アスレチックトレーナー(医療・福祉系):小松武史さん

選手の体調管理をトータルに支える喜び
進んだスポーツ医学を日本に伝えたい

アメリカで夢を実現させた人の中から、今回はアスレチックトレーナーの小松武史さんをご紹介。鍼灸の技術をスポーツに生かすとともに、進んだスポーツ医学を学びたいと89年に渡米した。現在ではスポーツ選手を治療や体調管理の面から支える一方、日本人のトレーナー育成に尽力している。

【プロフィール】こまつ・たけし■神奈川県出身。1966年生まれ。1987年後藤学園卒、89年に渡米。95年カリフォルニア州立大学ロングビーチ校体育学部スポーツ医科学科卒。96年ロングビーチ・スポーツ医科学理学療法クリニックに就職。97年全米アスレチックトレーナーズ協会公認ライセンス取得。01年加州鍼灸師・漢方薬剤師免許取得。www.japanesehealing.com

そもそもアメリカで働くには?

五輪チームから膨らんだアメリカ挑戦の夢

クリニックにはさまざまなスポーツ選手が訪れる

 高校を卒業して鍼灸師の学校に入りました。手に職をつけ独立できる仕事に就きたかったからです。
 
 鍼灸の技術を選手がけがをした時などに使い、スポーツの世界に取り入れたかったので、卒業後はNECのバレーボールチームのトレーナーをしていた岩崎由純さんのところに弟子入りしました。スポーツ界の仕組み、テーピングの仕方、スポーツによるけがの評価と治療を学びました。
 
 1988年のソウル五輪では、岩崎さんの紹介で、日本に滞在中のアメリカ陸上チームのトレーナーを務めました。私は英語がろくにできませんし、鍼灸治療もなじみが薄いので、最初のうちは選手たちから敬遠されたのですが、痛みに苦しむ走り高跳びの選手をたまたま鍼治療すると、よく効くという評判がチーム内に広まり、選手が頻繁に私のところに来るようになりました。「アメリカに来ないか。まだアメリカでは誰もやっていないから成功するぞ」と何人かの選手に言われるうちに、その気になってしまいました。
 
 それ以前にも、アメリカのスポーツ医学を見学するツアーに参加したことがあって、アメリカに行かないと本物のスポーツ医学は学べない、と思うようになっていました。特に、ボルティモアで開かれたスポーツ医学のコンベンションに行った時は、その規模に圧倒されましたね。

雑巾がけから始まったトレーナー修業

鍼灸治療も今では、老若男女問わず
受け入れられている

 渡米したのは89年です。英語を学ぶには日本人の少ない場所がいいと考え、ルイジアナやアイオワで語学学校に通った後の91年、スポーツ医学では全米でもトップクラスのカリフォルニア州立大学ロングビーチ校体育学部に入りました。専攻はアスレチックトレーニングです。通常は3、4年生から大学のスポーツクラブに入ってトレーナーの実習をするのですが、私は早く現場でやってみたかったので、正式に入学する半年前から大学のトレーニングルームに出入りし始めました。
 
 正規の学生でもないので最初は全然相手にされません。そこで思いついたのは、トレーニングルームに雑巾を持って立つことです。アイシングの氷が溶けたりして床が濡れると、さっと行って拭きます。「こいつは役に立つ奴かも」と関心を引くようになり、フットボール選手のテーピングを任せてもらうことになりました。
 
 チームは春のトレーニングの最中で、毎日選手100人分のテーピングをするため大忙し。人手が足りないので、私が「テーピングをさせてほしい」と頼みこむと「本当にできるのかな」と思いながらもやらせてくれました。今までの経験もあり、テーピングの技術は誰にも負けない自信がありました。これで認めてもらい、他のトレーナーの仕事もできるようになりました。
 
 地区大会や全米選手権で優勝するチームのトレーナーを務められたのは幸運でしたね。自分が担当したチームが大会で勝つのを目の当たりにするのはトレーナー冥利に尽きます。選手たちをずっと支えてきたから、一緒になって感動を味わえる。「君のおかげでここまで来られた」なんて選手から感謝の言葉をもらうと、もう最高ですね。

トレーナーの地位は確立。豊富な資金に恵まれる

 卒業後はアメリカに残りたかったので、労働ビザ、さらにはグリーンカードを取れる道を考えました。まず95年から96年にかけてアメリカのオリンピック水球チームのトレーナーを務めて実績を作った後、ロングビーチ・スポーツ医科学理学療法クリニックに就職しました。勤務先にスポンサーになってもらいビザを取るというわけです。クリニックのオーナーが大学のトレーニングルームのヘッドトレーナーというつながりで就職が決まりました。
 
 このクリニックには今も勤めていますが、高校生からプロまでさまざまなスポーツ選手が治療にきます。私がアスレチックトレーナーの資格を持っているので、そうしたスポーツ選手のほとんどを担当します。鍼灸など東洋医学とアメリカのスポーツ医学をうまく組み合わせ、両方の良い面が出るように治療やリハビリのサポートをしています。
 
 また、日本にアメリカのスポーツ医学を紹介する事業もしています。スポーツ医学に関する問い合わせが多いので、それならば組織化しようとカリフォルニア・スポーツ医学センター(www.sportsigaku.jp)という教育機関を設立し、日本から学生を受け入れたり、日本で講演活動などをしています。
 
 アメリカではどのチームにもアスレチックトレーナーが置かれ、その地位が確立されています。施設や設備も整い、資金は豊富に使えます。また、選手の故障の予防や治療後のリハビリなどトータルなケアでも優れています。日本のスポーツ界も、まだこうした面ではアメリカに遅れをとっていますね。
 
 アメリカで夢を実現したい人は、継続して努力できるように、初心を忘れず、長期と短期の2つの目標を持つことが大切だと思います。それと、日本人の良いところは忘れるべきではないですね。時間に正確なことや、細かい気配りをすることは、仕事をする上で必要なことです。多少言葉の面で支障があっても、そういった部分が評価されることは十分あり得ます。
 
(2005年11月16日号掲載)

看護師(医療・福祉系):長嶺良恵さん

目標を決め自分を磨く姿勢を忘れない
看護師不足の時代は資格を狙うチャンス

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は看護師の長嶺良恵さんを紹介しよう。長嶺さんは夫の転勤に伴って渡米。日本で看護師の資格を持っていたが、アメリカでも看護の仕事をしたいと、独学で資格を取得した。現在はウィッティアの病院に勤め、アメリカの医療現場で奮闘する毎日だ。

【プロフィール】ながみね・よしえ■福岡県出身。聖マリア看護専門学校、福岡県立看護専門学校で学んだ後、聖マリア病院に就職。1986年に結婚。夫の海外赴任に伴い、89年に渡米。93年にアメリカの看護師の資格を取得。94年にLittle Company of Mary Hospitalに就職。2002年からPresbyterian Intercommunity Hospitalに勤務する。

そもそもアメリカで働くには?

中学時代の入院で、看護師にあこがれる

病棟にて。最近は学生の指導もまかされ始めた

 高校卒業後は地元の福岡県で看護学校に入りました。人の役に立つ仕事に就きたかったんです。中学生の時に2週間ほど検査のために入院したのですが、その時に接した看護師の方の印象が強く、「自分もああなれたらいいな」と思っていました。
 
 看護学校の勉強は大変でした。科目が多いうえ、グループ研究や臨床実習もあります。看護師の国家試験の2、3カ月前は毎日のようにテストがありました。卒業後は、保健師の資格を取るために1年間勉強しました。公衆衛生や予防医学の知識を深め、看護師の資格だけよりも仕事の幅が広がると思ったからです。父が保健所に勤めていた影響が大きかったのでしょうね。
 
 その後、看護学校を運営する聖マリア病院に就職しました。最初の1年間を腎臓病棟で働いた後、新しくオープンした国際健康センターに移りました。人間ドックなど主に健診をするための施設です。保健師の資格を持ち予防医学の知識があるということで呼ばれたのでしょう。
 
 センターに3年間勤めた後、夫の転勤の都合で退職しました。夫は航空エンジニアで、趣味のハンググライダーを通じて知り合いました。

アメリカでも資格を。家族の支えで猛勉強

同僚と。最初の頃は毎日大変で、
夜泣きながら日誌を付けたこともあった

 1989年、海外赴任する夫についていく格好でアメリカにやってきました。最初はリバーサイド・カウンティーのレイク・エルシノア。ユタ州にいたこともあります。仕事の関係であちこち引っ越した後、92年にはカリフォルニア州に戻ってきました。
 
 国際保健センターを辞めた後、しばらくは看護の仕事から離れていたのですが、ビザの都合で日本に帰っている間、4カ月地元の病院で働きました。久々に携わった看護師の仕事は新鮮でやりがいを感じましたね。まだアメリカの看護師の資格を持っていなかったので看護の仕事はできないけれど、代わりに何かできないかと考えました。
 
 カリフォルニアに戻ってきてから、知り合いに協力してもらってアメリカで看護師の資格を取る方法を調べました。そして、日本の看護師の資格を持っていれば、アメリカの看護師試験を受けられることがわかりました。大学で看護師のコースを取る方が楽だったのかもしれませんが、子供も小さく私にはそうした時間がありませんでした。
 
 独学で合格を目指すことにしました。パートに出たり家事や育児をしたりする合間に勉強するのですが、専門の医学用語を書き出しては部屋中に貼り付け、車の中では知人のアメリカ人に問題集の質問を吹き込んでもらったテープをずっと聞いていました。3000問ぐらいある問題集を5冊、繰り返して解きましたね。土、日曜は「KAPLAN」という自己学習センターに缶詰状態。資格試験対策のテープを聞いて学習できる設備があり、看護師以外でもさまざまな試験を勉強する人がよく利用しています。
 
 92年の試験は失敗しましたが、93年に何とか合格することができました。2回目の受験前は、これ以上家族に迷惑をかけられないから「もう、後がない」というところに自分を追い詰めてがんばりました。たぶん家族の協力がなければ合格できなかったと思います。当時、息子は小学校に入るか入らないかの手のかかる頃だったのですが、土、日曜は夫が面倒をみてくれました。また、気ばかりあせるけど全然勉強が進まない時などは、「2日間勉強禁止!」といって机の前から引き離してくれたのも夫でした。

自分の中で限界を作らず、プロを目指していきたい

 アメリカの看護師資格を取った後、94年に日系クリニックに就職し、人間ドックを担当しました。結局10年近く勤めたのですが、だんだんこのままでいいのかなと思うようになりました。せっかくアメリカの資格を取ったのだから、アメリカの病院で働いてみたい! 安定してくると、新しいことにチャレンジしたくなるのです。
 
 ちょうど隣に住む人が、今勤めている病院の理学療法士で、「うちの病院は素晴らしいから、働いてみないか」と誘われました。2002年から月4回くらいのペースで、日系クリニックとかけ持ちで勤め始めました。翌年からは日系クリニックを辞め、今の病院に週3日、午後3時から11時まで働いています。
 
 職場は外科病棟ですが、最初何より大変だったのは英語ですね。患者さんやドクターとの会話でも、もし誤って理解すれば大変なことになりかねないですから、何と思われようと、わからなければ何度も聞き直しました。
 
 2年ぐらい経ってから、どうにか慣れたかなと思えるようになったのは、周りの人が辛抱強くつきあってくれたおかげですね。誠意や熱意を持っていれば、何とか道が開けてきます。言葉や文化に関係なく、手を握って目を見るだけで気持ちは伝わります。患者さんから「ありがとう」と言われた時は、疲れなど一気に吹き飛んでしまいます。これからも自分の中で限界を作らず、より経験を積んだプロの看護師を目指していくつもりです。
 
 確かに英語の壁を越えるのは大変です。でも、自分でこうなりたいという絵を描き続ければ、必ず夢は実現できると思います。今、アメリカは看護師不足なので看護師の資格を目指すならばチャンスの時期でしょう。
 
(2005年11月1日号掲載)

医師(医療・福祉系):大庭千里さん

頼ってくる日本人の期待に応えたい
知られていない予防医学の大切さ

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は医師の大庭千里さんをご紹介。親のすすめる「女らしい生き方」に違和感を覚え日本を脱出、88年にロサンゼルスへ。解剖学や生物学の面白さに目覚めて、医学の道を志す。現在はロングビーチで内科医として開業、地域の頼れる「お医者さん」だ。

【プロフィール】おおば・ちさと■1964年生まれ。福岡県出身。88年に渡米し旅行社勤務。92年サンタモニカ・カレッジに入学。95年にロス・ユニバーシティーへ入学。2000年から03年までUCLA付属病院で実習。03年9月セリトス・ファミリー・メディカルグループに勤務。04年3月ロングビーチで内科医として独立開業。

そもそもアメリカで働くには?

やりたいことを探すためにアメリカへ

3世代が通院する家族もいるという。
すでに地元で頼られるお医者さんだ

 もともと高校では理数系が好きでした。でも、地元の短大の家政科に入り、卒業後は民間企業や市役所で働いていました。親の意見に従ったわけです。女が理数系の大学に行くなんてとんでもない、短大を出て花嫁修業をするのが女の幸せだというのです。
 
 自分でも何をやりたいかわからなくて、でも、「どこか違う」という気持ちがありました。外国に出れば、もっと自分が見えてくるのじゃないかと思い、87年にワーキングホリデーでオーストラリアに行き、翌年ロサンゼルスへやってきました。とにかく英語だけはきちっと身につけたかったのですね。
 
 永住権を持っていれば、留学生ビザに比べ大学の授業料がずっと安くなると知り、しばらく働いて永住権を取ってから大学に入ろうと考えました。何十社も電話をかけてようやく中国人がオーナーの旅行会社が雇ってくれて、しかも永住権申請のスポンサーにもなってくれました。
 
 4年後の92年に永住権が取れ、さっそくサンタモニカ・カレッジに入学しました。最初は一般教養の段階なので適当に科目を選んで受けていたのですが、気に入ったのは生物学や解剖学でした。後で振り返ると、子供の頃、人間と動物の体の仕組みがどうなっているのか、すごく興味を持っていました。やっぱり医学に関心があったのですね。
 
 日本で卒業した短大の単位をトランスファーできたのでサンタモニカ・カレッジを2年間で卒業し、カイロプラクターの大学に入りました。今から医者になるのは無理だけど、カイロプラクターならばなれるだろう、と漠然と思っていました。でも、カイロは何か自分がやりたいこととは違うと感じ、調べるうちに自分でも医者になれることがわかってきました。そこでニュージャージーの医大、ロス・ユニバーシティーに出願し、合格しました。

くじけそうな時にはローンを思い出して

婦人病とその予防について講演することも多く、
いつも好評を得ている

 最初の2年間はカリブ海にある施設で医学理論を学び、後半の2年間はシカゴの病院など現場で実習しました。はじめの2年が終わった時点で、国家試験があります。後半の実習期間では、自分の専門を決めるために、外科・内科・産婦人科と見て回り、その後卒業前と卒業後にまた国家試験が控えています。在学中の成績によって、どこでレジデンシー(医学部卒業後の実習)をできるかが決まりますので、よい成績を修めておく必要がありました。
 
 とにかくよく勉強しましたね。言葉のハンデもありましたから、睡眠や食事、軽く運動する時間を除けば、勉強ばかりしていました。試験や成績のプレッシャーをきついと感じることもありましたが、医学の勉強を辞めても他にやりたい仕事もないし、やるしかないと思って。それに4年間の学費と生活費はすべてスチューデントローンで払っているので、ここで諦めたらどうやってあのお金を返そうかって(笑)。とにかく自分を奮い立たせて乗り切りました。

日本人の患者をもっと診たい

 医大を卒業後、2000年から03年まで希望どおりUCLAの付属病院でレジデンシーをすることができました。この3年間のうちに医者として独り立ちできるようにすべての病気を診て、あらゆることを吸収しようと必死でした。3、4日おきに36時間ぶっ続けで働いていました。夜中でも入院患者から呼び出されたり、エマージェンシールームに緊急患者が運び込まれたりして、ほとんど寝る暇はありません。
 
 その後、セリトスのファミリー・メディカルグループに就職しました。何人も医者がいるので交代で休暇を取りやすいし、給料制ですので生活面では楽でした。一方、患者はグループ全体で受けるので、自分の判断で診たい患者を選んだり患者を診る順番を変えることができません。グループの予約だけで2か月先まで一杯になっていて、英語で診察を受けるのが苦手な日本人が、日本語ができる私に診てもらいたいと思っても予約を入れるのも難しいわけです。
 
 私を頼ってくれる日本人の患者をもっと診たいと思い立ち、勤め始めて半年でグループを辞め、04年3月ロングビーチで独立開業しました。「開業は大変だぞ。お金が続かなくて破産するぞ」と言う人もいました。でも、そんなことはやってみないとわからない、やりたいのならば今すぐやるしかない、だめだったら別のことを考えればいい。そう思っています。
 
 メディカルグループで働いているうちに、開業医には欠かせない健康保険制度について勉強しました。資金については、結構すんなり銀行から借りられます。患者は口コミで来てくれるようになっています。経営的にはこれからですが、2、3年で軌道に乗せられたらと思っています。
 
 来院される方のうち半分くらいが日本人なのですが、一般的な予防医学を知らない方が多いですね。女性は18歳になったら子宮頸ガン、40歳になったら乳ガン、男性は50歳になったら前立腺ガン、大腸ガンは50歳になったら男女ともに、といったように毎年ガン検診を受けるべきです。早期発見ならばガンから身を守れます。こうした予防医学についての知識を日本人の間に広げていけたらと思っています。
 
(2005年9月16日号掲載)

カイロプラクター(医療・福祉系):菊入真紀さん

日本人の女性カイロプラクターとして
アメリカでがんばる日本女性の役に立ちたい

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はカイロプラクターの菊入真紀さんを紹介しよう。アメリカ人カイロプラクターのセミナーに参加したことがきっかけで、体育教師への道から一転して渡米し、カイロプラクティックの学校へ。現在は、日本人女性カイロプラクターとして活躍中。

【プロフィール】きくいり・まき■1974年生まれ。東京都出身。学生時代に、陸上競技でインターハイや日本選手権に出場。97年年末、日本体育大学卒業後、ロサンゼルス・クリーブランド・カイロプラクティックカレッジに留学。03年、ウエストサイド・ヘルス‐カイロプラクティックに就職。今年、同オフィス内で独立。アメリカ公認カイロプラクター。

そもそもアメリカで働くには?

クリニックには女性患者も多く訪れる

 私の父はもともと砲丸投げの選手だったのですが、そのせいもあって小さな頃から家の近所で土手の周りを走らされたりして、ずっと陸上をしていました。でも嫌だと思わなかったのは、やはり私も走るのが好きだったのでしょうね。高校では800メートル走でインターハイに出て、大学も日本体育大学に試験免除で入りました。全日本大学選手権では6位の成績を収め、卒業後は高校の体育教師になるつもりで、私立の高校に90%就職も決まっていました。
 
 その頃、父はカイロプラクティックの学校を経営していたのですが、そこでアメリカ人カイロプラクターのセミナーがあり、それに参加してカイロプラクティックに興味を持ちました。カイロプラクティックは西洋医学で、アメリカが発祥の地なのですが、日本では私の知る限りアメリカで勉強した人が数少ない状態。父に「特に女性でアメリカで勉強したカイロプラクターはいないのでは」とすすめられて、渡米を決心しました。
 
 アメリカと日本では、カイロプラクティックの制度がまったく違います。日本では数カ月から1年勉強すれば「カイロプラクター」と呼ばれますが、アメリカでは一般教養と基礎科学を取得してから、カイロプラクティック専門カレッジで4年間勉強して国家試験に合格しなければなりません。さらに州ごとに免許が違うので、州の試験に合格して初めて免許が下ります。カイロプラクティックカレッジはメディカルスクールに近いものがあり、卒業するとドクター・オブ・カイロプラクティックの学位がもらえます。日本では解剖学も基礎程度でテクニックだけを学びますから、受ける教育の深さがアメリカとは違います。だから日本でカイロプラクターになった人が、アメリカで「ドクター」の名刺を見せると違法になるのですね。

リラックスする間もなく、日曜日も勉強

 97年末に渡米しましたが、大学時代に1カ月、交換留学でオハイオに滞在したことがあって、その時の印象が良くなかったのでアメリカに来るのはうれしくなかったんです。オハイオ州立大学に行ったのですが、あこがれが打ち消されてしまって。でもロサンゼルスは都会だし、最初の1年間ホームステイしたファミリーが良くしてくれたおかげで、ホームシックにはなりませんでした。オハイオは白人ばかりだったのですが、ここはいろいろな人種がミックスしているから居心地が良いし、海が近くて解放的なのも良いですね。
 
 カレッジに通う前に、基礎科学など足りない単位をスペシャルコースで取ったのですが、英会話くらいは大丈夫だと思っていたのに、授業には医学用語が多く出てくるし、先生の言っている英語がわからなくて苦労しました。だからアメリカ人の2、3倍は勉強したと思います。ほとんど週末もなく勉強していて、日曜日になると「今日は勉強の日」という感じでコーヒーショップで勉強していたし、リラックスする日はほとんどありませんでした。でもカレッジは全校生徒が500人程度の小規模な大学で、クラスメートが4年間一緒に上がっていくので、クラスメートにずいぶん助けてもらいました。
 
 私はビザの関係で、卒業と同時にコネクションをつけておかなくてはならなかったので、在学中にイエローページを見て50~60件ほど「インターンをしたいので見学したい」と電話をしました。その時にOKをくれたのが、卒業後に就職したウエストサイド・ヘルス‐カイロプラクティックです。学生時代から土曜日に手伝っていたので、私の仕事振りを見て信頼してくれたのですね。

目標を1つ決めてがんばるのがいい 

 今年になって同じオフィス内で独立したのは、日本人でしかも女性であるという特色を活かしたいと思ったからです。カイロは触診があるので、やはり女性には女性が安心なのではないでしょうか。女性特有の症状も多く、特に、女性の骨盤は男性の骨盤に比べると動きが多く、出産はその代表例ですが月経や排卵時もかなり大きく開閉します。そのため骨盤の痛みや歪みは女性に圧倒的に多く、そのままにしておくと子宮や卵巣などの臓器も圧迫され、生理痛、生理不順、冷え性などのトラブルの原因にもなります。また妊娠中もカイロを受けると腰痛が楽になりますし、赤ちゃんカイロというのもあります。出産時に首を引っ張ったせいで発達初期における赤ちゃんの首の骨に負担がかかり、その後の成長に影響が出る場合もあり、アメリカ人のお母さんはよく赤ちゃんを連れて来られます。
 
 でも両親は、まさか私が本当にドクターになるとは思っていなかったらしいのです。1年もしたらちょっと英語ができるようになった程度で、ギブアップして帰ってくるだろうと思っていたらしく、卒業した時にはびっくりしていました。
 
 アメリカは、目標を1つ決めてがんばると夢が叶うところですが、アメリカに来ればなんとなくドリームがあるだろうというような気で来ると、あっという間に流されて悪い方に行ってしまう危険性もはらんでいます。私ががんばれたのも、カイロプラクターになりたいという目標があったからだと思います。
 
(2005年6月1日号掲載)

ソーシャルサービス・スーパーバイザー(医療・福祉系):牛島一成さん

人種や宗教などバックグラウンドは多彩
自分と違う考えを受け入れられることが必要

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は「ソーシャルサービス・スーパーバイザー」の牛島一成さんをご紹介。「英語を勉強するなら早い方がいい」という両親のサポートのもと、高校時代に単身留学。大学・大学院ではソーシャルワークを専攻。現在は日系のナーシングホームで介護に関わる。

【プロフィール】うしじま・かずなり■1972年生まれ。埼玉県出身。89年、高校2年でオレゴンに単身留学。ポートランドにあるコンコーディア大学でソーシャルワークを専攻し、くださいUCLA大学院でソーシャルウェルフェアで修士号取得。98年、大学院卒業後、サウスベイ敬老ナーシングホームに就職。趣味はボディーボード、カメラ、ガーデニングなど。

そもそもアメリカで働くには?

人助けがしたくて、ソーシャルワークを専攻

 父が仕事の関係でよく海外出張をしていたこともあり、小さな頃から英語を習いたいと思っていました。両親が「留学するのなら、できるだけ若いうちに行く方がいい」と応援してくれて、高校2年の時にオレゴンの高校に留学しました。父はイギリス出張が多くて、お土産に買ってくれた憲兵隊の人形などが家にあり、本当はイギリスに留学したかったのですが、高校留学ではイギリスよりもアメリカの方が受け入れられやすいとアドバイスされて、アメリカに決めました。
 
 留学したのはクリスチャンの学校だったこともあって、周りに日本人はほとんどいないし、最初は英語もわからなくて大変でしたが、私は野球が好きだったので、野球などのスポーツを通じて学校で認めてもらえるようになりました。高校時代はホームステイをしていましたが、これもいい経験になりました。ホストファミリーは敬虔なクリスチャンで、毎日の生活が教会を中心に回っているような家庭。このホストファミリーと生活したことで、違う考えを受け入れることができるようになったと思います。
 
 高校で留学した時から、絶対にアメリカで大学まで卒業しようと決心していました。どうせ勉強するなら人助けができるようなことをしたいと思い、ソーシャルワークを専攻しました。日本では大学院というと通学する人も限られていて門戸が狭いような気がしていましたが、ホスト・ファーザーが大学院を出ていたということもあり、大学院まで抵抗なく進めました。
 
 私の場合は、卒業してすぐに『サウスベイ敬老ナーシングホーム』に就職が決まって、現在7年目になります。同ホームは24時間介護が必要な人ばかりですので、仕事の内容は事前に治療の決定権をどうするのかをレジデントや家族と話し合うことです。たとえば意識がないような状態の人はどんな処置をとればいいのか、法的なファイナンシャルのアシスト、トランスポーテーションなどの必要なアレンジをしたり。また規制や規則に基づいて運営されているので、さまざまな政府関連のオフィスと連絡を取ったり、治療の事務手続きや心のケアなどさまざまな分野に及びます。
 
 総括すると、私の仕事はレジデントの人権が守られているかどうかを確認することですが、要するにレジデントが気持ちよく生活できるようにしてあげる、ということになります。ナーシングホームに来る高齢者の方というのは、他に選択肢がないから入居してくるわけで、ナーシングホームが自分の家になってしまうのです。ですから「ここは自分の家」だと思える方向に持っていけるように、さまざまな面でサポートしています。

先入観を持たずに、話を聞いてあげる

 ここのレジデントはほとんどが日系人あるいは日本人ですが、看護婦などのスタッフに日本語を話す人は少ないので、コミュニケーションのヘルプをすることもあります。コミュニケーションが取れないことが引き金になって問題になることも少なくありません。そういう時に私が仲裁に入ったり、通訳のようなことをすることもあります。
 
 ソーシャルワーカーの活動の場は、学校や刑務所などさまざまな場所がありますが、そういう人たちは同じクライアントと毎日会うとは限りません。でも私の場合は、レジデントと毎日顔を合わせます。するとたまには雑談もするし、頼りにもされる。レジテントは私の祖父母くらいの年齢の人なので、名前を覚えられない人も「ジャパニーズ・ヤングボーイ」と頼ってくれます。そうするとやはりうれしいし、それがやりがいでもあるのですが、反対にストレスになることもあります。レジデントと心の交流ができればできるほど、亡くなった時が精神的にきつい。私はおばあちゃんっ子だったので、シニアの仕事に関心を持ったのもそれが影響していると思います。
 
 私は高校で留学しましたが、いつ留学すればよいかは個人差にもよると思います。ホストファミリーとの生活では学ぶものも多く、日本人も少ないし、私にとってはいい経験でしたが、環境によっては違うこともあるでしょうし、一概に高校留学が良いとは言い切れないと思います。
 
 アメリカでソーシャルワーカーになろうと思うなら、人種や宗教などいろいろなバックグラウンドの人がいるので、それを受け入れられるような人でないと大変だと思います。またこの仕事には、営業などの仕事と違って売上げを伸ばしたり利益を上げたりということはありません。その辺りで向き不向きが出てくると思います。また先入観を持たずにニュートラルな立場で人の話を聞いてあげられる、ということも大切でしょう。
 
 日本で就職したことはないので日米の比較はできませんが、アメリカで就職したのは、ここの方が広々として好きだったからです。でも本当はロサンゼルスよりオレゴンの方がのんびりしていて好きなのですが。最近は日本も悪くないかな、と思っているところです。
 
(2005年2月16日号掲載)

支店長/アシスタント・バイスプレジデント(企画・コーディネート系):大鹿勝雅さん

お客様にいかに利益をもたらすことができるか
提案することにやりがいを感じます

7年間大手銀行に勤務した後、 Bank of Southern Californiaに転職した大鹿さん。昼間は支店長として同銀で働くかたわら、夜間には米国公認会計士の資格取得のため、勉学に励む。常に努力を惜しまず、より良いサービスを提供できる銀行作りに情熱を注ぐ大鹿さんに聞いた。

【プロフィール】おおしか・かつまさ◉小学5年生で渡米し、ボストンの小学校へ。中学2年の時に日本へ帰国するが、その1年半後に姉と共に再渡米。カリフォルニア大学サンディエゴ校経済学部を卒業後、Citibankに7年間勤務。今年7月、Bank of Southern Californiaに転職し、現在、Assistant Vice Presidentとして同行に勤務

そもそもアメリカで働くには?

小学生で渡米した時 アメリカの自由さに圧倒された

新聞記者だった父の転勤のため、小学校5年生の時に渡米しました。それまでも父の仕事の関係で海外に住んだり、転校したりということには慣れていたので、アメリカへ来ることも自然に受け入れていました。英語はできませんでしたが、不思議と苦労した記憶はありません。それよりも、アメリカの学校の自由さに圧倒されたことが強く印象に残っています。
 
中学に進むと、日本に帰国することに。アメリカにいた数年間はこちらの勉強が中心で、日本語での勉強は、土曜日に通っていた日本語補習校で補う程度でした。ですから、日本の中学の勉強に付いていくのはとても大変でした。アメリカの学校では成績がトップだったため、日本へ帰って急に勉強に付いていけなくなり、成績が落ちたことに大きな戸惑いを感じました。特に数学は、いつも簡単に解けていた問題も、日本語となると途端にわからなくなり、アメリカと日本のギャップにストレスを感じていました。
 
そんな時、姉が「私はアメリカに戻って学校に行くけど、勝雅も一緒に行く?」と言ったのです。私は迷うことなく姉とアメリカへ行くことを希望しました。幸い両親も理解してくれ、中学2年の時に姉弟だけで再渡米。ニューヨークに行きました。姉は両親の知人の家に住み、私は両親の探してくれたホームステイ先にお世話になりながら学校に通いました。渡米は一緒にしたものの、姉と私は別々に暮らしました。
 
アメリカに戻って来てからは成績が上がり、勉強が楽しくなりました。順調に高校を卒業し、ロサンゼルスの短大へ。その後、カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)に編入し、経済学を専攻しました。大学に通っている間にサンディエゴがすっかり好きになり、卒業後も暮らそうと思いました。
 
卒業後に就職したのは、商業物件を扱う不動産会社で、大きな土地物件を企業などに販売する営業の仕事に就きました。1件1件の価格が高いため、成功すればハイリターンですが、ミスをすれば莫大な賠償責任を負うことになる、ハイリスクを伴う仕事でした。1年ほどこの仕事を続けましたが、もう少し安定した仕事に就きたいと思うようになりました。
 
それで、Citibankに転職しました。1年目は窓口でお客様対応をすることから始め、少しずつ知識を付けていきました。大きな銀行なので、お客様の数は多く、さまざまなケースを担当することができ、勉強になりました。
 
しかし、勤め始めて7年が経ち、自分のやりたいことと、大銀行の中で自分ができることのギャップが埋まらなくなってきました。例えば、自分のアイデアがなかなか上層部に通らなかったり、成績を上げても昇進できなかったり…。アジア系は、他の人種に比べて外見が幼く見えることもあり、自分よりも経験が少なく、成績も低いアメリカ人が、どんどんマネージャーになっていくのを見て、歯がゆい思いもしました。アメリカは実力主義だと言われますが、その時、外見の印象もまた、大きなポイントとなりえるということを、実感しました。

お客様との距離が近い 今の職場に満足

Bank of Southern California Del Mar支店の同僚と

そこで、キャリアアップのために転職を考え始めました。具体的にどんな役職で、どんな条件の仕事が良いのかを考え、職探しを始めました。私が必ずすることは、やりたいことが決まったら、それを具体化し、公言すること。「自分はこうなるんだ!」と、思い続けることで実現できるのです。
 
その時に掲げた目標は、2011年7月までに、自分のやりたいことのできる銀行に転職すること。もちろんそこには細かい条件も付けました。1年半探し続け、自分の希望通りの仕事ができる銀行、Bank of Southern Californiaを見つけました。同銀行では、ロサンゼルスにあるみずほ銀行のリテール業務を引き継いだばかりで、ちょうど日本人を探していたのです。そして、すべてのタイミングがぴったり合い、目標通り7月に支店長という役職で転職することができました。
 
当銀行は規模が小さく、一人一人のお客様との距離が近いですから、より丁寧に対応することができます。そして、当銀行での私の業務ですが、個人や法人のお客様のお金を預かったり、その運用をお手伝いすることです。口座の種類もさまざまですので、どれがそのお客様に向いているのか、利益をもたらすことができるのかを判断するのが重要な役目です。また、ビジネスオーナーの方などチェックを頻繁に扱うお客様には、銀行まで足を運ばなくてもチェックを入金できる機械を提供するサービスも行います。
 
アフターケアとして、電話やメールでお客様とコミュニケーションも取ります。大手の銀行では、通常お客様とのメールのやり取りは禁止されています。形に残る方法でお客様とコミュニケーションを取ると、責任問題が生じた際に困るからです。ですが、小さな銀行では、すべての業務がそれぞれの銀行員に任されている上、管理も行き届いているので、細やかで迅速な対応ができるのです。
 
お客様にどうしたら利益をもたらすことができるか、便利なサービスを提供できるのかを考え、提案することにやりがいを感じます。例えば、現在の預金では利益が生まれないものが、お客様の知らなかったサービスを紹介することで、利益が出るということが意外に多いのです。そのようなことは、大きい銀行で多くの商品を扱っているような状態では、なかなか対応できません。お客様が自分で調べたりしない限り、知らないままなのです。そういう細かいところまでケアできる今の職場が、私には合っています。
 
また、私は日米の文化、慣習、考え方の違いなどを理解しているので、日本人のお客様にも重宝されます。特に言葉や文化の壁があるためにやり取りがうまくいかないと、大変不便ですし、不安に感じると思います。そこを私が日本語ですべて説明し、サポートできることをとてもうれしく思います。

目標となる人に話を聞くことで 自己の課題が見えてくる

私の好きな言葉に「一生懸命」と「実践躬きゅうこう行」があります。「実践躬行」は、自分自身の力で実際に行動を起こすことを言います。一生懸命努力して、自分でアクションを起こすことで道が開ける。努力すれば、達成できないことなどないと思っています。
 
そんな私も実は、学生時代は仕事について具体的なことは考えていませんでした。今、もし学生時代に戻れるなら、興味のある仕事を片っ端から調べます。そして、その仕事に就いている人に、直接話を聞きに行くでしょうね。学生や求職者の方で、自分の目的や目標が定まっていないという人は、どんな職業の人でも良いので、まず話を聞きに行ってみてほしいと思います。もちろん私のところに来てくれれば、私の仕事の話を喜んでします。
 
先駆者に話を聞くことで、具体的に自分に何が必要か見えてきます。たとえば、資格や経験など、自分にないものがあったら、それを身に付ければいいのです。私も次に就きたいポジションの人によく話しかけます。どんな仕事を今しているのか聞くことで、モチベーションも上がりますし、具体的な課題が見えてくるのです。
 
現在私は、米国公認会計士(CPA)の資格を取るための勉強をしています。この資格を持つことで専門的な知識を高め、お客様により良いサービスを提供できるようになるからです。目下のゴールは、CPAの知識や資格を活かし、銀行を中から変えていくことです。そして、いずれは何らかの形で、コミュニティーに大きく貢献できるような人間になりたいと思っています。
 

(2011年9月1日号掲載)

マスコミTeam J Station プロデューサー(企画・コーディネート系):新海景基さん

ご意見や感想が自分にダイレクトに返って来るっていうのは、
やっぱりやりがいがあり、うれしいことです。

24時間放送の日本語ラジオ局「Team J Station」のプロデューサー、新海景基さん。平日朝にFM106・3で放送されている『LAMorning』の金曜日のパーソナリティーとして、その声を知っているという人も多いだろう。郷里の地方局で積んだ経験が、アメリカでも活きていると話す新海さんに聞いた。

【プロフィール】しんかい・けいき◉1974年、山梨県生まれ。高校卒業後、東京都内にある音響の専門学校に進学。同校卒業後にレコーディングスタジオに就職するが、専門学校時代に授業で受けたラジオ番組制作の面白さが忘れられず、ラジオ番組制作会社に転職。約7年間、関東エリアのFM各局の音楽関係の番組制作を手がける。2002年に山梨放送に転職し、10年3月に退社。ロサンゼルスの24時間放送の日本語ラジオ局「Team J Station」に転職。現在は、FM106.3の金曜日朝の枠でパーソナリティーも務める。 公式サイト:www.tjsla.com

そもそもアメリカで働くには?

ラジオ制作の醍醐味を知った 地方局勤務時代

山梨放送時代の同僚たちと

バンドを中学生の頃からやっていて、ライブハウスで見たPA(放送設備)の人たちの仕事に興味を持ちました。そういうこともあり、高校卒業後は、東京の音響専門学校に進みました。そこの授業の一つに、ラジオ番組制作がありました。深夜ラジオ世代だったので、勉強して知識が深まると、面白くてすっかりハマってしまいました。
 
卒業してレコーディングスタジオに入ったのですが、やっぱりラジオがやりたくて、都内のラジオ番組制作会社にAD(アシスタント・ディレクター)として転職しました。ADの仕事と言うと、雑用、使いっ走りのイメージがあるじゃないですか。まさにそんな感じでした(苦笑)。番組で曲の分数を計ったり、リサーチをしたり、リクエスト曲を手配したり、いつも走り回っていた思い出がありますね。
 
そうやって忙しく働くのも楽しかったのですが、少し落ち着いた雰囲気で仕事をしてみたいと感じ始めた時に、たまたま故郷の山梨放送で人材募集の話があり、じゃあやってみようと思いました。最初は「東京でやっていた」という妙な自信を持っていました。ですが、機材こそ東京の方が進んでいたものの、制作者とリスナー、クライアントとの密着度が濃くて、それに慣れなくて、悩みましたね。
 
しかし、ラジオの本当の楽しさを教わりました。それまでは、「最新の音楽はこうだ!」って出せばいいと思っていたのですが、それよりも大切なもの、もっと奥底にあるものを出せる方がいいと学びました。
 
少し話が戻るのですが、東京の制作会社の社長というのが、日本の洋楽界の権威でした。その社長に、当時からずっと「アメリカのラジオは、日本と全然違うんだぞ」と聞かされていました。日本では「総合編成」と言って、同じラジオ局が色んな世代や嗜好を持った人に向けてプログラムを組みます。アメリカではジャズやロック、トーク、スポーツ、ニュースといった具合に、ステーションによって専門が分かれているのだと聞いていました。
 
そんな時に、観光でロサンゼルスに行く機会があったんです。それで、本場のラジオを聴いてみたら「楽しい‼」。衝撃を受けました。数年後にまたロサンゼルスを訪れたのですが、レンタカーで常にラジオを流していたら、「こんな雰囲気の中で仕事ができたらいいな」という気持ちがわき上がってきました。
 
折しも、ラジオにもデジタル化の波がやって来て、山梨でも多チャンネル化、専門化が進みました。まさにアメリカのラジオみたいになってきたんです。それで、専門知識を付けるために、アメリカでラジオの仕事をしてみたいという気持ちがどんどん大きくなりました。
 
2009年9月にまたロサンゼルスに来ました。今度は、僕の中では就職活動。とは言っても、ツテもなければ、英語が堪能なわけでもない。ロサンゼルスに日本語放送局があるということは知っていたので、ホテルから電話して、見学させてもらえないかお願いしました。快くオッケーしてもらって、訪ねてみたらすごく良い雰囲気でした。でも、さすがにいきなり「就職させてください」とは言えなかった。ですが、アメリカにツテができたことで満足でした。

アメリカでも活きた 地域密着の考え方

帰国して2カ月後、「こちらで働きませんか?」というオファーをいただきました。願ってもない話だったので、二つ返事で「行きます!」と答えました。急ピッチで渡米準備を進め、山梨放送に3月で退職する意向を伝えました。随分、慰留されたのですが、もう35歳でしたから、「今行かないと、もうチャンスはない」と思いました。
 
TJSで働き始めて改めてわかったこと、それは、ラジオ局の運営に関わることすべてを、自分もやらなければならないということですね。番組の制作やプログラムを並べたりする運行、そして営業、さらに実際に番組内で話すことまで、すべてです。さらに、リスナーの方と触れ合えるイベント事業も入ってきます。すべてをやらなければならないことは、頭ではわかっていたんですが、実際はやはり大変でした。これまでメインは制作者でしたので、「営業なんて、どうすりゃいいの」と本当に悩みました。
 
だけど、色々なことをやっていると、局の中の単なる一員では見えていなかったものが、見えてきました。局自体を、すごく客観的に見られるようになったんです。これは、日本にいたら経験できなかったことです。それが今、すごい勉強になっていますね。
 
番組1つ作り上げるのにも、企画を立てて、営業してスポンサーを付け、実際に制作/放送する。さらに、局を知っていただくために、イベントをやってPRして。こういったことが頭でなく、すべて身体でわかるようになりました。CBSとか大きな局は別として、普通にたくさんある局も、話を聞いていると、さまざまなことを皆さんやっているんですよね。番組のパーソナリティーが、自分でスポンサーを持って局に売り込んで、番組をやらせてもらったりということもあるんです。
 
アメリカ、ロサンゼルスに色んなステーションがある中で、TJSラジオは日本語のラジオ局ですから、その日本語が武器となるはずです。それをどのように活かしていくのかが課題。聴いてくださっている方もほぼ日本人ですから、皆さんにどうアプローチすると、どういうレスポンスが返って来るのか考えることが、今は面白いですね。
 
山梨放送で、地域に根ざした局を経験できたことが、今すごく役立っています。日系社会で色んな人に会って、ご意見や感想が自分にダイレクトに返って来るっていうのは、やっぱりやりがいがあり、うれしいことです。反面、難しいところでもあるのですが…。「地域密着」を、アメリカに来てこんなに感じるとは思いませんでした。ただ、日系社会の中で、局をやっていくのであれば、そこが1番大切なのかもしれませんね。

高い学歴がなくても やる気と情熱で乗り越える

僕がこの局で、まず、やりたいなと思うのは、とにかくリスナーを増やすことです。生意気な言い方ですが、ロサンゼルスの日系社会で、もっともっと必要とされる局にしていきたい。そして行く行くは、アメリカの他地域に暮らす日本人にも、必要とされる局になりたいですよね。全米に拡がった時に、「アメリカのラジオ業界の中に、僕がいるんだ」って、多分納得できるのかな。
 
ラジオやテレビのようなマスコミって、人気の就職先だと思うんですよ。この業界で働きたいと願う人たちに、僕がアドバイスできるとしたら、とにかく色んな局を聴いてみること、行動することですかね。まずは、どこの局でも良いから見学から始めるんです。見学した時に、自分がどう感じるかが、重要なんですよ。そこで、「あ、私には無理」と思ったら、そこで終わり。難しそうだけど興味を持てたら、そこから先は自分で入って行けると思います。
 
学歴がなければ、下積みから始めればいいんです。高い学歴がなくても、やる気と情熱があって、厳しい下積み時代を乗り越えられれば、将来が広がっていく業界だと思います。
 
あと、夢を周囲に語っておくと良いと思います。「こういう風になりたい」と、色んな人に言っていると、関連した情報が入ってきたり、思いがけず誰かに助けてもらえることもあります。逆にやる気がおろそかになっている時にも、「以前ああ言ってたけど、どうなった?」と、思い出させてくれますよね。口に出すことによって現実になることって多いのかなって、僕は思っています。
 
(2011年3月1日掲載)

トラベルエージェント(企画・コーディネート系):久保 徹さん

大それたビジョンなんてなかった
ずるいことはしない、だまさないが基本

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は旅行代理店を経営する久保徹さんを紹介しよう。大学卒業直後に渡米。現地旅行会社に就職し、2年後には独立。バブルにも踊らされず20年以上も会社を育ててきた。現在、ガーデナでトラベルオリエンテッドを経営している。

【プロフィール】くぼ・とおる■東京都出身。1958年生まれ。81年、日本の大学を卒業すると同時に単身渡米、現地日系旅行会社に就職。83年に独立。87年、トラベルオリエンテッドに改組。日本人、日系人のための旅行のみならず、アメリカ人のための日本行きツアーにも力を入れ、幅広く旅を演出している。
www.traveloriented.com

そもそもアメリカで働くには?

知人を頼って単身渡米
2年後には独立

オフィスのメンバーと一緒に。常に各地の最
新情報を集めて、顧客に提供している

 1981年に日本の大学を卒業しました。当時は人気業種でもあった旅行業を目指していましたが、自分の思い描いていた旅行の仕事とは違う事に気がつき始めました。大きな会社だと部署も細かく分かれており、自分の希望職種に進めない可能性があるという先輩の言葉にもショックを受けたのを、今でも覚えています。
 そんな折に、ロサンゼルスで旅行会社を経営していた知人から「アメリカへ来たら」と誘いを受け、卒業と同時に渡米しました。当初は軽い気持ちで、1年くらいと思っていたのですが、2年後にその会社が廃業となり、それを契機に独立しました。不安はありましたが、当時は独身でしたし、割合簡単に考えて起業しました。
 83年、24歳で現在のコリアタウンにアーバントラベルという名前で開業しました。当時は日系1世や帰米2世の方たちの旅行需要が多く、訪日団という名の日本への里帰りツアーがたくさんありました。悪いことは忘れる主義ですので、あえてお話できるような苦労話は覚えていませんが(笑)、若く経験が浅いうちに独立したので、会社の運営上、未知な事柄の連続だったと思います。
 87年にコーポレーション組織に改組し、現在のトラベルオリエンテッドに社名を変更しました。「旅行」のトラベル、「東洋」のオリエントにEDを加え、旅行に長ける会社を意味します。当時の日本はバブル期で、会社としてはまずまずのスタートでした。バブルピーク時には多くのお客様がビジネスクラスで家族の呼び寄せをされたり、留学生の方々でもファーストクラスやビジネスクラスで里帰りされたり、BMWやベンツで航空券の受け取りにいらっしゃることが珍しくない、ちょっと変な時代でした。

ネットにはできない
情報力と対話

細やかな気配りを続けている久保さんのとこ
ろには、毎日相談の電話が引きも切らない 

 近頃のインターネットの普及により、最も大きな変化のあった業種の1つが旅行業と言われています。インターネットを利用すれば、単純な航空券の手配は、誰もがものの数分で完了する時代です。一般に旅行会社には大きく分けて2つのタイプがあります。航空券の販売に特化した会社と、旅行全般を扱う会社です。私たちが目指すのは、すべての旅行ニーズに応えることができる会社です。私たち旅行代理店に求められるものは、お客様の不安を取り除き、期待に応えられる情報力です。求められたことには迅速に応えられるようにと、従業員に常に要求しています。例えば、時刻表を暗記する必要はありませんが、どこを調べればわかるかという情報を入手し管理しておくことが、最低限必要です。繰り返しになりますが、インターネットを利用すれば誰でも旅行情報は手に入ります。だからこそ私たちは、インターネットでは一般的に引き出しえない「生の情報」を常にご提供できるように心がけています。
 もう1つ大切なことは、お客様と「お話し」することです。直接エージェントとお話しされたい方はまだまだいらっしゃいます。特にツアーのご相談はインターネットではできませんからね。ガーデナという土地柄は日系人や年配の方々も多く、日本行きツアーなどのご相談に直接来店してくださいます。電話で済む用件でも「顔を見て話したい」とおっしゃる方たちのお世話は、これからもずっと続けたいと思います。
 ご丁寧にお礼状をいただいた時には、この仕事をしていて良かったなと思います。先日も弊社の日本ツアーをご利用いただいて、41年ぶりの里帰りをされた方より「日本の美しさ、日本人の優しさに驚き、うれしかった」とのお便りがありました。こういった感想やお問い合わせの内容から、日本や、日本文化に対する興味は非常に高いと感じ、外国人向けの日本行きツアーにも力を入れています(www.japandeluxetour.com)。ツアーを通して日本に対する理解が多少でも深まれば、少しは日米友好のためにお役に立てているかなと思います。

20年続けてこれたのは
「毎日の積み重ね」だけ

 20年以上もこの業界に身を置いてきましたが、大それたビジョンも他の方にお伝えできるような成功の秘訣などというものは私にはありません。ただあえて1つだけ申し上げるとすれば、すべてに通じますが「毎日の積み重ね」と「悪いこと、ずるいことはしない。人をだまさない」という祖父の教えを守っていることでしょうか。
 最後に、旅行業界で働きたいという方々へのアドバイスですが、この業界で働くには単に「旅行好きだから」という理由では難しいかもしれません。旅行会社だからといって旅行用の休みが多いわけではないですし、添乗旅行は仕事ですから楽しんでいる訳にもいきません。旅行好きと言う理由でこの職種を選択することもあるかと思いますが、結局はサービス業全般に言えることで、「人のお世話が好き」「人と話すことが好き」、つまり人が好きな人でなければこなせない仕事です。
 私はこれからもこの職種を細く長くやって行きたいと思っています。コツコツやっていれば必ず報われると私は信じています。一般的ですが、やり甲斐のないように感じられる仕事でも真面目にやっていれば誰かがどこかで見ていて、いつか必ず評価してくれると思っています。
 
(2006年12月1日号掲載)

ウェディングコーディネーター(企画・コーディネート系):前田麻余さん

人生で1番ハッピーな結婚式という瞬間を
手伝えるのは、本当にありがたいこと

アメリカで夢を実現した日本人の中から、今回はウェディングコーディネーターの前田麻余さんを紹介しよう。日本の大学で結婚文化についての論文を書き、卒業後、インターンシップを経てワタベUSA Inc.のラスベガス店に就職。現在はウェディングコーディネーターとして活躍している。

【プロフィール】まえだ・あさよ■佐賀県出身。1977年生まれ。2001年、西南学院大学国際文化学科ドイツ文化コースを卒業。在学中にホームステイを経験後、02年5月よりワシントンDCでインターンシップを探すための研修に参加。同年11月、ワタベUSA Inc.ラスベガス店で働き始める。現在同店で、ウェディングコーディネーターおよびプランナーとして活躍中。

そもそもアメリカで働くには?

ウェディング会社でのインターンシップを探す

ボニー・スプリングス挙式の際の
コーディネーターのコスチュームで

 通っていた西南学院大学には留学生が多く、また海外留学する人も多くいる環境でした。私も3年生の時に1カ月間、カリフォルニアでホームステイをしましたが、英語で対等に話ができたのは5歳の子供がやっとというレベル。それでもっと英語を勉強したいと思い、お金を貯めて学生時代に海外旅行をしました。大学の卒業論文では、事実婚や、離れて暮らす結婚など、様々なスタイルを寛容に受け入れるドイツやフランスの結婚文化について書きました。今考えると、世界の結婚について考えたことも、現在のキャリアにつながっているのかもしれません。
 卒業後は、インターンシップを斡旋する会社の米国研修に参加。ワシントンDCで6カ月間、英語のレジュメの書き方や、インタビューの受け方などを勉強しながらインターンシップ先を探しました。希望は、ウェディング関連の会社でした。ただ漫然とですが、米国スタイルの結婚式を見てみたかったのです。米国のウェディング会社に電話をしたり、メールで履歴書を送ったりして、合計50社ほどに問い合わせましたが、いろいろ情報に触れるうちにウェディング関連の会社で働きたい気持ちが強くなっていきました。ただ、滞在していたワシントンDCにはウェディング関連の会社はあまりありません。友人に尋ねたところ、結婚式関連ならラスベガスがいいのではないかと言われました。そこでラスベガスの教会にも問い合わせ始め、最終的には、今働いているワタベUSA Inc.のラスベガス店と、ラスベガスの教会、そしてニューヨークの会社から採用の返事をもらいました。

ハッピーな笑顔に出会える仕事が好き

挙式後「楽しかったです」と言ってもらえる
時が1番うれしい瞬間だと話す

 迷った末、基本的な仕事のシステムができており、常にお客様と接することができるワタベを選びました。まずは、専属トレーナーの仕事を見せてもらいながら仕事を覚えます。お婿さんの衣装合わせや、衣装メンテナンス、その片づけを学び、しばらくして、花嫁さんの衣装合わせも手がけるようになりました。今では基本的に、お客様の送迎から挙式の立ち会い、DVDやビデオなど商品のデリバリーまでを、できる限り1人で担当するようにしています。
 仕事はとても楽しいですね。いろいろなお客様と出会えますし、やはり皆さん笑顔ですから。人生で1番ハッピーな結婚式という瞬間をお手伝いできるのは、本当にありがたいと思います。
 ラスベガスには、結婚式と旅行を兼ねて来られる方が多いので、長いフライトの後に疲れ果てた顔で打ち合わせにみえる方もいます。でも、挙式の当日は、やはり皆さん笑顔です。担当したお客様から「すごく安心して、挙式もフォトツアーも楽しめました。ハリウッドスターになった気分でした」というメールをいただいた時は本当によかったなあ、という気分になりましたね。ラスベガスという慣れない土地で、日本語で対応するとお客様は安心されるようで、「日本語が話せる人としゃべれて良かった」とか「お茶だ!」など、ささいなことでも喜んでくださることがあります。

かゆいところに手が届くコーディネートを目指す

 「ウェディングコーディネーターは、気がきかない人には向いていない」と言われたことがあります。お客様が何を1番欲しているのかを理解して、その気持ちをくむことが求められる仕事なのです。例えば「かわいい」花嫁姿を望んでいるお客様に、「きれい」なドレスをすすめるわけにはいきません。お客様のこだわりをくみ取った上で、似合いそうなドレスを提案します。かゆい所に手が届くコーディネートとでも言いましょうか。自分がいくら完璧なコーディネートだと思っても、お客様の希望と違ってしまえば、単なる自己満足になってしまいます。打ち合わせの時点で、お客様の希望をどこまで聞き取れるかが、私たちにとって1番重要なことです。
 日本からのお客様に対しては、すでにセットアップされた結婚式をこちらでコーディネートしますが、ラスベガスやロサンゼルスなど地元のお客様の場合は、問い合わせの時点から、いろいろなやり取りを経て結婚式を作り上げていきます。何もないところから作り上げていくので、コーディネーターというより、ウェディングプランナーですね。この部分を今後はもっと得意分野にしたいという希望はあります。いずれは全米ブライダルコンサルタント協会(The Association of Bridal Consultants)が発行する、ブライダルコンサルタントの資格にも挑戦してみたいと思っています。
 私が今、ラスベガスで労働ビザをもらって働けるのは、一緒に働くなかで私をサポートしてくださった皆さんのおかげです。アメリカの企業だと自分の実力を強力にアピールするのが普通かもしれません。でも私の場合は自分の力というより、周りでサポートしてくれる方がいたから。お世話になった方たちに足を向けて寝られません(笑)。
 ウェディングコーディネーターというと、華やかな世界の仕事だと思われるかもしれません。でも、あくまでも裏方でお客様の幸せのお手伝いをする仕事なので、人の気持ちをくみ取れる心配りが大切ですし、そういう人に向いている仕事だと思います。
 
(2006年8月16日号掲載)

エンターテイメントマーケティング・プロデューサー(企画・コーディネート系):杉山英隆さん

アメリカはビジネスでは完成されたモデル、この国でビジネスを学べば将来の財産になる

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はエンターテインメントマーケティング・プロデューサーの杉山英隆さんを紹介しよう。商品を映画などで使用してもらうプロダクトプレースメントという職業に出会い、38歳で渡米を決意。現在はロサンゼルスを拠点に、日米を股にかけた事業を展開中だ。

【プロフィール】すぎやまひでたか■ 1958 年生。大阪府出身。81 年、同志社大学を卒業後、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に留学。翌年、ホテルプラザ(当時)に就職。国際部の広報マネーャーを経て、5年後マッキャンエリクソン博報堂に転職。97年、渡米してプロダクトプレースメントの会社S2C2 を起業。現在は日本とロサンゼルスで多岐にわたって活躍中。

そもそもアメリカで働くには?

ベルボーイの経験は貴重な財産になった

初仕事は映画『アルマゲドン』。
ブルース・ウィリスがボールを打つシーンで、
画面上でロゴがアップになり、
広告効果にもつながった©1998 Touchstone Pictures

ずっとロサンゼルスが好きで、大学時代からバイトしては遊びに来るという状態でした。大学を卒業後は留学プログラムを利用して、しばらくカリフォルニア州立大学ロングビーチ校に通いました。帰国後は兄の紹介で大阪のロイヤルホテルに就職できると踏んで、就職活動もしていなかったのですが、留学して1年半ほど経った頃に同ホテルに入れないことがわかり、慌てて帰国しました。たまたま知り合った人の紹介で、結局旧ホテルプラザに就職しました。
 
将来レストランを経営したかったので、サービス業の勉強のためにホテルに就職したのですが、「フロントデスクに入りたい」と言ったところベルボーイに回されました。フロントに入るには3年間ベルボーイをしなくてはならなかったのです。でもここでの経験は貴重な財産になりました。当時、政界や財界のトップが大阪に来るとよくこのホテルを利用されました。多くのトップの方とお会いして、偉い人ほど腰が低いのだいうことを肌で知りました。
 
大変な経験も多く、酔ったお客に殴られた時はさすがに辞めようと思ったほどです。ところがその翌日、「国際部を作るから海外広報をしないか」という話をもらい、その後は広報マネージャーとして国内外のイベント企画などを担当しました。
 
5年後、マッキャンエリクソン博報堂から声をかけてもらい、外資系のあこがれの会社だったので喜んで転職しました。8年間営業を担当し、ブルーノート大阪やリッツカールトン大阪のオープニングを手掛けたりもしました。ところが15年ぶりにロサンゼルスに出張で来て10日間ほど滞在した時、発作的にこの街に住みたくなったんです。阪神大震災の直後で、当時の村山総理の対応にがっかりしていたのも理由の1つかもしれません。その前年のノースリッジ地震で友人に電話を入れた時には「すぐにヘリコターや救急車が来て、『ケガ人はいませんか』と回ってくれたので安心だった」と聞いていたので、その落差が余計に身に染みたのです。

夢でうなされた独立のプレッシャー

それ以来、夏休みなどを利用してロサンゼルスに来ては、「どうすればこの街に住めるか」と模索しました。業界誌でプロダクトプレースメントという職種があるのを知ったのはその頃です。映画『マディソン郡の橋』でカメラマン役の主役クリント・イーストウッドがニコンを使っていたのは広告代理店からの仕込みだったと知って、世の中にこんなに面白い仕事があるのかと思いました。それがテレビCMに比べ比較的安価でできるなら、日本の企業もやるに違いないと思い、ロサンゼルスでエージェンシーに次々と電話をしました。その時「明日にでも会おう」と言ってくれたのが、モーションピクチャーマジックの女性社長、ダイアン・ローリーです。飛び込みの人間を信用して契約しようと言ってくれた彼女には、今でも感謝しています。
 S2C2という会社を起業して渡米したのが97年。38歳での渡米でしたが、不安はありませんでした。何かに背中を押されているかのように良いイメージしかなかった。でも会社勤めから独立したインパクトは大きかったですね。仕事がなければ収入もないというプレッシャーに、夢でうなされることもありました。寝ている間にビジネスチャンスを逃しているのではないかと夜中にハッと目覚めることなど、会社勤めの頃には1度もありませんでしたから。

好調な滑り出しもテロや戦争で打撃

初仕事が映画『アルマゲドン』で、主役のブルース・ウィリスが海上の油田でゴルフボールを打つシーンで、ダンロップのアメリカ向けブランド「スリクソン」を使ってもらい、幸先の良いスタートを切りました。ですがその後、日米間のビジネスは9・11テロ、SARS、イラク戦争の影響を受け、仕事も一変して減りました。一生懸命営業して回る以外にありませんでした。10回叩いて1回ドアが開くなら、100回叩けば10回開くと思って、ひたすら地道に営業しました。
 今はプロダクトプレースメントの仕事が3分の1、日本で流れるCMなどの広告代理店業務が3分の1、そして残りがラスベガスのショービジネスの投資案件です。07年には私もスタッフに加わる新作ショー『アクエリア』が開演予定です。『アクエリア』はギリシャ神話をテーマにした恋愛物語ですが、最新のマジック技術などを駆使した仕掛けの多いスペクタクル系のショーで、水中ダンスやアイススケートなど、英語のわからない人も楽しめる構成になっています。現在はこのショーを日本に持っていく事業に関わっています。 将来的には、日本のコンテンツでハリウッド映画を作るのが夢で、「ハリウッドとラスベガスのことなら杉山に聞け」と言われるようになりたいですね。
 
9・11テロ以来、ビザが厳しくなったこともあり、アメリカに来る人は減っていますが、この国は大変な部分もあるけれど、ビジネスでは最先端の考えを持つ完成された国だと思います。この国でビジネスを学ぶのは、将来きっと大きな財産になると思うので、若い人はどんどん来てほしいですね。
 
(2006年3月16日号掲載)

インターナショナル・マネージャー/プロデューサー(企画・コーディネート系):寺島真樹子さん

アニメは日本が海外に誇れる産業
日米共同制作で世界でウケる作品を作りたい

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はアニメ会社でインターナショナル・オペレーションズマネージャー/プロデューサーを務める寺島真樹子さんをご紹介。アメリカで10年過ごし大学卒業後に帰国。日本企業の米国法人立ち上げに関わって再渡米。現在は大手アニメ制作会社で活躍中。

【プロフィール】てらしま・まきこ■1971年生まれ。大阪府出身。父の仕事の関係で5歳から7歳までイラン、11歳からアメリカへ。UCサンタバーバラ校卒業後、帰国。96年、CG会社の米国法人立ち上げに関与して再渡米。97年、アニメ制作の大手、プロダクションI・G入社。米国法人を立ち上げ、以降マネージャー/プロデューサーとして海外事業を確立。

そもそもアメリカで働くには?

アニメを知らないことが即採用のきっかけに

 父の仕事の関係で、5歳から7歳までイラン、11歳から16歳までテキサス州のヒューストン、16歳から大学を卒業するまでロサンゼルスに住んでいました。1つ年上の姉が日本で就職しており、両親からのすすめもあって卒業後は私も日本の商社へ就職しました。
 
 いざ日本へ戻ってみると、物価は高く、社宅は狭苦しく、通勤時の混雑などもアメリカで育った私にとっては衝撃的なカルチャーショックでした。しかも女性の仕事はお茶くみやコピー取りのような雑務ばかり。英語力や国際性を生かせる機会はほとんど与えてもらえず、会社に内緒で通訳のアルバイトなどを掛け持ちしていました。日本の生活に慣れていく一方で、アメリカでの勤務経験がないというジレンマに陥っていた矢先、あるCG会社が米国法人立ち上げのための人材を募集しているのを知り、それを機にアメリカで再出発することを決意しました。
 
 社長と一緒に渡米し、立ち上げの雑務全般を任され、殺人的に忙しい2年間でしたが、今となっては望んでもできないような経験になり、良い勉強になりました。
 
 あいにく会社は短期間で撤退しましたが、97年に業界の先輩からプロダクションI・Gというアニメ会社が米国法人を興すための人材を探していると紹介されました。電話での面接で最初に社長から出た質問が「アニメ好き?」でした。私は不採用覚悟の上で「どちらかと言えば好きじゃない」と正直に答えたのですが、「逆にアニメを知らないほうがビジネスに集中できる」と前向きに考えてくれたのか、採用が決定しました。
 
 社長と一緒だった前回と違い今回は私1人だったので心底不安で、まったくと言っていいほどアニメを知らなかったため、すべてが手探りの状態でした。社長の期待と信頼を裏切らないようにと必死の毎日で、あっという間に2、3年が過ぎ、興味のなかったアニメにも愛着を覚えるようになりました。

法人設立時からの課題、日米共同制作が実現

 当時アメリカでは日本の映像全般の評価が低く、ビルボード誌の売上ベストで5週間1位を記録した95年リリースのアニメ映画『攻殻機動隊』もI・G制作だと知る人はごく稀でした。アメリカでもI・Gというブランドを確立しようという社長の戦略で、あらゆるコンベンションやイベントに参加し、可能な限り宣伝活動をしました。
 
 3年ほど前からアメリカのスタジオもアニメ人気に注目するようになり、日本からライセンスされる作品の価格が高騰しました。日本の会社も次々と進出して現地の配給会社と直接契約を交わす傾向になった頃、タイミングよく共同制作の話が舞い込んで来ました。アメリカのスタジオと共同制作を実現させるのは、法人設立当初からの課題だったのです。
 
 その初の共同制作の相手がアメリカ最大のアニメーション専門チャンネル、カートゥーンネットワーク(以下CN)です。I・Gのアニメを評価してくれていたプロデューサーから、日米に限らず世界規模でウケる作品を作らないかという誘いがあり、I・Gのオリジナル企画をベースに26話のテレビシリーズを作ることになりました。『IGPX』(略:Immortal Grand PriX)というロボットのメカレースもので、CNで今年11月放送予定です。
 
 アニメ制作の実作業は日本ですが、脚本やその他のクリエイティブな部分においてもCNと意見を交換し、開発から制作まですべてを共同で作業しました。声優には、映画『シックス・センス』のハーレイ・ジョエル・オスメントなど大物と契約を結びました。7月中旬にはCNと共同で、サンディエゴで開催される「コミックコンベンション」において俳優たちも呼んで制作発表を行う予定です。これまではほぼ不可能だと思っていた大手のスタジオなどからオファーを出される機会も増え、今後もいろいろな共同制作にチャレンジしたいと思っています。

「風が吹くまで待とう」 、支えられてきた8年間

 I・Gでの8年間は人生の勉強にもなりました。8年前を振り返ると、営業をかけても断られる、良い話も途中で中断されてしまう、など歯痒く悔しい状況を多々経験してきました。そんな時は、社長と初めて会った時に言われた「風が吹くまで待とう」を思い出しました。風に逆らって無理に進むと良いことはありません。自分にいい風が吹くまで努力しながら待つことが大切なのです。社長だけでなくI・G本社の先輩、同じ業界で活躍されているクライアントの皆さんの寛大な理解と絶えない支えがあったからこそ、ここまで来ることができたのだと思います。
 
 アニメは海外に誇れる日本の文化であり最大の産業です。日本人は手先も器用で優れたアイデアを持つ人も多く、アメリカで評価されると思いますが、中途半端な気持ちで来ると理想と現実のギャップで後悔すると思います。私は5歳の時にまったくアラビア語がわからない状態でイランの現地幼稚園に、11歳の時にまったく英語がわからない状態でアメリカの現地校に入ったので、会話ができない辛さは身に染みています。アメリカはとても良い国ですが、日本ではありえないようなことも起こるため、最低限の英語力は必要です。
 
(2005年5月1日号掲載)

コミュニケーション・コンサルタント(企画・コーディネート系):三村めぐみさん

待っていても仕事は来ない
最後まで食いつく気力が必要

アメリカで夢を実現させた日本人の中から今回は「コミュニケーション・コンサルタント」の三村めぐみさんをご紹介。男性社会の日本に失望して留学。未経験ながら熱意とバイタリティーでエンターテイメント業界へ。最近ではスピルバーグ監督の話題作『さゆり~Memoirs of A Geisha』の制作にも関わった。

【プロフィール】みむら・めぐみ■神戸市生まれ。英知大学卒。1985年サンディエゴ州立大大学院留学。89年同大学院テレビ・映画学科卒業と同時に、コミュニケート・ジャパン社設立。2001年、ドリームワークスSKG社のドキュメンタリー制作に関与。執筆・翻訳・編集に『超時間活用ノート』(PHP研究所)、日経『Trendy』への投稿など多数。

そもそもアメリカで働くには?

行かないと一生後悔する。離婚を機に憧れの地へ

 高校の時に1年留学し、帰国後は大学を卒業して日本で就職しました。でも日本社会では、女性は年齢とともに可能性が減っていくんですね。私はそのシステムを変えようとがんばりました。でも同僚の女性と話をしても「いいじゃない、このままで。どうせそのうち結婚するんだし」という反応だから、1人で闘ってもムダかなと。それでアメリカで働きたいと思って仕事を探したんですが、学生ビザが1番簡単に取れたので留学することにしました。10年仕事をした後、退職金と貯金を持って渡米したのが1985年のことです。
 
 私は昔から3度の食事よりもテレビが好きで、日本でも夜シナリオ学校に通ったし、『太陽にほえろ』のシナリオコンテストに入選したこともありました。それでシナリオを勉強しようと思って大学を探したのですが、映画学科があったのはUSCとUCLA、SDSU(サンディエゴ州立大学)の3校。キャンパスを下見に行った際に環境の良さに惚れ込んでサンディエゴに決めました。
 
 サンディエゴ州立大学大学院テレビ・映画学科の卒業プロジェクトでシナリオを1本書き、それをスタジオなどに送っていたので、卒業後は就職するよりも自分で会社を作る道を選びました。仕事は最初から順調でした。その頃はサンディエゴで多くのバイオテクノロジー企業が進出し始めており、私は日本で製薬会社に長く勤務していましたので「こんなことができます」というダイレクトメールを60社に送ったら、そのうち10社から「すぐにでも来てくれ」と返事をもらいました。あの頃は皆日本からの資本がほしかったんですね。
 
 でも90年代半ばになって資本がバイオテクノロジーからITに移行して行くと、仕事も減りました。ちょうどそんな頃、夫と離婚し、サンディエゴに留まるか、心機一転、テレビ・映画の仕事をしにLAに行こうか悩みました。結局「今行かないと一生後悔する」と思い、家を売ってエンターテインメント関連が密集するバーバンクに越してきました。

求めると教えてくれる。プレスツアーへも参加

 キャリアコンサルタントに「日本語ができるからスタジオ広報の国際部門の仕事がいいのではないか」と言われて、UCLAのエクステンションでエンターテインメント・パブリックリレーションズ(9週間)のクラスを取っている時に、友達からドリームワークスの仕事があると紹介されました。これはスピルバーグがプロデュースした太平洋戦争のドキュメンタリーで6カ月の仕事でしたが、クルーも少なく、内容から関わることができてすごくやり甲斐がありました。
 
 エンターテインメント業界に経験の浅い私は、待っていても仕事は来ないので、あちこちに売り込みに行きました。相手にしてくれなかったり、意地悪されるかと思っていましたが、親切な人が多くて。「わからないから教えて」と頼むと、皆とても親切に教えてくれるんです。
 
 たとえば昨年7月に初めてテレビ評論家が集まるTCA(Television Critics Association)のプレスツアーに参加しましたが、デイリーニュースのスタッフライターで評論家の知り合いに「ご馳走するからどうしたらツアーに参加できるか教えて」と頼んだ結果です。TCA会員が参加資格でしたが「ネットワークに直接交渉すれば行けるよ」と局ごとの優しい担当者を教えてくれました。プレスツアーはわくわく、どきどきの夢のような2週間でした。

恐れずに電話をかける。風は自分で起こさないと

 アメリカのエンターテインメント業界で仕事をしていくには、タイミングの問題が大きいような気がします。特にこの業界は日本のような社会で、コネが効くんですね。でも逆にまったくの素人でも、制作部門が人を探している時に、たまたま電話したから仕事が回ってきた、ということも起こるわけで、恐れずに電話をかけることも大切です。仕事の話じゃなくて、「元気?」と言うだけでもいい。食いつく気力のある人、最後まで食いついてきた人の勝ちです。
 
 『さゆり~Memoirs of A Geisha』でも、担当者に「最後まで食いついてきたのはメグだけだよ」と言われました。「1週間経ったら電話して」と言われ、それが2回ぐらい続くと諦めてしまう人が多い。でも私は必ずまた1週間後に電話します。ノックしてもドアが開かなければ、取っ手を回せば意外と開いたりするものです。
 
 『さゆり』では、脚本の翻訳や、ビザの申請、小道具のリサーチからダイアレクトコーチによる発音の練習を手伝ったり。脚本は130ページを「9日間で翻訳して」と言われたので、毎日17~18時間くらいかけて翻訳しました。
 
 これからはテレビ評論の仕事をどんどん増やしていこうと思っています。またアメリカの食べ物を扱った日本向けのテレビ番組のデモテープも制作しています。日本では朝早くから夜遅くまで1日中食べ物の番組が流れていて、日本人って本当に食べ物が好きなんですね。自分で物を作り出すことも大切。私はここにいるのよ! という「風」は自分で起こさないとダメですね。
 
(2005年2月1日号掲載)

マリッジ・ファミリーセラピスト(MFT)(医療・福祉系):工藤 マーカート 亜佐子さん

会話が自分の心の奥を見つめる機会を作る。
それが解決の糸口になるのです

今回はマリッジ・ファミリーセラピストの工藤マーカート亜佐子さんを紹介。日本で働いた後、結婚・離婚を経て、サイコセラピストの道を選んだ。このほど独立して開業し、南加の日本人で初めてNETを導入した。

【プロフィール】くどう・まーかーと・あさこ■青森県八戸市生まれ。1985年成蹊大学英文科卒業後、ユニシスにシステムエンジニアとして就職。96年に渡米し、カリフォルニア州立大学フレズノ校大学院でMFT修士号取得。WRAP Family Services、Penny Lane Centers勤務を経て、MFTの加州ライセンス取得を機に独立。
www.gotherapyla.com

そもそもアメリカで働くには?

結婚・離婚を経て自分の道を知る

ストレスをため込んでしまわないよう、
同僚と話し合うことも大切

大学卒業後、大手企業に就職、職場結婚で退職して専業主婦へと、何の疑問も持たず、レールに乗ったように人生が進んでいきました。しかし、5年後には離婚となり、その過程で自分の生き方について深く内観するように。自分はやはり、社会とのつながりを持っていないと生きていけないとわかりました。
 
一生続けられる仕事をしよう、そして人のためになる仕事をしようと思い、セラピストになることを決意。学ぶなら、セラピーの分野で進んでいるアメリカでと思いましたが、自分にできるかどうか自信がありませんでした。たまたまワークショップで知り合ったセラピストの先生に、「英語を学ぶだけでも価値がある」と後押しされて気楽になり、知り合いのいるカリフォルニアで学ぶことに決めました。33歳の時です。
 
入学したのはカリフォルニア州立大学フレズノ校教育学部の修士課程。マリッジ・ファミリーセラピー(MFT)を専攻しました。MFTのコース内容はセラピーの中でクライアントとどう接していくか、どう話していくかを中心にしたもので、私がやりたかったのはこれでした。
 
入学当初は1年半から2年で卒業できると考えていましたが、全課程63単位を修了せねばならず、実際には丸3年かかってしまいました。日本の大学では英米文学専攻で、心理学を学ぶのは初めてのことで、講義では何を言っているのかわからず苦労しました。そして、セラピーには、まず会話力が相当必要ということも思い知らされました。ですが、英米文学の専攻からシステムエンジニアになり、その後セラピストの勉強ができる。アメリカの教育制度が柔軟だからこそと感謝しています。

人間関係の改善が最終的な目標

授業では理論を学ぶほかに、実技としてお互がにセラピスト役、クライアント役になり、実際のセッションを通してその進め方を学んでいきます。セラピーでは、クライアントの自由な答えを求める質問をする必要があります。また、「どうして?」「なぜ?」という質問は避けて、聞き方に工夫をします。肝心なのは、表面的な事柄だけではなく、その奥にあるその人の考え、思いを引き出すこと。普段は人に言えないような、自分の心の奥を見つめる機会を作るのです。会話の意味はそこにあり、それが洞察力を得て、問題に取り組む糸口になっていくからです。
 
MFTの目的は、クライアント自身の問題に取り組んでいくことで、その人の人間関係を改善していくことにあります。例えばうつで引きこもっている場合、それを改善することも大事ですが、それによって家族や友達との交流の場が広がったり、緊張関係を解いたりすることができます。学校ではそのようなことを学びました。
 
卒業後は、ロサンゼルスのWRAPファミリーサービスに3年半、パームデールのペニーレーン・センターズに4年半勤務しました。双方とも低所得者層を対象とし、カウンティーと提携している機関です。ペニーレーンは虐待を受けた子供を主に扱っており、大変に勉強になりました。こうした子供は、親からの虐待のせいで起きた問題行動や、虐待をする親の元から里子に出された先で問題を起こした場合に、裁判所を通してセラピーを受けることになります。子供の症状は受けた虐待や親との関係によってさまざまですし、実の親や里親との関係、DCFS(児童保護局)のソーシャルワーカーとの関係など、たくさんの要素が複雑に関わってきます。また、子供だけでなく、家族全体がセラピーを受ける必要も出てきますし、臨機応変な対応をしなければなりません。

NETの導入でより効果的なセラピーを

クライアントの人種もさまざまですが、私が日本人ということで偏見を持たれて、セラピストを代えられたこともありました。また大変なのは、週1回のセラピーに来たり、来なかったりという方。まずは来ていただかないと先に進めないからです。
 
逆に言えば、セラピーに毎週来るということだけでいいのです。治したいという意志が見られますし、そこで少しでも進歩していることが実感できればいい。大事なのは最初に立てた目標に少しでも近付いていることを、本人に気付いてもらい、そこからさらに成長していくことなのです。クライアントに進歩があった時、「良くなってきましたね!」と声をかける瞬間は本当にうれしいですね。
 
この仕事で気を付けているのは、自分自身の私生活とは境界線を引くこと。個人的な感情に引き込まないことです。また、健康や食事に気を遣ったり、ストレス解消など、人にアドバイスしていることは自分でも実践するようにしています。相手を診る前に、まず自分のことをわかっていなければなりません。
 
MFTのライセンスは3千時間の診察を終え、2つの筆記試験に合格すると認可されます。私は2006年の夏に取得し、それを機に独立を決めました。このほどウエストLAで開業し、今後は日本人の方々を中心に診療していきたいと思っています。
 
こちらに住む日本人は異国ならではのストレスや国際結婚の悩みがありますし、アメリカの法律を知らなかったために児童虐待と見なされて通報されてしまうケースもあります。また、ビザが取れるかどうかで将来に不安を抱く方も少なくありません。自分自身の経験を少しでも活かして、日本人の方々のお役に立ち、日系社会に貢献していけたらと考えています。
 
そして、この10年のキャリアの中で私自身が受けて大きな衝撃を受けたのがNET(Neuro Emotional Technique)です。経絡のツボと筋力テストを使うことにより、心の痛みを解消していくという、アメリカのカイロのドクターが開発した手法です。自分の過去の経験から来るトラウマを知り、それに対する感情を和らげるというアプローチはセラピーの有効な手段として、注目されています。今後は、従来の手法に加え、NETでより効果的なセラピーを提供していきたいと思っています。
 
(2008年7月1日号掲載)

経営コンサルタント/情報デザイナー(その他専門職):宮嶋サトシさん

まずアクションを起こしてみることが大切
フィードバックは、自分の成長の証

日本で大手企業に勤務し、さまざまな夢や目標を叶えてきたが、会社の看板を背負わず、自らの力を試したいと渡米を決意した宮嶋サトシさん。会計事務所に勤務するかたわら、業務時間外には個人事業を展開し、業務改善・改良に挑戦している。「頭の中も目標も『見える化』させることで、必ず前に進む」と話す宮嶋さんに話を聞いた。

【プロフィール】みやじまさとし◉1999年、住友不動産販売株式会社入社。社長室、IT戦略室で、主に広報、企画・開発、運営管理に従事。大学在籍時に、ウェブサイトや広告制作にて個人業開始。2008年に渡米し、同年よりTwo Miles公認会計士事務所勤務

そもそもアメリカで働くには?

まずは実践 トライアル・アンド・エラーで覚えた

日本で大学卒業後、住友不動産販売に入社しました。同社では社長室、IT戦略室といった、会社のコアの部分に携わってきました。社長室に勤務していた時には、一般的な秘書業務に加え、広報として、ウェブサイト上でどのように広告戦略をしていくかを学びました。その後、日本はITブームになりました。住友も競合他社に負けないよう、ITを駆使したプロジェクトを組もうとして立ち上げられたのが、IT戦略室でした。
 
大きな会社と言えども、新しい分野のチームでしたから、誰かが仕事を教えてくれるわけではありませんでした。例えばコンピューターひとつにしても、最初は本やウェブサイトで情報を集め、自分で色々いじってみる、トライアル・アンド・エラーの繰り返しで、やり方を見つけていきました。何かを始める時、僕はいつも即実践。まずやってみて、壁にブチ当たってから、「じゃあ、これはどうやるのかな?」と探ってみる、そういう方法でやってきました。
 
所属部署のフロアで仕事をしていて、ふとあることに気付きました。それは、どこの部署でも室長になられている方は、みんな数字に強いのです。僕もいつかはみんなを導く人になりたいと思っていましたので、数字に強くならなくてはいけないと思いました。ビジネスをする以上は、会社の規模が大きかろうが、小さかろうが、お金の管理は絶対に必要になってきます。ですから、お金や数字に強いことは、とても重要なことだと思うんです。それが、後に今の仕事につながっていったのだと思います。

会社の肩書きがない状態で 自分を試してみたい

ライトハウス国際教育事業部のプログラムにて

ビジネスモデルの特許取得に携わったり、僕がデザインした住友のウェブサイトが本に載り、入社1年目にして自分の名前を残すことができました。社会的に知名度のある企業で経験を積ませていただいてきたのですが、何か物足りないと言うか、結局自分は会社の名前を借りて、仕事をしているだけではないかと感じました。それで、自分自身の力で何かにチャレンジしてみたいと思い、2008年に渡米を決意しました。
 
現在、勤務している日系の会計事務所では、各スタッフがゴール設定、顧客の期待を上回るサービスの提供、モデルカンパニーを目指しています。私は、税務申告書の作成、ブックキーピング、給与計算だけでなく、米国法人設立、会計をベースとした経営に関するコンサルティングや業務フローの短縮化、プロジェクトマネジメントを担当していています。
 
担当させていただいているクライアントは主に日本の上場企業ですので、駐在員人事の入れ替わりが頻繁にあります。すると、社内の会計システムが崩れてしまったり、担当者が実はどんな業務をしているのか、よくわかっていないといった状況が多々あります。その場合、「マインドマップ」というものを作って差し上げて、お客様の頭の中、業務のフローをわかりやすく情報デザインするという仕事をしています。
 
頭の中だけで考えているだけでは、ぐちゃぐちゃになりがちです。何から進めればいいのか、どこに向かって行くのか、今何をすべきなのか、やらなければならないことが多ければ多いほど、わからなくなります。それをお客様と話をしながら、目に見える形に落とし込んでいきます。
 
僕の仕事は、「コンサルタント」と言うより、「情報デザイナー」だと思っています。お客様から情報を聞き取り、その情報を誰が見てもわかるようにデザインするということです。

小さな改善を積み重ね 大きな結果を生み出す

僕は、会計事務所の仕事とは別に、個人事業としてもお客様を抱えています。もちろん自分のお客様からの依頼は、会計事務所の業務時間内には一切行いません。ですから、朝、会社に出勤する前の1時間ほどと、就業時間終了から寝るまでの時間のみで行います。契約の時点できちんとこうした状況をご説明し、ご理解いただいたところでスタートします。
 
会計、経営コンサルタントの仕事というのは、時間単位で契約を交わします。お客様からご依頼いただいた時間内に、お客様の求めるものを完結させなければなりません。でも実際は、「この時間内に、ここまでやりましょう」と引き受けた仕事が、予想よりはるかに時間を要することもあります。しかし、お客様にはすでにお約束をし、契約を交わしています。そうなった時は、残りの時間内に、どれだけ業務を凝縮して詰め込めるかが、自分へのチャレンジとなります。小さなことで言うと、キーボードの短縮キー(ショートカット)を覚えて使っていけば、それが何度も積み重なれば、すごい時間の短縮になります。そういった方法を見つけ出すことで、業務改善につながり、自分のスキルアップにもなっていきます。
 
誰もが忙しい日々を過ごしていて、まとまった時間はなかなか取れないものです。でも、5分間でできることって、実はすごくたくさんあるんです。そういう細切れの時間を有効に使い、ちょこちょこやれることをためていけば、結果的にすごくたくさんのことが達成できることを、身を持って体験しています。多くのことを限られた時間内に、的確にお客様に提供できる能力を鍛えたいという人がいたら、会計事務所は、それを磨くのに一番良い場所ではないかと思います。

自分と関わることに 期待を持ってもらいたい

話が少し戻るのですが、24歳の時、尊敬していた祖父が亡くなりました。祖父は、僕が大学進学や就職、会社で大きなプロジェクトを成し遂げた時、いつも「おぉ、良うやったなぁ」と誉めてくれる人でした。祖父に誉められたい、フィードバックをもらいたいと思って頑張っていた部分があったので、その心の拠り所がなくなってしまい、大変寂しい気持ちになりました。
 
葬儀は親族だけで、ひっそりとしめやかに行う予定でした。ですが、祖父は著名人ではなかったのですが、気が付けば大勢の参列者が弔問に訪れていました。その方たちに聞くと、「私は、あなたのおじいさんに昔、こんなことをしていただいたんです」と、感謝する話ばかりでした。人生の最期に、こうして多くの人が集まってくれるのは、人として本当に幸せなことだと感じました。この時、僕もたくさん知識を付けて、祖父と同じように多くの人にそれを伝え、分け与えることができる人にならなくてはならないと、固く決意しました。これがきっかけとなり、「あの人と関わると何かがある」という期待を持ってもらえる人物になりたい、誰かの架け橋になりたいという思いを抱くようになりました。
 
昨年は、「頭の中を見える化する」というテーマで、僕が得意とするマインドマップを紹介するセミナーをさせていただきました。また、ライトハウスの国際教育事業部を通して日本から訪れる学生たちに、少し人生の先輩として話をする機会にも恵まれました。こうして最近、少しずつ自分のやりたいこと、目指すものが実現しています。
 
どんな仕事に就くにしても、理想の自分や生活、そういうものをまずイメージして、そこに向かうためには今何をすべきなのか、あまり考え過ぎず、まずアクションを起こしてみることが大切だと僕は思います。何かをする時、「できないかも…」と不安だけが先に立ってしまったら、前に進めません。勇気を持って、なるべく周囲からフィードバックをもらえる環境を、自分から作ることです。自分から聞くのも勇気がいりますよね?でも、周囲から誉めてもらえたらモチベーションアップにつながりますし、不備を指摘してもらえれば改善できます。フィードバックは、自分の成長の証だと思います。
 
(2012年6月1日号掲載)

ロサンゼルス・ドジャース アジアンオペレーション・シニアマネージャー(その他専門職):佐藤弥生さん

自分の手掛けたことで5万6000人の球場がいっぱいに
ワッと球場が盛り上がるのを肌で感じられる

アミューズメントパーク、ゲーム制作会社、メジャーリーグ球団と、エンターテインメント業界のさまざまな業種で仕事をしてきた佐藤弥生さん。ロサンゼルス・ドジャースでは、ベースボールオペレーションとビジネスディベロップメントの2つの大きく異なる業務をこなす。「巨大な組織の中で、その一部を担えることが楽しい」と語る佐藤さんに話を聞いた。

【プロフィール】さとう・やよい◉東京ディズニーシー建設時の通訳として働いた後、2002年に渡米。日系商社に勤め、03年、アジア部アシスタントとしてドジャース入社。翌年、香港ディズニーランド立ち上げのため、香港へ。1年半の業務が終了し、05年再渡米。オンラインゲーム日本語版制作会社の立ち上げに関わった後、再度ドジャースに入社。以来、現職

そもそもアメリカで働くには?

大きな組織で働く面白味とやりたいこととの差

日本では、「東京ディズニーシー」建設の際、クリエイティブ部門のバイスプレジデントの通訳をしていました。それが終わって、2001年に渡米しました。
 
渡米後は、日系の商社で仕事をしていたのですが、ある日オンラインで、ロサンゼルス・ドジャースで人材を募集しているのを見つけました。小さい頃からスポーツ観戦が大好きで、特に野球は父親の影響もあったと思います。父に連れられてよくナゴヤ球場に足を運び、家では毎晩のようにナイターを見ていました。それくらい好きな野球に、仕事で関わることができるなんてとても素晴らしいと思い、すぐに応募し、アジア部のアシスタントとして働き始めました。
 
ドジャースで働き始めて1年ほど経った時、日本で働いていた時の上司から連絡があり、「香港ディズニーランドの建設プロジェクトに、コーディネーターとして参加しないか」と声をかけていただきました。プロスポーツ業界での仕事に面白味は感じていたのですが、正直、アシスタントという仕事が、自分のやりたいことと少し違うかなと感じ始めていた時でしたので、ドジャースを辞め、香港に渡りました。
 
香港ディズニーランド立ち上げの仕事が1年半で終わり、05年にアメリカに戻り、『Lord of the Rings』のオンラインゲームの日本語版を作る会社の立ち上げに携わりました。それが終了し、達成感を感じながら「さぁ、次はどうしようかな」と思っていた時でした。ドジャース時代の上司から、「部を強化するので、戻って来る気はないか?」と声をかけていただきました。仕事内容も前回よりやりがいがありそうでしたので、「ぜひ」ということで、08年から再度ドジャースで働くことになりました。

一度も球場に来たことのない層にリーチしたい

サンリオ社と行ったプロモーションイベントにて

現在私が受け持つ仕事は、大きく分けると2つあります。一つは、選手の「スカウト」「育成」「編成」「トレード」など、チーム強化のためのベースボールオペレーションの仕事です。もう一つは、「スポンサーセールス」「マーケティング」「PR」などビジネスサイドの仕事です。日本、韓国、台湾のマーケットを「アジア」と我々は呼んでいるのですが、この3つのマーケットを統括するアジア部の担当部長として、部をまとめています。
 
今、サンリオ社と組んでプロモーションを行っています。今年で2年目になるのですが、昨年は、ドジャースのユニフォームを着たハローキティのぬいぐるみを作りました。チケットパッケージとして1万個限定で販売するプロモーションだったのですが、シーズン途中にスタートしたにもかかわらず、2週間ほどで完売。さすがキティーちゃんの威力はすごいなと大変驚きました。
 
野球に限らずスポーツ観戦は、体験すればわかると思うのですが、生で観戦するのはとても楽しいことです。野球は他のスポーツに比べて試合時間が長く、のんびりと食べたり、飲んだり、話したりを楽しみながら観戦できる、ソーシャルなスポーツだと思います。でも、その楽しさを知らない人たちに、球場まで足を運んでもらうことは、私たちにとって大変難しい挑戦です。野球は、やはりお客さんが見に来てくださることで、すべてが成り立っています。それが、去年はキティちゃんの威力のお陰で、今まで野球には興味のなかった人、ドジャースタジアムに足を運んだことのなかった層を呼び込むことができました。
 
それを受け、今年は来場先着5万人にキティちゃんのボブルヘッドを配るプロモーションを7月1日にすることになり、今はその製作が進んでいます。また、毎年ドジャースでは「Japan Day」を開催しているのですが、今年はキティちゃんのプロモーションを、Japan Dayに合わせることにしました。ドジャースは、日曜日の試合前に、スポンサーやベンダー企業に出店していただくイベントを駐車場で行っています。このJapan Day にはたくさんの日系企業にご協力いただいて、日本色を出したいなと思っています。その参加企業を探すのも私の仕事です。そして、このような大きなイベントの日は、始球式や国歌斉唱など色々なプログラムがありますので、それらをプロデュースする手配も同時に進行しています。

日本から来る選手たちが花開くのを見届けたい

ベースボールオペレーションの仕事とビジネスサイドの仕事と、常に同時進行のプロジェクトがあるので、切り替えがとても難しいです。今どの仕事にウエイトを置いて進めていくべきか、スケジュールを自分でしっかり管理しなくてはいけないので、そこがチャレンジです。でも、私は少し飽きっぽいところがあるので、一つのことをずっとするより、色々なことに携われることを楽しんでいます。
 
私は、このJapan Dayを総括していますが、セレモニーには誰をブックするのかをエンターテインメント関係を扱う部署と話し合い、ボブルヘッドの製作に関してはスポンサーシップを管轄する部署と進めていきます。球団のほとんどの部署と関わりながら進めていきますので、大きなプロジェクトに関わっているのを感じられるところが醍醐味ですね。
 
ドジャースは去年、日本の大学生と高校生の2人とマイナーリーグ契約しました。彼らは言葉も通じず、文化も野球のトレーニング方法も違うアメリカにいきなり来るわけですから、最初の2年間は通訳を付け、生活面も含めてサポートします。私はその通訳と毎日コミュニケーションを取って、練習や英語の勉強、生活面はどういう様子なのか、問題点なども含めてレポートを上げてもらいます。いかに彼らが野球に集中できる環境を作るのかが、私たちの仕事です。ですので、彼らが4、5年後にメジャーリーグに上がって、ドジャースタジアムで投げる日を本当に楽しみにしています。自分たちが獲得してきた選手が、フィールドに出て活躍するこのワクワク感は、やはり何とも言えないですね。

生活の中にもっとドジャースが浸透してほしい

私はこの仕事がすごく好きで、とても楽しんでいます。ですので、このまましばらくはドジャースで仕事をしていきたいという気持ちがあります。その中での夢は、やはり自分が手掛けた選手がメジャーに上がって活躍する姿を見ること。それから、日系のコミュニティーとこれからもっともっと強いコネクションを作っていきたいです。ドジャースに日本人の選手がいる、いないにかかわらず、皆さんの生活の中にドジャースという球団がもっと浸透していって、頻繁に球場に足を運んでいただけるような強いつながりを持っていきたいと思っています。
 
アメリカにスポーツ関係の学位を取りに来る日本人留学生などから、仕事についてEメールで相談をいただくことがあります。これはどの仕事に就く場合にも言えることだとは思いますが、一番大事なことは、その業界のことを勉強することだと思います。球団は、日本もアメリカも非常に大きな組織です。ただ「野球に関わる仕事がしたい」ではなく、球団というのはどのように構成されているのかを事前にきちんと勉強して、自分がその中で何ができるのか、どんなところで活躍できるのかを明確にして、面接に挑まなくてはいけません。アメリカの会社はぼんやりと来てもダメです。日本人にとって自分を表現することは少し苦手なことではありますが、自分の長所をしっかりアピールして、なおかつ的をしぼった質問を面接時にぶつけられるようにしておくと、良いのではないかと思います。

塾講師(その他専門職):下田佳子さん

生徒の成長が見えると
一緒に頑張ってきた絆を感じられる

教えること、育てることに興味を持ち、大学で教育学を学んだ下田佳子さん。卒業後、アメリカでは障害児教育、日本では進学塾での教育の現場に身を置いた経験を持つ。「子供と触れ合っていて出会う、驚きの瞬間がとても新鮮で面白い」と語る下田さんに話を聞いた。

【プロフィール】しもだ・よしこ◉2003年に渡米。ワシントン州のコミュニティー・カレッジを1年で卒業し、4年制大学編入の単位取得のために、サンタバーバラ・シティー・カレッジに入学。単位取得後、Liberal Studies専攻で05年にカリフォルニア州立大学ノースリッジ校へ編入。卒業後はAssistant Teacherとして現地の小学校に勤務後、日本へ帰国。塾講師として約1年勤務し、10年に再渡米。以降、現職

そもそもアメリカで働くには?

頑張らず逃げていた自分 学ぶことの楽しさを見つけた

私は、「努力」とか「頑張る」ということが、苦手な子供でした。「いかにして楽に生きようか」ということに精力を使うようなタイプ。それでも中学校までは何とかそこそこの成績が取れていました。進学校の高校に入学し、周りは勉強のできる子たちばかりなのに、「頑張り癖」が備わっていない私は、頑張らなきゃいけない状況でも頑張らなかったんですね。だからおのずとその結果が現れてきて。でも私は、「できない自分」を受け入れることができず、「私はできないんじゃない、頑張っていないだけ」という逃げに走りました。そして最終的に大学受験も「私は大学に行けないんじゃない、行かないことを選択しただけ」と突っぱねました。でも両親を含め周りの環境は、大学に行くのは当たり前というムード。そこで、海外に行ってしまえば、日本の大学を出ていないことを引け目に感じることもないと、正直最初は逃げのような形で2003年に渡米しました。
 
新しい生活が始まり、新しい文化に触れて、好きなことを深く勉強していくことに興味が出てきました。初めて自分で「頑張る」ことができたのが、こちらの大学での勉強でした。本当は2年制のカレッジを卒業したら日本に帰るつもりだったのですが、もっと勉強がしたいという気持ちになったので、05年からカリフォルニア州立大学ノースリッジ校に編入しました。

詰め込む教育より 育てることに喜びを感じた

ハロウィーンに、優塾の先生たちとお揃いのコス
チュームを着て楽しんだ

従兄弟が脳性麻痺を持っていたことと、小学校の時に一番仲良くしていた友達がダウン症だったためか、障害を持つ人たちに理解があったようです。大学ではSpecial Educationを専攻して、こちらの教員免許を取りたいという気持ちがありました。しかし、そのためにはさらに多くの単位を取得する必要があったので、手話のクラスなどSpecial Educationに関する授業を別にいくつか取るようにし、Liberal Studiesという小学校の先生になる専攻で卒業しました。
 
卒業後はOPTで1年、現地の小学校でAssistant Teacher(TA)として、障害を持つ子供のサポートをしました。教室外に個別で教えるテーブルがあり、そこでリーディングや掛け算が苦手な子供たちに教えました。学校での仕事は午後2時半頃には終わるので、その後の時間は公文で算数を教えていました。
 
アメリカでの教育を学んだので、今度は日本の教育を見たいと思い、OPTの後は日本に帰国。英語の塾講師をしました。そこは進学塾でしたので、詰め込み型の教え方で、実際には私が「教えたい」という形のものとはちょっと違いました。もともと、勉強が苦手な子を育てていくことにやりがいや喜びを感じていたので、アメリカにいた頃のような教え方がしたい気持ちが強くなっていきました。1年半ほど日本の厳しい社会にもまれ、訓練をしてもらったと思えたので、アメリカでの仕事を探し、現在の職に辿り着きました。

知ることは面白い 何でも調べて知りたい

私が現在講師をしている「優塾」は、進学塾ではなく、どちらかというと補習塾。生徒のタイプは2種類で、1つは駐在員のご家庭のお子さんで、いずれは日本に帰る子たち。その子たちには、英語のヘルプや現地校の宿題のお手伝いをします。また、帰国後もちゃんと日本の国語・算数の授業についていけるように、日本の教材を使って補習をします。
 
もう1つは、アメリカ育ちの子供たちを対象に、「国語」ではなくて、「日本語」を教えていくパターンです。生徒は4歳くらいから高校生まで。当塾は、教科によって先生を分けるのではなく、1人の教師が国語、算数、理科、社会、現地校の宿題のヘルプ、英検、そして高校生になるとSATと、すべて担当します。日本の大学に進みたい高校生には、TOEFLの対策法も教えています。
 
1つのクラスに3、4人の生徒がいるのですが、個別指導なのでそれぞれみんな別々のことをします。同じ学年の同じ算数をやっていても、生徒によって習熟スピードが違うので、一斉に教えるのはやはり無理があるんですね。当塾では、1人の子に「この問題はこう解くんだよ。やってごらん」と解かせている間に、ほかの子の所に行って「どうかな?」と見る。回りながら、3、4人を同時に教えていきます。ですので、その分予習がとても大変。1クラスに4人いるということは、4人分の予習が必要で、それが1日5クラスあると20人分の予習が必要になります。授業は午後2時からなので、午前中、または休日はもうひたすら予習に充てていますね。でも私、勉強が嫌いではないんです。「Study」の方ではなくて、「Learn」の方。この楽しさに大学に入って気付きました。知るってすごく面白いなって感じています。興味のあることは、調べるのが全然苦じゃないんです。
 
現職に就いて1年が過ぎたところですが、やっとつかめてきたという感覚があります。この子はここが苦手だから、この宿題を少し多めに出して、この子はこのくらいのスピードで説明してあげないとわからない、逆にこの子はずいぶんわかっているから、あまりヒントを与えないで自分で解かせるなど、考える余裕が出てきたように思います。教育と言っても、サービス業なのだと思うんですね。親御さんや生徒自身が何を求めているかというニーズをしっかり把握して、それをいかに提供できるか、そういう仕事だと思います。
 
この仕事で楽しいことは、やはり子供と触れ合うこと。子供の人生に、積極的に関与してくれる大人は、主に親と先生です。親とは違った立場の大人としてインパクトを与えられる仕事だと思っています。自分が知っていること、経験してきたことをシェアできるのがすごく楽しいです。あとは子供が成長したのが見えた時、一緒にやってきた絆を感じます。生徒に「なるほど」って言われた時、納得したのがわかるので、「よし!」って思わず心の中でガッツポーズしちゃいます。それがこの仕事の一番の醍醐味かなと思います。

知識を増やし 教える技術を磨きたい

教育に興味がある人は、色んな人と知り合って、文化に触れて、さまざまなことを知って、小さな世界に留まらないで、違う世界をどんどん堪能しましょう。人間的に成長する意味で必要なことだと思います。あとは、これがしたいから、どうやったらそこに辿り着けるかのステップを、私はいつも目標から逆算します。できるかなぁ、できないだろうなぁでは、その時点でその道が途絶えてしまう。もったいないと思います。
 
それから、子供と触れ合って、どう扱えば良いのかを探るといいと思います。慣れないと、子供の気分を損ねないようにと気遣い過ぎてしまうんです。そうではなくドシッと構えて、付いて来させる方が、結局子供も安心します。ダメなことはダメと言ってくれる人を最終的に子供は信頼します。正しい、悪いという一本の揺るがない線を持って、絶対に曲げない。子供を叱れる大人になることが大切だと思います。
 
これからのことですが、学校を出て現地の学校で働き、日本に戻って塾で働いた後に現在のこの仕事と、少し点々としてしまったので、今はここでしっかり腰を据えて仕事をしたいという気持ちがあります。長年やって初めて見えて来るもの、習得できるものもあると思いますので、その中で自分の「教える」技術を磨いていきたいです。5年後の自分は正直まだわからないですが、今、自分ができることに一生懸命力を注いで、あえて先を見ないでおこうと思っています。常に知識を吸収していないと、教える側として成長できないので、これからももっと勉強していくつもりです。色々なクラスを取ったり、資格を取ってみたり、勉強をしながら、教えることを続けていきたいですね。
 
(2012年3月1日号掲載)

西大和学園カリフォルニア校・補習校(その他専門職):教頭 芦田 隆さん

自分の背中を見て、何かを感じ取ってほしい。
子供たちがそれで行動してくれる様な、そんな自分でいたい。

日本で非常勤講師、教師として約2年勤めた後、アメリカの日本人子弟教育に携わることを決意し渡米。西大和学園カリフォルニア校で、クラス担任や帰国子女向けの受験指導に6年間携わり、2年前に30代で教頭に就任した芦田隆さん。「先生方が教務に集中できる環境作りが私の任務」と語る芦田さんに話を聞いた。

【プロフィール】あしだ・たかし◉岡山県生まれ。関西大学文学部英語英文学科卒業後、英語の専門学校に通う。高校の非常勤講師を経て、2003年に奈良県の有名進学校、西大和学園に就職。翌年、同校カフォルニア校に赴任。その後6年間、英語教師やクラス担任の教務を歴任し、10年より現職土曜補習校でも同職

そもそもアメリカで働くには?

渡米翌日に出会った子供たち みんな目が輝いていた

生まれは岡山ですが、父の仕事の関係で大阪、三重、滋賀、奈良と、さまざまな場所で育ちました。大学で英語英文学科を卒業後、勉強がまだ不十分だと思い、英語の専門学校で2年ほど集中的に勉強しました。専門学校卒業後は、非常勤講師として高校生に英語を教えました。その契約が切れる頃、子供たちにもっとじっくりと教育を施せるよう、腰を据えて学校で働きたいという気持ちが芽生え、奈良県の西大和学園に転職しました。同校では中学部の英語を担当。1年ほど働いた時、学校側から私を含む数名の英語教師に、カリフォルニアにある分校に赴任しないかという話が来ました。その時に、日本の教育現場だけではなく、海外での教育にも携わり、日本に戻った時にその知識を活かしたいという思いが芽生え、渡米を志願しました。
 
2004年4月、カリフォルニア校始業式の前日に渡米しました。学校でのミーティングにもまだ参加できず、情報がまったくないまま子供たちに出会わなくてはなりませんでした。わからないこと、知らないことがたくさんありましたが、まだ20代と若かったこともあり、不安はあまりありませんでした。翌日の始業式で最初に感じたことは、日本とアメリカの子供たちの質の違いでした。開放的なカリフォルニアの環境に溶け込んだ子供たちの目は、本当に透き通って、非常に輝いていると感じたのを覚えています。

ここにはバランスが取れた 理想的な教育環境がある

担任初年度の2004年度学園祭(演劇発表会)出演
前の記念の一枚

渡米から6年間は、中学部の担任として、さらに9年生を担当した際には進路指導で高校入試にも関わりました。当校は日本に帰る生徒が多いため、当然日本の高校入試に向けた受験英語を指導します。帰国子女として高校入試に挑む子供たちは、難関私立校を受ける子もいれば、地方の公立校に行く子もおり、受験に対して幅広い知識を持たなくてはいけません。入試難易度の高い学校に対しては、前倒しで教えなければならないことがあります。その点、私は本校におりましたので、文部科学省検定済みの教科書ではなく、本校が独自に使っている中高一貫のテキストで受験英語を指導しました。これに関しては、日本での経験が大いに活きていると思います。私が日本にいたのは8年前なので、今は日本の英語教育もずいぶん変わったと思いますが、日本ではESLクラス、あるいはALTによる授業は基本的に週に1回だけ。クラスのレベルも特に分けることはありません。また、リスニングやオーラルはあまり重視されず、受験英語を集中的に学ばなければなりません。その点、こちらではESLの教育環境が整っており、文法、リスニング、ライティング、オーラルとバランスを取りながら教えられる環境です。もちろん、本来日本では高校生が学ぶような難易度の高い内容を、こちらでは中学生で教えなくてはいけない現状もありますが、それでもロサンゼルスは、英語と日本語をバランス良く学べる恵まれた環境が整っています。それは、いずれ日本に帰る子供たちにとっても、またこちらでバイリンガルとして活躍していく子供たちにとっても、とても素晴らしいことだと思います。私自身、そのような環境で教育に携われることがとても貴重だと感じています。
 
このように英語教師として教育に携わる間、部長職も兼任していました。部長職というのは、先生たちが日々の教育活動を円滑に進めるためのサポート役。時間割りの制作や運動会などの年間の行事の企画、運営が主な仕事です。その中でも教務を4年間兼任した後、2年間は文化体育部、生活指導部など、さまざまな部をまとめる総務を担当しました。また同時に、当校は土曜補習校も開校していますので、そちらでも教務、総務を務めました。
 
カリフォルニア校は、来年20周年を迎えるまだまだ若い学校です。幼稚園から中学校までの一貫教育が、同じ敷地内で運営されているという、とてもまれなケースだと思います。私が赴任してきた頃は、まだまだ教育や行事の「形」ができていませんでした。大きな学校や歴史の古い学校には当たり前にある流れがないので、それぞれを整備する必要性がありました。しかし、先輩の先生がいない学校なので、20代、30代の若い同僚たちと共に考え、協力し、構築していくことは、とてもやりがいがあることでした。結果として今は、そうやって先生たちと作ってきたものが形になり、少しずつ基盤ができ上がってきました。

やる気と希望に満ちた そんな先生たちと作る学校

昨年4月からは、教頭職を専任しています。就任した時は、自分で大丈夫だろうか、務まるだろうかという不安がありました。通常教頭は、小・中学校、そして幼稚園の副園長といった具合にそれぞれ別々に存在します。それを幼稚園から中学校まで、さらに土曜補習校と、全部の教頭を務めますから、どのような仕事をやっていくべきなのかを自分自身で模索し、作り上げていかなくてはいけません。今もそれは模索中です。教頭の仕事はどちらかと言うと裏方役で、当校の教育基盤を整えることが任務だと思っています。先生たちがいかに学級担任や教科指導に集中できる環境を作れるか、それに尽きるかなと。補習校では特に、現場の先生たちの意見を吸い上げ、客観的に分析し、判断していかなくてはいけません。そして、教員同士が同じ視点で歩んでいける環境を作ることが大切だと思っています。そして、それがうまく機能した時、本当にやりがいを感じます。
 
先生には、授業中も休み時間も、朝から晩まで子供と関わり続けるエネルギーを持っていてほしいです。その点、当校の先生は皆やる気と希望に満ちた人ばかり。その結果、今のような30代、40代の先生が役職に就いているのかもしれませんね。

色々な知識を身に付けて 広い視野で判断ができる人に

私が意識していることは、先生たちにも、子供たちにも、自分の姿や行動が規範となる、そんな自分でいたいということです。言葉で言うだけではだめ。私の背中を見て、そこから何かを感じ取ってもらえるような自分でいたいですね。
 
そして、大切にしているのは学び続けること。学びとは、義務教育が終わっても、社会人になってもずっとずっと続きます。だから、一時だけすごくいい教育を受けたり、その時だけ頑張るのでは意味がないと思っています。地道に継続することがどんなに大切かを、いかに子供たちに提示できるかを常に考えています。これから教育者を目指す人たちには、専門分野だけを勉強せず、さまざまなことを幅広く学ぶ姿勢を忘れないでほしいと思います。義務教育の間はたくさんの教科を学ぶ機会がありますが、高校、大学と進学するにつれて専門性が高まり、その分野に直接的に関係ない科目は、どんどん選択制になっていきます。でも、広い視野を持って、色んなことを学んでほしいですね。無駄なものはなく、自分で勝手に無駄と判断しているだけ。固定観念だけで決め付けず、現実的に狭まっていく学びの機会を広げる意識を持っていてほしいです。広い視野を持って専門分野に入ると、客観的に、多角的に判断できるようになるのです。
 
今は教鞭を執る現場からはほぼ完全に離れ、担任も持っていません。直接子供たちに触れる機会が減って、正直、寂しいという気持ちはあります。ですが、まだまだ経験していない業務がたくさんあるので、色んなことに携わりたい。そして、また教育の現場にも戻りたいと願っています。他の業務で付けた知識を活かして、学校に、そして子供たちに、その知識を還元できる自分になりたいです。そして、将来は自ら学校を運営したいと思っています。そこに至るまでは、もう少しさまざまな経験を積まなければなりませんね。
 
(2011年12月1日号掲載)

警察・消防・救急・セキュリティー(その他専門職):室伏 厳さん

日々、色々なことが起こる警察官の職務。
小さなことから大きなことまで、何でも相談してほしい。

自動車修理工の仕事を10年以上勤めた後、幼少時からの憧れであった警察官になることを決心。仕事をしながら警察学校へ通い、4年前に念願の警察官になった室伏 厳さん。自身の危険を顧みず、人々の安全を守り、悪を挫く警察官という仕事に、とてもやりがいを感じると言う正義感の塊、室伏さんに、その魅力を聞いた。

【プロフィール】むろふし・げん◉神奈川県で生まれ育ち、10歳で母と2人の弟と渡米。以来サンディエゴ在住。高校卒業後、日本で自動車修理工として働き、1年半後にアメリカに帰国。自動車修理工の勉強をカレッジで受けながら、修理工として働く。その後、警察学校へ進み、卒業。現在、Southwestern Community Collegeで、警察官として勤務

そもそもアメリカで働くには?

両親の離婚と突然の渡米 治安の悪い環境にショック

日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれ、10歳まで神奈川で育ちました。両親が離婚したので、母と2人の弟たちと一緒にアメリカに渡り、サンディエゴで暮らし始めました。引っ越し先は、とても治安の悪い所でした。私にとっては新しい国、新しい土地。だから近所の雰囲気が余計怖い。突然の環境の変化に、とてもショックを受けたのを鮮明に覚えています。しかも、日本でまったく英語を習っていなかったので、こちらの学校に馴染むこともできませんでした。
 
友達もできず、近所は怖かったので、いつも弟たちと家の中で遊んでいました。サンディエゴで英語を第2言語として使うのは、ほとんどがスペイン語圏の人です。学校でもスペイン語を母国語とする子供たちのサポート体制はあっても、日本語が母国語の私に対応できるシステムはありませんでした。母も新しい生活を築くのに精一杯で、私たち子供の学校生活を気にかける余裕はありませんでした。そんな環境の中、14歳でやっと英語で読み書きができるようになり、高校も無事卒業することができました。その後は、当時父の体調が良くなかったので、日本で就職して父と一緒に住むことにしました。

強くてカッコいい警察官は まるでヒーロー

Southwestern Community College の同僚と

自動車が大好きなので、日本では自動車修理工の仕事に就きました。1年半働いて、父の体調もだいぶ良くなりました。それで、この仕事のことをきちんと学ぶために、アメリカに戻ろうと決めました。そして、カレッジに通い、一からきちんと学びました。修理工の仕事をアメリカでも続けながら学校に通ったので、寝る時間もない日が続くこともありました。修理工の資格を取った時には、既に実地経験が7年ほどありました。そこで、修理工の仕事を続けながら、友人と一緒に日本から自動車部品を輸入するビジネスを立ち上げました。
 
日米を行き来しながら経営を軌道に乗せました。ちょうどその頃、何か新しいことを始めたいという気持ちが湧いてきました。私は自分で言うのも何ですが、正義感が強く、「人を助けたい。問題を解決したい」という気持ちをいつも持っています。また、テレビ番組『COPS』を観て、「アメリカの警察は強くてカッコいいな」と、子供心に思っていました。日本にいた時の私の記憶の中では、日本の警察は交番でのんびり座っているイメージがありました。それに比べてアメリカの警察官は、自ら悪者を探しに行って捕まえて、まるでヒーローのようだと思いました。

とにかく悪者を逮捕したい! 張り切り過ぎて失敗

自分の正義感を活かせ、しかも子供の頃から憧れていた警察官になろうと決心しました。そう決めてからは、自動車部品輸入ビジネスを続けながら警察学校に通いました。1年で卒業し、2007年からSouthwestern Community Collegeで大学内の警察官として勤務し始めました。警察官になって1年ほど経ってから、銃の訓練士の資格を取りました。私の通常の1日は、朝6時にパトカーに必要な物を乗せて、校内外1マイルほどを、パトロールすることから始まります。大学内では、小さなことから大きなことまで、たくさんの事件が起こります。例えば、「携帯を盗まれた」というような窃盗事件から、生命に関わるような大事件が起こることもあります。
 
大学内は、社会の縮図のようなところがありますので、一般社会で起こるようなことは、大学内でも起こるのです。最近の事件で印象に残っているのは、ある男性が、元恋人の女性を言葉で脅して復縁を迫り、ついにはナイフを持って校内に女性を呼び出そうとした、というものです。女性は危険を感じて我々に助けを求めてきたので、この男性を逮捕することができました。実はこの女性、長期間この男性から、命を脅かすような脅しを電話やメールで受けていました。しかし、どうしたら良いのかわからず、1人で悩み続けていたのです。この事件は、たまたま私が校内パトロールをしている時に異変に気付いたので助けることができました。ですが、何かが起きてからでは遅いのです。自分だけで解決しようとしないで、私たち警察官に相談してください。最悪な事態を未然に防ぐことも私たちの仕事です。
 
また、校内のルールは、一般社会の法律と異なることがあります。例えば、ナイフを所持して表を歩くのは、カリフォルニア州では合法です。しかし、校内ではそれは違反で、没収となります。このような細かい校内のルールは、意外と学生に知られていないのです。新入生に、ルールが書いてある資料を渡しますが、あまり読まれることはないでしょう。ワークショップなどを行うべきだと思うのですが、今のところはありません。これから、そのような点を改善できたらと思っています。警察官になって最初の1年ほどは、「色々なことを経験したい。とにかく悪者を逮捕したい」という闇雲なやる気でいっぱいでした。
 
少し張り切り過ぎて、失敗してしまったこともあります。例えばスピード違反をした車を停めて、ドライバーに質問をした時、威圧的になってしまって警察本部にクレームを言われてしまいました。このような場合、威圧的な態度では相手に壁を作らせてしまうので、そういうやり方は間違っていたと反省しました。しかし、違反者相手におっとり柔和な態度を示すのも、警察官として良いことではありません。感情的にならず、毅然とした態度を示すよう努めています。警察官になってからも、学ぶことがたくさんあります。
 
飲酒運転についての細かい規定や銃の操作方法、テロリストが作る爆弾の仕組みなど、さまざまな知識を身に付けて、いざという時に備えます。例えば、「RCSシステム」という無線を私たち警察官は使用しているのですが、これはとても便利な物です。サンディエゴだけでなくロサンゼルスの警察官とも、ダイヤルを合わせるだけで即座に連絡が取れるのです。この使用方法も、警察官になってから学んだことの一つです。ですが、実際の仕事は9割がペーパーワークで、1割が現場に出動するというのが実情。月に1、2回は、連続36時間働くシフトがあります。もちろん、テレビで見るような事件ばかり追いかけることだけが、私たちの仕事ではありません。それに気付けたことで、警察官としてさらに成長するきっかけとなりました。

何事も将来につながるから 今の仕事を一生懸命に

修理工から警察官への転職に悔いはありませんでした。なぜなら、修理工として働いていると、いつもお客さんの車ばかりで、自分の車をいじる時間があまりなかったから。元々車が好きなのですが、 仕事との境目がなくなっていたことを不満に思っていました。ですから、今は休みの日に思う存分自分の車をいじれるのが楽しいです。
 
自動車修理工の仕事は、現在の仕事にも多いに役立っています。ほかの警察官では見つけられないような違反改造車を、ひと目で見つけることができます。警察官になりたての頃は、まさか以前の仕事がここで役に立つとは思いませんでした。このようなこともあるので、将来転職したいと思っていても、今の仕事を一生懸命することが、後々活きてくるということを覚えておくべきですね。
 
私の将来の夢、目標は、警察署に勤務して、大きな事件や複雑な事件に関わり、どんどん解決していくことです。そのためにも、今の職場の中でできることをして経験を積み、警察官として新たなスキルも身に付けていきたいと思っています。
 
(2011年11月1日号掲載)

SumericaTV, LLC 代表取締役(その他専門職):皇(すめら)ロキータさん

SUMERICA TVは私にとって出発点。
ここからもっとビジネスチャンスが生まれてくる。

高校時代から海外留学に憧れ、英語を勉強。高校卒業後、両親の反対を押し切って、自力で渡米した皇ロキータさん。カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校在学中に、インターネットによる広報と、マーケティングの会社「Sumerica TV ,LLC」を起業し、代表取締役に就いた。積極的に企業訪問し、日々人脈を拡げる皇さんに聞いた。
 

【プロフィール】すめら・ろきーた◉仙台市出身。仙台育英高校卒業後、大学に進学するが中退し、2004年にロサンゼルスに渡米。UCLAに入学するが、英語を学び直すためにコミュニティー・カレッジへ。その後、USCに編入、さらにカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校に移り、ビジネス・企業学を専攻。在学中からインターンを多数経験。10年11月、在学中にインターネットによる広報と、マーケティングの会「SumericaTV, LLC」を設立。今年6月に同大卒業。現在、同大MBAプログラムに在籍中。ウェブサイト: www.sumericatv.com

そもそもアメリカで働くには?

人生一度きり 両親に勘当されての渡米

渡米を初めて考えたのは高校の時で、カナダに留学する予定だったんです。でも、父が非常に厳格で、「娘は地元の仙台から離れてはいけない」と反対されて実現しませんでした。しかし、どうしてもアメリカに行きたくて、英語のスピーチコンテストに出たり、奨学金をもらえるよう勉強していました。
 
そのまま仙台の大学に進み、1年半過ごしましたが、やっぱり留学は諦め切れませんでした。海外に出て、色んな人たちに会い、刺激ももらい、経験を積みたいと思って。私の通った仙台育英高校には留学生がたくさんいて、実家でも留学生を受け入れたりしていたので、元々海外志向がすごく強かったんです。それに、ずっと仙台だけで過ごすのも、何もトライしないで親の言いなりに生きるのも嫌でした。人生一度きりだと思い、モデルをしたり、レストランで働いたりして貯めていたお金を持って、2004年にロサンゼルスに渡りました。
 
ですが、父に断りなく大学を辞め、渡米も決めてしまったので、「もう連絡は一切取らない。勝手にしなさい」と言われて。私も「今までどうもありがとうございました。もう巣立ちの時期だと思うので、好き勝手にやらせていただきます」と手紙を書きました。そうしたら、「もう仙台に帰って来るな」と勘当です。そんな状態で、最初はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に入ったのですが、自分の英語力では授業に付いていけませんでした。日本でスピーチの勉強もかなりやったのですが、大学でプレゼンするのとでは全然違いました。クラスは思うようにパスできないのに、いたずらに学費ばかりかかり、かなり焦りました。そこで、ちゃんと初めからやり直そうと、コミュニティーカレッジに入り直しました。
 
それから、南カリフォルニア大学(USC)に編入したのですが、勘当状態の親から援助が得られるはずもなく、やはり学費を捻出するのが大変で。それで、学費が少しでも安いカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校(CSULA)へ移り、ビジネスと企業学を専攻しました。

日本のビジネスマナーを 学ぶためにインターン

南加日系社会での人脈はかなり広がった(SUEHIRO
着物の押元末子社長・左とLAPD副本部長のテリー・ハラさん・右)

CSULA在学時から起業を志していましたが、やはり最初は企業で経験を積まないと成長できない、と思いました。また、起業する上で、日系企業とも関わっていくはずだから、アメリカにいても、日本のビジネスルールや社会常識は知っておいた方がいいと思い、日本企業でのインターンを考えました。商社や食品会社などで経験を積み、その後は、日系の美容関係、製造会社で1年くらい働きました。
 
日系企業では、私のダメな所をちゃんと指摘し、教育してもらえました。一方、アメリカの企業でセールスの仕事をした時は、毎日、何社訪問し、どれだけの成果を挙げたか問われるだけで、どうすれば売り上げが上がるかなど、教えてもらえないことが多かったですね。アメリカの企業は、失敗を経験して、そこから自分で学ぶものなのだと、日米の企業風土の違いを感じました。
 
日中はインターン、夜は学校に通う毎日を過ごし、今年6月にCSULAを卒業しました。大変だったのですが、それも今となっては良い経験だったと思います。それがあったから、今、ちょっとしたことでは落ち込まなくなり、忍耐力も付きました。ただ、プライベートな時間がまったくなかったので、もっと友達とのネットワークを築いておけば良かったかなと、振り返って感じますね。実は、今はMBAを取るために、再度CSULAに通っています。相変わらず、昼も夜も忙しい毎日です。

起業することは ごく自然なこと

父は不動産会社、母はレストラン経営をしているので、起業は私にとってごく自然なことで、心理的な抵抗や不安はあまりありませんでした。業種を考えた時、高校時代からレストランでずっとアルバイトをしていて、母の姿も見ていましたので、レストラン経営を考えましたが、やはり多額の資本金が必要です。そこで、インターン経験もあったメディア業界で、SumericaTV, LLCという会社を設立し、「SUMERICA TV(www.sumericatv.com)」というサイトを立ち上げました。CSULA在学中の昨年 11月から営業を始めて、今は少しずつですが利益も上がってきている状態です。
 
SumericaTV, LLCは、日系企業やアメリカ企業のビジネスやサービスを、ソーシャルネットワークサイトなどを通じて一般消費者に告知する部門、アメリカのトレンドや情報を日本に紹介するマーケティング部門から成り立っています。
 
インターネット業務は、YouTube やTwitter、FacebookなどのウェブPRにより会社を紹介したり、イベントを通しての企業のPRサービスをしています。今は、できるだけたくさんビデオを撮って、ビデオソーシャルサイトやウェブサイト、ウェブPRとして、広告費やクリックバナーで収入を得る形になってきています。
 
SUMERICA TVの目下の課題は、企業PRビデオの編集能力ですね。スタッフは技術が足りない分、必死に動いてくれて、みんなで学びながら、成長できるという面では良いかなと思います。

思い込みの壁をぶち壊し 相手の懐に飛び込む

学生の頃は、営業訪問するのが怖かったんです。企業のトップの方とお話しする機会なんてそれまでなかったですし、自分に仕事に対する明確なビジョンがなかったこともありました。
 
ですが、何社も訪問し、「ダメだ」と何回も断られていくうちに、徐々に担当者の方とも打ち解け、「ウチはダメだけど、どこどこの会社の社長さんを紹介してあげる」といった具合に人脈を拡げていくことができるようになりました。「怖い」という自分の思い込みの壁をぶち壊して、相手の懐に飛び込まなければ、自分を理解してもらうことはできないし、相手を理解することもできないと感じました。自分から踏み込まないと世界は広がらないし、いつまでも同じ自分のままだなと、会社を立ち上げてみて、すごく思いました。企業のプロモーション以外に、企業トップの方たちのビデオメッセージを、SUMERICA TVのコンテンツとしていただくということも、現在やっています。お話を聞いていると、そういう方でも、やはり最初から成功はしていません。そして、何でも挑戦した方がいいと、よく言われていますので、私もどれだけできるかわからないのですが、突っ走ろうかな、と思います。
 
SUMERICA TVを通して、日米の企業を結び、もっと日米間の距離を縮めたいですね。アメリカにいる日本人だけでなく、日本にいる方たちにも、アメリカで日本人がこんなに頑張っているというのを、広報していきたいです。そして、広報、PR、マーケティングに限らず、色んな方面に展開できたらいいですね。そういった意味で、SUMERICA TVは私にとって出発点。ここからもっとビジネスチャンスが生まれてくると思います。
 
何を始めるにも、すごくエネルギーが必要だと思います。「何かやりたい!」と言うと、それを否定しようとする人と、頑張れって応援してくれる人がいます。押しつぶそうとする力や感情的なネガティブな意見に負けたら、新しいことは何もできません。だから、自分が一度やると決めたら、突っ走って、もし壁にぶち当たっても、それが当たり前だということを覚悟して。
 
私の起業経験からのアドバイスは、ありきたりなことですが、失敗を恐れず、もしゼロになっても立ち上がること。失敗の後には成功が来ると信じて、希望を失わずに頑張っていきましょう。
 
(2011年10月1日号掲載)

着付け講師・着物スタイリスト(その他専門職):寺内健太郎さん/石井宏志さん

アメリカで改めて知った日本の美
着物の可能性を信じ、その世界を広めたい

山野流着装教室の講師として、また着物ショーや撮影、着物コスチューム制作に携わる着物エージェンシーのスタイリストとして活躍する寺内さんと石井さん。アメリカで出会った着物の美を広めようと、アートにファッションに、その活動範囲を広げている。着物を通して日本人としての自覚が深まったという2人に聞いた。

【プロフィール】てらうち・けんたろう(写真左)◉東京生まれ。大学卒業後、イベント製作・運営会社に勤務。2006年1月に渡米。ロサンゼルスで山野流着装教室を開く押元末子準皆伝の3期生として着付けを学び、講師に。10年10月、押元準皆伝、石井さんと共にSUEHIRO KIMONO Agency, Inc.設立
いしい・ひろし◉埼玉生まれ。アパレル卸会社の営業スタッフとして勤めた後、08年5月に渡米。アパレルの買い付けの仕事に携わるが、着付けを学び、講師となる。
ウェブサイト:http://suehiro-kimono.com

そもそもアメリカで働くには?

伝統やアートとして エコとしての着物も伝授

寺内(以下・寺):ひと言で着物と言いましても、私たちの仕事は多岐にわたっています。まず、山野愛子ジェーン宗家の山野流着装教室の方では、一般の方や美容関係者などを対象に、アシスタント講師として着付けも教えています。
 
昨年10月に立ち上げたSUEHIRO KIMONO Agencyでは、着物のレンタルから撮影、着物モデルの派遣を含むイベントの企画・開催まで、幅広い業務を行っています。撮影には、結婚式やお宮参り、成人式といったご家族の記念写真や、モデルを使った広告やポスターの撮影、映画撮影があります。また、パーティーやイベントへの着物モデルの派遣や、著名人のパーティー用の着物レンタルや着付けなども行っています。
 
石井(以下・石):ここ数年、「ミス・アジアUSA」にも携わっています。全米一のアジア美人を決めるページェントなのですが、各国の伝統衣装を身に着けて美を競うという部門があり、我々は日本代表の衣装や撮影を担当しています。どの国の民族衣装も伝統衣装を超えた派手な物が多いんですね。その中で、日本の着物をいかに芸術性の高い、目を引く衣装にアレンジするかが、私たちのチャレンジとなっています。
 
また、先日はある日本人学校で、非営利団体主催の地球温暖化防止イベントの一環としてワークショップとショーを行いました。そこでは、着物は世代を超えて受け継がれていくものであり、リメイクやホームデコレーションにもなる、1本の帯にもさまざまな結び方で楽しむことができる、といった「エコとしての着物」を伝えました。
 
寺:結婚式やお宮参りといった一般の記念撮影については、ここアメリカでも日本の伝統を踏まえた装いを提供できるよう努力しています。一方、雑誌の撮影やページェントなどでは、アートとしての着物もアピールすることを心がけています。石:着物は鑑賞するもの、アートでもあるんです。それを視覚的に伝えるために、例えば我々のウェブサイトでは、着物の美しさを引き立てるために、バックを黒くするなど、デザインに工夫を凝らしています。

イベント・アパレルから 自分でも意外だった転身

2011年ミス・アジアUSA、日本代表のYukaさんに、
押元先生デザインの〝着物ドレス〞を着付ける寺内さん

寺:私は人を喜ばせることが好きで、大学卒業後はバーテンダーの修業をしました。その後、イベント会社に勤め、東京モーターショーなどのイベントの企画・運営に携わりました。そして、パーティープランナーの勉強をしようと思い、1年くらいの滞在予定でアメリカに渡りました。
 
ロサンゼルスではユダヤ系アメリカ人の経営するパーティーレンタル会社で働いていたのですが、ある時、押元先生の着装教室の伝達式の手伝いをする機会に恵まれて。そこで目にした皆さんの着物姿にすっかり魅了されてしまったんです。「これは美しい」と。日本では関心のなかった着物ですが、ここアメリカで、その魅力に気付かされたんです。そこで早速、押元先生の教室に入りました。
 
押元先生は日米で20年以上の着付けのキャリアを持ち、2006年に全米で初めて免状を与えられる着装教室を開いています。また、ファッション雑誌や国際的なショーにも携わり、今後は映画業界にも進出したいという構想を持っていました。そんな先生の話に興味を持ち、自分もここで着物の仕事をやってみようと決意したんです。
 
石:私は日本でアパレル業界にいました。卸会社でメンズ・ファッションの営業を4年半ほどしていて。ですが、これまで海外に出たことがなく、1度は海外生活を経験してみたいと思い、渡米を決意。英語ができなかったので、日本人が多く住み、知り合いのいるロサンゼルスにやって来ました。当初は半年か1年くらいの予定でした。
 
寺内さんは、元々こちらでのルームメイト。着付けを習うと聞いて驚きましたが、山野ジェーン宗家の名前は知っていたので、自分も興味を持って入門しました。これまで自分は着物に対して堅いイメージを持っていましたが、押元先生の持つ着物に対する革新的なビジョンに感動したんですね。ただ伝統的な着付けを習ったり教えたりするだけでなく、着物を現代社会に活かすという世界があるんだということを知り、その可能性を感じました。
 
寺:海外で男が着物の仕事をするなんて、理解しがたいことかもしれませんが、両親は応援してくれて。我々の卒業式に、日本から来てくれたんですよ。そして父は、日本に帰ってからその式の様子を、わざわざ石井さんの実家まで行って伝えてくれて(笑)。親戚からは、アメリカじゃ手に入りにくいだろうと、男物の着物を親戚中から集めて送ってくれました。

次世代の日本文化を担う 代表者という使命感

石:これまで日本で洋服の仕事をしていた私が、アメリカで逆に着物の仕事をするようになったのは、不思議な縁ですよね。着物を着るようになってから、自分が日本人であることをより意識するようになりました。日本の文化を伝える仕事をしているという使命感もあります。
 
また、着物を通して我々の先祖の考え方を学んだり、着物や日本に関心を持ってくれる日本人以外の方々と出会い、交流していく中で、これから未来の人々の可能性を考えたりすることも。先日はニューヨークから有名女性シンガーが、東日本大震災のチャリティーコンサートを着物を着てやりたいと、私たちを訪ねて来られました。この仕事に就いてから、自分の考え方が大きく変わり、また人脈や視野が広がりました。
 
寺:日本文化を伝える日本人代表として見られることも多いですね。先日は、宮本武蔵をテーマにしたハリウッド映画『SWORDSMAN』で着付けを担当したのですが、刀の引き方や神前式の結婚式をどうやるのかと聞かれました。我々はほぼ毎日、着物で暮らしていますが、常に清潔であることはもとより、身のこなし、手の動きなど、見えない部分にも気を配るようになりました。
 
着物は平面的な物ですし、デザインも皆同じです。これを着る人に合わせて立体的に着付ける。また合わせ方もさまざまですので、着付けとは着物をデザインしているようなものです。着付けはやればやるほど、奥深い学びがありますね。普段から感性を磨くように、自然や建築物、店のディスプレイなど、色々な物の〝色〞を、意識して観察するようにしています。
 
石:これからは、ファッションやアート、エンターテインメントの世界で、もっと着物を打ち出していきたいですね。着物には独特な〝パワー〞があります。伝統の着物を基礎にしながら、ドレスとのコラボを試みるなど、ファッションやアートとしての感覚を入れていきたいです。さまざまな人たちと出会っていく中で、新しいアイデアが生まれ、新しい着物の世界が広がっていくと思います。
 
寺:ハロウィン前の週末には、モダンでポップな「ファッション・アートショー」を企画しています。第1回のテーマは「月と太陽」で、ハリウッドで活躍する日本人作曲家と、ヨーロッパを中心にアジアでも活躍しているスウェーデン人のセットデザイナー、押元先生の着物コスチュームをコラボさせます。着物の良さを知る私たちは、その良さを伝えていく必要があります。ただ、「日本の物が良い」という思いが、日本人の中で終わってしまってはいけません。これからもっと、アートやファッション界で、世界を舞台にしたいと思っています。その上で我々には、着物という独自の文化があるからこそ、日本人ということがプラスに働くのではないかと思っています。
 
(2011年8月1日号掲載)

Pacific Summit Energy LLC / Senior Corporate Counsel(その他専門職):鄭 直子さん

法的問題を身近に感じてもらえるよう配慮していきたいと思っています

コロンビア大学ロースクールを卒業、カリフォルニア州とニューヨーク州での弁護士資格を持つ鄭直子さん。現在、エネルギー会社の顧問弁護士として働く鄭さんの目標は、法律の専門家として会社を支え、事業拡大に貢献し、共に成長すること。肩書きとは相反するような柔らかい笑顔が印象的な鄭さんに聞いた。

【プロフィール】チクチャ・チョング◉東京生まれの在日韓国人3世。東京のアメリカンスクール卒業後、ハーバード大学へ進学。卒業後、東京とNYで約3年間、マスコミ業界で現場・経営企画に携わる。その後、コロンビア大学ロースクールに進学、法務博士号(Juris Doctor)取得。ニューヨーク州、およびカリフォルニア州で大手国際弁護士事務所に約8年間所属し、主にM&A、金融、不動産等のコーポーレート関連のプロジェクトに携わる。2010年に住友商事の子会社、Pacific SummitEnergy LLCに入社。ニューヨーク州とカリフォルニア州の弁護士資格を持つ

そもそもアメリカで働くには?

22 歳で人生は決められない とにかく社会に出たかった

ハーバード大学卒業式の写真。
「やっと社会人になれることが
うれしかった」と鄭さん

在日韓国人の3世として育ち、両親の教育方針で、ずっとアメリカンスクールに通っていました。家庭では日本語を話していましたが、学校での公用語は英語です。日本でも自分は外国人という意識はありましたし、叔父がアメリカ留学をしていたこともあって、自然とアメリカの大学に進むことを決意しました。最初から弁護士を志していたわけではなく、当初、医学部志望でした。しかし大学で学んでみると、研究室にこもるのが思いのほか楽しくなかったんです。ですから、東洋学とのダブルメジャーにしました。
 
卒業後は、この先、医学部で何年も勉強したいのかじっくり考えた末、22歳で人生を決めるよりは、とりあえず社会に出てみることにしました。最初の1年は、日本のテレビ局のニューヨーク支局に勤め、その後2年間は、東京でデジタル衛星放送の立ち上げに関わりました。経営企画部に所属し、優秀な方がたくさんいる中で、色んな経験をさせていただきました。メディアの仕事は興味本位で始めましたが、放送権など法律に触れていくうちに、徐々に自分の将来への道が見えてきました。弁護士を志した直接のきっかけは、弁理士である叔父の影響かもしれません。それにアメリカでは、弁護士になっても色んな仕事に就けます。元弁護士の経営者や政治家も多いですし、とりあえずロースクールに進んでみようと思いました。
 
ロースクールでは、議論の仕方や弁護士としての考え方を叩き込まれました。授業では、さまざまな議題について、「君はどう思う?」と教授に問われます。厳しい教授だと、講義の最初から最後まで質疑応答が続きます。みんな指名されるのが怖くてビクビク。判例を勉強しても、核となる事項を深く理解していないと、あらゆる質問に対応できません。でも、それを繰り返すうちに論理的に話したり、判例を応用したりできるようになるんです。
 
3年間のロースクールで、最も大変なのが1年目です。この頃の成績が就職に強く影響します。と言うのもこの成績が、2年目以降に行うインターン採用の判断材料になるからです。そして、そのインターン先が、通常、卒業後の就職先となります。司法試験自体は、ロースクール卒業後、3カ月間予備校に行って、知識を詰め込み準備しますから、弁護士として考える力を蓄えるのが、ロースクールなのです。 ロースクール卒業後は、大手の法律事務所で、徹底的にしごかれた方がいいと思いました。それでニューヨーク拠点の事務所に4年、その後、オレンジ・カウンティーに引っ越し同地の弁護士事務所でさらに4年ほど働きました弁護士事務所では、「君は何をやりたいの?」なんてことは聞いてくれません。興味のある分野を、自分から上司であるパートナーに伝え、どんどんケースを担当させてもらい、実践を積むことが必要になります。私は、最初は破産法を担当しましたが、M&Aなどコーポレートの吸収・合併に興味を持つようになっていきました。
 
仕事を始めた当初は、夜中の12時過ぎまで仕事をして、朝9時にまたオフィスに戻るという生活を、1カ月続けたりということがざらでした。ある服飾メーカーが破産申請した時、1カ月間毎日4時間睡眠で対応しました。20代でしたからスタミナがありましたし、今思えば、この時鍛えてもらったのは、本当に良い経験になったと思います。
 
最初の事務所では、100人いた同期のうち、3年後に残ったのは30人程度。ノルマもありますし今考えるといつもプレッシャーを感じて、ストレスをためていましたね。 当時の仕事で特に印象にっているのは、ボストン近郊での病院買収の案件です。契約が成立しないと、100km圏内に病院がなくなるという地元住民にとっての一大事でした。買い手は見つかったものの、カトリック系の病院だったため、バチカンの許可を取ったりと、プロセスに手間取りましたが、無事に契約成立。企業の吸収合併と社会奉仕は通常結び付かないものですが、その時はコミュニティーに貢献できてうれしかったですね。
 
弁護士もサービス業。クライアントに手紙をもらったり、感謝のメールをもらったりした時は、寝ないで頑張った甲斐があったと、うれしい瞬間です。 ただ、大手の弁護士事務所にいる限り、女性としてバランスの取れた幸せな生活を送るのは難しいなと感じていました。皆さん、弁護士としては優秀な人ばかりでしたが、女性としてお手本にしたいと思う人はいなかったです(笑)。私は、娘と過ごす幸せな時間を大切にしながらも、一生弁護士でいたいと思っています。

法的環境を整え 事業拡大に貢献したい

弁護士事務所では、あまりチームワークを必要としませんでした。仕事さえきちんとこなせば、誰も何も言わないという実力主義の世界。大きな案件も担当でき、やりがいはありました。しかし、その案件が処理された後のクライアントが、どうなったかまでは知る機会がなく、次々と違う案件をこなさなければなりませんでした。徐々に何かを育てたい、チームとして働きたい、という気持ちが芽生えてきました。弁護士事務所に残るか、違う道を選ぶか迷っていた時に、現在の職場の顧問弁護士の話をいただいたんです。
 
Pacific Summit Energy は、日系企業の子会社で、一からみんなで立ち上げ、実績を積んできた会社です。スタッフは若く、情熱を持っており、いい刺激になります。日本語を活かすこともできるので、私には願ったりかなったりの職場です。私の仕事はあくまで会社がスムーズに業務を行うことができるように法的環境を整えること。そのためにもロースクールや弁護士事務所時代の仲間と密に情報交換したりしています。天然ガスは日本の原発問題もあり、最近さらに注目されているエネルギー資源ですし、これからは会社の事業拡大に貢献したいと思っています。
 
「Counsel」とは助言するという意味です。顧問弁護士として、自分から率先して同僚たちの輪に入り、法的問題を身近に感じてもらえるように配慮していくことが大切だと思っています。一緒にランチに出かけたり、部屋のドアを開けて声をかけてもらいやすいようにしたり、気軽に相談してもらえる環境を作っています。早い段階で知ることで、解決できる問題も多いんですよ。
 
仕事内容は、弁護士事務所にいた頃とはまったく違います。朝、家でiPhoneでメールをチェックして、オフィスに来たら同僚から色んな事項の相談をされたり、電話会議をヒューストンのオフィスとしたり。新規契約の際は、契約書や情報の秘匿ルールを作ったり、誰かを雇用することになれば、その条件などを法的に確認したり、会社全体の業務に携わっています。毎日のように大小ハプニングのようなことが起きるので、それに対応したり…。同僚たちと密接にプロジェクトを進めていくため、ミーティングの数も格段に増えました。人と話すことが好きなので、コミュニケーションを必要とする業務は楽しいですね。
 
相談されて難しい時には、ただ「ノー」と言うのではなく、なぜダメなのか、どんなリスクがあるのか、また、どんな条件なら実現可能なのか、答えを一緒に考えていくことで、信頼関係が生まれるとっています。とは言っても、はっきり「ノー」と言わなければならない場面もあります。そんな厳しい局面では、せめて笑顔を絶やさないよう心がけています。
 
現在は、仕事さえしっかりこなせば、勤務時間の裁量は任されているので、子供がいる女性とっても働きやすい職場です。娘にも母親が幸せに働く姿を見せられたらいいですね。仕事も母親業も手を抜かず、バランスを取りながらやっていくことが、今後の目標です。

コンサルティング ビジネスディベロップメント/マーケティング戦略(その他専門職):東島麻樹さん

目の前で求められることに一生懸命応える
それが次の道につながっていく

アメリカで自分を試すために渡米し、目の前で求められることに無我夢中で取り組むうちに、ビジネスディベロップメントの道に入った東島さん。亡父から教わった地道な積み重ねと人と向き合う経営スタンスで、実践的なコンサルティングを行う若き女性起業家として活躍する。仕事への思いとこれからの夢を聞いた。

【プロフィール】ひがしじま・まき
長崎県佐世保市出身。大学卒業後、日本で企業勤務を経て、1999年に渡米。UCLAエクステンションにて国際ビジネス修了後、国際法律事務所で会社法、国際法、移民法専門弁護士の下、リーガルアシスタントとして勤務。退社後、ベンチャー企業の立ち上げ、日系総合商社の新規事業開発担当を経て、2006年に独立し、Maki Higashijima & Associatesを設立。ビジネスディベロップメントとマーケティングに特化したサービスを通し、日米企業の米国、日本市場でのビジネスチャンス開拓、現地における事業展開に携わる。
www.maki-associates.com

そもそもアメリカで働くには?

国際的な仕事を求め 自分を試すために渡米

クライアントと共に展示会でのワンショット

小さい頃から父の影響で、英語やアメリカ人が近い環境にいました。父は佐世保で電気関係の会社を経営していたのですが、地元の日米協会や米軍基地ともお付き合いがあり、私も姉も小学生の頃から英会話を習っていました。なので、将来は英語を使う国際的な仕事をしたいと、自然に思うようになりました。
 
大学は京都だったのですが、卒業後は長崎に戻ることにして、当時地元で賑わっていたハウステンボスの園内ホテルに就職しました。そこは海外のホテルとの交流も盛んで、国際色が豊かだったんですね。私は、現場でホスピタリティーを学んだ後、営業本部に移り、来場するお客様をエンターテインするよりも、会社の運営の方に興味が深まっていきました。約2年間のサービス業の中で、人と接してビジネスをする営業の基礎と、日本の社会のルールを勉強させていただきました。
 
でも、本当の意味で国際的な仕事をするには限界も感じていて、アメリカで働いてみたいという気持ちが強まっていきました。思い立ったらすぐ行動する性格で、1年かけて準備をし、1999年からUCLAエクステンションで、国際ビジネスを学ぶことにしました。ビジネスが学べ、修了後にプラクティカル・トレーニングも発行してもらえる、まさに「オール・イン・ワン」だと思ったのです。
 
実際にコースを取ってみると、ビジネスに携わる社会人が多くて、授業のレベルが高く、最初は付いていくのが大変でした。ネイティブと同レベルでビジネストークできるようになるには時間がかかりましたが、必死に勉強して、2年の過程を1年半で修了しました。普通に大学で勉強するより実践的な知識が身に付き、講師も最前線で活躍している方が多かったので、色々なコネクションも作ることができました。その当時の友達とは、今も仕事やプライベートでつながりがあります。
 

実践の仕事で味わう事業開発の醍醐味

コース修了後は、弁護士事務所の求人に応募して、運良く採用されました。当時は、アメリカで数年働いて実績を作り、日本に帰って国際色の強い仕事に就きたいと思っていました。国際法や会社法などを勉強すれば、将来絶対プラスになると思ったのです。
 
仕事はテレビや映画で見る華やかなイメージとは対照的に、実務的な細かいことが中心。でも、弁護士の先生のアシスタントとして企業やコンサルタントの方とのやり取りに入らせていただき、会社運営や事業開発の実態を見られたのが良かったです。さまざまなプロジェクトの立ち上げに関わるうちに、アメリカでの経営や総合的なビジネスの仕組みを学びました。
 
2年ほどして仕事にも慣れてきた頃、日本からの米国進出を計画されていたお客様から「一緒にやってみないか?」とお誘いをいただきました。これまではアシスタントとしてサポートする立場だったのですが、「自分でやってみたい」と、思い切ってお引き受けしました。事務所探しから始まり、約1年かけて会社としての基盤作りに携わりました。これまでのノウハウを実践で活かすことができた、貴重な経験でしたね。
 
その過程で知り合った、当時日系総合商社の社長をなさっていた方から、「アメリカ向けの新規事業を立ち上げたい」と、お声を掛けていただき、その会社の経営企画で、事業開発担当として働くことになりました。それまでは、日本の本社が求める物をアメリカで調達することが中心でしたが、新規事業のミッションは、日本の背景に影響を受けない、アメリカ単独で利益を挙げられるビジネスを構築すること。可能性がありそうな事業のリサーチをし、マーケティングする。事業の立ち上げは、小さい会社1つ立ち上げるのと同じだけの知識が必要になるため、猛勉強して実践を重ねていきました。
 
この仕事も約2年で転機が訪れました。会社が新規事業を縮小する方向になり、その時携わっていた企業様から、引き続き力になってほしいというお話をいただいたのです。自分を求めてくれる方の期待に応えるのに一番動きやすい形を探ったら、それが独立だったわけです。「こういう仕事がしたいから起業する」とか、「起業したから成功しなければいけない」という「欲」みたいなものは何もなくて、ただ目の前で求められることに一生懸命応えることだけ考えていたら、こうなったという感じです。私の場合、自分にできることを無我夢中でやっていたら、また次のお話をいただき、つながっていっているのですね。
 

父に教わった経営の真髄は地道な積み重ね

起業を決めた時、父がどんな風に会社を経営しているか、興味を持ちました。それで、最初の仕事が始まるまでの1カ月間、長崎に帰り、父に弟子入りしました。父は、ビジネスの場には絶対家族を出さなかった人ですが、その時だけは顧客先にも連れて行ってくれました。
 
経営者の方はよく、「経営者は周囲が思っているより孤独で、派手なものじゃない」と言われますが、父に関しても「こんなに地味なことを何十年もやり続けていたんだ」と、改めて尊敬の念を感じました。父のところにはさまざまな人が相談に来ていましたが、父は皆が主張することを全部聞いた上で、「こうしてはどうか」と提案していました。会社の規模の大小に関わらず、経営は地道なことの積み重ねで、実践と経験による力が大事だと実感しました。
 
「麻樹もこれから頑張るんだから、わしも負けんように頑張らんば」。父と別れの言葉を交わしてロサンゼルスに戻ったところ、2日後の真夜中に、「お父さんが原因不明の急病で、息ができなくなった」と電話が。翌朝の便に飛び乗りましたが、帰国してまもなく突発性の難病で亡くなってしまいました。
 
起業してすぐは、さまざまな厳しい現実にぶつかりましたが、父に地道な積み重ねを見せてもらっていなかったら、派手なことを夢見て投げ出していたかもしれません。父もとても喜んでくれていたので、どんなことがあっても3年は止められないと決意して、頑張れたのだと思います。当時のお客様にもとても支えていただきました。やはりビジネスの根底は、絶対に「人」なんですね。会社を無機質な団体と捉えることもありますが、仕事をする時は、人と人だというスタンスで向き合うことが大切だと思っています。
 
私の仕事は、新しい事業や商品、サービスを始めようとする際に、アメリカの市場の扉を開くイメージです。前準備のリサーチ、分析、戦略マーケティングから、実際のアプローチまでご一緒します。コンサルティングと聞くと、机上だけの仕事を想像すると思いますが、私の場合は、実践でどう動くかというところまでカバーします。お客様と一緒になってノウハウを作り上げ、いったん軌道に乗ったら継続できる組織を作って、引き継ぎます。全体を通して外交的要素が非常に強く、ビジネスを作り上げていく過程に携われることは、とてもうれしいですね。
 
これからは、アメリカの会社が、世界中でビジネスを拡大することにもっと関われたらうれしいですね。日本人の特性を活かすだけでなく、日米で通用する人になりたいです。アメリカに来て、「こうなりたい」というものがないと、人生の迷子になることが多いんです。日米2つの舞台で色々な選択肢があるから、どれが一番の近道かわからなくなってしまうんだと思います。でも、目の前にあることを一生懸命やってみれば、点が線につながっていきます。今は疑問に思えるようなことでも、無駄なことはありません。先でその経験をどう活かせるかは自分次第なので、頑張ってほしいと思います。
 

 
(2010年5月1日号掲載)

レジャースキューバダイビング・インストラクター(その他専門職):幸村公英さん

体力が続く限り教えて
ダイビングの楽しさを多くの人に伝えていきたい

プロゴルファーになるために渡米したが、腰を痛め断念。その気晴らしで初体験したスキューバ・ダイビングの魅力の虜となり、インストラクターの資格を取得した幸村さん。カリフォルニア州では数少ない、フルタイムの日本人ダイビング・インストラクターとして活躍する。その醍醐味を聞いた。

【プロフィール】こうむら・まさひで
;愛知県出身。高校卒業後、1996年にプロゴルファーを目指し、ロサンゼルスに留学する。1年後、腰を痛め、プロゴルファーの道を断念、カレッジで語学留学。その間に出会ったスキューバ・ダイビングの魅力に魅せられ、インストラクターを目指す。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に編入後、在学中にNAUIインストラクターの資格を取得。05年に日本へ帰国し、06年末に再渡米。07年からハンティントンビーチにあるOcean Gear Dive Centerにてインストラクターとして勤務。www.LASeaBlue.com

そもそもアメリカで働くには?

ゴルファーからダイバーへの転身

血気盛んなアメリカ人高校生たちのはやる気持
ちを抑えつつ、ダイビングの安全と楽しさを伝える
のが、インストラクターとしての腕の見せ所

高3の時にゴルフ留学を決意。高校卒業後、プロゴルファーを目指して、1996年にロサンゼルスに来ました。渡米後、1年くらいレッスンを受けていたのですが、昔からあまり良くなかった腰を痛め、言葉の壁もあって挫折してしまいました。実は今でも未練はあって、たまにクラブを握ると、昔の思い入れが甦ってきたりしますね(苦笑)。
 
ゴルフのレッスンを断念し、カレッジに入りましたが、身体を動かすのは好きだったので、ソフトボールや野球を軽くプレイしていました。そんな時、「ダイビングに行こう」と誘われて、あまり海は好きではなかったのですが、一度やってみようと出掛けました。最初は難しかったのですが、だんだん慣れてきて、楽しさがわかってきました。
 
特にカリフォルニアは、ダイビングで「ハンティング」ができるんです。潜っている最中にエビを取ったり、ウニを取ったり、魚を突いたり。最初はそれにすごく夢中になって。4年制大学に編入した後も、気が付いたら授業の空き時間はほぼ毎日潜っていた感じです。
 
いつも一緒に潜っていた日本人インストラクターが、ある時「ちょっと教えてみるかい?」って、手伝わせてくれたんです。40代や50代の方も生徒として来ていて、当時22、23歳の僕に「今までこんなに感動したことなかったよ」と、すごく感謝してくれました。「こういう仕事ができたら、すごく幸せだろうな」と、その時思ったのが、インストラクターを目指したきっかけです。お世話になっていたダイビングショップが、インストラクターの養成もしていたので、学校に通いながらインストラクターの授業を取り始めました。
 
スキューバ・ダイビングには、まずビギナーコースがあり、その上にアドバンス、さらにマスター・スキューバダイバーというレクリエーションの範囲では1番上のクラスがあります。インストラクターになるには、そこからさらに、リーダーシップコースに進まないといけないんです。リーダーシップコースでは、〝ダイブマスター〞といって、免許を持っているダイバーをガイドできるライセンスを取ります。
 
ビギナーコースですと、教材を渡され、プールで2~3回、海で行うスキルを実習します。それから水泳のテスト。アドバンスでは、ナイトダイビングやディープダイビング、コンパスを使ったナビゲーション、水中カメラ、サーチ&リカバリーといった色々なダイビングのスタイルを勉強します。マスター・スキューバダイバーのコースは、すべてのダイビングスタイルを修得し、物理学などのアカデミックな勉強が中心となります。難しかったですが、やりがいがありましたね。
 
リーダーシップコースは、どうやって生徒を教えるかというティーチングスキルを磨きます。アシスタント・インストラクターを経て、その上がインストラクターです。僕が所属するNAUIという団体では、インストラクターは、ダイブマスター、アシスタント・インストラクターにも教えることができます。
 
インストラクターになるわけですから、現場に出て実際に教えないといけない。コースディレクターの前で生徒に教え、それが採点されます。それからアカデミック・プレゼンテーションやプール、海洋でのプレゼンテーションがあったり。また、リーダーシップのダイブマスターになるには、最低でも60本の海洋実習が必要です。スキルチェックでは、900ヤードを18分以内にスキンで泳いだり、25ヤード素潜りしたりします。それらをすべてパスすると、最後に100問の筆記テストを受け、それをパスすれば、晴れてインストラクターです。
 
1つのコースは、集中すれば1カ月程度で終えられます。リーダーシップコース修了まで半年という人もいますが、僕は3、4年かけて修了しました。早く取ることよりも、どれだけ経験を積むかが重要だと思ったので。
 
資格を取得してから、05年に1度日本に戻りました。日本に帰る前にショップから「ウチで働かないか?」と誘われたのですが、ビザの問題があったので、いったんはお断りしました。しかし、06年末に再渡米でき、ショップの方から「働くか?」という言葉を再びいただいたので、07年からインストラクターとして働き始めました。
 

身体の疲れがたまっても常に集中力を持続させる

水の中に入ってしまえば、ハンドシグナルで通じるので、言葉の壁はまったく感じません。ですが、教えるとなると、生徒が完璧に理解していないと安全に関わります。1度で伝わらないことが、未だにたまにあるので、英語はやはり大変ですね。元々、日本人の生徒を教えようと思っていたのですが、日本の方にとってカリフォルニアの海は、ダイビングよりサーフィンなんですね。だから、生徒さんが付かなくて。幸いショップが現地の高校の体育を教えるプログラムを持っていたので、今、インストラクターの仕事のうち95%は英語を使っています。多い時には1クラス生徒が36人います。それでも全員にちゃんと理解させないといけない。最初は言葉のハンデもあって、どうしたらわかってもらえるだろうって、途方に暮れました。しかも、僕も高校生の時はそうだったんですけど、わからないけど、わかったフリをするんですよね(苦笑)。
 
また、ダイビング中にパニックを起こす生徒もたまにいます。ですが、そういう時でも、意外に冷静でいられます。インストラクター見習いの時は、パニックになっている生徒を見ると、こっちもパニックになりそうでした。しかし、インストラクター・トレーニングコースで、教官に助けてもらって四苦八苦しながら切り抜けた経験が、今すごく活きていると感じます。
 
カリフォルニア州に関して言えば、ダイビング・インストラクターはパートタイムの人が圧倒的に多いんです。僕は月曜から金曜まで朝7時半から高校に行って、午後2時までずっと教えています。朝早起きして、ギアを何個もセットアップして生徒を教え、土日は海で教えることもあります。休みなく働いていると、身体の疲れも蓄積してきます。しかし、いつも集中力を切らさないよう心がけています。
 

ダイビングの醍醐味を多くの人に伝えたい

趣味で潜るのと、インストラクターとして潜るのとでは全然違います。趣味で潜るのは自分の楽しみ。ですが、教えていると生徒の喜ぶ顔で、自分も幸せになれます。教えている時に笑顔が浮かぶのが一番うれしいですね。生徒も真面目にずっと教えられていたら長続きしないので、笑いを取って、楽しい授業にしていくのが僕のポリシー。教え始めたばかりの時は、言うことを聞かない生徒にイライラしてしまっていたんですけど、最近は、そういう生徒をうまく使って笑いを取りながら授業を進めると、他の生徒も笑ってくれるし、自分もイライラがなくなることがわかりました。
 
この仕事で高給を得るは難しいので、ダイビングが好きで、人と話したり、教えることを楽しめないと長続きしないと思います。昔は自分のショップを作りたいという夢がありましたが、そうすると経営メインで、教えることができなくなってしまいます。だから、今は体力が続く限り教えて、たくさんの人たちにダイビングを経験してもらいたいです。
 
水中で30~40分も魚と泳いでいると「なんで魚と一緒に泳げるんだろう」って、不思議な気持ちになります。僕はその不思議な感覚に魅せられて人生が180度変わってしまいました。だから、日本の人たちに、もっとダイビングの楽しさを伝えていくのが、僕のこれからの目標です。
 

 
(2010年4月1日号掲載)

Kevin’s Entertainment President & CEO(その他専門職):三石勇人さん

思いがけないチャンスが転がっている
それがハリウッドの面白いところ

カナダのトロントで生まれ育つも、人一倍日本人としての意識を強く持ち合わせた三石さん。高校時代はニューヨークで、大学から20代全般を日本で過ごす。英語ができるからと外資系企業を選ばず、日本企業に就職。そこでの経験とMBA取得を経て、現在は日米エンターテインメント界の架け橋になるべく邁進している。

【プロフィール】みついし・はやと
カナダ生まれ。日系小売商店経営の両親の下、16歳までトロントで暮らす。慶応義塾ニューヨーク学院(高等部)への進学と共にアメリカに移り、日本人学生の中で生活をスタート。19歳で、慶応義塾大学商学部進学のため、初めて本格的な日本生活を開始する。1999年、卒業を機に日本の商社に就職、環境ビジネスを担当。2005年の退職まで、ビジネス全般を学ぶ。同年UCLAのビジネススクールに入学し、07年にMBAを取得。翌08年、Kevin’s Entertainmentを設立した。

そもそもアメリカで働くには?

独裁的な性格にハッと気付いた高校時代

メンバー全員で撮ったスナップ。
自分1人だけではなく、メンバーと共に
成長していきたいと、三石さんは語る

私は、カナダで日系小売商店を経営する両親の下で生まれ育ちました。父は教育にとても厳しい人。私が日本語を不自由なく使えるのも、父が厳しかったおかげです。家では日本語を話さないと叱られましたし、妹と話す時も徹底して日本語。その上父は、家では絶対的な存在でしたから、決して逆らえません。「自分がやると言ったことは、必ず実行する」という意識も、父から叩き込まれました。
 
当時の私は、日本人としての意識がとても強かった気がします。6歳から剣道を始めるなど、多民族国家のカナダで、「自分は日本を代表しているんだ」という意識を持って生活していました。
 
16歳の時、親元を離れて慶応義塾ニューヨーク学院(高等部)に進学。理由は、カナダ以外の場所で挑戦してみようと思ったからでした。初めての1人暮らしや日本人だけの学校生活で、特に困ったことはありませんでした。むしろ、親から離れられてうれしいくらい(笑)。まだ創立2年目の新設校でしたから、自分で剣道部を作っちゃいました。昔から、何でも自分が先頭でないと嫌なタイプ。時にはちょっと独裁的でした。自分が立ち上げた剣道部でも、「皆を引っ張って行くのは俺の仕事」と、体育会系のノリでしたね。
 
でもある時、「お前、その性格だと皆とやっていけないよ」って同級生に言われたんです。それで「ハッ」としました。それまで、そんな自分の性格には気付いていませんでしたから。それ以降は、周囲の状況に合わせるよう気を遣うようになり、逆にその方が、物事がスムーズに進むこともわかりました。
 

日本の中堅商社でビジネス全般を学ぶ

高校卒業後は、慶応義塾大学商学部に進学しました。大学では、剣道サークルに参加。代表をサポートする主務を務め、仲間とも深い絆が生まれました。また、商学部内のゼミで構成される「商学部ゼミナール委員会」の常任委員を務めると同時に、、各学部のゼミナール委員会を統括する「全塾ゼミナール委員会」にも、商学部代表として就きました。いわゆる慶應のエリート集団のような委員会でしたが、私は、頭が良くて選出されたというよりは、日本以外のバックグラウンドを持った、ユニークな人材として選ばれた口。委員会に新風を吹き込む「多様化要員」みたいな存在でしたね(笑)
 
大学卒業と共に、日本で就職活動を始めました。私は海外生活が長かったのですが、外資系企業ではなく日本企業に就職し、日本のビジネスのやり方や意思決定プロセスを勉強したいと思っていました。将来的にアメリカで就職する際、日本の企業で、日本のビジネスマンとして働いた経験の方が役に立つと思ったんです。いずれはアメリカでMBAを取ろうとも考えていました。
 
当時、私の会社選びは、「中規模で全体が見渡せる会社」が基準でした。結果的に内定したのが、松田産業という中堅商社。1999年のことでした。その会社は、貴金属、環境、食品の3部門で構成されており、私は環境部門に魅かれて入社。当時は、「どうせお金を稼ぐなら、良いことをして稼ごう」って、社会正義に燃えていました(笑)。
 
運良く会長にも気に入られ、新入社員にも関わらず色んな経験をさせてもらいました。入社当初は環境部門ではなく、本社の経理や経営企画室を歴任しましたが、2001年1月には、ドイツとの環境合弁会社「ゼロ・ジャパン」に念願の出向。そこは小さな会社だったため、営業、経理、総務、法務など、ビジネス全般を任され、色々勉強できました。
 
04年にゼロ・ジャパンの社長にMBA受験と退職を相談したら、「やりたいことをやれ」って応援してくれたんです。推薦状まで書いてくれ、辞める私に、今度は松田産業本社の社長が功労金までくださった。金額よりも、その気持ちがとてもうれしかったですね。
 

〝クールでユニーク”これをキーワードに渡米

学校は、UCLAのビジネススクール(UCLAアンダーソン:以下アンダーソン)に入学しました。そこで、エンターテインメントビジネスを専攻。元々好きなエンタメの世界とビジネスが一緒になったその分野こそ、自分のやりたいことだったからです。
 
当時私は30歳。日本人のステレオタイプを壊すべく、学校では「”クール&ユニーク”な日本人」を意識して行動していました。ある日、学校で「Anderson’s Next Top Model」という大会がありました。これは、『America’s Next Top Model』というTV番組を模した企画で、投票で学校のトップモデルが選ばれるんです。そこで、見事私が優勝(笑)。金髪で背が高く、もっとかっこいい男性がいっぱいいたなかでの優勝に、大きな自信が付きました。「日本人でもいけるんだ!」って。
 
アンダーソンには、世界中のエリートが集まります。彼らと勉強をし、遊び、けんかしたりして一緒に過ごすことで度胸と自信が付きますし、難しいことを話されても、相手と同じレベルで会話ができ、どんな場面でも圧倒されなくなりました。
 
07年6月にアンダーソンを卒業し、就職活動をはじめました。在学中から色んなエンタメ企業でインターンをやっていましたが、やはりこの業界に入るのは難しい。2カ月ほどは無職でした。ある日友人から、「20世紀フォックスで日本語が話せてファイナンスができて、エンタメに精通している人材を探している」と電話があり、面接を受けると運良く契約社員として合格。その間、正社員になるための就職活動を続けるものの、脚本家の大規模なストライキが発生し、ハリウッドは大混乱に。フォックスも正社員の雇用を凍結。このままではまずい。どうすべきかさんざん考えた結果、「起業」することを思い付きました。そして、日本のエンタメとハリウッドをつなげる架け橋となるべく、08年の3月に「Kevin’s Entertainment」を設立しました。
 

日本の存在感をハリウッドで高めたい

現在は、「タレントマネージメント」「コンサルティング」「映画やテレビのプロデュース」などを主要業務としており、タレントは3人抱えています。エージェントは仕事を取って来るのが仕事ですが、マネージメントは、タレントと共にキャリアを築くのが仕事。オーディション情報の取得や応募方法の伝授、タレントのプロモーション、レジメの書き方、エージェント探し、エージェントや制作会社との交渉、そして心のケアまで幅広く行っています。とは言え、ようやくスタートラインに立てた感じ。これからは、ハリウッドで活躍しているプロデューサーやディレクターなど、〝本物のハリウッド人脈〞を構築する必要性を感じています。
 
ハリウッドって、実際住んでいると普通にチャンスが転がっているものなんです。逆に、日本よりも挑戦しやすい環境で、やればやるほど自分に返って来るし、予想していないチャンスが舞い込んで来る。それがハリウッドの面白いところ。
 
現在日本のエンターテインメント業界は、凄い勢いで変化しています。収益の柱がテレビスポンサー一辺倒だったのが、良質の作品を作ることによって、消費者から直接収益を得ようというハリウッドスタイルに変わりつつあります。そして、日本の制作側も国内だけではなく、世界に受ける作品を作ろうとしています。そういう時に私が日米の間に立ち、日本の存在をハリウッドで高めたいと思っています。「ハリウッドでビジネスするなら、Kevin’s Entertainment」と言ってもらえるように、日米のエンタメ業界をつなぐ橋渡し的な存在になる。それが私の夢ですね。
 

(2009年12月1日号掲載)

Bank Branch Manager/ Vice president(その他専門職):齋藤源太郎さん

支店長として僕がすべき仕事は、
「社内と社外のカリスマ」になること

アメリカで生まれ、日本帰国後もアメリカに戻って仕事をしたいという夢を実現した齋藤さん。日本での職とは違う分野の銀行で、人の2倍働いて支店長に。「かっこいい日本人」になって、若い世代の人たちの可能性を引き出してあげたいと話す齋藤さんに聞いた。

【プロフィール】さいとう・げんたろう◎ニューヨーク生まれ。8歳までパサデナで過ごし、日本へ帰国。1996年中央大学法学部へ進学し、3年の時にニューヨーク州立大学アルバニー校へ編入。2年で学士号を取得。帰国後日本でも大学を卒業して、2001年より富士通株式会社に入社。海外営業部で3年半働いた末、2004年に再渡米し、05年よりユニオンバンクに入社。現在ガーデナ支店の支店長として活躍中

そもそもアメリカで働くには?

日米の文化のギャップに戸惑った学生時代

セコイア国立公園にある湖でマスを13匹釣り、
テントで仲間たちとキャンプ

ニューヨークで生まれて、2歳から8歳までパサデナで過ごしました。帰国後、名古屋で公立小学校に入りましたが、かなりのギャップに苦しみました。例えば、明るく活発な人は不良と見なされること。アメリカでは通常、活発なことはリーダーシップと同様に高い評価を受けます。公立中学に入ると、周りはいい成績を取るのに命をかけ始め、友達の家に遊びに行っても特に会話はなく、個人個人がゲームをしたり漫画を読んだりで、相当なカルチャーショックが重なりました。
 
この様子を見かねた親が、姉が通っていたインターナショナルスクールに中学1年2学期から編入さてくれました。これが人生の転機となりました。ようやくそこで「廃人化」していたところから、個性とエネルギーが復活してきましたね。中学時代に1度、YMCAの夏休みのプログラムでサンディエゴに17日間ホームステイしました。久しぶりのアメリカに「うわっ、やっぱり西海岸がいい!」っていうのを再確認できました。色んな人種がいて、気候が良くて、誰とでもフランクに話せるのがとても心地良かった。大学時代にバックパック旅行でLAを回った時も確信しました。
 
中央大学法学部に入学しましたが、将来のキャリアを考えるうちに「英語でしっかりビジネスができるようになりたい」という想いが募ってきました。そこで3年生の後期から、ニューヨーク州立大学アルバニー校へ編入することにしました。日本の大学の単位をトランスファーして、2年間でアメリカの学士号を取ろうって決めたんです。行ってからは毎日必死でしたね。40ページのレポートを普通に出さなくちゃいけないとか、毎日膨大な資料を読んで予習復習しないとついていけないとか、そのボリュームに驚きました。2年間しかなかったので、「1秒も無駄にしたくない」と、猛勉強。そして無事2年間で学士号を取得して2000年に卒業しました。でも、この留学経験があったから、今アメリカで誰とでも対等にビジネスができる下地ができたと思います。
 

大手企業で身に付いた仕事体力とバイカルチャー

日本に戻ったら今度はすぐ就職活動。自分が将来何をしたいかを考える余裕もなく、父のアドバイスを元に、1番最初に内定をくれた富士通の国際営業事業部に入りました。国内の外資系企業の営業だったので、国際営業部という名前とは逆に、東京の都心でクライアントと自社のオフィスを往復する日々。でも、大きな取引先を持たせてもらえたので、アメリカ人のCIOにプレゼンできる機会があったり、一流のエンジニアとも仕事ができました。システムの仕事は業務量も膨大で、毎日15時間、土曜日も毎週働く仕事漬けの生活。また日本の大手企業の象徴のような会社だったので、社内に対する根回しが必要だったり、仁義を欠くと「あいつはわかっていない」と言われる。入社してすぐの頃から「27歳になったら外に出たい」って思っていて、行くなら幼少期を過ごしたLAって決めていました。でもこの経験で集中力を持続できる「仕事体力」が身に付き、今でも自分の強い武器になっています。
 

会社を辞めて念願の渡米銀行の支店長職への転身

04年の秋にLAに来ました。結局3年半働いてエネルギーをすべて消耗したので、しばらくは放心状態。何もする気が起こらず、半年はサッカーしたり友人と遊んだりして過ごしました。でもこれは自分を見つめるのに必要な時間でした。その時考えたのが、仕事で色んな人と会いたい、ネットワークを作っていきたい、そして、楽しい仲間がいる環境で働きたいということ。200万円あった貯金もゼロに近くなったので、とりあえず小さなITの会社で営業を始めました。その時ユニオンバンクの人事が、求人サイトに登録した僕のレジュメを見つけて連絡をくれたんです。支店長候補の研修生としてうちに来ないかという誘いでした。
 
最初半信半疑でしたが、面接に行ったらちゃんと本物の人事が出てきた(笑)。まったく違う畑なので少し不安でしたが、とにかく頑張るしかないと、富士通の時のように必死になって働きました。ほかの人を見てると、8時間で体力がなくなっちゃうんですね。僕より頭はいいけど2倍も違いはない。じゃあ単純に僕は2倍頑張ろうっていうのをずっと続けて、今日に至ります。
 
研修中は3カ月ごとに違う支店に行きましたが、その後正式配属され、1番長かったウエストLA支店には3年いて、今年の10月からガーデナ支店に移りました。僕たちの仕事は「預金の確保」「ローン・ファイナンス」「投資」と、それに付随する「フィー・ビジネス」の3・5本の柱で成り立っていて、難しそうに見えて実は単純なんです。ここで最も重要なのはカスタマーサービス。サービス業では、窓口に立つ最前線の人たちのカスタマーサービスが悪ければダメなんです。いくら営業でたくさんお客さんを連れて来ても、サービスが悪ければ穴が開いたザルと同じで逃げていきます。社員1人1人にカスタマーサービスの重要性を伝えて背後を固める努力が必要です。
 
そのために支店長として僕がすべき仕事は、「社内と社外のカリスマ」になること。社内の人全員が「この人のために働きたい」と思ってくれたら、やっぱり仕事する姿勢も変わってくるし、カスタマーサービスにも表れてきます。日系アメリカ人にも、インターナショナルにも、どの方にも、ここの銀行が最高だと思ってもらいたい。明るいコミュニケーションで、献身的にお客様のことを考えてる、そんなカスタマーサービスを徹底して作りたいですね。
 
お客様のお金をお預かりするというのは、一緒に生きていくというようなビジネスです。その中でも色んな人生の局面があって、ご結婚されたり、お子さんができたり、お孫さんができたり、どなたか亡くなってしまったりとか、そういうすべてを含めて、継続してお付き合いしていきたいです。「バンキングのことは彼に聞いたら間違いない」って言ってもらえるような人に僕自身もなりたいし、僕のチーム、銀行全体にもそうなってほしいですね。
 

目標は次世代の可能性を引き出すこと

「人、物、金」ってよく言いますが、その中ではやはり「人」が残るわけです。この先、10年、20年、30年後に自分の人生を振り返って、「素晴らしかったな」って思えるには何をすべきかって考えると、人の可能性を育てて、人材を残していくこと。僕のアドバイスとか言動で、近道ができたとか、元気をもらったとか、人生が変わったとか…。「千里の道も1歩から」って言うように、いくら遠くても光は見えるっていうことを伝えていきたいと思います。
 
後は、かっこいい日本人がたくさん出てきてほしいですね。今、日本には目標にしたいと思える人がなかなかいなくなっている気がするんですね。ビジネスでは活躍してるけど、どうもカッコ良くない。こちらで仕事をしていると、「うわぁ、すごい」って思える人たちに出会うことが結構あります。熱いパッションを持っていたり、生き様がカッコいい、そういう日本人を若い人に見せてあげたいですね。年代を問わず、そんなオールスターズを結集して、これから将来を担っていく若い世代に対して、彼らの可能性を引き出してあげられる力になれればと思います。
 

 
(2009年11月1日)

映像翻訳者(その他専門職):藤田彩乃さん

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は映像翻訳者の藤田彩乃さんを紹介。英語の映画やTV番組に日本語の字幕や吹替えを付けるのが仕事。
『American Idol』から『National Geographic』まで幅広く手掛ける。

【プロフィール】ふじた・あやの■富山県出身。早稲田大学第一文学部卒業。大学2年生の時に交換留学生としてCSUサンフランシスコで学ぶ。大学在学中に日本映像翻訳アカデミーで学び、大学卒業と同時に同校併設のエージェントであるメディア・トランスレーション・センターに職。2008年、同校がロサンゼルスに支社を設立するのに伴いLA駐在員となる

そもそもアメリカで働くには?

毎回の仕事がトライアル
女性が働きやすい業界

Reality TV翻訳チームのパーティーにて。
翻訳ディレクター&チェッカーとして、
30~40人の翻訳者をまとめた

大学2年生の時に交換留学生として、サンフランシスコに10カ月間、留学しました。帰国したら就職活動は始まっていて、どういう職業に就きたいかと考えました。翻訳の仕事はずっと興味があったので業界誌を読んだら、いくつか養成学校が載っていて、その中から日本映像翻訳アカデミー(JVTA)の説明会に参加しました。
 
説明会では、字幕と言っても映画だけじゃなくて、DVDの特典映像からCS放送の外国ドラマ、ニュースまで色々あって、需要も増えていることを知りました。映画に限ると間口は狭いけれど、映像全般に視野を広げると映像翻訳のニーズは年々増えており、さまざまな人が活躍し始めているという話に、「なるほど。やってみたい!」と期待が膨らみました。大学4年時に単位を取るのと並行して、JVTAでは基礎コースと実践コースを学びました。
 
大学卒業とコース修了のタイミングがうまく合い、JVTAの翻訳受注部門でコーディネーターの仕事に就くことができました。当時、Reality TVやBBCなどの開局ラッシュだったのも幸いしましたね。コーディネーター業務のかたわら、週末や自分の空いた時間は、フリーの映像翻訳者として、National GeographicやDiscovery Channelのドキュメンタリー、FOXのドラマ『House』などの日本語字幕の仕事もこなしました。
 
フリーランスで独り立ちするのは、最初のきっかけをつかむのが大変なので、専門スクールで力を付け、就職支援を受けながら仕事に結び付けていく道筋がオススメです。どの業界でも同じですが、フリーランスは自分が上げた原稿の品質がすべてなので、毎回の仕事がトライアルのようなもの。ただ、今では映像翻訳者一本でやっている人もかなり増えましたし、業界には女性の先輩が多いので、女性にとっては働きやすいと思います。
 

意味不明な表現が1カ所でもあったらダメ

JVTAがロサンゼルスに支社を設立する際の担当スタッフに任命され、昨年2月に渡米しました。マネージャーとして管理実務に携わる一方、それまでと同様に英日映像翻訳や日本のアニメや映画の日英映像翻訳など、翻訳実務のディレクションも私の仕事です。アメリカに来てからは時間がなくて、フリーの立場で映像翻訳を手掛ける機会がないのが残念ですが、時間ができたらぜひ再開したいですね。
 
アメリカで映像翻訳をするメリットですか? 
テレビ番組や時事問題に関わる映像では、現地にいれば事実関係や付帯情報を、適確に、瞬時に捉えることができます。例えば、ある人物がインタビューで前夜の『Saturday Night Live』の話題を口にしたとしましょう。日本で同番組を見ることができなければ、優秀な翻訳者でもお手上げですよね。反対に気を付けなければならないのは、アメリカで英語漬けの生活に慣れると、気付かないうちに日本語力が下がること。バランス良くブラッシュアップする努力が必要です。
 
映像翻訳では「1つの正解」はありません。ディレクターの好みになるべく近付けるテクニックや、視聴者を納得させる完成度の高い翻訳が求められます。自分が作った字幕がそのままオンエアされるつもりで取り組む覚悟が必要ですね。
 
字幕は文字数制限との戦いでもあります。毎秒4文字が原則で、句読点は使いません。1行の文字数も限られています。セリフを全部字幕に翻訳しようとしたら、画面の半分くらいが文字で埋まってしまいますよね(笑)。ですから、情報を取捨選択できる力も必要です。日本語字幕の場合、漢字とカタカナ、平仮名のバランスにまでこだわるんですよ。
 
日常生活で出会う翻訳文には、直訳調で表現が難解なものが多い気がしませんか?
しかし、字幕では一読して意味が分かりにくい表現が1カ所でもあったらアウト。JVTAの受講生時代に、そうしないための訓練を徹底的に受けました。
 
講師から言われた言葉で未だに覚えているのが、「一瞬で理解できない字幕は、画面を汚すだけ」。あいまいな言葉や一読でわかりにくい不親切な字幕は、多くの制作者が大切に思う作品を汚しているだけだという意味です。映像翻訳に関わる私たちにとって、厳しくも意味深い教訓であり、いつも思い起こすようにしています。
 

感受性を豊かにして
好奇心を持つこと

映像翻訳をやっていて厳しいと感じるのは納期です。30分の番組で1週間くらい、60分で10日弱です。作業時間の3~4割をリサーチ、つまり調べものが占めます。図書館に行って資料を探したり、辞典を調べたり、もちろんネットとは常ににらめっこ状態。適当な訳語が見つかられないジレンマは毎度のことで、自分の語彙力のなさにヘコむこともあります。
 
逆に訳文が映像に上手くハマった時は爽快です。自分が字幕を手掛けた作品がオンエアされたり、DVDになっているのを見た時もうれしいですね。
 
作業中は幾度となく放り投げたくなるんですが、必死になってやった作品が仕上がると、感激もひとしおです。そういう小さな喜びの連続に支えられて何とかやっているのかもしれません。
 
映像翻訳の仕事を目指す人に向けてのアドバイスは、専門スキルを学ぶ前に、とにかく色々な番組や作品を見ることだと思います。字幕がどういうものか知らないと、字幕は作れませんからね(笑)。たくさんの字幕や吹替えの実例を身体で感じ取った上で、演習を積み重ねるのが近道です。
 
もう1つ、感受性を豊かにして、好奇心を持つことも大事です。苦手意識を作らないで、どんな映像と向き合っても、まずは自分が楽しめる人が向いているかな。見慣れない映像でも、色々調べているうちに面白くなることはよくあります。また、最初のうちは自分が納得する訳文ができるまで時間を惜しまないこと。時間をかけた訳文は、プロが見ればすぐにわかりますから。努力を注ぎ込んだ原稿は、必ず評価されます。
 
今後は、日本のユニークな作品をアメリカに紹介する事業を進めていきたい。映像翻訳を通じて、米日の言語や文化の壁を少しでも取り払う存在になれればと思います。
 

 
(2009年5月1日)

調停人(その他専門職):ロッキー森さん

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は調停人のロッキー森さんを紹介。法廷で闘うのが弁護士なら、裁判せずに当事者を歩み寄らせて和解させるのが調停人。離婚などの家庭内問題や家主・テナント問題など、民事関連一切を扱う。

【プロフィール】ろっきー・もり■宮崎県出身。一家で渡米後、ロサンゼルス・コミュニティーカレッジを卒業し、経理、営業などを経験。1976年、宮崎県人会を発足。「アメリカ宮崎桜の会」を設立し、レーガン博物館などに300本の桜を植樹。2005年にカリフォルニア州公認の調停人資格を取得する。ベンチュラ調停人委員会メンバー、ベンチュラ郡上級裁判所調停人

そもそもアメリカで働くには?

日本人初のバンドメンバー
独特なことをしたい

父は戦前、サンタマリアでイチゴ園をやっており、太平洋戦争直前に帰国し、私と弟妹は宮崎県で生まれました。1960年に一家で渡米しました。私たちが落ち着いたのはニュージャージー州のシーブルック農園。この農園オーナーのシーブルックさんは戦時中、収容所の日系人数千人を支援した人で、農園界隈には仏教会やキリスト教会まである日系コミュニティーができていました。
 
当時、私は高校2年生で、英語は全然わかりませんでした。でも、日本で吹奏楽部に所属していて、英語は読めなくても楽譜は読めたので、現地の高校でも吹奏学部に入部しました。マーチングバンドで演奏していた頃、アメリカ人の友達ができて、英会話を習うと同時にバンドを結成、ギターとベースを担当していました。
 
64年にロサンゼルスに引っ越し、私はロサンゼルス・コミュニティーカレッジに入学して会計を勉強しました。卒業後は会計の仕事をしていましたが、日系TV局のセールスマネージャーをやらないかと誘われて転職しました。その頃、スポンサーとは日本式の付き合いで、毎日のように食べて、飲んで、ゴルフして、という生活でした。
 

野茂選手の入団スクープで
交渉の必要性を実感

桜の植樹に際して、シミバレー市長(右)と

その後15年近く、経営やマネージャーなどのレストラン業務を経て、留学生やホームステイ受け入れ会社を設立、留学生斡旋業をしながら日本では英語サマーキャンプなどを開催しました。そうした中、89年に知り合いの紹介で大手日系旅行会社の下請け業務を行う会社も作り、一般旅行者対象の観光案内業務も始めることにしました。朝早くから夜遅くまで拘束され、かなりきつい仕事でした。
 
しかし、今の仕事につながるきっかけが、この時に生まれました。95年にスポーツ新聞関係者と2週間の契約で、野茂選手の大リーグ入団のスクープを追いかけたのです。野茂選手がどこにいるのかもわからないし、色々な球団に電話したり、エージェントのダン野村氏を直撃しようと張り込んだりもしましたが、どうしてもドジャース入団という確証がつかめない。時間も残り少なくなった頃、ドジャース関係者の1人と親しくなっていたので、直接電話してカマをかけたんです。そうした「トリック」で何とか情報を得ました。
 
知りたい情報をどうやって聞き出すかなど、交渉の必要性を感じるようになったのはこの頃からです。
 

病気がきっかけ
人の役に立ちたい

99年に心臓発作を起こし、バイパス手術を受け、ツアー関係の仕事は体力的に続けられなくなり、2001年にたたみました。それを機に、これまでアメリカで生きてきた40年は何だったのか、何をしてきたのかなど、残された自分の人生を深く考えるようになりました。次世代に何かを残したい、そして、人のためになることをしながら人生を送りたいと思うようになりました。
 
それで05年に、ペパーダイン大学ロースクールのストラス研究所で、折衝と論争解決法を受講して、カリフォルニア州公認の調停人資格を取得しました。ベンチュラの調停人委員会のメンバーになり、ベンチュラ郡上級裁判所でスモールクレイムコートの調停人をしながら、日系社会の方々のトラブル解決を、調停を通してお手伝いをしています。
 
調停人というのは、どちらの肩も持たない第3者の立場で、利害の相対する両者の歩み寄りを引き出し双方が満足できる、つまり「ウィン・ウィン」で和解できるように導いていくのが、役割です。裁判では、どうしても負けた方に恨みが残りますし、裁判過程は公文書として記録に残ります。しかし、調停での過程は法律で守秘が約束され、仮にその後裁判となっても、調停で話し合われた事柄を法廷に持ち込むことはできません。
 
また、調停人はどちらが正しく、どちらが間違っているかを判断する立場ではありませんので、お互いにとって、何がベストなのかを探り出し、提案することが重要です。調停には教科書はありません。人生経験も必要なので、若い人には難しいかも知れません。現にペパーダイン大で受講していた人たちも、ほとんどが引退した裁判官や弁護士たちでした。
 
裁判所では、午前中の公判だけでも35、36件の訴訟を取り扱い、約3分の1が調停での解決に回されます。裁判所での調停は平均80%弱で和解が成立し、和解合意書をその場で書き上げるのですが、限られた時間内で和解まで持って行くのは並大抵ではありません。しかし、ぎりぎりまで話し合って合意に達することができ、原告と被告の両者が感激のあまりハグするのを見ると、人のためになって良かったと、調停人としての誇りと感動を覚えます。
 
最近、離婚問題を扱うことが増えてきました。このようなケースでは、お互いの感情が先走り、何が原因でもめていたのかを忘れて泥沼化することが多く、特に親権の問題については、いつも「もしこれが自分の身内だったら」と考えて冷静に、親身に対応しています。また、学生からアパートのデポジット問題の相談が多くなってきましたので、留学生向けのセミナーを実施できたらと考えています。
 
私は心臓発作を起こしてバイバスとペースメーカーの手術を受けましたので、先があまりないと痛感しました。何かを残したいという思いから、自分の第2の故郷、シミバレー市に桜の木を植えようと、アメリカ宮崎桜の会を設立しました。今では同市庁舎の周りや学校に100本、レーガンライブラリーに約200本、計300本の桜を植え、レーガンライブラリーでは桜祭りを催してきました。
 
妻には「日本にこだわり過ぎ」と言われますが、これまでずっと日本を代表するつもりで生活してきました。日本からニュージャージーに着いてすぐ、英語が話せないフラストレーションからアメリカ人生徒とケンカして、相手にケガをさせてしまいました。その時、叔父に「お前は日本人の恥」と言われたことが、今でも耳に残っています。ですから、日本からアメリカに来ている若い人たちも、日本人であることを忘れずに、自分の足跡を残せるアメリカ生活をしてほしいと思います。
 

(2009年4月1日号掲載)

ローンオフィサー(その他専門職):横山 貴恵さん

今回は、ローンオフィサーの横山貴恵さんを紹介。日本での事務職に満足できず、野心を抱いてアメリカに留学。JPモルガン・チェース銀行の中で、日本文化を理解するローンオフィサーとしての活躍について聞いた。

【プロフィール】よこやま・たかえ■京都府出身。京都女子大学を卒業後、大手製薬会社に就職。退職後、米系半導体・精密機器の商社に勤務する。1998年、留学のため渡米。サンタモニカ・カレッジを経て、UCLAで社会学の学士号を取得。2003年に卒業後、JPモルガン・チェース銀行にローンオフィサーとして就職、現在に至る

そもそもアメリカで働くには?

キャリアを磨くため
日本を脱出、留学

社会学のバックグラウンドも
キャリアに役立っている
(UCLAでの卒業式にて)

日本の大学を卒業後、学校の紹介で製薬会社に就職しました。アメリカの医薬品を日本で販売する大手企業でしたが、女性はあくまでもアシスタント的な役割。当時は、どんなに優秀な女性も昇進の難しい時代で、やる気のある女性は皆同じような悩みを抱えていました。私も、この先、何年働いても同じだろうと見切りをつけ、3年半で退社しました。
 
その後、米系の半導体を扱う商社に入り、カスタマーサービスの仕事をしました。社内には帰国子女も多く、雰囲気は前の会社より良かったのですが、やはり日本的な社風は変わらず、「日本を出よう」と決意しました。
 
そして、1998年に渡米。UCLAでソーシャルワーカーになるべく、社会福祉の勉強をしました。ところが卒業した頃は、社会福祉に対する国の予算が非常に少なく、新規職員の採用が凍結されていたこともあり、その分野での就職も難しくなっていました。迷っている時に、義理の姉の紹介で、チェースのマネージャーからローンオフィサーの就職口をいただいたんです。
 
求人の応募要項には、ファイナンスのキャリアが3年以上、英語力もかなり要求されるとありました。「私は要求される条件に見合わないと思う」と伝えたのですが、「とりあえず、おしゃべりしに来てください」と言われて出向くことに。そして、面接の1時間のうちに気持ちがすっかり変わったんです。
 
マネージャーによると、ローンオフィサーの仕事は借り入れの相談から契約、返済の相談といった一連の流れに携わるのですが、そのなかでも、カスタマーサービスが非常に大切であり、今、社として日本人を始めとする顧客の言葉や文化が理解できる人を必要としているとのことでした。実際、社内には財務や経済のみならず、社会学や心理学を学んできた人も多いんです。顧客と密着して働く仕事なので、金融の知識があるだけでなく、信頼関係を結べないといけない、社会学のバックグラウンドも十分に役に立つと言われました。また、金融関係のシステムについては、トレーニングするので心配はいらないとのこと。お客様の手助けができるのなら、と入社を決めました。
 

大切なのは顧客やチームとの
緊密なコミュニケーション

入社後はまず、ローンの申請書類を処理するプロセッサーのアシスタントから始まりました。分厚い申請書類や契約書をコピーしながら、書類の内容や実務、具体的な銀行手続き、その中身について学びました。同時に会社のトレーニングプログラムを受け、ひたすら勉強しました。
 
ローンオフィサーは、ローンを必要とする顧客を開拓しなければなりません。また、お客様がいたとしても、実際にローンが下りなければ、お役に立ったことにはなりません。お客様のコンサルテーションが始まったら、住宅購入期間のおよそ30日間、ローン承認までお世話することになります。顧客開発に営業やマーケティングは大切ですが、おかげさまで、これまでのお客様からの紹介や、信頼関係のある不動産エージェントの方などから紹介を受けることが多いですね。
 
私の日課はまず、朝1番にEメールをチェックし、問い合わせのあったお客様の所に出向きます。そしてオフィスに戻って、進行しているローン申請の進捗を確認します。一旦お客様がローン申請を始めたら、私の下でさまざまな専門分野をカバーする担当者たちが動き出しますし、社外でも不動産会社やエスクロー会社、タイトル会社など、多くの人が関わってきます。私はその一部なので、ローンの進行を確認するのは肝心なこと。1日でも遅れると、信頼関係が損なわれてしまいます。
 
複雑な仕事ですし、自分でコントロールできない部分も多いので、ストレスも重なります。社内では調和を保ちつつプロセスを進め、お客様には安心してもらえるように対応していかなければなりません。お客様のことを考えると、眠れない時もあります。気が付くと、朝から晩まで、土日も仕事しています。
 
とはいえ、自分の裁量で勤務時間を決められるという利点はあります。また、やったらやっただけの報酬がいただけるので、やりがいもあります。ノルマもありますので、今のような時期は特に厳しいですが。男女の差がないところもいいですね。勉強するのも、昇給するのも自分次第。それに合わせて、会社がトレーニングを提供してくれるところも恵まれています。
 
ですが、競争相手も多いので、どこか違ったサービスを提供していかなければなりません。私は常に丁寧に、気持ちを込めたサービスを心がけています。お客様と出会えたご縁を大切にしています。やはり家の購入は人生においてそう何度とない大切な買い物です。お客様が心理的に不安定になったり、心配されたりすることが多いのですが、緊密にコミュニケーションを取って、不安要素を解消できるよう努力しています。

アメリカンドリームを
実現させる手助けに

家を買うというのは、誰にとってもアメリカンドリームです。その第一歩が資金計画。住宅ローンの仕組みを知って、無理のないプランを立てるのがとても大切です。そのお手伝いができるというのは本当に光栄なことです。皆さんが夢に向かって頑張っておられる姿に、こちらもいいエネルギーをいただいています。
 
これからも精神的・経済的に自立した女性でありたいと思っていますし、家庭も大切にしたいですね。また、仕事の面でも、お客様にもっと信頼してもらえるよう、自分なりに努力を重ねていきたいと思っています。この仕事は人に会うのが好きな人、接客が好きな人に、とても適しています。数字は毎日見るわけですから、すぐに強くなれます。逆にあまり数字に気持ちが向いていると、良いカスタマーサービスができないと思うんです。それよりも、お客様と色々な話をして、相手の立場になって考え、提案できることが大切だと思います。
 

 

(2009年3月1日号掲載)

構造設計士(その他専門職):與座敏安さん

今回は、構造設計の分野で世界的に有名なARUP社で構造設計士として活躍する與座敏安さんを紹介。沖縄の県費奨学金でアメリカ留学。憧れの会社に入社し、構造設計の醍醐味を日々味わっている

【プロフィール】よざ・としやす■沖縄県出身。大学院まで建築学部で構造学を専攻する。卒業後、2004年に県費奨学金を得て、05年にニューヨーク州立大学バッファロー校大学院に留学。同院卒業後、07年8月に構造設計で世界的に有名なARUPに入社。www.arup.com

そもそもアメリカで働くには?

感性に関係なく
正しいものが評価される

元々数学や物理が好きで、建築家になりたかった。でも、勉強しているうちに、構造の方が楽しいなって。建築デザインは、自分の感性で「これがいい」と思っても、周りの人が評価しないと自分の感覚が評価されることはありません。でも、構造は、人の評価とは関係なしに、ズバッと決まる。素直なんです。学生でも、自分の計算が正しければ、絶対正しい。そして、構造はやればやるほど理解が深まり、評価される気がします。
 
それで大学院まで建築学部で構造の勉強をして、日本での就職を考えていた2004年、沖縄の県費奨学金が得られることになり、翌年、ニューヨーク州立大バッファロー校の大学院に留学をしました。バッファローを選んだのは、耐震構造分野で良いプログラムを持っていたし、実験施設も充実していたので。
 
留学を決めて、日本での大学院最後の1年が1番忙しかったです。修士論文を書きながら、奨学金の手続きや、TOEFLなど留学に向けての試験勉強もしなきゃいけない。マラソンもやっていたので、その練習もして。週に2回フルマラソンに出場したこともあります。かなり密度の濃い1年でした。
 
一応日本の大学院で勉強しているから、バッファローでは、英語のハンデはあっても何とか付いて行けると思っていたのですが、まったくレベルが違いました。アメリカでは学部レベルで履修済みであるべきものも、私は全然知らなかったんです。元々その授業自体が難しかったんですが、最初は本当に大変でした。ただ、バッファローは勉強するには良い所で、誘惑が全然ない(苦笑)。常夏の沖縄から環境がまったく違う所に行けて楽しかったですね。バッファローで初めて四季を味わったんですよ。でも、2年目の最後の頃には、海が恋しくなりましたが。

建築家と対等な
アメリカの構造設計士

現在手がけている野外ステージのプロジェクト

2年でマスターが取れ、アメリカに残って働きたいと思ったので、海のある西海岸で就職を探しました。今、在籍するARUPは、構造の分野では有名な会社だったので日本にいる時から知っていました。面接を受けに来た時も、「とうとう来てしまった、憧れの会社に」みたいな状態でした。面接を受けたのはARUPも含め2社だけで、ARUPが先に決まり、自分が1番行きたい会社だったので、即決しました。それが07年8月です。構造を手がけている会社は、修士号以上を取得した人じゃないと、採用してくれないことが多いです。今はPhDを持っている人も多くなってきています。
 
入社してパサデナのArt Center of CollegeのNorth Campusなどの耐震補強、最近やったのが、プラヤデルレイにできるハリウッドボウルのような野外ステージ。そして今は、フロリダにある劇場の構造設計を手がけています。私は入社したばかりだから、色んなモデルを作って計算してレポート書いたり、建築家が図面を持ってきて「これで大丈夫か?」と聞かれたら計算して、「これはまずい」みたいにアドバイスしたり。実際に建てることはできるかもしれないけれど、コストはものすごくかかるとか。そういう面で、アメリカはかなり建築家と構造設計士は対等にやっていますね。
 
建築家の設計に対し、デザイン変更をしたり、ダメ出しすることもあります。ARUPは、北京オリンピックの「鳥の巣」とか「ウォーターキューブ」とか、奇抜なデザインの構造計算が得意分野。手強い物が多いんです。「こんなのできない」って言うと、「君たちはARUPだろ。できるよね」と言われたりします。
 
今、建築のソフトウェアがドンドン発達して、色んな曲線とか曲面とか、三次元のモデリングが簡単にできてしまいます。建築家はコンピューターの中で凝ったデザインの建物を設計しますが、いざ建てようと思っても、なかなか思い通りにはいきません。建築家が実際の世界には重力があり、風が吹き、地震もあるということを理解してくれないと。
 
構造は計算だけじゃなく、建築家的な側面もあるんです。「鳥の巣」や「ウォーターキューブ」は、構造物自体が建築の主要な部分を占めています。そういうものだと、さらにやりがいがありますね。

自分のミスが
人の死につながる

構造設計の面白味を言葉で説明するのは難しいですね。物の挙動が、ある程度の幅で計算して予測できるところかな。ただ単純に計算するのではなく、人間工学も入ってくるんです。ただし、自分の仕事の責任、失敗した時の結果を考えたら、プレッシャーを感じます。自分がデザインして、地震が来た時に壊れたりしたら、人が死ぬこともあります。でも、地震はなかなか来ません。来ないとみんな大変さを忘れます。大事な仕事ですが、構造設計士が実際に何をやっているのか目に見えないから、予算を割きたくないわけです。責任重大の割に軽く扱われているような感はありますが、やはり楽しくてやりがいがあるので、苦にはならないです。学ぶこともまだまだいっぱいありますし。
 
今の目標ですか? 「これが目標」ってゴールは設けていないです。自分がどこまでできるか、挑戦し続けたい。実際やってみないと、自分がどこまでできるか確認できませんから。
 
20年後、30年後の自分が完全に見えてしまっていたら、悲しくなるんですよ。自分がどこに行くか分からないから、どこまでできるか分からないから、リスクはあるかもしれないけれど、その分楽しいんです。まぁ、失敗したら後悔するんでしょうが(苦笑)。
 
構造設計は常に勉強。学校で習うのは、本当に必要なことのさわりだけ。常にチャレンジ精神を忘れず、プロジェクトを通して勉強していかないと。後は、責任とプレッシャーを楽しめるか。この仕事が本当に好きじゃないと、結構つらいと思いますよ。
 

(2008年12月16日号掲載)

ピラティス・インストラクター(その他専門職):アボット 由三子さん

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、ピラティス・インストラクターのアボット由三子さんを紹介。ピラティスの第一人者、ラエル・イザコヴィッツ氏から直接指導を受け、サンディエゴでクラスを開講中。

【プロフィール】あぼっと・ゆみこ■1965年福岡県生まれ。ファイナンシャルプランナーとして勤務後、2001年に渡米。グロスモント・カレッジにてビジネス学士取得後、「BASI」に入学し、05年、ピラティスのインストラクター資格を取得。今年7月にサンディエゴで日本語ピラティスクラスを開講。www.yabbott.com

そもそもアメリカで働くには?

経験なしでいきなり
インストラクターを目指す

クラスは日本語で行われているので、
理解しやすい

渡米したのは2001年です。それまでは、日本でファイナンシャルプランナーとして、10年ほど働いていたのですが、日本の経済が低迷していたこともあり、アメリカ留学を決意しました。
 
初めは語学学校に通い、その後、サンディエゴのグロスモント・カレッジに入学しました。ゆくゆくは4年制大学にトランスファーして、アメリカの金融について勉強したいと考えていたのですが、グロスモント・カレッジ在学時に主人と出会い、結婚することになったのです。
 
その後、ロサンゼルスに引っ越し、私は主婦業をする傍ら、学校に通ったり、パートタイムで仕事をしたりしていました。その頃に気付いたのが、アメリカの医療費の高さや、日本とはまったく違う医療保険のシステム。大きな病気をした時の自己負担額は相当なものですし、医療保険に加入していたとしても、治療費すべてがカバーされるとは限りません。先のことを考えると、アメリカに住むにあたり、1番大切なのは「健康」なのではないかと、強く思ったんですよね。
 
そんな時、ふと目に留まったのが、ライトハウスに掲載されていた「ピラティス・インストラクターになりませんか?」という内容の広告。それまでピラティスを習ったことはなかったのですが、ちょっと興味があったせいか、「これだ!」と、インスピレーションを感じてしまったんです。
 
早速、ニューポートビーチにあるBody Art and Science International(BASI)という学校に入学し、そこで一からピラティスを学びました。その学校の創設者は、ピラティス界では著名なラエル・イザコヴィッツ氏という人で、私はラッキーにもラエルから直接指導を受け、1年ほどでインストラクターの資格を取得しました。
 
資格試験には実技もあったのですが、300種類以上もあるエクササイズの中から、実際に出題されるのは3つだけ。しかし、どのエクササイズが出題されるかわかりませんので、すべてを完璧に覚えなければなりません。毎日、毎日、体に刷り込むように練習しました。
 

ピラティスの特徴は
インナーマッスルを鍛える

コース修了時、イザコヴィッツ氏と一緒に

ピラティスは日本でも人気があり、ダイエットのためのエクササイズと思われている方も多いと思います。しかし、元々は第一次世界大戦時、負傷した兵士たちのリハビリのために、ドイツ人のジョセフ・ピラティス氏が考案したエクササイズです。
 
ピラティスの特徴は、インナーマッスルを鍛えることです。インナーマッスルというのは、身体の内側に付いている筋肉で、内臓や骨を支える働きをしています。最も重要な部分は、お腹の辺りに付いている筋肉で、私たちの身体を支える大切な役割を果たしています。その筋肉が弱くなると、身体の重心がずれ、その結果、腰痛や膝痛を引き起こすことがあります。
 
現在、サンディエゴ市内3カ所(ダウンタウン、イーストレイク、コンボイエリア)で、30人ほどの生徒さんにレッスンを行っています。20~60代の女性がほとんどですが、最近はご夫婦で参加する方も増えています。
 
皆さん、初めのうちは、「こんな筋肉痛は初めて」と驚かれますが、慣れてくると筋肉痛になることもなく、「身体が伸びて気持ちがいい」と楽しまれているようです。ピラティスは、年齢に関係なく、子供からお年寄りまで無理なく続けられるのも魅力ではないかと思います。
 
人それぞれ、身体つきや強さ、柔軟性が違いますので、クラスでは、その人の身体の状態に合わせた指導ができるよう、心がけています。ピラティスは人との競争ではありませんから、生徒さんが「みんなはできるのに、私にはできない」と自信をなくさないよう、身体の違いをわかりやすく説明することも大切ですね。
 

ムーブメントの
1つ1つに意味がある

私は、ピラティスを指導していますが、同時に今でも、定期的にオレンジ・カウンティーに足を運び、優秀な先生たちから指導を受けています。1週間ほどクラスを受講するだけでインストラクターの資格がもらえる所もあると聞いたことがありますが、ピラティスはポーズを真似するだけでは効果は上がりません。1つ1つのムーブメントには意味があり、使わなければならない筋肉の箇所も決まっています。間違った筋肉を使うと首が痛くなったり、腰を痛めたりすることもあるので、テレビやDVDを見て行っている人は、気を付けてほしいですね。
 
インストラクターとして、生徒さんが「ここの筋肉が付いてきた」とか「最近身体の調子がいい」と、効果を感じてくれるのはとてもうれしいですね。人と関わる仕事は楽しいですし、健康で、はつらつとした皆さんの顔を見るたびに、この仕事のやりがいを感じます。
 
私は、渡米したのが35歳の時でした。読者の方の中には、夢に向かって頑張っていらっしゃる方も多いと思いますが、アメリカでは年齢は関係ありませんし、「もう年だから」とか、「できるかな?」などと躊躇せず、やりたいことにトライして、チャンスを掴んでほしいなと思います。ピラティスのインストラクター養成コースには、70代で参加されている方もいるんですよ。私もそのバイタリティーを見習って、これからも頑張ります。
 

 

(2008年11月16日号掲載)