レジャースキューバダイビング・インストラクター(その他専門職):幸村公英さん

体力が続く限り教えて
ダイビングの楽しさを多くの人に伝えていきたい

プロゴルファーになるために渡米したが、腰を痛め断念。その気晴らしで初体験したスキューバ・ダイビングの魅力の虜となり、インストラクターの資格を取得した幸村さん。カリフォルニア州では数少ない、フルタイムの日本人ダイビング・インストラクターとして活躍する。その醍醐味を聞いた。

【プロフィール】こうむら・まさひで
;愛知県出身。高校卒業後、1996年にプロゴルファーを目指し、ロサンゼルスに留学する。1年後、腰を痛め、プロゴルファーの道を断念、カレッジで語学留学。その間に出会ったスキューバ・ダイビングの魅力に魅せられ、インストラクターを目指す。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に編入後、在学中にNAUIインストラクターの資格を取得。05年に日本へ帰国し、06年末に再渡米。07年からハンティントンビーチにあるOcean Gear Dive Centerにてインストラクターとして勤務。www.LASeaBlue.com

そもそもアメリカで働くには?

ゴルファーからダイバーへの転身

血気盛んなアメリカ人高校生たちのはやる気持
ちを抑えつつ、ダイビングの安全と楽しさを伝える
のが、インストラクターとしての腕の見せ所

高3の時にゴルフ留学を決意。高校卒業後、プロゴルファーを目指して、1996年にロサンゼルスに来ました。渡米後、1年くらいレッスンを受けていたのですが、昔からあまり良くなかった腰を痛め、言葉の壁もあって挫折してしまいました。実は今でも未練はあって、たまにクラブを握ると、昔の思い入れが甦ってきたりしますね(苦笑)。
 
ゴルフのレッスンを断念し、カレッジに入りましたが、身体を動かすのは好きだったので、ソフトボールや野球を軽くプレイしていました。そんな時、「ダイビングに行こう」と誘われて、あまり海は好きではなかったのですが、一度やってみようと出掛けました。最初は難しかったのですが、だんだん慣れてきて、楽しさがわかってきました。
 
特にカリフォルニアは、ダイビングで「ハンティング」ができるんです。潜っている最中にエビを取ったり、ウニを取ったり、魚を突いたり。最初はそれにすごく夢中になって。4年制大学に編入した後も、気が付いたら授業の空き時間はほぼ毎日潜っていた感じです。
 
いつも一緒に潜っていた日本人インストラクターが、ある時「ちょっと教えてみるかい?」って、手伝わせてくれたんです。40代や50代の方も生徒として来ていて、当時22、23歳の僕に「今までこんなに感動したことなかったよ」と、すごく感謝してくれました。「こういう仕事ができたら、すごく幸せだろうな」と、その時思ったのが、インストラクターを目指したきっかけです。お世話になっていたダイビングショップが、インストラクターの養成もしていたので、学校に通いながらインストラクターの授業を取り始めました。
 
スキューバ・ダイビングには、まずビギナーコースがあり、その上にアドバンス、さらにマスター・スキューバダイバーというレクリエーションの範囲では1番上のクラスがあります。インストラクターになるには、そこからさらに、リーダーシップコースに進まないといけないんです。リーダーシップコースでは、〝ダイブマスター〞といって、免許を持っているダイバーをガイドできるライセンスを取ります。
 
ビギナーコースですと、教材を渡され、プールで2~3回、海で行うスキルを実習します。それから水泳のテスト。アドバンスでは、ナイトダイビングやディープダイビング、コンパスを使ったナビゲーション、水中カメラ、サーチ&リカバリーといった色々なダイビングのスタイルを勉強します。マスター・スキューバダイバーのコースは、すべてのダイビングスタイルを修得し、物理学などのアカデミックな勉強が中心となります。難しかったですが、やりがいがありましたね。
 
リーダーシップコースは、どうやって生徒を教えるかというティーチングスキルを磨きます。アシスタント・インストラクターを経て、その上がインストラクターです。僕が所属するNAUIという団体では、インストラクターは、ダイブマスター、アシスタント・インストラクターにも教えることができます。
 
インストラクターになるわけですから、現場に出て実際に教えないといけない。コースディレクターの前で生徒に教え、それが採点されます。それからアカデミック・プレゼンテーションやプール、海洋でのプレゼンテーションがあったり。また、リーダーシップのダイブマスターになるには、最低でも60本の海洋実習が必要です。スキルチェックでは、900ヤードを18分以内にスキンで泳いだり、25ヤード素潜りしたりします。それらをすべてパスすると、最後に100問の筆記テストを受け、それをパスすれば、晴れてインストラクターです。
 
1つのコースは、集中すれば1カ月程度で終えられます。リーダーシップコース修了まで半年という人もいますが、僕は3、4年かけて修了しました。早く取ることよりも、どれだけ経験を積むかが重要だと思ったので。
 
資格を取得してから、05年に1度日本に戻りました。日本に帰る前にショップから「ウチで働かないか?」と誘われたのですが、ビザの問題があったので、いったんはお断りしました。しかし、06年末に再渡米でき、ショップの方から「働くか?」という言葉を再びいただいたので、07年からインストラクターとして働き始めました。
 

身体の疲れがたまっても常に集中力を持続させる

水の中に入ってしまえば、ハンドシグナルで通じるので、言葉の壁はまったく感じません。ですが、教えるとなると、生徒が完璧に理解していないと安全に関わります。1度で伝わらないことが、未だにたまにあるので、英語はやはり大変ですね。元々、日本人の生徒を教えようと思っていたのですが、日本の方にとってカリフォルニアの海は、ダイビングよりサーフィンなんですね。だから、生徒さんが付かなくて。幸いショップが現地の高校の体育を教えるプログラムを持っていたので、今、インストラクターの仕事のうち95%は英語を使っています。多い時には1クラス生徒が36人います。それでも全員にちゃんと理解させないといけない。最初は言葉のハンデもあって、どうしたらわかってもらえるだろうって、途方に暮れました。しかも、僕も高校生の時はそうだったんですけど、わからないけど、わかったフリをするんですよね(苦笑)。
 
また、ダイビング中にパニックを起こす生徒もたまにいます。ですが、そういう時でも、意外に冷静でいられます。インストラクター見習いの時は、パニックになっている生徒を見ると、こっちもパニックになりそうでした。しかし、インストラクター・トレーニングコースで、教官に助けてもらって四苦八苦しながら切り抜けた経験が、今すごく活きていると感じます。
 
カリフォルニア州に関して言えば、ダイビング・インストラクターはパートタイムの人が圧倒的に多いんです。僕は月曜から金曜まで朝7時半から高校に行って、午後2時までずっと教えています。朝早起きして、ギアを何個もセットアップして生徒を教え、土日は海で教えることもあります。休みなく働いていると、身体の疲れも蓄積してきます。しかし、いつも集中力を切らさないよう心がけています。
 

ダイビングの醍醐味を多くの人に伝えたい

趣味で潜るのと、インストラクターとして潜るのとでは全然違います。趣味で潜るのは自分の楽しみ。ですが、教えていると生徒の喜ぶ顔で、自分も幸せになれます。教えている時に笑顔が浮かぶのが一番うれしいですね。生徒も真面目にずっと教えられていたら長続きしないので、笑いを取って、楽しい授業にしていくのが僕のポリシー。教え始めたばかりの時は、言うことを聞かない生徒にイライラしてしまっていたんですけど、最近は、そういう生徒をうまく使って笑いを取りながら授業を進めると、他の生徒も笑ってくれるし、自分もイライラがなくなることがわかりました。
 
この仕事で高給を得るは難しいので、ダイビングが好きで、人と話したり、教えることを楽しめないと長続きしないと思います。昔は自分のショップを作りたいという夢がありましたが、そうすると経営メインで、教えることができなくなってしまいます。だから、今は体力が続く限り教えて、たくさんの人たちにダイビングを経験してもらいたいです。
 
水中で30~40分も魚と泳いでいると「なんで魚と一緒に泳げるんだろう」って、不思議な気持ちになります。僕はその不思議な感覚に魅せられて人生が180度変わってしまいました。だから、日本の人たちに、もっとダイビングの楽しさを伝えていくのが、僕のこれからの目標です。
 

 
(2010年4月1日号掲載)

Kevin’s Entertainment President & CEO(その他専門職):三石勇人さん

思いがけないチャンスが転がっている
それがハリウッドの面白いところ

カナダのトロントで生まれ育つも、人一倍日本人としての意識を強く持ち合わせた三石さん。高校時代はニューヨークで、大学から20代全般を日本で過ごす。英語ができるからと外資系企業を選ばず、日本企業に就職。そこでの経験とMBA取得を経て、現在は日米エンターテインメント界の架け橋になるべく邁進している。

【プロフィール】みついし・はやと
カナダ生まれ。日系小売商店経営の両親の下、16歳までトロントで暮らす。慶応義塾ニューヨーク学院(高等部)への進学と共にアメリカに移り、日本人学生の中で生活をスタート。19歳で、慶応義塾大学商学部進学のため、初めて本格的な日本生活を開始する。1999年、卒業を機に日本の商社に就職、環境ビジネスを担当。2005年の退職まで、ビジネス全般を学ぶ。同年UCLAのビジネススクールに入学し、07年にMBAを取得。翌08年、Kevin’s Entertainmentを設立した。

そもそもアメリカで働くには?

独裁的な性格にハッと気付いた高校時代

メンバー全員で撮ったスナップ。
自分1人だけではなく、メンバーと共に
成長していきたいと、三石さんは語る

私は、カナダで日系小売商店を経営する両親の下で生まれ育ちました。父は教育にとても厳しい人。私が日本語を不自由なく使えるのも、父が厳しかったおかげです。家では日本語を話さないと叱られましたし、妹と話す時も徹底して日本語。その上父は、家では絶対的な存在でしたから、決して逆らえません。「自分がやると言ったことは、必ず実行する」という意識も、父から叩き込まれました。
 
当時の私は、日本人としての意識がとても強かった気がします。6歳から剣道を始めるなど、多民族国家のカナダで、「自分は日本を代表しているんだ」という意識を持って生活していました。
 
16歳の時、親元を離れて慶応義塾ニューヨーク学院(高等部)に進学。理由は、カナダ以外の場所で挑戦してみようと思ったからでした。初めての1人暮らしや日本人だけの学校生活で、特に困ったことはありませんでした。むしろ、親から離れられてうれしいくらい(笑)。まだ創立2年目の新設校でしたから、自分で剣道部を作っちゃいました。昔から、何でも自分が先頭でないと嫌なタイプ。時にはちょっと独裁的でした。自分が立ち上げた剣道部でも、「皆を引っ張って行くのは俺の仕事」と、体育会系のノリでしたね。
 
でもある時、「お前、その性格だと皆とやっていけないよ」って同級生に言われたんです。それで「ハッ」としました。それまで、そんな自分の性格には気付いていませんでしたから。それ以降は、周囲の状況に合わせるよう気を遣うようになり、逆にその方が、物事がスムーズに進むこともわかりました。
 

日本の中堅商社でビジネス全般を学ぶ

高校卒業後は、慶応義塾大学商学部に進学しました。大学では、剣道サークルに参加。代表をサポートする主務を務め、仲間とも深い絆が生まれました。また、商学部内のゼミで構成される「商学部ゼミナール委員会」の常任委員を務めると同時に、、各学部のゼミナール委員会を統括する「全塾ゼミナール委員会」にも、商学部代表として就きました。いわゆる慶應のエリート集団のような委員会でしたが、私は、頭が良くて選出されたというよりは、日本以外のバックグラウンドを持った、ユニークな人材として選ばれた口。委員会に新風を吹き込む「多様化要員」みたいな存在でしたね(笑)
 
大学卒業と共に、日本で就職活動を始めました。私は海外生活が長かったのですが、外資系企業ではなく日本企業に就職し、日本のビジネスのやり方や意思決定プロセスを勉強したいと思っていました。将来的にアメリカで就職する際、日本の企業で、日本のビジネスマンとして働いた経験の方が役に立つと思ったんです。いずれはアメリカでMBAを取ろうとも考えていました。
 
当時、私の会社選びは、「中規模で全体が見渡せる会社」が基準でした。結果的に内定したのが、松田産業という中堅商社。1999年のことでした。その会社は、貴金属、環境、食品の3部門で構成されており、私は環境部門に魅かれて入社。当時は、「どうせお金を稼ぐなら、良いことをして稼ごう」って、社会正義に燃えていました(笑)。
 
運良く会長にも気に入られ、新入社員にも関わらず色んな経験をさせてもらいました。入社当初は環境部門ではなく、本社の経理や経営企画室を歴任しましたが、2001年1月には、ドイツとの環境合弁会社「ゼロ・ジャパン」に念願の出向。そこは小さな会社だったため、営業、経理、総務、法務など、ビジネス全般を任され、色々勉強できました。
 
04年にゼロ・ジャパンの社長にMBA受験と退職を相談したら、「やりたいことをやれ」って応援してくれたんです。推薦状まで書いてくれ、辞める私に、今度は松田産業本社の社長が功労金までくださった。金額よりも、その気持ちがとてもうれしかったですね。
 

〝クールでユニーク”これをキーワードに渡米

学校は、UCLAのビジネススクール(UCLAアンダーソン:以下アンダーソン)に入学しました。そこで、エンターテインメントビジネスを専攻。元々好きなエンタメの世界とビジネスが一緒になったその分野こそ、自分のやりたいことだったからです。
 
当時私は30歳。日本人のステレオタイプを壊すべく、学校では「”クール&ユニーク”な日本人」を意識して行動していました。ある日、学校で「Anderson’s Next Top Model」という大会がありました。これは、『America’s Next Top Model』というTV番組を模した企画で、投票で学校のトップモデルが選ばれるんです。そこで、見事私が優勝(笑)。金髪で背が高く、もっとかっこいい男性がいっぱいいたなかでの優勝に、大きな自信が付きました。「日本人でもいけるんだ!」って。
 
アンダーソンには、世界中のエリートが集まります。彼らと勉強をし、遊び、けんかしたりして一緒に過ごすことで度胸と自信が付きますし、難しいことを話されても、相手と同じレベルで会話ができ、どんな場面でも圧倒されなくなりました。
 
07年6月にアンダーソンを卒業し、就職活動をはじめました。在学中から色んなエンタメ企業でインターンをやっていましたが、やはりこの業界に入るのは難しい。2カ月ほどは無職でした。ある日友人から、「20世紀フォックスで日本語が話せてファイナンスができて、エンタメに精通している人材を探している」と電話があり、面接を受けると運良く契約社員として合格。その間、正社員になるための就職活動を続けるものの、脚本家の大規模なストライキが発生し、ハリウッドは大混乱に。フォックスも正社員の雇用を凍結。このままではまずい。どうすべきかさんざん考えた結果、「起業」することを思い付きました。そして、日本のエンタメとハリウッドをつなげる架け橋となるべく、08年の3月に「Kevin’s Entertainment」を設立しました。
 

日本の存在感をハリウッドで高めたい

現在は、「タレントマネージメント」「コンサルティング」「映画やテレビのプロデュース」などを主要業務としており、タレントは3人抱えています。エージェントは仕事を取って来るのが仕事ですが、マネージメントは、タレントと共にキャリアを築くのが仕事。オーディション情報の取得や応募方法の伝授、タレントのプロモーション、レジメの書き方、エージェント探し、エージェントや制作会社との交渉、そして心のケアまで幅広く行っています。とは言え、ようやくスタートラインに立てた感じ。これからは、ハリウッドで活躍しているプロデューサーやディレクターなど、〝本物のハリウッド人脈〞を構築する必要性を感じています。
 
ハリウッドって、実際住んでいると普通にチャンスが転がっているものなんです。逆に、日本よりも挑戦しやすい環境で、やればやるほど自分に返って来るし、予想していないチャンスが舞い込んで来る。それがハリウッドの面白いところ。
 
現在日本のエンターテインメント業界は、凄い勢いで変化しています。収益の柱がテレビスポンサー一辺倒だったのが、良質の作品を作ることによって、消費者から直接収益を得ようというハリウッドスタイルに変わりつつあります。そして、日本の制作側も国内だけではなく、世界に受ける作品を作ろうとしています。そういう時に私が日米の間に立ち、日本の存在をハリウッドで高めたいと思っています。「ハリウッドでビジネスするなら、Kevin’s Entertainment」と言ってもらえるように、日米のエンタメ業界をつなぐ橋渡し的な存在になる。それが私の夢ですね。
 

(2009年12月1日号掲載)

Bank Branch Manager/ Vice president(その他専門職):齋藤源太郎さん

支店長として僕がすべき仕事は、
「社内と社外のカリスマ」になること

アメリカで生まれ、日本帰国後もアメリカに戻って仕事をしたいという夢を実現した齋藤さん。日本での職とは違う分野の銀行で、人の2倍働いて支店長に。「かっこいい日本人」になって、若い世代の人たちの可能性を引き出してあげたいと話す齋藤さんに聞いた。

【プロフィール】さいとう・げんたろう◎ニューヨーク生まれ。8歳までパサデナで過ごし、日本へ帰国。1996年中央大学法学部へ進学し、3年の時にニューヨーク州立大学アルバニー校へ編入。2年で学士号を取得。帰国後日本でも大学を卒業して、2001年より富士通株式会社に入社。海外営業部で3年半働いた末、2004年に再渡米し、05年よりユニオンバンクに入社。現在ガーデナ支店の支店長として活躍中

そもそもアメリカで働くには?

日米の文化のギャップに戸惑った学生時代

セコイア国立公園にある湖でマスを13匹釣り、
テントで仲間たちとキャンプ

ニューヨークで生まれて、2歳から8歳までパサデナで過ごしました。帰国後、名古屋で公立小学校に入りましたが、かなりのギャップに苦しみました。例えば、明るく活発な人は不良と見なされること。アメリカでは通常、活発なことはリーダーシップと同様に高い評価を受けます。公立中学に入ると、周りはいい成績を取るのに命をかけ始め、友達の家に遊びに行っても特に会話はなく、個人個人がゲームをしたり漫画を読んだりで、相当なカルチャーショックが重なりました。
 
この様子を見かねた親が、姉が通っていたインターナショナルスクールに中学1年2学期から編入さてくれました。これが人生の転機となりました。ようやくそこで「廃人化」していたところから、個性とエネルギーが復活してきましたね。中学時代に1度、YMCAの夏休みのプログラムでサンディエゴに17日間ホームステイしました。久しぶりのアメリカに「うわっ、やっぱり西海岸がいい!」っていうのを再確認できました。色んな人種がいて、気候が良くて、誰とでもフランクに話せるのがとても心地良かった。大学時代にバックパック旅行でLAを回った時も確信しました。
 
中央大学法学部に入学しましたが、将来のキャリアを考えるうちに「英語でしっかりビジネスができるようになりたい」という想いが募ってきました。そこで3年生の後期から、ニューヨーク州立大学アルバニー校へ編入することにしました。日本の大学の単位をトランスファーして、2年間でアメリカの学士号を取ろうって決めたんです。行ってからは毎日必死でしたね。40ページのレポートを普通に出さなくちゃいけないとか、毎日膨大な資料を読んで予習復習しないとついていけないとか、そのボリュームに驚きました。2年間しかなかったので、「1秒も無駄にしたくない」と、猛勉強。そして無事2年間で学士号を取得して2000年に卒業しました。でも、この留学経験があったから、今アメリカで誰とでも対等にビジネスができる下地ができたと思います。
 

大手企業で身に付いた仕事体力とバイカルチャー

日本に戻ったら今度はすぐ就職活動。自分が将来何をしたいかを考える余裕もなく、父のアドバイスを元に、1番最初に内定をくれた富士通の国際営業事業部に入りました。国内の外資系企業の営業だったので、国際営業部という名前とは逆に、東京の都心でクライアントと自社のオフィスを往復する日々。でも、大きな取引先を持たせてもらえたので、アメリカ人のCIOにプレゼンできる機会があったり、一流のエンジニアとも仕事ができました。システムの仕事は業務量も膨大で、毎日15時間、土曜日も毎週働く仕事漬けの生活。また日本の大手企業の象徴のような会社だったので、社内に対する根回しが必要だったり、仁義を欠くと「あいつはわかっていない」と言われる。入社してすぐの頃から「27歳になったら外に出たい」って思っていて、行くなら幼少期を過ごしたLAって決めていました。でもこの経験で集中力を持続できる「仕事体力」が身に付き、今でも自分の強い武器になっています。
 

会社を辞めて念願の渡米銀行の支店長職への転身

04年の秋にLAに来ました。結局3年半働いてエネルギーをすべて消耗したので、しばらくは放心状態。何もする気が起こらず、半年はサッカーしたり友人と遊んだりして過ごしました。でもこれは自分を見つめるのに必要な時間でした。その時考えたのが、仕事で色んな人と会いたい、ネットワークを作っていきたい、そして、楽しい仲間がいる環境で働きたいということ。200万円あった貯金もゼロに近くなったので、とりあえず小さなITの会社で営業を始めました。その時ユニオンバンクの人事が、求人サイトに登録した僕のレジュメを見つけて連絡をくれたんです。支店長候補の研修生としてうちに来ないかという誘いでした。
 
最初半信半疑でしたが、面接に行ったらちゃんと本物の人事が出てきた(笑)。まったく違う畑なので少し不安でしたが、とにかく頑張るしかないと、富士通の時のように必死になって働きました。ほかの人を見てると、8時間で体力がなくなっちゃうんですね。僕より頭はいいけど2倍も違いはない。じゃあ単純に僕は2倍頑張ろうっていうのをずっと続けて、今日に至ります。
 
研修中は3カ月ごとに違う支店に行きましたが、その後正式配属され、1番長かったウエストLA支店には3年いて、今年の10月からガーデナ支店に移りました。僕たちの仕事は「預金の確保」「ローン・ファイナンス」「投資」と、それに付随する「フィー・ビジネス」の3・5本の柱で成り立っていて、難しそうに見えて実は単純なんです。ここで最も重要なのはカスタマーサービス。サービス業では、窓口に立つ最前線の人たちのカスタマーサービスが悪ければダメなんです。いくら営業でたくさんお客さんを連れて来ても、サービスが悪ければ穴が開いたザルと同じで逃げていきます。社員1人1人にカスタマーサービスの重要性を伝えて背後を固める努力が必要です。
 
そのために支店長として僕がすべき仕事は、「社内と社外のカリスマ」になること。社内の人全員が「この人のために働きたい」と思ってくれたら、やっぱり仕事する姿勢も変わってくるし、カスタマーサービスにも表れてきます。日系アメリカ人にも、インターナショナルにも、どの方にも、ここの銀行が最高だと思ってもらいたい。明るいコミュニケーションで、献身的にお客様のことを考えてる、そんなカスタマーサービスを徹底して作りたいですね。
 
お客様のお金をお預かりするというのは、一緒に生きていくというようなビジネスです。その中でも色んな人生の局面があって、ご結婚されたり、お子さんができたり、お孫さんができたり、どなたか亡くなってしまったりとか、そういうすべてを含めて、継続してお付き合いしていきたいです。「バンキングのことは彼に聞いたら間違いない」って言ってもらえるような人に僕自身もなりたいし、僕のチーム、銀行全体にもそうなってほしいですね。
 

目標は次世代の可能性を引き出すこと

「人、物、金」ってよく言いますが、その中ではやはり「人」が残るわけです。この先、10年、20年、30年後に自分の人生を振り返って、「素晴らしかったな」って思えるには何をすべきかって考えると、人の可能性を育てて、人材を残していくこと。僕のアドバイスとか言動で、近道ができたとか、元気をもらったとか、人生が変わったとか…。「千里の道も1歩から」って言うように、いくら遠くても光は見えるっていうことを伝えていきたいと思います。
 
後は、かっこいい日本人がたくさん出てきてほしいですね。今、日本には目標にしたいと思える人がなかなかいなくなっている気がするんですね。ビジネスでは活躍してるけど、どうもカッコ良くない。こちらで仕事をしていると、「うわぁ、すごい」って思える人たちに出会うことが結構あります。熱いパッションを持っていたり、生き様がカッコいい、そういう日本人を若い人に見せてあげたいですね。年代を問わず、そんなオールスターズを結集して、これから将来を担っていく若い世代に対して、彼らの可能性を引き出してあげられる力になれればと思います。
 

 
(2009年11月1日)

映像翻訳者(その他専門職):藤田彩乃さん

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は映像翻訳者の藤田彩乃さんを紹介。英語の映画やTV番組に日本語の字幕や吹替えを付けるのが仕事。
『American Idol』から『National Geographic』まで幅広く手掛ける。

【プロフィール】ふじた・あやの■富山県出身。早稲田大学第一文学部卒業。大学2年生の時に交換留学生としてCSUサンフランシスコで学ぶ。大学在学中に日本映像翻訳アカデミーで学び、大学卒業と同時に同校併設のエージェントであるメディア・トランスレーション・センターに職。2008年、同校がロサンゼルスに支社を設立するのに伴いLA駐在員となる

そもそもアメリカで働くには?

毎回の仕事がトライアル
女性が働きやすい業界

Reality TV翻訳チームのパーティーにて。
翻訳ディレクター&チェッカーとして、
30~40人の翻訳者をまとめた

大学2年生の時に交換留学生として、サンフランシスコに10カ月間、留学しました。帰国したら就職活動は始まっていて、どういう職業に就きたいかと考えました。翻訳の仕事はずっと興味があったので業界誌を読んだら、いくつか養成学校が載っていて、その中から日本映像翻訳アカデミー(JVTA)の説明会に参加しました。
 
説明会では、字幕と言っても映画だけじゃなくて、DVDの特典映像からCS放送の外国ドラマ、ニュースまで色々あって、需要も増えていることを知りました。映画に限ると間口は狭いけれど、映像全般に視野を広げると映像翻訳のニーズは年々増えており、さまざまな人が活躍し始めているという話に、「なるほど。やってみたい!」と期待が膨らみました。大学4年時に単位を取るのと並行して、JVTAでは基礎コースと実践コースを学びました。
 
大学卒業とコース修了のタイミングがうまく合い、JVTAの翻訳受注部門でコーディネーターの仕事に就くことができました。当時、Reality TVやBBCなどの開局ラッシュだったのも幸いしましたね。コーディネーター業務のかたわら、週末や自分の空いた時間は、フリーの映像翻訳者として、National GeographicやDiscovery Channelのドキュメンタリー、FOXのドラマ『House』などの日本語字幕の仕事もこなしました。
 
フリーランスで独り立ちするのは、最初のきっかけをつかむのが大変なので、専門スクールで力を付け、就職支援を受けながら仕事に結び付けていく道筋がオススメです。どの業界でも同じですが、フリーランスは自分が上げた原稿の品質がすべてなので、毎回の仕事がトライアルのようなもの。ただ、今では映像翻訳者一本でやっている人もかなり増えましたし、業界には女性の先輩が多いので、女性にとっては働きやすいと思います。
 

意味不明な表現が1カ所でもあったらダメ

JVTAがロサンゼルスに支社を設立する際の担当スタッフに任命され、昨年2月に渡米しました。マネージャーとして管理実務に携わる一方、それまでと同様に英日映像翻訳や日本のアニメや映画の日英映像翻訳など、翻訳実務のディレクションも私の仕事です。アメリカに来てからは時間がなくて、フリーの立場で映像翻訳を手掛ける機会がないのが残念ですが、時間ができたらぜひ再開したいですね。
 
アメリカで映像翻訳をするメリットですか? 
テレビ番組や時事問題に関わる映像では、現地にいれば事実関係や付帯情報を、適確に、瞬時に捉えることができます。例えば、ある人物がインタビューで前夜の『Saturday Night Live』の話題を口にしたとしましょう。日本で同番組を見ることができなければ、優秀な翻訳者でもお手上げですよね。反対に気を付けなければならないのは、アメリカで英語漬けの生活に慣れると、気付かないうちに日本語力が下がること。バランス良くブラッシュアップする努力が必要です。
 
映像翻訳では「1つの正解」はありません。ディレクターの好みになるべく近付けるテクニックや、視聴者を納得させる完成度の高い翻訳が求められます。自分が作った字幕がそのままオンエアされるつもりで取り組む覚悟が必要ですね。
 
字幕は文字数制限との戦いでもあります。毎秒4文字が原則で、句読点は使いません。1行の文字数も限られています。セリフを全部字幕に翻訳しようとしたら、画面の半分くらいが文字で埋まってしまいますよね(笑)。ですから、情報を取捨選択できる力も必要です。日本語字幕の場合、漢字とカタカナ、平仮名のバランスにまでこだわるんですよ。
 
日常生活で出会う翻訳文には、直訳調で表現が難解なものが多い気がしませんか?
しかし、字幕では一読して意味が分かりにくい表現が1カ所でもあったらアウト。JVTAの受講生時代に、そうしないための訓練を徹底的に受けました。
 
講師から言われた言葉で未だに覚えているのが、「一瞬で理解できない字幕は、画面を汚すだけ」。あいまいな言葉や一読でわかりにくい不親切な字幕は、多くの制作者が大切に思う作品を汚しているだけだという意味です。映像翻訳に関わる私たちにとって、厳しくも意味深い教訓であり、いつも思い起こすようにしています。
 

感受性を豊かにして
好奇心を持つこと

映像翻訳をやっていて厳しいと感じるのは納期です。30分の番組で1週間くらい、60分で10日弱です。作業時間の3~4割をリサーチ、つまり調べものが占めます。図書館に行って資料を探したり、辞典を調べたり、もちろんネットとは常ににらめっこ状態。適当な訳語が見つかられないジレンマは毎度のことで、自分の語彙力のなさにヘコむこともあります。
 
逆に訳文が映像に上手くハマった時は爽快です。自分が字幕を手掛けた作品がオンエアされたり、DVDになっているのを見た時もうれしいですね。
 
作業中は幾度となく放り投げたくなるんですが、必死になってやった作品が仕上がると、感激もひとしおです。そういう小さな喜びの連続に支えられて何とかやっているのかもしれません。
 
映像翻訳の仕事を目指す人に向けてのアドバイスは、専門スキルを学ぶ前に、とにかく色々な番組や作品を見ることだと思います。字幕がどういうものか知らないと、字幕は作れませんからね(笑)。たくさんの字幕や吹替えの実例を身体で感じ取った上で、演習を積み重ねるのが近道です。
 
もう1つ、感受性を豊かにして、好奇心を持つことも大事です。苦手意識を作らないで、どんな映像と向き合っても、まずは自分が楽しめる人が向いているかな。見慣れない映像でも、色々調べているうちに面白くなることはよくあります。また、最初のうちは自分が納得する訳文ができるまで時間を惜しまないこと。時間をかけた訳文は、プロが見ればすぐにわかりますから。努力を注ぎ込んだ原稿は、必ず評価されます。
 
今後は、日本のユニークな作品をアメリカに紹介する事業を進めていきたい。映像翻訳を通じて、米日の言語や文化の壁を少しでも取り払う存在になれればと思います。
 

 
(2009年5月1日)

調停人(その他専門職):ロッキー森さん

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は調停人のロッキー森さんを紹介。法廷で闘うのが弁護士なら、裁判せずに当事者を歩み寄らせて和解させるのが調停人。離婚などの家庭内問題や家主・テナント問題など、民事関連一切を扱う。

【プロフィール】ろっきー・もり■宮崎県出身。一家で渡米後、ロサンゼルス・コミュニティーカレッジを卒業し、経理、営業などを経験。1976年、宮崎県人会を発足。「アメリカ宮崎桜の会」を設立し、レーガン博物館などに300本の桜を植樹。2005年にカリフォルニア州公認の調停人資格を取得する。ベンチュラ調停人委員会メンバー、ベンチュラ郡上級裁判所調停人

そもそもアメリカで働くには?

日本人初のバンドメンバー
独特なことをしたい

父は戦前、サンタマリアでイチゴ園をやっており、太平洋戦争直前に帰国し、私と弟妹は宮崎県で生まれました。1960年に一家で渡米しました。私たちが落ち着いたのはニュージャージー州のシーブルック農園。この農園オーナーのシーブルックさんは戦時中、収容所の日系人数千人を支援した人で、農園界隈には仏教会やキリスト教会まである日系コミュニティーができていました。
 
当時、私は高校2年生で、英語は全然わかりませんでした。でも、日本で吹奏楽部に所属していて、英語は読めなくても楽譜は読めたので、現地の高校でも吹奏学部に入部しました。マーチングバンドで演奏していた頃、アメリカ人の友達ができて、英会話を習うと同時にバンドを結成、ギターとベースを担当していました。
 
64年にロサンゼルスに引っ越し、私はロサンゼルス・コミュニティーカレッジに入学して会計を勉強しました。卒業後は会計の仕事をしていましたが、日系TV局のセールスマネージャーをやらないかと誘われて転職しました。その頃、スポンサーとは日本式の付き合いで、毎日のように食べて、飲んで、ゴルフして、という生活でした。
 

野茂選手の入団スクープで
交渉の必要性を実感

桜の植樹に際して、シミバレー市長(右)と

その後15年近く、経営やマネージャーなどのレストラン業務を経て、留学生やホームステイ受け入れ会社を設立、留学生斡旋業をしながら日本では英語サマーキャンプなどを開催しました。そうした中、89年に知り合いの紹介で大手日系旅行会社の下請け業務を行う会社も作り、一般旅行者対象の観光案内業務も始めることにしました。朝早くから夜遅くまで拘束され、かなりきつい仕事でした。
 
しかし、今の仕事につながるきっかけが、この時に生まれました。95年にスポーツ新聞関係者と2週間の契約で、野茂選手の大リーグ入団のスクープを追いかけたのです。野茂選手がどこにいるのかもわからないし、色々な球団に電話したり、エージェントのダン野村氏を直撃しようと張り込んだりもしましたが、どうしてもドジャース入団という確証がつかめない。時間も残り少なくなった頃、ドジャース関係者の1人と親しくなっていたので、直接電話してカマをかけたんです。そうした「トリック」で何とか情報を得ました。
 
知りたい情報をどうやって聞き出すかなど、交渉の必要性を感じるようになったのはこの頃からです。
 

病気がきっかけ
人の役に立ちたい

99年に心臓発作を起こし、バイパス手術を受け、ツアー関係の仕事は体力的に続けられなくなり、2001年にたたみました。それを機に、これまでアメリカで生きてきた40年は何だったのか、何をしてきたのかなど、残された自分の人生を深く考えるようになりました。次世代に何かを残したい、そして、人のためになることをしながら人生を送りたいと思うようになりました。
 
それで05年に、ペパーダイン大学ロースクールのストラス研究所で、折衝と論争解決法を受講して、カリフォルニア州公認の調停人資格を取得しました。ベンチュラの調停人委員会のメンバーになり、ベンチュラ郡上級裁判所でスモールクレイムコートの調停人をしながら、日系社会の方々のトラブル解決を、調停を通してお手伝いをしています。
 
調停人というのは、どちらの肩も持たない第3者の立場で、利害の相対する両者の歩み寄りを引き出し双方が満足できる、つまり「ウィン・ウィン」で和解できるように導いていくのが、役割です。裁判では、どうしても負けた方に恨みが残りますし、裁判過程は公文書として記録に残ります。しかし、調停での過程は法律で守秘が約束され、仮にその後裁判となっても、調停で話し合われた事柄を法廷に持ち込むことはできません。
 
また、調停人はどちらが正しく、どちらが間違っているかを判断する立場ではありませんので、お互いにとって、何がベストなのかを探り出し、提案することが重要です。調停には教科書はありません。人生経験も必要なので、若い人には難しいかも知れません。現にペパーダイン大で受講していた人たちも、ほとんどが引退した裁判官や弁護士たちでした。
 
裁判所では、午前中の公判だけでも35、36件の訴訟を取り扱い、約3分の1が調停での解決に回されます。裁判所での調停は平均80%弱で和解が成立し、和解合意書をその場で書き上げるのですが、限られた時間内で和解まで持って行くのは並大抵ではありません。しかし、ぎりぎりまで話し合って合意に達することができ、原告と被告の両者が感激のあまりハグするのを見ると、人のためになって良かったと、調停人としての誇りと感動を覚えます。
 
最近、離婚問題を扱うことが増えてきました。このようなケースでは、お互いの感情が先走り、何が原因でもめていたのかを忘れて泥沼化することが多く、特に親権の問題については、いつも「もしこれが自分の身内だったら」と考えて冷静に、親身に対応しています。また、学生からアパートのデポジット問題の相談が多くなってきましたので、留学生向けのセミナーを実施できたらと考えています。
 
私は心臓発作を起こしてバイバスとペースメーカーの手術を受けましたので、先があまりないと痛感しました。何かを残したいという思いから、自分の第2の故郷、シミバレー市に桜の木を植えようと、アメリカ宮崎桜の会を設立しました。今では同市庁舎の周りや学校に100本、レーガンライブラリーに約200本、計300本の桜を植え、レーガンライブラリーでは桜祭りを催してきました。
 
妻には「日本にこだわり過ぎ」と言われますが、これまでずっと日本を代表するつもりで生活してきました。日本からニュージャージーに着いてすぐ、英語が話せないフラストレーションからアメリカ人生徒とケンカして、相手にケガをさせてしまいました。その時、叔父に「お前は日本人の恥」と言われたことが、今でも耳に残っています。ですから、日本からアメリカに来ている若い人たちも、日本人であることを忘れずに、自分の足跡を残せるアメリカ生活をしてほしいと思います。
 

(2009年4月1日号掲載)

ローンオフィサー(その他専門職):横山 貴恵さん

今回は、ローンオフィサーの横山貴恵さんを紹介。日本での事務職に満足できず、野心を抱いてアメリカに留学。JPモルガン・チェース銀行の中で、日本文化を理解するローンオフィサーとしての活躍について聞いた。

【プロフィール】よこやま・たかえ■京都府出身。京都女子大学を卒業後、大手製薬会社に就職。退職後、米系半導体・精密機器の商社に勤務する。1998年、留学のため渡米。サンタモニカ・カレッジを経て、UCLAで社会学の学士号を取得。2003年に卒業後、JPモルガン・チェース銀行にローンオフィサーとして就職、現在に至る

そもそもアメリカで働くには?

キャリアを磨くため
日本を脱出、留学

社会学のバックグラウンドも
キャリアに役立っている
(UCLAでの卒業式にて)

日本の大学を卒業後、学校の紹介で製薬会社に就職しました。アメリカの医薬品を日本で販売する大手企業でしたが、女性はあくまでもアシスタント的な役割。当時は、どんなに優秀な女性も昇進の難しい時代で、やる気のある女性は皆同じような悩みを抱えていました。私も、この先、何年働いても同じだろうと見切りをつけ、3年半で退社しました。
 
その後、米系の半導体を扱う商社に入り、カスタマーサービスの仕事をしました。社内には帰国子女も多く、雰囲気は前の会社より良かったのですが、やはり日本的な社風は変わらず、「日本を出よう」と決意しました。
 
そして、1998年に渡米。UCLAでソーシャルワーカーになるべく、社会福祉の勉強をしました。ところが卒業した頃は、社会福祉に対する国の予算が非常に少なく、新規職員の採用が凍結されていたこともあり、その分野での就職も難しくなっていました。迷っている時に、義理の姉の紹介で、チェースのマネージャーからローンオフィサーの就職口をいただいたんです。
 
求人の応募要項には、ファイナンスのキャリアが3年以上、英語力もかなり要求されるとありました。「私は要求される条件に見合わないと思う」と伝えたのですが、「とりあえず、おしゃべりしに来てください」と言われて出向くことに。そして、面接の1時間のうちに気持ちがすっかり変わったんです。
 
マネージャーによると、ローンオフィサーの仕事は借り入れの相談から契約、返済の相談といった一連の流れに携わるのですが、そのなかでも、カスタマーサービスが非常に大切であり、今、社として日本人を始めとする顧客の言葉や文化が理解できる人を必要としているとのことでした。実際、社内には財務や経済のみならず、社会学や心理学を学んできた人も多いんです。顧客と密着して働く仕事なので、金融の知識があるだけでなく、信頼関係を結べないといけない、社会学のバックグラウンドも十分に役に立つと言われました。また、金融関係のシステムについては、トレーニングするので心配はいらないとのこと。お客様の手助けができるのなら、と入社を決めました。
 

大切なのは顧客やチームとの
緊密なコミュニケーション

入社後はまず、ローンの申請書類を処理するプロセッサーのアシスタントから始まりました。分厚い申請書類や契約書をコピーしながら、書類の内容や実務、具体的な銀行手続き、その中身について学びました。同時に会社のトレーニングプログラムを受け、ひたすら勉強しました。
 
ローンオフィサーは、ローンを必要とする顧客を開拓しなければなりません。また、お客様がいたとしても、実際にローンが下りなければ、お役に立ったことにはなりません。お客様のコンサルテーションが始まったら、住宅購入期間のおよそ30日間、ローン承認までお世話することになります。顧客開発に営業やマーケティングは大切ですが、おかげさまで、これまでのお客様からの紹介や、信頼関係のある不動産エージェントの方などから紹介を受けることが多いですね。
 
私の日課はまず、朝1番にEメールをチェックし、問い合わせのあったお客様の所に出向きます。そしてオフィスに戻って、進行しているローン申請の進捗を確認します。一旦お客様がローン申請を始めたら、私の下でさまざまな専門分野をカバーする担当者たちが動き出しますし、社外でも不動産会社やエスクロー会社、タイトル会社など、多くの人が関わってきます。私はその一部なので、ローンの進行を確認するのは肝心なこと。1日でも遅れると、信頼関係が損なわれてしまいます。
 
複雑な仕事ですし、自分でコントロールできない部分も多いので、ストレスも重なります。社内では調和を保ちつつプロセスを進め、お客様には安心してもらえるように対応していかなければなりません。お客様のことを考えると、眠れない時もあります。気が付くと、朝から晩まで、土日も仕事しています。
 
とはいえ、自分の裁量で勤務時間を決められるという利点はあります。また、やったらやっただけの報酬がいただけるので、やりがいもあります。ノルマもありますので、今のような時期は特に厳しいですが。男女の差がないところもいいですね。勉強するのも、昇給するのも自分次第。それに合わせて、会社がトレーニングを提供してくれるところも恵まれています。
 
ですが、競争相手も多いので、どこか違ったサービスを提供していかなければなりません。私は常に丁寧に、気持ちを込めたサービスを心がけています。お客様と出会えたご縁を大切にしています。やはり家の購入は人生においてそう何度とない大切な買い物です。お客様が心理的に不安定になったり、心配されたりすることが多いのですが、緊密にコミュニケーションを取って、不安要素を解消できるよう努力しています。

アメリカンドリームを
実現させる手助けに

家を買うというのは、誰にとってもアメリカンドリームです。その第一歩が資金計画。住宅ローンの仕組みを知って、無理のないプランを立てるのがとても大切です。そのお手伝いができるというのは本当に光栄なことです。皆さんが夢に向かって頑張っておられる姿に、こちらもいいエネルギーをいただいています。
 
これからも精神的・経済的に自立した女性でありたいと思っていますし、家庭も大切にしたいですね。また、仕事の面でも、お客様にもっと信頼してもらえるよう、自分なりに努力を重ねていきたいと思っています。この仕事は人に会うのが好きな人、接客が好きな人に、とても適しています。数字は毎日見るわけですから、すぐに強くなれます。逆にあまり数字に気持ちが向いていると、良いカスタマーサービスができないと思うんです。それよりも、お客様と色々な話をして、相手の立場になって考え、提案できることが大切だと思います。
 

 

(2009年3月1日号掲載)

構造設計士(その他専門職):與座敏安さん

今回は、構造設計の分野で世界的に有名なARUP社で構造設計士として活躍する與座敏安さんを紹介。沖縄の県費奨学金でアメリカ留学。憧れの会社に入社し、構造設計の醍醐味を日々味わっている

【プロフィール】よざ・としやす■沖縄県出身。大学院まで建築学部で構造学を専攻する。卒業後、2004年に県費奨学金を得て、05年にニューヨーク州立大学バッファロー校大学院に留学。同院卒業後、07年8月に構造設計で世界的に有名なARUPに入社。www.arup.com

そもそもアメリカで働くには?

感性に関係なく
正しいものが評価される

元々数学や物理が好きで、建築家になりたかった。でも、勉強しているうちに、構造の方が楽しいなって。建築デザインは、自分の感性で「これがいい」と思っても、周りの人が評価しないと自分の感覚が評価されることはありません。でも、構造は、人の評価とは関係なしに、ズバッと決まる。素直なんです。学生でも、自分の計算が正しければ、絶対正しい。そして、構造はやればやるほど理解が深まり、評価される気がします。
 
それで大学院まで建築学部で構造の勉強をして、日本での就職を考えていた2004年、沖縄の県費奨学金が得られることになり、翌年、ニューヨーク州立大バッファロー校の大学院に留学をしました。バッファローを選んだのは、耐震構造分野で良いプログラムを持っていたし、実験施設も充実していたので。
 
留学を決めて、日本での大学院最後の1年が1番忙しかったです。修士論文を書きながら、奨学金の手続きや、TOEFLなど留学に向けての試験勉強もしなきゃいけない。マラソンもやっていたので、その練習もして。週に2回フルマラソンに出場したこともあります。かなり密度の濃い1年でした。
 
一応日本の大学院で勉強しているから、バッファローでは、英語のハンデはあっても何とか付いて行けると思っていたのですが、まったくレベルが違いました。アメリカでは学部レベルで履修済みであるべきものも、私は全然知らなかったんです。元々その授業自体が難しかったんですが、最初は本当に大変でした。ただ、バッファローは勉強するには良い所で、誘惑が全然ない(苦笑)。常夏の沖縄から環境がまったく違う所に行けて楽しかったですね。バッファローで初めて四季を味わったんですよ。でも、2年目の最後の頃には、海が恋しくなりましたが。

建築家と対等な
アメリカの構造設計士

現在手がけている野外ステージのプロジェクト

2年でマスターが取れ、アメリカに残って働きたいと思ったので、海のある西海岸で就職を探しました。今、在籍するARUPは、構造の分野では有名な会社だったので日本にいる時から知っていました。面接を受けに来た時も、「とうとう来てしまった、憧れの会社に」みたいな状態でした。面接を受けたのはARUPも含め2社だけで、ARUPが先に決まり、自分が1番行きたい会社だったので、即決しました。それが07年8月です。構造を手がけている会社は、修士号以上を取得した人じゃないと、採用してくれないことが多いです。今はPhDを持っている人も多くなってきています。
 
入社してパサデナのArt Center of CollegeのNorth Campusなどの耐震補強、最近やったのが、プラヤデルレイにできるハリウッドボウルのような野外ステージ。そして今は、フロリダにある劇場の構造設計を手がけています。私は入社したばかりだから、色んなモデルを作って計算してレポート書いたり、建築家が図面を持ってきて「これで大丈夫か?」と聞かれたら計算して、「これはまずい」みたいにアドバイスしたり。実際に建てることはできるかもしれないけれど、コストはものすごくかかるとか。そういう面で、アメリカはかなり建築家と構造設計士は対等にやっていますね。
 
建築家の設計に対し、デザイン変更をしたり、ダメ出しすることもあります。ARUPは、北京オリンピックの「鳥の巣」とか「ウォーターキューブ」とか、奇抜なデザインの構造計算が得意分野。手強い物が多いんです。「こんなのできない」って言うと、「君たちはARUPだろ。できるよね」と言われたりします。
 
今、建築のソフトウェアがドンドン発達して、色んな曲線とか曲面とか、三次元のモデリングが簡単にできてしまいます。建築家はコンピューターの中で凝ったデザインの建物を設計しますが、いざ建てようと思っても、なかなか思い通りにはいきません。建築家が実際の世界には重力があり、風が吹き、地震もあるということを理解してくれないと。
 
構造は計算だけじゃなく、建築家的な側面もあるんです。「鳥の巣」や「ウォーターキューブ」は、構造物自体が建築の主要な部分を占めています。そういうものだと、さらにやりがいがありますね。

自分のミスが
人の死につながる

構造設計の面白味を言葉で説明するのは難しいですね。物の挙動が、ある程度の幅で計算して予測できるところかな。ただ単純に計算するのではなく、人間工学も入ってくるんです。ただし、自分の仕事の責任、失敗した時の結果を考えたら、プレッシャーを感じます。自分がデザインして、地震が来た時に壊れたりしたら、人が死ぬこともあります。でも、地震はなかなか来ません。来ないとみんな大変さを忘れます。大事な仕事ですが、構造設計士が実際に何をやっているのか目に見えないから、予算を割きたくないわけです。責任重大の割に軽く扱われているような感はありますが、やはり楽しくてやりがいがあるので、苦にはならないです。学ぶこともまだまだいっぱいありますし。
 
今の目標ですか? 「これが目標」ってゴールは設けていないです。自分がどこまでできるか、挑戦し続けたい。実際やってみないと、自分がどこまでできるか確認できませんから。
 
20年後、30年後の自分が完全に見えてしまっていたら、悲しくなるんですよ。自分がどこに行くか分からないから、どこまでできるか分からないから、リスクはあるかもしれないけれど、その分楽しいんです。まぁ、失敗したら後悔するんでしょうが(苦笑)。
 
構造設計は常に勉強。学校で習うのは、本当に必要なことのさわりだけ。常にチャレンジ精神を忘れず、プロジェクトを通して勉強していかないと。後は、責任とプレッシャーを楽しめるか。この仕事が本当に好きじゃないと、結構つらいと思いますよ。
 

(2008年12月16日号掲載)

ピラティス・インストラクター(その他専門職):アボット 由三子さん

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、ピラティス・インストラクターのアボット由三子さんを紹介。ピラティスの第一人者、ラエル・イザコヴィッツ氏から直接指導を受け、サンディエゴでクラスを開講中。

【プロフィール】あぼっと・ゆみこ■1965年福岡県生まれ。ファイナンシャルプランナーとして勤務後、2001年に渡米。グロスモント・カレッジにてビジネス学士取得後、「BASI」に入学し、05年、ピラティスのインストラクター資格を取得。今年7月にサンディエゴで日本語ピラティスクラスを開講。www.yabbott.com

そもそもアメリカで働くには?

経験なしでいきなり
インストラクターを目指す

クラスは日本語で行われているので、
理解しやすい

渡米したのは2001年です。それまでは、日本でファイナンシャルプランナーとして、10年ほど働いていたのですが、日本の経済が低迷していたこともあり、アメリカ留学を決意しました。
 
初めは語学学校に通い、その後、サンディエゴのグロスモント・カレッジに入学しました。ゆくゆくは4年制大学にトランスファーして、アメリカの金融について勉強したいと考えていたのですが、グロスモント・カレッジ在学時に主人と出会い、結婚することになったのです。
 
その後、ロサンゼルスに引っ越し、私は主婦業をする傍ら、学校に通ったり、パートタイムで仕事をしたりしていました。その頃に気付いたのが、アメリカの医療費の高さや、日本とはまったく違う医療保険のシステム。大きな病気をした時の自己負担額は相当なものですし、医療保険に加入していたとしても、治療費すべてがカバーされるとは限りません。先のことを考えると、アメリカに住むにあたり、1番大切なのは「健康」なのではないかと、強く思ったんですよね。
 
そんな時、ふと目に留まったのが、ライトハウスに掲載されていた「ピラティス・インストラクターになりませんか?」という内容の広告。それまでピラティスを習ったことはなかったのですが、ちょっと興味があったせいか、「これだ!」と、インスピレーションを感じてしまったんです。
 
早速、ニューポートビーチにあるBody Art and Science International(BASI)という学校に入学し、そこで一からピラティスを学びました。その学校の創設者は、ピラティス界では著名なラエル・イザコヴィッツ氏という人で、私はラッキーにもラエルから直接指導を受け、1年ほどでインストラクターの資格を取得しました。
 
資格試験には実技もあったのですが、300種類以上もあるエクササイズの中から、実際に出題されるのは3つだけ。しかし、どのエクササイズが出題されるかわかりませんので、すべてを完璧に覚えなければなりません。毎日、毎日、体に刷り込むように練習しました。
 

ピラティスの特徴は
インナーマッスルを鍛える

コース修了時、イザコヴィッツ氏と一緒に

ピラティスは日本でも人気があり、ダイエットのためのエクササイズと思われている方も多いと思います。しかし、元々は第一次世界大戦時、負傷した兵士たちのリハビリのために、ドイツ人のジョセフ・ピラティス氏が考案したエクササイズです。
 
ピラティスの特徴は、インナーマッスルを鍛えることです。インナーマッスルというのは、身体の内側に付いている筋肉で、内臓や骨を支える働きをしています。最も重要な部分は、お腹の辺りに付いている筋肉で、私たちの身体を支える大切な役割を果たしています。その筋肉が弱くなると、身体の重心がずれ、その結果、腰痛や膝痛を引き起こすことがあります。
 
現在、サンディエゴ市内3カ所(ダウンタウン、イーストレイク、コンボイエリア)で、30人ほどの生徒さんにレッスンを行っています。20~60代の女性がほとんどですが、最近はご夫婦で参加する方も増えています。
 
皆さん、初めのうちは、「こんな筋肉痛は初めて」と驚かれますが、慣れてくると筋肉痛になることもなく、「身体が伸びて気持ちがいい」と楽しまれているようです。ピラティスは、年齢に関係なく、子供からお年寄りまで無理なく続けられるのも魅力ではないかと思います。
 
人それぞれ、身体つきや強さ、柔軟性が違いますので、クラスでは、その人の身体の状態に合わせた指導ができるよう、心がけています。ピラティスは人との競争ではありませんから、生徒さんが「みんなはできるのに、私にはできない」と自信をなくさないよう、身体の違いをわかりやすく説明することも大切ですね。
 

ムーブメントの
1つ1つに意味がある

私は、ピラティスを指導していますが、同時に今でも、定期的にオレンジ・カウンティーに足を運び、優秀な先生たちから指導を受けています。1週間ほどクラスを受講するだけでインストラクターの資格がもらえる所もあると聞いたことがありますが、ピラティスはポーズを真似するだけでは効果は上がりません。1つ1つのムーブメントには意味があり、使わなければならない筋肉の箇所も決まっています。間違った筋肉を使うと首が痛くなったり、腰を痛めたりすることもあるので、テレビやDVDを見て行っている人は、気を付けてほしいですね。
 
インストラクターとして、生徒さんが「ここの筋肉が付いてきた」とか「最近身体の調子がいい」と、効果を感じてくれるのはとてもうれしいですね。人と関わる仕事は楽しいですし、健康で、はつらつとした皆さんの顔を見るたびに、この仕事のやりがいを感じます。
 
私は、渡米したのが35歳の時でした。読者の方の中には、夢に向かって頑張っていらっしゃる方も多いと思いますが、アメリカでは年齢は関係ありませんし、「もう年だから」とか、「できるかな?」などと躊躇せず、やりたいことにトライして、チャンスを掴んでほしいなと思います。ピラティスのインストラクター養成コースには、70代で参加されている方もいるんですよ。私もそのバイタリティーを見習って、これからも頑張ります。
 

 

(2008年11月16日号掲載)

弁護士(その他専門職):吉原 今日子さん

目標や夢って転がっているものではなく
色んなことを経験しながら
意識して見つけていくもの

英文学科を卒業した日本人女性が、一念発起して渡米。MBAを取得し、さらにカリフォルニア州の弁護士となった。前進し続ける吉原さんに、これまでの人生とアメリカで働くコツを聞いた。

【プロフィール】よしはら・きょうこ■日本で大学を卒業後、渡米。University of San Diegoで経営学を学び、MBAを取得。 その後、法学博士(JD)を取得。在学中は、インターンとして家族法や不動産法にも携わる。司法試験合格後、Taki Law Officesで移民法を専門に活動している

そもそもアメリカで働くには?

3日間の耐久試験で弁護士資格を取得

笑顔を絶やさず業務に励む吉原さん

 渡米したのは9年前。当時、日本の大学の英文科を卒業して、即就職しようとは思わなかったです。「英文科卒の女子なんて、将来が見えている…」と思って。その頃からアメリカ留学はしたいと思っていましたが、目的なしの渡米は意味がないことはわかっていました。「自分は何をやりたいのか」を見つけるために、色々勉強してみました。そして出た結論が「経営学を学ぶ」ということでした。
 アメリカの大学院に入学し、2年ほどでMBAを取得。卒業後、就職口はありましたが、まだ勉強したいという気持ちが強く、昔からあこがれていた弁護士になりたいと、ロースクールに通うことにしました。
 ロースクールには3年通いました。入学時の6割の人しか卒業できない世界で、4年制大学修了と同等数の単位を3年間で終える必要があり、とても大変でした。卒業後、カリフォルニア州の司法試験を受験。16教科の試験があり、忍耐勝負の3日間耐久テストでした。テストには、選択問題、エッセイ、実例に則した問題を問うシミュレーションの3つあるのですが、私にはシミュレーションテストが1番難しかったですね。申立書を3時間で完成させるなんて、弁護士になってもないことですよ。カリフォルニア州の司法試験の合格率は4割ほどなので、合格した時は、喜びというより安堵でした。

決めたからには自分で責任を取る

 日本人がアメリカで頑張るには、必ず英語の壁にぶち当たります。私もそうでした。特に最初のビジネススクールではつらい思いをしました。成績の20%が「Participation」で評価されるのですが、単に授業に出席するだけではダメで、議論やグループワークでの積極的な発言が要求されるのです。当時のクラスメイトは、マーケティングやファイナンス、会計などの分野で、実際に弁護士やエンジニア、会社役員だったりするわけで、私とは社会経験や興味のレベルがまったく違う。みんな「私の経験からすると…」や「私の会社では…」という切り込み方をするんですが、私には語れるだけのバックグラウンドはない。でも、彼らと肩を並べて発言しなければならない。正直、どうしたらいいのかわかりませんでした。
 それで私がやったのは、『エコノミスト』や『ウォールストリート・ジャーナル』を読み、授業に関連する記事をピックアップして、クラスでは自分の経験に即した発言であるかのように問題提起してみる(笑)。グループプロジェクトでは、一生懸命参加しなければならないという意識がある反面、やはり周りの人の足を引っ張りたくない、迷惑をかける外国人と思われたくないという気持ちがありました。でも、半年、1年経つにつれ、アメリカ人の方からチームに入ってほしいと言われた時は、正直うれしかったです。
 今考えると、「自分で決めたから」という思いがずっと私の背中を押していましたね。「決めたからには、自分で責任を取る」という気持ち。将来アメリカで仕事をするためにも、今はできるだけのことをしておかなければと考えていました。

「自己主張」と「自己責任」米社会ではこれが重要

 これまで自分は、その瞬間、瞬間で勝負してきましたから、皆さんが思われるほど立派だとは思っていないんですよ。やりたいことをやってきただけ。しかし、やりたいことや目標を見つけるのは難しいこと。目標や夢って転がっているものではなく、色んなことを経験しながら、意識して見つけていくものだと私は思います。生まれつきすべきことがわかっている人なんて、わずかしかいません。
 何かを突き詰めて頑張ろうとした時、日本とアメリカでは背負うおもりが違います。日本は「女だから」「年も年だし」「今さらどうして?」など、余計なプレッシャーが付きまといますが、アメリカはありません。だから飛び立とうとした時に軽いのです。だからこそ、こちらにいる日本人は、自分にレッテルを貼らず、やりたいことや好きなことをやってほしいですね。
 アメリカで働いていて思うことは、この国では「自己主張」と「自己責任」が必要ということです。アメリカでは「沈黙」は「美徳」ではなく、「完璧な理解と同意」です。例えば上司が間違ったことを発言しても、日本の場合「空気」を読み、相手の顔色を見ながらあえて黙っています。しかしアメリカでは、それをしていると周りから自分も同じ人間と思われます。だから疑問に感じたりおかしいと思ったら、それをきちんと主張することが必要となります。
 また、日本の会社では今でも連帯責任の風潮があります。誰かが失敗した場合、本人はもちろんですが、その上司が謝ります。でもアメリカでは、上司には頼れません。失敗したのは本人。上司は悪くないですから。だから、アメリカでは、「自己主張」をすると共に、「自己責任」を取る覚悟がいる。これを理解しないと、アメリカ社会では働くのは難しいと思います。

弁護士になったのは日本人を応援したいから

 今はトーランスのTaki Law Officesで、移民法を専門に扱っています。日頃の業務で思うことは、移民のケースはすべてが移民局の審査官の手にあるということです。例えば、2人の申請者の経歴やバックグラウンドがほぼ同じでも、一方だけ落ちたりします。審査官も人間ですから、同じケースでも受け取り方が違うのです。最近はビザ取得が難しく、自分のやる気や思いだけではどうしようもない時があります。しかし仮にいい結果が出なかったとしても、「誰がやってもそうなっていた」と言えるくらいに、常に一生懸命やっています。
 実は弁護士になった理由の1つに、アメリカで夢に向かって頑張る日本人を応援したい、日本のビジネスをアメリカで広げる仕事がしたいという気持ちがありました。外国人である以上、移民法は必ず関わってくる問題です。そういう意味では、やりたかった仕事ができていると思います。
 
(2008年10月1日号掲載)

幼稚園教諭(その他専門職):西尾 暁子さん

子供にとって幼稚園は初めての社会
人間形成の場に携われることが素晴らしい

 今回は、南カリフォルニア大学付属幼稚園でクラスを担当している西尾暁子さんをご紹介。アメリカの幼児教育の現場に携わって5年。日米の幼児教育の良いところを集めた理想の幼稚園を作りたいという夢がある。

【プロフィール】にしお・あきこ■1973年奈良県生まれ。天理大学体育学部体育学科卒業後、地元の中学校で3年間、体育教師として勤務。98年に留学のため渡米。UCLAのエクステンションで早期幼児教育の資格を取得、サンタモニカ・カレッジで学士号。USC付属School of Early Childhood Education勤務

そもそもアメリカで働くには?

日々成長する子供に感動 幼稚園に進路を決める

担任するクラスでパジャマパーティーをした時の記念写真

 中学校1年生でソフトテニスを始め、高校も大学もテニスで入学しました。高校の時は全国ランキング4位、大学では国体7位。全国大会の個人で準優勝し、日本一を目指していました。実業団からの誘いもありましたが、選手生命は短いので、ずっとテニスを続けられる指導者、教師の道を選びました。
 日中は中学生にテニスを教え、夜は大学の体育学部で指導する日々。1年中テニスに明け暮れていましたが、23歳の時に初めて10日間という長期の休みを取ることに。インディアナポリスに留学している友人を訪ねたところ、自分ももっと世界を広げたいと思い、2年間の準備を経て、ニュージャージーに語学留学しました。当初は半年で帰るつもりでしたが、大学に入って体育学や教育学について学ぼうと考え、スポーツをするのにふさわしい環境のカリフォルニアに移りました。
 ロサンゼルスでTOEFLの勉強をしている間に、たまたま始めた地元の幼稚園でのボランティアが私の転機となりました。これまで教えてきたのは中学生でしたから、3~5歳児は新鮮で、日々著しく成長していく姿は目を見張るものがありました。彼らにとって幼稚園は初めての社会、大切な人間形成の場です。そこに携われることの素晴らしさを知り、これ以上やりがいのある仕事はないと幼稚園教諭になることを決めました。そこで、UCLAエクステンションで早期幼児教育の資格取得のコースを、1年間取ることにしました。
 クラスの中に、なぜかいつも隣の席になる女性がいたのですが、知識も経験も非常に豊富な人で、聞くと南カリフォルニア大学(USC)の付属幼稚園でディレクターをしているとのこと。仕事を探しているならウチに来ないかと誘われて、そこでボランティアを始めました。そして、フルタイムでの採用にも応募してみることに。1つの枠に10人以上が応募し、面接官は20人もいましたが、ボランティアしていた時の勤務態度が評価され、採用が決まりました。アシスタントの期間を経て、現在クラス担任として3年目になります。

創造力や社会性を伸ばす 遊びにも目的がある

 アメリカでは現在、資格だけでアシスタントになれますが、2011年からは学士コースを取っていることが必要になります。また、教員になった後も自己啓発のために教育を受け続けることが求められています。私も現在、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校でコースを取っています。その学費は勤務先からは出ませんが、County of LA Childcare Planning Committeeといった公的機関から奨学金を受けられる可能性もあります。USC自体は私立大学ですが、付属幼稚園は州立ですので、教員になるには州からの認可も必要となります。
 この幼稚園は5つの園舎に分かれ、私が働く園には3~4歳児、4~5歳児のクラスが全部で11あり、1クラスに17~20人の園児がいます。低所得者層の家庭の子供が対象で、園児にはヒスパニック系やアフリカ系アメリカ人が多く、教員も大半がヒスパニック系かアフリカ系アメリカ人です。英語が話せない保護者も多いため、担任・副担任のどちらかがスペイン語を話せないといけません。100人の教員がいる中で、私は唯一の日本人です。
 幼稚園では漫然と子供たちを遊ばせるのではなく、1つ1つの活動に創造力や言語力、社会性を伸ばすという目的を持って行っています。クラスを担当する担任と副担任、スーパーバイザーが毎週ミーティングを開いてフォーカスする園児を5人選び、彼ら1人1人のニーズに合わせた活動を行います。活動の中には、日常の中で起こりうる問題をどのように解決するかを話し合う「I can solve problem.」といったものもあります。室内は科学、お家、コンピューター、アートなどコーナーが分かれており、遊ぶ前に園児にどこに行って何をするか計画させ、片付けた後にその日何をしたかを振り返り、発表する時間も設けています。

生きているって素晴らしい 感動できる教育の場を

 クラスには身体や精神に障害のある園児もいます。クラス全体を見る中でその子供といかに接していくかが難しいところですが、ほかの子供たちも学ぶことが多いので、こうしたインクルージョンのクラスがもっと日本でも増えるといいと思います。
 指導上注意しているのは、それぞれの個性を尊重すること。毎日全員に同じだけ声をかけ、できている点を見つけてほめるようにしています。また、園児を個人として認め、子供扱いしないようにしています。
 アメリカらしいと思うのは、創造性を伸ばすために子供に“見本”を見せないところです。日本では工作や絵画指導に見本を見せることが多いようですが、そうすると創造性が発揮されません。また見本と違うものを作ると、“間違っている”ことになります。活動には正解のない、自由な発想ができるもの、子供に失敗させない、自尊心を損なわないものを選んでいます。
 この仕事をしていてうれしいのは、子供たちの成長が見られた時。そこに自分が貢献できたことに喜びを感じます。「I love coming to school!」と目を輝かせてくれる姿を見ると、やっていて良かったと思います。また、子供の様子は日々保護者に報告していますが、特に良いところを必ず伝え、保護者と協力し合いながら、子供をバックアップしています。
 それから、体育教師だったことを活かし、健康的な生活を指導しています。園児に食べ物の選び方や運動の大切さを教え、例えばラップのリズムに合わせ、「ハンバーガーはノー、ノー。ミルクを飲もう!」と歌ったりしています。また、毎週月曜日は2時間かけて、園の周りを散歩しています。
 いつかアメリカと日本の幼児教育の良いところを集めた幼稚園を、作りたいと思っています。そして、「学校って楽しい」「生きているって楽しい」と子供たちに感じてもらえればと願っています。
 
(2008年9月16日号掲載)

モデル(その他専門職):竹谷 香織さん

何かになる必要などない。
自分であればいい
自分には自分だけの魅力があるのだから

今回はアメリカでTVコマーシャルや雑誌広告で活躍している、ライフスタイルモデルの竹谷香織さんをご紹介。競争の厳しいモデルの世界を生き抜き、自力で学び取ってきた成功へのコツを伝授してもらった。

【プロフィール】たけや・かおり■東京生まれ。武蔵野女子大学短期大学在学中にスカウトされ、モデルの世界へ。女性誌や広告、キャンペーンガールを経て渡米。ハリウッドの演劇学校に通いながら、エージェントに所属し、モデルとしてのキャリアをスタート。現在、「ライフスタイルモデル」として大手企業のCMや広告で活躍中

そもそもアメリカで働くには?

スカウトされてモデルに リセットするため渡米

スタイルも抜群の香織さん。ファッション
モデルとしてショーに出演することも

東京の短大に通っている時に山手線でスカウトされたことがきっかけで、モデルの道に入りました。ファッションモデル事務所に所属し、『CanCam』や『an.an』などの女性誌や雑誌広告の仕事を2年半ほどしましたが、この業界で自分らしさを失っていることに気付き、自分が目指す世界ではないと半年間休業することにしました。
 
その後、事務所を変わり、トヨタのレーシングチーム、TRDでキャンペーンガールを務めました。2年ほど続けましたが、華やかなこの世界も自分に合っていないと思うようになりました。当時、俳優養成所にも通い、演技の勉強もしていたので、そちらの道に進みたいという思いもありました。
 
モデルの仕事を始めて以来、自分はずっと流されている気がしました。また、家業の骨董品屋を継がなければならないという状況にもありました。そこでいったんすべてをフラットな状態にして、自分を見つめ直そうと、1年間、日本を離れてみることにしたんです。日頃から英語の必要性も感じていたので、アメリカで英語を勉強しようと、日本人の少ないサンタバーバラの語学学校に入りました。自分の世界が広がるのではという期待もありました。
 
東京では仕事に追われていたので、貯めてきたお金を使いながら学校に通うだけの日々というのは本当に楽しく、解放感あふれるものでした。そして、10カ月経った頃に答えが出ました。やはり芸能の道に進もうと。しかも、今度はアメリカで挑戦してみよう、何かをつかむまでは日本には帰らない。自分にとって大きな決断でした。
 
そこでロサンゼルスに居を移し、ハリウッドのシアター・オブ・アーツに入学。在学中にOPTが出るので、その間にいくつものエージェントに写真と履歴を送って、ハリウッドのエージェントに入りました。

エージェントはパートナー 売り込むのは自分自身

エージェントは日本とアメリカでは、そのあり方がまったく違います。日本ではエージェントが自分を売り込んでくれますが、アメリカではエージェントはオーディション情報を与えてくれ、ギャラの交渉をしてくれるところ。基本的には、自分で自分を売り込まなければなりません。エージェントは小さなところでも300人は所属しており、自分が仕事を取らないと存在さえ忘れられてしまいます。自分でオーディション用の写真を撮り、衣装もメークも自前です。エージェントとは二人三脚の関係ですので、自分をうまく売り込んでくれるところを見つける必要があります。また、こちらも自分が何をしたいか、きちんと伝えなければなりません。
 
また、エージェントは俳優業、CM、印刷広告と各専門に分かれているところも多く、地域でも郡ごとに分かれています。私の場合、ロサンゼルスでは各専門分野のエージェント3カ所に入っています。また、オレンジ郡、サンディエゴのエージェントにも入っています。
 
私はエージェントとだけ契約を結んでいますが、マネージメント会社にも所属している人もいます。また、どの専門分野においても、「LAキャスティング」というオンライン会社に写真や個人情報を登録することが必要です。そして、ある程度実績のある人は、「SAG(映画俳優組合)」という労働組合にも入らなければなりません。

日頃の積み重ねが大きな自信へとつながる

最近はJCペニーのTVCMや、VISAカード、Best Buy、トヨタやノキアなどの広告の仕事をいただいています。この仕事で楽しいのは、色々な人に出会えること。毎回チームで協力し合い、1つの物を創り上げるというのが楽しいですね。
 
オーディションはいつ行われるかわからず、「明日来てください」というのはいい方で、「2時間後に来てください」ということもあるんです。ですから、チャンスをつかむためには24時間、万全の態勢でいなければなりません。
 
大きなオーディションになると、応募者800人のうち、オーディションに出られるのが50人、受かるのが1人というシビアな世界です。ですから、この仕事は精神的にタフでなければ続けていけません。オーディションはなければ不安ですが、何十と受けても1つも受からないという時は落ち込みます。電話が鳴っても怖くて取れず、気力を失い何もできない時期もありました。
 
でも、大切なのは「Let it go」。失敗から何かを学んだら、次に進めばいいんです。自分には自分だけの魅力がある。アメリカには色々な役があるのだから、自分に合った役が必ずあるはずです。私はこれまで、アメリカで「アジア人になろう」としていたのですが、「何かになろう」とすると、絶対に仕事が取れないんです。何かになる必要などない、自分であればいい。自分というものを見せることで、相手の発想を広げることにもなるのですから。
 
ジョージ・クルーニーが「オーディションで『Can I have a job?』ではなく、『May I help you?』という姿勢で臨むようになってから仕事が取れるようになった」と、語った話を聞いたことがあります。相手もいい人を探しているんです。だから、いい自分を持って行けば喜ばれる。それには毎日の積み重ねが大切です。私は毎朝の瞑想と入浴、3度の食事を欠かしません。英語の本の音読や英語の書き取りをしたり、ヨガやエクササイズも行っています。小さな積み重ねが自信につながり、オーディションでもあがらず、いい仕事ができる。すべてが自分次第なんです。
 
まだまだ達成したい目標はありますが、今の自分があるのは周りの人の助けがあったからこそ。これからは感謝を込めて人の役に立つことをしていきたいと思っています。
 
(2008年9月1日号掲載)

大学助教授(その他専門職):安池 明子さん

より良い社会を築くために
グローバル化を生き抜く目を育てたい

今回は大学で社会学部の助教授を務める安池明子さんをご紹介。社会学の世界に惹かれて教授の道へ。幅広い視点を持つことで、グローバル化社会を生き抜くことができるという信念の下、熱心に教鞭を執る。

【プロフィール】やすいけ・あきこ■1965年大阪府生まれ。関西学院大学文学部英文科卒。東京エレクトロンに4年間勤務し、ワシントン州ゴンザガ大学に留学。カリフォルニア州立大学ノースリッジ校で社会学修士号取得、96年南カリフォルニア大学社会学博士号課程に入り、2005年卒業。カリフォルニア・ルーセラン大学社会学部助教授。

そもそもアメリカで働くには?

OLから語学留学 女性学に出会う

学生たちとのトラベルセミナーでは、
京都・奈良・広島など14日間を共に過ごした

大阪でOLをしていた頃、30も間近になると職場もいづらい雰囲気で、ちょうど語学留学が流行っていた時期だったので、自分も行ってみようかと渡米を決めました。英語が上達したら1年くらいで帰って来ようという軽い気持ちでした。
 
ワシントン州スポケーンのゴンザガ大学で、最初は語学コースを取っていましたが、一般のクラスも取るようになり、そこで社会学の1つである女性学のクラスを受けたところ、非常に興味を持ち、大学に残って勉強してみることにしました。
 
女性学は当時日本ではあまり馴染みのない学問でしたが、アメリカのフェミニズム運動の流れから来たものです。これまでどんな分野でも男性の物の見方が中心となってきましたが、もっと女性にも焦点を当てていこうという学問で、日本で女性としての型にはまった生き方に疑問を感じていた私は、生きるヒントがもらえるような気がしました。
 
また、留学したおかげでアメリカという異国を知ると共に、日本の社会も客観的に見られるようになり、社会のあり方、社会学の面白さにも惹かれていきました。ゴンザガ大学の教養学部で学士号を取った後、せっかくだから修士号も取りたい、日本でできない勉強をやりたいと欲が出てきて、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校に移り、社会学の修士号を取ることにしました。
 
実は、留学用にしていた貯金は学士号を取った時点で底をついていました。両親が結婚資金にと、お金を貯めてくれていたのですが、「結婚資金は自分で払うから」と何とか説得して、大学院に進むことができました。ただ、博士号課程ではリサーチアシスタントやティーチングアシスタントをすれば、授業料と給料が学校から出るので自活していけます。これは私立大学でも公立の大学でも同様です。

現代の日本人を対象に移民と性差を研究

博士号課程に南カリフォルニア大学(USC)を選んだのは、そこの社会学部が女性に焦点を当てる女性学ではなく、男性と女性の関係性から学ぶ「ジェンダースタディー」を研究していたからです。GREという試験とこれまでの成績で入学が認められましたが、1学年10人という狭き門でした。
 
私が専門に研究したのは、「移民と性差」というテーマです。移民(Immigration)と言うより、移動(Migration)と言った方が的確かもしれません。今やグローバル化の時代。人の移動が進み、国境も曖昧になってきています。この人の移動は、政治や経済、教育にも関わってくるものです。しかし、アメリカでは日本人の移民の研究をしている人が少なく、わずかな研究はどれも1世、2世の頃のもの。これはアップデートしなければならないと思ったのです。アメリカで暮らす日本人を対象に、ジェンダーの関係を家族、仕事という要素に加え、移民という要素から見ていこうというのが私の研究でした。
 
ビザの関係で卒業を1年延ばし、9年でUSCを卒業しました。その後、教授になろうと思ったのは、教える仕事をしたいと思ったからでした。アメリカ人の学生たちに、物の見方を広げてもらいたいと思ったのです。この先、社会はますますグローバル化していくことでしょう。社会人として、色々な人とやっていける能力、柔軟性、理解力がないと生き抜いていけませんし、成功することもできません。
 
大学の方針により教授のあり方には2通りあり、教授が研究者として評価される「リサーチ・ユニバーシティー」と、教師として評価される「ティーチング・ユニバーシティー」がありますが、私は教務を重視するカリフォルニア・ルーセラン大学を就職先として選びました。

大学も国際化の時代 日本人であることが強みに

社会と同様、どこの大学もグローバル化を目指しています。学生にはいかにグローバルな社会を生きていくかを教えると同時に、外国人や外国生まれの教授を求めている傾向もあります。私は英語はネイティブのようには話せませんが、アメリカ人と同じ物を求められているわけではなく、日本人としてしか持ち込めない何かを期待されて採用されたのだと思います。社会学部の教授陣では日本人としてはもちろんのこと、外国人としても私が唯一です。
 
現在、学士課程の学生を対象に、週3回教えています。大学院では教え方など教えてくれませんでしたから、すべて手探りで始めました。もう8年になりますが、講師として教え始めた頃は1時間半の講義のために毎回8ページくらいの原稿を書いて教壇に立ちました。もちろんそれを読み上げるわけではありませんが、あらかじめ書いておくことで頭の整理になるのです。また、アメリカのことも、日本のことも、常に社会で何が起こっているかを意識しています。
 
先日、トラベルセミナーとして、学生たちを14日間、日本への旅行に連れて行きました。まず春学期で日本の社会・文化・宗教・歴史・政治・大衆文化などを広くアメリカと対比しながら教え、その知識を基に、後は実際に体感してもらおうという試みでした。私が大学側に提案したものですが、実際の旅行プランから下見、引率まですべて1人でやらなければならず、大変でした。でも、学生たちの反応を見ていると楽しかったですよ。また機会があれば実施したいと思っています。
 
助教授は6年後にその上の准教授になるための評価査定が入ります。トラベルセミナーやシンポジウムなどの新しい企画や目覚しい貢献が認められ、学生や他の教授から高い評価が得られると准教授に昇格できます。これからも日本人としての視点を持ち、人々にグローバル化社会を生き抜く目を養い、より良い暮らしやより良い社会を築いてもらえるよう、教えていきたいと思っています。
 

(2008年8月16日号掲載)

シェフ(その他専門職):トーマス 由理英さん

どれだけキッチンで大泣きしたかわかりませんが、
逆境に立たされると頑張る性格

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はシェフのトーマス由理英さんを紹介。5つ星レストランや数々の有名レストランで、卓越した才能を発揮。現在、ホテル「THE US GRANT」の副総料理長。

【プロフィール】とーます・ゆりえ■広島県生まれ。OLを経験した後、ユタ州のWeber State Universityへ留学。帰国後、調理師資格を取得し、料理の鉄人・坂井宏行氏の「La Rochelle」や、「The Ritz-Carlton」などを経て、現在、サンディエゴ・ダウンタウンにあるホテル「THE US GRANT」の副総料理長を務める。

そもそもアメリカで働くには?

手に職をと思い調理の道へ

現在の職場「THE US GRANT」の
キッチンにて

 20代前半の頃、手に職をと思い、神奈川県にある厚木調理師専門学校に入学しました。在学中にアメリカ人の主人がサンディエゴに転勤することになり、卒業後、1年遅れで私も後を追ってサンディエゴへ渡りました。
 
 アメリカでは調理経験もありませんでしたし、仕事も簡単には見つからないだろうと考えていた矢先、サンディエゴの「Hyatt Regency」でジョブオープニングがあるとのことで面接に行き、そこで、エグゼクティブシェフと話をしたのですが、何とその場で採用に。このエグゼクティブシェフは、過去に日本人と働いた経験があり、日本人の真面目で勤勉な性質を知っていたため、日本人びいきだったのかもしれません。
 
 1年ほどハイアットで働いた頃、ラホヤにオープンしたレストランに引き抜かれ、そこで働くことにしました。
 
 すると、ある日、シェフから「君はフランスに行って、勉強した方がいい」と、言われたのです。とは言っても、結婚している身でしたし、「そう簡単には…」と返事を濁すと、「じゃあ、日本に帰って勉強した方がいい。とにかくアメリカじゃダメだ」と言われ、思い切って主人を残して、日本に戻ることにしました。
 
 日本に帰ってすぐにアポイントメントなしで訪れたのが、「La Rochelle」。料理の鉄人として一躍有名になったフレンチの坂井宏行シェフの店です。「アメリカから坂井シェフに会いに来ました」と、レストランのスタッフに告げると、坂井シェフに電話で連絡を取ってくれ、「面白そうだから、今すぐ連れて来て」と興味を持ってくれました。
 
 それから撮影現場まで連れて行ってもらい、実際に坂井シェフとお会いしたところ、「珍しい人だね」と、その場で採用が決まりました(笑)。

鉄人・坂井シェフから学んだプロフェッショナリズム

大きな影響を受けた
坂井宏行シェフからの色紙

 坂井シェフからは、多くを学ばせていただきました。料理は味覚と視覚が大切だということ、それを養うには、あらゆる感性を磨かなければならないこと。そして、プロフェッショナルに徹することの大切さ、仕事場では集中し、お客様にはベストの物しか出さないという妥協しない姿勢。挙げればキリがありませんが、これらは、今の私の仕事に大きく影響しています。
 
 坂井シェフのレストランで働いた後は、ホテルのフレンチレストラン、葉山のイタリアンレストラン、ベーカリーなど、それぞれ1年ずつと決めて働きました。その間にアメリカにいた主人が日本へ転勤になり、一緒に暮らすことができましたが、2001年に再度サンディエゴへの転勤が決まったため、それに合わせて私も一緒にアメリカに戻りました。
 
 また、アメリカで職を探すことになったわけですが、たまたま海岸沿いをドライブしていた時、Laguna Niguelに「The Ritz-Carlton」を見つけ、すぐにエグゼクティブシェフに手紙を書きました。すると、「ぜひ会いに来てほしい」という返事があり、またまた面接の場で採用が決まりました。
 
 「The Ritz-Carlton」の中には3つのレストランがあり、料理人は全部で75人。私が働きたかった5つ星のフレンチレストランは、75人中トップ6に入らなければ働くことはできず、私はカジュアルなレストランの1番下のポジションからスタート。私はどの面接でもあまり自分をアピールしないので、いつもスタートは下からなんです(笑)。
 
 でも、入って半年でトップ6に入ることができ、念願だった5つ星のフレンチレストランで働くことができたのです。そこではメイン料理のソテーを担当しました。このポジションは、キッチンの中でも1番重要なポジションで、女性には無理と言われていましたし、女性初のソテー担当ということで、初めは周りの料理人仲間からも冷やかな目で見られました。ですが、実力が認められてからは、対等に働くことができました。
 
 しかし、残念なことに04年にホテルの方針で、このレストランがカジュアルダイニングになることが決まり、私は辞めることにしたのです。

ハイエンドなホテルの総料理長を目指す

 リッツを辞めて、サンディエゴ・ダウンタウンにある「The Westgate Hotel」のカジュアルレストランで、スーシェフのポジションが空いていることを知りました。このホテルの評判は以前より耳にしていたので、すぐに調理テストを受け、合格しました。
 
 しかし、カジュアルレストランでの採用だったはずが、フレンチレストラン「Le Fontainebleau」のエグゼクティブシェフから「今すぐ、ポジションを空けるから」と言われ、「Le Fontainebleau」で働くことになりました。ここは、周りのシェフやスタッフは皆ヨーロッパ人ばかりでレベルが高く、日本人に共通する感覚を持っている人たちが多かったですね。
 
 2年半そこで働いた頃、そろそろほかの職場を見たくなったので、ホテル「THE US GRANT」に面接を受けに行きました。ホテルのスーシェフとして採用したいとの返事があり、ちょっと面白そうな気がしたので、受けることにしました。採用後は、ルームサービスやレストラン、バンケットなどを担当し、昨年、副総料理長に任命されました。今は、料理以外にも人事やコスト計算など、マネージメント面も任されています。
 
 料理の世界は男性が多いこともあり、女性シェフに対する偏見もありましたし、アジア人ということでつらい思いをしたこともあります。これまでどれだけキッチンで大泣きしたかわかりませんが、負けず嫌いのせいか、逆境に立たされると頑張っちゃうんですよね。ホテルの副総料理長というポジションまで来たからには、今はハイエンドなホテルの総料理長を目指し、頑張っています。その夢が叶った後には、小さなレストランを自分で開けたらいいなと思っています。
 
(2008年5月1日号掲載)

ディスクジョッキー(その他専門職):DJ Couzさん

音楽に対して真面目に努力し続けること
上に行けば行くほどその姿勢が問われる

今回はDJ Couzさんをご紹介。ウエストコースト・ヒップホップに憧れて渡米、有名アーティストたちとのネットワークを広げ、日米の架け橋となるべく、プロデューサーとして躍進中だ。

【プロフィール】でぃーじぇい・かず■学生時代にDJを始め、渋谷や六本木のクラブで活躍。日本向けのヒップホップ系アルバム制作や日本でのツアー開催などを手がける。現在、プロデューサーとしての活動も広げている。
www.dj-couz.com(オフィシャルサイト)
www.dj-couz.com/blog(オフィシャルブログ)
www.myspace.com/djcouz(マイスペース)

そもそもアメリカで働くには?

ロサンゼルス発 西海岸の音楽に感動

マライア・キャリーと

 DJに興味を持ったのは高校の時。ちょうどSnoop Doggがデビューした頃で、ウエストコーストスタイルのヒップホップや映画を観るようになって、「すごいカッコいい! 今までのヒップホップと違う!」と、ひと目惚れ。
映画の中で、Ice Cubeがローライダーに乗っていて、ローライダーに乗る時に聴くカッコいい音楽を渋谷で探したのですが、見つからなくて。それなら自分で作っちゃえと、ターンテーブルの機材を1つずつ揃えていったというのが始まりです。
 
 20歳になってから本格的にやり始めました。当時はクラブやイベントなど、あくまでもDJは趣味の一貫としてやっていました。今のように「ウエストコースト」というジャンルがヒップホップで確立されておらず、東京でもウエストコーストのイベントがなかったので、僕たちが主催したイベントには、コアなファンがたくさん来ましたね。
 
 数年後、イベントをやっていた仲間内で大きなイベントをやって成功し、今度は外タレを呼ぼうと、現在の会社の人たちとDJのラジオ局Hot97の看板DJ、Funkmaster Flexを招いて全国ツアーをやりました。その頃からPower 106のBig Boy(ビッグ・ボーイ)と親しくなり、毎年2、3回、彼を日本に呼んでツアーをやるようになりました。

クラブのDJからプロデュースの仕事へ

人生の恩人、ビッグ・ボーイと

 ビッグ・ボーイと出会った頃は英語も全然しゃべれませんでしたが、ローライダーの仕様やウエストコースト・ヒップホップ関連のことなど、僕が何でも知っていることにとても感心してくれて。「それならLAに来いよ」と、誘ってくれたんです。
 
 LAに来てやりたかったのは、それまでやっていたクラブDJではなく、音楽のプロデュースでした。DJにはラジオで話したり、クラブでレコードを回すほかにも、プロデューサーという仕事もあるんです。ビッグ・ボーイには色々な現場に連れて行ってもらい、スヌープのスタジオを見せてもらったり、雲の上の存在だった有名アーティストを紹介してもらいました。
 
 また、ビッグ・ボーイに「カズ、何曲かいいトラック送ってくれ」って言われて送ったら、数日後、自分のトラックがPower 106で使われていてビックリしたことも。今でもかかっていて、耳にしている人も多いから僕の名刺的存在になっています。
 
 こうした人脈を築けたのも、僕が音楽に対して真面目に取り組んできたからだと思います。ビッグ・ボーイにも、そういうところを買ってもらえたんじゃないかと。ヒップホップというと、ルーズで悪いところがカッコいいというイメージもあるかと思いますが、上を目指せば目指すほど、しっかり真面目にやっているという印象があります。
 
 現在は、トリプルセブンという会社で色々な外タレを日本に招聘してツアーを開催したり、日本に販売するヒップホップ系DVDを制作したりといった仕事をしています。昨年は、DPGレコーズというスヌープ周りの人たちのレコードレーベルの音源からコンピレーションして、3枚連続リリースをしました。また、アメリカからビッグ・ボーイやSoopafly、Damizzaにも参加してもらい、日本のアーティスト総勢23組と一緒に日本でコンピレーションを作り、売り上げの中からハリケーン・カトリーナの被害者に寄付するというプロジェクトにも参加しました。
 
 所属しているレーベルでいくつか僕のプロジェクトがあって、実力のあるラッパーやシンガー、アレンジャーなど探してます。詳しくはもうすぐ僕のサイト、Triple7のサイトで発表しますが、こっちのアーティストがfeat.で参加したり、各メディアとコラボしたりと、大きなプロジェクトになるので、興味のある人は、ぜひデモを郵送でもE-mailでも送ってください。良いラッパーと組んで、ワールドワイドでどんどん色々な作品を出していきたい。そのためには、良いラッパーとかシンガーが絶対に必要なんです。

英語ができない分自分にしかない強みを

 この業界に日本人は多くないけど、日本人って、やはり緻密で丁寧な音作りをするので、評価が高いと思います。
 
 この仕事をやっていて楽しいのは、初対面の人でも好きな音楽が合ったり、波長が合った時の感動が味わえること。ライブツアーの帯同は、大変ですが、お客さんの笑顔を見ていると、やって良かったなと思います。「ヒップホップが好きだ」と思ってくれる人が増えるとうれしいですよ。
 
 作品のプロデュースには、多くの人が携わりますが、頂点まで行った時の達成感、「やりきった」という感じは何とも言えません。僕にとって天職です。神様ありがとう、みたいな(笑)。
 
 この業界でやっていくには、スキルがあることはもちろんですが、英語が得意でなくとも、その分、自分に何か認められるものがあることが大事。そして、何よりも音楽に対して真面目、努力するということがとても大切です。

デモテープ送り先:
Triple Seven Records
10727 Lawler St. #12, Los Angeles, CA 90034
☎310-837-9500
Web: www.triple7.co.jp
E-mail: info@triple7.co.jp
 
(2008年3月16日号掲載)

ピアノ講師(その他専門職):白井 三惠さん

音楽も、教えることにも、
終わりはありません

アメリカで夢を実現した日本人の中から、今回はピアノ講師の白井三惠さんを紹介。子供たちの成長をずっと見守れるピアノ講師という仕事は、非常にやりがいがあると話す白井さん。その仕事内容などを聞いた。

【プロフィール】しらい・みえ■東京都出身。小学校からピアノを始め、1989年、ロサンゼルスに渡米。大学でピアノ・パフォーマンスを専攻する。卒業後、塾の講師を務める傍ら、子供たちにピアノを教え、95年に独立。現在、全米音楽教師協会(MTNA)、カリフォルニア州音楽教師協会(MTAC)、JMACにて、審査・指導に活動中。

そもそもアメリカで働くには?

学部長に誘われて決めた音楽専攻

 母がピアノを嗜み、お琴の先生をできる免状も持っていたので、小さい頃から音楽に親しみがありました。でも、初めはピアノではなくバレエ。私は手が小さいので、ピアノは向かないんじゃないかと母親が判断して。3、4歳の頃から始めました。バレエの先生は、テレビの仕事をされている先生で、よく子役を貰ったりして、一緒にテレビに出させてもらいました。
 
 ピアノとの最初の出会いは、5歳の時に祖母がプレゼントしてくれた小さいピアノ。バレエよりずっと楽しかったですね。本格的にレッスンを始めたのは、小学校に上がってから。
 
 私がピアノを習うことを、母は最初渋っていました。母は、私にバレエを続けてほしかったんだと思います。けれど、やっぱりピアノが好きで、何度も何度もお願いして、やっとって感じでした。
 
 発表会とかコンクールがありましたが、スタートが他の子と比べて遅かったので、あまりパッとせず、賞ももらうこともなく、高校まで続けました。それに音楽の道に進もうとは、考えたこともありませんでした。そもそも人前で弾くのがあまり好きじゃなかったですし。ただ、英語を話せるようになりたかったので、アメリカに留学したいとは思っていました。
 
 高校を卒業して、渡米したのは1989年です。こちらにいる知り合いの人が見つけてくれた大学に、何も考えず入学しました。専攻を選ぶのに悩んでいた時、たまたま音楽の学部の教室にピアノがあって、何気なく弾いていました。そこに学部長がやって来て、「ウチの学校の生徒?」「何年生?」と聞かれました。私が勝手にピアノを弾いたから、てっきり怒られるのかと思ったら、「専攻は何か?」と聞かれ、私が「まだ何も決めてません」と答えると、「じゃ、ぜひ音楽の学部に来なさい」と誘われたんです。

講師の仕事は人間関係が重要

MTACサウスベイ支部ボードメンバーと

 誘われるままにピアノ・パフォーマンスを専攻しました。演奏が中心ですが、もちろん音楽理論、歴史も学びますので、日本での知識が役に立ちました。卒業間際に4年間の演奏活動に対し、大学から最優秀賞をいただきました。大学院にも進みたかったのですが、お金が尽きたので、ピアノ店などで職探しをしました。幸い日系の塾で先生として採用してもらえましたので、そこで2年ぐらい働き、永住権を取得して、95年に独立しました。
 
 実は塾で働く傍ら、ピアノを個人的に教えていたので、独立した時も割とすぐに生徒が集まったのは、ラッキーでした。最初は、日本人駐在員のお子さんが多かったですね。当時はピアノも持っていなかったので、ご自宅まで出張して、走り回っていました。
 
 個人講師の仕事は、人間関係がとても大切だと思うんです。子供や保護者との関係もそうですし、同業の先生たちとの関係もそうです。生徒がなかなか集まらない時に連絡してくれたのは、まず同業の先生方。ほかにも、前任の駐在の方だったり、生徒の親御さんだったり。特に同業の先生方は、競争相手というより、同じ問題意識や理想や悩みを共有する大切な仲間なんですよね。
 
 私は、現在さまざまな指導者協会に属しているので、それも強みかもしれません。1つは全米団体のMTNA(全米音楽教師協会)、全米中に支部があって、ここロサンゼルスにも支部があります。ここは、入るのにそんなに審査はありません。もう1つはMTAC(カリフォルニア州音楽教師協会)で州の協会。私はサウスベイ支部でボードメンバーとして活動しています。ここは、学歴や成績、講師としての経験も必要で、ただ入りたいでは入れません。
 
 協会に入っていると、コンペティションやリサイタルを大掛かりでやっていますので、自分の生徒にチャンスをたくさん与えられます。レベル向上を目指して技術的なことや、音楽的なことを教え込むことも大切ですが、目標に向かって真面目に努力することの尊さを教えるのも、また大切な仕事です。コンペやテストでうまくいかなかった時こそ、学べることがたくさんあるんです。
 
 私は10年近く協会に入っていますので、コンペで審査員を務めたり、州のテストで審査をしたりしています。教えることから始まって、人とのつながりや経験を積んでいくと、そういうこともやらせてもらえるようになります。
 
 あとは、2000年に全日本ピアノ指導者協会のロサンゼルス支部が独立して生まれたJMACの代表を務めています。毎年、ピアノフェスティバルを開催していて、今年は6月7日、8日の2日間にわたり行います。多くの日本人、日系人の生徒の皆さんが楽しみにしているピアノの祭典です。

子供の成長に関われてうれしい

 ピアノを教えていて、うれしいことですか? 音楽を通して子供の成長に関われることですね。3歳から始めれば10年以上、一貫して教えるわけです。学校の先生でも長くて6年、これだけの期間は体験できないですよね。
 
 子供を教えていると、色んな過程を経ていきます。舌が回らないような小さい頃から反抗期を過ぎて大人になっていく。紡ぎ出される音楽もまた同じように成長していきます。やっぱり教えたことが実って、コンペティションで賞を取ってくれたり、テストでいい成績を取ってくれたりしたら、うれしいですよね。そうでなくても、少しずつピアノを好きになってくれたり、レベルが上がって行くのを見ると、すごく楽しいです。
 
 私がこれからピアノの講師になろうとしてる人にアドバイスをあげるとしたら、1つ言えるのは、バイエルなどの定番も大切にしながら、常に新しいものに興味を持って、勉強を忘れないことです。また、子供の個性に合わせた指導法を、クリエイティブに考えていく必要があります。私もまだまだ勉強中です。音楽も、教えることにも、終わりはありません。
 
(2008年2月16日号掲載)

マニキュアリスト(その他専門職):小宮 詩江さん

アメリカのネイルは、
爪の健康に配慮した
ナチュラルな仕上がり

アメリカで夢を実現した日本人の中から、今回はマニキュアリストの小宮詩江さんを紹介。爪のケアから華やかなネイルアートまで、美しい指先を生み出すネイルのエキスパートだ。

【プロフィール】こみや・ふみえ■東京生まれ。オハイオ州にある「Inner State Beauty School」にてネイルアートを学び、マニキュアリストとなる。現在、サンディエゴ市サウスパークにあるLulu’s Beauty Salonにて、マニキュアリストとして活躍中。www.lulusbytravisparker.com/lulus_we_believe.html

そもそもアメリカで働くには?

ネイルに興味を持ち、日本で短期集中学習

ナチュラル系のネイルアートを
得意とする

 中学生の頃には、既にネイルに興味を持っていて、その頃から爪を整えていた記憶があります。日本で就職した会社では、女性が多い職場だったこともあり、みんな競うようにファッションやネイルに情熱を燃やしていました。もちろん、私もそのうちの1人(笑)。特に私はコンピューターを使う仕事をしていたため、指先を見られることも多く、爪のお手入れは欠かせませんでした。
 
 2001年に、夫の転勤でオハイオ州に住み始めたのですが、のんびりした田舎だったせいか、雇用数も職種もすごく限られている印象を受けました。その時に、「今後、アメリカで暮らしていくのなら、手に職を付けておいた方が良いかも」と思い始め、ネイルの仕事はどうかなぁと、家の近くでネイルスクールを探し、訪ねてみました。
 
 ところが、実際に校長先生とお会いし、カリキュラムの内容などをうかがったのですが、分厚い教科書を使いながら皮膚の構造や衛生面、病気についての勉強が中心ということを知り、私の持っていたネイルのイメージとは全然違うことがわかりました。
 
 しかし、さらに調べていくと、3カ月コースを持つネイルスクールが日本にあることを知り、単身日本に戻って、その学校に入学しました。そこで日本の華やかなネイルアートと技術を学んだ後、オハイオに戻って来ました。ですが、最終的にはアメリカで資格を取らなければならなかったので、あまり興味の沸かなかった近所のネイルスクールに通い始めました。

州ごとに異なる資格 他州での実務経験が活きた

資格取得後に働いていた
オハイオ州のネイルサロン

 州の定める資格試験を受けるためには、200時間の単位が必要だったのですが、近所の学校では技術的な指導はほとんどなく、衛生面や医学的な知識の習得が中心でした。また、一般の人たちをモデルにした実践練習も単位に換算されます。
 
 資格試験合格後は、ベトナム人家族が経営するネイルサロンで働き始めたのですが、そこのオーナーのネイル技術は高度なもので、彼の仕事を見ながら技術の習得に励みました。そこで2年半働いた頃、再度夫の転勤で、サンディエゴに引っ越すことに。
 
 マニキュアリストの資格は、州ごとに試験を受けなければいけないので、私はカリフォルニア州の試験について調べてみました。すると、カリフォルニア州では、400時間の単位が必要だということがわかりました。また学校に通わなければならないのかと思いましたが、オハイオ州での2年半の実務経験が認められて、不足単位はそれで補うことができました。
 
 カリフォルニア州のテストは、オハイオ州のものと方法も違えば内容も異なっていたので、戸惑うこともありましたが、無事試験もパスし、いくつかのサロン勤務を経て、現在はサウスパークにあるLulu’s Beauty Salonで、マニキュアリストとして働いています。
 
 オハイオ州で働き始めた最初の3カ月くらいは、緊張のあまり手に力が入り過ぎて、筋肉痛になってしまうこともよくありました。ネイルアートの中には、爪に接着剤のようなジェルを塗るものがあるのですが、乾いたジェルの表面をドリルを使って滑らかに仕上げなければなりません。ちょっとでもドリルが皮膚に触れるようなことがあれば、お客様にケガをさせてしまうと思うと、心臓はドキドキ、額には冷や汗が。まさに、毎日が緊張の連続でした。

アメリカ人にとってネイルは「日常的な身だしなみ」

 この仕事を始めて5年ほどになりますが、マニキュアリストは、ただうまくマニキュアを塗れればいいというものではないと強く感じます。例えばペディキュアを希望されるお客様の中には、かかとの角質が極端に厚くなっている人がいます。そういう人は糖尿病を患っている場合が多く、皮膚に傷が付くと出血が止まらなくなる危険があるので、「失礼ですが…」と、事前に病気についておうかがいし、ネイルニッパーなど鋭利な道具の使用は避けるようにしなければなりません。
 
 また、爪のコンディションが良くない人や、爪を噛む癖があるため極端に爪が小さい人などは、ご希望のスタイルに添えないこともあります。そんな時は、その人の爪に合ったデザインや、ほかの方法を提案することも必要です。
 
 また、私にとって仕事の励みになっているのは、「やっと、自分に合ったマニキュアリストを見つけた」と、私を指名してくださるお客様がいらっしゃることですね。お客様にそう言っていただけるのは、プロとしてやっぱりうれしいものです。
 
 日本人にとって、ネイルは華やかなファッションであり、ちょっとスペシャルなイメージがありますが、アメリカ人のネイルに対する認識はちょっと違っている気がします。日本に比べて手頃な料金で受けられるということもあると思いますが、爪をキレイにしてもらうことは、「日常的な身だしなみ」という感覚で、気軽にサロンを利用される人が多いですね。お客様の中には、来店されるたびに、1週間後の予約を入れて帰られる方もいらっしゃいます。
 
 日本のネイルブックを見ればわかるように、日本のネイルアートはデザインだけでなく、マテリアルや技術面でもものすごい速さで進化しています。それと比べ、アメリカのネイルは、日本ほど派手さはありませんが、爪の健康に配慮したナチュラルな仕上がりで、日常生活の邪魔にならないものが多いです。
 
 今後は、日本とアメリカのそれぞれの長所を取り込んでいき、お客様の身だしなみのお手伝いをしていけたらいいなと思っています。
 
(2008年2月1日号掲載)

心理カウンセラー(その他専門職):斉藤 あふみさん

人が抱える問題というのは、
自分で気づいている部分よりも
その奥底に問題の原因がある

今回は、心理カウンセラーとして働く斉藤あふみさんを紹介。結婚を機にアメリカで心理カウンセラーとしての才能を発揮することに。現在は、主に結婚・家族に関するセラピーを行う。

【プロフィール】さいとう・あふみ■静岡県生まれ。1996年名古屋外国語学院大学で英米語学科卒業、同年渡米。2000年カルフォル二ア州バプティスト大学院カウンセリングサイコロジー修士課程卒。神学と心理学における行動科学の統合について学び、04年マリッジ&ファミリーセラピスト免許取得。
www.fruit4thespirit.com/profile/profile.html

そもそもアメリカで働くには?

子供との触れ合いを
求めて踏み出した1歩

カウンセラーになったばかりのあふみさん

 日本で大学を卒業して教職の免許を取りました。私が通っていた私立の高校に教育実習に行きましたが、そこで感じたのは、生徒と先生の直接的な触れ合いが意外と少ないということでした。その後、子供たちと密に触れ合うことができるカウンセラーになりたいと思ったのですが、高校の時の3者面談で、カウンセラーは職業じゃない、ボランティアの仕事だと言われてしまいました。
 
 そこで、教育実習の経験もあったのでスクールカウンセラーの道を考えました。しかし、日本でカウンセラーになるには心理・医学系の大学に入り直し、資格を取得するまで長い年月がかかることを知りました。
 
 それに比べて、アメリカであればもっと早く大学を修了し、日本でもカウンセラーとして働くことができると聞きましたので、気候の良いカリフォルニア行きを決意しました。
 
 当時、カリフォルニア=危険な場所と思い込んでいた親には、なぜそこまでしてカリフォルニアに行く必要があるのかと反対されたのですが、スクールカウンセラーはアメリカで始まった職業ですし、以前から興味があったのでどうしても行きたかったんです。
 
 それからは親を説得する日々が続きましたが、最終的にクリスチャンの母の案で、クリスチャンの学校であれば行っていいということになりました。

ギャングの子供にも
「負けない」気持ちで臨む

セラピストの先生たちと

 2年半の間、DCFC(Department of Children and Family Services)から紹介された子供たちや、肉体的、精神的、性的虐待を受けた子供たちを主にカウンセリングしました。ほかにも、家庭内暴力や薬物乱用で裁判所から送検されてきた人たちのカウンセリングも行いました。このカウンセリングセンターの同僚の紹介で、重度の情緒障害(Severely Emotionally Disturbed)を持つ5歳から18歳までの生徒たちが通う非公立校で、サイコセラピストとして6年間勤務しました。そこには先生、セラピスト、心理学者、精神科医がいて、1人でカウンセリングするのではなく、みんなで解決するというチームワークを大切にしていました。
 
 当時セラピーを受けに来るのはFワード、Bワードを普通に使う子ばかり。日本人はほとんどおらず、メキシコ人やアフリカ系アメリカ人の子が多かったですね。ギャングが怖かったかって? こちらも負けられない! という感じですよ(笑)。彼らは目つきも鋭いし、何を言っているかわからないくらいスラングがひどくて…。ギャングと呼ばれる子供たちは、家族全員ギャングとか、家族から1人も高校を卒業した人がいないとか、最終的にギャングに殺されるといったケースもありました。ギャングの中でも更正し、いい高校に入ろうと試みる子供もいるのですが、周りが許さないんですね。結局、刑務所にいる方が居心地がいいと言って、犯罪を繰り返す子もいました。刑務所にいると、誰が敵か味方かがわかるので安全だと。悲しい話ですよね。
 
 最初の頃は、私の英語力の問題もあってトンチンカンな質問をして笑われたりして、セラピーというより、ほとんどがソーシャルスキルを教えることに没頭する日々でした。問題のある子供は家でも学校でも同じ扱いを受けて、自分に自信がなくなり、最終的に自分ってだめな人間だと思い込んでしまう。私がそういった問題を抱える子に対して心がけていたことは、できるだけ褒めてあげること。褒められない子は褒められることにすごく敏感なんです。両親にも一緒にカウンセリングに来てくださいと呼びかけるのですが、来ない親がほとんどで、とても残念でした。
 
 実はカウンセラーのライセンスが取れたら日本に帰るつもりでしたが、結婚を機にアメリカに滞在することになりました。私の主人は、ドラッグで苦しむ人が家族と一緒にトレーニングするような施設で、栄養士として働いていました。主人も私も人のために役に立ちたいといった意味では、同じフィールドにいると思っています。

気づきが起こる瞬間
「Aha moment」

 今後は、こちらに住んでいる限りアメリカのコミュニティーに貢献したいと思っているんですが、やはり日本のコミュニティーにも役に立ちたいと思っています。人が抱える問題というのは、自分で気づいている部分よりもその奥底にあることが問題の原因になっていることが多いので、セラピーで気づかせてあげたいと思っています。
 
 私は結構オールドファッションな人間なので、Eメールや電話ではなく、お会いしてカウンセリングすることが好きですし、大切だと思っています。言葉に出ない表情、しぐさってたくさんあるんですね。セラピーでは自分のことはあまり語らないのですが、相手にとってベネフィットになることであれば話します。でも、できる限りニュートラルなイメージで、リラックスして話してもらえるように努めています。
 
 カウンセラーになって良かったと思うのは、感謝され、セラピーがクライアントや家族の役に立てたと実感できる瞬間ですね。後から自分がもどかしいと思う時があるんですよね。あの時、ああ言えばもっとオープンマインドで聞いてもらえたかも、と思ったり…。セラピーは問題点を言えばわかってもらえるということではないので、伝え方が重要になってきます。それから「Aha moment」と言う言葉があるんですが、これは、「あ、そうか、なるほど!」と気づきが起こる瞬間。そのうち生徒が心を開いてくれて、「ありがとう」が言えるようになる。これってすごい変化でうれしいんです。親みたいですけどね。
 
(2007年12月1日号掲載)

日本語教師(その他専門職):高橋 晃さん

私が日本語を教えた生徒たちが、
社会で活躍するのを
見届けるのが楽しみ

 アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は日本語教師の高橋晃さんを紹介。サンディエゴの大学で教鞭を執りながら、毎年、夏休み期間にはモンゴルを訪れ、ボランティアとして日本語を教えている。

【プロフィール】たかはし・あきら■1947年樺太生まれ。San Diego State University教育学部バイリンガル教育学科修士課程卒。Mira Costa College、La Jolla High Schoolなどで教鞭を執り、83年に「Japanese Language Class」を開塾。塾とUniversity of San Diegoにて日本語を教える。www.japaneselanguageclass.com

そもそもアメリカで働くには?

アジア諸国の旅で
悲惨な状況を目の当たりに

モンゴルのサマースクールの生徒たち

 私が日本語教師を目指そうと思ったのは、若い頃に半年間かけて回ったアジア諸国への旅行がきっかけでした。香港からバックパックを背負って出発し、タイ、インド、スリランカ、ビルマ(現:ミャンマー)などを訪れたのですが、バングラデシュでは、栄養失調で倒れている人たちや、戦争で手足を失った人たちが町に溢れ、あちらこちらに銃痕が生々しく残っているという衝撃的な光景を目の当たりにしました。
 
 今までに見たこともない悲惨な状況の中で、「何とかしなければ」という思いに駆られながらも、結局、何もできない自分に、もどかしさと悔しさを抱えながら、複雑な思いで帰路に就いたのです。
 
 それからしばらくは、自分にできることは何かと真剣に考え、「教育でなら、何か自分にも貢献できることがあるのではないだろうか?」と、思いつきました。そして、教師になるために学校に入学することを決心したのですが、これからの時代は、英語も必要になってくるだろうと感じていましたので、30歳の時に家族でサンディエゴに引っ越してきたのです。
 
 最初の1年間は、語学学校で英語を勉強し、その後、San Diego State Universityの教育学部バイリンガルエデュケーション学科のマスターコースに入学しました。そこで2年間、異文化の理解や交流について学び、Mira Costa College、La Jolla High Schoolなどで日本語を教え、サンディエゴに日本語教室も開きました。
 
 今は、University of San Diegoでも日本語を教えています。日本の経済が良かった15年くらい前は、仕事で日本語を使うアメリカ人の生徒が多かったのですが、最近はちょっと傾向が変わってきているようですね。空手を習っている人や、日本の文化やアニメに興味のある人たちが多くなってきたように感じます。

日本語習得熱が高い
モンゴルでも教える

クラスでは生徒が楽しく学習できるよう心がけている

 日本語は、英語を母国語とするアメリカ人にとっては簡単な言語ではありません。英語と日本語は文字も文法もまったく異なる言語ですので、英語を母国語とする人たちが日本語を習得することは、スペイン語やイタリア語などに比べ3倍難しいと言われています。
 
 また、生徒たちには大きく分けて2つのパターンがあるように思います。1つは、既に日本語を習得している人たちが、その能力を維持するために学習するケース。そしてもう1つは、日本に旅行やビジネスで行くチャンスのある人たちです。生徒のニーズに合わせて、レッスンを進めています。
 
 アジアの途上国で何か貢献できないかという思いがきっかけで目指した日本語教師ですが、6年前に、その夢が現実となる出会いがありました。娘と中国、韓国へ旅行したのですが、その時に、たまたま同じバスに乗り合わせたオーストラリア人と知り合いになりました。その人は、夏休みの期間だけ外国で英語を教えていると話してくれました。それを聞いて、夏休みだけなら自分もどこかの国で日本語を教えることができるのではと思い、それから真剣にリサーチを始めました。
 
 そしてある日、モンゴルのサイトを見つけました。そのサイトによれば、モンゴルは人口に対して、日本語を学ぶ人の比率が大変高い国だそうで、「これだ!」と、自分の中でピンと来る何かがありました。すぐにサイトを通して、「夏だけ日本語教師をしたい」と、担当者にコンタクトを取ったのですが、元来、遊牧民であるモンゴル人は、夏の期間は移動をしながら仕事をする人が多く、忙しくて勉強どころではないという素気ない返事が返ってきました。
 
 しかし、どうしても諦めることができず、再度、担当者にお願いしたところ、日本語のサマースクールを予定している高校が見つかったとの連絡が届いたのです。校長先生と連絡を取り、とうとう「アジアの国で日本語を教える」という長年の夢が実現しました。
 
 それからは、毎年夏休みの1カ月間はモンゴルで日本語を教えており、今年で5年目になりました。最初は15名くらいだった生徒数も、今では150名に増え、生徒たちは真剣に日本語を勉強しています。日本は奨学金制度が充実しており、経済的に余裕のない子供たちでも、頑張れば日本に留学するチャンスがあるのです。
 
 彼らは、日本で学んだ専門的な知識や経験を自国に持ち帰って、国のために働きたいという強い思いがあり、そんな彼らを見ていると、私も清々しい気持ちになりますし、彼らにできるだけチャンスをあげたいと思うのです。

生徒が楽しみながら
学べるようにしたい

 アメリカで日本語を教えていて難しいなと感じるのは、日本語にはあって、英語にはない文法を教える時。日本語は受け身の表現を使うことが多いのですが、例えば、「雨に降られた」といった使い方は、英語にはないもので、生徒がこの使い方を理解することは簡単ではないようですね。また、日本人でもきちんと使い分けができていない人もいますが、尊敬語や謙譲語の区別も難しいようです。
 
 日本語の学習は難しいですが、大学でも塾でも、生徒が楽しいと感じながら日本語を学べるよう心がけているつもりです。大学では、生徒が先生を評価するシステムがあるのですが、いつも高い評価をいただいており、クラスを楽しいと思ってくれているのかなとうれしく思います。
 
 今後は、私が日本語を教えた生徒たちが、社会でどのように活躍していくのかを見届けるのが楽しみですね。まるで自分の子供の成長を見ているような気持ちです。
 
(2007年11月16日号掲載)

シェフ(その他専門職):八木 久二子さん

料理の仕事なら、片言の英語でも
美味しく作ることができれば
認められると思ったのです。

 今回は、モダンフレンチ「SONA」で働く八木久二子さんを紹介。東京で銀行に勤めていたが26歳でシェフに転身、まったくの素人から名店のスーシェフに昇格。セレブシェフの片腕となり、繁盛店を切り盛りする。

【プロフィール】やぎ・くにこ■1977年群馬県生まれ。フェリス女学院で英文学を専攻、卒業後は東京の銀行で総合職として就職する。3年間働いた後、結婚を機にロサンゼルスへ。2003年2月、セレブシェフ、デビッド・マイヤー氏の経営するモダンフレンチ「SONA」に見習いとして入り、06年9月同店のスーシェフになる。

そもそもアメリカで働くには?

銀行員からシェフへ
26歳、異国での転身

キッチンのスタッフたちと。スタッフの成長も楽しみの1つ

 渡米は2001年。東京の銀行に総合職として勤めていたのですが、当時お付き合いしていたアメリカ人男性と結婚することになり、ロサンゼルスに来ました。
 
 銀行での仕事にはやりがいを見出せず、渡米をきっかけにこちらで何か手に職をつけたいとは思っていましたが、その思いが強くなったのは、短い結婚生活にピリオドを打ってから。英語が特に得意だったわけではありませんでしたから、自活のための仕事を探すうち、「料理の仕事なら、片言の英語でも美味しく作ることができれば認められる」と思い、料理の道を選びました。
 
 特に料理が得意だったわけではなく、料理のことなど何も知りませんでしたので、レストラン格付誌『Zagat Survey』を買って1番得点の高いレストランを訪ねることに。1番料理の上手な人から習わないと、誰よりも料理が上手になれないと思ったのです。
 
 自宅の付近で最高得点だったのが、「Bastide」とここ「SONA」でした。当時、アルバイトでビバリーセンターの日本料理店「UBON」でウエイトレスをしていたのですが、そこに常連客で来ているアメリカ人がいました。ランチタイムに普段着で来られ、本を読みながら食べていたので、まさかシェフとは思っていませんでした。ところが職を探しにSONAのドアを開けた時、見覚えのある顔が奥から出てきてびっくり。彼はSONAのオーナーシェフ、デビッド・マイヤーだったのです。
 
 デビッドは、初心者の私にチャンスを与えてくれ、翌日からアシスタントとしてキッチンに入ることになりました。ところが、奮発して50ドルで買った包丁を持っていくと、「そんな安い包丁は使うな」とたしなめられ、キッチンの器具や機材の名前もわからず、突っ立っている始末。スタッフに何度も聞いたり、家で調べたりしながら、最初の3カ月はとにかく無我夢中でついていきました。

一生懸命やれば認められる
3年半でスーシェフへ

同店が経営するスイーツの店「Boule」。
ベーカリー責任者の久保田万里子さんと

 夜中までの力仕事で時給は7ドル。しかし、素人の自分が仕事を教えてもらえて、お金をもらうなんてありがたいと思いました。銀行員だった私が、セレブシェフの店で働けるなんて、普通考えられないチャンスです。家族全員の反対を押し切ってこちらに来たので、今さら帰るところもありません。英語力をハンデにしたくなかったので、逆に日本人の友達も作らず、こちらの世界で頑張ってみたかった。料理は腕さえ磨けば、世界中どこでも対等に働けると思っていたんです。
 
 しかし、キッチンのスタッフは皆、18、19歳でこの道に入っています。私は当時既に26歳でした。最初の1年は焦り、つらい日々でしたが、ある日デビッドが、「誰より一生懸命に働いていれば、5年間でスーシェフ(副料理長)になれる」と声をかけてくれたんです。この言葉は本当に励みになりました。
 
 キッチンでの仕事は午後3時から。午後5時までの2時間で、その日の分すべての下準備をしなければなりません。集中してやるというのがデビッドの哲学。いつもキッチンは緊張感を持たせていたいという方針なのです。
 日本人は一般的に、頭を下げ、集中してムダ口を叩かない、忍耐強く、責任感とプロ意識があると思います。日本人って働き者なんですよね。私も早く認めてもらいたくて、一生懸命働きました。前菜、温菜、魚、肉の担当を経て、06年9月にスーシェフに昇格しました。

すべてを手がけられる
自分の店を持つのが夢

 スーシェフの仕事は、毎日の食材の注文、メニューの変更、キッチンの衛生管理、キッチンスタッフの管理、味付けと盛り付けのチェックなど、オーナーシェフの下で、チームリーダーの役割を果たします。中心的なことは、オーナーシェフと私、ペストリーシェフの3人で決めていきます。
 
 毎日正午に出勤し、3時までにオフィスでコスト計算や経理の仕事をし、キッチンで新メニューの考案などを行います。5時までの準備時間はスタッフの指導。その後、全体ミーティングがあり、6時から10時までが営業時間となります。閉店後、キッチンの掃除を済ませ、明日の食材をオーダーして帰宅するのは夜中の1時。でも、大変だと感じることはありません。好きな仕事ですから。お客様が「美味しかったです」と言ってくださることが何よりの喜びですし、スタッフの成長ぶりを見るのもやりがいの1つです。
 
 新しい食材を入手した時、これをどう料理するかを研究するのも楽しいですね。うちの店の売りは、その日の旬の食材を活かした料理。営業中にデビッドから「今、何がある?」「これはできる?」と言われ、駆けずり回ることもしょっちゅうです。でも、日頃から色々な本を読んでいると、それがある時パッとした閃きとして出てくる。デビッドは日本の食材や調理法を積極的に取り入れており、日本の味がバックグラウンドにある私の強みになっていると思います。ダシをブラッドソーセージとヒナ鳥の料理に使うなど、新しい発想もデビッドとのコラボで生まれています。
 
 これからの目標は、3~5年以内に自分の店を持つこと。30席くらいの小さなレストランで、カウンターで料理するというスタイル。ワインやカクテルと日本的な軽くてさっぱりとした小皿料理を出す店です。それには不動産も学びたいですし、内装のデザインや音楽、接客の仕方ももっと学びたい。やりたいことがたくさんあって、考えただけでもワクワクします。
 
(2007年11月1日号掲載)

ストラクチャル・エンジニア(その他専門職):宮本 英樹さん

この仕事は尊い人命を
守ることにつながる、
やりがいのある仕事

 アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はストラクチャル・エンジニアの宮本英樹さんを紹介。自然災害から人命を守りたいという情熱を胸に、世界中の超高層ビルや橋のデザインを手掛けている。

【プロフィール】みやもと・ひでき■1963年東京生まれ。カリフォルニア州立大チコ校を卒業後、ストラクチャル・エンジニアに。現在、サクラメントに本社を置く「Miyamoto International Inc.」のプレジデント/CEO。ホームページ:www.miyamotointernational.com

そもそもアメリカで働くには?

アメフト選手目指すも
ケガで方向転換

リアドの内務省

 渡米したのは大学留学がきっかけだったのですが、高校生の頃から、休みなく黙々と働いている日本人の姿を見て、「自分はどこか日本とは違う場所で、一般的な日本人とは違った人生を送りたい」と、密かな思いを抱いていました。
 
 高校生の時にテレビでダラス・カウボーイズのアメリカンフットボールの試合を見ながら、「僕にもフットボールくらいプレイすることができるんじゃないか?」「アメリカに行って、ナショナル・フットボールリーグでランニングバックになる!」と、どういうわけか思ってしまったのです。それまで1度もフットボールなんてやったことがなかったにも関わらずです。
 
 思い立ったら行動あるのみで、アメリカの大学について色々と調べてみました。まだインターネットも普及していなかったので、図書館に通ってリサーチに励みました。そして何校かに願書を提出したところ、カリフォルニア州にあるButte Collegeから入学許可が下りました。早速、荷物をまとめて渡米し、もちろん入学後はNFLを目指すためにフットボールを始めたのです。しかし、ある日、練習中に膝を痛めてしまい、「僕のフットボール人生はコレで終わった」と、無念な気持ちを残しながらも諦めざるを得ませんでした。
 
 この膝の故障により、新たな道を選択しなければならなかったわけですが、その時にストラクチャル・エンジニアになろうと決めました。というのも、日本にいる父が、発電所やダム建設の責任者をしていたため、この分野には昔から興味があったことと、物理や理論が好きだったこともあり、この道を目指すことにしたのです。結果的に、膝のケガが私の人生を大きく変えました。
 
 Butte Collegeに2年間在籍した後、カリフォルニア州立大学チコ校へトランスファーしました。在学期間中は、色々なことにチャレンジしてみようと思い、フラタニティーに参加したり、ドミトリーの委員をやったり、消防活動をしたり、学費を払うために金の採掘までしていましたね。ユニークな経験ができ、楽しく充実した学生生活を送ることができました。

耐震建築で
人命を救うのに貢献

グリフィス天文台のプロジェクトでは賞を受賞

 私の専門のストラクチャル・エンジニアは、平たく言うと、地震や自然災害にも耐えられる建物や橋をデザインするのが仕事です。毎年、大地震やハリケーンなどで多くの人命が奪われていますが、この仕事は尊い人命を守ることにつながる、やりがいのある仕事です。
 
 1989年にサクラメントにある建築事務所に就職したのですが、97年に師と仰いでいたJohn Shaffer氏から会社を引き継ぎました。現在は、「Miyamoto International, Inc. Structural & Earthquake Engineers」として、サクラメント、ロサンゼルス、オレンジ・カウンティー、サンディエゴ、サンフランシスコ、そして東京にオフィスがあります。
 
 2002年には、超高層ビルのデザインを得意としているロサンゼルスの「Martin & Huang」という会社を買収し、最初は5名しかいなかった社員も、7年間で80名にまで増え、現在に至っています。
 
 主に大規模なプロジェクトに携わっており、これまで上海の「21st Century Tower」、サウジアラビア・リヤドの内務省、ロサンゼルスのグリフィス天文台、ハリウッド・ボウルなどを手掛けてきました。また、さまざまな機会に、私の持つ知識や経験をレクチャーしたり、報告書を出版しているほか、最近では大地震が多いことで知られるトルコの「Istanbul School Seismic Rehabilitation Project」に参加し、私の耐震建築についての専門知識を、多くの人たちとシェアすることができました。これは、将来的に多くの人命を救うことにつながるのではないかと思いますし、専門家として大きな貢献ができたと確信しています。
 
 私自身も含め、社員全員が常に高い技術と知識を持って仕事に取り組めるよう、国際会議への出席や、世界中の大学関連有識者とのディスカッションなどにも積極的に参加して、日々、技術向上のため努力しています。

トップレベルの
技術と知識が要求される

 私たちのクライアントは、数十億円、数百億円、時にはそれ以上といった莫大な金額を投資して高層ビルを建てるわけですから、当然、私たちにも世界トップレベルの技術と知識を要求されます。もし自分がガンを患って病院へ行った時、「自分の担当医は名医であってほしい」と願うのと一緒です。クライアントは、自分の命同然の大切な物を私たちに委ねてくれているわけですから、期待に応えなければなりません。
 
 現在は、ロサンゼルス・リトルトーキョーの22階建てのビルや地下鉄駅、ラスベガスの50階建てコンドミニアムなどのプロジェクトを手掛けています。また、光栄なことに、これまで色々な賞も受賞しました。今年はCalifornia Preservation Foundation Design Awardsより、グリフィス天文台のデザインで「2007 Trustees Award for Excellence」をいただきました。
 
 趣味はアウトドアで、つい先日もシエラ山脈まで旅行に行ってきました。50ポンドのバックパックを背負って、1万3千フィートの山々を登ってきました。アウトドアは私にとって、大変良い気分転換となっています。
 
 仕事も遊びも、何事もバランスが大切なのではないかと思います。仕事では理論と創造性が大切ですし、人生には家族、キャリア、健康、信念のバランスが大切で、それのうちの1つでも崩れてしまうと、歯車がうまく回らなくなってくるものです。
 
 私は、もし今日が人生最後の日となってしまっても、決して後悔しないよう、1日1日を大切に、全力で生きようと心掛けています。その積み重ねが、結果的に良い仕事につながると信じています。
 
2007年10月16日号掲載

寿司職人(その他専門職):城戸 隆さん

色々なお客様に満足を与える
気の遣い方ができるのが、良い寿司職人

 今回は寿司職人の城戸隆さんを紹介。銀座の老舗寿司店で修業を積み、アメリカで寿司店を開業するために渡米。ネタの仕入れもままならない時期から30年間、本場の寿司をアメリカに普及させてきた。

【プロフィール】きど・たかし■ 18歳の時に手伝いで寿司職人の道に入る。日本料理を勉強した後に、勘八に入店。10年間の修業を経て、28歳でロサンゼルスに渡米。1978年にガーデナに日本の勘八ののれん分け店、寿司屋の勘八をオープン。90年にガーデナ内で新店舗に移転。来年3月に満30年を迎える。

そもそもアメリカで働くには?

寿司のみで勝負するのは
当時はギャンブル

 寿司職人になったきっかけは、本当に偶然でした。友達が新宿の寿司屋で働いていて、「人手が足りないから、ちょっと手伝ってくれ」と言われて。私は九州男児ですから、台所に立ったこともなければ、包丁を握った経験もない。これは困っちゃったなと(笑)。
 
 ですが結局5年間、その店で働きました。今思えば、向いてたんですね。カウンターからお客さんの反応がすぐにわかるから、非常にやりがいがありました。
 
 それから日本料理を勉強して、丸の内の勘八に入りました。忙しい店で、非常に勉強になりましたね。1日に4斗のご飯を出すんです。ちらしが毎日200人前、握りが100人前。仕事量が多いから、否が応でも腕が上がりますよ。
 
 アメリカに来ようと思ったきっかけは、勘八にいた寿司職人が、リトルトーキョーで2年間働いて2万ドル貯金して日本に帰って来たんです。1ドル270円の時代だから、すごい大金。お金を貯めるんだったら、遊びの誘惑を断ち切ってアメリカにでも行かないと、という気持ちになりました。
 
 それで、2年契約でダウンタウンの寿司屋で働くことに。28歳の時でした。その後、ガーデナにある日本食レストランの寿司バーに移り、結婚を機に独立することに。日本の勘八からのれん分けを許され、1978年3月にオープンしました。
 寿司だけをやるっていうのは、当時はギャンブルでした。周りの人はみんな、天ぷらとかもやった方がいいと言ってくれましたが、私は頑としてやらなかった。寿司職人だから、寿司屋で失敗したら日本に帰るって気持ちだったんです。それがものすごくウケた。当時は寿司だけの店が少なかったから。

絶対的なネタ不足
アンチョビを握ったことも

 78年当時は、日本からのネタがすべて冷凍物でした。空輸できる時代じゃなかったですから。近海モノのアジとかサバもあるんですけど、脂が全然のってなくて美味しくないんです。寿司は素材が命ですから、当時は大変苦労しました。ですが、我々の先輩たちは、アワビの缶詰を使って握ったり、カマボコを握ったり、もっと苦労されたわけです。そういう方たちの苦労があったわけですから、泣き言は言っていられない。
 
 近所のビーチでたまに大きいヒラメがかかると聞いて、魚河岸に行くような気持ちで買いにいきました。釣り人につたない英語で「この魚を売ってくれ」って。エサにするアンチョビを指で開いて握ったり、そういった努力もしましたね。カイワレや大葉を自宅の裏で栽培しようとしたこともありました。失敗しちゃったんですけどね(笑)。それくらい意欲を持ってやっていました。
 
 また、当時はお客さんもアメリカ人が少なくてね。まあ、寿司なんて食べたことがないという人ばかりでしたから。アメリカ人エグゼクティブの方で、日本に行った時に接待されて寿司を覚えた方が、アメリカの寿司ブームの火付け役になったのでは。
 
 私は常に、このまま日本へ持って行っても通用する“味と腕”を目標に、最高を目指して30年間、頑張ってきました。寿司はやはり素材を追求した物が本来の寿司だと思うんです。私は、そういう寿司を追求したい。寿司がアメリカでも受け入れられて、いろいろなタイプの寿司が生まれて、それはそれでそういう文化もあるってことでいいとは思うんですけど、それが主流になっちゃいけないと思います。しっかり本道を保たなきゃいけないんじゃないかな。ウチもお客様から頼まれれば、色々なリクエストにお応えしますが、本道から外れるようなことはオススメしないですね。
 
 78年にガーデナで始めて、今の店舗に移ったのが90年です。その間にネタの空輸ができるようになって、冷凍物から新鮮な物へと大きく変わりました。コハダなどいろんなネタを仕入れられるようになりました。

寿司職人に大切なことは
お客さんへの気の遣い方

 寿司職人に大切なことは、技術的なことはもちろんですが、気の遣い方ですね。お客さんへの気の配り方を学ばないと。
 
 ただ黙ってお客さんから言われた物だけを握って出す。それじゃあ気が利かないじゃないですか。先々を考えてあげないと。
 
 例えば、握りをふた口で召し上がる方がいれば、2回目から「お切りしましょうか?」と聞く。その時、ワサビは2カ所に分けて付けてあげる。握り方も箸で召し上がる方の場合は固めに、手で召し上がる方は柔らかめに。満足感を与えるためには、そこまでやらなきゃいけないんじゃないでしょうか。色々なお客様に満足を与える気の遣い方ができるのが、良い寿司職人だと思います。ただ、満足感を与えるサービスというのは、人によって色々違うし、そのための努力というのも曖昧なところがあって、難しいですけどね。
 
 私ももう60歳になりますから、これから続く人に良い伝統を残したい。まず原点は、切って、握るというのは当たり前ですが、できればシャリは熱くても人肌、40℃以下。それでいて魚は冷たい。これが理想的ですね。シャリと魚のバランスに気を付ける。もちろんできるだけいいネタを準備して、下準備に手を抜かない。基本中の基本です。
 
 それから、やはりいい先輩、師匠の下で勉強すると良いでしょう。良いお店で、良い先輩から本物を学ぶってことですね。良い物っていうのは理屈抜きでいい。美味しい物を食べれば、不味い物はすぐわかりますし、良いサービスを受ければ、悪いサービスがなんだかわかります。寿司に限らず美味しい店に行って、美味しい物をいっぱい食べることです。そうすると、本物に近づけると思います。
 
 とにかく、美味い物を提供したいという情熱を持つこと。キャリアは関係なく、ひたすら努力の積み重ねです。日々勉強すること、それが大切です。
 
(2007年10月1日号掲載)

建築家(その他専門職):寺田 千加子さん

どういう条件で建てられたとしても、
質の高い空間を利用者が
経験できることが願い

 アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は建築家の寺田千加子さんを紹介。学校や公共施設を始め、一般住宅などあらゆる建築を手掛け、この9月には担当した52エーカーの敷地の私立高校が開校する。

【プロフィール】てらだちかこ■東京生まれ。多摩美術大学建築科卒。Registered Architect。建築家、竹山実氏に師事し、サンディエゴ州立大学のEnvironmental Designで修士号取得。現在サンディエゴにて、5人のパートナーと共に「Roesling Nakamura Terada Architects」を経営。www.rntarchitects.com

そもそもアメリカで働くには?

TOEFLは後回しで
入学許可が下りる

建築材料のサンプルを使っての
プレゼンテーション

 建築家で、武蔵野美術大学で教授をしていた父の影響もあって、私も多摩美術大学の建築科に入学し、建築の勉強をしました。UCバークレーの客員教授をされていた竹山実先生が武蔵野美大で父と同僚だったこともあり、多摩美大在学中から竹山先生の事務所でアルバイトをさせてもらっていました。竹山先生は、SHIBUYA109や晴海客船ターミナルなどを設計した日本を代表する建築家の1人で、卒業後もやはり竹山先生の下に残って働き続けることにしました。
 
 それからアメリカの大学院で建築の勉強をしたいと思い、1980年にサンノゼ州立大学にある語学学校に留学しました。大学院に進学する方法をいろいろと調べてみたのですが、ほとんどの学校で既に新年度の入学受付が締め切られており、そのうえ、私はTOEFLも受けていなかったため、入学願書の書類も揃わない状態でした。
 
 しかし、当時UCバークレーに留学中の竹山先生の教え子の方が、サンディエゴ州立大学(SDSU)ならまだ受け付けていると、私に教えてくれたのです。当時、SDSUに入学するのにも、私の英語力は十分ではなかったのですが、それまでの自分の作品をまとめたポートフォリオを学校に提出したところ、TOEFLは入学してから受けるという条件で入学許可が下り、SDSUのArt Department Environmental Designというマスターコースで2年間勉強することになりました。ここでは当時の教授だった建築家、ユージン・レイの下、一般現代美術史を含め、環境および建築設計デザインを勉強しました。
 
 入学して1年半を過ぎた頃に、現パートナーの中村氏の紹介でローズリング氏に出会い、彼の仕事を手伝うことに。彼らと一緒に建築をすることがとにかく楽しかったので、大学院卒業後も事務所に残り、正式に就職することになりました。

携わる人を取りまとめ
ビジョンを現実化する

Mater Dei Catholic High Schoolの
施主との打ち合わせ

 建築家というと、オフィスで静かにデザインを描いている姿をイメージするかもしれません。しかし、1番の大きな仕事は、「何を造るのか」を頭に置きながら、そのプロジェクトに携わる多くの人たちを取りまとめ、そのビジョンを現実化することです。施工主、エンジニアやデザイナー、施工会社、役所の担当者など、多くの人たちが関わり合ってプロジェクトは進んでいきます。それぞれに立場があり、希望があり、譲れないプライドもあります。こちらの意見を受け入れてもらわなければならない時、彼らを説得し、まとめることは簡単なことではありません。
 
 また、仕事を受注するのもひと苦労です。例えば、公共建築の設計プロジェクトを受注するために、建築事務所は州・郡・市、あるいは学校の教育委員会など、公共機関からの広告を基に書類を提出します。公共機関では、いくつもの建築事務所からの提出書類を比較検討し、また必要に応じて面接などを行い、その中で最も適切だとされる事務所に仕事を依頼します。そういった設計の仕事を獲得するためには、他の事務所との競争を乗り越え、自分たちのデザインの秀逸性だけではなく、依頼されるプロジェクトに対するアプローチなどを、明確に説明できなければならないのです。

地道に勉強し
常に感性を磨くこと

 現在、担当しているプロジェクトの1つに、今年9月に開校するチュラビスタの「Mater Dei Catholic High School and Parish」があります。52エーカーの広大な敷地内に、カトリック系私立高校と教会の施設が建っています。キャンパスにはフットボール場、野球のグラウンド、ソフトボールフィールド、チャペル、図書館、シアターなどの施設が備わっており、約2200人の生徒を収容することができます。
 
 設計・施工期間は短期間で集中して行われ、約2年半。キャンパスの設計は、カトリックという背景を反映するため、伝統的で直線的な建物の配置を心がけました。また、建築そのものはシンプルでありながら、学校らしい、明るくて健康的な環境作りを目指したつもりです。温かみのある色合いの石を使ったり、ブロックの色や仕上げに変化を付けるなど、学校特有の無機質な雰囲気にならないよう心がけました。この52エーカーもある施設の数々が、私たちの作品として後世に残っていくことは、建築家としてとても感慨深いものですね。
 
 最近、アメリカで障子など和の要素を取り入れたデザインが人気を呼んでいますが、ただお洒落だから、カッコ良いからという理由だけで外国の要素を取り入れるのではなく、きちんと1つ1つの必然性を考え、スタイルなどにとらわれない設計をしていきたいと思っています。「建築物がどういう条件で建てられたとしても、質の高い空間を利用者が経験できるように」という私の建築家としての願いがそこにあります。いつか、美術館と庭園など、内部空間と外部空間を総合的にデザインできるようなプロジェクトを手掛けてみたいですね。
 
 建築はアートですので、芸術センスを養うことも大切。私が個人的に好きな芸術家は、彫刻家であり、庭園アーティストでもあったイサム・ノグチです。彼の人間の生活に密接したアートや、遊べる彫刻、Akariシリーズの照明器具などのユニークな作品は、私にインスピレーションを与えてくれます。作品だけでなく、彼の真にグローバルで、芸術に常に熱心に向き合った妥協のない生き方にも興味を惹かれますね。
 
 建築家になりたいと思っている人へのアドバイスは、日頃から自分の目で色々な建築・アートを見たり、音楽を聴いたりしながら地道に勉強すること、そして常に感性を磨くことが大切なのではないかと思います。
 
(2007年9月16日号掲載)

ピアニスト(その他専門職):奥村 尚美さん

ピアノを通して貢献できることを
コツコツと重ねていきたい 

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はピアニストの奥村尚美さんを紹介。武蔵野音楽大学を卒業後、音大のピアノ講師やピアニストとして活躍。渡米後は地域社会に貢献したいという思いから、コミュニティーカレッジや教会で多くの人に音楽を教える毎日を送っている。

【プロフィール】おくむら・なおみ■東京生まれ。武蔵野音楽大学を卒業後、武蔵野音大付属音楽教室で講師を務める。神奈川県で演奏家グループを結成し、定期演奏会やオーケストラとの共演等、幅広く活躍。99年渡米後、コミュニティーカレッジのコーラスクラス、教会の聖歌隊や日本人などに音楽を指導する。「SAKURA MUSIC STUDIO」主宰。

そもそもアメリカで働くには?

4歳から習い始めて
ピアノの指導者に

アメリカに来て音楽活動を共にしている友人
ユニスさんと

 4歳からピアノを習い始め、東洋英和女学院高等部卒業後、東京にある武蔵野音楽大学ピアノ科に入学しました。大学を卒業後すぐ、教授のすすめにより、私自身も高校時代に通っていた武蔵野音楽大学付属音楽教室に勤め、約10年間、ピアノ講師として後輩の指導に当たっていました。
 
 ここのクラスは、厳しい試験に合格した真剣な生徒ばかりなので、ほとんどの生徒が音大を目指しています。音大に合格する、つまり音楽家となるために必要な技術と知識が十分に備わるように指導していきました。しかし生徒の中には、受験直前になって「やっぱり音大ではなく、理数系の大学に行きたい」と言い出す人もいたりして、驚かされることもありましたが、大変やりがいのある仕事でした。

別の分野に入って
音楽の世界を見直す

2000年にラホヤでピアノ・ソロコンサート
「My Favorite Classics」を行った

 出産を機に、武蔵野音大の講師を辞めました。退職後も個人的にピアノを教えるなど、何かしらの形でピアノと関わりのある生活はしていたのですが、子供がハウスダストアレルギーを持っていたことから自宅を改装することに。改装を重ねるうちに、家の構造や材質、さらには建築そのものに興味を持つようになり、学校に入って一から建築の勉強を始めました。
 
 そして、2級建築士の資格を取得し、3年ほど建築士になるための専門学校で講師を務めました。ところが、その期間に自分の中で多くの葛藤があり、やはり「自分にはピアノしかない」ということに気づき、再び音楽の世界に戻りました。今となっては、音楽とは違う世界を経験したことが、ピアノを見直す良いきっかけとなったのではないかと思います。
 
 それからは、ピアノ講師として生徒に指導するかたわら、ピアノの先生や歌手を集めて、「メロディ・トゥリー」という演奏家団体を結成して、神奈川県で年に2回ほど演奏会を開いていました。また、長年の夢であった、オーケストラとの共演も実現することができました。私を含めたピアニスト仲間3人がそれぞれ、神奈川フィルハーモニック・オーケストラと共演したのですが、念願がかなって、ラフマニノフを演奏できたことは、今でも私にとって思い出深い出来事となっています。

活動の場を広げてくれた
アメリカ人の友人

 1999年に渡米したのですが、住み始めてすぐに、ピアニスト兼コーラスディレクターをやっているユニスさんという方と知り合いました。まさに彼女との出会いが、その後のサンディエゴでの私のピアノ生活を大きく変えました。
 
 「一緒に音楽活動をしよう」と誘ってくれた彼女は、まず自分が担当しているコミュニティーカレッジのコーラスのクラスの伴奏を任せてくれました。そこでしばらく演奏していると、「うちの伴奏もやってほしい」「うちでコンサートを開いてくれないか」などと、さまざまな方面から演奏の依頼が入ってくるようになりました。
 
 現在は、サンディエゴ・コミュニティーカレッジ・ディストリクトの4つのコーラスの伴奏や、サンディエゴ・ユダヤ人男性合唱団の伴奏兼コーチ、日系キリスト教会の聖歌隊および音楽ディレクター、サンディエゴ日本混声合唱団の指揮指導者として、1日平均4時間は伴奏をしている毎日です。また、今年度から、コミュニティーカレッジでソルフェージュクラスも開講しました。その他、音楽教室「SAKURA MUSIC STUDIO」を開講し、ピアノや歌の個人レッスンも行っています。

クラシックの原点に戻り
好きな曲を追究したい

 アメリカに来てから、自分を必死に売り込んだという経験はないのですが、このように多くの機会に恵まれたことは、日系社会だけではなく、多くのアメリカ人と知り合いになったことが大きかったように思います。アメリカでは、外国人が自分の実力だけで勝負するよりも、アメリカ人の知り合いから人を紹介してもらったり、推薦してもらうと、驚くほど話が早く進みます。
 
 そういう友人を多く作るためには、アメリカ社会の中で、小さなことでも自分が貢献できることをコツコツと地道に行うことです。人脈というネットワークは、そんな風に自然と広がっていくのではないでしょうか。そして、それが結果的に、多くのチャンスにつながっていく気がします。
 
 日本人の中でも、アメリカで大きなことを成し遂げたいと思っている方は多いかもしれませんが、まずアメリカ人の知り合いを多く作り、初めの1歩として、自分の住む地域に根差した活動を始めると良いと思います。アメリカで成功するには、なんと言ってもアメリカ人からのサポートやヘルプが必要であり、それには勇気を出して、自らアメリカ社会に飛び込んでいかなければ、次のステップには進めません。「困っている日本人はいないかな?」と、優しく手を広げて待ってくれているアメリカ人など、どこにもいないのですから。
 
 今後、日本の方が進んでいるソルフェージュや緻密な演奏技術など、あまりアメリカで教育が徹底されていない分野に貢献したいですね。
 
 ピアニストとしては、クラシックの原点に戻って、好きな作曲家や曲について、自分なりにもっと追究していきたいと思っています。残念ながら、今は研究に費やす時間がないので、それは老後の楽しみの1つとしてとっておきたいなと思っています。
 
(2007年8月16日号掲載)

コンストラクション・マネージャー(その他専門職):細川 智徳さん

「完成形」を見て満足するよりも
人の苦労が刻まれた過程が好き

アメリカで夢を実現した日本人の中から、今回はコンストラクション・マネージャーの細川さんを紹介。日本各地やインドネシアを担当した後、現在はダウンタウン・ロサンゼルスで、2009年に開通予定の地下鉄「ゴールドライン」の地下セクションの責任者として、工事の指揮を執る。

【プロフィール】ほそかわ・ともなる■1966年生まれ。岩手県盛岡市出身。大学の土木工学科を卒業し、1990年に大林組入社。日本各地の工事現場で経験を積んだ後、入社4年目でインドネシアに赴任。埋め立て工事や工場建設を監督した後、渡米。コロンビア大学院でコンストラクション・マネジメントを専攻する。2003年よりダウンタウン・ロサンゼルスの地下鉄「ゴールドライン」工事主任。

そもそもアメリカで働くには?

世の中に役立つものを
作りたい

ミーティングルームの壁を使ったスケ
ジュールボード前にて、部下のエンジニアと

 子供の頃の夢は動物学者でしたが、小学校の夏休みに空港の工事現場を見学したことがきっかけで、橋やダム、地下鉄など「大きなもの」を作りたいと思い始めました。本格的に建設業を志望したのは、高校2年生の時。その後は、建築の仕事を思い続け、大学でも土木工学を専攻したのです。
 
 もともと、国内でも海外でも、「いろいろな所に行き、いろいろな物を見て、いろいろな人に会いたい」という気持ちが強くありました。大林組に入社してからは、現場のエンジニアとして、経験を積みました。どの仕事もそうだと思いますが、教科書というものはないので、すべて現場で覚えるのです。
 
 その間も海外工事を希望し続け、入社4年目でインドネシアに赴任。4年ほど滞在し、埋め立て地の造成や工場建設に携わりました。言葉も文化も風土も違う国での仕事は大変ですが、やりがいがあり、自分には合っていると感じましたね。
 
 日本に戻った後も海外志向は消えず、会社の留学制度を通じて渡米。ニューヨークのコロンビア大学院で、コンストラクション・マネジメントを専攻しました。その後、2004年より、ダウンタウン・ロサンゼルスの地下鉄「ゴールドライン」の工事主任を担当することになったのです。
 
 建設業には、陸や海、地下など、決まった分野の工事を担当する「専門家」と、いろいろな種類の工事を監督する、いわゆる「何でも屋」の2通りがあります。海外勤務の場合には、工事の種類も場所も選ぶことができないため、必然的に「何でも屋」になりますが、いろいろな仕事に携われる点で、好奇心の強い自分には向いていると思います。
 
 作るもの自体は同じでも、国が違えばシステムや工法などが違ったりします。例えば一般的に、日本では高度な技術を使いますが、海外では、コストを抑えるために、新技術だけではなく、20~30年も前の技術も含めて、最適な方法を見つける工夫が必要です。
 
 例えば、インドネシアの埋め立て工事では、海の中に杭を打ち込む際に、日本ならコンクリートを使うのですが、竹を束にして使いました。これはシンガポールの教授がオリジナルに考案したものですが、工事に竹が多用されたため、値段が高騰してしまったこともありました。
 
 その土地柄に合った建設アイデアを活かし、機械や材料、工程や組織を変えていく作業は、大変ですが、やりがいがありますね。

言葉や文化の壁を越える
周りとの信頼関係

 ゴールドラインの工事に携わって以来ずっと、朝は1時間半ほど現場回りをしています。日々の作業の確認と、自分の目で見ないとわからないことがたくさんあるため、毎日必ず1回は現場に足を運ぶようにしているのです。その後、デザイン確認や変更、図面管理、翌日の作業の打ち合わせなど、ミーティングを重ねます。
 
 スケジュール管理がとても大切なので、完成予定まで5年間の工程を1年、半年、3カ月、1カ月とブレイクダウンしていき、3週間先までは、1日ごとの作業工程の詳細を詰めます。道路を封鎖して工事をする必要がある時には、夜通しで作業することもありますね。
 
 スタッフは職員が60人と作業員が200人弱いますが、日本人は私を含めて3人。作業員の多くはスペイン語を母国語としているため、英語が話せる人間がチームリーダーとなり、まとめていきます。
 
 日本人同士で仕事をする場合と比べて大変な点は、「約束や期限を守らない」など考え方や文化の違いや、限られた人材のなかで「工程に合わせて、予算内に、決められたものを作る」という、この当たり前のことが、とても難しいのです。工事が遅れると、発注者に罰金を支払うことになるので、頭を悩ませます。
 
 これでベストということはないので、今までの経験から、「今日、明日、来月に何が大切なのか?」を綿密に考え、周りとの信頼関係を大切にし、スタッフの得意なところを活かすように心がけています。

好きだから考えるし
失敗も身になる

 この仕事をしていて、うれしい瞬間は、「それぞれの山場」が完成した時です。いろいろな人間の苦労が刻まれているという点では、監督や撮影監督、美術、編集など、多くの人が関わる映画製作などの「もの作り」と同じかもしれませんね。また、工事には危険が伴う作業も多いので、安全には特に気を配っていますが、そういった意味でも、無事にひと山超えた時には安心します。
 
 実は、過去に自分が関わった工事の完成形を見たことがないのです。工事は終わりに近づくにつれて、工程が減っていくので、最後まで残るスタッフの人数は限られます。そのため私の場合は、プロジェクトが完成する頃には、既に次のプロジェクトに移っているのです。
 
 でも、「完成形を見たい」というこだわりはありません。それよりも、「過程」が好きなんですね。料理でも、作っている過程が好きで、昔よくやっていたホームパーティーでも、半分の時間は、キッチンの中にいました。
 
 ゴールドライン完成まで、あと2年。特に思い入れのある場所はやはり、自分が関わっているリトルトーキョー駅と、ボイルハイツのMariachi PlazaとSoto駅でしょうか。
 
 建設の仕事を目指す時に大切なことは、「やる気」です。好きだから真剣に考えるし、失敗が身になるのだと思います。
 
 全体を監督する役割ですから、周りで何が起きているのかを敏感に感じ取り、必要であれば即修正する柔軟性や、協調性も求められます。体力ももちろん重要な要素ですね。
 
(2007年7月16日号掲載)

アナウンサー(その他専門職):岡野 進一郎さん

日系社会のニュースを大事にしつつ
新しい視聴者層の拡大を

UTBの『モーニング・クリック』でメインキャスターを務める岡野さんを紹介。NHK朝の連続テレビ小説の主人公に抜擢され、俳優として活躍。一念発起して渡米し、今やUTBの顔として定着している。

【プロフィール】おかの・しんいちろう■1963年生まれ。85年NHK朝の連続テレビ小説『いちばん太鼓』で主演デビュー。90年文化庁在外研修員として、ニューヨークHBスタジオで演技とプロデュースを学ぶ。帰国後、(株)ハイブリッド・アーツを設立、プロデューサーとしても活動。2002年にロサンゼルスへ移住。現在、UTBキャスター兼プロデューサーとして活躍中。

そもそもアメリカで働くには?

「アメリカで生きたい」
人脈を活かして渡米

MOMOKOさんとの息もバッチリ合った
『モーニング・クリック』(金・朝7時~)

 日本にいる間、俳優をやっていたんですよ。1985年にNHKの朝の連続テレビ小説の主人公に抜擢されまして、その後も順調に俳優の仕事を続けていました。そんななか、自分が影響を受けた映画や舞台が海外、特にアメリカのものだったんですね。それで、どうしても演劇の本場・ニューヨークで勉強してみたいと思いました。
 
 たまたまその時に、文化庁の在外研修員というシステムがあったんです。同期生に現在ロサンゼルスで活躍なさっている映画監督の鈴木じゅんいちさんもいまして、それでニューヨークで初めてのアメリカ生活が始まりました。90年のことでした。
 
 演劇学校で1年半、トレーニングを続けたら、アメリカが自分にすごく合っていたんでしょうね。たちまちとりこになって、住み続けたいと思いました。ただ、その時は、永住権が取れなかったということもあり、泣く泣く日本に帰りました。人生は、その時その時に障害やチャンスがあります。その当時は、自分の人生がアメリカとうまく交差しなかったんですね。でも、「アメリカで生きたい」という思いがずっと自分の中にあったので、機会を見て、絶対行こうと思っていました。
 
 再渡米のきっかけになったのは、ニューヨーク時代のスタジオにいた、当時小道具係の人が、演劇教育機関の総合ディレクターになったこと。日本の演技教育に関する情報交換をしたいということで、僕が招かれたんです。大したお金にならないし、家族ももうおりましたので、それで生活していくのは難しいと思ったんですが、なんとかこれをチャンスにしたいと思いました。それが2002年のことで、最初に渡米したいと思ってからは、相当な時間が経っていました。
 
 ロサンゼルスに渡って、自分のキャリアを活かせる仕事といったらメディア関係しかなかったものですから、日系のテレビ会社に紹介で入って、番組の構成台本を書いたり、インターンみたいなことをやっていました。

帰国寸前に決まった
UTBへの就職

 たまたま家の近所に回転寿司屋がオープンしまして、そこにアルバイトに行ったんです。そうしたら、1週間くらいでチーフシェフが辞めてしまって、僕がチーフに(笑)。僕の日本での俳優活動を知っているお客さんもけっこういらしたので、「なんであなたがこんな所で寿司握ってるの?」なんて話になることも多かったです。
 
 それまで日本で20年近く俳優をやっていましたが、何の保障もない中で生きないといけなかった。日本俳優協会に登録している俳優って4万人くらいいるらしいんですが、その中で俳優業だけで家族を養っていける人って600人もいないんです。その時に比べたら、今は好きな街で、青い空の下で、一生懸命生きられると、開き直れたんです。アメリカにいたら、自分が今まで築き上げてきたプライドとか関係ない訳ですよ。
 
 ですが、ビザも失効間際で、家族がいるのに不安定な暮らしをこのまま続けるのは難しい。僕はロサンゼルスに住む運命ではないのかもと、帰国準備を始めていた折に、いろんな人からUTBをすすめられました。でも、以前に他社でビザサポートをしてもらえなかったのが非常に辛かったこともあり、在米日系メディアに対して失望感がありました。
 
 家財道具も売りさばいて、いよいよ帰国という時に、ある人に「岡野さんくらいの人が、くすぶったまま帰るのはもったいない」と言われました。しばらくして、「今からUTBのゼネラルマネージャーに会ってください。段取りはすべて組んであるので」と、突然言われ、それがロサンゼルス滞在最後の日でした。ゼネラルマネージャーも、すぐにサンフランシスコへ出張というギリギリの状況で面接をして、即採用していただきました。

オーバーリアクションを
楽しんでいただきたい

 今は、『モーニング・クリック』という番組のメインキャスターをやっています。日系のメディアはどこもそうなんですが、日本とは比較にならない基盤の中でやっているので、僕自身、カメラも回しますし、編集もします。ただ、日本の番組に追い付くことだけを目的にしてしまうと、どうしても予算の問題が出てきますよね。予算内でどう手作りの魅力で親しんでもらうか、楽しんでもらえるかっていうところで、今は仕事をしています。ある種、日系社会独特の番組上の泥くささというのは、あえて残していくつもりでやっています。
 
 僕のアナウンサーでの師匠は、(元UTBメインキャスターの)尼野さん。1年間ピッタリ付いて、原稿の読み方から、毎日、稽古してもらいました。俳優業では、自然に人が喋っている状況を、どう演出するかに注意していました。そういう風に自分を訓練していたので、アナウンサーとして話せるよう再トレーニングするのが大変でしたよ。俳優の時は、役の心情を表現するのが仕事だったのですが、今は原稿を表現しないといけない。
 
 視聴者からは、たまに「はしゃぎ過ぎ」というお叱りのメールが来るんですよ。ただ、日系3世、4世の方で、日本語がわからなくても番組を楽しんでいる方がいらっしゃいます。そういう方は、僕のオーバーリアクションを楽しんでくれているんですね。そういう人のことも考えながら努力しているので、そのあたりはご容赦いただきたいです(苦笑)。
 
 今後は、心から尊敬する尼野さんの意思を受け継ぎ、日系社会のニュースを大事にしつつも、若い世代の新しい視聴者層の拡大を考えています。
 
 メディアの仕事はインターンから始まることが多いと思うのですが、在米日系メディアなら日本の制作会社に入るより、ある意味、いきなり大きな仕事を任せてもらえると思います。日本ではなかなかお会いできない方にも、ロサンゼルスでならお会いできたりしますので、それも魅力ですね。個人の資質をどんどんアピールすれば、いろんな仕事ができると思います。
 
(2007年7月1日号掲載)

ヨガ・インストラクター(その他専門職):白山晴久さん・朱美さん

ヨガは一生やっていけるもの
ライフワークとして多くの人とシェアしたい

ビクラムヨガ・レドンドでのインストラクターを務める白山さん夫妻を紹介。温室で行う「ビクラムヨガ」の虜になり、脱サラしてインストラクターの道へ。ビクラムヨガに出会い、身体も人生も変わったという。

【プロフィール】しらやま・はるひさ■兵庫県出身。大学卒業後、就職して渡米。2005年9月にティーチャートレーニングを受講。修了後、06年1月よりスタジオで教える。
しらやま・あけみ■島根県出身。東京で勤務後、90年に結婚、渡米。日系企業で勤務したが、ビクラムヨガに魅せられ、ティーチャートレーニングを受講。修了後、05年12月よりビクラムヨガのインストラクター。

そもそもアメリカで働くには?

後悔は実行してから
脱サラをポン! と決意

9週間、ビクラムヨガ漬けになったティーチャートレーニング

晴久:海外に出たいと思っていたので、アメリカの工場での勤務を前提とした企業に就職し、こちらに来ました。妻は大学のヨット部の後輩でした。
 
朱美:アメリカでは最初、駐在員の妻という立場でしたが、永住権を取ってからは日系の企業で働き始めました。お互いずっと仕事が忙しくて夜も遅く、週末はゴロゴロしていただけでしたが、ある時、友人がビクラムヨガのチラシを持って来てすすめてくれ、なぜか「やってみたい」という思いに駆られて。夫を説得して日曜の朝、2人でスタジオに足を運びました。
 運動不足の上、貧血気味で温泉やサウナが苦手でしたので、温室で行うヨガに、最初は暑くてのびてしまいました。でも、クラスが終わって冷たい風に吹かれると気持ちがいい。「またやってみたい」と毎週末通うようになり、頻度を増やしていきました。夫も週末に通い始め、やはり週3、4回と増やしていきました。
 そのうち、インストラクターになりたいと思うようになりました。近くにスタジオがあれば通えますが、将来どこに住むかわからない。でも、自分が先生になれば、いつまでもヨガを続けることができる、そう考えたんです。夫に相談すると、「じゃあ、なれば?」と賛成してくれました。
 スタジオを開いて経営すればよいのですが、1人では難しい。そこで夫に、「一緒にやりたいんだけど」と相談したんです。
 
晴久:僕もポン! と決意しました。「それもいいかな。一緒にやろう」と。人生は1回しかありませんから。やるか、やらないかで悩むんだったら、やった方がいい。日本人はやらずに後悔しますが、アメリカ人はやってから後悔する。アメリカ人はそこが素晴らしいと思うんです。実際、全然不安はなかったですね。2005年9月に、2人で9週間のインストラクター養成講座を受けました。

ヨガを通して変わった
身体そして人生観

朱美:インストラクター養成講座を受けるには、スタジオで6カ月練習をして、スタジオのオーナーから本部に推薦状を書いてもらいます。そして、9週間で、90分のクラスを朝と夕方の2回受け、その間に講義を受けます。解剖学も学びますし、健康に関する講義や教授法の講義も受けます。ビクラムヨガの創設者であるビクラム氏の美学や生い立ちなど、自らによるレクチャーもありました。
 
晴久:朝の9時半から夜の12時まで毎日、ガンジス川の流れのように、ゆっくりと行われました(笑)。受講生は220人。ヨーロッパ、アジア、ラテンアメリカなど世界中から来ており、その時、改めてヨガの人気を認識しましたね。
 
朱美:ビクラムは部屋を温めていますが、これは筋肉と関節を伸びやすくしてストレッチをする時に負担を少なくするため。ヨガにはいろんな流派がありますが、瞑想中心でスピリチュアルの世界を追求するものに対し、ビクラムは身体のために行うものです。
 
晴久:ビクラムでは、身体は神様からの借り物。神聖なる”テンプル(寺)“であり、それをキレイに保つことが私たちの仕事と考えています。それができた時に、スピリチュアルな考えが持てるようになる。「健全な肉体には健全な精神が宿る」ということです。
 僕たち自身、有名ブランドを身に付けて満足していた時代もありましたが、今はそういったものに興味がありません。なぜなら、自分の身体が素晴らしいから(笑)。健全な身体を持てば、服なんてなんでもいい。
 また、生活自体も変わりました。昔は高いワインを美味しいと思っていましたが、今はこだわっていません。スピリチュアルとは違うかもしれませんが、ヨガを通して自分の身体、食べる物、行動が”ミニマイズ“されてきました。
 

スタジオ経営が
次のチャレンジ

朱美:デスクワークをしていた頃は、いつも手足が冷えて新陳代謝が悪く、ストレスから暴飲暴食に走ることもありましたが、今は身体を常にシェイプアップし、自分の身体への理解が深くなりました。ヨガを通して、身体が健康になり、薬を飲む必要もなくなったのもうれしいことです。
 ヨガの魅力は、スポーツと違って、今すぐできなくてもいい。また、若くなくてもいい。身体さえ動かすことができれば、自分のペースで、一生できるところです。1年半のインストラクター経験を含め、3年やっていますが、基本の26のポーズもまだ練習し続けています。80歳のおばあさんで、今でも教えている方がいます。ヨガには終わりがありません。
 
晴久:ビクラムヨガは慣れるまではきついですが、慣れてきて身体の変化を感じられるようになると気持ちいい。達成感があるものです。また、ヨガというのは忙しいものではありません。息をするのもヨガ。歩くのもヨガ。要はその動作を集中して行うことがヨガなんです。
 
朱美:今、スタジオとなる物件を探していますが、ビクラムヨガはスタジオの家賃だけでなく、シャワーやヒーティングなどの設備投資もかかりますので、大きなチャレンジです。それでも、2人でスタジオを経営したいと思うのは、生徒さんたちと継続的にコミュニケーションを取っていきたいからです。平日はフルタイムの仕事をして、週末だけ教えるというと経済的には安定するかもしれませんが、片手間でやりたくないんです。
 ポーズがまったくできなかった生徒さんが少しずつできてきたとか、以前に比べて健康になってきたとか、そういったことを話してくれ、喜んでおられる生徒さんの姿を見るのが1番うれしい。生徒さんがより健康的になって、ハッピーになっていくことがうれしいんですね。
 自分たちのスタジオを作って、生徒さんを増やし、より多くの方とこの素晴らしさをシェアしていくことが次の目標です。
 
2007年6月16日号掲載

牧師(その他専門職):大倉 信(まこと)さん

聖書と日常生活の関わりを解き明かし
「希望」を届けたい

アメリカで夢を実現させて働く人の中から、今回は牧師の大倉信さんを紹介。アジア放浪の旅のインドで、人生の転機となる光景に遭遇。神学校を卒業し、現在、サンディエゴの教会で、迷える人々の心を癒している。

【プロフィール】おおくら・まこと■1969年、ソウルで韓国人の父と日本人の母の間に生まれる。71年日本に渡り、高校卒業後に渡米。91年、テネシー州タスカルム大学を卒業。日本帰国後、放浪の旅を経て、96年に東京聖書学院を卒業。98年に再渡米し、現在、サンディエゴ・ジャパニーズ・クリスチャン教会に属す。大倉牧師のブログ(www.mmpinc.us/pmac/)

そもそもアメリカで働くには?

韓国生まれ、日本育ち
紆余曲折の青年期

沖永良部島にある教会で子供たちと

 牧師になったきっかけは、韓国人の父と日本人の母が共に牧師だったこともありますが、その道筋は紆余曲折でした。「牧師の子は良い子」という先入観が世間一般にありますけど、私の場合は決してそうではなく、色々なことがありました。
 
 韓国・ソウルで、生後まもなく父が亡くなり、田舎の教会を手伝って私を育ててくれた母と共に、高校までは日本で「牧師の子」として生きてきました。ただ、日本のクリスチャン人口は1パーセントにも満たず、民家に看板を掲げているような小さな教会が多いのです。日曜日になると、自分の寝ている部屋を片づけて、礼拝をするというような状況も。そんな自分にとって、家=教会を離れたアメリカ生活は魅力的に見え、高校卒業と同時に、18歳で渡米しました。
 
 テネシー州のタスカルム大学で心理学を専攻しながら、教会から離れて羽を伸ばした寮生活を送りました。日本人がいない環境で、多くの貴重な経験をしたのですが、心の中のどこかに、癒されない渇きがあったことを覚えています。
 
 当時は、日本はバブルの時期だったのですが、帰国直前は、「今後、何をしようか」と悩み続けました。坂本龍馬に憧れて自転車で高知に行ったり、広島の平和運動に参加したりもしました。
 
 その後、何かを捜し求めて放浪の旅に出るのですが、そのきっかけとなったのは、沢木耕太郎が香港からロンドンまでバスで旅をした旅行記『深夜特急』シリーズでした。インドのくだりで、カルカッタについて、「1ブロック歩いただけで、一生かけても味わうことのない体験ができる」というような記述があったのです。それを読んで、横浜から船で中国へ、そこからタイ、インドへと放浪の旅をし、いろいろな風景を見ることになりました。
 
 人生を変えたのは、インドのガンジス川の元にあるベナレスという街で、2週間1人で滞在した時の経験です。ガンジス川はヒンズー教徒の聖地で、教徒たちは亡くなると川に流されることを良しとします。
 
 ある日、遠くの川岸から煙が出ているので、近づいてみると死体を焼いているのです。そこでは、インド中から運ばれてくる死体を1日中焼いていたのですが、2つの薪が並べられているのを見ました。片方の薪の上には、豪華できらびやかな布で巻かれた女性の身体が横たえられ、周りでは多くの家族や友達が泣き叫んでいます。もう片方の薪の上には、みすぼらしい布でくるまれた女性の身体が置かれ、多分、路上で行き倒れた女性なのでしょう、誰も見守る人はいません。その焼いた灰を流している川の5メートル先では、女性たちが歯を磨き、洗濯をし、幼い子供たちが水遊びをしています。また、インドでは、神と崇められている野牛が、亡骸を包んでいた紐を食べています。
 
 半径20メートル以内の空間に、笑いも悲しみも、喜びも死も共存している。その風景を見た時に、自分のやるべきこと、進むべき道を、神様が見せてくれたと思いました。その時に「キリストを伝えていく」ということこそが、自分の生きる道だと確信して、すぐさま日本に帰国、10日後には神学校の入学試験を受けていました。

米国留学の経験が導いた
牧師としての再渡米

人生の転機となった自分探しのインドへの旅

 東京聖書学院を卒業し、鹿児島県奄美諸島の沖永良部島の教会で2年2カ月の赴任を経た後、再渡米することに。渡米のきっかけは、「日系人教会に日本語のできる牧師が足りない」と聞いたことでした。アメリカの大学に通っていた4年間について、「何のためにあの経験をしたのだろう?」と振り返った時に、すべてが1本の紐でつながったような気がしたのです。私が行くべきではないか、と。
 
 アメリカの教会では、教会堂と牧師が住む家が分かれており、キッチンや会議室、オフィスもあります。通常、月曜日はオフですが、それ以外の日は、教会に通います。朝一番に教会の方々や病床の方々のために、時間をかけてお祈りします。教会に来ている方々のみならず、サンディエゴ、全米、そして日本の方々のことも想いながら祈るのです。
 
 日曜礼拝のメッセージとして、プログラムの中で聖書の話をするのですが、その準備にも時間をかけます。平日にはバイブルスタディーやプレイヤーズミーティングといった集会もあります。また、これから手術をする方のもとへ駆けつけたり、病気の方をお見舞いして励ますことも。いろいろな悩みに答えるという点では、24/7体制で、緊急病棟のようなものですね。

聖書が伝える「希望」
喜びのメッセージ

 牧師をしていて1番うれしい瞬間は、悩みや悲しみのため、辛い気持ちで生きていた人々が、神様の愛に触れて、立ち上がろうとする場面に立ち会えることです。
 
 今、世の中ではいろいろなことが起きています。村上龍が『希望の国のエクソダス』の中で、「日本にはすべて揃っているけれど、希望だけがない」と書いていますが、アメリカにも当てはまると思います。
 
 日本人は、「聖書は難しい、とっつきにくい」というイメージを持たれることが多いのですが、聖書が日常生活にどのように関わるかを解き明かし、「キリストにある希望」が行き届くように努めていきたいです。
 
 今、特に自分自身が取り組んでいきたいと思っているテーマは、夫婦関係です。「夫婦」という最小社会は、子供に大きく影響を与えますし、その子供たちも大人になり、やがて夫婦になります。夫婦や親子という関係について、「聖書は何を言っているのか」「聖書はこんな喜びを語っているのか」というメッセージを伝えていきたいですね。
 
(2007年6月1日号掲載)

サーフボード・シェイパー(その他専門職):村田 栄作さん

何が良くて悪いのかわからないのは、
くやしいけど、楽しい

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はサーフボード・シェイパーの村田栄作さんを紹介。サーフボードの持つ、曲面の美しさに魅せられてシェイパーに。”会心の1本“を生み出すために追究を続ける。

【プロフィール】むらた・えいさく■大阪府出身。日本で専門学校卒業後、インテリア家具の会社に就職。その後、大工となり、同時に地元サーフショップでボード修理のアルバイトを始める。ボブ・ハーレーに出会って、シェイパーを志し、18歳の時に渡米。ハーレーに師事しながら、顧客を増やす。現在、ハンティントンビーチの工房で活動中。

そもそもアメリカで働くには?

1日1本
ドルの儲け

乗り手の直感的な感覚を、ミリ単位で反映し
ていく

 日本で専門学校を出てから、インテリア家具を作る会社で木工職人として働いていました。親父が大工だったので、その後は大工をやっていました。10代の後半から兄の影響でサーフィンを始め、それと並行して地元のサーフショップでボード修理のアルバイトも始めたんです。
 
 18歳の時、ショップのオーナーのすすめもあって、アメリカにサーフィンをしに来たんです。ハンティントンビーチとかニューポートビーチでサーフィンをしていた時に、ボブ・ハーレーという、僕の師匠なんですけど、彼にサーフボードを作ってもらいました。日本では、生でボード作りを見る機会なんてなかったので、ハーレーに生で作ってもらって感動したんですよ。それで「ボードを作るの、カッコいいな」と思ったのがきっかけとなり、シェイパーを目指すようになりました。
 
 そして、たまたま僕が勤めていたショップのオーナーが、ハーレーを日本に呼ぼうということになって、日本でボードを作る企画を立てたんです。その時に僕は、弟子という形でずっと横に付いて、毎日、毎日見学させてもらって、そこからサーフボード作りを始めたんです。それまで日米を行き来していたのですが、こっちで僕のボードに乗ってくれる人が少しずつ出て来て、なんか感触を掴んだんですね。こちらでもいけるかなって。それで、25歳でアメリカに移住しました。
 
 最初は、ハーレーの仕事場を借りて、少しずつ始めて行きました。その頃は、まだまだ難しかったですね。お金がなくて食事にも困っていた時に、ずっと面倒を見てくれた人とかがいて、僕はすごく友達に恵まれていました。
 
 ある時、僕が作ったボードに乗った人が雑誌のポスターになったんです。それから地元のサーフショップにも置いてもらえるようになって。あとは口コミで注文が入るようになりました。
 
 でも最初の頃は1本作って25ドルの利益。もう大変だったんです。工房を使える時間も限られてて、1日に1本くらいしか作れませんでしたからね。それでもボードを作れること自体がうれしかったんですよ、お金じゃなくて。

芸術的な曲線に
魅せられた

 ボード作りは、フォームにアウトラインを鉛筆で書くんですよ。それを切り取って、反りを決め、丸くまとめていくんです。全部がきれいなラインでつながらないとダメなんですよ。ラインが1点から1点、きれいに出ないといけない。それがなかなかできないんですよ。
 
 だからカーブがきれいに出ると、本当にうれしいんですよ。ボードの芸術的な曲線に魅せられましたね。ポルシェとかフェラーリみたいに、きれいなラインっていうのがあるじゃないですか。あんな感覚ですね。でも、全然出せない(笑)。自分ではまあまあかなと思っていても、ハーレーに「なんや、これ」って笑われて、全然ダメでしたね。そこそこな物を作れるようになったのは、つい最近かな。でも、まだ「これ!」っていうのは、年に1、2回あるかないか。
 
 最近は、コンピューターでやっている人も多いですね。コンピューターでやると、対称で安定したものができるんです。でも、僕は手でやるのが好き。せっかく好きでこの道に入ったのに、1番面白いところをコンピューターにやらせるのはちょっとね。今は、1本作るのに平均2時間から3時間くらいかけています。遅い方なんですよ(笑)。

名画を見たような
影響を受ける

 ボードの善し悪しは、ごまんとサーファーがいるから、すぐに答えが出ます。乗ってダメだったら売れないし、良ければ人伝いに「あれはいいぞ」という風にね。僕の場合、たまたま友達で、上手い人が乗ってくれた。彼は地元でも有名で、大会にも出ていて、やはり勝ちたいから、お互いが刺激し合いながら、いい物を作っていきました。
 
 ボードは、乗る人の身長や体重、個性、どういう波に乗るか、どういうサーフィンをしたいかとか、いろんな要素を踏まえて、反り加減や厚さなど、全部考えます。調整はミリ単位以下で削ったりします。デリケートですよ。
 
 例えば、乗っていて変な音が鳴ったりすることがあるんです。フィンの後ろがほんの1、2ミリあるかないかの違いだけで、そうなったりします。
 
 まったく同じボードは、この世の中にないですね。同じボードでも、できあがったばかりと半年後では、弾力性が変わったりして、もう全然違うんです。奥が深いですね。自分で会心の作だと思っても、いざ乗ってみたら調子悪かったり、案外雑でも調子が良かったりして、難しいものなんですよ。そこが面白いところですね。でも、調子悪いって言われると、結構落ち込みますね。何が良くて悪いのかわからないのは、くやしいですけど、それを考えるのが、また楽しいんですよ。虜になるのは、そういうことを、あれこれ考えることですね。
 
 今だに「絶対、コレ!」という物はできないですね。ハーレーは、今でもたまに会うと、見た感じでアドバイスをくれます。それで答えが出ますから、やっぱりまだまだ遥かに上を行っていますね。また、アル・メディックっていう人がサンタバーバラにいるんですけど、僕はこの人は世界一のシェイパーだと思うんです。彼を超えようと、今、頑張っています。
 
 この人のデザインはすごいですね。名画を見たみたいに、すごい影響を受けます。そういう時は、もう居ても立ってもいられなくなって、「仕事場に行こう」って思いますね。
 
 南カリフォルニアは土地柄、シェイパーもたくさん居るけど、技術的なことをわかっていないとダメだし、クリエイトするセンスも必要。難しいですよね。あとは自然が相手ですから、その勝負もあります。ただ、特に適性とかはないですから「とりあえずやってみろ」と、言いたいですね。何事も、まず好きになることです。好きだと苦労も感じないし、僕もそうしてきましたから。これからもずっとシェイパーを続けていくことが目標ですね。
 
(2007年5月16日号掲載)

ドッグトレーナー(その他専門職):鈴木 博美さん

犬の世界に入り、犬の感覚を
犬として感じるようにしています。

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はドッグトレーナーの鈴木博美さんを紹介。愛犬との生活から犬のトレーニングに興味を持つように。現在、トレーニングクラスを日本語で提供している。

【プロフィール】すずき・ひろみ■大阪府出身。日本で幼稚園教諭を経験。2004年に渡米し、ドッグトレーナーの師であるアリータ・ダウナーに巡り合い、研修生に。05年Canine to Fiveを立ち上げ、日本語によるデイケア、トレーニングクラスを主宰。「犬が笑っている生活」をモットーに活躍中。

そもそもアメリカで働くには?

飼い犬との出会いで
この世界に入る

デイケアの外遊びの時間

 動物が大好きで、中学生の頃は、「ムツゴロウ王国で働きたい」と、本気で思っていたほど。高校卒業後は幼児教育科に進み、幼稚園教諭になりました。勤め始めた幼稚園では、ウサギ、ヤギなど、動物をたくさん飼育していて、それも魅力でした。8年間勤務しましたが、どうしても牧場で働きたいという思いが強くて1年間休職し、ワーキングホリデーでニュージーランドに行きました。
 
 ドッグトレーナーの世界に入る大きなきっかけとなったのは、主人と知り合い、彼の飼っていたゴールデン・レトリーバーのパブリックと出会ったことです。パブリックの子供がほしいと、ジャニスをお嫁さんに迎え、ここから犬の勉強が始まりました。
 
 犬の呼び戻しがうまくできず、犬と飼い主が一緒に参加できるトレーニングクラスを探しましたが、30人くらいまとめられ、マイクで説明を受ける大雑把なクラスだったりで、なかなか気に入るところがありませんでした。仕方なく、犬を委託するクラスに預けてみたところ、教室ではトレーナーの号令に完璧に従うようになったのですが、環境を変えるとできなくなっちゃう。警察犬訓練所に預けてみると、号令、号令の厳しい指導にストレスではげてしまうだけ。
 
 求めているトレーナーが見つからず、いろいろ調べているうちに、「将来、犬のことを仕事にできたらいいね」と、話し合うようになっていました。

楽しそうな犬の笑顔を見て
渡米して勉強を決意

アジリティーの初級クラス。犬たちを
励ましながら、根気よく教える

 日本のドッグトレーナー育成学校は、「学費が高い」「実践がなく、実力が付きにくい」「期間が長過ぎる」。それならいっそのこと、犬の先進国、欧米に行ってみようかと思うようになりました。アメリカに決めたのは、新婚旅行で2匹を伴って1カ月間、カリフォルニアを旅行したことが大きいですね。広いドッグビーチを思い切り走り回って楽しそうな姿に、こんな笑顔をずっと見ていたいと心から思いました。
 
 2年後に渡米し、最初はロサンゼルスにある犬の訓練学校に入学しました。ところが、日本の警察犬訓練所のようなやり方を目の当たりにし、自分の望んでいるものではないと、2日で辞めることに…。
 
 新婚旅行の時に知り合ったサンディエゴ在住の日本人女性に相談したところ、彼女が紹介してくれたのが、今も私の師であるアリータ・ダウナーでした。彼女には人柄からにじみ出る温かいオーラがあり、それでいて犬のトレーニングに関する鋭さ、冷静さが備わっています。飼い主を指導する姿も適切で、彼女のデモンストレート犬の完璧さには唸りましたね。
 
 アリータのドッグトレーナー養成プログラムは1年半。当時、私のビザは1年しか残っていなかったのですが、私の熱意が認められて、ギリギリ1年でやってみようということになりました。このプログラムは、アリータが行うドッグトレーニングクラスを、観察学習することがメイン。週1回以上あるミーティングで経営方法を含め、トレーニングに関するすべてを話し合っていきます。英語が苦手だった私は、アリータや他の研修生たちが話す英語を聞いて必死でメモを取って、家に戻って英語を調べ、もう1度勉強という毎日でした。
 
 研修生活3カ月目に大きな転機を迎えました。アリータがトレーニングセンターを開設することになり、運営スタッフが必要ということで、6人いた研修生の中から私を選んでくれたのです。「アメリカに残って一緒に働いてみない?」と誘われ、思いがけないチャンスに「やりたい!」と、その場で答えました。

犬を飼う喜びや楽しさを
もっと知ってほしい

 すぐにビザを切り替え、「Canine to Five」(www.sdk9to5.com)を立ち上げました。Canine to Fiveは、トレーニングセンターの一部門として、日本人向けに日本語で犬のトレーニングクラス、デイケアを提供しています。いきなり現場で実践を積むことになり、ますます生活は忙しくなりましたが、楽しい思いの方が強くて苦ではありませんでした。
 
 アメリカにも日本にも、ドッグトレーナーの国家資格はありません。経験を積んでいくのみです。ただ、経験は長さではなく、内容のある本物の経験を積むことが大事。「下積みが長い仕事ですか?」と、よく聞かれますが、一生勉強が続くので、そういう意味では今も下積みですね。私の場合は、幼稚園教諭として、子供の指導や保護者への接し方などで培ったものが、今、トレーナーとして、犬とそのオーナーと関わっていく上で役立っています。
 
 犬が好きなだけでは、ドッグトレーナーにはなれません。犬を犬という動物として受け入れることができ、擬人化しない、そういう人がこの仕事を心から楽しんで、続けていけると思います。うまく言えないのですが、動物的な感覚を持っている人というのでしょうか。
 
 この仕事をしていると必ず不安になったり、犬のことがわからなくなる時があります。そんな時は、犬の世界に入り、犬の感覚を、犬として感じるようにしています。必ず犬が答えをくれますから。犬とのコミュニケーションは、言葉にできない世界ですが、この感覚がとても好きです。
 
 犬同士のコミュニケーション、一瞬の行動で見せる美しさを、少しずつ写真に撮りためています。いつか短いエッセーにして、本にしたいですね。あとは、犬を飼っている人たちのトレーニング意識も高めたい。トレーニングは、号令で窮屈にするものではありません。トレーニングを通じて、犬を飼う喜び、楽しさを、もっともっと知ってほしいですね。
 
(2007年5月1日号掲載)

ギタリスト(その他専門職):石原 秀朗さん

メンバーのエネルギーが、
お客さんの反応とすべて一致して
融合したと感じられます

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はギタリストの石原秀朗さんを紹介。美大に進学後、ミュージシャンに転向。『Blue Man Group』のオーディションに合格し、同ショーでギタリストとして活躍する。

【プロフィール】いしはら・ひであき■東京都出身。14歳の時に渡米し、高校に入学。卒業後、Massachusetts College of Artに入学。写真を専攻するが、Studio for Interrelated Mediaに変えて卒業。ニューヨークに移住後、結婚。1999年に勤務先のスタジオで『Blue Man Group』のオーディションを受けて合格。2000年から、ラスベガスで同ショーのギタリストとして活躍。

そもそもアメリカで働くには?

ミュージシャンは
お金にならない

所属していたパンクバンド(98年頃)

 中学の時はまったく勉強しなくて、ロックばかり聴いていました。はっきり言って不良でしたね(笑)。そんな時、父の仕事の都合でアメリカ行きが決まり、マサチューセッツ州ケンブリッジの公立高校に入学しました。英語はロックの影響で好きだったので、少しは話せたんです。
 
 高校2年の時に、写真家になりたいと思って写真のクラスを取って、ボストンにある州立の美術大学に行くことにしました。写真を専攻していたのですが、在学中にやる気が失せてしまい、「Studio for Interrelated Media」という専攻に興味を持ちました。これは、生徒たちがそれぞれ興味のある分野で作品をコラボレートして行くというもの。私は「山海塾」のようなムーブメントアートに興味を持ちました。自分の身体を使ってパフォーマンスすることが好きだったんです。これがパフォーマンスに興味を持ったきっかけでした。『Blue Man Group』に入るきっかけでもあったかもしれません。
 
 中学からいつもバンドに入っていて、アメリカでもずっと続けていましたが、音楽を大学で学ぼうとは思いませんでした。父はミュージシャンでしたが、「ミュージシャンはお金にならないから、やらない方がいい」と言われてたから(笑)。

やはり自分は
好きな音楽をやりたい

奥様のジェニーさんと息子、ライデンちゃん

 卒業後は、写真屋で手焼きのプリンターを1年半ぐらいやっていました。ですが、後に妻となるジェニーが、ニューヨークに行きたいと言い出し、引っ越すことに。ニューヨークは仕事の競争率が高く、給料も安くて驚きました。とにかく生活しないといけないので、いろんな仕事をしましたね。
 
 ニューヨークでもバンドで音楽はやっていて、最終的に「自分のやりたくない仕事はやりたくない。やはり自分は好きな音楽をやりたい」。そう思い、とにかく音楽に携わる仕事を探したら、貸しスタジオで職が見つかりました。エレベーターを動かしたり、スタジオ清掃、予約受付、機材修理など、ありとあらゆることをしました。ラモーンズのジョーイ・ラモーンやパティー・スミス、イギーポップなどの有名アーティストがリハーサルに来ていて、会うことができました。正直、自分の好きな仕事だったから、お金はなくて大変だったけど、楽しかった。
 
 ある時、働いていた貸しスタジオでブルーマンがオーディションをしていて、自分も受けたいと、試しに受けてみました。カットソーで髪もスキンヘッド、サンダル履きで行ったら、雰囲気がかなり気に入られたみたいで、受かってしまいました。技術より演奏スタイルが気に入られたんだと思う。だって待合室には、自分より上手い人たちがたくさんいたから。
 
 早速、ラスベガスに移れるかと聞かれたのですが、結婚したばかりでジェニーは仕事もあったし、友達もみんなニューヨークだったから、説得するのは大変でした。結局、「このチャンスを逃したら2度目はないかも知れない、ちょっとだけ行ってみて嫌だったらニューヨークに帰ればいいじゃん」と説得しました。

キャラになり切る
それが楽しい

 ブルーマンでの最初の3カ月はリハーサルでした。ブルーマンのやり方というのは、その場で決めて行くことが多いんです。大体のアイデアはあるのだけど、細かいところは変えていく。今日のパートが明日には変わることも。譜面もなくて、自分の耳で覚えるか、紙に書くしかない。同じ場面、同じ曲でも弾き方が少し違ってきたりします。ブルーマンのスタイルというのは、紙には書いていないんですが確かにあって、そこからはみ出ないようにしながら、自由にやっています。
 
 2000年の立ち上げから7年、お客さんにアピールというか、ありがとうという気持ちを込めて、ずっと演奏してきました。自分にとってはいつものことでも、お客さんにとっては新鮮だから、自分を第3者の目で客観的に見ながらやらないと、新鮮さが出なくなります。
 
 ショーの最中はコスチュームを着ているから、自分かどうかはわからない。自分ではないブルーマンバンドのキャラクターになれる、それが楽しいですね。
 
 ブルーマンで演奏していて楽しい時は、いいショーができた時。そういうショーでは、10人のメンバーのエネルギーが、お客さんの反応とすべて一致して、融合したと感じられます。逆に、疲れている時もありますが、ジムなどに行ってトレーニングをしたりして、いつもフルパワーでショーをこなし、会場のムードを奮い立てられるように頑張っています。
 
 仕事が入っている時は、サウンドチェックとメークをする前に練習しています。家でも毎日ではないですが、練習しています。待望の子供が生まれて、今は僕の中では子育てがメイン(笑)。だから、ブルーマンが終わったらすぐに帰って育児。
 
 今後はテレビのコマーシャルやショーや映画の音楽などのプロダクションをやっていきたいです。だから機材を購入して、コンピューターでプロダクションの勉強をしています。育児が終わってからですから、朝の3時くらいに寝ていますね。
 
 ミュージシャンを目指している人に、僕がアドバイスできるのは、とにかくいろんな人とプレーすること。自分よりうまい人とプレーする。とにかく数をどんどんこなして、いろんな場所でプレーする。失敗にめげないで、オーディションにもどんどん参加する。どんな職業でも言えることだけど、自分が好きでやっているということを、忘れないでほしいですね。
 
(2007年4月16日号掲載)