントが納得するまで、何度も違うアイデアを提案し、ミーティングを重ねることも多くあります。
 
 今後のビジョンとしては、最近、友人と立ち上げたランドスケープ事務所「skye design studio」の規模を大きくし、そちらをメインに仕事をしていきたいと思っています。そのためには経営についても勉強しなければいけませんし、今、「つらい」と思うことも、きっと将来役に立つ日が来るのではないかと思って、頑張っています。
 
 職業適性検査でこの職業が向いていると言われた私ですが、どうやらそのテストの結果に間違いはなかったようです(笑)。
 
(2008年3月1日号掲載)

映像プロデューサー(クリエイティブ系):藤井 智さん

英語版をいかに魅力的にするか。
見たくてたまらない作品を作りたい

アメリカで夢を実現した日本人の中から、今回は映像プロデューサーの藤井さんを紹介。今や日本文化の1つとして挙げられるアニメ作品をアメリカ向けに商品化している。英語版にする作品の買い付けや、日本語から英語へのセリフの翻訳はもとより、英語版を前提に作品の企画にも携わる。

【プロフィール】ふじい・さとし■1972年、名古屋市生まれ。大手ガラス会社に勤める父親の転勤で10歳の時にシアトルへ。高校までシアトルで過ごし、ニューヨークのコロンビア大学へ入学。フィルムスタディーを専攻に卒業し、95年、日本の映像製作会社に入社。4年後に再び渡米し、2000年よりロサンゼルスのPioneer Entertainment(現Geneon Entertainment (USA))に勤務する。

そもそもアメリカで働くには?

どんな映像作品にも
エンタメ性が必要

『エルゴプラクシー(“ERGO PROXY”)』Fuse
TV(ケーブル)でシリーズ放映中

 子供の頃から父の転勤が多く、10歳の時にはシアトルに移りました。アニメや漫画が好きで、漫画は日系の書店で買ったり、友達と貸し借りしていました。テレビでも『宇宙戦艦ヤマト(“StarBlazers”)』や『超時空要塞マクロス(“Robotech”)』の英語版が放映されていました。
 
 高校でやっていたアメフトの実力を見込まれて、コロンビア大学へ入学。最初は経済学や東アジア研究の専攻を考えていたのですが、興味半分で取っていたフィルムスタディーの方が面白かったので、こちらを専攻に決めました。
 
 大学卒業後の就職は日本と決めていました。日本でほとんど教育を受けたことがないので「このままでは自分は変な日本人になってしまう」という焦りがあったからです。95年の日本は超就職氷河期でしたが、医学系専門の映像プロダクションが英語力を買って採用してくれました。
 
 最初は企画部で英語によるリサーチを行い、日本語での企画書の書き方なども習得しました。そこである企画が通り、それをきっかけに脚本・演出を手掛けるようになりました。たとえ医学系の小難しいものであっても、映像作品を作る面白さはどんなものにもあります。情報だけを羅列しても誰も観てくれない。どうやったら興味を持ってくれるか、肝心なのは最終的にできた作品のエンターテインメント性です。自分が映像の世界に興味を持ったのも、エンターテインメントが好きだったからです。
 
 やがて、本当の意味でエンタメの世界に入るにはロサンゼルスしかないと思い、日本の制作会社に4年勤務した後、再び渡米。日本人というバックグラウンドが活かせるエンターテインメントといったら、やはりアニメです。当時、『ポケットモンスター』や『ドラゴンボール』などがこちらでもヒットしていました。ロサンゼルスにあるアニメ系の会社に履歴書を送り、その中で今の会社に採用してもらいました。

日本語版を
英語版にする醍醐味

『ヘルシング(“HELLSING”)』。アニメ業界
では「超」ヒット作品

 現在、プロデューサーとして、主に日本のアニメをこちらに紹介する仕事に携わっています。作品の買い付け、契約書の確認、英語版の吹き替え、マーケティング戦略、DVDやパッケージの製作、商品が店頭に並ぶまで、すべてのプロセスを管理します。
 
 それぞれの作業はいろんなスタッフがやるのですが、それら全部通して携わっているのは自分だけなので、作品の統一感を出して、「格」を上げていくのが自分の仕事です。作品のアピールポイントを自分が各スタッフに伝えていかないと、最終的にでき上がったものが、「しっくりこない」ものになってしまいます。自分の考えを元に、皆をまとめていくというのは非常に難しいことですが、やりがいのあることです。コミュニケーション能力が1番重要ですね。
 
 作品によっては企画段階から携わることもあります。企画書を読んで出資するかどうかを決める-アメリカで流通することを前提として製作を始める-というケースです。最近担当した『エルゴプラクシー』がその例です。
 
 自分が特に深く関わっているのが、英語版の制作の部分です。日本語を英語に直しただけで、その作品の面白さが再現できるわけではありません。口の動きに合わせなければならないし、各シーンの演技にも合わせなければなりません。実際の作業は吹き替え監督やライターなどの専門家に任せますが、翻訳はすべて目を通しますし、演技や台詞のニュアンスもすべて確認して指示を出します。
 
 例えば、『ヘルシング』という作品は、英語版が非常にうまくできた例。舞台がイギリスなので、登場人物はもともと英語で話しているべきもの。そういう場合は意地でも英語版は日本語版に負けられない(笑)。ライター、ディレクター、役者がみんな頑張ってくれて、『ヘルシング』は、英語圏のアニメファンに非常に高い評価を得ています。
 
 同作は企画から関わっていたのですが、02年に出したテレビシリーズがアメリカでとてもウケが良く、「もう1度作りませんか」と、日本側に2年かけて強力にプッシュ。「やれば絶対に当たる」という自信があったんですね。そして、06年に第2弾が出ました。

アメリカでウケる
作品づくりが目標

 この仕事は、「アニメが好きだから」というだけでできる訳ではないと思います。自分のコントロールが効く部分で、どこまでクオリティーを上げていくことにこだわれるか、それが面白いと思えなければ向かないですよね。へたくそな英語版や作品の良さを伝えられていないパッケージは、見ればすぐにわかる。そういう物は作りたくないですよね。もちろん、こだわり過ぎて締め切りを守れなかったらダメ。それを両立させるためには、休日出勤も徹夜もしちゃいます(笑)。
 
 この仕事をやってきて良かったと思うのは、多くの作品に深く関わることができたこと。セリフを全部覚えてしまうくらい、1つの作品を何度も見ていますから。そうやって作業しながら、「こうしたらもっとアメリカでウケる」とか、「どういう企画書から始まって、最終的にこういう作品になったんだろう」とか、常に考えています。そうやっていろんなアイデアを自分の中で温めています。
 
 日本のアニメがニッチだけでなく、より広く受け入れられるためには、さらに工夫が必要だと思います。そういうアングルで、作品の企画の根っこから、より深く関わっていくことが、自分の次のステップだと考えています。みんなが見たくてたまらないコンテンツを作りたいですね。
 
(2007年8月1日号掲載)

フィルムエディター(クリエイティブ系):横山智佐子さん

世界に通用するフィルムメーカーを育て
日本映画産業の向上に繋がれば最高です

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はフィルムエディターの横山智佐子さんをご紹介。大好きな映画を学ぶために単身渡米後、オスカー受賞のイタリア人エディターに師事し、数々のハリウッド映画に携わる。現在は、映画学校を設立し、日本人フィルムメーカーの育成に貢献している。

【プロフィール】よこやま・ちさこ■三重県出身。1963 年生まれ。87 年に渡米。UC サンタバーバラ校映画科を卒業後、ピエトロ・スカリア氏に師事。代表作は、『グラディエーター』『ブラックホーク・ダウン』など多数。最近では『Memoirs of a Geisha』の編集も担当。2005 年に映画学校ISMP を設立。06 年8 月から『アメリカンギャングスター』の編集に参加と多忙な日々を送る。

そもそもアメリカで働くには?

フィルム学生時代から積極的に映画制作に参加

ACE(American Cinema Editors Award)
の授賞式にて真ん中がスカリア氏 

 日本で短大生だった頃、ロサンゼルスに語学留学したのが渡米のきっかけです。ロサンゼルスには、大好きな映画を学べる学校がたくさんあることを知り、1987年に渡米しました。最初の2年間は、サンタモニカ・カレッジで基礎的なことを学び、その頃から、雑誌や学校で見つけたPA ( プロダクション・アシスタント) の仕事に積極的に参加しました。
 
 今、当時を振り返ると、「よくやったな」と思います。でも、こうして映画制作の現場をできるだけ多く見ることで、映画作りに関するさまざまな職業や制作のプロセスを学ぶことができたし、何が自分に1番向いているのかをしっかりと見極めることができました。監督以外のスタッフや俳優は、とにかく待ち時間が多いのを知って、「自分は現場には向いていないな」と。そこで、フィルムを切り、全体の構成をまとめて仕上げる「エディター」の道を目指すことにしたのです。
 
 PAを続けるうちに、多くの人と知り合い、英語にも自信がついてきました。この人脈から次々と仕事が入ってくるようになったのです。ハリウッドの映画業界では特に、人と知り合うことは、とても大事なのです。この頃、グリップ( カメラの動きや影を作る) の仕事をしている主人とも知り合い、彼のアドバイスで、UCサンタバーバラ校映画科へと進みました。

成功へのカギは3つ粘り強さ、運、最後に才能

『Memoirs of a Geisha』の編集中
編集作業は体力勝負の部分もある

 同校を卒業後、『地獄の黙示録』や『レッズ』でアカデミー賞撮影監督賞を受賞したビットリオ・ストラロ氏が、ネパールで、ベルナルド・ベルトリッチ監督の『リトル・ブッダ』の撮影をしていることを知りました。彼の大ファンだった主人がロケに参加していたのです。
 
 そこへ、『JFK』でアカデミー賞を受賞し、現在、最も注目されている実力派エディター、ピエトロ・スカリア氏が編集に雇われ、アシスタントが足りないという現場の状況を知った主人から連絡があり、急きょ、自費でネパールへ飛びました。着いたその足で、編集室へ直行し「無給でも構わないから、仕事させてください」と直訴。ネパールで3カ月、シアトルで1カ月半、一緒に仕事することになったのです。35ミリを初めて編集するということは本当にうれしかった。だから無給でも、一生懸命仕事をし、常に何かしら動いて、「帰りなさい」と言われるまで決して帰らない、と決めていました。
 その仕事に対する姿勢が気に入られて、最初はインターンから始まったのですが、『GIジェーン』では、セカンド・アシスタント、『グッドウィル・ハンティング』からは、ファースト・アシスタントを担当することになりました。
 
 エディターの仕事って、実はかなり体力がいるのです。スカリア氏とは初仕事以来、11年間以上一緒に仕事をすることになりましたが、環境的に恵まれていたと思います。彼自身がロケに家族を連れてきていたこともあり、作業終了時間になると、オーバータイムを言い渡されることもありません。私も、母親と当時まだ幼い息子とロケ現場に同行しました。
 成功へのカギって、3つあると思うのです。第1に、粘り強さ。決してあきらめずに続けること。次に、運。運というのは、自分が動いていたら自然と入ってくるものなのです。そして最後に、才能だと思います。

経験重視のハリウッドで映画制作を学んでほしい

 近年、韓国の映画産業が、すごい勢いで伸びています。その理由の1つは、ハリウッド的な制作プロセスをうまく取り入れたことだと思うのです。そこで、日本の映画産業にもっと頑張ってもらいたいという思いから、日本人を対象にした映画学校をハリウッドの傍で設立しようと考えました。以前、このアイデアを現地のアメリカ人たちに話してみたのですが、いまいち反応が悪かったんです。でも、『キャシャーン』のUSA公開バージョン編集を担当した折、一緒に仕事をした日本人映画関係者たちに同じ話をしてみると、とても反応が良かったのです。
 
 それを実際に始めたのが2005年のことです。本場ハリウッドの映画制作のノウハウを、現役で活躍するインストラクターが日本語で教える映画学校「International School of Motion Pictures」を創立しました。若手日本人フィルムメーカーたちに、多くのことを学んでもらいたいと思っています。とにかく、ハリウッド流プロダクションの一連の流れ、ハリウッドのシステム、やり方を学んでほしい。デジタル技術の発達もあって、こちらの学生は素晴らしいものを生み出していますが、その作品と競争できる映画を作るのが目標です。そして、撮影クルーに参加するチャンスをつかんでもらいたいですね。若手日本人フィルムメーカーの育成が、将来的に日本の映画産業向上に繋がってくれれば、というのが学校設立のねらいです。また、日本で経験を積んだプロの方たちにもハリウッドスタイルを体験してほしい。多くの方に参加していただけたらうれしいです。
 
 これから映画制作者を目指す人たちには、日本人であるということはとても特異な存在である、ということを活かして、活躍してもらいたいです。
 
(2006年6月16日号掲載)

3Dアーティスト(クリエイティブ系):金子ゆかりさん

アメリカは自分の才能を信じて、強い力でやっていければ評価してもらえる国

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は3Dアーティストの金子ゆかりさんを紹介しよう。高校時代に交換留学で渡米し、大学留学で再渡米。ウェブデザインからテレビや映画、ゲームなどのスペシャルエフェクトを手掛けるようになり、現在はシニアアーティストとして活躍している。

【プロフィール】かねこ・ゆかり■1972年生まれ。新潟県出身。高校3年の時、メリーランドの高校に1年間交換留学。帰国して高校を卒業後、91年に再渡米し、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校に。96年に卒業後、スクウェアUSAに3Dアーティストとして就職。98年、デジタルスカルプチャー設立。2003年、アクティビジョンに就職。現在はシニアアーティストとして活躍中。

そもそもアメリカで働くには?

就職は必死で売り込み。日本語がプラスに

大学生の頃、ゲッティー美術館の
インターンシップに参加した

 高校3年の時に、交換留学生としてメリーランド州のリバティーハイスクールに1年間留学しました。将来的にエンターテインメント業界で仕事をしたかったのと、自分のやりたいことができそうなアメリカの自由な環境が魅力で、以前からいずれ大学はアメリカで行きたい、と思っていました。1年後に帰国して日本の高校を卒業し、1991年、再渡米してカリフォルニア州立大学ノースリッジ校に入り、アートを専攻しました。メリーランドで留学したのは地方都市だったので、多人種の集まるロサンゼルスはずいぶん印象が違いました。
 
 大学では油絵、デッサンなどを基礎として勉強し、グラフィックデザインのクラスも取りましたが、その頃、人から聞いて3Dアニメーションに興味を持ちました。大学には3Dアニメーションのクラスがなかったので、UCLAのエクステンションを取ったり、専門学校に通って3Dの勉強をしました。在学中に「japanonline.com」というホームページを立ち上げて、デジタルハリウッドのコンベンションではベストアート賞を受賞しました。
 
 卒業後は3Dアニメーションをやりたいと思い、ポートフォリオやデモリールを作って就職活動を行いましたが、経験がないために就職先を見つけるのは大変でした。今でもそうですが、大学を卒業したばかりの人は経験がないため、就職するのは簡単ではありません。特に当時は、3Dがまだ新しい存在で、ソフトウェアなども高価で一般の人は買えないような状態でしたから、どの会社でもインターンとしてさえ雇ってもらえなかったのです。その頃はSGIというコンピューターを使っていましたが、これが最低万円もするような高価なもので、インターンに使わせるようなものではなかったのですね。
 
 結局3Dアーティストとして雇ってくれたのはスクウェアUSA(現スクウェアエニックス)でしたが、インタビューの後1カ月後に就職が決まるまで、多い時には1日に10回でも電話し、「1週間後にまた電話して」と言われたらその1週間後にはすぐに電話して、と必死で掛け合いました。受付の方から日本人のバイスプレジデントにつないでもらい、その人からさらにアートディレクターにつないでもらって、「一生懸命に働きます」とかなり売り込みましたが、結果的に日本語が話せることが就職のプラスになりました。同社ではちょうど『パラサイト・イヴ』のアメリカ制作が始まって間もない頃で、日本からデベロッパーが来て一緒に仕事をしていたのです。

朝10時から翌朝3時まで毎日、3カ月ぶっ通しで

手掛けた作品の1コマ。制作期間は、
作品によっては1~2年かかることもある
©Activision

 同社では『チョコボの不思議なダンジョン2』のカットシーンを担当するなど、ゲームをいろいろ手掛けましたが、98年に「デジタルスカルプチャー」という会社を、アメリカ人のパートナーと共同で設立し、独立しました。経営はアメリカ人パートナーに担当してもらい、私が制作を担当しました。ゲーム以外にも分野を広げて仕事をしたいと思っていたので、独立をきっかけにバラエティーに富んだプロジェクトに関わることができました。
 
 『頭文字D』アメリカ発売用の3Dの車や、ケーブルテレビのディスカバリーチャンネルで放送中の『モンスターガレージ』での3Dの車制作、DVDの表紙にするイメージ制作、映画では『ブレットプルーフ・モンク』のアクションシーンで、セーフティーケーブル(身体を吊るケーブル)を画面から消すデジタル処理の仕事、またゲームでは『スーパーカー・ストリートチャレンジ』などを担当しました。
 
 ですが、契約で独立して仕事をしていると責任が重く、プロジェクトの掛け持ちも多いため、毎日朝10時から翌朝3時までぶっ通しで仕事をするという日々が、3カ月続いたこともありました。
 
 そんな折、デベロッパーからの下請けで『スーパーカー・ストリートチャレンジ』でも仕事をしたことのあるアクティビジョンから、「正社員として迎えたい」という申し出があり、面白そうなプロダクションがあったので入社したのが、2003年のことです。

信じる心や夢があれば、負けずに頑張れる

 同社では『シュレック2』のゲーム制作に関わり、昨年11月に発売となった『トゥルークライム・ニューヨークシティー』ではシニアアーティストとして参加しました。この作品でスペシャルエフェクト部門が新設され、私が同部門最初の1人となり、水や火の爆発の映像などを担当しました。
 
 これからは映像方面に興味があるので、3Dアニメーションを作ってみたいですね。変わったビジュアルが好きなので、ミュージックビデオでもいいしギャラリーでもいいので、3Dの技術を活かして人に見てもらえればいいなと思っています。
 
 アメリカは自分の才能を信じて、強い力を持ってやっていけるのであれば、評価してもらえる国だと思います。1人でアメリカで生活していくのは簡単ではありません。親元を離れた不安や寂しさ、外国で1人でやっていけるのかといった思いも、自分の夢や自分を信じる心があれば負けずに頑張れます。
 
 この業界で言うと、市場にはアメリカが1番大きいですし、技術と才能があれば日本人でも入り込めます。アメリカで生活すると視野が広がるので、世界を広げてみたいと思う人は、異文化を経験でき、選択肢が多いアメリカは向いているのではないでしょうか。
 
(2006年2月1日号掲載)

特殊エフェクトアーティスト(クリエイティブ系):矢田弘さん

人生は1度きりだから楽しみたい
やりたいことをやったほうが良い

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は特殊エフェクトアーティストの矢田弘さんをご紹介。映画『星の王子 ニューヨークに行く』で特殊メークに興味を持ち、単身渡米。あこがれの特殊メーキャップアーティストのスタジオに就職して以来、数多くのハリウッド映画を手掛けている。

【プロフィール】やだ・ひろし■1964年生まれ。大阪府出身。特殊メークに興味を持ち、89年に渡米。メーキャップスクールを卒業後、95年、「SMGエフェクト」に入社。ミュージックビデオなどを手掛ける。99年、「シノベーション」に入社。手掛けた作品は『グリンチ』『猿の惑星』『メン・イン・ブラック2』『リング』『リング2』など多数。

そもそもアメリカで働くには?

英語力もツテもなく、さまざまな仕事を転々

 高校を卒業後、たまたま就職した会社が、映画などの美術と小道具をセットに運ぶ仕事をしており、そこで映画『ブラックレイン』の撮影に関わりました。その時初めてアメリカ人と一緒に仕事する機会を得たのですが、皆楽しんで仕事をしているのが伝わってきて、自分もアメリカに行って仕事をしたいと考えるようになりました。波乗りをしていたので、カリフォルニアには行きたいと思っていましたし、映画『星の王子 ニューヨークへ行く』の理髪店のシーンでの特殊メークに感動して、特殊メーキャップアーティストに興味を持っていました。『ブラックレイン』でアメリカ人と仕事をしたことで決心し、89年に渡米しました。
 
 ロサンゼルスに知人はいなかったので、最初はホームステイをしていました。そのうちに友人もでき、友人と一緒にカーペットクリーニングの会社を始めたり、貿易関係の仕事をしたり、古着の会社を作ったりしていましたが、波乗りをしに数カ月ハワイに行ったこともありました。英語力もツテもなかったので、特殊メークの世界に入るきっかけをつかめずにいたのです。
 
 転機が訪れたのは渡米して3、4年目でした。グリーンカードの抽選で当選したのです。「これでアメリカでもチャレンジができるかもしれない」と思い、メーキャップの学校に通いました。学校を卒業すると、メーキャップマガジンに載っていたスタジオに片っ端から電話をかけましたが、すべて断られました。ですが、特殊メークでは日本人で第一人者のスクリーミング・マッド・ジョージさんのスタジオ「SMGエフェクト」に何度目かの電話をかけた時に、秘書の人が「とりあえず作品を持っておいで」と言ってくれたのです。
 
 その作品は今思えばひどいものだったのですが、ジョージさんが「ちょうど大きなスタジオに移動したところだから、片づけを手伝ってみるか」と言ってくれました。ラッキーだったのは、この片付け作業をするうちに、特殊メークに必要なケミカルなどの素材を覚えることができたことです。またこの時にミュージックビデオの撮影に関わることができ、ノーダウトなどトップアーティストのビデオで特殊エフェクトの手伝いをする機会に恵まれました。

人脈を次々と広げて憧れのスタジオへ

 SMGエフェクトにいる間に友人を作って、他のスタジオに行ったりしながら人脈を広げていきました。どうしても『星の王子 ニューヨークへ行く』を手掛けたリック・ベイカーのスタジオ「シノベーション」で働きたかったのです。チャンスがやってきたのは99年でした。たまたま知り合った人が推薦してくれて、彼の会社「シノベーション」の面接を受けることができ、採用になりました。憧れのリック・ベイカーに会ったのは初日です。自己紹介で握手をした時は、手が震えました。彼に会うといまだに緊張します。以来、『グリンチ』『猿の惑星』『メン・イン・ブラック2』などを手掛けました。
 
 特殊メークは、まず俳優さんの顔の型を取り、彫刻を作り、ペイントしますが、大きいスタジオではすべて分業で、僕が携わっているのはメークをする前の型取りです。『猿の惑星』の撮影では、エキストラ用の猿のマスクを担当しました。北カリフォルニアの砂漠ロケでは毎朝3時や4時からの撮影だったのですが、ベーカーの作品を彼と共に手掛け、同じ現場で働いている、と思うと朝早いのも苦にならず、同じテーブルで朝食をとっているだけで感動するものがありました。
 
 『ホーンテッドマンション』ではゾンビのコスチュームを手掛けました。この映画は『星の王子 ニューヨークへ行く』と同じエディー・マーフィー主演でベイカーが特殊メークを手掛けたので、感慨深かったですね。別のスタジオでは、『宇宙戦争』の撮影でスティーブン・スピルバーグ監督に会う機会もありました。トム・クルーズが宇宙船に連れ去られそうになるシーン用に、自作のエフェクトを見せに行きました。

60歳になっても先を見ていたい

 これからアメリカを目指そうと思う人は、人生は1度しかないので、やりたいことをやったほうが良いと思います。ただ、学校に行くのは良いのですが、学校を出たからといって仕事はありません。やる気のある人だけが残っていくのです。それと人脈は非常に大切なので、友達はたくさん作ったほうが良いですね。アメリカに来たなら、アメリカ社会に飛び込んだほうが面白いものが発見できます。僕は英語も友人から学びました。ノーダウトのミュージックビデオに関わった時のことですが、ミーティングは全員イギリス人だったのです。僕はイギリス英語が苦手なのですが、その中にメタリカのミュージックビデオで以前一緒に仕事をして友人になった人がいて、後でその人が説明してくれて何とか事なきを得ました。
 
 これからは自分が撮影に関わった映画のスチール写真にも取り組んでみたいですね。またスキューバダイビングのライセンスを取って海の中の写真も撮りたいし、人生を楽しみたい。60歳になっても「5年後にはこれをするぞ」というものを持っていたいと思っています。
 
(2005年10月16日号掲載)

エフェクト・テクニカルディレクター(クリエイティブ系):岡野秀樹さん

CG業界はすごい勢いで進化しているので
スペシャリストと仕事すると勉強になる

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はエフェクト・テクニカルディレクターの岡野秀樹さんを紹介しよう。美大在学中にCGに興味を持ち、CG会社に就職。人生の分岐点で人と違う道を選んでいたら、アメリカのCG会社に就職することに。現在は主にハリウッド映画のCGを手掛けている。

【プロフィール】おかの・ひでき■1963年生まれ。広島県出身。87年、多摩美術大学を卒業後、日本最古のCG会社JCGLに就職。翌年富士通に移籍し、花博のプロジェクト終了後、ポリゴンピクチュアズに移籍、その後フリーに。97年、アメリカの古参CG会社リズム&ヒューズに就職するために渡米。代表作に『ソルジャー』『ザ・リング2』などがある。

そもそもアメリカで働くには?

将来性を見込んでCG会社に就職

映画『ザ・リング2』も岡野さんが手がけた作品
© 2005 Dreamworks SKG

 多摩美術大学でグラフィックデザインを勉強していた時、立体的に見えるホログラフィーにも興味があり、ハイテックアート展に作品を応募したりしていたのですが、ある日その会場で、コンピューターグラフィックス(CG)の専門学校のパンフレットを見つけたのです。ちょうどCGが産業として始まった頃だったので興味を持ち、夜はその学校に通うようになりました。当時はコンピューターを持っている人は少なく、私も専門学校に行くまでキーボードを触ったこともなかったので、最初は時間がかかりました。
 
 卒業後は、日本最古のCG会社であるJCGLに就職しました。CGは将来的に大きな産業になると思ったからですが、まさか今のように映画を作るほどになるとは思ってもみませんでした。仕事はかなりの重労働で、朝6時まで仕事してまた8時から始める、というような日もありました。それでも若かったし、仕事も楽しかったのですが、JCGLの親会社の意向で、私が入社して1年で会社を畳むことになったのです。その時、スタッフと機材を引き取ろうというナムコと、大阪で開催される花博用に映像のプロが欲しいという富士通の2社が名乗りを上げてくれました。ほとんどの社員はナムコに行きましたが、私は子供の頃から人と違うことがしたいタイプだったので、富士通を選びました。
 
 花博用の世界初のフルカラー立体ドーム映像の製作に関わり、それが終わると退社しました。プロジェクトベースで就職したわけではなく、正社員として雇用されたのですが、富士通は社員が5万人もいる大きな会社で、私には合いませんでした。

バブルがはじけて、アメリカのCG会社へ

同僚のブライアン・ベルさんと。彼は『ザ・リング2』の
ライティング・テクニカルディレクター

 その頃、「アメリカに負けないCGを日本で作りたい」という夢があって、その時声をかけてくれたのがポリゴンピクチュアズを作った当時の社長、河原氏でした。「受注は受けない、企画を立てて売り込む」という商売をしていた、業界では名物社長だったのですが、「『マイケル・ジャクソンと踊る恐竜』を作らないか」と誘われて、そちらに移りました。実際に踊る恐竜のデモリールも作ったんですよ。「マイケルに直接売り込もう」とか言って、楽しかったですね。
 
 他にもテレビ局の番組タイトルやドラマのCG製作を手掛けましたが、どうしても日本はマーケットが小さい。その頃アメリカでは、映画『アビス』や『ジュラシックパーク』などでCGが使われ始め、段々と日米の差が大きく開いてきました。
 
 その後、フリーランスになってCMなどを作っていましたが、バブルがはじけた影響で、日本でフリーランスを続ける将来性に対する疑問と、マーケットとして大きくなったアメリカで映画のCGがやりたいという気持ちが大きくなりました。いくつかのアメリカの会社にコンタクトを取っていたところ、それを知ったCG会社リズム&ヒューズが「デモリールを送ってみないか」と声をかけてくれました。ポリゴンがリズム&ヒューズの創設者と交流があった関係で、リズム&ヒューズの社長とも会ったことがあったのです。それでデモリールを送ったところ採用になり、97年に渡米しました。

アメリカでの就職は大学の学位が重要

 アメリカには高校と大学の時に短期留学をしたことがあり、楽しい思い出がありました。仕事面でもCGは日米で同じ機材やソフトを使うため、技術的な壁はありません。ただ日本とは仕事のやり方が違います。アメリカはスペシャリストの世界なので、自分でできることでもスペシャリストに頼らなくてはなりません。今は慣れましたが、最初はこれでイライラしました。でもCG業界はすごい勢いで進化しているので、すべてを実践レベルで理解するのは困難です。スペシャリストと一緒に仕事ができるのは、自分にとっても良い勉強になります。
 
 あとは言葉の問題です。アートディレクターは欲しいイメージを形容するのですが、それを把握するのが難しい。でもこれは日本人だからという問題だけではなく、「アートディレクターの言っていることが理解できない」と辞めたアメリカ人もいます。
 
 1つの仕事に与えられる時間はたっぷりあるので、その点では日本と比較したら天国です。最初に手掛けた作品は、『スピード2』。その後『キャットしてハット』『X2』などを手掛け、今は『スーパーマン:リターンズ』に取り組んでいます。
 
 他の国に比べると、日本の若い人はあまり来ていないような気がします。私の知る限り、韓国などと比べると明らかに少ない。映像関係は、日本語だと日本でしか売れないのでマーケットは小さいのですが、日本は豊かな国なので、アメリカに来る必要性を感じないということでしょうか。
 
 アメリカで仕事がしたいと希望しているなら、日本でもアメリカでもいいから、とにかく大学を出ることが大切です。アメリカは実力社会だと思い込んでいる人が多いのですが、実は意外と学歴重視の社会です。大学の学位がないと、まずビザの取得が難しい。すでに社会人で渡米するなら、元の上司の推薦状が必要になってくるので、会社を辞める際は円満退社を心掛けた方がいいですね。
 
(2005年8月1日号掲載)

コマーシャル・インダストリアルデザイナー(クリエイティブ系):後山真己博さん

24時間インスピレーションを得ている
個性的なデザインで人を驚かし続けたい

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はプロダクトデザイナーの後山真己博さんを紹介しよう。美大受験に失敗し、アメリカ留学を決意。趣味のモトクロスであこがれだったトロイ・リーさんに会いたくて「トロイ・リー・デザインズ」を訪問。そのチャンスを生かして、同社のデザイナーに。

【プロフィール】うしろやま・まきひろ■1971生まれ。愛媛県出身。高校を卒業後、90年、サンディエゴのアドバタイジング・アートカレッジに留学。カレッジ在学中からモトクロスのヘルメットやウェアデザイン製作会社「トロイ・リー・デザインズ」でインターンをし、93年、卒業と同時に正社員に。現在はウェアデザイナー兼アートディレクターとして活躍中。

そもそもアメリカで働くには?

あこがれの会社に電話したのがきっかけ

スケッチブックには、モトクロスウェアや
グッズのスケッチがぎっしり

 小さい頃から絵を描くのが好きで、ずっと絵を習っていました。高校も工業高校のデザイン科に進み、美大に行きたかったのですが志望校の受験に失敗し、「浪人するよりアメリカで勉強しよう」と思い、渡米することにしました。趣味がギターとモトクロスなので、「いつかアメリカに行ってみたい」といったあこがれもありました。
 
 サンディエゴのデザインスクールに行きましたが、学校の規模も小さく、日本人が1人もいない環境だったので、デザイン専門用語などと同時に、一般の英語を比較的早く学ぶことができました。「広告デザイン」を専攻していたので、課題では絵だけではなく、コピーライトもつけて広告としてのコンセプトを伝えるのが大変でした。好きなことなのでがんばれたのだと思います。ちょうどコンピューターでモノを作る始まりの時期で、抵抗なく入っていけたのもラッキーでした。
 
 モトクロスはサンディエゴでも乗っていましたが、高校時代からあこがれていた「トロイ・リー・デザインズ」という会社が、サンディエゴから1時間半くらいのところにあると知って、ある日、会社に電話しました。社長のトロイ・リーはアイデアマンで、それまで無地かラインが入っている程度だったヘルメットに、グラフィックをつけたことから始まった会社です。日本にいる時に雑誌で見て、僕もマネをして自分でヘルメットを塗ったりしていたのですが、電話した時は、「社長の知り合いになっていつか塗ってもらえるといいな」程度の軽い気持ちでした。すると「ショールームもあるから遊びにおいで」と快く誘ってくれたのです。

床掃除やゴミ拾いでも、毎日デザインを持参

ヘルメットはオーダーメイドの
オリジナルデザインも作っている

 会社に行った時に「採用していませんか」と訊ねたら、「学生なら週に3日ほど、昼から来れば」と言ってくれ、片道1時間半かけて通うようになりました。最初はインターンだったので、それこそ床掃除やゴミ拾いばかりでしたが、行くたびにデザインを持参して社長に見せました。初めの頃は当然「ダメ」ばかりだったのが、2、3カ月経ったある日、ようやく「おもしろい」と言ってくれ、「小さなプロジェクトをやってみるか」と持ちかけてくれたのです。それが認められて、少しずつデザインを担当するようになり、卒業とともに正社員として入社しました。
 
 20代の頃は、仕事が楽しくて、楽しくて仕方がなかったですね。自ら毎日残業して、週末も出勤していました。「とにかく仕上げて、翌朝社長に見せたい」とそれだけでした。30代になると、今度は会社が成長して忙しくなったので、残業せざるを得ない状況になりましたが。今はモトクロスウェアのデザイナーとアートディレクターを兼任していますから、24時間何かを見てインスピレーションを得ています。ナイキの靴やそれこそ壁紙から食器まで、見るものすべてからアイデアを吸収していますね。
 
 これまではとにかく次から次へと新しいデザインが出るので、後ろを振り返る暇もなかったという感じです。でもバイクは趣味だったので、苦労を苦労と思いませんでした。社長が理解のある人だったのも恵まれていました。意見が合わなくて、社長と泣きながらケンカしたこともありましたが、「ダメだけど、他にもやってみれば」と課題を与えてくれました。やはり「あきらめない」ことが大切だと思います。

アメリカは、言えばわかってくれる国

 アメリカでは「言わなくてもわかってくれるだろう」は通用しません。根性を見せて一生懸命がんばるのも大事ですが、それを口に出して言わないとわかってもらえません。でもアメリカは、言えばわかってくれる国です。「何がやりたくてこうしたから、こうしてくれ」と伝えることが大切です。
 
 アメリカでデザインの仕事をしたいのなら、遠回りをせずにデザイン会社に就職するべきだと思います。ただデザイナーを目指す人は、紙と鉛筆でアイデアを書くという基本を忘れないでほしいですね。最近は、コンピューターができたらデザインができると思っている人も多いのですが、まずはスケッチした絵を見せるという作業があります。これができないと、コンピューターに入れることもできないわけです。
 
 アメリカのモトクロス人口はすごく多い。レースに出るのは全体の2割程度で、あとの8割は家族で楽しむ人たちです。モトクロスが生活に根付いています。ですからウェアやギアなどアフターマーケットの裾野は、日本よりもはるかに広く、アメリカの方が2輪業界に入りやすいのではないでしょうか。
 
 モトクロス会場などで知らない人が、僕のデザインしたウェアを着ているのを見るとうれしいですね。世界中の人に買ってもらえるわけですから、それが1番うれしい。一時期、自分が成長しているのが見えた頃、自立を考えたこともありました。でも僕はこの会社とここの社長が好きなので、今は会社を成長させるためにやれるだけやってみよう、という心境です。
 
 人が「マキのデザインだ」とわかるような個性的なものを作り、「またこんなのを出してきたのか」と、常に人を驚かし続けていきたいと思っています。
 
(2005年7月16日号掲載)

オーディオ・エンジニア(クリエイティブ系):笠井 利朗さん

人のやっていないことをやるバンドと
意表を突くような曲を作るのが夢

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は「オーディオ・エンジニア」の笠井利朗さんを紹介しよう。音楽プロデューサーになりたいと夢を持って渡米したのが97年。人間関係を大切にして着実に人脈を築きあげ、現在はノースハリウッドのスタジオで多くのミュージシャンに頼られている。

【プロフィール】かさい・としあき■東京都出身。1997年6月、ロサンゼルス・レコーディング・ワークショップに留学のため渡米。同校在籍中に数々のスタジオでインターンをこなし、現在はノースハリウッドのスタジオを中心に活躍中。手掛けたアーティストに、トゥール、メルヴィンズ、ウィリー・ネルソン、フーファイターズなど多数。

そもそもアメリカで働くには?

ノートを取ったことが、仕事の足がかりになった

メルヴィンズとの録画風景

 父は趣味でキーボードを、兄と姉はエレクトーンを弾いていました。小学生の時に兄のすすめで初めて聴いた洋楽が、ビリー・ジョエルの『マイ・ライフ』。日本にはないさわやかな音と英語の流れが格好いいと思いました。
 
 中学の時からギターを弾き始め、地元でロックバンドを組んでいましたが、R&Bやサウンドトラックも好きで、20歳前後になると1つの音楽にこだわりたくないと思うようになりました。音楽を作る側に回りたかったのです。『スーパーマン』や『バック・トゥー・ザ・フューチャー』などの映画の影響でアメリカが好きだったし、どうせやるならアメリカで、と思っていました。
 
 その頃、ちょうど友人がロサンゼルス・レコーディング・ワークショップに通っており、その友人に誘われて渡米したのが1997年のことです。もともと音には敏感だったのですが、正式に勉強するとシェフが料理に何が入っているのかがわかるように、クリアに音の違いが整理されて納得できたのです。
 
 ロサンゼルス・レコーディング・ワークショップでは、すぐにいろいろなスタジオでインターンシップをさせてくれました。あるスタジオに行った時、ブラッドハウンド・ギャングのセッションがあり、その時は教えてもらう立場だったのでノートを取っていると、プロデューサーが「ノートを取ったのはお前だけだ」ということで、「明日から雇う」と言ってくれたのです。そのアルバムは200万枚弱売れました。
 
 でも最初の8カ月くらいは大変でした。一応日本で貯金して来ていましたが、使えるお金は月200ドル、なんていうのも珍しくありません。毎日インスタントラーメンばかりで、食生活はかなりひどかった。ある時、フロントページスタジオというところでベンチャーズと日本人アーティストの合同セッションがありました。僕は通訳兼アシスタントエンジニアとして参加させてもらったのですが、ベースプレーヤーのボブ・ボーグルの奥さんがユミさんという日本人で、仕事の合間に食生活の話を聞かれ、正直に答えたらかなり心配してくださったらしく、セッションが終わった後に電話を貰いました。「使っていない電子レンジをスタジオに預けておいたから取りに行くように」とのこと。スタジオに行ってみると電子レンジの他に新品のオーブントースターと小さな封筒があり、「これで何か食べてください。Yumi & Bob」と書かれた手紙と100ドル札が1枚入っていました。今でもその電子レンジとオーブントースターは使っています。感謝しても、しきれません。

誘われたら必ず参加する 。人とのつながりが大切

メルヴィンズとトゥールのアダム・ジョーンズと
フックスタジオにて

 このままでいいのかな、という思いは、4、5年前までありました。経済的なこともそうですが、自分の好きな音楽がなかったと言うか、僕が聴いて育った頃のような音楽は存在しなくなったのか、という不安があったのです。でもそのうち、フーファイターズ、メルヴィンズ、トゥールなど自分のスタイルを持っているバンドと仕事をするようになって、やってきて良かったと思えるようになりました。テキサスのバンド、シュガーボムのセッションに参加させてもらった時は、とても意見が合って、こういう人たちがいたんだと、うれしくなったほどです。
 
 僕もまだとても成功したとは言えない段階ですし、まだまだこれからですが、一応ここまでやってこられたのは、諦めなかったこと、必死で勉強したこと、そして人のつながりを大切にしたことだと思います。
 
 トゥールのアダムとはセッションを一緒にやって以来親しくさせてもらっていますし、アダムを通してメルヴィンズを紹介してもらい、プライベートでも映画やパーティー、コンサートなどに誘ってもらっています。僕はたとえばパーティーでも誘ってもらったら必ず顔を出します。ある時パーティーに行くと、小さな頃からあこがれていて一緒に仕事ができたらいいなと思っていたキング・クリムゾンがいて、さすがにその時は感動しました。

スターのいない音楽業界 。商業的になってきている

 セッションにかかる時間は、ジャンルによってまちまち。6カ月かかることもあれば、1カ月で終わることもあります。ヒップホップやテクノはプロダクションに時間をかけるので録音するのはボーカルだけ。ロックやジャズは生演奏するのでチャレンジが必要とされますが、その分やり甲斐があります。録音では楽器やボーカルを別々に保存することができるのですが、バラバラになった音をバランスよくステレオにまとめるミックスダウンという作業では、1日1曲が相場です。
 
 将来的には人のやっていないことに挑戦するバンドをプロデュースしたいですね。音楽プロデューサーは、映画でいうディレクターのようなもの。言ってみれば全体の指揮者ですね。レコード会社も勇気がなくて、無難な路線しか作らない。ビートルズとかエルビス・プレスリーのようなカリスマ性のあるスターがいないし、芸術性を無視して商業的だけになりすぎているような気がします。僕はその意表を突くような曲を作る音楽家、実験的で型にはまっていないバンドなどと仕事をしたいと思っています。
 
(2005年4月16日号掲載)

作曲家(クリエイティブ系):鋒山亘さん

一歩ずつ成功を積み重ねていくことで
いずれ心を癒す映画音楽を世界に発信したい

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は作曲家の鋒山亘さんをご紹介。高1の時にテレビで見たボストンポップスの来日コンサートに衝撃を受け、映画音楽を目指す。高2で交換留学生として渡米。名門クリーブランド音楽院からUSC映画音楽作曲学科へ。現在は日米を舞台に活躍中。
 

【プロフィール】ほこやま・わたる■1974年生まれ。福島県出身。インターローケン・アーツ・アカデミー卒。99年クリーブランド音楽院卒。2000年USC映画音楽作曲学科卒。作品にカンヌ映画祭パルムドール受賞『おはぎ』、サンダンス映画祭オーディエンス賞受賞『ONE』、スチューデント・エミー賞受賞『クリスマスにお茶碗を』、NHK『地球大進化』等。

そもそもアメリカで働くには?

高校留学で鍛えられて、クラシックの基礎を学んだ

鍵盤の音にコンピューターのキーボードで
長さを入力し、曲ができ上がる

 5歳の頃からピアノを始めてずっと続けていましたが、音楽家になるとは思っていませんでした。小学校3年生の時に『E.T.』を観て映画音楽に興味を持つようになり、高1の時にテレビで観た「ボストンポップス来日コンサート」で衝撃を受けました。映画音楽界の巨匠ジョン・ウィリアムスがオーケストラを率いて来日したのですが、その演奏をテレビで観て「これだ」と思ったのです。
 
 高校2年の時に、交換留学でオクラホマに行きました。映画音楽が夢なので最終目標はハリウッドでしたが、高校生でしか感じられないこともあるかと思ったからです。レーガン大統領が設立し、日本の旧文部省が認定した交換留学プログラムで、1年間地元の公立高校で学びました。オクラホマの人たちは温かく、すばらしい体験ができました。ただ覚えた英語は南部訛りで、しばらくは訛りが抜けませんでしたが(笑)。
 
 翌年、音楽の先生のすすめもあって、ミシガン最北端にある芸術高校、インターローケン・アーツ・アカデミーに編入しました。編入したのは、映画音楽を始める前に、クラシックを基礎からきちんと学びたかったからです。ピアノの先生は厳しいロシア人で、「1日5時間練習しなさい」といつも言われました。きちんと学ぶということは、これほど大変なものなのかと思いましたが、実にいい勉強になりました。
 
 でもそのおかげで、クリーブランド音楽院に入学することができました。ここは、クリーブランド管弦楽団の首席奏者たちが教授陣として構える大学で、在学中は作曲と指揮を勉強しました。その後USC映画音楽作曲学科に進学し、クラシックをどのように映画に活かせるのかを1年間勉強しました。

音楽参加した学生映画が、カンヌやサンダンスで受賞

 卒業後は、USC時代の教授に誘われて、『ダンジョン&ドラゴン』にオーケストレーターとして参加し、その後USCの学生映画3作に作曲で携わりました。そのうちの1作が、松田聖子さんの長女で女優のSAYAKAさんが主演してカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した『おはぎ』で、1作はサンダンス映画祭でオーディエンス賞を取った『ONE』。もう1作がスチューデント・エミー賞を取った『クリスマスにお茶碗を』という映画です。
 
 『ONE』をきっかけに、サンダンス映画祭のスポンサーでもあるNHKから依頼を受け、昨年放映された『地球大進化』というドキュメンタリー番組に、編曲と指揮で参加しました。
 
 ハリウッドでもエージェントと契約し、『アレキサンダー』や『パニックルーム』に出演した俳優ジャレッド・レトのバンド「30 Seconds to Mars」の新曲で、ストリングスのアレンジを担当しました。これは3月に発売されます。
 
 教育機関からの依頼も多く、ワシントン州の高校から作曲と指揮の依頼を受けたり、日本では故郷の小学校の校歌を作曲したり、長崎の高校で講演したりしています。
 こう言うと順風満帆で来たかのような印象を与えますが、そんなことはありません。私はフリーランスですので、仕事を取らなければならないという漠然とした不安はいつもあります。卒業直後は仕事がないのが当たり前。アメリカ社会では精神的なサバイバルが必要です。日本ではそんなことを感じたことはなかったけれど、こちらに来て友人や家族がいかに支えていてくれるかを痛感する機会がたくさんありました。
 
 でもどんなに落ち込んでも、日本に帰ろうとは思いません。日本に帰るのは逃げることになる。がんばればきっといつかは報われるから、日本に帰る時はアメリカで成功して帰りたい。普通は日本で成功してアメリカに進出しますが、私はその逆で行こうと思っています。

感謝の気持ちを忘れず。成功の階段は一歩ずつ

 アメリカで音楽を目指したい人は、いい音楽を毎日たくさん聴いて、本当にいい音楽とは何かがわかるように吸収することが大切だと思います。99%ダメだと思っても、1%の自信を感じたら成功するまで諦めない。でも1人では何も乗り越えられません。そこには支えてくれている人が必ずいるのです。そういった人に対して「ありがとう」という気持ちがあれば、つらい境遇も乗り越えられます。少しくらい仕事が評価されたからといって自信過剰になったり傲慢になると、人は落ちていきます。これは自分への戒めとして忘れてはならないことだと思っています。
 
 将来的には「ワタル・サウンド」と言われるような個性ある音楽を作って、徐々に大きな映画を手掛けられるようになりたい。昔は成功の階段を一気に駆け上がることを夢見ていましたが、今はそうでないことに気づきました。成功の階段は一歩ずつ上がっていかなければならないのです。
 
 私の音楽を聴いた人たちが、各々の懐かしい思い出に浸れるような曲、心にいい刺激を与えて元気が出てくるような曲を広く世界に発信したいと思います。私が音楽で参加した映画が世界中で上演されて、多くの人が「映画も良かったけれど音楽も良かった」と言ってくれるような、そんな作品を創りたいと思っています。
 
(2005年3月1日号掲載)

リード・デジタルアーティスト(クリエイティブ系):渡辺 潤 さん

CG学会で自作が入選したのをバネに渡米
常にアンテナを張って情報を吸収しています

 アメリカで働く人の中から、今回はリード・デジタルアーティストの渡辺潤さんをご紹介。学生時代に視察した米国CG学会で最先端の技術にショックを受け、その後、自作が入選したのをバネに渡米。現在は映画の大手ポストプロダクション会社で、ハリウッド映画やIMAX作品などを担当している。

【プロフィール】わたなべ・じゅん■1966年生まれ。横浜市出身。東京工学院芸術専門学校CG科卒。卒業後、CGプロダクションのリンクスに勤務。93年、自主製作したCGアニメーション作品がSIGGRAPHのエレクトリックシアターに入選。96年渡米。現在は大手ポストプロダクション・FOTOKEM FILM & VIDEOにて、リード・デジタルアーティストを務める。

そもそもアメリカで働くには?

学生時代に参加した視察旅行で「すごい」

渡辺さんのデスクにて。データだけでなく
フィルムチェックはいつも入念に

 学生最後の夏に、父親にお金を借りてダラスで開催されたCG学会「SIGGRAPH」を視察旅行したのですが、その時に受けたカルチャーショックが何しろ大きかった。 フルCG映画『Finding Nimo』や『The Incredibles』を製作したピクサー社は、当時は細々とCGソフトを開発している会社だったんですが、86年のSIGGPAPHで初短編作品『Luxo Jr.』を発表したんです。当時CGで短編を作るのは非常に困難だったので、それを見て「すごい!」とショックを受けました。
 
 また、それが僕にとって初めての海外旅行で、知らない人にも気楽に声をかけるアメリカ人の性格の柔らかさや気さくさ、子供の頃から触れていたアメリカ文化にも感動しました。
 
 卒業後はCGプロダクションに就職、番組タイトルやCM、博覧会映像の製作に携わっていましたが、出張や旅行で何度かアメリカを訪れるうちに、いつかこの国の映像業界で働いてみたいと考えるようになりました。
 
 渡米のキッカケは、SIGGRAPHに応募した僕の作品が、幸運にもエレクトリックシアター(SIGGRAPHのメインイベントで、世界中から応募されたCG作品が厳選なる審査の上、大シアターで上映される)に入選したことです。そこでロサンゼルスのCGプロダクション会社の社長と知り合い、その会社で雇っていただけることになりました。
 
 渡米後は常にアンテナを張って、プラスになり得る情報をなるべく吸収するように心がけました。進歩が激しい世界ですから、映画や特撮関係のセミナー、講演会など目に付くものはスケジュールの許す限り参加しています。常に最新情報を仕入れておくということは重要だと考えています。
 
 現在は、映画のポストプロダクション会社に勤務しています。ポストプロダクションとは、撮影されたオリジナル映像に何らかの処理や効果を加えて最終的な完成映像に持っていくプロセスを意味します。最近はハリウッドで公開される映画のほとんどが、1度全編をコンピュータ上に取り込む形で、デジタル処理のポスプロが行われるようになりました。
 
 そんな中で僕がメインで担当しているのは、そのデジタル画像化された映像に対して、合成ソフトやCGソフトを使ってビジュアルエフェクト(視覚効果)を加える作業です。ビジュアルエフェクトには大作映画でよく見る派手な爆発や洪水の類から、映画を観ても一見してそれとはわからないようなモノまであります。前者は大手エフェクトハウスへ発注され、後者は我々ポスプロで処理されることが多いですね。
 
 たとえば僕が手掛けるビジュアルエフェクトには、天候や空を違う雰囲気に差し替えたり、地面と地平線を描き足して構図を変更したり、ライオンの足元に砂埃を追加したり、空に稲妻や流れ星を入れたり、余計なものを消したり、オリジナル映像には含まれていないカメラのズームを加えたり。これが「エフェクト」だとは、映画を見た観客はほとんど気がつきません。逆に気づかれてしまうようでは「失敗」ということになり、そこが腕の見せ所です。

実力で評価される世界、日本人のハンデはない

趣味はトランペット。サンタモニカ・カレッジの
ジャズ・ビックバンドの仲間と

 僕はCGアニメーターでもあるので、その知識と経験を自分の担当ショットの中に常に盛り込むように心がけています。他の人とはちょっと違った感じに仕上げる。そこが面白味でもあり、毎回のチャレンジでもあります。今の会社で日本人は僕1人です。確かに言葉のハンデはありますが、この業界は実力で評価される世界なので、日本人だから、というハンデを感じたことはありません。
 
 僕が英語圏に違和感なく飛び込むことができたのは、母親の影響が大きかったと思います。母は英文科の出身で、僕が幼い頃から英語の絵本を読んだり、英会話のラジオを聴かせたりしてくれました。父はコンピュータのエンジニアで、家にはパソコンが転がっていまして、僕はそれをオモチャに簡単なゲームやアニメーションを作って遊んでいました。また父は8ミリを撮るのが好きだったので、それが僕が映像に興味を持つ原点になった。ですから両親には感謝しています。
 
 将来的には、心に染み入るような作品を手掛けてみたいですね。スクリーンのクレジットに自分の名前が載った時に、「やってよかった」と思えるような作品を担当できると、うれしく思います。
 
 アメリカで働くには、まずアメリカでの生活が楽しめないと難しい。心が常に日本を向いているようでは毎日がつらいだけですし。またビザについてもキチンとリサーチしてから渡米した方が良いと思います。映像、特にCG業界で就職をするには、美術か技術系の学校を出ているか、一定の実務経験がないと、ビザが降りない場合があるのです。そのあたりを知らずに渡米してしまうと、時間とお金の無駄にもなりかねません。それさえクリアすれば、後は本人の努力次第ですからね。
 
(2005年1月16日号掲載)

Japan Business Systems Technology営業(サービス・サポート系):工藤愛理さん

誠意を持って仕事をしていれば
必ず見てくれている人がいる

ホームステイで外国人を受け入れる家庭で育ち、次第に外国への憧れが高まったという工藤愛理さん。中学生の時に自身もホームステイして過ごしたアメリカ生活が忘れられず、高校卒業後、アメリカの大学に進学。卒業後もアメリカに留まり、就職した。「営業の仕事は、人に会って、知らない世界の話を聞けるのが楽しい」と話す工藤さんに話を聞いた。

【プロフィール】くどうあいり ◉ 高校卒業後、2004年に渡米。サンフランシスコのDiablo Valley College に入学し、07年にカリフォルニア大学サンディエゴ校へ編入。コミュニケーション学を専攻して、10年卒業。その後、ITコンサルティング会社JBS(Japan Business Systems Technology)に入社し、現職

そもそもアメリカで働くには?

英語を話すことに興味津々 使う機会を自ら作っていった

小学生の頃、私の家庭では、ホストファミリーとして外国人の受け入れをしていました。アメリカ人やオーストラリア人、フィリピン人やネパール人など、色々な国の方たちと接する機会がありました。日本語の勉強で日本に来ている留学生たちなので、家庭での会話は基本的に日本語でした。ですが、私の母が英語を少し話すので、時折留学生と母が英語で話しているのを見て、「いったい何を話しているんだろう?」と、興味津々でした。
 
中学生くらいになると、外国への憧れから、洋楽を聴いたり、洋画を観るようになりました。また、ペンパルを作り文通をしたり、学校のアメリカ人の先生と仲良くしたりなど、英語に触れる機会を自ら作るようにしていました。そして、中学2年生の時、今度は自分が、サンディエゴでホームステイをしました。
 
次に渡米したのは2004年、高校を卒業してからでした。中学生の時に体験したホームステイでのアメリカ生活が忘れられず、高校在学中も留学したいという気持ちがどんどん高まっていきました。そして進路を決める際、このまま日本の大学に進学をしたとしても、留学だけはいつか必ずしようという強い気持ちがあったので、どうせならばこのタイミングで思い切って行こうと決意し、サンフランシスコの郊外のカレッジに入学しました。

さまざまなジャンルの 人と出会う仕事がしたい

提案中の案件について、エンジニアと打ち合わせ中

コミュニティーカレッジを卒業後、USCD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)に編入。社会学、メディア学、女性学など幅広く勉強するコミュニケーション学を専攻しました。就職活動をする中で、PRの仕事も楽しいだろうなとも思ったのですが、営業という職業に以前からとても興味がありました。営業は、通常の生活では出会うことはない色々なジャンルの人とお話ができたり、サービスや商品の持つ良さを最大限に引き出してプレゼンテーションをしたり、自分が間に立って何かと何かをつなげるというイメージがありました。漠然とした思いだったのですが営業がしてみたいと思いましたので、業種は問わずに「営業職」で就職活動をしました。
 
実は、卒業後にこちらに残って仕事をするか日本に帰るか、悩んだ時期がありました。そこで、大学を休学して就職活動のために日本に一時帰国し、短期間で集中的に色々な企業を回りました。運良く、その中から2社内定をいただいて戻ってきたのですが、せっかくアメリカの大学を卒業するというのに、私はこちらで何もしていないではないかという気持ちになりました。それならば、何かチャレンジしてから考えようと思い、OPTを取得し、現在の会社で営業として働き始めました。

経験や知識が乏しく苦労も でもすべてが勉強になる

私の会社は、単にPC機器を販売するコンピューター屋さんではありません。システムとビジネスの視点から、効率化なども含めて提案をしていく、ビジネスコンサルタントとしてのサービスを提供しています。社内では、ネットワークのエンジニア、プログラマーなどからなる開発部、そしてERP(Enterprise Resource Planning)コンサルティングの、3つの分野に分かれていますが、私は営業アシスタントとして、それら3つの分野をすべて担当しています。お客様のご要望、悩みなどを聞き出し、技術的な話になる際は、エンジニアとセットでお客様をサポートします。つまり私の仕事は、お客様とエンジニアをつなげることです。
 
弊社のお客様の多くは、長いお付き合いをしていただいている企業、またはご紹介がほとんどです。元々「営業部」というものが確立されておらず、エンジニアなどの技術者が営業も兼任するというユニークな会社でした。そこに初めて、私が「営業職」というポジションで採用されました。営業職として仕事をする以上は、既存のお客様をケアするだけでなく、新規開拓が求められます。コールドコールでアポを取ったり、時には飛び込みでお客様の所にお邪魔するなどし、まずは私たちの会社を知っていただくことから始めています。
 
私は、ITのバックグラウンド、営業としての経験がなく新卒で入社しましたので、その点ではやはりとても苦労しています。IT用語を熟知していると、お客様も安心してお話してくださいますし、社内でエンジニアとの会話もスムーズになります。
 
弊社は、一人あたりのタスクがたくさんあります。営業だからお客様にサービスを紹介していればいいのではなく、さまざまな部署の仕事に関わります。おかげでどの人がどのような業務をしているのかが理解でき、とても勉強になりました。今年で入社3年目になりますが、ますます仕事が楽しくなってきたところです。
 
この仕事の醍醐味は、お客様が私の電話の声を聞いた瞬間に、「あ~、工藤さん」と言ってくださるなど、私のことを覚えてくださっていること、「ここが困ってるんだよね」と悩みを打ち明けてくださると、信頼していただいていると感じられて、とてもありがたく思います。
 
私は人と関わることが大好きなんです。知識不足のところがいっぱいある中で、お会いする方から知らない話をお聞きすることで、グッと世界が広がっていくのを感じます。仕事の話をしていても、それが人生に置き換えられたり、逆に仕事とはまったく違う話の中にも、何か仕事につながるヒントが隠れていたり、本当に勉強になります。

努力をした分だけ 結果が肌で感じられる

私の実家が店を経営しているということもあるのですが、学生の頃からいずれは自分も起業したいと思っていました。ですが、実際に社会に出て、まだまだ私にはとてもできないことだということに気付きました。社会人としての知識や経験が少ないので、たくさん勉強をして、起業するにせよ、企業の中で働くにせよ、率先して企画を出し、動いていける人材になることが目標です。今の会社は、色々なことを経験させてもらえ、大変貴重なことだと思っています。会社からもっと求められ、任せてもらえるようになって、いつか自分が中心となって人を引っ張っていけるようになりたいですね。
 
営業は、会社とお客様をつなぐ仕事です。お客様にも社内にも気を配れることが大切だと思います。私の目標でもあるのですが、それが上手にできた時には本当に達成感を感じられます。お叱りを受けることもあります。毎回ハッピーなことばかりではないですが、きちんと誠意を持って対応を続けていれば、それを見ていてくださる方が必ずいると思います。そして、後にその努力が返ってくるのを直に体験できる職種だと思います。
 
ひとつの大きなプロジェクトを終えると、そのお客さまから新しいお客様のご紹介を受けることもあります。大変なことをやり遂げた先に、喜びが隠れているんですね。10あるうち、8、9割が辛いことでも、うれしいことが1、2割あるだけですべて埋め合わせできてしまうくらい、面白味ややりがいのある仕事です。私はこの小さい喜びがたまらなくうれしくて、頑張れていると思うんです。
 
私は大変ラッキーなことに、会社に労働ビザをサポートしてもらうことができました。ビザの取得には、自分にも会社にも色々な条件が必要になり、誰もが得られるチャンスではありません。このような機会を得られたことに感謝し、これからも日々勉強をしながら、営業としてのスキルを高めていきたいです。
 
(2012年5月1日号掲載)