弁護士(その他専門職):吉原 今日子さん

目標や夢って転がっているものではなく
色んなことを経験しながら
意識して見つけていくもの

英文学科を卒業した日本人女性が、一念発起して渡米。MBAを取得し、さらにカリフォルニア州の弁護士となった。前進し続ける吉原さんに、これまでの人生とアメリカで働くコツを聞いた。

【プロフィール】よしはら・きょうこ■日本で大学を卒業後、渡米。University of San Diegoで経営学を学び、MBAを取得。 その後、法学博士(JD)を取得。在学中は、インターンとして家族法や不動産法にも携わる。司法試験合格後、Taki Law Officesで移民法を専門に活動している

そもそもアメリカで働くには?

3日間の耐久試験で弁護士資格を取得

笑顔を絶やさず業務に励む吉原さん

 渡米したのは9年前。当時、日本の大学の英文科を卒業して、即就職しようとは思わなかったです。「英文科卒の女子なんて、将来が見えている…」と思って。その頃からアメリカ留学はしたいと思っていましたが、目的なしの渡米は意味がないことはわかっていました。「自分は何をやりたいのか」を見つけるために、色々勉強してみました。そして出た結論が「経営学を学ぶ」ということでした。
 アメリカの大学院に入学し、2年ほどでMBAを取得。卒業後、就職口はありましたが、まだ勉強したいという気持ちが強く、昔からあこがれていた弁護士になりたいと、ロースクールに通うことにしました。
 ロースクールには3年通いました。入学時の6割の人しか卒業できない世界で、4年制大学修了と同等数の単位を3年間で終える必要があり、とても大変でした。卒業後、カリフォルニア州の司法試験を受験。16教科の試験があり、忍耐勝負の3日間耐久テストでした。テストには、選択問題、エッセイ、実例に則した問題を問うシミュレーションの3つあるのですが、私にはシミュレーションテストが1番難しかったですね。申立書を3時間で完成させるなんて、弁護士になってもないことですよ。カリフォルニア州の司法試験の合格率は4割ほどなので、合格した時は、喜びというより安堵でした。

決めたからには自分で責任を取る

 日本人がアメリカで頑張るには、必ず英語の壁にぶち当たります。私もそうでした。特に最初のビジネススクールではつらい思いをしました。成績の20%が「Participation」で評価されるのですが、単に授業に出席するだけではダメで、議論やグループワークでの積極的な発言が要求されるのです。当時のクラスメイトは、マーケティングやファイナンス、会計などの分野で、実際に弁護士やエンジニア、会社役員だったりするわけで、私とは社会経験や興味のレベルがまったく違う。みんな「私の経験からすると…」や「私の会社では…」という切り込み方をするんですが、私には語れるだけのバックグラウンドはない。でも、彼らと肩を並べて発言しなければならない。正直、どうしたらいいのかわかりませんでした。
 それで私がやったのは、『エコノミスト』や『ウォールストリート・ジャーナル』を読み、授業に関連する記事をピックアップして、クラスでは自分の経験に即した発言であるかのように問題提起してみる(笑)。グループプロジェクトでは、一生懸命参加しなければならないという意識がある反面、やはり周りの人の足を引っ張りたくない、迷惑をかける外国人と思われたくないという気持ちがありました。でも、半年、1年経つにつれ、アメリカ人の方からチームに入ってほしいと言われた時は、正直うれしかったです。
 今考えると、「自分で決めたから」という思いがずっと私の背中を押していましたね。「決めたからには、自分で責任を取る」という気持ち。将来アメリカで仕事をするためにも、今はできるだけのことをしておかなければと考えていました。

「自己主張」と「自己責任」米社会ではこれが重要

 これまで自分は、その瞬間、瞬間で勝負してきましたから、皆さんが思われるほど立派だとは思っていないんですよ。やりたいことをやってきただけ。しかし、やりたいことや目標を見つけるのは難しいこと。目標や夢って転がっているものではなく、色んなことを経験しながら、意識して見つけていくものだと私は思います。生まれつきすべきことがわかっている人なんて、わずかしかいません。
 何かを突き詰めて頑張ろうとした時、日本とアメリカでは背負うおもりが違います。日本は「女だから」「年も年だし」「今さらどうして?」など、余計なプレッシャーが付きまといますが、アメリカはありません。だから飛び立とうとした時に軽いのです。だからこそ、こちらにいる日本人は、自分にレッテルを貼らず、やりたいことや好きなことをやってほしいですね。
 アメリカで働いていて思うことは、この国では「自己主張」と「自己責任」が必要ということです。アメリカでは「沈黙」は「美徳」ではなく、「完璧な理解と同意」です。例えば上司が間違ったことを発言しても、日本の場合「空気」を読み、相手の顔色を見ながらあえて黙っています。しかしアメリカでは、それをしていると周りから自分も同じ人間と思われます。だから疑問に感じたりおかしいと思ったら、それをきちんと主張することが必要となります。
 また、日本の会社では今でも連帯責任の風潮があります。誰かが失敗した場合、本人はもちろんですが、その上司が謝ります。でもアメリカでは、上司には頼れません。失敗したのは本人。上司は悪くないですから。だから、アメリカでは、「自己主張」をすると共に、「自己責任」を取る覚悟がいる。これを理解しないと、アメリカ社会では働くのは難しいと思います。

弁護士になったのは日本人を応援したいから

 今はトーランスのTaki Law Officesで、移民法を専門に扱っています。日頃の業務で思うことは、移民のケースはすべてが移民局の審査官の手にあるということです。例えば、2人の申請者の経歴やバックグラウンドがほぼ同じでも、一方だけ落ちたりします。審査官も人間ですから、同じケースでも受け取り方が違うのです。最近はビザ取得が難しく、自分のやる気や思いだけではどうしようもない時があります。しかし仮にいい結果が出なかったとしても、「誰がやってもそうなっていた」と言えるくらいに、常に一生懸命やっています。
 実は弁護士になった理由の1つに、アメリカで夢に向かって頑張る日本人を応援したい、日本のビジネスをアメリカで広げる仕事がしたいという気持ちがありました。外国人である以上、移民法は必ず関わってくる問題です。そういう意味では、やりたかった仕事ができていると思います。
 
(2008年10月1日号掲載)

幼稚園教諭(その他専門職):西尾 暁子さん

子供にとって幼稚園は初めての社会
人間形成の場に携われることが素晴らしい

 今回は、南カリフォルニア大学付属幼稚園でクラスを担当している西尾暁子さんをご紹介。アメリカの幼児教育の現場に携わって5年。日米の幼児教育の良いところを集めた理想の幼稚園を作りたいという夢がある。

【プロフィール】にしお・あきこ■1973年奈良県生まれ。天理大学体育学部体育学科卒業後、地元の中学校で3年間、体育教師として勤務。98年に留学のため渡米。UCLAのエクステンションで早期幼児教育の資格を取得、サンタモニカ・カレッジで学士号。USC付属School of Early Childhood Education勤務

そもそもアメリカで働くには?

日々成長する子供に感動 幼稚園に進路を決める

担任するクラスでパジャマパーティーをした時の記念写真

 中学校1年生でソフトテニスを始め、高校も大学もテニスで入学しました。高校の時は全国ランキング4位、大学では国体7位。全国大会の個人で準優勝し、日本一を目指していました。実業団からの誘いもありましたが、選手生命は短いので、ずっとテニスを続けられる指導者、教師の道を選びました。
 日中は中学生にテニスを教え、夜は大学の体育学部で指導する日々。1年中テニスに明け暮れていましたが、23歳の時に初めて10日間という長期の休みを取ることに。インディアナポリスに留学している友人を訪ねたところ、自分ももっと世界を広げたいと思い、2年間の準備を経て、ニュージャージーに語学留学しました。当初は半年で帰るつもりでしたが、大学に入って体育学や教育学について学ぼうと考え、スポーツをするのにふさわしい環境のカリフォルニアに移りました。
 ロサンゼルスでTOEFLの勉強をしている間に、たまたま始めた地元の幼稚園でのボランティアが私の転機となりました。これまで教えてきたのは中学生でしたから、3~5歳児は新鮮で、日々著しく成長していく姿は目を見張るものがありました。彼らにとって幼稚園は初めての社会、大切な人間形成の場です。そこに携われることの素晴らしさを知り、これ以上やりがいのある仕事はないと幼稚園教諭になることを決めました。そこで、UCLAエクステンションで早期幼児教育の資格取得のコースを、1年間取ることにしました。
 クラスの中に、なぜかいつも隣の席になる女性がいたのですが、知識も経験も非常に豊富な人で、聞くと南カリフォルニア大学(USC)の付属幼稚園でディレクターをしているとのこと。仕事を探しているならウチに来ないかと誘われて、そこでボランティアを始めました。そして、フルタイムでの採用にも応募してみることに。1つの枠に10人以上が応募し、面接官は20人もいましたが、ボランティアしていた時の勤務態度が評価され、採用が決まりました。アシスタントの期間を経て、現在クラス担任として3年目になります。

創造力や社会性を伸ばす 遊びにも目的がある

 アメリカでは現在、資格だけでアシスタントになれますが、2011年からは学士コースを取っていることが必要になります。また、教員になった後も自己啓発のために教育を受け続けることが求められています。私も現在、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校でコースを取っています。その学費は勤務先からは出ませんが、County of LA Childcare Planning Committeeといった公的機関から奨学金を受けられる可能性もあります。USC自体は私立大学ですが、付属幼稚園は州立ですので、教員になるには州からの認可も必要となります。
 この幼稚園は5つの園舎に分かれ、私が働く園には3~4歳児、4~5歳児のクラスが全部で11あり、1クラスに17~20人の園児がいます。低所得者層の家庭の子供が対象で、園児にはヒスパニック系やアフリカ系アメリカ人が多く、教員も大半がヒスパニック系かアフリカ系アメリカ人です。英語が話せない保護者も多いため、担任・副担任のどちらかがスペイン語を話せないといけません。100人の教員がいる中で、私は唯一の日本人です。
 幼稚園では漫然と子供たちを遊ばせるのではなく、1つ1つの活動に創造力や言語力、社会性を伸ばすという目的を持って行っています。クラスを担当する担任と副担任、スーパーバイザーが毎週ミーティングを開いてフォーカスする園児を5人選び、彼ら1人1人のニーズに合わせた活動を行います。活動の中には、日常の中で起こりうる問題をどのように解決するかを話し合う「I can solve problem.」といったものもあります。室内は科学、お家、コンピューター、アートなどコーナーが分かれており、遊ぶ前に園児にどこに行って何をするか計画させ、片付けた後にその日何をしたかを振り返り、発表する時間も設けています。

生きているって素晴らしい 感動できる教育の場を

 クラスには身体や精神に障害のある園児もいます。クラス全体を見る中でその子供といかに接していくかが難しいところですが、ほかの子供たちも学ぶことが多いので、こうしたインクルージョンのクラスがもっと日本でも増えるといいと思います。
 指導上注意しているのは、それぞれの個性を尊重すること。毎日全員に同じだけ声をかけ、できている点を見つけてほめるようにしています。また、園児を個人として認め、子供扱いしないようにしています。
 アメリカらしいと思うのは、創造性を伸ばすために子供に“見本”を見せないところです。日本では工作や絵画指導に見本を見せることが多いようですが、そうすると創造性が発揮されません。また見本と違うものを作ると、“間違っている”ことになります。活動には正解のない、自由な発想ができるもの、子供に失敗させない、自尊心を損なわないものを選んでいます。
 この仕事をしていてうれしいのは、子供たちの成長が見られた時。そこに自分が貢献できたことに喜びを感じます。「I love coming to school!」と目を輝かせてくれる姿を見ると、やっていて良かったと思います。また、子供の様子は日々保護者に報告していますが、特に良いところを必ず伝え、保護者と協力し合いながら、子供をバックアップしています。
 それから、体育教師だったことを活かし、健康的な生活を指導しています。園児に食べ物の選び方や運動の大切さを教え、例えばラップのリズムに合わせ、「ハンバーガーはノー、ノー。ミルクを飲もう!」と歌ったりしています。また、毎週月曜日は2時間かけて、園の周りを散歩しています。
 いつかアメリカと日本の幼児教育の良いところを集めた幼稚園を、作りたいと思っています。そして、「学校って楽しい」「生きているって楽しい」と子供たちに感じてもらえればと願っています。
 
(2008年9月16日号掲載)

モデル(その他専門職):竹谷 香織さん

何かになる必要などない。
自分であればいい
自分には自分だけの魅力があるのだから

今回はアメリカでTVコマーシャルや雑誌広告で活躍している、ライフスタイルモデルの竹谷香織さんをご紹介。競争の厳しいモデルの世界を生き抜き、自力で学び取ってきた成功へのコツを伝授してもらった。

【プロフィール】たけや・かおり■東京生まれ。武蔵野女子大学短期大学在学中にスカウトされ、モデルの世界へ。女性誌や広告、キャンペーンガールを経て渡米。ハリウッドの演劇学校に通いながら、エージェントに所属し、モデルとしてのキャリアをスタート。現在、「ライフスタイルモデル」として大手企業のCMや広告で活躍中

そもそもアメリカで働くには?

スカウトされてモデルに リセットするため渡米

スタイルも抜群の香織さん。ファッション
モデルとしてショーに出演することも

東京の短大に通っている時に山手線でスカウトされたことがきっかけで、モデルの道に入りました。ファッションモデル事務所に所属し、『CanCam』や『an.an』などの女性誌や雑誌広告の仕事を2年半ほどしましたが、この業界で自分らしさを失っていることに気付き、自分が目指す世界ではないと半年間休業することにしました。
 
その後、事務所を変わり、トヨタのレーシングチーム、TRDでキャンペーンガールを務めました。2年ほど続けましたが、華やかなこの世界も自分に合っていないと思うようになりました。当時、俳優養成所にも通い、演技の勉強もしていたので、そちらの道に進みたいという思いもありました。
 
モデルの仕事を始めて以来、自分はずっと流されている気がしました。また、家業の骨董品屋を継がなければならないという状況にもありました。そこでいったんすべてをフラットな状態にして、自分を見つめ直そうと、1年間、日本を離れてみることにしたんです。日頃から英語の必要性も感じていたので、アメリカで英語を勉強しようと、日本人の少ないサンタバーバラの語学学校に入りました。自分の世界が広がるのではという期待もありました。
 
東京では仕事に追われていたので、貯めてきたお金を使いながら学校に通うだけの日々というのは本当に楽しく、解放感あふれるものでした。そして、10カ月経った頃に答えが出ました。やはり芸能の道に進もうと。しかも、今度はアメリカで挑戦してみよう、何かをつかむまでは日本には帰らない。自分にとって大きな決断でした。
 
そこでロサンゼルスに居を移し、ハリウッドのシアター・オブ・アーツに入学。在学中にOPTが出るので、その間にいくつものエージェントに写真と履歴を送って、ハリウッドのエージェントに入りました。

エージェントはパートナー 売り込むのは自分自身

エージェントは日本とアメリカでは、そのあり方がまったく違います。日本ではエージェントが自分を売り込んでくれますが、アメリカではエージェントはオーディション情報を与えてくれ、ギャラの交渉をしてくれるところ。基本的には、自分で自分を売り込まなければなりません。エージェントは小さなところでも300人は所属しており、自分が仕事を取らないと存在さえ忘れられてしまいます。自分でオーディション用の写真を撮り、衣装もメークも自前です。エージェントとは二人三脚の関係ですので、自分をうまく売り込んでくれるところを見つける必要があります。また、こちらも自分が何をしたいか、きちんと伝えなければなりません。
 
また、エージェントは俳優業、CM、印刷広告と各専門に分かれているところも多く、地域でも郡ごとに分かれています。私の場合、ロサンゼルスでは各専門分野のエージェント3カ所に入っています。また、オレンジ郡、サンディエゴのエージェントにも入っています。
 
私はエージェントとだけ契約を結んでいますが、マネージメント会社にも所属している人もいます。また、どの専門分野においても、「LAキャスティング」というオンライン会社に写真や個人情報を登録することが必要です。そして、ある程度実績のある人は、「SAG(映画俳優組合)」という労働組合にも入らなければなりません。

日頃の積み重ねが大きな自信へとつながる

最近はJCペニーのTVCMや、VISAカード、Best Buy、トヨタやノキアなどの広告の仕事をいただいています。この仕事で楽しいのは、色々な人に出会えること。毎回チームで協力し合い、1つの物を創り上げるというのが楽しいですね。
 
オーディションはいつ行われるかわからず、「明日来てください」というのはいい方で、「2時間後に来てください」ということもあるんです。ですから、チャンスをつかむためには24時間、万全の態勢でいなければなりません。
 
大きなオーディションになると、応募者800人のうち、オーディションに出られるのが50人、受かるのが1人というシビアな世界です。ですから、この仕事は精神的にタフでなければ続けていけません。オーディションはなければ不安ですが、何十と受けても1つも受からないという時は落ち込みます。電話が鳴っても怖くて取れず、気力を失い何もできない時期もありました。
 
でも、大切なのは「Let it go」。失敗から何かを学んだら、次に進めばいいんです。自分には自分だけの魅力がある。アメリカには色々な役があるのだから、自分に合った役が必ずあるはずです。私はこれまで、アメリカで「アジア人になろう」としていたのですが、「何かになろう」とすると、絶対に仕事が取れないんです。何かになる必要などない、自分であればいい。自分というものを見せることで、相手の発想を広げることにもなるのですから。
 
ジョージ・クルーニーが「オーディションで『Can I have a job?』ではなく、『May I help you?』という姿勢で臨むようになってから仕事が取れるようになった」と、語った話を聞いたことがあります。相手もいい人を探しているんです。だから、いい自分を持って行けば喜ばれる。それには毎日の積み重ねが大切です。私は毎朝の瞑想と入浴、3度の食事を欠かしません。英語の本の音読や英語の書き取りをしたり、ヨガやエクササイズも行っています。小さな積み重ねが自信につながり、オーディションでもあがらず、いい仕事ができる。すべてが自分次第なんです。
 
まだまだ達成したい目標はありますが、今の自分があるのは周りの人の助けがあったからこそ。これからは感謝を込めて人の役に立つことをしていきたいと思っています。
 
(2008年9月1日号掲載)

大学助教授(その他専門職):安池 明子さん

より良い社会を築くために
グローバル化を生き抜く目を育てたい

今回は大学で社会学部の助教授を務める安池明子さんをご紹介。社会学の世界に惹かれて教授の道へ。幅広い視点を持つことで、グローバル化社会を生き抜くことができるという信念の下、熱心に教鞭を執る。

【プロフィール】やすいけ・あきこ■1965年大阪府生まれ。関西学院大学文学部英文科卒。東京エレクトロンに4年間勤務し、ワシントン州ゴンザガ大学に留学。カリフォルニア州立大学ノースリッジ校で社会学修士号取得、96年南カリフォルニア大学社会学博士号課程に入り、2005年卒業。カリフォルニア・ルーセラン大学社会学部助教授。

そもそもアメリカで働くには?

OLから語学留学 女性学に出会う

学生たちとのトラベルセミナーでは、
京都・奈良・広島など14日間を共に過ごした

大阪でOLをしていた頃、30も間近になると職場もいづらい雰囲気で、ちょうど語学留学が流行っていた時期だったので、自分も行ってみようかと渡米を決めました。英語が上達したら1年くらいで帰って来ようという軽い気持ちでした。
 
ワシントン州スポケーンのゴンザガ大学で、最初は語学コースを取っていましたが、一般のクラスも取るようになり、そこで社会学の1つである女性学のクラスを受けたところ、非常に興味を持ち、大学に残って勉強してみることにしました。
 
女性学は当時日本ではあまり馴染みのない学問でしたが、アメリカのフェミニズム運動の流れから来たものです。これまでどんな分野でも男性の物の見方が中心となってきましたが、もっと女性にも焦点を当てていこうという学問で、日本で女性としての型にはまった生き方に疑問を感じていた私は、生きるヒントがもらえるような気がしました。
 
また、留学したおかげでアメリカという異国を知ると共に、日本の社会も客観的に見られるようになり、社会のあり方、社会学の面白さにも惹かれていきました。ゴンザガ大学の教養学部で学士号を取った後、せっかくだから修士号も取りたい、日本でできない勉強をやりたいと欲が出てきて、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校に移り、社会学の修士号を取ることにしました。
 
実は、留学用にしていた貯金は学士号を取った時点で底をついていました。両親が結婚資金にと、お金を貯めてくれていたのですが、「結婚資金は自分で払うから」と何とか説得して、大学院に進むことができました。ただ、博士号課程ではリサーチアシスタントやティーチングアシスタントをすれば、授業料と給料が学校から出るので自活していけます。これは私立大学でも公立の大学でも同様です。

現代の日本人を対象に移民と性差を研究

博士号課程に南カリフォルニア大学(USC)を選んだのは、そこの社会学部が女性に焦点を当てる女性学ではなく、男性と女性の関係性から学ぶ「ジェンダースタディー」を研究していたからです。GREという試験とこれまでの成績で入学が認められましたが、1学年10人という狭き門でした。
 
私が専門に研究したのは、「移民と性差」というテーマです。移民(Immigration)と言うより、移動(Migration)と言った方が的確かもしれません。今やグローバル化の時代。人の移動が進み、国境も曖昧になってきています。この人の移動は、政治や経済、教育にも関わってくるものです。しかし、アメリカでは日本人の移民の研究をしている人が少なく、わずかな研究はどれも1世、2世の頃のもの。これはアップデートしなければならないと思ったのです。アメリカで暮らす日本人を対象に、ジェンダーの関係を家族、仕事という要素に加え、移民という要素から見ていこうというのが私の研究でした。
 
ビザの関係で卒業を1年延ばし、9年でUSCを卒業しました。その後、教授になろうと思ったのは、教える仕事をしたいと思ったからでした。アメリカ人の学生たちに、物の見方を広げてもらいたいと思ったのです。この先、社会はますますグローバル化していくことでしょう。社会人として、色々な人とやっていける能力、柔軟性、理解力がないと生き抜いていけませんし、成功することもできません。
 
大学の方針により教授のあり方には2通りあり、教授が研究者として評価される「リサーチ・ユニバーシティー」と、教師として評価される「ティーチング・ユニバーシティー」がありますが、私は教務を重視するカリフォルニア・ルーセラン大学を就職先として選びました。

大学も国際化の時代 日本人であることが強みに

社会と同様、どこの大学もグローバル化を目指しています。学生にはいかにグローバルな社会を生きていくかを教えると同時に、外国人や外国生まれの教授を求めている傾向もあります。私は英語はネイティブのようには話せませんが、アメリカ人と同じ物を求められているわけではなく、日本人としてしか持ち込めない何かを期待されて採用されたのだと思います。社会学部の教授陣では日本人としてはもちろんのこと、外国人としても私が唯一です。
 
現在、学士課程の学生を対象に、週3回教えています。大学院では教え方など教えてくれませんでしたから、すべて手探りで始めました。もう8年になりますが、講師として教え始めた頃は1時間半の講義のために毎回8ページくらいの原稿を書いて教壇に立ちました。もちろんそれを読み上げるわけではありませんが、あらかじめ書いておくことで頭の整理になるのです。また、アメリカのことも、日本のことも、常に社会で何が起こっているかを意識しています。
 
先日、トラベルセミナーとして、学生たちを14日間、日本への旅行に連れて行きました。まず春学期で日本の社会・文化・宗教・歴史・政治・大衆文化などを広くアメリカと対比しながら教え、その知識を基に、後は実際に体感してもらおうという試みでした。私が大学側に提案したものですが、実際の旅行プランから下見、引率まですべて1人でやらなければならず、大変でした。でも、学生たちの反応を見ていると楽しかったですよ。また機会があれば実施したいと思っています。
 
助教授は6年後にその上の准教授になるための評価査定が入ります。トラベルセミナーやシンポジウムなどの新しい企画や目覚しい貢献が認められ、学生や他の教授から高い評価が得られると准教授に昇格できます。これからも日本人としての視点を持ち、人々にグローバル化社会を生き抜く目を養い、より良い暮らしやより良い社会を築いてもらえるよう、教えていきたいと思っています。
 

(2008年8月16日号掲載)

シェフ(その他専門職):トーマス 由理英さん

どれだけキッチンで大泣きしたかわかりませんが、
逆境に立たされると頑張る性格

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はシェフのトーマス由理英さんを紹介。5つ星レストランや数々の有名レストランで、卓越した才能を発揮。現在、ホテル「THE US GRANT」の副総料理長。

【プロフィール】とーます・ゆりえ■広島県生まれ。OLを経験した後、ユタ州のWeber State Universityへ留学。帰国後、調理師資格を取得し、料理の鉄人・坂井宏行氏の「La Rochelle」や、「The Ritz-Carlton」などを経て、現在、サンディエゴ・ダウンタウンにあるホテル「THE US GRANT」の副総料理長を務める。

そもそもアメリカで働くには?

手に職をと思い調理の道へ

現在の職場「THE US GRANT」の
キッチンにて

 20代前半の頃、手に職をと思い、神奈川県にある厚木調理師専門学校に入学しました。在学中にアメリカ人の主人がサンディエゴに転勤することになり、卒業後、1年遅れで私も後を追ってサンディエゴへ渡りました。
 
 アメリカでは調理経験もありませんでしたし、仕事も簡単には見つからないだろうと考えていた矢先、サンディエゴの「Hyatt Regency」でジョブオープニングがあるとのことで面接に行き、そこで、エグゼクティブシェフと話をしたのですが、何とその場で採用に。このエグゼクティブシェフは、過去に日本人と働いた経験があり、日本人の真面目で勤勉な性質を知っていたため、日本人びいきだったのかもしれません。
 
 1年ほどハイアットで働いた頃、ラホヤにオープンしたレストランに引き抜かれ、そこで働くことにしました。
 
 すると、ある日、シェフから「君はフランスに行って、勉強した方がいい」と、言われたのです。とは言っても、結婚している身でしたし、「そう簡単には…」と返事を濁すと、「じゃあ、日本に帰って勉強した方がいい。とにかくアメリカじゃダメだ」と言われ、思い切って主人を残して、日本に戻ることにしました。
 
 日本に帰ってすぐにアポイントメントなしで訪れたのが、「La Rochelle」。料理の鉄人として一躍有名になったフレンチの坂井宏行シェフの店です。「アメリカから坂井シェフに会いに来ました」と、レストランのスタッフに告げると、坂井シェフに電話で連絡を取ってくれ、「面白そうだから、今すぐ連れて来て」と興味を持ってくれました。
 
 それから撮影現場まで連れて行ってもらい、実際に坂井シェフとお会いしたところ、「珍しい人だね」と、その場で採用が決まりました(笑)。

鉄人・坂井シェフから学んだプロフェッショナリズム

大きな影響を受けた
坂井宏行シェフからの色紙

 坂井シェフからは、多くを学ばせていただきました。料理は味覚と視覚が大切だということ、それを養うには、あらゆる感性を磨かなければならないこと。そして、プロフェッショナルに徹することの大切さ、仕事場では集中し、お客様にはベストの物しか出さないという妥協しない姿勢。挙げればキリがありませんが、これらは、今の私の仕事に大きく影響しています。
 
 坂井シェフのレストランで働いた後は、ホテルのフレンチレストラン、葉山のイタリアンレストラン、ベーカリーなど、それぞれ1年ずつと決めて働きました。その間にアメリカにいた主人が日本へ転勤になり、一緒に暮らすことができましたが、2001年に再度サンディエゴへの転勤が決まったため、それに合わせて私も一緒にアメリカに戻りました。
 
 また、アメリカで職を探すことになったわけですが、たまたま海岸沿いをドライブしていた時、Laguna Niguelに「The Ritz-Carlton」を見つけ、すぐにエグゼクティブシェフに手紙を書きました。すると、「ぜひ会いに来てほしい」という返事があり、またまた面接の場で採用が決まりました。
 
 「The Ritz-Carlton」の中には3つのレストランがあり、料理人は全部で75人。私が働きたかった5つ星のフレンチレストランは、75人中トップ6に入らなければ働くことはできず、私はカジュアルなレストランの1番下のポジションからスタート。私はどの面接でもあまり自分をアピールしないので、いつもスタートは下からなんです(笑)。
 
 でも、入って半年でトップ6に入ることができ、念願だった5つ星のフレンチレストランで働くことができたのです。そこではメイン料理のソテーを担当しました。このポジションは、キッチンの中でも1番重要なポジションで、女性には無理と言われていましたし、女性初のソテー担当ということで、初めは周りの料理人仲間からも冷やかな目で見られました。ですが、実力が認められてからは、対等に働くことができました。
 
 しかし、残念なことに04年にホテルの方針で、このレストランがカジュアルダイニングになることが決まり、私は辞めることにしたのです。

ハイエンドなホテルの総料理長を目指す

 リッツを辞めて、サンディエゴ・ダウンタウンにある「The Westgate Hotel」のカジュアルレストランで、スーシェフのポジションが空いていることを知りました。このホテルの評判は以前より耳にしていたので、すぐに調理テストを受け、合格しました。
 
 しかし、カジュアルレストランでの採用だったはずが、フレンチレストラン「Le Fontainebleau」のエグゼクティブシェフから「今すぐ、ポジションを空けるから」と言われ、「Le Fontainebleau」で働くことになりました。ここは、周りのシェフやスタッフは皆ヨーロッパ人ばかりでレベルが高く、日本人に共通する感覚を持っている人たちが多かったですね。
 
 2年半そこで働いた頃、そろそろほかの職場を見たくなったので、ホテル「THE US GRANT」に面接を受けに行きました。ホテルのスーシェフとして採用したいとの返事があり、ちょっと面白そうな気がしたので、受けることにしました。採用後は、ルームサービスやレストラン、バンケットなどを担当し、昨年、副総料理長に任命されました。今は、料理以外にも人事やコスト計算など、マネージメント面も任されています。
 
 料理の世界は男性が多いこともあり、女性シェフに対する偏見もありましたし、アジア人ということでつらい思いをしたこともあります。これまでどれだけキッチンで大泣きしたかわかりませんが、負けず嫌いのせいか、逆境に立たされると頑張っちゃうんですよね。ホテルの副総料理長というポジションまで来たからには、今はハイエンドなホテルの総料理長を目指し、頑張っています。その夢が叶った後には、小さなレストランを自分で開けたらいいなと思っています。
 
(2008年5月1日号掲載)

ディスクジョッキー(その他専門職):DJ Couzさん

音楽に対して真面目に努力し続けること
上に行けば行くほどその姿勢が問われる

今回はDJ Couzさんをご紹介。ウエストコースト・ヒップホップに憧れて渡米、有名アーティストたちとのネットワークを広げ、日米の架け橋となるべく、プロデューサーとして躍進中だ。

【プロフィール】でぃーじぇい・かず■学生時代にDJを始め、渋谷や六本木のクラブで活躍。日本向けのヒップホップ系アルバム制作や日本でのツアー開催などを手がける。現在、プロデューサーとしての活動も広げている。
www.dj-couz.com(オフィシャルサイト)
www.dj-couz.com/blog(オフィシャルブログ)
www.myspace.com/djcouz(マイスペース)

そもそもアメリカで働くには?

ロサンゼルス発 西海岸の音楽に感動

マライア・キャリーと

 DJに興味を持ったのは高校の時。ちょうどSnoop Doggがデビューした頃で、ウエストコーストスタイルのヒップホップや映画を観るようになって、「すごいカッコいい! 今までのヒップホップと違う!」と、ひと目惚れ。
映画の中で、Ice Cubeがローライダーに乗っていて、ローライダーに乗る時に聴くカッコいい音楽を渋谷で探したのですが、見つからなくて。それなら自分で作っちゃえと、ターンテーブルの機材を1つずつ揃えていったというのが始まりです。
 
 20歳になってから本格的にやり始めました。当時はクラブやイベントなど、あくまでもDJは趣味の一貫としてやっていました。今のように「ウエストコースト」というジャンルがヒップホップで確立されておらず、東京でもウエストコーストのイベントがなかったので、僕たちが主催したイベントには、コアなファンがたくさん来ましたね。
 
 数年後、イベントをやっていた仲間内で大きなイベントをやって成功し、今度は外タレを呼ぼうと、現在の会社の人たちとDJのラジオ局Hot97の看板DJ、Funkmaster Flexを招いて全国ツアーをやりました。その頃からPower 106のBig Boy(ビッグ・ボーイ)と親しくなり、毎年2、3回、彼を日本に呼んでツアーをやるようになりました。

クラブのDJからプロデュースの仕事へ

人生の恩人、ビッグ・ボーイと

 ビッグ・ボーイと出会った頃は英語も全然しゃべれませんでしたが、ローライダーの仕様やウエストコースト・ヒップホップ関連のことなど、僕が何でも知っていることにとても感心してくれて。「それならLAに来いよ」と、誘ってくれたんです。
 
 LAに来てやりたかったのは、それまでやっていたクラブDJではなく、音楽のプロデュースでした。DJにはラジオで話したり、クラブでレコードを回すほかにも、プロデューサーという仕事もあるんです。ビッグ・ボーイには色々な現場に連れて行ってもらい、スヌープのスタジオを見せてもらったり、雲の上の存在だった有名アーティストを紹介してもらいました。
 
 また、ビッグ・ボーイに「カズ、何曲かいいトラック送ってくれ」って言われて送ったら、数日後、自分のトラックがPower 106で使われていてビックリしたことも。今でもかかっていて、耳にしている人も多いから僕の名刺的存在になっています。
 
 こうした人脈を築けたのも、僕が音楽に対して真面目に取り組んできたからだと思います。ビッグ・ボーイにも、そういうところを買ってもらえたんじゃないかと。ヒップホップというと、ルーズで悪いところがカッコいいというイメージもあるかと思いますが、上を目指せば目指すほど、しっかり真面目にやっているという印象があります。
 
 現在は、トリプルセブンという会社で色々な外タレを日本に招聘してツアーを開催したり、日本に販売するヒップホップ系DVDを制作したりといった仕事をしています。昨年は、DPGレコーズというスヌープ周りの人たちのレコードレーベルの音源からコンピレーションして、3枚連続リリースをしました。また、アメリカからビッグ・ボーイやSoopafly、Damizzaにも参加してもらい、日本のアーティスト総勢23組と一緒に日本でコンピレーションを作り、売り上げの中からハリケーン・カトリーナの被害者に寄付するというプロジェクトにも参加しました。
 
 所属しているレーベルでいくつか僕のプロジェクトがあって、実力のあるラッパーやシンガー、アレンジャーなど探してます。詳しくはもうすぐ僕のサイト、Triple7のサイトで発表しますが、こっちのアーティストがfeat.で参加したり、各メディアとコラボしたりと、大きなプロジェクトになるので、興味のある人は、ぜひデモを郵送でもE-mailでも送ってください。良いラッパーと組んで、ワールドワイドでどんどん色々な作品を出していきたい。そのためには、良いラッパーとかシンガーが絶対に必要なんです。

英語ができない分自分にしかない強みを

 この業界に日本人は多くないけど、日本人って、やはり緻密で丁寧な音作りをするので、評価が高いと思います。
 
 この仕事をやっていて楽しいのは、初対面の人でも好きな音楽が合ったり、波長が合った時の感動が味わえること。ライブツアーの帯同は、大変ですが、お客さんの笑顔を見ていると、やって良かったなと思います。「ヒップホップが好きだ」と思ってくれる人が増えるとうれしいですよ。
 
 作品のプロデュースには、多くの人が携わりますが、頂点まで行った時の達成感、「やりきった」という感じは何とも言えません。僕にとって天職です。神様ありがとう、みたいな(笑)。
 
 この業界でやっていくには、スキルがあることはもちろんですが、英語が得意でなくとも、その分、自分に何か認められるものがあることが大事。そして、何よりも音楽に対して真面目、努力するということがとても大切です。

デモテープ送り先:
Triple Seven Records
10727 Lawler St. #12, Los Angeles, CA 90034
☎310-837-9500
Web: www.triple7.co.jp
E-mail: info@triple7.co.jp
 
(2008年3月16日号掲載)

ピアノ講師(その他専門職):白井 三惠さん

音楽も、教えることにも、
終わりはありません

アメリカで夢を実現した日本人の中から、今回はピアノ講師の白井三惠さんを紹介。子供たちの成長をずっと見守れるピアノ講師という仕事は、非常にやりがいがあると話す白井さん。その仕事内容などを聞いた。

【プロフィール】しらい・みえ■東京都出身。小学校からピアノを始め、1989年、ロサンゼルスに渡米。大学でピアノ・パフォーマンスを専攻する。卒業後、塾の講師を務める傍ら、子供たちにピアノを教え、95年に独立。現在、全米音楽教師協会(MTNA)、カリフォルニア州音楽教師協会(MTAC)、JMACにて、審査・指導に活動中。

そもそもアメリカで働くには?

学部長に誘われて決めた音楽専攻

 母がピアノを嗜み、お琴の先生をできる免状も持っていたので、小さい頃から音楽に親しみがありました。でも、初めはピアノではなくバレエ。私は手が小さいので、ピアノは向かないんじゃないかと母親が判断して。3、4歳の頃から始めました。バレエの先生は、テレビの仕事をされている先生で、よく子役を貰ったりして、一緒にテレビに出させてもらいました。
 
 ピアノとの最初の出会いは、5歳の時に祖母がプレゼントしてくれた小さいピアノ。バレエよりずっと楽しかったですね。本格的にレッスンを始めたのは、小学校に上がってから。
 
 私がピアノを習うことを、母は最初渋っていました。母は、私にバレエを続けてほしかったんだと思います。けれど、やっぱりピアノが好きで、何度も何度もお願いして、やっとって感じでした。
 
 発表会とかコンクールがありましたが、スタートが他の子と比べて遅かったので、あまりパッとせず、賞ももらうこともなく、高校まで続けました。それに音楽の道に進もうとは、考えたこともありませんでした。そもそも人前で弾くのがあまり好きじゃなかったですし。ただ、英語を話せるようになりたかったので、アメリカに留学したいとは思っていました。
 
 高校を卒業して、渡米したのは1989年です。こちらにいる知り合いの人が見つけてくれた大学に、何も考えず入学しました。専攻を選ぶのに悩んでいた時、たまたま音楽の学部の教室にピアノがあって、何気なく弾いていました。そこに学部長がやって来て、「ウチの学校の生徒?」「何年生?」と聞かれました。私が勝手にピアノを弾いたから、てっきり怒られるのかと思ったら、「専攻は何か?」と聞かれ、私が「まだ何も決めてません」と答えると、「じゃ、ぜひ音楽の学部に来なさい」と誘われたんです。

講師の仕事は人間関係が重要

MTACサウスベイ支部ボードメンバーと

 誘われるままにピアノ・パフォーマンスを専攻しました。演奏が中心ですが、もちろん音楽理論、歴史も学びますので、日本での知識が役に立ちました。卒業間際に4年間の演奏活動に対し、大学から最優秀賞をいただきました。大学院にも進みたかったのですが、お金が尽きたので、ピアノ店などで職探しをしました。幸い日系の塾で先生として採用してもらえましたので、そこで2年ぐらい働き、永住権を取得して、95年に独立しました。
 
 実は塾で働く傍ら、ピアノを個人的に教えていたので、独立した時も割とすぐに生徒が集まったのは、ラッキーでした。最初は、日本人駐在員のお子さんが多かったですね。当時はピアノも持っていなかったので、ご自宅まで出張して、走り回っていました。
 
 個人講師の仕事は、人間関係がとても大切だと思うんです。子供や保護者との関係もそうですし、同業の先生たちとの関係もそうです。生徒がなかなか集まらない時に連絡してくれたのは、まず同業の先生方。ほかにも、前任の駐在の方だったり、生徒の親御さんだったり。特に同業の先生方は、競争相手というより、同じ問題意識や理想や悩みを共有する大切な仲間なんですよね。
 
 私は、現在さまざまな指導者協会に属しているので、それも強みかもしれません。1つは全米団体のMTNA(全米音楽教師協会)、全米中に支部があって、ここロサンゼルスにも支部があります。ここは、入るのにそんなに審査はありません。もう1つはMTAC(カリフォルニア州音楽教師協会)で州の協会。私はサウスベイ支部でボードメンバーとして活動しています。ここは、学歴や成績、講師としての経験も必要で、ただ入りたいでは入れません。
 
 協会に入っていると、コンペティションやリサイタルを大掛かりでやっていますので、自分の生徒にチャンスをたくさん与えられます。レベル向上を目指して技術的なことや、音楽的なことを教え込むことも大切ですが、目標に向かって真面目に努力することの尊さを教えるのも、また大切な仕事です。コンペやテストでうまくいかなかった時こそ、学べることがたくさんあるんです。
 
 私は10年近く協会に入っていますので、コンペで審査員を務めたり、州のテストで審査をしたりしています。教えることから始まって、人とのつながりや経験を積んでいくと、そういうこともやらせてもらえるようになります。
 
 あとは、2000年に全日本ピアノ指導者協会のロサンゼルス支部が独立して生まれたJMACの代表を務めています。毎年、ピアノフェスティバルを開催していて、今年は6月7日、8日の2日間にわたり行います。多くの日本人、日系人の生徒の皆さんが楽しみにしているピアノの祭典です。

子供の成長に関われてうれしい

 ピアノを教えていて、うれしいことですか? 音楽を通して子供の成長に関われることですね。3歳から始めれば10年以上、一貫して教えるわけです。学校の先生でも長くて6年、これだけの期間は体験できないですよね。
 
 子供を教えていると、色んな過程を経ていきます。舌が回らないような小さい頃から反抗期を過ぎて大人になっていく。紡ぎ出される音楽もまた同じように成長していきます。やっぱり教えたことが実って、コンペティションで賞を取ってくれたり、テストでいい成績を取ってくれたりしたら、うれしいですよね。そうでなくても、少しずつピアノを好きになってくれたり、レベルが上がって行くのを見ると、すごく楽しいです。
 
 私がこれからピアノの講師になろうとしてる人にアドバイスをあげるとしたら、1つ言えるのは、バイエルなどの定番も大切にしながら、常に新しいものに興味を持って、勉強を忘れないことです。また、子供の個性に合わせた指導法を、クリエイティブに考えていく必要があります。私もまだまだ勉強中です。音楽も、教えることにも、終わりはありません。
 
(2008年2月16日号掲載)

マニキュアリスト(その他専門職):小宮 詩江さん

アメリカのネイルは、
爪の健康に配慮した
ナチュラルな仕上がり

アメリカで夢を実現した日本人の中から、今回はマニキュアリストの小宮詩江さんを紹介。爪のケアから華やかなネイルアートまで、美しい指先を生み出すネイルのエキスパートだ。

【プロフィール】こみや・ふみえ■東京生まれ。オハイオ州にある「Inner State Beauty School」にてネイルアートを学び、マニキュアリストとなる。現在、サンディエゴ市サウスパークにあるLulu’s Beauty Salonにて、マニキュアリストとして活躍中。www.lulusbytravisparker.com/lulus_we_believe.html

そもそもアメリカで働くには?

ネイルに興味を持ち、日本で短期集中学習

ナチュラル系のネイルアートを
得意とする

 中学生の頃には、既にネイルに興味を持っていて、その頃から爪を整えていた記憶があります。日本で就職した会社では、女性が多い職場だったこともあり、みんな競うようにファッションやネイルに情熱を燃やしていました。もちろん、私もそのうちの1人(笑)。特に私はコンピューターを使う仕事をしていたため、指先を見られることも多く、爪のお手入れは欠かせませんでした。
 
 2001年に、夫の転勤でオハイオ州に住み始めたのですが、のんびりした田舎だったせいか、雇用数も職種もすごく限られている印象を受けました。その時に、「今後、アメリカで暮らしていくのなら、手に職を付けておいた方が良いかも」と思い始め、ネイルの仕事はどうかなぁと、家の近くでネイルスクールを探し、訪ねてみました。
 
 ところが、実際に校長先生とお会いし、カリキュラムの内容などをうかがったのですが、分厚い教科書を使いながら皮膚の構造や衛生面、病気についての勉強が中心ということを知り、私の持っていたネイルのイメージとは全然違うことがわかりました。
 
 しかし、さらに調べていくと、3カ月コースを持つネイルスクールが日本にあることを知り、単身日本に戻って、その学校に入学しました。そこで日本の華やかなネイルアートと技術を学んだ後、オハイオに戻って来ました。ですが、最終的にはアメリカで資格を取らなければならなかったので、あまり興味の沸かなかった近所のネイルスクールに通い始めました。

州ごとに異なる資格 他州での実務経験が活きた

資格取得後に働いていた
オハイオ州のネイルサロン

 州の定める資格試験を受けるためには、200時間の単位が必要だったのですが、近所の学校では技術的な指導はほとんどなく、衛生面や医学的な知識の習得が中心でした。また、一般の人たちをモデルにした実践練習も単位に換算されます。
 
 資格試験合格後は、ベトナム人家族が経営するネイルサロンで働き始めたのですが、そこのオーナーのネイル技術は高度なもので、彼の仕事を見ながら技術の習得に励みました。そこで2年半働いた頃、再度夫の転勤で、サンディエゴに引っ越すことに。
 
 マニキュアリストの資格は、州ごとに試験を受けなければいけないので、私はカリフォルニア州の試験について調べてみました。すると、カリフォルニア州では、400時間の単位が必要だということがわかりました。また学校に通わなければならないのかと思いましたが、オハイオ州での2年半の実務経験が認められて、不足単位はそれで補うことができました。
 
 カリフォルニア州のテストは、オハイオ州のものと方法も違えば内容も異なっていたので、戸惑うこともありましたが、無事試験もパスし、いくつかのサロン勤務を経て、現在はサウスパークにあるLulu’s Beauty Salonで、マニキュアリストとして働いています。
 
 オハイオ州で働き始めた最初の3カ月くらいは、緊張のあまり手に力が入り過ぎて、筋肉痛になってしまうこともよくありました。ネイルアートの中には、爪に接着剤のようなジェルを塗るものがあるのですが、乾いたジェルの表面をドリルを使って滑らかに仕上げなければなりません。ちょっとでもドリルが皮膚に触れるようなことがあれば、お客様にケガをさせてしまうと思うと、心臓はドキドキ、額には冷や汗が。まさに、毎日が緊張の連続でした。

アメリカ人にとってネイルは「日常的な身だしなみ」

 この仕事を始めて5年ほどになりますが、マニキュアリストは、ただうまくマニキュアを塗れればいいというものではないと強く感じます。例えばペディキュアを希望されるお客様の中には、かかとの角質が極端に厚くなっている人がいます。そういう人は糖尿病を患っている場合が多く、皮膚に傷が付くと出血が止まらなくなる危険があるので、「失礼ですが…」と、事前に病気についておうかがいし、ネイルニッパーなど鋭利な道具の使用は避けるようにしなければなりません。
 
 また、爪のコンディションが良くない人や、爪を噛む癖があるため極端に爪が小さい人などは、ご希望のスタイルに添えないこともあります。そんな時は、その人の爪に合ったデザインや、ほかの方法を提案することも必要です。
 
 また、私にとって仕事の励みになっているのは、「やっと、自分に合ったマニキュアリストを見つけた」と、私を指名してくださるお客様がいらっしゃることですね。お客様にそう言っていただけるのは、プロとしてやっぱりうれしいものです。
 
 日本人にとって、ネイルは華やかなファッションであり、ちょっとスペシャルなイメージがありますが、アメリカ人のネイルに対する認識はちょっと違っている気がします。日本に比べて手頃な料金で受けられるということもあると思いますが、爪をキレイにしてもらうことは、「日常的な身だしなみ」という感覚で、気軽にサロンを利用される人が多いですね。お客様の中には、来店されるたびに、1週間後の予約を入れて帰られる方もいらっしゃいます。
 
 日本のネイルブックを見ればわかるように、日本のネイルアートはデザインだけでなく、マテリアルや技術面でもものすごい速さで進化しています。それと比べ、アメリカのネイルは、日本ほど派手さはありませんが、爪の健康に配慮したナチュラルな仕上がりで、日常生活の邪魔にならないものが多いです。
 
 今後は、日本とアメリカのそれぞれの長所を取り込んでいき、お客様の身だしなみのお手伝いをしていけたらいいなと思っています。
 
(2008年2月1日号掲載)

心理カウンセラー(その他専門職):斉藤 あふみさん

人が抱える問題というのは、
自分で気づいている部分よりも
その奥底に問題の原因がある

今回は、心理カウンセラーとして働く斉藤あふみさんを紹介。結婚を機にアメリカで心理カウンセラーとしての才能を発揮することに。現在は、主に結婚・家族に関するセラピーを行う。

【プロフィール】さいとう・あふみ■静岡県生まれ。1996年名古屋外国語学院大学で英米語学科卒業、同年渡米。2000年カルフォル二ア州バプティスト大学院カウンセリングサイコロジー修士課程卒。神学と心理学における行動科学の統合について学び、04年マリッジ&ファミリーセラピスト免許取得。
www.fruit4thespirit.com/profile/profile.html

そもそもアメリカで働くには?

子供との触れ合いを
求めて踏み出した1歩

カウンセラーになったばかりのあふみさん

 日本で大学を卒業して教職の免許を取りました。私が通っていた私立の高校に教育実習に行きましたが、そこで感じたのは、生徒と先生の直接的な触れ合いが意外と少ないということでした。その後、子供たちと密に触れ合うことができるカウンセラーになりたいと思ったのですが、高校の時の3者面談で、カウンセラーは職業じゃない、ボランティアの仕事だと言われてしまいました。
 
 そこで、教育実習の経験もあったのでスクールカウンセラーの道を考えました。しかし、日本でカウンセラーになるには心理・医学系の大学に入り直し、資格を取得するまで長い年月がかかることを知りました。
 
 それに比べて、アメリカであればもっと早く大学を修了し、日本でもカウンセラーとして働くことができると聞きましたので、気候の良いカリフォルニア行きを決意しました。
 
 当時、カリフォルニア=危険な場所と思い込んでいた親には、なぜそこまでしてカリフォルニアに行く必要があるのかと反対されたのですが、スクールカウンセラーはアメリカで始まった職業ですし、以前から興味があったのでどうしても行きたかったんです。
 
 それからは親を説得する日々が続きましたが、最終的にクリスチャンの母の案で、クリスチャンの学校であれば行っていいということになりました。

ギャングの子供にも
「負けない」気持ちで臨む

セラピストの先生たちと

 2年半の間、DCFC(Department of Children and Family Services)から紹介された子供たちや、肉体的、精神的、性的虐待を受けた子供たちを主にカウンセリングしました。ほかにも、家庭内暴力や薬物乱用で裁判所から送検されてきた人たちのカウンセリングも行いました。このカウンセリングセンターの同僚の紹介で、重度の情緒障害(Severely Emotionally Disturbed)を持つ5歳から18歳までの生徒たちが通う非公立校で、サイコセラピストとして6年間勤務しました。そこには先生、セラピスト、心理学者、精神科医がいて、1人でカウンセリングするのではなく、みんなで解決するというチームワークを大切にしていました。
 
 当時セラピーを受けに来るのはFワード、Bワードを普通に使う子ばかり。日本人はほとんどおらず、メキシコ人やアフリカ系アメリカ人の子が多かったですね。ギャングが怖かったかって? こちらも負けられない! という感じですよ(笑)。彼らは目つきも鋭いし、何を言っているかわからないくらいスラングがひどくて…。ギャングと呼ばれる子供たちは、家族全員ギャングとか、家族から1人も高校を卒業した人がいないとか、最終的にギャングに殺されるといったケースもありました。ギャングの中でも更正し、いい高校に入ろうと試みる子供もいるのですが、周りが許さないんですね。結局、刑務所にいる方が居心地がいいと言って、犯罪を繰り返す子もいました。刑務所にいると、誰が敵か味方かがわかるので安全だと。悲しい話ですよね。
 
 最初の頃は、私の英語力の問題もあってトンチンカンな質問をして笑われたりして、セラピーというより、ほとんどがソーシャルスキルを教えることに没頭する日々でした。問題のある子供は家でも学校でも同じ扱いを受けて、自分に自信がなくなり、最終的に自分ってだめな人間だと思い込んでしまう。私がそういった問題を抱える子に対して心がけていたことは、できるだけ褒めてあげること。褒められない子は褒められることにすごく敏感なんです。両親にも一緒にカウンセリングに来てくださいと呼びかけるのですが、来ない親がほとんどで、とても残念でした。
 
 実はカウンセラーのライセンスが取れたら日本に帰るつもりでしたが、結婚を機にアメリカに滞在することになりました。私の主人は、ドラッグで苦しむ人が家族と一緒にトレーニングするような施設で、栄養士として働いていました。主人も私も人のために役に立ちたいといった意味では、同じフィールドにいると思っています。

気づきが起こる瞬間
「Aha moment」

 今後は、こちらに住んでいる限りアメリカのコミュニティーに貢献したいと思っているんですが、やはり日本のコミュニティーにも役に立ちたいと思っています。人が抱える問題というのは、自分で気づいている部分よりもその奥底にあることが問題の原因になっていることが多いので、セラピーで気づかせてあげたいと思っています。
 
 私は結構オールドファッションな人間なので、Eメールや電話ではなく、お会いしてカウンセリングすることが好きですし、大切だと思っています。言葉に出ない表情、しぐさってたくさんあるんですね。セラピーでは自分のことはあまり語らないのですが、相手にとってベネフィットになることであれば話します。でも、できる限りニュートラルなイメージで、リラックスして話してもらえるように努めています。
 
 カウンセラーになって良かったと思うのは、感謝され、セラピーがクライアントや家族の役に立てたと実感できる瞬間ですね。後から自分がもどかしいと思う時があるんですよね。あの時、ああ言えばもっとオープンマインドで聞いてもらえたかも、と思ったり…。セラピーは問題点を言えばわかってもらえるということではないので、伝え方が重要になってきます。それから「Aha moment」と言う言葉があるんですが、これは、「あ、そうか、なるほど!」と気づきが起こる瞬間。そのうち生徒が心を開いてくれて、「ありがとう」が言えるようになる。これってすごい変化でうれしいんです。親みたいですけどね。
 
(2007年12月1日号掲載)

日本語教師(その他専門職):高橋 晃さん

私が日本語を教えた生徒たちが、
社会で活躍するのを
見届けるのが楽しみ

 アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は日本語教師の高橋晃さんを紹介。サンディエゴの大学で教鞭を執りながら、毎年、夏休み期間にはモンゴルを訪れ、ボランティアとして日本語を教えている。

【プロフィール】たかはし・あきら■1947年樺太生まれ。San Diego State University教育学部バイリンガル教育学科修士課程卒。Mira Costa College、La Jolla High Schoolなどで教鞭を執り、83年に「Japanese Language Class」を開塾。塾とUniversity of San Diegoにて日本語を教える。www.japaneselanguageclass.com

そもそもアメリカで働くには?

アジア諸国の旅で
悲惨な状況を目の当たりに

モンゴルのサマースクールの生徒たち

 私が日本語教師を目指そうと思ったのは、若い頃に半年間かけて回ったアジア諸国への旅行がきっかけでした。香港からバックパックを背負って出発し、タイ、インド、スリランカ、ビルマ(現:ミャンマー)などを訪れたのですが、バングラデシュでは、栄養失調で倒れている人たちや、戦争で手足を失った人たちが町に溢れ、あちらこちらに銃痕が生々しく残っているという衝撃的な光景を目の当たりにしました。
 
 今までに見たこともない悲惨な状況の中で、「何とかしなければ」という思いに駆られながらも、結局、何もできない自分に、もどかしさと悔しさを抱えながら、複雑な思いで帰路に就いたのです。
 
 それからしばらくは、自分にできることは何かと真剣に考え、「教育でなら、何か自分にも貢献できることがあるのではないだろうか?」と、思いつきました。そして、教師になるために学校に入学することを決心したのですが、これからの時代は、英語も必要になってくるだろうと感じていましたので、30歳の時に家族でサンディエゴに引っ越してきたのです。
 
 最初の1年間は、語学学校で英語を勉強し、その後、San Diego State Universityの教育学部バイリンガルエデュケーション学科のマスターコースに入学しました。そこで2年間、異文化の理解や交流について学び、Mira Costa College、La Jolla High Schoolなどで日本語を教え、サンディエゴに日本語教室も開きました。
 
 今は、University of San Diegoでも日本語を教えています。日本の経済が良かった15年くらい前は、仕事で日本語を使うアメリカ人の生徒が多かったのですが、最近はちょっと傾向が変わってきているようですね。空手を習っている人や、日本の文化やアニメに興味のある人たちが多くなってきたように感じます。

日本語習得熱が高い
モンゴルでも教える

クラスでは生徒が楽しく学習できるよう心がけている

 日本語は、英語を母国語とするアメリカ人にとっては簡単な言語ではありません。英語と日本語は文字も文法もまったく異なる言語ですので、英語を母国語とする人たちが日本語を習得することは、スペイン語やイタリア語などに比べ3倍難しいと言われています。
 
 また、生徒たちには大きく分けて2つのパターンがあるように思います。1つは、既に日本語を習得している人たちが、その能力を維持するために学習するケース。そしてもう1つは、日本に旅行やビジネスで行くチャンスのある人たちです。生徒のニーズに合わせて、レッスンを進めています。
 
 アジアの途上国で何か貢献できないかという思いがきっかけで目指した日本語教師ですが、6年前に、その夢が現実となる出会いがありました。娘と中国、韓国へ旅行したのですが、その時に、たまたま同じバスに乗り合わせたオーストラリア人と知り合いになりました。その人は、夏休みの期間だけ外国で英語を教えていると話してくれました。それを聞いて、夏休みだけなら自分もどこかの国で日本語を教えることができるのではと思い、それから真剣にリサーチを始めました。
 
 そしてある日、モンゴルのサイトを見つけました。そのサイトによれば、モンゴルは人口に対して、日本語を学ぶ人の比率が大変高い国だそうで、「これだ!」と、自分の中でピンと来る何かがありました。すぐにサイトを通して、「夏だけ日本語教師をしたい」と、担当者にコンタクトを取ったのですが、元来、遊牧民であるモンゴル人は、夏の期間は移動をしながら仕事をする人が多く、忙しくて勉強どころではないという素気ない返事が返ってきました。
 
 しかし、どうしても諦めることができず、再度、担当者にお願いしたところ、日本語のサマースクールを予定している高校が見つかったとの連絡が届いたのです。校長先生と連絡を取り、とうとう「アジアの国で日本語を教える」という長年の夢が実現しました。
 
 それからは、毎年夏休みの1カ月間はモンゴルで日本語を教えており、今年で5年目になりました。最初は15名くらいだった生徒数も、今では150名に増え、生徒たちは真剣に日本語を勉強しています。日本は奨学金制度が充実しており、経済的に余裕のない子供たちでも、頑張れば日本に留学するチャンスがあるのです。
 
 彼らは、日本で学んだ専門的な知識や経験を自国に持ち帰って、国のために働きたいという強い思いがあり、そんな彼らを見ていると、私も清々しい気持ちになりますし、彼らにできるだけチャンスをあげたいと思うのです。

生徒が楽しみながら
学べるようにしたい

 アメリカで日本語を教えていて難しいなと感じるのは、日本語にはあって、英語にはない文法を教える時。日本語は受け身の表現を使うことが多いのですが、例えば、「雨に降られた」といった使い方は、英語にはないもので、生徒がこの使い方を理解することは簡単ではないようですね。また、日本人でもきちんと使い分けができていない人もいますが、尊敬語や謙譲語の区別も難しいようです。
 
 日本語の学習は難しいですが、大学でも塾でも、生徒が楽しいと感じながら日本語を学べるよう心がけているつもりです。大学では、生徒が先生を評価するシステムがあるのですが、いつも高い評価をいただいており、クラスを楽しいと思ってくれているのかなとうれしく思います。
 
 今後は、私が日本語を教えた生徒たちが、社会でどのように活躍していくのかを見届けるのが楽しみですね。まるで自分の子供の成長を見ているような気持ちです。
 
(2007年11月16日号掲載)

シェフ(その他専門職):八木 久二子さん

料理の仕事なら、片言の英語でも
美味しく作ることができれば
認められると思ったのです。

 今回は、モダンフレンチ「SONA」で働く八木久二子さんを紹介。東京で銀行に勤めていたが26歳でシェフに転身、まったくの素人から名店のスーシェフに昇格。セレブシェフの片腕となり、繁盛店を切り盛りする。

【プロフィール】やぎ・くにこ■1977年群馬県生まれ。フェリス女学院で英文学を専攻、卒業後は東京の銀行で総合職として就職する。3年間働いた後、結婚を機にロサンゼルスへ。2003年2月、セレブシェフ、デビッド・マイヤー氏の経営するモダンフレンチ「SONA」に見習いとして入り、06年9月同店のスーシェフになる。

そもそもアメリカで働くには?

銀行員からシェフへ
26歳、異国での転身

キッチンのスタッフたちと。スタッフの成長も楽しみの1つ

 渡米は2001年。東京の銀行に総合職として勤めていたのですが、当時お付き合いしていたアメリカ人男性と結婚することになり、ロサンゼルスに来ました。
 
 銀行での仕事にはやりがいを見出せず、渡米をきっかけにこちらで何か手に職をつけたいとは思っていましたが、その思いが強くなったのは、短い結婚生活にピリオドを打ってから。英語が特に得意だったわけではありませんでしたから、自活のための仕事を探すうち、「料理の仕事なら、片言の英語でも美味しく作ることができれば認められる」と思い、料理の道を選びました。
 
 特に料理が得意だったわけではなく、料理のことなど何も知りませんでしたので、レストラン格付誌『Zagat Survey』を買って1番得点の高いレストランを訪ねることに。1番料理の上手な人から習わないと、誰よりも料理が上手になれないと思ったのです。
 
 自宅の付近で最高得点だったのが、「Bastide」とここ「SONA」でした。当時、アルバイトでビバリーセンターの日本料理店「UBON」でウエイトレスをしていたのですが、そこに常連客で来ているアメリカ人がいました。ランチタイムに普段着で来られ、本を読みながら食べていたので、まさかシェフとは思っていませんでした。ところが職を探しにSONAのドアを開けた時、見覚えのある顔が奥から出てきてびっくり。彼はSONAのオーナーシェフ、デビッド・マイヤーだったのです。
 
 デビッドは、初心者の私にチャンスを与えてくれ、翌日からアシスタントとしてキッチンに入ることになりました。ところが、奮発して50ドルで買った包丁を持っていくと、「そんな安い包丁は使うな」とたしなめられ、キッチンの器具や機材の名前もわからず、突っ立っている始末。スタッフに何度も聞いたり、家で調べたりしながら、最初の3カ月はとにかく無我夢中でついていきました。

一生懸命やれば認められる
3年半でスーシェフへ

同店が経営するスイーツの店「Boule」。
ベーカリー責任者の久保田万里子さんと

 夜中までの力仕事で時給は7ドル。しかし、素人の自分が仕事を教えてもらえて、お金をもらうなんてありがたいと思いました。銀行員だった私が、セレブシェフの店で働けるなんて、普通考えられないチャンスです。家族全員の反対を押し切ってこちらに来たので、今さら帰るところもありません。英語力をハンデにしたくなかったので、逆に日本人の友達も作らず、こちらの世界で頑張ってみたかった。料理は腕さえ磨けば、世界中どこでも対等に働けると思っていたんです。
 
 しかし、キッチンのスタッフは皆、18、19歳でこの道に入っています。私は当時既に26歳でした。最初の1年は焦り、つらい日々でしたが、ある日デビッドが、「誰より一生懸命に働いていれば、5年間でスーシェフ(副料理長)になれる」と声をかけてくれたんです。この言葉は本当に励みになりました。
 
 キッチンでの仕事は午後3時から。午後5時までの2時間で、その日の分すべての下準備をしなければなりません。集中してやるというのがデビッドの哲学。いつもキッチンは緊張感を持たせていたいという方針なのです。
 日本人は一般的に、頭を下げ、集中してムダ口を叩かない、忍耐強く、責任感とプロ意識があると思います。日本人って働き者なんですよね。私も早く認めてもらいたくて、一生懸命働きました。前菜、温菜、魚、肉の担当を経て、06年9月にスーシェフに昇格しました。

すべてを手がけられる
自分の店を持つのが夢

 スーシェフの仕事は、毎日の食材の注文、メニューの変更、キッチンの衛生管理、キッチンスタッフの管理、味付けと盛り付けのチェックなど、オーナーシェフの下で、チームリーダーの役割を果たします。中心的なことは、オーナーシェフと私、ペストリーシェフの3人で決めていきます。
 
 毎日正午に出勤し、3時までにオフィスでコスト計算や経理の仕事をし、キッチンで新メニューの考案などを行います。5時までの準備時間はスタッフの指導。その後、全体ミーティングがあり、6時から10時までが営業時間となります。閉店後、キッチンの掃除を済ませ、明日の食材をオーダーして帰宅するのは夜中の1時。でも、大変だと感じることはありません。好きな仕事ですから。お客様が「美味しかったです」と言ってくださることが何よりの喜びですし、スタッフの成長ぶりを見るのもやりがいの1つです。
 
 新しい食材を入手した時、これをどう料理するかを研究するのも楽しいですね。うちの店の売りは、その日の旬の食材を活かした料理。営業中にデビッドから「今、何がある?」「これはできる?」と言われ、駆けずり回ることもしょっちゅうです。でも、日頃から色々な本を読んでいると、それがある時パッとした閃きとして出てくる。デビッドは日本の食材や調理法を積極的に取り入れており、日本の味がバックグラウンドにある私の強みになっていると思います。ダシをブラッドソーセージとヒナ鳥の料理に使うなど、新しい発想もデビッドとのコラボで生まれています。
 
 これからの目標は、3~5年以内に自分の店を持つこと。30席くらいの小さなレストランで、カウンターで料理するというスタイル。ワインやカクテルと日本的な軽くてさっぱりとした小皿料理を出す店です。それには不動産も学びたいですし、内装のデザインや音楽、接客の仕方ももっと学びたい。やりたいことがたくさんあって、考えただけでもワクワクします。
 
(2007年11月1日号掲載)

ストラクチャル・エンジニア(その他専門職):宮本 英樹さん

この仕事は尊い人命を
守ることにつながる、
やりがいのある仕事

 アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はストラクチャル・エンジニアの宮本英樹さんを紹介。自然災害から人命を守りたいという情熱を胸に、世界中の超高層ビルや橋のデザインを手掛けている。

【プロフィール】みやもと・ひでき■1963年東京生まれ。カリフォルニア州立大チコ校を卒業後、ストラクチャル・エンジニアに。現在、サクラメントに本社を置く「Miyamoto International Inc.」のプレジデント/CEO。ホームページ:www.miyamotointernational.com

そもそもアメリカで働くには?

アメフト選手目指すも
ケガで方向転換

リアドの内務省

 渡米したのは大学留学がきっかけだったのですが、高校生の頃から、休みなく黙々と働いている日本人の姿を見て、「自分はどこか日本とは違う場所で、一般的な日本人とは違った人生を送りたい」と、密かな思いを抱いていました。
 
 高校生の時にテレビでダラス・カウボーイズのアメリカンフットボールの試合を見ながら、「僕にもフットボールくらいプレイすることができるんじゃないか?」「アメリカに行って、ナショナル・フットボールリーグでランニングバックになる!」と、どういうわけか思ってしまったのです。それまで1度もフットボールなんてやったことがなかったにも関わらずです。
 
 思い立ったら行動あるのみで、アメリカの大学について色々と調べてみました。まだインターネットも普及していなかったので、図書館に通ってリサーチに励みました。そして何校かに願書を提出したところ、カリフォルニア州にあるButte Collegeから入学許可が下りました。早速、荷物をまとめて渡米し、もちろん入学後はNFLを目指すためにフットボールを始めたのです。しかし、ある日、練習中に膝を痛めてしまい、「僕のフットボール人生はコレで終わった」と、無念な気持ちを残しながらも諦めざるを得ませんでした。
 
 この膝の故障により、新たな道を選択しなければならなかったわけですが、その時にストラクチャル・エンジニアになろうと決めました。というのも、日本にいる父が、発電所やダム建設の責任者をしていたため、この分野には昔から興味があったことと、物理や理論が好きだったこともあり、この道を目指すことにしたのです。結果的に、膝のケガが私の人生を大きく変えました。
 
 Butte Collegeに2年間在籍した後、カリフォルニア州立大学チコ校へトランスファーしました。在学期間中は、色々なことにチャレンジしてみようと思い、フラタニティーに参加したり、ドミトリーの委員をやったり、消防活動をしたり、学費を払うために金の採掘までしていましたね。ユニークな経験ができ、楽しく充実した学生生活を送ることができました。

耐震建築で
人命を救うのに貢献

グリフィス天文台のプロジェクトでは賞を受賞

 私の専門のストラクチャル・エンジニアは、平たく言うと、地震や自然災害にも耐えられる建物や橋をデザインするのが仕事です。毎年、大地震やハリケーンなどで多くの人命が奪われていますが、この仕事は尊い人命を守ることにつながる、やりがいのある仕事です。
 
 1989年にサクラメントにある建築事務所に就職したのですが、97年に師と仰いでいたJohn Shaffer氏から会社を引き継ぎました。現在は、「Miyamoto International, Inc. Structural & Earthquake Engineers」として、サクラメント、ロサンゼルス、オレンジ・カウンティー、サンディエゴ、サンフランシスコ、そして東京にオフィスがあります。
 
 2002年には、超高層ビルのデザインを得意としているロサンゼルスの「Martin & Huang」という会社を買収し、最初は5名しかいなかった社員も、7年間で80名にまで増え、現在に至っています。
 
 主に大規模なプロジェクトに携わっており、これまで上海の「21st Century Tower」、サウジアラビア・リヤドの内務省、ロサンゼルスのグリフィス天文台、ハリウッド・ボウルなどを手掛けてきました。また、さまざまな機会に、私の持つ知識や経験をレクチャーしたり、報告書を出版しているほか、最近では大地震が多いことで知られるトルコの「Istanbul School Seismic Rehabilitation Project」に参加し、私の耐震建築についての専門知識を、多くの人たちとシェアすることができました。これは、将来的に多くの人命を救うことにつながるのではないかと思いますし、専門家として大きな貢献ができたと確信しています。
 
 私自身も含め、社員全員が常に高い技術と知識を持って仕事に取り組めるよう、国際会議への出席や、世界中の大学関連有識者とのディスカッションなどにも積極的に参加して、日々、技術向上のため努力しています。

トップレベルの
技術と知識が要求される

 私たちのクライアントは、数十億円、数百億円、時にはそれ以上といった莫大な金額を投資して高層ビルを建てるわけですから、当然、私たちにも世界トップレベルの技術と知識を要求されます。もし自分がガンを患って病院へ行った時、「自分の担当医は名医であってほしい」と願うのと一緒です。クライアントは、自分の命同然の大切な物を私たちに委ねてくれているわけですから、期待に応えなければなりません。
 
 現在は、ロサンゼルス・リトルトーキョーの22階建てのビルや地下鉄駅、ラスベガスの50階建てコンドミニアムなどのプロジェクトを手掛けています。また、光栄なことに、これまで色々な賞も受賞しました。今年はCalifornia Preservation Foundation Design Awardsより、グリフィス天文台のデザインで「2007 Trustees Award for Excellence」をいただきました。
 
 趣味はアウトドアで、つい先日もシエラ山脈まで旅行に行ってきました。50ポンドのバックパックを背負って、1万3千フィートの山々を登ってきました。アウトドアは私にとって、大変良い気分転換となっています。
 
 仕事も遊びも、何事もバランスが大切なのではないかと思います。仕事では理論と創造性が大切ですし、人生には家族、キャリア、健康、信念のバランスが大切で、それのうちの1つでも崩れてしまうと、歯車がうまく回らなくなってくるものです。
 
 私は、もし今日が人生最後の日となってしまっても、決して後悔しないよう、1日1日を大切に、全力で生きようと心掛けています。その積み重ねが、結果的に良い仕事につながると信じています。
 
2007年10月16日号掲載

寿司職人(その他専門職):城戸 隆さん

色々なお客様に満足を与える
気の遣い方ができるのが、良い寿司職人

 今回は寿司職人の城戸隆さんを紹介。銀座の老舗寿司店で修業を積み、アメリカで寿司店を開業するために渡米。ネタの仕入れもままならない時期から30年間、本場の寿司をアメリカに普及させてきた。

【プロフィール】きど・たかし■ 18歳の時に手伝いで寿司職人の道に入る。日本料理を勉強した後に、勘八に入店。10年間の修業を経て、28歳でロサンゼルスに渡米。1978年にガーデナに日本の勘八ののれん分け店、寿司屋の勘八をオープン。90年にガーデナ内で新店舗に移転。来年3月に満30年を迎える。

そもそもアメリカで働くには?

寿司のみで勝負するのは
当時はギャンブル

 寿司職人になったきっかけは、本当に偶然でした。友達が新宿の寿司屋で働いていて、「人手が足りないから、ちょっと手伝ってくれ」と言われて。私は九州男児ですから、台所に立ったこともなければ、包丁を握った経験もない。これは困っちゃったなと(笑)。
 
 ですが結局5年間、その店で働きました。今思えば、向いてたんですね。カウンターからお客さんの反応がすぐにわかるから、非常にやりがいがありました。
 
 それから日本料理を勉強して、丸の内の勘八に入りました。忙しい店で、非常に勉強になりましたね。1日に4斗のご飯を出すんです。ちらしが毎日200人前、握りが100人前。仕事量が多いから、否が応でも腕が上がりますよ。
 
 アメリカに来ようと思ったきっかけは、勘八にいた寿司職人が、リトルトーキョーで2年間働いて2万ドル貯金して日本に帰って来たんです。1ドル270円の時代だから、すごい大金。お金を貯めるんだったら、遊びの誘惑を断ち切ってアメリカにでも行かないと、という気持ちになりました。
 
 それで、2年契約でダウンタウンの寿司屋で働くことに。28歳の時でした。その後、ガーデナにある日本食レストランの寿司バーに移り、結婚を機に独立することに。日本の勘八からのれん分けを許され、1978年3月にオープンしました。
 寿司だけをやるっていうのは、当時はギャンブルでした。周りの人はみんな、天ぷらとかもやった方がいいと言ってくれましたが、私は頑としてやらなかった。寿司職人だから、寿司屋で失敗したら日本に帰るって気持ちだったんです。それがものすごくウケた。当時は寿司だけの店が少なかったから。

絶対的なネタ不足
アンチョビを握ったことも

 78年当時は、日本からのネタがすべて冷凍物でした。空輸できる時代じゃなかったですから。近海モノのアジとかサバもあるんですけど、脂が全然のってなくて美味しくないんです。寿司は素材が命ですから、当時は大変苦労しました。ですが、我々の先輩たちは、アワビの缶詰を使って握ったり、カマボコを握ったり、もっと苦労されたわけです。そういう方たちの苦労があったわけですから、泣き言は言っていられない。
 
 近所のビーチでたまに大きいヒラメがかかると聞いて、魚河岸に行くような気持ちで買いにいきました。釣り人につたない英語で「この魚を売ってくれ」って。エサにするアンチョビを指で開いて握ったり、そういった努力もしましたね。カイワレや大葉を自宅の裏で栽培しようとしたこともありました。失敗しちゃったんですけどね(笑)。それくらい意欲を持ってやっていました。
 
 また、当時はお客さんもアメリカ人が少なくてね。まあ、寿司なんて食べたことがないという人ばかりでしたから。アメリカ人エグゼクティブの方で、日本に行った時に接待されて寿司を覚えた方が、アメリカの寿司ブームの火付け役になったのでは。
 
 私は常に、このまま日本へ持って行っても通用する“味と腕”を目標に、最高を目指して30年間、頑張ってきました。寿司はやはり素材を追求した物が本来の寿司だと思うんです。私は、そういう寿司を追求したい。寿司がアメリカでも受け入れられて、いろいろなタイプの寿司が生まれて、それはそれでそういう文化もあるってことでいいとは思うんですけど、それが主流になっちゃいけないと思います。しっかり本道を保たなきゃいけないんじゃないかな。ウチもお客様から頼まれれば、色々なリクエストにお応えしますが、本道から外れるようなことはオススメしないですね。
 
 78年にガーデナで始めて、今の店舗に移ったのが90年です。その間にネタの空輸ができるようになって、冷凍物から新鮮な物へと大きく変わりました。コハダなどいろんなネタを仕入れられるようになりました。

寿司職人に大切なことは
お客さんへの気の遣い方

 寿司職人に大切なことは、技術的なことはもちろんですが、気の遣い方ですね。お客さんへの気の配り方を学ばないと。
 
 ただ黙ってお客さんから言われた物だけを握って出す。それじゃあ気が利かないじゃないですか。先々を考えてあげないと。
 
 例えば、握りをふた口で召し上がる方がいれば、2回目から「お切りしましょうか?」と聞く。その時、ワサビは2カ所に分けて付けてあげる。握り方も箸で召し上がる方の場合は固めに、手で召し上がる方は柔らかめに。満足感を与えるためには、そこまでやらなきゃいけないんじゃないでしょうか。色々なお客様に満足を与える気の遣い方ができるのが、良い寿司職人だと思います。ただ、満足感を与えるサービスというのは、人によって色々違うし、そのための努力というのも曖昧なところがあって、難しいですけどね。
 
 私ももう60歳になりますから、これから続く人に良い伝統を残したい。まず原点は、切って、握るというのは当たり前ですが、できればシャリは熱くても人肌、40℃以下。それでいて魚は冷たい。これが理想的ですね。シャリと魚のバランスに気を付ける。もちろんできるだけいいネタを準備して、下準備に手を抜かない。基本中の基本です。
 
 それから、やはりいい先輩、師匠の下で勉強すると良いでしょう。良いお店で、良い先輩から本物を学ぶってことですね。良い物っていうのは理屈抜きでいい。美味しい物を食べれば、不味い物はすぐわかりますし、良いサービスを受ければ、悪いサービスがなんだかわかります。寿司に限らず美味しい店に行って、美味しい物をいっぱい食べることです。そうすると、本物に近づけると思います。
 
 とにかく、美味い物を提供したいという情熱を持つこと。キャリアは関係なく、ひたすら努力の積み重ねです。日々勉強すること、それが大切です。
 
(2007年10月1日号掲載)

建築家(その他専門職):寺田 千加子さん

どういう条件で建てられたとしても、
質の高い空間を利用者が
経験できることが願い

 アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は建築家の寺田千加子さんを紹介。学校や公共施設を始め、一般住宅などあらゆる建築を手掛け、この9月には担当した52エーカーの敷地の私立高校が開校する。

【プロフィール】てらだちかこ■東京生まれ。多摩美術大学建築科卒。Registered Architect。建築家、竹山実氏に師事し、サンディエゴ州立大学のEnvironmental Designで修士号取得。現在サンディエゴにて、5人のパートナーと共に「Roesling Nakamura Terada Architects」を経営。www.rntarchitects.com

そもそもアメリカで働くには?

TOEFLは後回しで
入学許可が下りる

建築材料のサンプルを使っての
プレゼンテーション

 建築家で、武蔵野美術大学で教授をしていた父の影響もあって、私も多摩美術大学の建築科に入学し、建築の勉強をしました。UCバークレーの客員教授をされていた竹山実先生が武蔵野美大で父と同僚だったこともあり、多摩美大在学中から竹山先生の事務所でアルバイトをさせてもらっていました。竹山先生は、SHIBUYA109や晴海客船ターミナルなどを設計した日本を代表する建築家の1人で、卒業後もやはり竹山先生の下に残って働き続けることにしました。
 
 それからアメリカの大学院で建築の勉強をしたいと思い、1980年にサンノゼ州立大学にある語学学校に留学しました。大学院に進学する方法をいろいろと調べてみたのですが、ほとんどの学校で既に新年度の入学受付が締め切られており、そのうえ、私はTOEFLも受けていなかったため、入学願書の書類も揃わない状態でした。
 
 しかし、当時UCバークレーに留学中の竹山先生の教え子の方が、サンディエゴ州立大学(SDSU)ならまだ受け付けていると、私に教えてくれたのです。当時、SDSUに入学するのにも、私の英語力は十分ではなかったのですが、それまでの自分の作品をまとめたポートフォリオを学校に提出したところ、TOEFLは入学してから受けるという条件で入学許可が下り、SDSUのArt Department Environmental Designというマスターコースで2年間勉強することになりました。ここでは当時の教授だった建築家、ユージン・レイの下、一般現代美術史を含め、環境および建築設計デザインを勉強しました。
 
 入学して1年半を過ぎた頃に、現パートナーの中村氏の紹介でローズリング氏に出会い、彼の仕事を手伝うことに。彼らと一緒に建築をすることがとにかく楽しかったので、大学院卒業後も事務所に残り、正式に就職することになりました。

携わる人を取りまとめ
ビジョンを現実化する

Mater Dei Catholic High Schoolの
施主との打ち合わせ

 建築家というと、オフィスで静かにデザインを描いている姿をイメージするかもしれません。しかし、1番の大きな仕事は、「何を造るのか」を頭に置きながら、そのプロジェクトに携わる多くの人たちを取りまとめ、そのビジョンを現実化することです。施工主、エンジニアやデザイナー、施工会社、役所の担当者など、多くの人たちが関わり合ってプロジェクトは進んでいきます。それぞれに立場があり、希望があり、譲れないプライドもあります。こちらの意見を受け入れてもらわなければならない時、彼らを説得し、まとめることは簡単なことではありません。
 
 また、仕事を受注するのもひと苦労です。例えば、公共建築の設計プロジェクトを受注するために、建築事務所は州・郡・市、あるいは学校の教育委員会など、公共機関からの広告を基に書類を提出します。公共機関では、いくつもの建築事務所からの提出書類を比較検討し、また必要に応じて面接などを行い、その中で最も適切だとされる事務所に仕事を依頼します。そういった設計の仕事を獲得するためには、他の事務所との競争を乗り越え、自分たちのデザインの秀逸性だけではなく、依頼されるプロジェクトに対するアプローチなどを、明確に説明できなければならないのです。

地道に勉強し
常に感性を磨くこと

 現在、担当しているプロジェクトの1つに、今年9月に開校するチュラビスタの「Mater Dei Catholic High School and Parish」があります。52エーカーの広大な敷地内に、カトリック系私立高校と教会の施設が建っています。キャンパスにはフットボール場、野球のグラウンド、ソフトボールフィールド、チャペル、図書館、シアターなどの施設が備わっており、約2200人の生徒を収容することができます。
 
 設計・施工期間は短期間で集中して行われ、約2年半。キャンパスの設計は、カトリックという背景を反映するため、伝統的で直線的な建物の配置を心がけました。また、建築そのものはシンプルでありながら、学校らしい、明るくて健康的な環境作りを目指したつもりです。温かみのある色合いの石を使ったり、ブロックの色や仕上げに変化を付けるなど、学校特有の無機質な雰囲気にならないよう心がけました。この52エーカーもある施設の数々が、私たちの作品として後世に残っていくことは、建築家としてとても感慨深いものですね。
 
 最近、アメリカで障子など和の要素を取り入れたデザインが人気を呼んでいますが、ただお洒落だから、カッコ良いからという理由だけで外国の要素を取り入れるのではなく、きちんと1つ1つの必然性を考え、スタイルなどにとらわれない設計をしていきたいと思っています。「建築物がどういう条件で建てられたとしても、質の高い空間を利用者が経験できるように」という私の建築家としての願いがそこにあります。いつか、美術館と庭園など、内部空間と外部空間を総合的にデザインできるようなプロジェクトを手掛けてみたいですね。
 
 建築はアートですので、芸術センスを養うことも大切。私が個人的に好きな芸術家は、彫刻家であり、庭園アーティストでもあったイサム・ノグチです。彼の人間の生活に密接したアートや、遊べる彫刻、Akariシリーズの照明器具などのユニークな作品は、私にインスピレーションを与えてくれます。作品だけでなく、彼の真にグローバルで、芸術に常に熱心に向き合った妥協のない生き方にも興味を惹かれますね。
 
 建築家になりたいと思っている人へのアドバイスは、日頃から自分の目で色々な建築・アートを見たり、音楽を聴いたりしながら地道に勉強すること、そして常に感性を磨くことが大切なのではないかと思います。
 
(2007年9月16日号掲載)

ピアニスト(その他専門職):奥村 尚美さん

ピアノを通して貢献できることを
コツコツと重ねていきたい 

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はピアニストの奥村尚美さんを紹介。武蔵野音楽大学を卒業後、音大のピアノ講師やピアニストとして活躍。渡米後は地域社会に貢献したいという思いから、コミュニティーカレッジや教会で多くの人に音楽を教える毎日を送っている。

【プロフィール】おくむら・なおみ■東京生まれ。武蔵野音楽大学を卒業後、武蔵野音大付属音楽教室で講師を務める。神奈川県で演奏家グループを結成し、定期演奏会やオーケストラとの共演等、幅広く活躍。99年渡米後、コミュニティーカレッジのコーラスクラス、教会の聖歌隊や日本人などに音楽を指導する。「SAKURA MUSIC STUDIO」主宰。

そもそもアメリカで働くには?

4歳から習い始めて
ピアノの指導者に

アメリカに来て音楽活動を共にしている友人
ユニスさんと

 4歳からピアノを習い始め、東洋英和女学院高等部卒業後、東京にある武蔵野音楽大学ピアノ科に入学しました。大学を卒業後すぐ、教授のすすめにより、私自身も高校時代に通っていた武蔵野音楽大学付属音楽教室に勤め、約10年間、ピアノ講師として後輩の指導に当たっていました。
 
 ここのクラスは、厳しい試験に合格した真剣な生徒ばかりなので、ほとんどの生徒が音大を目指しています。音大に合格する、つまり音楽家となるために必要な技術と知識が十分に備わるように指導していきました。しかし生徒の中には、受験直前になって「やっぱり音大ではなく、理数系の大学に行きたい」と言い出す人もいたりして、驚かされることもありましたが、大変やりがいのある仕事でした。

別の分野に入って
音楽の世界を見直す

2000年にラホヤでピアノ・ソロコンサート
「My Favorite Classics」を行った

 出産を機に、武蔵野音大の講師を辞めました。退職後も個人的にピアノを教えるなど、何かしらの形でピアノと関わりのある生活はしていたのですが、子供がハウスダストアレルギーを持っていたことから自宅を改装することに。改装を重ねるうちに、家の構造や材質、さらには建築そのものに興味を持つようになり、学校に入って一から建築の勉強を始めました。
 
 そして、2級建築士の資格を取得し、3年ほど建築士になるための専門学校で講師を務めました。ところが、その期間に自分の中で多くの葛藤があり、やはり「自分にはピアノしかない」ということに気づき、再び音楽の世界に戻りました。今となっては、音楽とは違う世界を経験したことが、ピアノを見直す良いきっかけとなったのではないかと思います。
 
 それからは、ピアノ講師として生徒に指導するかたわら、ピアノの先生や歌手を集めて、「メロディ・トゥリー」という演奏家団体を結成して、神奈川県で年に2回ほど演奏会を開いていました。また、長年の夢であった、オーケストラとの共演も実現することができました。私を含めたピアニスト仲間3人がそれぞれ、神奈川フィルハーモニック・オーケストラと共演したのですが、念願がかなって、ラフマニノフを演奏できたことは、今でも私にとって思い出深い出来事となっています。

活動の場を広げてくれた
アメリカ人の友人

 1999年に渡米したのですが、住み始めてすぐに、ピアニスト兼コーラスディレクターをやっているユニスさんという方と知り合いました。まさに彼女との出会いが、その後のサンディエゴでの私のピアノ生活を大きく変えました。
 
 「一緒に音楽活動をしよう」と誘ってくれた彼女は、まず自分が担当しているコミュニティーカレッジのコーラスのクラスの伴奏を任せてくれました。そこでしばらく演奏していると、「うちの伴奏もやってほしい」「うちでコンサートを開いてくれないか」などと、さまざまな方面から演奏の依頼が入ってくるようになりました。
 
 現在は、サンディエゴ・コミュニティーカレッジ・ディストリクトの4つのコーラスの伴奏や、サンディエゴ・ユダヤ人男性合唱団の伴奏兼コーチ、日系キリスト教会の聖歌隊および音楽ディレクター、サンディエゴ日本混声合唱団の指揮指導者として、1日平均4時間は伴奏をしている毎日です。また、今年度から、コミュニティーカレッジでソルフェージュクラスも開講しました。その他、音楽教室「SAKURA MUSIC STUDIO」を開講し、ピアノや歌の個人レッスンも行っています。

クラシックの原点に戻り
好きな曲を追究したい

 アメリカに来てから、自分を必死に売り込んだという経験はないのですが、このように多くの機会に恵まれたことは、日系社会だけではなく、多くのアメリカ人と知り合いになったことが大きかったように思います。アメリカでは、外国人が自分の実力だけで勝負するよりも、アメリカ人の知り合いから人を紹介してもらったり、推薦してもらうと、驚くほど話が早く進みます。
 
 そういう友人を多く作るためには、アメリカ社会の中で、小さなことでも自分が貢献できることをコツコツと地道に行うことです。人脈というネットワークは、そんな風に自然と広がっていくのではないでしょうか。そして、それが結果的に、多くのチャンスにつながっていく気がします。
 
 日本人の中でも、アメリカで大きなことを成し遂げたいと思っている方は多いかもしれませんが、まずアメリカ人の知り合いを多く作り、初めの1歩として、自分の住む地域に根差した活動を始めると良いと思います。アメリカで成功するには、なんと言ってもアメリカ人からのサポートやヘルプが必要であり、それには勇気を出して、自らアメリカ社会に飛び込んでいかなければ、次のステップには進めません。「困っている日本人はいないかな?」と、優しく手を広げて待ってくれているアメリカ人など、どこにもいないのですから。
 
 今後、日本の方が進んでいるソルフェージュや緻密な演奏技術など、あまりアメリカで教育が徹底されていない分野に貢献したいですね。
 
 ピアニストとしては、クラシックの原点に戻って、好きな作曲家や曲について、自分なりにもっと追究していきたいと思っています。残念ながら、今は研究に費やす時間がないので、それは老後の楽しみの1つとしてとっておきたいなと思っています。
 
(2007年8月16日号掲載)

コンストラクション・マネージャー(その他専門職):細川 智徳さん

「完成形」を見て満足するよりも
人の苦労が刻まれた過程が好き

アメリカで夢を実現した日本人の中から、今回はコンストラクション・マネージャーの細川さんを紹介。日本各地やインドネシアを担当した後、現在はダウンタウン・ロサンゼルスで、2009年に開通予定の地下鉄「ゴールドライン」の地下セクションの責任者として、工事の指揮を執る。

【プロフィール】ほそかわ・ともなる■1966年生まれ。岩手県盛岡市出身。大学の土木工学科を卒業し、1990年に大林組入社。日本各地の工事現場で経験を積んだ後、入社4年目でインドネシアに赴任。埋め立て工事や工場建設を監督した後、渡米。コロンビア大学院でコンストラクション・マネジメントを専攻する。2003年よりダウンタウン・ロサンゼルスの地下鉄「ゴールドライン」工事主任。

そもそもアメリカで働くには?

世の中に役立つものを
作りたい

ミーティングルームの壁を使ったスケ
ジュールボード前にて、部下のエンジニアと

 子供の頃の夢は動物学者でしたが、小学校の夏休みに空港の工事現場を見学したことがきっかけで、橋やダム、地下鉄など「大きなもの」を作りたいと思い始めました。本格的に建設業を志望したのは、高校2年生の時。その後は、建築の仕事を思い続け、大学でも土木工学を専攻したのです。
 
 もともと、国内でも海外でも、「いろいろな所に行き、いろいろな物を見て、いろいろな人に会いたい」という気持ちが強くありました。大林組に入社してからは、現場のエンジニアとして、経験を積みました。どの仕事もそうだと思いますが、教科書というものはないので、すべて現場で覚えるのです。
 
 その間も海外工事を希望し続け、入社4年目でインドネシアに赴任。4年ほど滞在し、埋め立て地の造成や工場建設に携わりました。言葉も文化も風土も違う国での仕事は大変ですが、やりがいがあり、自分には合っていると感じましたね。
 
 日本に戻った後も海外志向は消えず、会社の留学制度を通じて渡米。ニューヨークのコロンビア大学院で、コンストラクション・マネジメントを専攻しました。その後、2004年より、ダウンタウン・ロサンゼルスの地下鉄「ゴールドライン」の工事主任を担当することになったのです。
 
 建設業には、陸や海、地下など、決まった分野の工事を担当する「専門家」と、いろいろな種類の工事を監督する、いわゆる「何でも屋」の2通りがあります。海外勤務の場合には、工事の種類も場所も選ぶことができないため、必然的に「何でも屋」になりますが、いろいろな仕事に携われる点で、好奇心の強い自分には向いていると思います。
 
 作るもの自体は同じでも、国が違えばシステムや工法などが違ったりします。例えば一般的に、日本では高度な技術を使いますが、海外では、コストを抑えるために、新技術だけではなく、20~30年も前の技術も含めて、最適な方法を見つける工夫が必要です。
 
 例えば、インドネシアの埋め立て工事では、海の中に杭を打ち込む際に、日本ならコンクリートを使うのですが、竹を束にして使いました。これはシンガポールの教授がオリジナルに考案したものですが、工事に竹が多用されたため、値段が高騰してしまったこともありました。
 
 その土地柄に合った建設アイデアを活かし、機械や材料、工程や組織を変えていく作業は、大変ですが、やりがいがありますね。

言葉や文化の壁を越える
周りとの信頼関係

 ゴールドラインの工事に携わって以来ずっと、朝は1時間半ほど現場回りをしています。日々の作業の確認と、自分の目で見ないとわからないことがたくさんあるため、毎日必ず1回は現場に足を運ぶようにしているのです。その後、デザイン確認や変更、図面管理、翌日の作業の打ち合わせなど、ミーティングを重ねます。
 
 スケジュール管理がとても大切なので、完成予定まで5年間の工程を1年、半年、3カ月、1カ月とブレイクダウンしていき、3週間先までは、1日ごとの作業工程の詳細を詰めます。道路を封鎖して工事をする必要がある時には、夜通しで作業することもありますね。
 
 スタッフは職員が60人と作業員が200人弱いますが、日本人は私を含めて3人。作業員の多くはスペイン語を母国語としているため、英語が話せる人間がチームリーダーとなり、まとめていきます。
 
 日本人同士で仕事をする場合と比べて大変な点は、「約束や期限を守らない」など考え方や文化の違いや、限られた人材のなかで「工程に合わせて、予算内に、決められたものを作る」という、この当たり前のことが、とても難しいのです。工事が遅れると、発注者に罰金を支払うことになるので、頭を悩ませます。
 
 これでベストということはないので、今までの経験から、「今日、明日、来月に何が大切なのか?」を綿密に考え、周りとの信頼関係を大切にし、スタッフの得意なところを活かすように心がけています。

好きだから考えるし
失敗も身になる

 この仕事をしていて、うれしい瞬間は、「それぞれの山場」が完成した時です。いろいろな人間の苦労が刻まれているという点では、監督や撮影監督、美術、編集など、多くの人が関わる映画製作などの「もの作り」と同じかもしれませんね。また、工事には危険が伴う作業も多いので、安全には特に気を配っていますが、そういった意味でも、無事にひと山超えた時には安心します。
 
 実は、過去に自分が関わった工事の完成形を見たことがないのです。工事は終わりに近づくにつれて、工程が減っていくので、最後まで残るスタッフの人数は限られます。そのため私の場合は、プロジェクトが完成する頃には、既に次のプロジェクトに移っているのです。
 
 でも、「完成形を見たい」というこだわりはありません。それよりも、「過程」が好きなんですね。料理でも、作っている過程が好きで、昔よくやっていたホームパーティーでも、半分の時間は、キッチンの中にいました。
 
 ゴールドライン完成まで、あと2年。特に思い入れのある場所はやはり、自分が関わっているリトルトーキョー駅と、ボイルハイツのMariachi PlazaとSoto駅でしょうか。
 
 建設の仕事を目指す時に大切なことは、「やる気」です。好きだから真剣に考えるし、失敗が身になるのだと思います。
 
 全体を監督する役割ですから、周りで何が起きているのかを敏感に感じ取り、必要であれば即修正する柔軟性や、協調性も求められます。体力ももちろん重要な要素ですね。
 
(2007年7月16日号掲載)

アナウンサー(その他専門職):岡野 進一郎さん

日系社会のニュースを大事にしつつ
新しい視聴者層の拡大を

UTBの『モーニング・クリック』でメインキャスターを務める岡野さんを紹介。NHK朝の連続テレビ小説の主人公に抜擢され、俳優として活躍。一念発起して渡米し、今やUTBの顔として定着している。

【プロフィール】おかの・しんいちろう■1963年生まれ。85年NHK朝の連続テレビ小説『いちばん太鼓』で主演デビュー。90年文化庁在外研修員として、ニューヨークHBスタジオで演技とプロデュースを学ぶ。帰国後、(株)ハイブリッド・アーツを設立、プロデューサーとしても活動。2002年にロサンゼルスへ移住。現在、UTBキャスター兼プロデューサーとして活躍中。

そもそもアメリカで働くには?

「アメリカで生きたい」
人脈を活かして渡米

MOMOKOさんとの息もバッチリ合った
『モーニング・クリック』(金・朝7時~)

 日本にいる間、俳優をやっていたんですよ。1985年にNHKの朝の連続テレビ小説の主人公に抜擢されまして、その後も順調に俳優の仕事を続けていました。そんななか、自分が影響を受けた映画や舞台が海外、特にアメリカのものだったんですね。それで、どうしても演劇の本場・ニューヨークで勉強してみたいと思いました。
 
 たまたまその時に、文化庁の在外研修員というシステムがあったんです。同期生に現在ロサンゼルスで活躍なさっている映画監督の鈴木じゅんいちさんもいまして、それでニューヨークで初めてのアメリカ生活が始まりました。90年のことでした。
 
 演劇学校で1年半、トレーニングを続けたら、アメリカが自分にすごく合っていたんでしょうね。たちまちとりこになって、住み続けたいと思いました。ただ、その時は、永住権が取れなかったということもあり、泣く泣く日本に帰りました。人生は、その時その時に障害やチャンスがあります。その当時は、自分の人生がアメリカとうまく交差しなかったんですね。でも、「アメリカで生きたい」という思いがずっと自分の中にあったので、機会を見て、絶対行こうと思っていました。
 
 再渡米のきっかけになったのは、ニューヨーク時代のスタジオにいた、当時小道具係の人が、演劇教育機関の総合ディレクターになったこと。日本の演技教育に関する情報交換をしたいということで、僕が招かれたんです。大したお金にならないし、家族ももうおりましたので、それで生活していくのは難しいと思ったんですが、なんとかこれをチャンスにしたいと思いました。それが2002年のことで、最初に渡米したいと思ってからは、相当な時間が経っていました。
 
 ロサンゼルスに渡って、自分のキャリアを活かせる仕事といったらメディア関係しかなかったものですから、日系のテレビ会社に紹介で入って、番組の構成台本を書いたり、インターンみたいなことをやっていました。

帰国寸前に決まった
UTBへの就職

 たまたま家の近所に回転寿司屋がオープンしまして、そこにアルバイトに行ったんです。そうしたら、1週間くらいでチーフシェフが辞めてしまって、僕がチーフに(笑)。僕の日本での俳優活動を知っているお客さんもけっこういらしたので、「なんであなたがこんな所で寿司握ってるの?」なんて話になることも多かったです。
 
 それまで日本で20年近く俳優をやっていましたが、何の保障もない中で生きないといけなかった。日本俳優協会に登録している俳優って4万人くらいいるらしいんですが、その中で俳優業だけで家族を養っていける人って600人もいないんです。その時に比べたら、今は好きな街で、青い空の下で、一生懸命生きられると、開き直れたんです。アメリカにいたら、自分が今まで築き上げてきたプライドとか関係ない訳ですよ。
 
 ですが、ビザも失効間際で、家族がいるのに不安定な暮らしをこのまま続けるのは難しい。僕はロサンゼルスに住む運命ではないのかもと、帰国準備を始めていた折に、いろんな人からUTBをすすめられました。でも、以前に他社でビザサポートをしてもらえなかったのが非常に辛かったこともあり、在米日系メディアに対して失望感がありました。
 
 家財道具も売りさばいて、いよいよ帰国という時に、ある人に「岡野さんくらいの人が、くすぶったまま帰るのはもったいない」と言われました。しばらくして、「今からUTBのゼネラルマネージャーに会ってください。段取りはすべて組んであるので」と、突然言われ、それがロサンゼルス滞在最後の日でした。ゼネラルマネージャーも、すぐにサンフランシスコへ出張というギリギリの状況で面接をして、即採用していただきました。

オーバーリアクションを
楽しんでいただきたい

 今は、『モーニング・クリック』という番組のメインキャスターをやっています。日系のメディアはどこもそうなんですが、日本とは比較にならない基盤の中でやっているので、僕自身、カメラも回しますし、編集もします。ただ、日本の番組に追い付くことだけを目的にしてしまうと、どうしても予算の問題が出てきますよね。予算内でどう手作りの魅力で親しんでもらうか、楽しんでもらえるかっていうところで、今は仕事をしています。ある種、日系社会独特の番組上の泥くささというのは、あえて残していくつもりでやっています。
 
 僕のアナウンサーでの師匠は、(元UTBメインキャスターの)尼野さん。1年間ピッタリ付いて、原稿の読み方から、毎日、稽古してもらいました。俳優業では、自然に人が喋っている状況を、どう演出するかに注意していました。そういう風に自分を訓練していたので、アナウンサーとして話せるよう再トレーニングするのが大変でしたよ。俳優の時は、役の心情を表現するのが仕事だったのですが、今は原稿を表現しないといけない。
 
 視聴者からは、たまに「はしゃぎ過ぎ」というお叱りのメールが来るんですよ。ただ、日系3世、4世の方で、日本語がわからなくても番組を楽しんでいる方がいらっしゃいます。そういう方は、僕のオーバーリアクションを楽しんでくれているんですね。そういう人のことも考えながら努力しているので、そのあたりはご容赦いただきたいです(苦笑)。
 
 今後は、心から尊敬する尼野さんの意思を受け継ぎ、日系社会のニュースを大事にしつつも、若い世代の新しい視聴者層の拡大を考えています。
 
 メディアの仕事はインターンから始まることが多いと思うのですが、在米日系メディアなら日本の制作会社に入るより、ある意味、いきなり大きな仕事を任せてもらえると思います。日本ではなかなかお会いできない方にも、ロサンゼルスでならお会いできたりしますので、それも魅力ですね。個人の資質をどんどんアピールすれば、いろんな仕事ができると思います。
 
(2007年7月1日号掲載)

ヨガ・インストラクター(その他専門職):白山晴久さん・朱美さん

ヨガは一生やっていけるもの
ライフワークとして多くの人とシェアしたい

ビクラムヨガ・レドンドでのインストラクターを務める白山さん夫妻を紹介。温室で行う「ビクラムヨガ」の虜になり、脱サラしてインストラクターの道へ。ビクラムヨガに出会い、身体も人生も変わったという。

【プロフィール】しらやま・はるひさ■兵庫県出身。大学卒業後、就職して渡米。2005年9月にティーチャートレーニングを受講。修了後、06年1月よりスタジオで教える。
しらやま・あけみ■島根県出身。東京で勤務後、90年に結婚、渡米。日系企業で勤務したが、ビクラムヨガに魅せられ、ティーチャートレーニングを受講。修了後、05年12月よりビクラムヨガのインストラクター。

そもそもアメリカで働くには?

後悔は実行してから
脱サラをポン! と決意

9週間、ビクラムヨガ漬けになったティーチャートレーニング

晴久:海外に出たいと思っていたので、アメリカの工場での勤務を前提とした企業に就職し、こちらに来ました。妻は大学のヨット部の後輩でした。
 
朱美:アメリカでは最初、駐在員の妻という立場でしたが、永住権を取ってからは日系の企業で働き始めました。お互いずっと仕事が忙しくて夜も遅く、週末はゴロゴロしていただけでしたが、ある時、友人がビクラムヨガのチラシを持って来てすすめてくれ、なぜか「やってみたい」という思いに駆られて。夫を説得して日曜の朝、2人でスタジオに足を運びました。
 運動不足の上、貧血気味で温泉やサウナが苦手でしたので、温室で行うヨガに、最初は暑くてのびてしまいました。でも、クラスが終わって冷たい風に吹かれると気持ちがいい。「またやってみたい」と毎週末通うようになり、頻度を増やしていきました。夫も週末に通い始め、やはり週3、4回と増やしていきました。
 そのうち、インストラクターになりたいと思うようになりました。近くにスタジオがあれば通えますが、将来どこに住むかわからない。でも、自分が先生になれば、いつまでもヨガを続けることができる、そう考えたんです。夫に相談すると、「じゃあ、なれば?」と賛成してくれました。
 スタジオを開いて経営すればよいのですが、1人では難しい。そこで夫に、「一緒にやりたいんだけど」と相談したんです。
 
晴久:僕もポン! と決意しました。「それもいいかな。一緒にやろう」と。人生は1回しかありませんから。やるか、やらないかで悩むんだったら、やった方がいい。日本人はやらずに後悔しますが、アメリカ人はやってから後悔する。アメリカ人はそこが素晴らしいと思うんです。実際、全然不安はなかったですね。2005年9月に、2人で9週間のインストラクター養成講座を受けました。

ヨガを通して変わった
身体そして人生観

朱美:インストラクター養成講座を受けるには、スタジオで6カ月練習をして、スタジオのオーナーから本部に推薦状を書いてもらいます。そして、9週間で、90分のクラスを朝と夕方の2回受け、その間に講義を受けます。解剖学も学びますし、健康に関する講義や教授法の講義も受けます。ビクラムヨガの創設者であるビクラム氏の美学や生い立ちなど、自らによるレクチャーもありました。
 
晴久:朝の9時半から夜の12時まで毎日、ガンジス川の流れのように、ゆっくりと行われました(笑)。受講生は220人。ヨーロッパ、アジア、ラテンアメリカなど世界中から来ており、その時、改めてヨガの人気を認識しましたね。
 
朱美:ビクラムは部屋を温めていますが、これは筋肉と関節を伸びやすくしてストレッチをする時に負担を少なくするため。ヨガにはいろんな流派がありますが、瞑想中心でスピリチュアルの世界を追求するものに対し、ビクラムは身体のために行うものです。
 
晴久:ビクラムでは、身体は神様からの借り物。神聖なる”テンプル(寺)“であり、それをキレイに保つことが私たちの仕事と考えています。それができた時に、スピリチュアルな考えが持てるようになる。「健全な肉体には健全な精神が宿る」ということです。
 僕たち自身、有名ブランドを身に付けて満足していた時代もありましたが、今はそういったものに興味がありません。なぜなら、自分の身体が素晴らしいから(笑)。健全な身体を持てば、服なんてなんでもいい。
 また、生活自体も変わりました。昔は高いワインを美味しいと思っていましたが、今はこだわっていません。スピリチュアルとは違うかもしれませんが、ヨガを通して自分の身体、食べる物、行動が”ミニマイズ“されてきました。
 

スタジオ経営が
次のチャレンジ

朱美:デスクワークをしていた頃は、いつも手足が冷えて新陳代謝が悪く、ストレスから暴飲暴食に走ることもありましたが、今は身体を常にシェイプアップし、自分の身体への理解が深くなりました。ヨガを通して、身体が健康になり、薬を飲む必要もなくなったのもうれしいことです。
 ヨガの魅力は、スポーツと違って、今すぐできなくてもいい。また、若くなくてもいい。身体さえ動かすことができれば、自分のペースで、一生できるところです。1年半のインストラクター経験を含め、3年やっていますが、基本の26のポーズもまだ練習し続けています。80歳のおばあさんで、今でも教えている方がいます。ヨガには終わりがありません。
 
晴久:ビクラムヨガは慣れるまではきついですが、慣れてきて身体の変化を感じられるようになると気持ちいい。達成感があるものです。また、ヨガというのは忙しいものではありません。息をするのもヨガ。歩くのもヨガ。要はその動作を集中して行うことがヨガなんです。
 
朱美:今、スタジオとなる物件を探していますが、ビクラムヨガはスタジオの家賃だけでなく、シャワーやヒーティングなどの設備投資もかかりますので、大きなチャレンジです。それでも、2人でスタジオを経営したいと思うのは、生徒さんたちと継続的にコミュニケーションを取っていきたいからです。平日はフルタイムの仕事をして、週末だけ教えるというと経済的には安定するかもしれませんが、片手間でやりたくないんです。
 ポーズがまったくできなかった生徒さんが少しずつできてきたとか、以前に比べて健康になってきたとか、そういったことを話してくれ、喜んでおられる生徒さんの姿を見るのが1番うれしい。生徒さんがより健康的になって、ハッピーになっていくことがうれしいんですね。
 自分たちのスタジオを作って、生徒さんを増やし、より多くの方とこの素晴らしさをシェアしていくことが次の目標です。
 
2007年6月16日号掲載

牧師(その他専門職):大倉 信(まこと)さん

聖書と日常生活の関わりを解き明かし
「希望」を届けたい

アメリカで夢を実現させて働く人の中から、今回は牧師の大倉信さんを紹介。アジア放浪の旅のインドで、人生の転機となる光景に遭遇。神学校を卒業し、現在、サンディエゴの教会で、迷える人々の心を癒している。

【プロフィール】おおくら・まこと■1969年、ソウルで韓国人の父と日本人の母の間に生まれる。71年日本に渡り、高校卒業後に渡米。91年、テネシー州タスカルム大学を卒業。日本帰国後、放浪の旅を経て、96年に東京聖書学院を卒業。98年に再渡米し、現在、サンディエゴ・ジャパニーズ・クリスチャン教会に属す。大倉牧師のブログ(www.mmpinc.us/pmac/)

そもそもアメリカで働くには?

韓国生まれ、日本育ち
紆余曲折の青年期

沖永良部島にある教会で子供たちと

 牧師になったきっかけは、韓国人の父と日本人の母が共に牧師だったこともありますが、その道筋は紆余曲折でした。「牧師の子は良い子」という先入観が世間一般にありますけど、私の場合は決してそうではなく、色々なことがありました。
 
 韓国・ソウルで、生後まもなく父が亡くなり、田舎の教会を手伝って私を育ててくれた母と共に、高校までは日本で「牧師の子」として生きてきました。ただ、日本のクリスチャン人口は1パーセントにも満たず、民家に看板を掲げているような小さな教会が多いのです。日曜日になると、自分の寝ている部屋を片づけて、礼拝をするというような状況も。そんな自分にとって、家=教会を離れたアメリカ生活は魅力的に見え、高校卒業と同時に、18歳で渡米しました。
 
 テネシー州のタスカルム大学で心理学を専攻しながら、教会から離れて羽を伸ばした寮生活を送りました。日本人がいない環境で、多くの貴重な経験をしたのですが、心の中のどこかに、癒されない渇きがあったことを覚えています。
 
 当時は、日本はバブルの時期だったのですが、帰国直前は、「今後、何をしようか」と悩み続けました。坂本龍馬に憧れて自転車で高知に行ったり、広島の平和運動に参加したりもしました。
 
 その後、何かを捜し求めて放浪の旅に出るのですが、そのきっかけとなったのは、沢木耕太郎が香港からロンドンまでバスで旅をした旅行記『深夜特急』シリーズでした。インドのくだりで、カルカッタについて、「1ブロック歩いただけで、一生かけても味わうことのない体験ができる」というような記述があったのです。それを読んで、横浜から船で中国へ、そこからタイ、インドへと放浪の旅をし、いろいろな風景を見ることになりました。
 
 人生を変えたのは、インドのガンジス川の元にあるベナレスという街で、2週間1人で滞在した時の経験です。ガンジス川はヒンズー教徒の聖地で、教徒たちは亡くなると川に流されることを良しとします。
 
 ある日、遠くの川岸から煙が出ているので、近づいてみると死体を焼いているのです。そこでは、インド中から運ばれてくる死体を1日中焼いていたのですが、2つの薪が並べられているのを見ました。片方の薪の上には、豪華できらびやかな布で巻かれた女性の身体が横たえられ、周りでは多くの家族や友達が泣き叫んでいます。もう片方の薪の上には、みすぼらしい布でくるまれた女性の身体が置かれ、多分、路上で行き倒れた女性なのでしょう、誰も見守る人はいません。その焼いた灰を流している川の5メートル先では、女性たちが歯を磨き、洗濯をし、幼い子供たちが水遊びをしています。また、インドでは、神と崇められている野牛が、亡骸を包んでいた紐を食べています。
 
 半径20メートル以内の空間に、笑いも悲しみも、喜びも死も共存している。その風景を見た時に、自分のやるべきこと、進むべき道を、神様が見せてくれたと思いました。その時に「キリストを伝えていく」ということこそが、自分の生きる道だと確信して、すぐさま日本に帰国、10日後には神学校の入学試験を受けていました。

米国留学の経験が導いた
牧師としての再渡米

人生の転機となった自分探しのインドへの旅

 東京聖書学院を卒業し、鹿児島県奄美諸島の沖永良部島の教会で2年2カ月の赴任を経た後、再渡米することに。渡米のきっかけは、「日系人教会に日本語のできる牧師が足りない」と聞いたことでした。アメリカの大学に通っていた4年間について、「何のためにあの経験をしたのだろう?」と振り返った時に、すべてが1本の紐でつながったような気がしたのです。私が行くべきではないか、と。
 
 アメリカの教会では、教会堂と牧師が住む家が分かれており、キッチンや会議室、オフィスもあります。通常、月曜日はオフですが、それ以外の日は、教会に通います。朝一番に教会の方々や病床の方々のために、時間をかけてお祈りします。教会に来ている方々のみならず、サンディエゴ、全米、そして日本の方々のことも想いながら祈るのです。
 
 日曜礼拝のメッセージとして、プログラムの中で聖書の話をするのですが、その準備にも時間をかけます。平日にはバイブルスタディーやプレイヤーズミーティングといった集会もあります。また、これから手術をする方のもとへ駆けつけたり、病気の方をお見舞いして励ますことも。いろいろな悩みに答えるという点では、24/7体制で、緊急病棟のようなものですね。

聖書が伝える「希望」
喜びのメッセージ

 牧師をしていて1番うれしい瞬間は、悩みや悲しみのため、辛い気持ちで生きていた人々が、神様の愛に触れて、立ち上がろうとする場面に立ち会えることです。
 
 今、世の中ではいろいろなことが起きています。村上龍が『希望の国のエクソダス』の中で、「日本にはすべて揃っているけれど、希望だけがない」と書いていますが、アメリカにも当てはまると思います。
 
 日本人は、「聖書は難しい、とっつきにくい」というイメージを持たれることが多いのですが、聖書が日常生活にどのように関わるかを解き明かし、「キリストにある希望」が行き届くように努めていきたいです。
 
 今、特に自分自身が取り組んでいきたいと思っているテーマは、夫婦関係です。「夫婦」という最小社会は、子供に大きく影響を与えますし、その子供たちも大人になり、やがて夫婦になります。夫婦や親子という関係について、「聖書は何を言っているのか」「聖書はこんな喜びを語っているのか」というメッセージを伝えていきたいですね。
 
(2007年6月1日号掲載)

サーフボード・シェイパー(その他専門職):村田 栄作さん

何が良くて悪いのかわからないのは、
くやしいけど、楽しい

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はサーフボード・シェイパーの村田栄作さんを紹介。サーフボードの持つ、曲面の美しさに魅せられてシェイパーに。”会心の1本“を生み出すために追究を続ける。

【プロフィール】むらた・えいさく■大阪府出身。日本で専門学校卒業後、インテリア家具の会社に就職。その後、大工となり、同時に地元サーフショップでボード修理のアルバイトを始める。ボブ・ハーレーに出会って、シェイパーを志し、18歳の時に渡米。ハーレーに師事しながら、顧客を増やす。現在、ハンティントンビーチの工房で活動中。

そもそもアメリカで働くには?

1日1本
ドルの儲け

乗り手の直感的な感覚を、ミリ単位で反映し
ていく

 日本で専門学校を出てから、インテリア家具を作る会社で木工職人として働いていました。親父が大工だったので、その後は大工をやっていました。10代の後半から兄の影響でサーフィンを始め、それと並行して地元のサーフショップでボード修理のアルバイトも始めたんです。
 
 18歳の時、ショップのオーナーのすすめもあって、アメリカにサーフィンをしに来たんです。ハンティントンビーチとかニューポートビーチでサーフィンをしていた時に、ボブ・ハーレーという、僕の師匠なんですけど、彼にサーフボードを作ってもらいました。日本では、生でボード作りを見る機会なんてなかったので、ハーレーに生で作ってもらって感動したんですよ。それで「ボードを作るの、カッコいいな」と思ったのがきっかけとなり、シェイパーを目指すようになりました。
 
 そして、たまたま僕が勤めていたショップのオーナーが、ハーレーを日本に呼ぼうということになって、日本でボードを作る企画を立てたんです。その時に僕は、弟子という形でずっと横に付いて、毎日、毎日見学させてもらって、そこからサーフボード作りを始めたんです。それまで日米を行き来していたのですが、こっちで僕のボードに乗ってくれる人が少しずつ出て来て、なんか感触を掴んだんですね。こちらでもいけるかなって。それで、25歳でアメリカに移住しました。
 
 最初は、ハーレーの仕事場を借りて、少しずつ始めて行きました。その頃は、まだまだ難しかったですね。お金がなくて食事にも困っていた時に、ずっと面倒を見てくれた人とかがいて、僕はすごく友達に恵まれていました。
 
 ある時、僕が作ったボードに乗った人が雑誌のポスターになったんです。それから地元のサーフショップにも置いてもらえるようになって。あとは口コミで注文が入るようになりました。
 
 でも最初の頃は1本作って25ドルの利益。もう大変だったんです。工房を使える時間も限られてて、1日に1本くらいしか作れませんでしたからね。それでもボードを作れること自体がうれしかったんですよ、お金じゃなくて。

芸術的な曲線に
魅せられた

 ボード作りは、フォームにアウトラインを鉛筆で書くんですよ。それを切り取って、反りを決め、丸くまとめていくんです。全部がきれいなラインでつながらないとダメなんですよ。ラインが1点から1点、きれいに出ないといけない。それがなかなかできないんですよ。
 
 だからカーブがきれいに出ると、本当にうれしいんですよ。ボードの芸術的な曲線に魅せられましたね。ポルシェとかフェラーリみたいに、きれいなラインっていうのがあるじゃないですか。あんな感覚ですね。でも、全然出せない(笑)。自分ではまあまあかなと思っていても、ハーレーに「なんや、これ」って笑われて、全然ダメでしたね。そこそこな物を作れるようになったのは、つい最近かな。でも、まだ「これ!」っていうのは、年に1、2回あるかないか。
 
 最近は、コンピューターでやっている人も多いですね。コンピューターでやると、対称で安定したものができるんです。でも、僕は手でやるのが好き。せっかく好きでこの道に入ったのに、1番面白いところをコンピューターにやらせるのはちょっとね。今は、1本作るのに平均2時間から3時間くらいかけています。遅い方なんですよ(笑)。

名画を見たような
影響を受ける

 ボードの善し悪しは、ごまんとサーファーがいるから、すぐに答えが出ます。乗ってダメだったら売れないし、良ければ人伝いに「あれはいいぞ」という風にね。僕の場合、たまたま友達で、上手い人が乗ってくれた。彼は地元でも有名で、大会にも出ていて、やはり勝ちたいから、お互いが刺激し合いながら、いい物を作っていきました。
 
 ボードは、乗る人の身長や体重、個性、どういう波に乗るか、どういうサーフィンをしたいかとか、いろんな要素を踏まえて、反り加減や厚さなど、全部考えます。調整はミリ単位以下で削ったりします。デリケートですよ。
 
 例えば、乗っていて変な音が鳴ったりすることがあるんです。フィンの後ろがほんの1、2ミリあるかないかの違いだけで、そうなったりします。
 
 まったく同じボードは、この世の中にないですね。同じボードでも、できあがったばかりと半年後では、弾力性が変わったりして、もう全然違うんです。奥が深いですね。自分で会心の作だと思っても、いざ乗ってみたら調子悪かったり、案外雑でも調子が良かったりして、難しいものなんですよ。そこが面白いところですね。でも、調子悪いって言われると、結構落ち込みますね。何が良くて悪いのかわからないのは、くやしいですけど、それを考えるのが、また楽しいんですよ。虜になるのは、そういうことを、あれこれ考えることですね。
 
 今だに「絶対、コレ!」という物はできないですね。ハーレーは、今でもたまに会うと、見た感じでアドバイスをくれます。それで答えが出ますから、やっぱりまだまだ遥かに上を行っていますね。また、アル・メディックっていう人がサンタバーバラにいるんですけど、僕はこの人は世界一のシェイパーだと思うんです。彼を超えようと、今、頑張っています。
 
 この人のデザインはすごいですね。名画を見たみたいに、すごい影響を受けます。そういう時は、もう居ても立ってもいられなくなって、「仕事場に行こう」って思いますね。
 
 南カリフォルニアは土地柄、シェイパーもたくさん居るけど、技術的なことをわかっていないとダメだし、クリエイトするセンスも必要。難しいですよね。あとは自然が相手ですから、その勝負もあります。ただ、特に適性とかはないですから「とりあえずやってみろ」と、言いたいですね。何事も、まず好きになることです。好きだと苦労も感じないし、僕もそうしてきましたから。これからもずっとシェイパーを続けていくことが目標ですね。
 
(2007年5月16日号掲載)

ドッグトレーナー(その他専門職):鈴木 博美さん

犬の世界に入り、犬の感覚を
犬として感じるようにしています。

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はドッグトレーナーの鈴木博美さんを紹介。愛犬との生活から犬のトレーニングに興味を持つように。現在、トレーニングクラスを日本語で提供している。

【プロフィール】すずき・ひろみ■大阪府出身。日本で幼稚園教諭を経験。2004年に渡米し、ドッグトレーナーの師であるアリータ・ダウナーに巡り合い、研修生に。05年Canine to Fiveを立ち上げ、日本語によるデイケア、トレーニングクラスを主宰。「犬が笑っている生活」をモットーに活躍中。

そもそもアメリカで働くには?

飼い犬との出会いで
この世界に入る

デイケアの外遊びの時間

 動物が大好きで、中学生の頃は、「ムツゴロウ王国で働きたい」と、本気で思っていたほど。高校卒業後は幼児教育科に進み、幼稚園教諭になりました。勤め始めた幼稚園では、ウサギ、ヤギなど、動物をたくさん飼育していて、それも魅力でした。8年間勤務しましたが、どうしても牧場で働きたいという思いが強くて1年間休職し、ワーキングホリデーでニュージーランドに行きました。
 
 ドッグトレーナーの世界に入る大きなきっかけとなったのは、主人と知り合い、彼の飼っていたゴールデン・レトリーバーのパブリックと出会ったことです。パブリックの子供がほしいと、ジャニスをお嫁さんに迎え、ここから犬の勉強が始まりました。
 
 犬の呼び戻しがうまくできず、犬と飼い主が一緒に参加できるトレーニングクラスを探しましたが、30人くらいまとめられ、マイクで説明を受ける大雑把なクラスだったりで、なかなか気に入るところがありませんでした。仕方なく、犬を委託するクラスに預けてみたところ、教室ではトレーナーの号令に完璧に従うようになったのですが、環境を変えるとできなくなっちゃう。警察犬訓練所に預けてみると、号令、号令の厳しい指導にストレスではげてしまうだけ。
 
 求めているトレーナーが見つからず、いろいろ調べているうちに、「将来、犬のことを仕事にできたらいいね」と、話し合うようになっていました。

楽しそうな犬の笑顔を見て
渡米して勉強を決意

アジリティーの初級クラス。犬たちを
励ましながら、根気よく教える

 日本のドッグトレーナー育成学校は、「学費が高い」「実践がなく、実力が付きにくい」「期間が長過ぎる」。それならいっそのこと、犬の先進国、欧米に行ってみようかと思うようになりました。アメリカに決めたのは、新婚旅行で2匹を伴って1カ月間、カリフォルニアを旅行したことが大きいですね。広いドッグビーチを思い切り走り回って楽しそうな姿に、こんな笑顔をずっと見ていたいと心から思いました。
 
 2年後に渡米し、最初はロサンゼルスにある犬の訓練学校に入学しました。ところが、日本の警察犬訓練所のようなやり方を目の当たりにし、自分の望んでいるものではないと、2日で辞めることに…。
 
 新婚旅行の時に知り合ったサンディエゴ在住の日本人女性に相談したところ、彼女が紹介してくれたのが、今も私の師であるアリータ・ダウナーでした。彼女には人柄からにじみ出る温かいオーラがあり、それでいて犬のトレーニングに関する鋭さ、冷静さが備わっています。飼い主を指導する姿も適切で、彼女のデモンストレート犬の完璧さには唸りましたね。
 
 アリータのドッグトレーナー養成プログラムは1年半。当時、私のビザは1年しか残っていなかったのですが、私の熱意が認められて、ギリギリ1年でやってみようということになりました。このプログラムは、アリータが行うドッグトレーニングクラスを、観察学習することがメイン。週1回以上あるミーティングで経営方法を含め、トレーニングに関するすべてを話し合っていきます。英語が苦手だった私は、アリータや他の研修生たちが話す英語を聞いて必死でメモを取って、家に戻って英語を調べ、もう1度勉強という毎日でした。
 
 研修生活3カ月目に大きな転機を迎えました。アリータがトレーニングセンターを開設することになり、運営スタッフが必要ということで、6人いた研修生の中から私を選んでくれたのです。「アメリカに残って一緒に働いてみない?」と誘われ、思いがけないチャンスに「やりたい!」と、その場で答えました。

犬を飼う喜びや楽しさを
もっと知ってほしい

 すぐにビザを切り替え、「Canine to Five」(www.sdk9to5.com)を立ち上げました。Canine to Fiveは、トレーニングセンターの一部門として、日本人向けに日本語で犬のトレーニングクラス、デイケアを提供しています。いきなり現場で実践を積むことになり、ますます生活は忙しくなりましたが、楽しい思いの方が強くて苦ではありませんでした。
 
 アメリカにも日本にも、ドッグトレーナーの国家資格はありません。経験を積んでいくのみです。ただ、経験は長さではなく、内容のある本物の経験を積むことが大事。「下積みが長い仕事ですか?」と、よく聞かれますが、一生勉強が続くので、そういう意味では今も下積みですね。私の場合は、幼稚園教諭として、子供の指導や保護者への接し方などで培ったものが、今、トレーナーとして、犬とそのオーナーと関わっていく上で役立っています。
 
 犬が好きなだけでは、ドッグトレーナーにはなれません。犬を犬という動物として受け入れることができ、擬人化しない、そういう人がこの仕事を心から楽しんで、続けていけると思います。うまく言えないのですが、動物的な感覚を持っている人というのでしょうか。
 
 この仕事をしていると必ず不安になったり、犬のことがわからなくなる時があります。そんな時は、犬の世界に入り、犬の感覚を、犬として感じるようにしています。必ず犬が答えをくれますから。犬とのコミュニケーションは、言葉にできない世界ですが、この感覚がとても好きです。
 
 犬同士のコミュニケーション、一瞬の行動で見せる美しさを、少しずつ写真に撮りためています。いつか短いエッセーにして、本にしたいですね。あとは、犬を飼っている人たちのトレーニング意識も高めたい。トレーニングは、号令で窮屈にするものではありません。トレーニングを通じて、犬を飼う喜び、楽しさを、もっともっと知ってほしいですね。
 
(2007年5月1日号掲載)

ギタリスト(その他専門職):石原 秀朗さん

メンバーのエネルギーが、
お客さんの反応とすべて一致して
融合したと感じられます

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はギタリストの石原秀朗さんを紹介。美大に進学後、ミュージシャンに転向。『Blue Man Group』のオーディションに合格し、同ショーでギタリストとして活躍する。

【プロフィール】いしはら・ひであき■東京都出身。14歳の時に渡米し、高校に入学。卒業後、Massachusetts College of Artに入学。写真を専攻するが、Studio for Interrelated Mediaに変えて卒業。ニューヨークに移住後、結婚。1999年に勤務先のスタジオで『Blue Man Group』のオーディションを受けて合格。2000年から、ラスベガスで同ショーのギタリストとして活躍。

そもそもアメリカで働くには?

ミュージシャンは
お金にならない

所属していたパンクバンド(98年頃)

 中学の時はまったく勉強しなくて、ロックばかり聴いていました。はっきり言って不良でしたね(笑)。そんな時、父の仕事の都合でアメリカ行きが決まり、マサチューセッツ州ケンブリッジの公立高校に入学しました。英語はロックの影響で好きだったので、少しは話せたんです。
 
 高校2年の時に、写真家になりたいと思って写真のクラスを取って、ボストンにある州立の美術大学に行くことにしました。写真を専攻していたのですが、在学中にやる気が失せてしまい、「Studio for Interrelated Media」という専攻に興味を持ちました。これは、生徒たちがそれぞれ興味のある分野で作品をコラボレートして行くというもの。私は「山海塾」のようなムーブメントアートに興味を持ちました。自分の身体を使ってパフォーマンスすることが好きだったんです。これがパフォーマンスに興味を持ったきっかけでした。『Blue Man Group』に入るきっかけでもあったかもしれません。
 
 中学からいつもバンドに入っていて、アメリカでもずっと続けていましたが、音楽を大学で学ぼうとは思いませんでした。父はミュージシャンでしたが、「ミュージシャンはお金にならないから、やらない方がいい」と言われてたから(笑)。

やはり自分は
好きな音楽をやりたい

奥様のジェニーさんと息子、ライデンちゃん

 卒業後は、写真屋で手焼きのプリンターを1年半ぐらいやっていました。ですが、後に妻となるジェニーが、ニューヨークに行きたいと言い出し、引っ越すことに。ニューヨークは仕事の競争率が高く、給料も安くて驚きました。とにかく生活しないといけないので、いろんな仕事をしましたね。
 
 ニューヨークでもバンドで音楽はやっていて、最終的に「自分のやりたくない仕事はやりたくない。やはり自分は好きな音楽をやりたい」。そう思い、とにかく音楽に携わる仕事を探したら、貸しスタジオで職が見つかりました。エレベーターを動かしたり、スタジオ清掃、予約受付、機材修理など、ありとあらゆることをしました。ラモーンズのジョーイ・ラモーンやパティー・スミス、イギーポップなどの有名アーティストがリハーサルに来ていて、会うことができました。正直、自分の好きな仕事だったから、お金はなくて大変だったけど、楽しかった。
 
 ある時、働いていた貸しスタジオでブルーマンがオーディションをしていて、自分も受けたいと、試しに受けてみました。カットソーで髪もスキンヘッド、サンダル履きで行ったら、雰囲気がかなり気に入られたみたいで、受かってしまいました。技術より演奏スタイルが気に入られたんだと思う。だって待合室には、自分より上手い人たちがたくさんいたから。
 
 早速、ラスベガスに移れるかと聞かれたのですが、結婚したばかりでジェニーは仕事もあったし、友達もみんなニューヨークだったから、説得するのは大変でした。結局、「このチャンスを逃したら2度目はないかも知れない、ちょっとだけ行ってみて嫌だったらニューヨークに帰ればいいじゃん」と説得しました。

キャラになり切る
それが楽しい

 ブルーマンでの最初の3カ月はリハーサルでした。ブルーマンのやり方というのは、その場で決めて行くことが多いんです。大体のアイデアはあるのだけど、細かいところは変えていく。今日のパートが明日には変わることも。譜面もなくて、自分の耳で覚えるか、紙に書くしかない。同じ場面、同じ曲でも弾き方が少し違ってきたりします。ブルーマンのスタイルというのは、紙には書いていないんですが確かにあって、そこからはみ出ないようにしながら、自由にやっています。
 
 2000年の立ち上げから7年、お客さんにアピールというか、ありがとうという気持ちを込めて、ずっと演奏してきました。自分にとってはいつものことでも、お客さんにとっては新鮮だから、自分を第3者の目で客観的に見ながらやらないと、新鮮さが出なくなります。
 
 ショーの最中はコスチュームを着ているから、自分かどうかはわからない。自分ではないブルーマンバンドのキャラクターになれる、それが楽しいですね。
 
 ブルーマンで演奏していて楽しい時は、いいショーができた時。そういうショーでは、10人のメンバーのエネルギーが、お客さんの反応とすべて一致して、融合したと感じられます。逆に、疲れている時もありますが、ジムなどに行ってトレーニングをしたりして、いつもフルパワーでショーをこなし、会場のムードを奮い立てられるように頑張っています。
 
 仕事が入っている時は、サウンドチェックとメークをする前に練習しています。家でも毎日ではないですが、練習しています。待望の子供が生まれて、今は僕の中では子育てがメイン(笑)。だから、ブルーマンが終わったらすぐに帰って育児。
 
 今後はテレビのコマーシャルやショーや映画の音楽などのプロダクションをやっていきたいです。だから機材を購入して、コンピューターでプロダクションの勉強をしています。育児が終わってからですから、朝の3時くらいに寝ていますね。
 
 ミュージシャンを目指している人に、僕がアドバイスできるのは、とにかくいろんな人とプレーすること。自分よりうまい人とプレーする。とにかく数をどんどんこなして、いろんな場所でプレーする。失敗にめげないで、オーディションにもどんどん参加する。どんな職業でも言えることだけど、自分が好きでやっているということを、忘れないでほしいですね。
 
(2007年4月16日号掲載)

パラリーガル(その他専門職):野々山浩代さん

お客様の文化を勉強しながら
それに沿えるような形で仕事をして行く

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はパラリーガルの野々山浩代さんを紹介しよう。大手法律事務所に入社後、職務をこなすうちに、パラリーガルの知識を身に付けた。現在は、コーポレート・パラリーガルとジャパンビジネスチームのマネージャーの2足のわらじを履く。

【プロフィール】ののやま・ひろよ■愛知県生まれ。関西外国語大学に在学中に交換留学し、メーン州コルビー大学にてスピーチ・コミュニケーションを専攻。卒業後、イリノイ大学大学院にて、比較言語学およびアジア学を専攻。1990年、国際法律事務所Baker & McKenzieでジャパンデスク担当。Pillsbury Winthrop法律事務所で8年の勤務を経て、現在、Reed Smith法律事務所勤務

そもそもアメリカで働くには?

仕事をこなしていたら
パラリーガルに

同僚のパラリーガルとも、頻繁に意見交換する

 イリノイ大学大学院で、アジア学と比較言語学を専攻しました。卒業後、日本語の教師をやっていたのですが、主人の仕事の関係で、カリフォルニアに引っ越して来ました。それが1990年でバブルがまだ弾ける前ですから、日本語を話せるというだけで、仕事を探す上で重宝されました。
 
 1番条件が良かったのがBaker & McKenzieという、大きな法律事務所でした。ジャパン・ビジネスプラクティスという、日本企業を担当する弁護士で作っているグループのコーディネーターとして入ったんですね。日本企業さんが来られて、案件をまずお聞きして、それぞれの分野の担当弁護士に、その案件を取り扱ってもらうという架け橋です。
 
 クライアントのための通訳や翻訳から始まって、そのうち弁護士と仕事をする機会がかなり増えました。それで弁護士の補佐をしているうちに、パラリーガルになってしまいました。ですから、私の場合、特に専門的なトレーニングは受けていません。実地で必要に応じて仕事をこなしているうちに、パラリーガルという肩書きをいただくようになったのですね。
 
 Baker & McKenzieでは4年間働き、Pillsbury Winthrop(当時)に8年間、それから現在のReed Smithに移って来ました。Reed Smithに弁護士は1500人くらいいるのですが、ここでも選抜された40名くらいの弁護士で、ジャパンビジネスチームを作っています。私はそのマネージャーもしています。

クライアントと
共に学ぶ毎日

パラリーガルは通常、大半の時間を
オフィス内での事務作業に費やす

 コーポレート・パラリーガルとして大変なのは、やはり言葉の問題ですね。日本の経営の仕方、あるいは日本のビジネスのやり方と、アメリカでのやり方というのは全然違います。だから、まずアメリカの会社の仕組みを日本語で説明しなければならないのですが、私は日本で働いた経験がありませんから、日本企業がどういう仕組みになっているか、知らなかったわけです。逆に日本のお客様から教えていただいて、こちらもアメリカのことを教えて、そういう具合に日本の法律も、アメリカの法律も、叩き上げで必要に応じて勉強してきました。
 
 私たちは国際法律事務所として、お客様の文化を勉強しながら、それに沿えるような形で仕事をしていくというのがモットーです。そこが大変ですし、やりがいのある所だと思います。だから、私がチームに入って、少しでもスムーズにその取引が進んだりすると、「ああ、私は無駄じゃなかったな」と、満足感を感じます。
 
 大きな弁護士事務所で、一見、私のような者の役割というのは、そんなに重要ではないと思っている方が多いと思います。でも実際に日本企業のクライアントと仕事していく上で、少しでも相互理解のギャップを埋めることができる人がいると、かなり仕事がスムーズに進みます。そのクライアントが継続して、うちの弁護士を雇ってくれるというメリットもあります。そういうメリットを理解してくれる事務所でないと、長続きしないと思います。

忍耐とユーモアが
必要な資質

 パラリーガルになろうと思ったら、パラリーガルスクールで資格を取るのが第1歩だと思います。資格がなければなれないということはありませんが、今、ほとんどの弁護士事務所は、資格を持たない人は採用していません。競争が激しいですから、やはり持っている人の方が優先されるでしょう。
 
 ただし、例えばUCLAのパラリーガルスクールを卒業してレジュメを出しても、すぐに大手弁護士事務所からオファーが来るということは、ほとんどないと思います。まずスクールに行って知識を得て、最初はパラリーガル・アシスタントとして、一生懸命に実地の知識を習得するのです。その上で日本語も英語もうまく書け、読め、話せるということであれば、パラリーガルとしての価値が2倍にも3倍にもなると思います。
 
 本来のパラリーガルの仕事だけをするのであれば、デスクワークなのでクライアントと会う必要もないし、本当に事務仕事です。紙とコンピューターと自分の、3人の闘い。それができる人でないと難しいですね。後は細かい所に注意が行き届く人が適職です。几帳面で、数字だとかをキチンと出せる人。
 
 ただし、そういう仕事だけならネイティブの方が、英語も不自由なく適役です。ですから、ネイティブのパラリーガルよりも自分ができることをドンドン見つけて、それをアピールしていく、それが1番良いと思います。
 
 私のような日本企業との架け橋となるパラリーガルで1番大切な資質は、我慢強さです。クライアント側と弁護士側の要望を、間に立って調整しなければなりません。ちょっとした事で悩んだり、怒ったりしてしまうと、仕事にならないんですね。また、ミスは誰でもするわけですから、ミスをしたら修正して謝る。ミスをした時にどういう風にフォローするかが、クライアントから信頼してもらえるか、もらえないかの分岐点ですから。そして、「これから頑張ろう」というガッツと忍耐、それから周りの雰囲気を和ませるユーモアのセンスがないと、やって行けない仕事だと思います。
 
(2007年3月16日号掲載)

リアルター(その他専門職):清田晴美さん

問題が起きた時にどう対処するかで、
自分への評価が変わってくる

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はリアルターの清田晴美さんを紹介しよう。アメリカでは家を持つことが当然の話という現実と、自分のために尽力してくれたエージェントに感銘を受け、自らもリアルターに。思ったことは即実行で、年間30軒以上の不動産売買を取り扱う。

【プロフィール】きよた・はるみ■熊本生まれ。22歳の時、デンバーに渡る。自宅を購入し、不動産売買に興味を持つ。97年にカリフォルニアに移り、不動産エージェントのライセンスを取得。トーランスのセンチュリー21オフィスに入社。同社で最高のセンチュリオンを5年連続受賞。近年は、他州、海外の投資物件などにも活動範囲を広げて活躍中。

そもそもアメリカで働くには?

「夢の持ち家」が
当たり前という現実

他州への投資物件視察ツアーも精力的に行っ
ている(ハワイ物件視察ツアーの模様)

 叔母がコロラドに住んでいて、彼女のレストランを手伝いに来たんですね。でも1年くらいで私が手伝っていた支店を閉めようということになって。じゃあ、自分で開けちゃおうと、レストランを始めたんです。その後に本屋やコンビニも買いました。
 
 ある日、現在も私の師匠であるセンチュリー21の方が、うちの店に来て、「あなた、毎月千ドルくらい払える?」「じゃあ、家、買おうよ」って軽いノリで言われました。貧乏な家に育ったので、家を買うっていうのが夢だったんです。今まで夢だったことが、アメリカでは全然夢ではなく、当たり前だと言われました。クレジットはない、現金もない、履歴もないっていう状況でもエージェントさんがトライしてくれた、そして不動産知識を全然知らない私にいろいろ教えてくれた。それで自分自身、すごく不動産売買に興味がわきました。
 
 子供にしっかりした日本語の教育を受けさせたくて、日本人の多いカリフォルニアに移るのをきっかけに、興味のある不動産関係の仕事に就こうと思いました。カリフォルニア州のリアルターのライセンスについて調べたら、通信教育でもクラスが取れ、クラス修了後に模擬試験に受かれば、州試験を受ける資格がもらえることがわかりました。早い人で3カ月くらいで修了できるのですが、私は英語が得意ではなかったので、専門用語を覚えるのに時間がかかり、1年くらいじっくりかけてやりました。
 
 カリフォルニアに移ってすぐに、不動産エージェントの試験を受験しました。リアルターのライセンスは、エージェントとブローカーがあって、エージェント資格だけだとブローカーの下でないと働けません。エージェントで2年以上経験を積むとブローカーのライセンス受験ができ、ブローカーになれば独立できます。また、エージェントになっても4年に1回更新があるので、勉強が必要です。

1日300軒
ノックして回った

10年間ずっと所属しているセンチュリー21
のオフィスにて

 私の師匠がセンチュリー21だったので、最初からそこしか考えていなくて、あとは日本とのやりとりができるブローカーが良かった。だからオフィスに出向いて、働かせてくださいって、1件目で決めてしまいました。
 
 新人エージェントは、オープンハウスのやり方や顧客との接し方、言葉遣い・服装や顧客の見つけ方などを、毎日勉強します。また、私は土地勘がまったくなかったので、毎日20、30件は物件を見に行っていました。お客様にとっては新人だろうがベテランだろうが、払う金額は同じ。新人だからわかりませんとは、言いたくないし、言っちゃいけないと思っていました。だからとにかく物件を見て、3カ月後には不動産エージェントがダメでも、タクシードライバーにはなれるというくらい、地理に精通していましたね。
 
 最初のうちは、「Cold Call」、つまり直接お客様に売り込みの電話をかけたり、1軒ずつ家をノックして回って資料を渡したりというようなことを、地道に続けました。毎日歩いていると、郵便屋さんと会うんですよね。「1日何軒回っているの?」って聞いたら、300って言われ、負けられないと思って毎日300軒は回りました。Cold Callも300件くらいは毎日かけて、目が疲れて、リストで今かけた人にまたかけて怒られたりとか、結構ありました(苦笑)。こんなに手間暇かけていたから、最初の頃は、時給1ドルくらいかなとか思いました。

80%のビジネスを
20%が動かす世界

 少しずつ売れてはいましたが、やはりそれでは子供も育てていけない。で、1番になりたかったから、アメリカで1番の人は何をしているか調べました。そうしたら北米ナンバー1のエージェントは1年間に700軒以上売っている。とりあえず真似してみようと、彼のクラスを教材で勉強しました。
 
 軌道に乗ったのは1年後くらいでしょうか。2年目にはセンチュリー21でルビーという賞をもらって、3年目には120人のオフィスの中で1番になって、センチュリオンっていう1番上の賞を5年連続でいただきました。今年で10年目ですが、1年で30軒以上売買しています。やはり家が好きだから、「こんな家、買えたらいいな」とか思って、お客様と回っています。なので、物件を気に入ってもらえたり、「買って良かった」と言われるのは、本当にうれしいことですね。
 
 実は年に1、2軒しか売れないのがリアルターの平均らしいです。80%のビジネスを20%のエージェントが動かしている。20%のシェアを80%のリアルターが分け合っているから、勝ち組、負け組が1年くらいで分かれますね。うちのオフィスも、新人が1年後に残っている確率は20%くらいですね。
 
 株のように世界中の物件を買ったり、投資できたりする時代が来ると、私は思っています。それで6年位前に、CIPS(Certified International Property Specialist)を取って、世界中のエージェントとつながりを持つようになりました。とにかく、思いついたら何でもチャレンジですね。そこで問題が起きても、”Don’t say problem, another chance.”って思う。絶対クリアできるし、その時にどう対処するかで、自分への評価が変わってくると思います。
 
(2007年3月1日号掲載)

パティシエ(その他専門職):原瀬富久さん

自信を持って一生懸命にやっていれば、
ビジネスは後からついてくる。

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はパティシエの原瀬富久さんをご紹介。高校生で始めたアルバイトがきっかけでシェフの道へ。フランス料理の本場・パリで修業を積んだ後、渡米。有名レストランで腕を振るい、現在はコスタメサに開いた自身の店から、スウィーツを提供している。

【プロフィール】はらせ・とみひさ■岐阜県出身。1957年生まれ。赤坂のフレンチレストランで4年修業後、単身渡仏。グラン・ヴェフールで4年修業を積む。84年に渡米し、スパゴ、シノワ・オン・メインを経て、89年秋に独立。その後ビバリーヒルズに移って11年営業した後、2005年にコスタメサにスウィーツ専門店カフェ・ブランをオープンした。

そもそもアメリカで働くには?

人生を変えたバイト
夢のパリ修業も実現

場所柄アメリカ人の客も多く訪れる。
イートインも可能でコーヒーも好評

 高校1年の時、洋食屋さんでアルバイトを始めたのですが、初日に人生を変える出来事がありました。まかないの夕食が出たのです。「お金も稼げて、美味しいご飯も食べられるなんて、こんなうれしいことはない」と感動したのです。最初は皿洗いだけでしたが、1年で包丁を握らせてもらえるように。以来、料理の道で生きようと決めていましたが、周りには言っていませんでした。高校卒業後に一旦、地元の企業に就職しましたが、レストランに移りました。
 フランス料理を極めるためには東京に行くしかないと思いましたが、身寄りはないため、本に紹介されていたレストラン30軒に手紙を書きました。返事が来たのは1軒のみ。しかも「最初は給仕からだが、それでもよければ」というもの。しかし、1年後には調理場に入り、4年目には火元を任されるソーシエにまでなりました。
 4年間お世話になった店を離れることになった理由は、シェフにパリ行きをすすめられたからです。パリなんて夢のまた夢でしたが、シェフは留学資金用にと、私の給料のうち3万円をこっそり積み立ててくれていた上に、往復の飛行機代も出してくれました。
 パリでは300年もの歴史を持つ三ツ星レストラン「グラン・ヴェフール」の屋根裏部屋に住み、修業を積みました。毎日、朝の5時半からマルシェ(市場)で買い出し。マルシェに並ぶたくさんの食材を眺めて、それがどんな料理になるか考えるのが楽しくてたまらなかったのです。勤務は夜の12時まで。店が休みとなる夏の2カ月間は、自分で探したニースやプロバンスのレストランで働きました。
 4年後、日本に帰国し、銀座のレカンで勤務。パリ帰りということでいいポジションをもらえましたが、「六本木のスパゴが、カリフォルニアで働く日本人シェフを探している」と聞いて、真っ先に手を挙げました。

運命の出会いから
一躍人気店へ

初めてオーナーシェフとなってシルバーレイク
で開いた店の前で

 ロサンゼルスに来たのは1984年。最初は「スパゴ」で働き始め、ラインシェフを任されました。7カ月後に「シノワ・オン・メイン」へ。「30前には自分の店を持ちたい」という夢を実現するため、3年ほど働いて独立に踏み切りました。実際には30歳を過ぎていましたが、貯金もでき、いい場所が見つかったなど、好条件が揃ったからです。
 店の名前は最初から「カフェ・ブラン」です。白いカフェという意味のこの言葉には、たとえ予約帳が真っ白でもやっていこう、色の基本である白を自分色に染めようと2つの意味を込めています。
 シルバーレイクに開店したのですが、肝心のお客さんはさっぱり。ある日の午後、店の扉をノックするアメリカ人女性がいました。ランチ終了後だったので、あるもので作って出しました。満足して代金を払おうとする彼女に「ランチメニューではないから」と断りました。後日、彼女は夫と友人の4人でディナーを食べに来てくれました。
 ある日の11時頃、外で大勢の人が騒いでいます。「何だろう」と思っていると、店の開店時間の11時半になるや否や、その群集が店内になだれこんできました。30席しかない店内はあっという間にいっぱいになり、全員をさばき切ったのは午後4時半でした。その日のロサンゼルス・タイムズ紙とヘラルド・エグザミナー紙のレストランコラムで、店が紹介されていたらしいのです。新聞の紹介記事の執筆者は、ディナーに来てくれたあの彼女のご主人と友人の1人でした。
 それ以来、客足が途絶えることのなかったお店ですが、残念ながらリース更新ができず、店を閉めざるを得ませんでした。次にビバリーヒルズに開いた店は「ヌーボーカフェブラン」。後に「カフェ・ブラン」という名前に戻して、その地で11年営業しましたが、こちらもリース更新ができず、閉店しました。

フランス料理の基本
スウィーツ専門店を開店

 最初、オレンジ・カウンティーで店を開けようとは考えていませんでしたが、「ケーキ屋ならある」と紹介されたのが現在の「カフェ・ブラン」の場所です。実はフランス料理は、計量、温度、手順と必要な要素が含まれているお菓子作りから入ります。基本に戻って自分を見直すいい機会だと、スウィーツ専門店をやってみようと決意しました。今年の9月に1周年を迎え、私自身来年50の大台に乗るのですが、いつも「いろんな人に助けられて生きているな」と実感します。
 シェフやパティシエに大切なことは、何はともあれ健康であることです。そして調理以外のことにも興味を持つこと。そこで得たアイデアが、思いがけないところで役立つのです。私自身は美術館や博物館に通って、見聞を広めました。修業をしてみたいレストランがあるなら、レジュメを出すより、毎日でも通って強い意思と熱意を相手にわかってもらうことが大切でしょう。そして「自分の店を持ちたい」という目標があるならば、自分に自信をつけることが大切です。自信を持って一生懸命にやっていれば、ビジネスは後からついてきます。いずれ、このオレンジ・カウンティーで、レストランをやりたいですね。
 
(2006年11月16日号掲載)

バレエインストラクター(その他専門職):西野多恵子さん

バレエはビジュアル、才能の世界だが、
日本人も努力を重ねていけば認められる。

アメリカで働く日本人の中から、今回はバレエインストラクターの西野多恵子さんを紹介しよう。6歳でバレエを始め、プロとして活躍後、20歳で渡米。1度はバレリーナの道を諦めるが、縁あってバレエ学校のインストラクターに。この秋には地元のバレエ団を結成するまでになり、後進の育成に情熱を注ぐ。

【プロフィール】にしの・たえこ■大分県出身。6歳からバレエを始める。プロとして活躍後、86年に渡米、シアトルのバレエ学校に入る。96年にチュラビスタに転居。98年、Neisha’s Dance Academy(NDA)のインストラクターに。2006年9月、チュラビスタ・バレエ芸術監督に就任。全国バレエコンクール、ジャパン・グランプリ芸術監督補佐として日本でも活躍。

そもそもアメリカで働くには?

自由な環境で
学びたくて渡米

華やかなグラン・パ・ド・ドゥ(男女2人で
の舞踊の1つ)。ドン・キホーテ第3幕より

 6歳でバレエを始めました。高校を卒業するまで、別府の実家から先生のスタジオのある東京の中野区まで、1カ月に1回は飛行機でクラスに通っていました。当時日本のバレエ界は、1人の先生につくと他の教室に移りにくいなど、しがらみが多かったのですが、アメリカではそういったことはありません。もっと自由な環境でやってみたいと思い、20歳の時に渡米しました。その頃はすでに日本バレエ協会の公演にプロとして出演しており、アメリカでもっと演技を磨こうと思いました。
 
 最初はシアトルのパシフィック・ノースウエストバレエという大きな学校に入りました。アメリカに来て、やはりショックを受けましたね。まず、体形が全然違う。顔立ちも骨格も違います。特に骨格はバレエにとって非常に重要ですから、日本人の自分がいくらがんばってもだめかもしれないと落ち込みました。その後、ジャズダンスなどもやってみましたが、結婚して子供ができたことを機に、バレエをお休みしました。日本では、学校が終わってから夜寝るまで毎日レッスン。バレエ漬けの人生でしたので、1度バレエから遠ざかってみたかったんです。その後、主人の仕事の関係でサンディエゴに移って来ました。
 
 ある時、近所の友達がバレエ学校に見学に行くというので、私も気軽に足を運んでみると、本格的にバレエを教えておられる先生がいて。こんなところに、プロの指導者がいるんだと感激しました。簡単なクラスから上級へと進み、通う回数も増え、1年で舞台に立つまでに復帰しました。舞台での主役も何度か務めた頃、「そろそろ指導の方に入っては」とオーナーに言われて。そこで初めて「教える」という仕事に就きました。

進化し続けるバレエ
教える側も常に勉強

海賊のグラン・パ・ド・ドゥ。
ボリショイ・バレエのダンサーと

 私の学校(NDA)では、8段階のレベルに分かれており、私はトップの3レベルを担当しています。上級レベルでは、プロのダンサーになりたいという目的意識を持った生徒がほとんどです。
 
 気をつけているのは、自分が教わってきたことだけを普遍的に教えるのではだめということ。生徒1人1人に個性があります。全員に同じことを同じように教えていたのでは、生徒はついて来ません。自分も常に勉強しています。バレエの世界も進化しています。例えば、20年前に世界的なプリマバレリーナだけが披露できた技は、今や普通にこなせるダンサーはいくらでもいます。全体的にレベルが上がっているんです。もちろん、クラシックの伝統や振り付けは自分で崩したり、簡単にしたりしません。
 
 この9月に、チュラビスタ・バレエというバレエ団を結成しました。コミュニティー内でバレエを広めていくことが目的です。このチュラビスタはサンディエゴ郡では2番目の都市ですが、芸術が浸透していません。そこで、「自分が作ろう」と。NDAのオーナーに、「すべて任せるから、やってみたら」と後押しされ、決意しました。実は2年くらい前から、私が監督となって試験的に団の運営を経験していたので自信はありました。

地元からバレエの魅力を
発信していきたい

 アメリカのバレエ団は、年に1回オープンオーディションを行います。大きなバレエ団は全米の主な都市を回り優秀なダンサーを選びます。オーディション通過者はシーズン契約で、1年だけの契約が更新される形になっています。また、それぞれの技量によって、ランク付けされます。小さなバレエ団では、楽な生活ができるような賃金はもらえません。アメリカン・バレエシアターのような超一流のカンパニーでも、新人で群舞の役では厳しいというのが現状です。
 
 アメリカでもバレエのステータスはあると思うのですが、女の子の習い事という程度の認識が主流でしょう。ここでは私が日本で受けたような、鍛錬を強いる厳格なレッスン方は受け入れられません。しかし、アメリカは恵まれています。広いスタジオで練習できますし、月謝や発表会出演料も日本のように高くない。最初のハードルが低いですね。日本では小さいうちに叩き込みますから、11、12歳でプロ級のテクニックを持った生徒がたくさんいますが、こちらでは逆に高校生くらいで急に上達する人が多いというのも特徴です。
 
 バレエは才能の世界です。ビジュアルの世界ですから、まずバレエに適した体型が重要です。しかし、多くの日本人が国際コンクールで受賞しているのは、訓練を積むことによってハンデを克服しているから。日本人特有の努力の成せる業です。アメリカでバレリーナを目指している日本の方にとって、難関はビザです。メジャーなコンクールで入賞し、有名なバレエ団や学校から招待されれば、ビザもサポートしてもらえます。また、小さいバレエ団に見習いで入団し、数カ月滞在して日本に帰り、またやって来るという方も大勢います。
 
 私自身、サンディエゴでバレエと再会して幸運でした。今後は、チュラビスタ・バレエ団を大きくしたいですね。生徒を育て、新しい生徒も増やしたい。公演を定期的に開き、日本との交換留学生プログラムを始める計画もあります。多くの方にアメリカでバレエを学んでいただく機会が増えればと思っています。
 
(2006年11月1日号掲載)

インテリアデザイナー(その他専門職):吉岡 琢(たくみ)さん

ロサンゼルスは何でもありで、隙だらけの都市。
だから新しいことを生み出す機運が強い。

アメリカで働く日本人の中から、今回はインテリアデザイナーの吉岡琢さんを紹介しよう。日本で建築デザイナーのキャリアを積んでいたが、自分のスタイルを見つけたいと32歳で渡米。数々の経験を積んだ後、4年前に独立。現在では、レストランや店舗などを数多く手がけている。

【プロフィール】よしおか・たくみ■1966年生まれ。石川県出身。中央大学理工学部精密機械工学科中退。桑沢デザインスクール卒業後、91年横河設計工房入社。越賀一級建築士事務所を経て、97年フリーに。98年に渡米。Warner architecture + design、日系ゼネコンを経て、2002年Studio Zing設立。www.studiozing.com アメリカ・インテリアデザイナー協会(ASID)会員

そもそもアメリカで働くには?

自分のスタイルを
見つけるために渡米

日本で手がけたレストラン。非日常的な世界
を創り出すのが楽しいという

 大学では理工学部で精密機械工学を勉強していましたが、もともとデザインに興味があったので、デザインの専門学校に通い直しました。勉強するうちに建築デザインに興味を持ち、設計事務所に就職。そこは特にインテリアに力を注いでいる事務所で、ここで本当に建築の面白さに目覚め、ぜひ自分の手で設計してみたいと思いました。ところが新米ということで、なかなかやりたい仕事ができません。
 
 もっと経験を積みたい、早く一人前になりたいと思って、小さな建築事務所に移りました。そこでは、すべて任され、住宅や店舗などを一から立ち上げました。若かったので無我夢中でしたね。その後フリーランスになり、先輩の建築事務所で、商業系の室内デザインと建築を担当しました。手がけたのは主にレストラン。商店建築の業界誌に何度か作品が掲載され、それが自信につながりました。
 
 ですが、いよいよ自分の事務所を開けようかという時期が来て、ふと自分の将来を考えました。デザイナーという職業は、死ぬまで続けるものです。このまま普通のプロセスをたどって他と同じようなスタイルのデザイナーとしてやっていくことに、疑問を感じたのです。違う文化やスタイルに触れて仕事をすると、独自のデザインスタイルが見つけられる可能性があるのではないかと考えました。回り道だとわかっていても、それがデザイナーとして後悔しない人生だと思ったのです。
 
 それで98年に渡米し、語学学校に通いながら、インターンとして米系の建築事務所で働くというプログラムに参加しました。最初は当然、言葉のハンデがありましたが、デザイナーとしての知識はあるので、それほど大変ではありませんでした。戸惑ったのは、メートルとフィートやインチの測量尺度の違いですね。
 
 最初は1年ほどで帰国する予定でしたが、まだまだ中途半端だったし、やり残したことだらけで、もう少し働いてみようと思い、片っ端からレジュメを送ったら何社かから返事がありました。そのうちの1つがサンディエゴの事務所です。就職活動の段階でポートフォリオに手紙をつけて、ビザサポートをしてほしい旨を予め伝えておきましたが、米系のオフィスでビザの知識は皆無だったので、手続きには苦労しました。

4年前に独立し
今がスタート地点

オープンしたてのウェディングサロン
「LA SOIE」。今後10店舗もすべて手がける

 アメリカの事務所は、日本と比べてはるかに働きやすいですね。日本では夜11時や12時まで仕事をするのはざらでしたが、アメリカでは6時が来るときっちり終わります。当然、そうでない時もありますが、それでも日本よりは、はるかに楽です。一方、日本よりも分業が進んでいるので、効率良く仕事ができます。
 
 仕事はしやすかったのですが、やはり言葉のハンデがあって、コミュニケーションが重要なプロジェクトマネージャーまでは、なかなかさせてもらえません。そこで、振り出しに戻るつもりで、日本人の多いロサンゼルスに移り、日系のゼネコンに転職。設計からコンストラクションマネジメントまで、何でも手がけることができました。独立してもやっていけると手応えを感じ、自分のオフィスを立ち上げたのが4年前のことです。
 
 独立したものの、強力なコネがあったわけでも、アメリカの大学を出ているわけでもないので、最初の数年は手探りの状態でした。最近ウェディングサロンのデザインを手がけたのですが、そこのアメリカ人のオーナーがとても気に入ってくれて、今後10店舗のデザインを含む、全米展開のプロデュースも任せてもらうことになりました。ようやくアメリカと日本の文化の違いを理解し始め、そこから新たなデザインスタイルを生み出せそうです。本当にデザイナーとしてのスタート地点に立った気持ちです。
 
 将来的にやりたいことはたくさんありますね。私はレストランを手がけたことが多いのですが、レストランの設計が楽しいのは、エンターテインメント性が強い世界だからです。ホテルはその極みにあると思うので、いつかはWホテルのようなデザインをぜひやってみたいですね。

日本の本質を知った上で
渡米すると世界が広がる

 ロサンゼルスという街は、慣れるとこれほど面白い街はないと思います。何でもありで、隙だらけの都市ですね。だから何でも受け入れられやすく、新しいことを生み出そうという機運が強い。たくさんの建築の新しい流れがロサンゼルスから出ていますし、建築の世界では今、お金が世界中からロサンゼルスに流れ込んできているような気がします。ダウンタウンを中心に、今後何年間かで世界で最も面白い都市になるのではないでしょうか。
 
 アメリカでインテリアデザイナーを目指す人には、まず日本である程度仕事をすることをおすすめします。日本の建築の本質は、日本できちんと働かないとわかりません。日本のデザインとの差異を肌で感じることが、デザインの幅を広げ、アカデミズムに頼らない独自性を生み出せます。それを知った上でアメリカに来ると、世界がより広がるのは確かです。だから、常に自身の根底にある日本の文化の本質とは何かを考えつつ、情熱と好奇心を失わずに、いろいろなことにチャレンジしてほしいですね。
 
(2006年10月16日号掲載)

映画バイヤー(その他専門職):附田斉子(つけだ なおこ)さん

顔と顔を突き合せるヒューマンタッチを
大切にしてこそ、いいビジネスができる。

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は映画バイヤーの附田斉子さんをご紹介。ポニーキャニオンのロサンゼルス駐在員として渡米、現在は、映画バイヤーとして世界中の映画祭や見本市を飛び回る傍ら、映画祭の海外アドバイザーや映像コンサルタントも務める多忙な日々を送っている。

【プロフィール】つけだ・なおこ■1960年生まれ、北海道出身。留学を経て北海道大学法学部卒業。91年西友入社、シネセゾンに勤務。NYU大学院で映像学修士号取得。96年にポニーキャニオンに転職、2001年より駐在員として映像・映画の買い付け業務に従事。ロッテルダム映画祭シネマート海外アドバイザー、映像コンサルタント会社Elephant Blue Entertainment Inc.代表。

そもそもアメリカで働くには?

海外志望が導いた
映画バイヤーへの道

『The Island Tales』主演の大沢たかおさんと
ベルリン映画祭で

 日本の大学では、外交官を目指して法学を専攻、1年休学して留学したニューヨーク州立大学(SUNY)では女性学を学びました。卒業後は新聞社への就職を希望しましたが、当時は男女雇用機会均等法施行前で、女性の採用がない企業ばかり。そんななか、女性の生涯教育のカルチャーセンターや文化活動が充実したセゾングループに就職。一方で、海外と日本をつなぐような仕事をしたい、という気持ちが常にありました。
 
 1985年に子会社の映画配給会社のシネセゾンに配属となり、洋画の買い付けと宣伝の仕事に就きました。会社の海外研修制度で、ニューヨーク大学大学院の映画研究学科に留学し、修士号を取得できたのはラッキーでしたね。
 
 その後1年間NHKに出向し、サンダンス・NHK国際映像作家賞の立ち上げにも携わることができました。96年にポニーキャニオンが洋画の買い付け事業を拡大するということで転職。買い付けや配給業務のほか、海外との共同製作のプロデューサーとして、エドワード・ヤン監督の『A One & A Two』(2000年カンヌ映画祭監督賞)やスタンリー・クワン監督の『The Island Tales』(同年ベルリン映画祭コンペ部門)を製作する機会にも恵まれました。その一方で、「海外駐在をしたい」と言い続けたことが実り、LAオフィスを再開する話が持ち上がった時も白羽の矢を立てていただきました。
 
 こうして01年にポニーキャニオンの駐在員として渡米しました。文化科学庁の芸術奨学金制度も受けていたので、夜間はUCLAエクステンションの映画コースに通いました。ここでアメリカの映画教育を目の当たりにできたこと、ネットワークが広げられたことは財産ですね。
 
 気づけば、夢にも思っていなかった映画の仕事に偶然携わるようになって20年以上。振り返ると、すべてつながっているような気がします。法学の知識が、映画の買い付けで頻繁に交わされる契約書を読む際に役立ち、SUNYで「映画にみる女性学」というクラスを受講したことにより、映画の新しい一面に興味を持ちました。

女性の地位も向上
競争相手だけど連帯意識

映画の世界で働く魅力を伝える附田さんの著書 

 映画バイヤーとしては、映画やビデオの買い付け・配給業務のため、海外の映画祭や見本市に足を運びます。サンダンスから始まり、ロッテルダム、ベルリン、カンヌ、ベニス、トロント、アメリカン・フィルム・マーケットといった具合です。映画祭では、朝から晩まで試写やセールスエージェントやプロデューサーとの打ち合わせをギッシリこなした後、日本とのやり取りなどをするため、平均睡眠時間は4時間。まさに体力と精神力の勝負です。日常の業務は、膨大に送られてくるテープを観て、台本を読み、パートナー探しなどを行うことがメインとなります。
 
 買い付けの際に大切なのは、海外と日本のマーケットの違いを知ること。米国の映画関係者はよく「日本のマーケットが1番売りづらい」と言います。流行の移り変わりが激しいにもかかわらず、興行収入面ではアメリカの次に大きいので失敗が許されないからです。
 
 最近では女性のバイヤーが増えてきました。日本ではヒットの行方を握っているのが女性なため、女性バイヤーの感覚が必要とされるからだと思います。日本では、映画公開初日に観客の6割以上が女性でないと、「口コミ効果が期待できない!」とスタッフ一同あせったりします(笑)。
 
 また、海外のセラーやプロデューサーにも女性が増えてきました。皆、ビジネスの場では競争相手ですが、お互い苦労してきた経緯があるので、連帯感やサポート意識が強く、横のつながりがあるんです。

映画は総合芸術
幅広い興味と趣味を

 映画バイヤーを目指すためには、英語をしっかり学ぶことが第一歩です。交渉の場面はもちろん、台本や契約書を読むにも、基本的な英語の能力が必要とされるからです。日本のマーケットに敏感であることが重要ですね。また、在米とはいえ、仕事をする相手は日本の会社ですから、日本の企業体質やビジネスマナーなどは知っておいた方がいいでしょう。
 
 大切なのは、台本を読み込み、ビジュアル化する能力。最近では映画が完成する前に台本やキャスト、監督の名前などで映画を買い付けることが多くなってきました。そのためには、幅広い興味と趣味を持っていることが大切だと思います。映画は総合芸術ですから、どんなソースからも広がっていくものです。
 
 そして、人の話をしっかり聞いた上で自分の主張ができるコミュニケーション能力を持った人。今はインターネットであらゆる情報が得られる時代ですが、顔と顔を突き合せるヒューマンタッチを大切にしてこそ、いいビジネスができると思います。映画も結局は人から買うものですから。キャラクターやチャームを活かしてあの手この手で交渉し、「この人に預ければ映画も幸せよね」と思わせられたら成功です。後は、体力と精神力とフットワーク。これは欠かせませんね。著書『映画の仕事はやめられない!』(岩波ジュニア文庫)にも書いていますので、参考にしてください。
 
(2006年10月1日号掲載)

フライトインストラクター(その他専門職):長岡洋昭さん

飛行機乗りは、みんなええカッコしい
でも、それは大切なモチベーションなんです

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はフライトインストラクターの長岡洋昭さんをご紹介。日本での就職を袖にして航空留学し、インストラクター免許を取得。日本人インストラクターがレッスンを行うフライトスクールを、今年1月にサンディエゴで設立。大空への憧れを現実にするための手助けをしている。

【プロフィール】ながおか・ひろあき■東京都出身。1967年生まれ。90年に東海大学法学部を卒業。同年10月に渡米。語学留学を経て、フライトスクールに入学。プライベートパイロット免許を取得後、計器飛行証明、コマーシャルパイロット免許を取得し、インストラクターに。97年にサンディエゴに移り、今年にフライトスクール・Sky Gate Aviation, Inc.を設立。

そもそもアメリカで働くには?

苦手な英語は
飛行機の専門書で勉強

モンゴメリーフィールド・エアポートに
駐機してある愛機内にて

 アメリカに来たのは1990年10月。同年3月に東海大学法学部を卒業し、内定もいただいていましたが、父がJALのパイロットで、子供の頃から飛行機の写真が身の回りにあり、「やっぱり自分も飛行機、やってみようかな」という漠然とした軽い気持ちが、渡米のきっかけです。
 
 サンノゼにあるパイロットの養成学校に通い始め、プライベートパイロット、日本では自家用免許と呼ばれていますが、それをまず取得することにしました。でも僕は、買い物に行くのも躊躇するぐらい英語が苦手。ただ、専門書を読まないと飛行機の勉強ができません。飛行機が好きだったので、英語の勉強は専門書でしました。
 
 インストラクターの言うことも、最初は全然わからなかったです。でも、航空無線などはアメリカ人でも最初はわからないんです。僕は航空無線の受信機を買って、滑走路の横に1日中座っていました。実際に目前を飛行機が通って行って、受信機から話していることが聞こえます。そうすると、どういう指示で、飛行機がどういう動きを取ったかがわかってくるのです。実際に飛行機に乗って勉強すると、お金がかかりますが、これならタダです。また、学科試験はすべて問題集の中から出題されます。だからちゃんと勉強していれば、まず落ちることはありません。

開かれた米航空業界
飛行経験を積めばプロに

空から下界を眺めれば、ストレスも癒される

 飛行機の免許には、プライベートの次にコマーシャルパイロット(事業用免許)があり、それに加えて計器飛行証明があります。それらの免許を取得すると、今度はインストラクターの受験資格がもらえます。そのテストに受かれば、インストラクターになれます。
 
 その中で1番難しかったのは計器飛行証明。普通、飛行機は、有視界で外を見ながら飛ぶんですが、計器飛行は計器だけを見て、後は管制官と通信しながら外を見ないで飛びます。天気が悪い時、雲中を飛ぶことを想定しているんですが、外の景色を見るのが楽しくて乗っているのに、外が見れないとは何事ぞという感じでした。
 
 また、インストラクターの試験では、試験官が生徒に扮します。空に行くと試験官が、普通そんなことやらないだろうというような、無茶苦茶なことをやるわけです。それを感情的にならないで、適切に安全に正してやることができるかが課題になります。
 
 インストラクターになりたくて免許を取る人だけでなく、プロのパイロットになりたい人も、インストラクターを経ていきます。プロになるには、何千時間という飛行経験が必要なので、自分でお金を払って飛んでいたらとんでもない。だから、インストラクターになって教えながら飛行経験を積んでプロになる人が多いんですね。
 
 日本には、実はそういう道がないんです。アメリカは航空業界が結構開かれていて、そうやって地道にインストラクターを経て、よじ登っていくルートがあるんですよね。日本は「アメリカで免許を取ってきてください。戻って来たら、あとは会社で教えます」という世界みたいです。

嫌なことがあっても
空に上がれば忘れられる

 実は、僕もアメリカンやユナイテッドに入って飛びたいと思っていましたが、最悪な時期には生徒が1人もいなくて、1カ月の給料が600ドルだったことも。当時はアメリカで免許を取ってきた人が、日本に帰ってパイロットになれる環境ではなかったので、日本に帰ってもプロになれない。ある時、昔の生徒に連絡を取ってみたら、1人目の生徒は全日空のパイロットになっていました。「僕の生徒が全日空のパイロット!」と驚いていたら、他の生徒も全日空系列のパイロットでした。2007年問題が日本の航空業界にもやはり響いていまして、団塊の世代のベテランパイロットたちが一斉に退職します。ですから、今年から来年にかけて、パイロットがものすごく不足するんです。
 
 自分の手でラインパイロットを育てるのも楽しいかもしれないと思い、97年にサンディエゴに移って、今年の1月11日にSky Gate Aviation, Inc.を立ち上げました。フライトスクールを立ち上げたいと、前からずっと思っていたんです。昔の教え子がプロになっていたこと、さらに「スクールを始める」と言ったら「協力するよ」と言ってくれたことが、きっかけになりました。
 
 上から下界を見ると、すべてが細かいんですよ。ちっちゃいクルマがうごめいていたり。だから、何か嫌なことがあっても、空に上がっちゃうとちっぽけなことに思えます。渋滞もありませんから、空港から離れて無線を切るとすごく静かになります。それで、ぼーっと飛んでいるとストレス解消になります。それが面白くて、ずっと飛び続けてきたんでしょうね。
 
 今後はヘリコプターも導入して、実現するかどうかわからないですが、5年以内に小型ジェットを入れたいですね。飛行機乗りは、みんなええカッコしいですから(笑)。でも、それは大切なモチベーションなんですよ。パイロットと言えばカッコいいとか、スチュワーデスにモテそうとか。動機はともかく、諦めないでとことん追求していけば、夢はいつか叶うはずです。
 
(2006年9月16日号掲載)

フローラルデザイナー(その他専門職):中村 猛さん

商品は花でも本当に売っているのは信用
だから絶対にお客様の信頼を裏切れない

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はフローラルデザイナーの中村猛さんを紹介しよう。花屋に生まれ、幼い頃から花に囲まれて生活していた中村さんは、デザインの勉強を追究するために渡米。その後、メルローズに出店するが、新鮮な花を低価格で提供するため、注文制度を確立した。

【プロフィール】なかむら・たけし■神奈川県出身。1963 年生まれ。82 年に高校を卒業後、東京フラワーデザインスクールに通いながら、東京や横浜で修業を積む。その後、アメリカやオランダで学んだ後、90 年、メルローズに生花店をオープン。97 年にトーランスに移り、注文を受けてから仕入れるシステムの「アンジェラック」を設立。フローラルデザインクラスも行っている。

そもそもアメリカで働くには?

生まれた時から花に囲まれた生活

昨年のジャパンエクスポでは、
ブライダルブーケ作成の実演を行った

 実家が鎌倉で花屋を営んでいたため、気がついたら花に囲まれた生活でした。小学校低学年の時のことです。朝のラジオ体操に出かける際に、朝露に濡れた朝顔を見て、吸い込まれるような気がしました。「花はすごい」と思った最初の思い出です。小さい時は「今忙しいから、あっちへ行って」と言われていたのが、いつの間にか「今忙しいから、手伝って」と言われるようになりました。店を開けて鉢物を出したり、仕入れた花を水につけたり、たまには早朝から一緒に仕入れに行くこともありました。
 
 高校を卒業して、東京フラワーデザインスクールに進みました。本科1年と師範科1年です。授業は夜、週2日で、カラーチャートを使った色の勉強やプラントのケア、スタイルやテクニックなど。最初の頃は、制作したウェディングブーケを持って電車に乗るのが恥ずかしかったですね。
 学校に通いながら、東京の花屋で働きました。オーナーがビジネスマンで勉強になりましたが、3カ月で体を壊したので、一旦実家に帰り、その後、横浜市内の評判の高い先生の下で働きました。コンテストで総理大臣賞を2度も受賞した著名な先生だったのですが、厳しいと有名な人で、「1週間もった人はいない」と言われたほど。確かにすごく怖くて神経をすり減らしていましたが、素晴らしいデザインをされる方でした。ところが3カ月ほど経った頃、先生がご病気になり、先生に「残って店を継いでほしい」と言われたのです。でも、私はデザインに興味があったので、卒業後は海外でデザインについてもっと勉強したい、自分の可能性を広げたいと思い、渡米を決心しました。

欧米でデザインを勉強メルローズで得た信用

新鮮な花を使うため、
長持ちすると顧客からの評判も高い

 最初に行ったのはシカゴの花屋。アメリカではどんなデザインなのかを見たかったのです。デザインがシステマチックというだけでなく、アメリカでは一般の人の中にいろいろなデザインを受け入れる基盤があることを知り、それに新鮮な感動を覚えました。一旦帰国しましたが、もっと勉強したいと思い、1987年に再渡米。今度はノースリッジの語学学校に通いながら、花の勉強を続けました。
 
 その後はオランダに行き、世界チャンピオンになった人の花屋で3カ月仕事をさせてもらいました。オランダでは、花の扱いや色使いが異なります。例えば、アメリカでは日本人には派手すぎるような色使いが多いのに比べて、オランダは日本人にも薄すぎるかな、というような色使いなのですね。でもそれがきれいに見えるんです。
 勉強を終えて帰国し、いよいよ店を開けようという段階になった時、日本はちょうどバブル時代でした。いろいろ物件を見て回りましたが、どこも途方もない金額です。そのうち「アメリカで花屋をやってみないか」とお誘いを受け、メルローズの小さな花屋を居抜きで買ったのが90年のことです。そこに決めたのは、デザインさえ見てもらえば気に入ってもらえるという自信があったから。人が歩いているストリートと言えばメルローズだったのです。
 
 ところが、アメリカでは景気後退が始まっており、良い物を揃えただけでは売れません。渡米したばかりで、アメリカ社会のことも良く知らなかったのですね。あの辺りはユダヤ系のお客さんが多いのですが、彼らは価格に対してシビアです。その代わり、一旦信用されると、「食事してくるから適当に選んでおいてくれ」とゴールドのクレジットカードを置いて行く、というようなこともありました。うれしい反面、緊張もしましたね。
 また、日本の花市場はすべて競りですが、アメリカはすべて仲買で、市場にある花が必ずしも新鮮であるとは限りません。自分で見て鮮度や値段を見極めるのですが、満足できる品物が入ってこないこともあります。そのうちに、これは自分の求めていたものではない、と考えるようになりました。

お客の喜ぶ方法を考え注文制度を確立

 メルローズで7年やっていましたが、子供が生まれたのを機に治安も気がかりになり、とりあえず店を閉めようと決心しました。花は鮮度と値段が命の生鮮商品です。常に新鮮なものを良心的な価格で提供するには、ホームオフィスでウエアハウスだけを持って、注文システムにするのがベストではないかと気づきました。ご注文をいただいてから仕入れたら、その時にある最高の商品を提供できます。お客様の喜ぶ方法を考えたら、こういう形態になったのです。
 
私は花を売っていますが、本当に売っているのは信用です。だから絶対に裏切れません。いい物を作っていれば、必ずお客様は来てくれます。メルローズ時代は映画やメディア関係の仕事が多く、エディー・マーフィーの自宅の寝室に花を飾りに行ったこともあります。日本では考えられないですよね。アメリカは結果重視で、どんな業種であれ、一生懸命に仕事をすれば、絶対に認められる国です。
 実家では鎌倉という土地柄、お葬式も多く、よく花祭壇を手がけていました。現在、ブライダルサロンを準備中ですが、アメリカでも、きちんとした日本式の結婚式やお葬式、花祭壇をもっと手がけてみたいですね。
 
(2006年8月1日号掲載)