カリフォルニアで手に入る!美味しいおすすめワイン30選

アメリカ・カリフォルニア州は、世界でも有名なワイン天国のひとつ。アメリカ産のワインのうち、なんと9割はカリフォルニア州で生産されているカリフォルニアワインというから驚きだ。この市場に入り込もうと、近年はスペイン、オーストラリア、チリ、南アフリカなど、世界各国から多くのワインが輸入されている。このためワインの価格競争は激しくなっており、カリフォルニア州では手頃な価格で、品質が良いワインを手に入れやすくなっているのだ。
(2006年8月1日号ライトハウス・ロサンゼルス版掲載)

ワイン選びのコツとは?

所狭しとワインが並んでいるマンハッタン・ファイン・ワインの店内。お手頃なおすすめワインもたくさんある

ロサンゼルス・サウスベイ最大級の品揃えを誇るマンハッタン・ファイン・ワインのオーナー・ジョーさんに、ワイン選びのコツを聞いてみた。
 
「もちろん、高くて美味しいワインを買える予算があれば、それにこしたことはありません。でも、単に高ければ良いワインというわけではありません。例えば高価なフランス産のボルドーワインを買っても、美味しく飲むためには数年、待たなければならないことがあります。また、美味しい料理があれば高いワインは、それほど必要ではないかもしれませんよね。高級ワインを買うことよりも、それぞれのワインの特徴を知り、そのシチュエーションや食事にぴったりのワインを選ぶことが、ワインを楽しむ1番のコツです」。
 
バーベキューやピクニックを楽しみたいなら、スーパーマーケットで手に入る最も安いワインでも十分な時もある。しかし、記念日を手作りディナーでゆっくりお祝いしたい時には話は別だ。
 
「重要なのは、それを見分けられるようになることです。でも1度ワインについて店員と話して、知識をつければ、自分に合ったワインを予算内で選ぶことができるようになります。だんだんと、自分の目と味覚でワインを楽しむことができるようになるんですよ」とジョーさん。
 
実は、手頃な価格で流通しているワインは、どんな料理にも合わせやすく、万人受けする味や香りであることが多い。逆に言えば、多くの人に好まれるワインだからこそ大量生産され、大量消費されている、という図式も成り立つ。また主に秋に発売される高級ワインに比べて、安くて美味しいワインは年間を通して市場で楽しめることも特徴だ。

カリフォルニア州・ロサンゼルス周辺で入手可能なおすすめワイン

では、比較的ハズレが少なく、いつでも楽しめる、安くて美味しいワインを紹介しよう。
 
アメリカ・カリフォルニア州、ロサンゼルス周辺のワインショップなどで手に入る、$5以下のワイン。赤13種、白15種、その他2種、計30種のおすすめワインをご紹介。あなた好みの1本はどれ?

データの見方
①ブドウの種類
②産地
③特徴
④販売店
⑤赤ワイン/白ワイン/その他
⑥価格
※価格はすべて調査時のものです

1. Chilean Collection / チリアン・コレクション

①メルロー70%、カルムネール30%
②チリ
③スパイーシーさと、野イチゴの香りが特徴のチリ産ワイン。Trader Joe’s限定品
④Trader Joe’s
⑤赤ワイン
⑥$2.99

2. Purple Moon / パープル・ムーン

①シラー
②アメリカ・カリフォルニア(マンテカ)
③グリルした肉料理に、スパイシーなソースといったディナーにぴったりの赤ワイン
④Trader Joe’s
⑤赤ワイン
⑥$3.49

3. Bear’s Lair / ベアーズ・レアー

①メルロー
②アメリカ・カリフォルニア(ナパ)
③2本目のボトルを開けるならこれ。軽くて飲みやすい赤ワイン
④Trader Joe’s
⑤赤ワイン
⑥$3.99

4. Walnut Crest / ウォルナット・クレスト

①メルロー
②チリ
③ブラックチェリーとプラムのソフトな香りが、パスタやチキン、マイルドなチーズと相性が良い
④Cost Plus
⑤赤ワイン
⑥$3.99

5. L’Authentique / レ・オタンティック

①ブレンド
②フランス
③バランスのとれたスムーズな赤ワイン。肉料理、チーズによく合う
④Trader Joe’s
⑤赤ワイン
⑥$3.99

6. Ren’s Barbier / レンズ・バービアー

①メルローとテンプラニーニョのブレンド
②スペイン(バルセロナ)
③軽いブラックチェリーの香りとコクが、グリルした肉、パスタやピザにぴったり
④Cost Plus
⑤赤ワイン
⑥$3.99

7. Forest Ville / フォレスト・ビル

①メルロー
②アメリカ・カリフォルニア(ソノマ)
③気軽に飲めるメルローの代表格。プラムとチェリーのような香り、舌に長く残る軽いオークの後味が心地よい
④Sav-On Drugs
⑤赤ワイン
⑥$4.49

8. Black Mountain / ブラック・マウンテン

①ピノ・ノワール
②アメリカ・カリフォルニア(ナパ)
③ストロベリー、バニラ、シダーの香りで始まり、後味はプラム、クランベリー、スモーキーオークの優しい渋みが残る
④Trader Joe’s
⑤赤ワイン
⑥$4.49

9. Kenwood / ケンウッド

①ブレンド
②アメリカ・カリフォルニア(ソノマ)
③完熟した香りとスムーズな後味が、チキン、パスタなど軽い食事に合う
④Cost Plus
⑤赤ワイン
⑥$4.99

10. Old Moon / オールド・ムーン

①ジンファンデール
②アメリカ・カリフォルニア
③スパイスとブラックチェリーの甘い味わい。後味の渋みソフトで、口当たりがさわやか
④Trader Joe’s
⑤赤ワイン
⑥$4.49

11. Pinot Evil / ピノ・イービル

①ピノ・ノワール
②アメリカ・カリフォルニア(サンタバーバラ)
③映画『サイドウェイ』で、ピノ・ノワールの人気が急上昇。チェリーの香りとスパイスの風味、軽い後味が魅力
④Cost Plus
⑤赤ワイン
⑥$4.99

12. Santa Alicia / サンタ・アリーシャ

①カベルネ・スーヴィニヨン
②チリ(マイポバリー)
③アンデス山脈の雪解け水で育ったブドウを使用。ブラックベリー、完熟プラム、オークの香りがする、コクのある赤ワイン
④BevMo!
⑤赤ワイン
⑥$4.99

13. Grão Vasco / グラオ・バスコ

①ブレンド
②ポルトガル(ダオ)
③取れたての若いチェリーとプラムの香り。適度なコクとソフトな味わいのバランスが取れたワイン。軽いテイストの魚や肉料理に合う
④BevMo!
⑤赤ワイン
⑥$4.99

14. Charles Shaw / チャールズ・ショー

①シャルドネ
②アメリカ・カリフォルニア(ソノマ)
③安くて美味しいワインの筆頭格。同じ値段でメルロー、カベルネ・スーヴィニヨン、スーヴィニヨン・ブランクもある
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$1.99

15. Contadino / コンタディノ

①ピノ・グリージオ
②イタリア(ベネチア)
③リンゴとピーチの香りが異国情緒を呼び起こしてくれる。キレがよく、飲みやすいワイン。冷やして飲むと美味しい
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$2.99

16. Barefoot / スーヴィニヨン・ベアフット

①スーヴィニヨン・ベアフット
②アメリカ・カリフォルニア(モデスト)
③ハチミツとピーチの香りと、スモーキーでソフトな後味の白ワイン。店によって値段が違うので要チェック
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$3.99

17. Trader Joe’s Coastal / トレーダー・ジョーズ・コースタル

①シャルドネ
②アメリカ・カリフォルニア
③メロンとピーチの香りに、やさしくまろやかなオークの後味
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$3.99

18. Sutter Home / サター・ホーム

①モスカート(マスカット)
②アメリカ・カリフォルニア(サタークリーク)
③白桃やライチ、メロンなどの香りがするマスカットワイン。軽食やデザートと一緒に楽しめる
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$3.99

19. Cavipor Caseiro / カビポ・カセイロ

①マリアゴメス70%、ビカル30%
②ポルトガル
③フルーティーでフレッシュなテーブルワイン。ドライでシトラス系の香り。肉料理、シーフードなどさまざまな料理によく合う
④BevMo!
⑤白ワイン
⑥$3.99

20. Zarafa / ザラファ

①スーヴィニヨン・ブラン
②南アフリカ(ケープタウン)
③フルーティーでキレのあるワイン。シーフードや野菜料理に合う
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$3.99

21. Beringer / ベリンジャー

①シュナンブラン
②アメリカ・カリフォルニア(セントヘレナ)
③繊細なシトラスの香りと味わいが、軽いピーチとメロンの香りとマッチ。シーフード、スパイシーな料理にぴったり
④Sav-On Drugs
⑤白ワイン
⑥$4.00

22. Butterfield Station / バターフィールド・ステーション

①シャルドネ
②アメリカ・カリフォルニア(ミルバレー)
③トロピカルフルーツのさわやかな香りと、オークの香りを併せ持つ、スムーズでクリーミーな味わい
④Manhattan Fine Wines
⑤白ワイン
⑥$4.99

23. Corbett Canyõn / コーベット・キャニオン

①シャルドネ
②アメリカ・カリフォルニア(サンルイオビスポ)
③適度なコクと、リンゴ、ピーチ、オークの香り。スムーズな後味が、バーベキューと合う(1500mlボトル)
④Sav-On Drugs
⑤白ワイン
⑥$4.54

24. Foxhorn / フォックスホーン

①シャルドネ
②アメリカ・カリフォルニア(リポン)
③リンゴのキレのある香りがさわやかな後味。大人数での野外のバーベキューなどにぴったり(1500mlボトル)
④Sav-On Drugs
⑤白ワイン
⑥$4.49

25. Gallo Family Vineyards / ギャロ・ファミリー・ビンヤード

①ジンファンデール
②アメリカ・カリフォルニア(モデスト)
③太陽の香りが漂うフルーツのイメージ。キレの良い後味が特徴。ストロベリーとホワイトピーチの香りがバランスよい風味
④Ralphs
⑤白ワイン
⑥$4.49

26. Glen Ellen / グレン・エレン

①シャルドネ
②アメリカ・カリフォルニア(リポン)
③完熟のピークを迎えたブドウだけを使用。バタースコッチと繊細なオークの香りがする味わい。さわやかでキレのある後味が特徴
④Ralphs
⑤白ワイン
⑥$4.99

27. Liebfraumilch / リープフラウミルヒ

①ブレンド
②ドイツ(ナーエ)
③ドイツから輸出されるワインの半分を占めるブランドで、日本でもおなじみ。甘すぎず軽くてフルーティー
④BevMo!
⑤白ワイン
⑥$4.99

28. Beckerman Liebfraumilch / ベッカーマン・リープフラウミルヒ

①ブレンド
②ドイツ(ヘッセン)
③「聖母の乳」という名がついた、さわやかで飲みやすい甘口の白ワイン。女性に人気
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$4.99

29. Vendange / ボンドンジュ

①ジンファンデール
②アメリカ・カリフォルニア(ウッドブリッジ)
③ストロベリ-の香りのロゼワイン。フルーティーでキレがよい。このブランドは低価格だが、ブドウの種類も揃っている
④Ralphs
⑤その他
⑥$4.99

30. Boone’s Farm / ブーンズ・ファーム

①ブレンド
②アメリカ・カリフォルニア
③赤ワインをジュースなどで割ったのがサングリア。本品はグレープのフレーバー。他にもさまざまなフルーツのフレーバーが楽しめる
④Sav-On Drugs
⑤その他
⑥$2.54

ワインショップとの上手なつきあい方

ワインのことを話し出すと止まらなくなるジョーさん

ざっくばらんに店員と話すべし!

マンハッタン・ファイン・ワインは20年以上続いているワインの専門店。世界各国のワインの他、珍しいリキュール類や日本酒も揃っている。タイ人オーナーのジョーさんは気さくで、気軽にワインの質問に答えてくれる。でも、ワインショップで安物を買うのは、ちょっと抵抗があるという人もいるだろう。そのあたりから話をうかがった。
 
例えば、 2004年にヒットした映画『サイド・ウェイ』の影響で、カリフォルニア産ピノ・ノワール種のワインの売り上げが伸びました。高級イメージが先行していますが、これも6~7ドル程度で手に入ります。あえて高級ワインを買わなくても、ハッピーになれるワインはたくさんあります。ですから、ワインショップに行ったら、まずは、店員に予算と、希望するワインの種類を伝えてみてください。
 
安いワインの相談だからといって、気兼ねはいりません。私もそうですが、店員はお客さんとワインについて話すのが大好きです。ワインのことをあまり知らないのであれば、次のことを店員に、ざっくばらんに伝えてみてください。
 
❶どんな味や香りのワインを飲みたいか?
❷どんな食事と一緒に楽しみたいか?
❸以前飲んだワインで気に入っているものは何か?
❹どんなブドウの種類が好みなのか?
 
安くておいしいワインは結構たくさんありますし、特徴も違います。食事によっても、合うワインは変わります。ですから、予算以外にも希望する情報を店員に伝えることが大切です。私の店には食事のメニュー持参で、ワインの相談に来るお客さんもたくさんいますよ。そんな風にして、気軽にワインを楽しみたいお客さんに立ち寄ってもらいたいですね。

Manhattan Fine Wines
1157-A Artesia Blvd.
Manhattan Beach
☎310-374-3454
www.manhattanfinewines.com
Mon-Sat 10:00am-8:00pm
Sun 11:00am-6:00pm
Open 7 Days

今回ご紹介のおすすめワインを見つけたお店

◉BevMo!(Torrance)
21301 Hawthorne Blvd., Torrance
☎310-543-9170
Mon-Fri 10:00am-9:00pm
Sat 9:00am-9:00pm
Sun 10:00am-7:00pm
Open 7 Days
www.bevmo.com
 
◉Cost Plus World Market (Torrance)
22929 Hawthorne Blvd., Torrance
☎310-378-8331
Mon-Sat 10:00am-9:00pm
Sun 10:00am-7:00pm
Open 7 Days
www.worldmarket.com
 
◉Trader Joe’s (Torrance Promenade)
19720 Hawthorne Blvd., Torrance
☎310-793-8585
9:00am-9:00pm
Open 7 Days
www.traderjoes.com
 
◉Ralphs
ralphs.com
 
◉Sav-On Drugs
www.savon.com

※このページは「2006年8月1日号ライトハウス・ロサンゼルス版」掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

アメリカにおける“クールジャパン”の今

アニメや日本食によって世界に広がった現象“クールジャパン” は、2013年に設立された「クールジャパン機構」によって、ポップカルチャー、食、伝統工芸、おもてなし、ファッションなど、幅広い分野での海外需要拡大のスローガンとして、新しい意味合いを持つようになりました。時代によって変化しているクール ジャパンですが、私たちが住むアメリカにおい ては、どういった形で広がり受け入れられているのでしょうか。現在、アメリカでクールジャパン拡大に尽力する企業、団体の取り組みをご紹介します。
(2015年8月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版掲載)

アメリカにおける“クールジャパン”

アニメや食材から自然発生したクールジャパン

近年、インターネットやテレビなどで“クールジャパン”という言葉を、頻繁に聞くようになりました。まず、クールジャパンが生まれた背景を紐解いてみましょう。
 
『知恵蔵2015』 (朝日新聞出版)によると、クールジャパンとは「日本独自の文化が海外で評価を受けている現象、またはその日本文化を指す言葉」とあります。1980年代後半に世界各地で放映されたテレビアニメ『ドラゴンボール』や『キャプテン翼』を筆頭に、『ポケットモンスター』や『NARUTO』などのアニメや漫画は、まさにクールジャパンの土台を作った作品ですが、その後、ファッションや食材にいたるまで、広範囲にわたる文化を含む言葉になりました。
 
そして、2010年に経済産業省製造産業局の 「クールジャパン室」設置により、それに新しい意味合いが加わりました。同省は、日本の経済の活性化を目指し、従来の自動車や家電・電子機器産業にプラスして、ポップカルチャーを中心とした文化産業の海外進出支援などを行う「クールジャパン戦略」を立て、以来クールジャパンは、日本の経済成長を促すスローガン的な用語としての意味も持つようになりました。

海外需要拡大政策「クールジャパン機構」設立

政策として始まったクールジャパンの内容は、多岐にわたりました。2013年1月に、第2次安倍内閣が設置した日本経済本部がまとめた「日本経済再生に向けた緊急経済対策」によると、外貨を稼ぐ手法として、海外展開戦略を成長戦略の軸に据えて、経済産業省をはじめ、総務省、国土交通省など各省がクールジャパン推進のために、施策を打ち出しています。クールジャパン政策の狙いは、アニメやドラマ、音楽に代表される日本のコンテンツから、ファッション、日本食、住まいの“衣食住”まで、「日本の魅力」を軸として海外に進出し、日本企業の活躍や雇用を生み出すことにあります。
 
その経緯で2013年11月に誕生したのが「クールジャパン機構 (株式会社海外需要開拓支援機構:Cool Japan Funds, Inc.)」でした。クールジャパン機構は、クールジャパンを体現する日本企業が海外での需要創出のため、投資資金を供給する官民ファンドとして創設されたのです。
 
これまで資金不足、拠点不足、戦略不足によって、民間ではなかなか成し遂げることができなかった海外進出を出資面で支援し、現地で利益を生むためのプラットフォーム構築や、流通網の設備などを展開していくことを狙いとしています。
 
2013年度当初予算では500億円が確保され、設立時点で官民合わせて、375億円が出資されましたが、2015年3月末時点での出資金は406億円に上り、その内訳は政府出資が300億円、民間出資が106億円となっています。出資額は、1件あたり数億から多いところで、100億円以上に上り、投資案件によって異なるもののクールジャパン機構と民間の出資額は、それぞれ半分程度。機構の存続期間は約20年としており、中長期的な視点で投資回収を行います。
 
経済産業省商務情報政策局の発表によれば、現在15年4月(27日時点12件の投資案件を決定しており、いずれも日本の法令に基づき設立された企業や、現地合併会社、日本国内の親会社の子会社 (現地法人)などが対象になっています。

アメリカにおけるクールジャパン第2章スタート

アメリカにおけるクールジャパンは、古くは自動車から始まり、家電、アニメ、そして寿司をきっかけとした日本食ブームなどで広がりました。この自然発生的なクールジャパンを第1章とすると、現在 3つの切り口からクールジャパン第2章が始まろうとしています。
 
1.クールジャパン政策による広がり
2.文化交流面での広がり
3.民間企業からの広がり

「クールジャパン政策による広がり」には、クールジャパン機構や、日本のコンテンツの海外展開を支援する補助金制度J-LOP+があります。またクールジャパン機構は、アメリカでの需要開拓のために、2014年3月にジェトロ(Japan External Trade Organization)と業務連携しています。日本企業の海外ビジネス支援に必要なノウハウとネットワークを持つジェトロ・ロサンゼルスは、現地でのテストマーケティング、商談会、展示会や市場動向、貿易・投資の規制、関税などに関する調査・情報面でサポートを行っています。
 
クールジャパン機構によると、対象国にアメリカが含まれる事業は6件で、このなかには15年4月に投資が決定したGreen Tea World USAがあります。カリフォルニア州アーバイン市に拠点を持つ同社は、長崎県の企業が中心となる企業連合が設立した株式会社の子会社で、ほかの投資案件と異なり、日本の地域産品販売プラットフォーム構築の先駆者として、日本国内の中小企業からも大きな期待を寄せられています。
 
クールジャパン機構が、投資ファンドとして民間のビジネス支援を行っているのに対し、長年文化交流において、クールジャパンを実践しているのが国際交流基金ロサンゼルス日本文化センターです。音楽、美術、科学技術など幅広い分野で日本文化を紹介する一方で、時代に合った伝え方で「文化交流面での広がり」 に努めています。そして「民間からの広がり」には、毎年ロサンゼルスで開催されているアニメコンベンション「アニメエキスポ」のほか、日本の伝統工芸を独自のアプローチで展開しようとしている企業があります。
 
下記では、これら3つの切り口から、“アメリカにおけるクールジャパンの今”をサポートするジェトロ・ロサンゼルスや国際交流基金ロサンゼルス日本文化センターの取り組みと、アニメ、食、伝統技術などの分野から日本文化をアメリカに広めようとしているNPO団体や民間企業の活動や意気込み、そして今後の展望などについて具体的に紹介します。

ジェトロ・ロサンゼルス:クールジャパン機構と連携で進出企業をビジネス面で支援

ジェトロ・ロサンゼルス

日本のコンテンツ普及に貢献したハリウッド関係者を表彰する「クールジャパンアワード」。左より在LA日本国堀之内秀久総領事、ダグ・ライマン監督、原作著者の桜坂洋さん(2014年9月)

海外との貿易や投資促進を通して、日本の経済および社会の発展を目的とするJETRO(Japan External Trade Organization)。1958年に設立されたジェトロ・ロサンゼルスは、カリフォルニアをはじめ、隣接する数州とハワイを管轄としている。2014年3月13日から、株式会社海外需要開拓支援機構(クールジャパン機構)と業務連携し、アメリカに進出する日本企業の支援ほか、さまざまな活動を行っている。

クールジャパン機構と連携で進出企業をサポート

クールジャパン機構の投資が決定しているTokyo Otaku Mode。Facebook上では英語で1700万人の登録者に情報を発信している

2014年3月に、クールジャパン機構と業務連携し、日本のコンテンツや日本食などの「日本の魅力 (クールジャパン)」を通じて、産業の育成や海外需要開拓に取り組んでいます。
 
クールジャパン機構の投資類型には、大きくわけて 「メディア・コンテンツ」「食・サービス」「ファッション・ライフスタイル」がありますが、アメリカでは先の2つが大きな市場となっています。「ファッション・ライフスタイル」は、アジアを対象したものが多く、アメリカではまだ投資案件がありません。しかし「メディア・コンテンツ」では、Facebook上で1700万人の登録者数を持つTokyo Otaku Modeや、そしてバンダイナムコ、ADK、アニプレックスの3社が共同で設立した (株)アニメコンソーシアムなどがあり、対象国にアメリカが含まれる案件として、すでに4事業に投資が決定しています。
 
「メディア・コンテンツ」 においては、アメリカでの市場展開のためのプラットフォーム構築や、コンテンツの対外発信強化などを進めると同時に、有名コンテンツの正規品流通のインフラ作りや、海賊版や模倣品の排除も目的としています。ことにアニメに関しては、早くから自然発生的に市場が広がっていったものの、インターネットでのストリーミングが横行し、売り上げに繋がらないケースが多々あります。日本のコンテンツが評価されるのは良いことですが、日本にちゃんと利益をもたらし、その利益で次の作品が出来るような良い流れを作ろうというのが狙いです。
 
「食・サービス」で、もっとも注目されているのは、Green Tea World USA, Inc.です(詳細は後述)。今後、全米で「日本茶カフェ」を展開する予定ですが、アメリカ現地法人で初めて投資が決定した企業第1号であること、地域創生モデルであること、中小企業案件であること、さらに抹茶というアメリカの市場で十分通用する食品で展開していくとあって、国内外から多く関心を寄せられています。
 
アメリカの日本食市場は大きいのですが、そのほとんどが非日系人経営によるレストランで、営業権の問題や食材調達のリスクなどで、外食企業の進出がとても遅れています。今後ももっと伸びる市場だと思いますし、しっかりとしたプロジェクトのアイデアと戦略があればジェトロ・ロサンゼルスでも積極的にサポートしていきたいと考えています。

ハリウッドを魅了する日本の原作コンテンツ

【取材協力】
JETRO Los Angeles
次長 川渕英雄さん
Web: www.jetro.org

ジェトロ・ロサンゼルスは、日本企業十数社と共に、オールジャパンとして10年近く継続して国際映画見本市(AFM)に参加し、日本製の映像作品の販売を行っております。また、「アニメエキスポ」と共催で商談会も実施しました。
 
さらに、ハリウッド作品はアメリカのみならずアジアなどの市場からも受け入れやすいことから、昨年から、日本原作で「メイド・イン・USA」の作品の普及のサポートを開始しました。
 
その一環で、日本の映画などのコンテンツ普及に貢献したハリウッド関係者を表彰する式典 「クールジャパン・アワード」を開催し、昨年は桜坂洋氏のライトノベル『All You Need Is Kill』が原作となった映画 『Edge of Tomorrow』と『Godzilla』の』 2作品が表彰され、主演俳優のトム・クルーズ氏やダグ・イマン監督が賞を授与れました。このような普及活動の成果として、今秋放映予定のテレビドラマ「Heroes Reborn」に日本人3人がメインキャストとして起用されています。映画をはじめ、ライトノベル、本、漫画などのコンテンツは、物販など二次市場も含め、これから日本に大きな利益を還元する可能性が高いと思います。
 
今年はこれからの日本の原作をアメリカの制作会社に紹介するマッチングイベントを企画しております。

国際交流基金:30年以上にわたり、文化交流で独自のクールジャパンを実践

国際交流基金・ロサンゼルス日本文化センター

新潟・佐渡の尾畑酒造五代目蔵元・尾畑 留美子さんを招いたレクチャー。その後、酒ソムリエ・松本 祐司さんによるセミナーと尾畑酒造「真野鶴大吟醸」の試飲会が行われた(2015年6月)

1972年に外務省所管の特殊法人として設立された国際交流基金(The Japan Foundation/本部:東京都)は、総合的に国際文化交流を実施する専門機関。2003年に独立行政法人となり、現在海外21カ国に22の拠点を持つ。1983年に設立されたロサンゼルス日本文化センターは「文化芸術交流」「日本語教育」「日本研究・知的交流」の3つを主要分野とし、さまざまな活動を行っている。

多分野で”共感“を生み出し日本の「新しい友人」作りへ

今後、二世ウィークでの「大田楽」パフォーマンスや、狂言方和泉流能楽師の野村万蔵さんによる狂言公演アメリカ初のシネマ歌舞伎上映など、さまざまなイベントを予定している。

国際交流基金ロサンゼルス日本文化センター(JFLA:The Japan Foundation, Los Angeles)は1983年から 「文化芸術交流」「日本語教育」「日本研究・知的交流」を3本柱として活動しています。今年に入って、LACMA(The Los Angeles County Museum of Art) で開催された「樂・茶碗の中の宇宙」展や精進料理教室「赤坂寺庵」の僧侶による精進料理レクチャーなどを開催しましたが、歴史や健康といった誰もが興味を持ちやすい切り口で見せるように努め、その結果、幅広い層にご来場いただき非常に盛況でした。
 
そもそも文化は、一方的に発信するだけでは伝わりません。まずは受け入れる側の“共感”を得ることが一番大なんですね。6月に開催したレクチャーシリーズでは、新潟の佐渡で日本酒を造る五代目蔵元を招いたのですが、講演では蔵元になるまでの経緯や、経営者としての考え方などを語ってもらいました。海外で友達ができる時って、その国の文化に精通してるとか、言語ができるとかではなく、その人を知るうちに何かしら“共感”を覚えたということがきっかけであることが多いのではないでしょうか。日本をより身近に感じてもらうことで海外の 「新しい友人」 を増やしていくのが、我々の理念であり、組織の存在理由だと考えています。
 
ここ20年で、アメリカの日本文化に対する捉え方は随分変わってきました。日本食やアニメなどが広く浸透した一方で、日本食でもSushiやRamenと細分化されて認識が深まっています。さらに、日本のこと全般には詳しくなくても、例えばファッションなど、一つの分野に関してある程度の知識を持つ人がすごく増えてきているので、伝え方を工夫する必要があります。イベントも、今はテーマを絞ったり切り口を考えないとなかなか興味を持ってもらえません。「新しい友人」作りには、間口を広げることも大事ですが、狭く深く掘り下げることで、新たな“共感”につなげていく。一度きりで終わるのではなく、いかに次の興味に結びつけられるかが重要ですから。

変化を恐れず交流に取り組む“クールジャパン”を目指して

【取材協力】
The Japan Foundation , Los Angeles
所長 原秀樹さん
Web: www.jflalc.org

長年、イベントや日本語教育の場を通じて日本文化を伝えていますが、ある意味、我々がやっていることは全て“クールジャパン”だと思っています。もちろんこれには、政治的・ビジネス的な意味合いはありません。もとより文化を伝える側が、純粋にそれをクールだと思っていなければ続けられないし、相手にも“共感”してもらえないはず。ただし文化は常に変化するものですから、クールと慢心して止まってしまえばそこで終わり。アメリカに渡った寿司から、市場のニーズに合ったカリフォルニアロールが生まれ、今や日本でも受け入れられていることを考えてみてください。アメリカで形を変えていく文化もあるかもしれないし、それはそれでクール。従来の概念にとらわれず、変化を受け入れられるような柔軟性もあって初めて、真のクールジャパンと言えるのかもしれません。伝統や歴史を大切にしつつ、決して新しい変化を恐れず、日本が海外で国際交流に取り組んでいく姿勢を“クール”だと思ってもらえれば良いなと思います。

アニメ:ニッチイベントから、市場調査やコンテンツ提供の場に変貌

日本アニメーション振興会

7月2日~5日に開催された「第24回アニメエキスポ」。4日間の来場者数は26万人を超え大盛況を博した(ロサンゼルス・コンベンションセンター)

日本のアニメーションとアニメ文化に関連 している芸術・事柄を促進するために活動する組織。ロサンゼルスで開催される北米最大アニメコンベンション「アニメエキスポ」をはじめ、サンディエゴのアニメ・マンガイベント「Anime Conji」、国際会議「プロジェクトアニメ」など、さまざまなイベントやプロジェクトを手掛けている。

ビジネスチャンスをつかめ!アニメエキスポで市場調査

1992年にスタートしたアニメエキスポは、今年で24回目を迎え、参加登録実数は9万500人。4日間の延べ来場者数は26万700人となりました。来場者数はここ3年で右肩上がりで、昨年と比べても延べ来場者数は、18%増、つまり約5万人も増えたことになります。これまでのデータによると、男性は53%、女性は47%、年齢は18歳~24歳が最も多く、全体の56%を占めています。もともとアニメエキスポは、UCバークレーのアニメ研究会が始めたイベントで、コアなファンを中心に大きくなってきましたが、今や単純にアニメや漫画が好きな一般客が楽しめるマスイベントに変貌してきました。人気があるのは『One Piece』や『進撃の巨人』 といった単純明快なストーリーのビッグタイトル。日本で人気の萌え系はニッチですが、それを好むファンもいます。アニメは名実ともに”クールジャパン“の先駆けとも言えますが、その市場は大きく変わってきています。以前はパッケージと呼ばれるハード(DVD)が主流だったものの、今は違法ストリーミング対策として、大手配信サイトなどで日米同時に映像配信をする会社がほとんど。人気が出てから吹き替え版を作るパターンが多いですね。
 
また、ライセンシング供与だけでは利益は頭打ちなので、コンベンションを通じてマーケティングを行い、新たなビジネティングを行い、新たなビジネスチャンスを模索する企業が多くなってきています。実際、ここ数年は日本の制作会社によるコンベンション参加が増えており、ブース出店はもちろん、監督や声優が参加するパネルディスカッションやゲスト招へいなどに注力しています。アメリカ人は一方通行ではなく、インタラクティブなPRを好むため、積極的に参加すればするほど、会社や作品の認知度を高められるほか、物販でも大きな成果を上げているのです。アニメエキスポの来場者アンケートでも、来場の一番の目的は「物販」で、日本でしか手に入らないような商品は、付加価値がついて人気を博しています。
 
さらに近年は、映画やドラマ用のコンテンツを探す目的で来場するハリウッド関係者の姿も多くなりました。それを受けて、私たちも興味のある方に、ビジネスマッチングの機会を提供しています。

政策の後押しで北米進出企業は増加の一途

【取材協力】
Society for the Promotion of Japanese Animation
事業開発ディレクター
松田 あずささん
Web: www.spja.org

クールジャパン政策も手伝って、日本からアメリカに進出しようという企業や会社は着実に増えています。今年3月に東京で開催されたJ‐LOP+主催の「J‐LOP+海外イベント合同説明会」で、北米最大のアニメコンベンション主催者として、イベントの説明会と相談会に参加したのですが、大きな反響がありました。実際、今年のアニメエキスポには、日本からの視察団がたくさん訪れていましたね。
 
アニメは非常に大きな市場ですが、海賊版など取り組まなければならない課題はまだまだあります。今後、進出する企業に求められるのは、正規市場を構築して、日本にきちんとお金を還元できるシステムを作り上げること。そのためには、アメリカを拠点とする企業や団体の協力は欠かせません。いずれは日本の現地法人以外でも、クールジャパン機構の投資を受けられるようになればいいと思っています。

日本茶:全米で日本茶カフェ展開・地域産品販売プラットフォーム構築へ

Green Tea World USA

全米規模で展開予定の日本茶カフェ「Green Tea Terrace」(仮)は、2015年)内を目途に第1号店出店を予定。日本で記者会見を行うGreen Tea World USA 前田拓チェアマン(右)と濵本磨 毅穂(まきほ)長崎県貿易公社社長・長崎県副知事

日本茶の輸出事業を手掛ける株式会社マエタク(前田拓社長)と、長崎県貿易公社、文明堂総本店・白山陶器などを中心とする企業連合「グリーンティー・ワールド・ホールディングス株式会社(長崎県長崎市)」のアメリカ現地法人。ロサンゼルス を拠点に、日本茶カフェ事業を全米で展開予定。株式会社マエタクは、アメリカで30年以上にわたり日本茶ビジネスの実績を持つMaeda-enの親会社にあたる。

全米規模で日本茶カフェを展開・今後10年で50店舗を目指す

Maeda-enの新商品「Macha Booster」。抹茶は日本茶カ フェで主力商品として期待 されている

Green Tea World USAは、日本茶の輸出事業を行うマエタクと、長崎県の企業が中心となる企業連合のアメリカ現地法人です。クールジャパン機構の12件目の投資案件として、今後、全米規模で日本茶カフェを展開し、日本産の茶葉を使った抹茶エスプレッソやキャラメルほうじラテなど多彩なドリンクに加え、サイドメニューにはカステラ、そして茶器には波佐見焼を使用するなど、長崎県の地域産品を扱っていきます。出店エリアは、まず2015年内にロサンゼルスで第1号店をオープンし、これから10年間で50店舗展開を目指しています。
 
私は、1984年にMaeda-enを設立し、以来日本茶ビジネスを展開してきました。アメリカのお茶消費市場は、グリーンティー、紅茶、ウーロン茶等を含めると1兆円規模に成長しています。なかでもグリーンティーは、現在米系スーパーでも販売されるほど普及しているのですが、意外にも質の高い“本物”を気軽に楽しめる場がないのが実情です。日本茶は、1856年に幕末の長崎から輸出されて世界に広まったにもかかわらず、外国産茶葉の台頭や志向性の多様化などで、産地で放棄茶畑農家が増えている現状に、危機感を感じていました。
 
口の肥えてきたアメリカ市場に”本物“のおいしさを伝えるのは日本茶メーカーとしての使命。そんな思いを実現すべく、このたび、日本茶カフェという業態で本格的に始動したわけです。
 
ターゲット層の中心には、健康志向が高くライフスタイルにも質を追求するミレニアル世代を置き、茶葉の選定や店舗でのお茶の淹れ方にこだわり、Made in Japanの良さを認知してもらえるブランド作りに励みたいと思っています。そこで主力となるのが抹茶です。実はMaeda-enは、アメリカで初めて日本産の抹茶を使ったアイスクリームを製造販売して、市場を拡大した中心的立場から、抹茶の人気が市場に浸透しつつあるのを実感しています。抹茶は味にもインパクトがあり、コーヒーに代わる飲み物としても十分。抹茶をきっかけに、煎茶や玉露など、多種多様な日本茶について興味を持ってもらえればと思います。

海外展開を目指す地域産品の販売プラットフォーム構築へ

【取材協力】
Green Tea .World USA, Inc.
Chairman 前田拓さん
Web : www.maeda-en.com

今回の事業は、日本産の”本物“のお茶をアメリカに広めるほかに、海外展開を目指す日本の地方中小企業の基盤作りという意味合いもあります。地方発の産品と言えば、山口県の小さな酒蔵が活路を開き、今や世界でその名を知られるようになった「獺祭(だっさい)」がありますが、実際のところ、地方企業の単独での海外進出はあまりにもリスクが高い。企業が連携することで、東京などを経由せず、地方発即世界進出を実現させる夢のある事業と言えます。
 
日本が誇る名品をアメリカに広げるチャンスを頂いたありがたさと同時に、責任の重さをひしひしと感じていますが、万全の体制で臨み、最終的には世界で1000店舗展開を目指していきます。生産者から販売業者まで、日本のお茶業界全体が潤うこと、そして地方中心企業の希望の星となれるようなモデルケースとしてきちんと結果を残したいですね。
 
将来的には、長崎県産品を超え、どんどん地方の名産品を発掘して、アメリカでプロモートしたいと考えており、地域産品の販売プラットフォーム構築に努めていきます。

浮世絵:伝統工芸継承と後継者育成を目指し、現代浮世絵を日米で販売

浮世絵プロジェクト

浮世絵プロジェクト第1弾KISS全4シリーズから「接吻四人衆大首揃」KISS直筆サイン入り:22万円/2500ドル(本体)、サインなし:10万円/1250ドル(本体)

江戸木版画技術保存と継承を目的にロサンゼルスで設立。ロックバンドKISSの浮世絵シリーズ を制作し、すでに「接吻四人衆大首揃」「接吻四人衆変妖図」(2月27日)、ももいろクローバーZとのコラボ浮世絵「桃色四葉乙接吻四人衆大合戦絵巻」(7月2日)が販売されている。今後も世界市場に向けて、世界のポップスターらとのコラボ浮世絵を販売していく。

KISSとのコラボレーション・新たな浮世絵が蘇る

KISS浮世絵を手掛けた。彫師・渡辺 和夫さん
2010年に江戸木版画家伝統工芸士に認定されている

2014年の夏に「浮世絵プロジェクト」を立ち上げ、現在ロサンゼルスを拠点に、第1弾プロジェクトとなる、ロックバンドKISSとコラボした浮世絵シリーズ全4枚(各200枚限定)を、日米で販売しています。
 
浮世絵は、江戸時代にニュースやトレンドなどの情報を伝える風俗画として生まれ、絵師、彫師、摺すり 師の手によって3段階に分けて作られる非常に精微な総合芸術です。まさに” クールジャパン“を体現する日本の伝統工芸ですが、現実的には仕事が減少している上、深刻な後継者不足が問題になっています。事実、浮世絵の木版画を専門にしている絵師はおらず、彫師は日本全国で9名、摺師は30名しかいません。
 
「浮世絵プロジェクト」を設立するきっかけとなったのは、ある版元(浮世絵の出版社)との出会いでした。彼らは漫画とコラボしたり、現代美術を浮世絵にしたりと、業界に新風を吹き込んでいたのです。彼らの活動に触発され、私たちは世界のポップスターやアイコンをテーマにした浮世絵を日本で作り、まずはアメリカ、そして世界に向けて販売することで、江戸木版画技術の保存や継承に結びつくのではないかと考えるようになりました。

伝統工芸の価値を伝える浮世絵“クールジャパン”

【取材協力】
Mitsui Agency .International, Inc.
浮世絵プロジェクト代表 三井悠加さん(左)
チーフプロデューサー 青池奈津子さん(右)
Web : www.ukiyoeproject

後継者を育てる余裕すらないという状況を打破するには、市場を広げ、とにかく新しい仕事を生み出すことが必須です。KISSの浮世絵には、江戸木版画家伝統工芸士である彫師の渡辺和夫さんなど、熟練の職人さんたちが携わっているのですが、これまでの常識を覆すような新しい浮世絵の形に抵抗はなく、むしろ挑戦することに意欲を感じていらっしゃるようです。
 
KISSの浮世絵は、ウェブサイトのみで販売しており、現在日本の方が圧倒的に売れ行きが良いですね。しかし先月ロサンゼルスで開催された「アニメエキスポ」に出店した際に、観覧用の作品を見て「1万ドルの価値はあるでしょう」とコメントしてくれたアメリカ人もいて、アプローチ次第では、大きな市場になるのではという感触を得ました。
 
今後もポップスターとコラボしたプロジェクトを企画していますが、まだまだ手探り状態。「レディ・ガガの美人画」など、物珍しさで興味を持ってもらうだけでは本末転倒。アメリカで市場をきちんと開拓するためには、浮世絵の歴史や技術・技法の高さをきちんと伝え、その価値を真に理解してもらう必要があると思うんです。かつてその斬新な画法や色使いで、ゴッホなど世界に名だたる芸術家に大きな衝撃を与えてきましたが、未だに浮世絵はポスターのような大量印刷物だと思っている方も少なくないのが実情ですから。
 
社員わずか3人で立ち上げた、無謀とも思えるこの「浮世絵プロジェクト」に、いち早く賛同してくれたKISSベーシストのジーン・シモンズさんは、浮世絵について、以下のようなコメントを残してくれました。“Ukiyo-e, that’s Nippon, that’s tradition, that’s history, that’s kabuki, that’s deep deep culture. We respect it.”
 
いつの時代もどこの国でも、素晴らしいものは、どんな形になっても、その価値を素直に受け入れようとするアメリカの懐の深さを、世界市場に向け一歩踏み出したことで、改めて実感しています。
 
※このページは「2015年8月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版」掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

ジェニファー・ローレンス / Jennifer Lawrence

『Mother!』で横隔膜が破れるほどの熱演!

成田陽子さんとジェニファー・ローレンス

ジェニファー・ローレンスが映画『Mother!』で命がけの劇演を見せている。ユニークなイメージとメタファーを織り交ぜて独自のドラマを創作することで有名なダレン・アロノフスキー監督と撮影中に恋に落ち、絶叫と共に絶望的な感情を表現するシーンを撮り終えた瞬間、失神するほどの胸の痛みを覚えたとか。病院に行ってみると、何と横隔膜が破裂していたらしい。監督に恋をしてしまった女優の、究極な演技ではないですか!
 
9月半ばのトロント国際映画祭のインタビューに、黒いドレスと、いつもより濃いアイメークという出で立ちで現れたジェニファー。「横隔膜が破れるというのは極めて稀なんですって。完治するのにすごく長い時間がかかったのよ。ところで、映画で私は母なる大地を演じていたから、ほとんど裸に近い格好で裸足で歩き回っていた。彼女が必死で守る家は地球なの。そしてハビエル・バルデムが演じる夫は神で、ずかずかと押しかけて来るミシェル・ファイファーとウィリアム・デフォーはアダムとイヴなのよ。脚本を読んだ時ははっきり分からなかったけれど、今は物語のアレゴリー(寓話性)をしっかりと把握していて、自分でも信じられないほどこの映画の持つパワーに圧倒されっぱなし。ダレンはまさに天才で、最高のビジョンの持ち主だと思うわ!」。と語るなど、ダレンのことを”天才”と10回は強調して呼んだ。ちなみに彼は48歳、ジェ二ファーは27歳だ。

ジェニファー・ローレンス

© HFPA
2015年、16年と2年連続で「最も稼いだ女優」1位(「Forbes」誌)に輝いた、売れっ子のジェニファー。

ベネチア国際映画祭では同映画の上映後、会場がブーイングの嵐となった。そのことについても、「ダレンの映画はいつも大きな賛辞と大きな批判に別れるのが常だから、それはそれで彼の並々ない才能を証明しているわけ。とびきり美しくて、騒音もすごい映画だからショッキングかもしれないけど、私はこの映画に出て女優として大きな進歩をしたと信じています」と意に介さない。
 
最近初めて自分の家を持ったそうで、「インテリアはサボテンなどを飾ったサンタフェ風で、明るくて風通しがいい家なの。料理はオレンジで味付けをしたローストチキンが唯一本格的に作れるものかしら。普段はチキンを炒めて、それにキノアを加えるだけみたいなシンプルな食事が多いわね。映画では母親になったけれど、まだまだ自分の将来のレイアウトは決めてないの」とプライベートについても話してくれた。

 

 

成田陽子

成田陽子
なりた・ようこ◎ゴールデングローブ賞を選ぶハリウッド外国人記者協会に属して30年余の老メンバー。東京生まれ、成蹊大学政経学部卒業。80年代から映画取材を始め、現在はインタビュー、セット訪問などマイペースで励行中。

 

(2017年10月16日号掲載)
 
※このページは「ライトハウス・ロサンゼルス版 2017年10月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

TAK MATSUMOTO & DANIEL HO◎特別インタビュー

日本とハワイ、2つの島国の音楽家の融合を楽しんでほしい

超人気バンド、B’zのギタリストであり、グラミー賞受賞歴を持つ松本孝弘さんと、グラミー賞受賞6回を誇るマルチミュージシャン、ダニエル・ホーさんによる音楽ユニット、Tak Matsumoto & Daniel Ho。10/10(火)、10/14(土)にロサンゼルス公演を控えるお二人に、同ユニットの音楽性やライブへの意気込みなどを伺いました。
(2017年10月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版掲載)

松本孝弘◎大阪府出身。1988年9月にB’zでデビュー。全楽曲の作曲、ギター演奏、プロデュースを手掛け、日本での歴代CD総売上1位(2017年9月現在)という大記録を作る。ソロとしては、ラリー・カールトンとコラボした『TAKE YOUR PICK』でグラミー賞を受賞。
ダニエル・ホー◎ハワイ出身、LA在住のマルチミュージシャン。1990年にデビュー後、ウクレレ、スラックキーギター等を用いたハワイアン音楽で確固たる地位を築きながら、世界中のアーティストと活発に創作活動を行っている。グラミー賞14回ノミネート、6回受賞の実績を誇る。

―2016年にユニットを組み、今年2月にアルバム『Electric Island, Acoustic Sea』をリリースされましたが、一緒に音楽を作ることになったきっかけは?

松本孝弘さん(以下松本):2年ほど前、共通の友人の紹介で出会ったのが最初です。その時は「何か一緒にできたら」くらいでしたが、昨年、ダニエルさんがアルバムにも収録されている「Soaring on Dreams」のデモを送ってきてくれて。それを聴いて、「彼となら面白いものができる」と思い、僕から「アルバムを創って、ツアーもやりましょう」と提案しました。

―Tak Matsumoto & Daniel Ho、そしてアルバム『Electric Island, Acoustic Sea』のテーマを教えてください。

松本:ロック、ジャズ、ハワイアンなどをベースにアップテンポな曲からメロウな曲まで、さまざまなテイストの楽曲を網羅しています。「日本とハワイという島国出身の音楽家二人から、どんな音楽が生まれるのか?」が、このプロジェクトのコンセプト、テーマです。

ダニエル・ホーさん(以下ダニエル):アルバムではTakさんのエレキギターをメロディーの中心に据え、僕が演奏する琴や三線、ウクレレなどの音で味付けしました。エレクトリックな音と日本、ハワイの伝統的な楽器によるアコースティックな音がミックスした、ユニークなサウンドになっています。

一流のミュージシャン同士が組んで出される音は、雄大かつ稔蜜。コンサートが楽しみです。

―特に思い入れのある曲があれば教えてください。

松本:アルバム収録曲の中ではダニエルさんが僕の得意なメロディックなプレイをイメージして書いてくれた「Magokoro」、彼の三線と僕のロックギターがうまく融合した「Fujiyama Highway」が気に入っています。

ダニエル:僕はやはり、ユニットを組むきっかけとなった「Soaring on Dreams」に思い入れがありますね。この曲をレコーディングしながら、二人の個性をどう組み合わせていったらいいかも学べましたし。

―一緒に仕事をされて、お互いをどう評価されていますか?

松本:ダニエルさん独特の美しく優しいメロディーラインが大好きです。アコースティックな楽器のプレイヤーとしても素晴らしいし、Journeyのカバー曲、「Faithfully」でのボーカルも素敵ですよ。

ダニエル:Takさんのことは、ミューシャンとしてもパフォーマーとしても、本当にプロフェッショナルで学ぶところが多いです。また、あれだけのキャリアがありながら、謙虚で優しい人柄だというのも、魅力的だと思いますね。

ー10月10日のイベント、14日のコンサートはそれぞれ、どんな内容になりそうでしょうか?

ダニエル:10月10日のイベントでは、『Electric Island,Acoustic Sea』がどのようにできたかや、コンセプトなどについてお話しするのと、数曲演奏もする予定です。10月14日のコンサートでは、『Electric Island,Acoustic Sea』の収録曲を中心に、サプライズ曲も演奏したいと思っています!

―最後に、ライトハウス読者にメッセージをお願いします!

松本:アメリカにいると考え方や文化の違いにとまどうことがあります。その国のルールに順応することも大事ですが、日本人本来の真心や美徳を大切にしつつ、お互いアメリカ生活をエンジョイできればいいですよね。LA公演は久しぶりなので楽しみです。ぜひ見にきてください。

ダニエル:アメリカ本土で初となる僕らのコンサートは、本当に楽しみ。一緒に特別な夜を過ごしましょう!

GRAMMY Museumでのイベント

■公演日:10月10日(火)8:00pm(開場7:30pm)
■会場:GRAMMY Museum(800 W. Olympic Blvd.,Los Angeles)
■料金:$20
■チケット購入、詳細:www.grammymuseum.org/events/ detail/tak-matsumoto-daniel-ho

Aratani Theatreでのコンサート

■公演日:10月14日(土)7:00pm
■会場:Aratani Theatre(244 S. San Pedro St.,Los Angeles)
■料金:$49(オーケストラ)、$39(バルコニー)
■チケット購入、詳細:www.jaccc.org/electric-islandacoustic-sea

 

※このページは「2017年10月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版」掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

アメリカのイエズス会系大学の特徴と魅力

全米の私立大学には、宗教をバックボーンに持つ大学が多数見受けられます。特定の宗教に特化した大学もありますが、宗教色のあまり強くない大学も数多くあります。今回は一例としてアメリカのイエズス会系大学をご紹介します。
 
イエズス会は、1534年に、イグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルなど同じ志を持つ6名によって創設されたカトリック修道会です。教育に力を入れていることで知られており、全世界で174大学を含む500校以上の教育機関を運営し、全米には28のイエズス会系大学があります。

 

アメリカのイエズス会系大学の特徴

開かれたキャンパス

多様性に富んでいるのが、イエズス会系大学の特徴です。カトリックの学生のみならず、さまざまなバックグラウンドの学生に開かれた校風のため、特定の宗教を持たない学生にとっても居心地の良いキャンパスだと言われます。進学した学生に話を聞くと、宗教教育は充実しているが、他の宗教系大学と比べて宗教色をあまり感じないと言います。

中規模の大学が多い

キリスト教系の大学の中には、学生数が1000人から2000人程度の少規模リベラルアーツカレッジが多く含まれています。一方、イエズス会系の大学は、もう少し規模の大きい大学が多く、学部学生数の平均は約5000人、さらに大学院を併設している大学も多くあります。
 
学部学生の教養教育に力を入れていますが、さらに工学部や看護学部のような、小規模リベラルアーツカレッジでは学びにくい専攻も充実しています。ロースクールやメディカルスクール等のプロフェッショナル育成プログラムを有する大学も数多くあります。
 
大規模の研究系大学が持つ豊富なプログラムと、小規模リベラルアーツカレッジが持つきめ細かいサポートの両面を併せ持つのが、アメリカのイエズス会系大学の特徴です。

EAで受験できる大学が多い

アメリカのイエズス会系大学には、ジョージタウン大学やボストンカレッジのような超難関校も含まれます。この両校は、アイビーリーグの各校や有名リベラルアーツカレッジ等とは異なり、アーリーアクション(早期締切)で受験できます。合否の結果は早く分かるけれども、進学を決めるのは他の大学の合否が出そろった後で良いのがアーリーアクションです。アドミッションの都合よりも、学生本位の進学を支援したいというイエズス会系大学の懐の深さが表れていると言えるでしょう。

上智大学との交換留学制度

アメリカのイエズス会系大学は、日本のイエズス会系大学である上智大学との交換留学制度を有するので、在学中に上智大学で学ぶことが容易です。所属するアメリカのイエズス会系大学で学費を納めていれば、上智大学の学費を払う必要はなく、単位互換もしやすいため、在学中に日本で学ぶ機会を得たい学生にもお勧めです。

課外活動の充実

中規模の大学が多いこともあり、NCAAのディビジョンIの大学が多いため学内スポーツが盛んです。ジョージタウン大学のバスケットボールや、ボストンカレッジのフットボールのように、人気チームを有する大学もあります。
 
イエズス会の教育機関は、「Men and Women for Others, with Others」というモットーを共有しており、コミュニティーでの活動も極めて盛んです。ボランティアやインターンシップをしたい学生の支援体制も充実しています。

アメリカのイエズス会系大学一覧

大学名 所在地 学部学生数
Spring Hill College Mobile, AL 1,274
Loyola Marymount University Los Angeles, CA 6,184
Santa Clara University Santa Clara, CA 5,486
University of San Francisco San Francisco, CA 6,845
Regis University Denver, CO 5,009
Fairfi eld University Fairfi eld, CT 3,982
Georgetown University Washington, DC 7,595
Loyola University Chicago Chicago, IL 10,322
Loyola University New Orleans New Orleans, LA 2,796
Boston College Chestnut Hill, MA 9,154
College of the Holy Cross Worcester, MA 2,937
Loyola University Maryland Baltimore, MD 4,084
University of Detroit Mercy Detroit, MI 2,762
Rockhurst University Kansas City, MO 2,276
Saint Louis University St. Louis, MO 8,564
Creighton University Omaha, NE 4,065
St. Peter’s University Jersey City, NJ 2,506
Canisius College Buffalo, NY 2,868
Fordham University New York, NY 8,633
Le Moyne College Syracuse, NY 2,849
John Carroll University University Heights, OH 3,125
Xavier University Cincinnati, OH 4,633
St. Joseph’s University Philadelphia, PA 5,512
University of Scranton Scranton, PA 3,998
Gonzaga University Spokane, WA 4,837
Seattle University Seattle, WA 4,511
Marquette University Milwaukee, WI 8,410
Wheeling Jesuit University Wheeling, WV 1,187

(2017年10月16日号掲載)

UCアーバイン(UCI)の入学取り消し問題

カリフォルニア大学アーバイン校(UCI)が、2017年秋入学予定の学生のうち500名の入学を取り消したことが、2017年7月28日付の「Los Angeles Times」で報じられました。入学取り消しは、必要な書類が提出されなかったなど学生側の問題だと大学は説明しましたが、通常は入学手続き後に取り消しとなるケースはまれで、本当の理由が他にあることが明白だったため大きな議論となりました。
 
受験生は複数の大学を受けるため、大学も定員より多くの学生に合格通知を送ります。各大学は、過去のデータを基に歩留まり(入学率)を予想し、合格通知の数を決めます。受験生は、合格した大学の中から進学する大学を1校決めて5月1日までにデポジットを納め、大学の籍を確保します。つまり5月1日の時点で、入学する学生数が確定します。
 
UCアーバインでは、2017年秋の入学目標6250人に対して、最終的に7100人の入学登録がありました。つまり定員より850人も多く入学させてしまうことになります。許容範囲ぎりぎりで運営をしている州立大学にとって、数百人も多い受け入れは、学生寮の部屋の確保や一般教養のカリキュラムの見直し等で深刻な問題を引き起こします。
 
このことが500名の入学取り消しと無関係ではないことは明らかです。UCアーバインのハワード・ギルマン総長の鶴の一声で入学取り消しの判断は覆され、500名の入学は最終的に認められましたが、UCアーバインのアドミッションの身勝手な行動が受験生に与えた不安は計り知れません。
 
UCアーバインが、2017年の秋に入学を希望する学生から受け付けたアプリケーションは10万4000件です。これは、UCLAとUCサンディエゴに次いで、アメリカ全体で3番目に多い数です。UCアーバインは、3万1000人に合格通知を送りました。入学目標は6250人ですから、歩留まりを20%と予想したと考えられます。しかし実際の歩留まりは23%だったわけです。
 
UCLAとUCサンディエゴの間に位置するUCアーバインは、両校のアドミッションの影響をダイレクトに受けます。 UCLAとUCサンディエゴのアプリケーション数が増えれば、最終的にUCアーバインに流れてくる学生数も必然的に増えます。歩留まりの見誤りが大問題を引き起こしました。

アメリカ・サウスカロライナ大学の対応

歩留まりの見誤りは、UCアーバインだけに限ったことではありません。アメリカのサウスカロライナ大学も、今秋に入学する学生数が、当初予定していた5300人を大幅に上回り、6000人を超える見込みとなりました。サウスカロライナ大学も、歩留まりを3%程度低く見積もってしまったということになります。
 
サウスカロライナ大学の場合は、バスケットボール効果だと言われています。2017年3月に開催された男子バスケットボールの決勝トーナメントで、サウスカロライナ大学の男子チームがファイナルフォー(準決勝)に進出し、女子チームは優勝しました。主要なスポーツの成果が学生の大学選びに影響するケースは少なくありません。
 
ただし、サウスカロライナ大学は、入学を取り消すことは一切せずに、学内できちんと対処することを宣言しました。近隣のアパートを借り上げてスタッフを配置し、学生寮として使えるようにしました。また、一年生が履修する可能性の高いクラスを増やすために、教員採用に奔走しました。

ウェイトリスト活用の可能性

このような〝オーバーエンロールメント〞を避けるために、アメリカの多くの大学はウェイトリストを活用しています。ウェイトリストとは、欠員補充のための〝補欠学生リスト〞です。大学は歩留まりを考慮しながら、あえて少なめに合格通知を送り、その他のボーダーラインの学生をウェイトリストに載せます。そして、5月1日以降、定員に達するまでウェイトリストから学生を繰り上げ合格させます。
 
例えば、アメリカのジョージ・ワシントン大学は、毎年1000人超を繰り上げ合格にしています。ワシントンDCでは、定員を上回る人数を入学させることが禁止されており、この地域の大学は合格通知を意図的に少なく送っているのです。
 
UCアーバインの一件を教訓として、ジョージ・ワシントン大学と似たような戦略をとる大学が今後増えることが考えられます。受験生にとって、自分がウェイトリストに載せられる可能性が高まりますが、合格できなかったと嘆くのでなく、まだチャンスがあると考えて、繰り上げ合格の可能性を高めるための対応を検討することが重要です。
 
(2017年9月16日号掲載)

●UCアーバイン(カリフォルニア大学アーバイン校)への進学・留学については「カリフォルニア大学アーバイン校(UCI)留学ガイド」でも詳しく紹介しています。合わせてご覧ください。

法人にとっての資本とは

資本は、法人にどれだけの価値があるかの指標の一つです。たとえ多くの資産を所持していても、それと同等の負債があれば、資本はほとんどないのです。資本を理解すれば、その法人の本来の価値が分かるようになります。
 
資本は「資産-負債」という計算式で表され、アメリカではOwner’s Equity、Stockholders’ Equity、Shareholders’ Equity、Corporate Capitalなどと呼ばれます。資本は、資本金(Capital Stock)、株式払込剰余金(Additional Paid in Capital)、利益剰余金(Retained Earnings)の3つで構成されます。

資本金

株式の発行で調達した資金が資本金です。株式には普通株(Common Stock)と優先株(Preferred Stock)があります。一般的に株式とは普通株を指し、普通株を所有することはその会社の一部分を所有していることと同じで、1株に対し1票の議決権が付随します。つまり、株主総会において会社経営陣の選出や承認を行う権利を有するので、運営にも関わることが可能です。新しく株式が発行される前後に株を購入できる「先買権(Preemptive Right)」も与えられます。
 
それに対し優先株は、利益の配当(Dividend)や残余財産の分配を普通株所有者より優先的に受け取る権利があります。広い範囲から出資者を募るため、決められたレートで普通株と交換できるなど、さまざまな特徴を持った数種類の優先株を発行している会社もあります。しかし、普通株と違い会社の運営に関わる議決権はありません。
 
また、発行した株式をその会社が買い戻すことがあります。目的は配当やストックオプション用、株価の下落や買収の事前予防などです。株式を買い戻すとは、つまり投資された資本を返却することなので、現金と資本が両方減ることになり、減資と同じ意味となります。この株は資産としても資本としても扱われず、未発行分の株式と同じと見なされます。

株式払込剰余金

株式を額面以上の金額で売却すると、額面との差額が株式払込剰余金となります。例えば、1株10ドルの株式を1万株発行し、投資家が1株20ドルで購入したとします。すると会社は、10万ドル(10ドル×1万株)を普通株の売上、10万ドル((20ドル-10ドル)×1万株)を株式払込余剰金として扱います。

利益剰余金

利益剰余金とは会社設立後の損益を合計したものです。株主への配当金などはここから支払われます。
 
通常業務で発生した利益は、利益剰余金として翌年に持ち越す場合と、配当として株主へ分配する場合の2通りが考えられます。配当は次の4ついずれかの形態で株主に支払われます。
現金:その名の通り現金による配当。
現物(Property):現金以外のもの(土地、建物、商品など)による配当。
株式:配当金の代わりに会社の持っている株式を提供。
清算(Liquidating):利益剰余金のみならず、会社の資本全てを現金化し、株主の持ち分に合わせて分配すること。法人が解散する際などに行われます。
 
利益余剰金は業務拡大の資金源なので、会社は翌年への持ち越しを多くするため、配当を少なく抑えたいという心理が働きます。しかし、市場は前年維持、またはそれ以上の配当を求め、もし配当の未払いや減少があれば、その会社は業績不振だと捉えるでしょう。会社にとって、配当の妥当な金額と形態の判断は非常に難しいところです。
 
(2017年10月16日号掲載)

石上洋◎米国公認会計士
カリフォルニア州立大学ロングビーチ校を卒業後、大手監査法人、現地会計事務所パートナーを経て石上・石上越智会計事務所を設立。税務をメインに事業を展開。
アメリカでの会社設立・確定申告・タックスリターンは「石上、石上&越智公認会計士事務所」へ
米国公認会計士・石上洋さんのインタビュー

※本コラムは、税に関する一般的な知識を解説しています。個別のケースについては、専門家に相談することをおすすめします。ライトハウス編集部は、本コラムによるいかなる損害に対しても責任を負いません。

森本正治さん/「料理の鉄人」3代目和の鉄人


寿司ブームを自分の目で見たくて渡米
日米で注目されるセレブリティーシェフに

【森本正治さんのプロフィール】

もりもと・まさはる◎1955年広島県出身。崇徳高校野球部の主将。30歳で渡米。ニューヨークの「ソニークラブ」の総料理長を経て、1994年「NOBU」オープンとともに総料理長に就任。1998年よりフジテレビ「料理の鉄人」で3代目和の鉄人を襲名。2001年11月フィラデルフィアに「MORIMOTO」オープン。著書に『No.1(いちばん)』。趣味はゴルフ。

 

肩を壊して野球を断念。もう1つの夢、寿司屋に

小さい頃からなりたかったものが2つあったんです。野球少年だったので、1つは広島カープに入団すること。もう1つは寿司屋をやること。小学校の卒業文集に書いているんですよ。「寿司まさ」をやりたいって。名前まで決めてたんですね。広島の名門崇徳高校で主将を務めたのですが肩を壊して野球を断念し、もう1つの夢だった寿司職人の道に入りました。
 
子供の頃、父が酒乱でうちには温かい食卓というものがなかったんですが、給料日の次の日だけは決まって家族で寿司屋に行ったんです。うちはなぜか最初に喫茶店に行って、妹と私はパフェを、両親はコーヒーを飲んで、それから寿司屋に行くんですよ。その時の家族の思い出みたいなのがあって、寿司屋をやりたいと思ったんですね。でも寿司屋で働いているうちに隣りの芝生が青く見えてきて、1980年くらいに喫茶店を始めました。
 
著書『No.1(いちばん)』は自分のことを回想して書いたんですが、寿司屋も喫茶店も子供の頃に味わった家族の団欒に帰していたんだなと、書くことによって改めて気づきました。それと野球では1番になれなかった。だから寿司屋で1番になろうと思ったんだと。喫茶店を始めた後も、いろいろなことをしましたね。朝7時から夜8時まで喫茶店に出て、9時から朝2時まで寿司屋で修業。それ以外にも同時に火災保険の代理店やったり新聞配達やったり。本当になんでも一生懸命しました。
 
30になった時にやろうと思ったことが4つほどありました。ベンツを買うこと、家を買うこと、居酒屋をやること、アメリカを1年くらいかけて1周すること。それで、まずはアメリカに行こうと。本当は1984年のロサンゼルスオリンピックの時に来たかったんです。1970年代後半から1980年代前半はアメリカに寿司ブームが起きていたので、自分の目でどんなものか見てみたかった。
 
ところが店の売却に手間取って、結局1985年に渡米し、ニューヨークが最初のストップでした。半年くらい仕事するつもりはなかったんですが、日本にいる時に、こちらの日系の雑誌や新聞を取り寄せて調べたら、寿司職人は引く手あまただったので、渡米しても大丈夫だとは思っていました。それでいろいろなレストランで仕事しているうちに、たまたま紹介してくれる人がいて「NOBU」のオープニングから参加しました。

 

フィラデルフィアは独立宣言、そしてNYで故郷に錦を飾る

「料理の鉄人」に出演している時は大変でしたね。鉄人というのは世界に4人しかいないわけです。それだけ注目を浴びて勝った負けたとやるわけですから、ものすごいプレッシャーで食べられない、眠れないという状態が続き、やっている時は本当に苦しかったです。ストレスですごく太ったんですよ。撮影のために月に1度は東京に行かなければいけなかったし、1日に2本撮ったことも5回くらいありました。どの対決も一生懸命だったので、特に印象に残ったというのはありませんが、人と違うことをやりたかった。
 
「納豆対決」の時の「納豆のコーラ煮」は、甘納豆があるんだから、素材は違うけれども甘い納豆があってもいいんじゃないかと思って。納豆でデザートを作りたかったんです。
 
最初に鉄人の依頼があった時、本当は断ろうと思ったんです。でも当時、日本の料理界で「アメリカの和食」は軽く見られているところがあったんですね。駐在員はアメリカに来ればキャリアになりますが、アメリカの和食料理人は引け目を感じた時代だった。それでアメリカでがんばっている若い人のためにも、と思って引き受けました。番組を通じて創作和食の地位が確立され、今では逆輸入で日本でも評判を得ているのを見ると「やったな」って思いますね。
 
2001年11月に「MORIMOTO」をフィラデルフィアでオープンした時、皆になぜフィラデルフィアなのかと聞かれたんですけど、これは言ってみれば独立宣言なんです。いつまでも「NOBU」の森本、「NOBU」から出た鉄人だと言われたくなかった。「料理の鉄人」に出ていた頃は角刈りだったのをポニーテールにしたのもそのためです。今かけている眼鏡も伊達眼鏡なんですよ。2003年にはニューヨークにもオープンする予定です。フィラデルフィアで独立して次は何だと考えた時、ニューヨークで故郷に錦を飾るといいますか、旗揚げですね。
 
「料理の鉄人」は大変だったけど、その経験を活かしていきたいですね。出演してよかったのかどうか、結果はこれから出てくると思います。今、文化的なものが西洋から東洋に向いている時代になりました。料理も同様で、先日私が音頭を取り、日本人シェフ7人が集まって料理を披露する機会を設けたんですが、日本人のシェフの料理を食べるために200ドルも出して人が集まるなんて、ひと昔前では考えられなかった。これは私1人ではなくて、日本人シェフみんなががんばってきたから実現したのですが、その一端は担うことができたんじゃないかなと自負しています。
 
私の場合はラッキーだった。でもすべての人に運が向くかというとそうじゃない。やはりライトスポットにいなければいけない。料理でも何でも、自分のやっていることを好きでい続ける、そしてやり続けることが大切なんじゃないでしょうか。
 
(2003年1月1日号掲載)

松居慶子さん/ミュージシャン


結婚記念で制作したアルバムで全米デビュー
日本人アーティスト初のビルボード1位に

【松居慶子さんのプロフィール】

まつい・けいこ◎東京生まれ。5歳でクラシックピアノを始める。1986年プロデューサーの松居和氏との結婚を機に渡米。1987年自主制作アルバム『ドロップス』が音楽誌、FM局で絶賛され、その後14枚のアルバムを発売。2001年に発売された『ディープブルー』はビルボードのコンテンポラリージャズチャートで日本人として初の1位を記録する。全米骨髄ドナープログラムへの協力などチャリティーコンサートへの積極的な取り組みでも知られる。

「同じ日本人女性として励みになる」ファンの声に支えられた

ハンティントンビーチの自宅に停泊しているヨットに乗って、カタリナまで遊びに行くのが楽しみとか。夫の松居和氏と。

渡米のきっかけは結婚なんです。音楽プロデューサーの主人(松居和氏)と結婚して、彼の仕事をアメリカで手伝っていくんだろうなと思っていました。日本でもグループで活動をしていましたが、主人に「音楽を取るか、結婚を取るか」と迫られまして(笑)。私としては覚悟を決めて結婚を選んだつもりだったんです。
 
その時に新婚旅行に一緒にインドに行こうか、それともロサンゼルスでアルバムを結婚記念に作ってみようかという選択がありました。せっかくだからアルバムを制作してみたいと思って、自主制作のアルバムを作ったのが最初。すぐにレコード会社が決まって1987年に1枚目のアルバムが出ました。自分としては「これからアメリカでキャリアを積む」だとか、そんなことは全然考えていなかったんです。書きためていた曲をアメリカで出せていい記念になった、くらいの気持ちでした。主人のコネクションで『ジーザスクライスト・スーパースター』に主演したカール・アンダーソンもボーカルで協力してくれました。このアルバムをミュージカルにしようと皆で盛り上がったり。とても充実したレコーディングでしたね。
 
そして1987年7月4日、タワーレコードの独立記念日の推薦盤として私のアルバムが紹介されたんです。記念撮影に行ったことを思い出します。それを境にラジオでよく曲がかかるようになりました。初めてのコンサートはサンタモニカのアットマイプレイスというライブハウスでした。
 
1988年に上の娘が生まれましたが、彼女が日本の小学校に上がるまでは、基本的にずっとこちらに住んでいました。ロサンゼルスに住んで週末がコンサートというペースでしたね。面白いのはラジオで聴いているうちは、私が女性か男性かもわからない。ケイコなんてこちらの人はキーコなんて発音しますし、どこの国の人かもわからないみたいなんです。それで、コンサートで私が登場して初めて女性だとわかるんですね。
 
ファンのレスポンスですか? 最初の頃はEメールもなかったから。でも、私の曲を聴くと元気が出ると言ってくださる方、それに同じ日本女性として励みになると言ってくださる方もいましたね。明日へのエネルギーが湧いてくるとも。そうそう、私自身が落ち込んでいた時に友達に冗談で「ケイコの音楽を聴けばいいんじゃないの」と言われたり。また、湾岸戦争の時には、出征した人が船の上の売店で私のアルバムを買って、辛い時期を私の曲を聴きながら乗り越えたということもありました。とてもうれしかったですね。
 
曲のインスピレーションは日常生活の中からふっと湧いてきたり、旅先で出会った大自然にインスパイアされて生まれたりします。「フォーエバー、フォーエバー」という曲は下の娘が2歳の時に「ママのことはいつまでもいつまでも大好き」と言ってくれた、そのことを残したいと思って作ったんです。その娘が生まれた時はコンサートの本数も抑えていました。7枚目の『サファイヤ』の時ですね。でも、その年、驚くほどアルバムの売り上げが伸びたんです。不思議だな、音楽の方が独り歩きを始めたんだなと思いました。
 
娘たちは普段は私の母が日本で一緒に住んでくれていて、私たち夫婦は日本とアメリカを行ったりきたりしています。年間に14往復くらいしていますね。もちろん娘たちといつも一緒にいたいと思います。でも、こんな言い方をすると偉そうだけれど、こうして聴いてくれる人がたくさんいるということは、音楽を続けていくのがお役目といった感じがするんです。ある時ツアーに出かける私に娘が「どうして行くの?」と言ったんですね。「ママのピアノを待ってくれる人がいるんだよ」と答えると、「そうか!!」と言っていました。コンサートのビデオを見て、彼女は「おうちにいる本当のママと、ママは2人いるんだね」とも言っていました。サイン会の時も横にいてうれしそうに手伝ってくれたりするんですよ。

娘の教育のためなら日本へ。無欲?そうかもしれない

去年はアルバムがビルボードの1位になりました。インストゥルメンタルだから国境を越えやすいという理由もあると思いますが、他の国からもお声を掛けていただいて、ここ数年はヨーロッパやアジアのツアーにも出掛けています。南アフリカでは1日中、30分毎にインタビューが入っていたり、コンサートでは曲の途中でもお客さんが盛り上がって歓声をあげるなど、とても印象的でした。モロッコ、ドミニカ、イスタンブール、シンガポールでも演奏しました。来年は韓国、ロシア、ヨーロッパにも行けそうです。
 
年間のコンサートがアメリカで60本、日本でも最近は10カ所でやっています。だから1番ほしいものは時間ですね。でも逆にコンサートをやっている時間にエネルギーをキープできるんです。お客さんに喜んでもらえたことが私の喜びとなり、それがまた新しいエネルギーにつながっていくと実感しています。コンサートは1つ1つがスペシャルな出来事で、この場所、この時間でしか会えない人と空間を共有するもの。だからこそ大事にしていきたいですね。
 
小泉首相が私の音楽を聴いてくださっていると声を掛けていただいた時は本当にびっくりしました。金屏風の前で握手させていただいた時に「いつもアルバム聴いているよ。『ディープブルー』!ライブもいいよね」と。私が首相とブッシュ大統領とご一緒した時のことについてはファンの方に「ケイコの音楽が世界にハーモニーをもたらす前触れではないか」と言われ、うれしく思いました。
 
ここまで来るのに壁はなかったか? 主人を始め、周囲の人にプロテクトされてここまで来られたのでとてもラッキーでした。恵まれていると思います。ビジネスの面では完全に主人に任せていますので。主人の中ではいろいろ大変だったもしれませんが。
 
無欲? そうですね。娘を日本の小学校に上げる時も、そのためだったら完全に日本に引き揚げてもいいと思ってました。
娘が音楽の道に進みたいと言ったら?もちろん私たち夫婦でできることは全面的に協力します。でも、これは私も主人もなんですけど、キャリアを積むより何よりまず人間的にいい人であってほしいと望んでいるんです。母もいろいろな方に「娘さんが成功されてさぞうれしいでしょう」と言われるようですが、母としてはどんなに私の仕事がうまくいくことよりも、娘に幸せでいてもらうことが1番なんですよね。
 
2003年は、またロサンゼルスと東京を往復する1年になります。日本とアメリカ以外にも、さらにいろんな国でのコンサートを重ねていきたいというのが新年の抱負です。そのためにもいつも元気でいなくちゃいけませんね。
 
(2003年1月1日号掲載)

横山智佐子さん/フィルムエディター


オスカー受賞のハリウッド映画に携わるイタリア人師匠が外国人の私にチャンスをくれた

【横山智佐子さんのプロフィール】

よこやま・ちさこ◎1963年生まれ。三重県出身。1987年渡米。UCサンタバーバラ校映画科卒業。『リトルブッダ』と『JFK』でアカデミー賞を受賞した実力派エディター、ピエトロ・スカリア氏のアシスタントとなる。代表作に『G.I. ジェーン』『グッドウィルハンティング』『グラディエーター』『ハンニバル』『ブラックホークダウン 』など。趣味は子供と遊ぶこと。

 

ロケ先のネパールに自費で飛び「無給でも仕事したい」と直訴

英語が好きで、短大の時に1カ月ロサンゼルスでホームステイしたんです。その時に、英語にも自信がつき、ロサンゼルスの大学には大好きな映画を学べる学科がたくさんあるのを知ったので、日本で3年間働いてお金を貯め、1987年に留学しました。
 
最初の2年間はサンタモニカカレッジに通ったんですが、その時から雑誌などで見つけたPA(プロダクションアシスタント)のボランティアをしていました。4年制に編入するつもりだったので映画のことはまだ全然勉強してなかったのですが、カタコトの英語で無謀にもあちこちに電話して、今考えると「よくやったな」って思います。それがその後の下地になりました。PAというのは要するに使い走りなんですが、英語の実力もついたし、多くの人と知り合えましたから。人と知り合うと、次に仕事がもらえるんです。グリップ(カメラの動きや影を作る)の仕事をしている主人と知り合ったのもこの時です。
 
UCサンタバーバラを出て1年ほど経った時、『地獄の黙示録』や『レッズ』でアカデミー賞を取った撮影監督、ビットリオ・ストラロ氏が、『ラストエンペラー』のベルナルド・ベルトリッチ監督の『リトル・ブッダ』の撮影でネパールでロケをしていることを知り、ストラロ氏の大ファンだった主人が自費で撮影に参加したんです。
 
すると『JFK』でアカデミー賞を受賞し、今ハリウッドで1番実力があると言われているピエトロ・スカリヤ氏が編集に雇われたが、アシスタントが1人しかいないと主人から連絡があり、私も自費で急きょネパールに飛びました。着くやいなや編集室へ直行し、「給料はいらないから仕事させてください」と直訴したんです。断られてもともと、と思っていたのですが、すんなりとOKが出て、ネパールで3カ月、シアトルで1カ月半一緒に仕事することができました。
 
その時に「よく働く」と気に入ってもらって、以来11年間一緒に仕事させてもらっています。実は35ミリの編集をするのはそれが初めてだったのですが、一緒に仕事している時はどんなにスローな時でも何もしていないところは見せなかったし、「帰りなさい」と言われるまでは決して帰りませんでした。
 
最初はインターンから始まり、『G.I.ジェーン』でセカンドアシスタント、『グッドウィルハンティング』からファーストアシスタントをしています。スカリヤ氏はイタリア人で、自分も外国人でハリウッドでがんばってきた人だから、同じ外国人である私にもチャンスを与えてくれたんだと思います。

 

幸運、不運の別はない、トライすれば道は開ける

今までスカリヤ氏と一緒に手掛けた作品の中で、クリエイティブな意味で勉強になったのは『グッドウィルハンティング』ですね。バンサント監督がオープンマインドの人で、編集は監督のポーランドの自宅で行ったのですが、毎週のように知り合いを集めてテスト試写をやり、ディスカッションを重ねてどんどん良くなっていったんです。
 
この映画を製作した時は、脚本を書き主演したマット・デイモンもベン・アフレックもまだ無名で、名の通った俳優といえばロビン・ウィリアムスくらい。まさかアカデミー賞まで取るとは予想していませんでした。
 
最初に観た段階ですでに「これはすごい」と思ったのは、『ブラックホークダウン』。撮影はモロッコの小さな町で行われたんですが、カメラが常時4台から11台くらい回っていました。また通常撮影中は台詞が聞こえなくなるので銃の音は出さないのですが、この時は撮影中から銃も音を出していましたし、使ったフィルムの量も80万フィートと今までで1番多かった。『グラディエーター』で60万フィートでしたから。150時間分を2時間半にまとめたんです。エディターという仕事は、切るのは基本的なこと。全体の構成をどうまとめるかが重要なのですが、脂が乗り切ったスカリヤ氏のまさしく実力作品で、この映画で彼は2度目のアカデミー賞を受賞しました。
 
今まではスカリヤ氏のアシスタントとして編集の仕事に関わっていましたが、これからは少しずつエディターとして一般の人にいい映画だと認めてもらえるような作品を手掛けていきたいですね。将来の夢は、スティーブン・ソダーバーグ監督(『エリン・ブロコヴィッチ』など)やコーエン・ブラザーズ(『赤ちゃん泥棒』など)と一緒に仕事をすることです。ネバーギブアップの精神で長い目で捉えてコツコツ努力していると、いつかは必ず道が開けてくると思っています。それはラッキーとかアンラッキーということではなく、トライしていると必ず運が向いてくるということだと思います。
 
(2003年1月1日号掲載)

吉田準輝さん/ヨシダグループ会長


「こんちきしょー。今に見とれ」っていう哲学は大事。
僕の金儲けは、ぜんぶ恩返しなんや

全米で販売され、アメリカ人に愛用されている「ヨシダソース」。そのコマーシャルにはヨシダフーズ・インターナショナルの創立者・吉田準輝会長が自ら出演し、地元ポートランドで大人気を博しているという。その明るく愛嬌あふれるキャラクターの陰には、不法移民として入国、差別を受けながらも自分の信念を貫き通した、強靭な底力があった。

【吉田準輝さんのプロフィール】

よしだ・じゅんき◎1949年京都生まれ。1968年渡米。不法移民として苦労を重ねながら、ワシントン州警察逮捕術師範を経て、1982年「ヨシダフーズ・インターナショナル」を設立。しょう油ベースのソースの製造販売を開始する。同社を筆頭にヨシダグループは19社の会社で構成され、その最高経営責任者兼会長としてアメリカのビジネス界で活躍。2001年、アメリカ合衆国政府より優秀中小企業家賞を受賞。2003年9月、ヨシダグループは、米国の中小企業局(Small Business Administration)が選ぶ全米24社のうちの一社として、FedExやインテル、アメリカオンラインなどと共に「殿堂入り」を果たした。

 

東京五輪で知った”強いアメリカ”に憧れて

妻のリンダさんとは学生時代にひと目ぼれで結婚。共にボランティア活動をしている

小学校の時から番長してました。グレてたからなぁ。家がレストランやってましたしね。レストランというのは大変で寂しかったんやろね。で、身体が大きい方やったし、喧嘩に明け暮れて。3歳の時に片目を失ってるんですよ。で、みんなに「片目」とか言われて、カーッとなって手をかけてたんだよね。
 
小学生の時に、中学生に野球のバットでメチャメチャにやられたんですけど、そんな時にお袋が怒った、僕のこと。泣いて帰って来たから。「もっとやり返して来い!」って。そういう性格だったからお袋は。いつも「こんちきしょー。見とれ」って。自分でね、何千回、何万回ね。アメリカでもその言葉を自分に言い聞かせてきた。
 
中学の時に、東京オリンピックがあったんやけど、勝つ人間ってアメリカ人ばっかしでね。テレビで流れてくる曲も、アメリカ国歌ばっかりやったから。それを観た時に子供心にジーンときたんだよね。その時から、自分はアメリカに「Belong」っていう気持ちが確かにあった。で、その時、立命館大学の空手、柔道っていうのはものすごく有名やったから、空手部に入りたくて受けたんやけど、すべって。因果かな、すべったのも英語が原因。

 

血が出るほど舌を噛んだ。貧乏では恩返しができない

最初はシアトルで空手を教えてたんやけど、縁があって後にオレゴンに来ることに。1974年にはオレゴン州の警察学校からの招請で逮捕術を教えることになってね。来た当時なんて、成功するとか金儲けするとか考えてへんかったね。憧れやったんです、単純に。でも、うちの長女・クリスティーナが病気で死にかけて、お医者さんが娘を助けてくれてね。その時、生まれて初めて神様にお祈りをして、「自分の命を交換してくれ」と自分の命を捨てることが理解できた。
 
日頃は飲みに行ったり、ポーカーしたりね。親としての役割はしてなかったですよ。貧乏人だったから保険もなかったしね。病院出る時に看護婦さんがくれた請求書がたったの250ドル。その時に、もう血が出るほど舌を噛みしめたんですよ。「こんちきしょー、絶対この恩返しをする」って。それがオレの力です。貧乏では恩返しはできひんしね。だから僕の金儲けっていうのは、はっきりしてる。恩返しなんや。
 
今やってるのは、病院の理事に、子供ガン協会のトラスティーでしょ、ロナルド・マクドナルドハウス(貧しい親が子供を病院に連れてくるための宿泊施設を作る組織)の理事。それから”Kids on the Block”の理事を10年間やってね、これ、ぜんぶスポンサーです。
 
ウォルマートやコダックからお金を集めるんです。そのお金でボランティアの先生方が小学校に行って、マペットを使って、子供に教えるんですよ。肌の違いとかね、文化の違いとかね。「そんなこと言うたら駄目だよ」とかね。
 
これもオレの一種のリベンジですよ。「くそー、今に見てろよ。37年前シアトルに来た時、どんなに人種差別されたか」。日本の差別よりも、こっちの方がきつかったですよ。

 

アメリカまで来て日本人にだけ売りたくない

商売らしい商売をしようと手がけた最初の会社が、オレゴン・トレーディング・ポスト。1980年、日本に干し肉を送ろうとしてね。でも、干し肉は日本には入れられへんかったね。日本は肉にうるさかったから。それで発明したのがターキージャーキー。ブラウンターキーを燻したやつに、うちのソースをまぜてジャーキーみたいにした。日本にコネもなかったし、商売も下手やったから成功しいひんかったけど、今はもう「ターキージャーキー」って、アメリカでは誰でも食べてますよ。
 
そこからソースになって、いろんな経験を積みながら、成長していったんかな。がむしゃらに1日1日。その日、その日の勝負ですよ。だから、うちの会社なんて、5年計画、3年計画なんてないよ。その日、自分の持っているすべてを使って一生懸命集中したらね、明日は絶対にいいんですよ。残業してでもその日の仕事はその日に終わらせる。次の日に持っていったらダメ。
 
何で「よしだ」っていう日本の名前で、日本の味がバーベキューソースの横に並んで売られてるのか、わかりますか? 普通、オリエンタルセクションに並ぶから、食品界の七不思議なんですよ。オレゴンではね、当時(大手グロサリーストアの)セーフウェイが1番力を持ってた。で、バイヤーさんがね、何度か交渉してくれて、やっとの思いでセーフウェイに置くことができるようになった。でも、気が付いたらオリエンタルセクションに入れられてたんですよ。
 
そこで、僕、何したと思う? 天下のセーフウェイへの出荷を止めたんですよ。もともとオリエンタルセクションに入れないという約束やったから、僕は、ものすごく怒って、「日本人だけに売るくらいなら、今までアメリカで何回も破産しかけてまでやってきた甲斐がない」って徹底的に戦った。そしたらね、バーベキューセクションに戻してくれたんです。そこまで信念を通さなきゃダメ。
 
アメリカに来たんだから、やっぱりアメリカ人の世界に入らないと。だから学校行っても、日本人だけで集まってるんじゃね。うちのソースだってアメリカ人対象に売りたかったんや。日本人だけに売るつもりなかった。
 
今、レストランのプロジェクトが進んでまして、2006年の4月にオープンするんです。普通のステーキハウス。それから、やっぱりいろんな人にビジネスのことでアドバイスしてあげたいね。いろんな会社の役員をしてるけれども、お金は取りませんよ。お金もらってもしゃあないもん。自分の経験したことを分け与えるのに、なんでお金取るんだよ。たまたま自分がうまくいっただけ。

 

神様が絶対助けてくれる、守ってくれると確信

みんな成功したいんやと思うよ。成功したくないって人、いないですよ。ところが99.99%うまくいかない。で、知らないうちに自分の夢が何やったかなって忘れてしまってるんだよね。
 
「もうちょっとで、できたのに」とか「あいつのせいで失敗した」とかね、「もうちょっとお金があったら」って、そんな言い訳言ってもしょうがない。少しの失敗も、現実的には100%の失敗なんやから。
 
オレなんか4回破産しかけてるからね。でも、夜も寝られへんなんてないですよ。「明日、どうにかなる」、神様が絶対助けてくれるっていう自信があった。オレの家は3代クリスチャンやからね。自分は守られてるって信じてる。それがまた目に見えない原動力になってるんやろね。
 
「こんちきしょー。今に見とれ」っていう哲学は大事やね。やっぱりムカッとするということは大事やと思うなあ。頭に来るというのは、いいことなんですよ。それを良い方に持って行くのか、悪い方に持って行って、人を恨んだり、落ち込んだりするのか。僕も落ち込むことはあるけど、1晩寝たら考えへんね、次の日は。
 
人生というのは将棋のようなもんですよ。自分が1手動いたら、周りは二十何手の動きが出てくるわけですよ。1手打つっちゅうのはそれだけのことを考えなね。プロは十何手先まで考えてるらしいね。でも、そこまでいかんでもいいと思うな。最低でも2手3手先まで考えたらいいんじゃない。夢というのも大事だけど、おっきな夢を描き過ぎたら、小さな夢も達成できなくなるし、そういうもんなんやと思う。
 
(2006年1月1日号掲載)

高橋典子さん/シルク・ド・ソレイユ『KĀ』・パフォーマー


どんなことが起きようとそれを受け入れ、学んで自分を磨いていきたい

世界選手権に通算回出場し、7個の金メダルを獲得、世界に名を知られたバトントワラーの高橋典子さん。2003年、1通の勧誘Eメールを頼りにシルク・ド・ソレイユに入団。高度な芸術性とパフォーマンス技術を誇る同劇団最新のショー『KĀ』で、ソロパートを務めるが、「演技については未だに正解がわかりません」と笑う。その舞台裏には、プレッシャーと格闘し、日々たゆまぬ努力を続ける高橋さんの姿があった。

【高橋典子さんのプロフィール】

たかはし・のりこ◎1970年、横浜に生まれる。6歳の時にバトンを始め、小学校3年で全日本バトントワリング選手権に初出場、5位入賞。以後、2004年度の大会まで25回連続出場。個人種目では17回のグランドチャンピオンに輝く。海外でも、6年生で世界バトントワリング選手権大会日本代表選手に選ばれ、1991年に個人シニア部門で金メダルを獲得。世界選手権には通算15回出場し、7個の金メダル。2004年シルク・ド・ソレイユに入団。『KĀ』ではソロパートでバトンの演技を見せる。

 

内容も役も知らされずメール1通でショーに参加

ショーは緊張の連続。終わった後は1番ホッとしますね(笑)

バトンを始めたのは6歳の時。そのうちに世界大会にも出るようになって、1991年に日本人として初めて、世界大会で金メダルをいただいたんです。それから何回か優勝することがあって、もっと芸術的な部分を含めて、何かをしていきたいなと思っていました。その時に、ちょうどシルク・ド・ソレイユから、バトントワラーが欲しいという話がありまして。各国から選ばれた人が、演技のビデオと履歴書を送ったんです。でも、結局、その話はなくなってしまいました。
 
ショーのことも半ば忘れかけていたある時、1通のEメールが届きました。差出人が知らない人だったので、「怪しい」と思って、そのまま開けずに放っておいたんですね。夜中にアドレスを見たら、「~~@cirquedusoleil.com」だったんです。で、「新しいショーがあるのですが、興味があったら出ませんか?」みたいな感じで、2行くらい。詳しいことはまったく書いてありません。でも、何か新しいことをしたかったので、ぜひぜひというメールを書いて。それが『KĀ』との出会いです。後から知ったんですが、本当は最初のクリエーションの時点から、「この人を使おう」と決めてたみたい。
 
それから1年以上経った2004年2月に、やっとトレーニングセンターのあるモントリオールに行くことに。それまでは、具体的にどういうことをやるか全然教えてくれないんですよ。自分がソロということも、ショー自体がどういうものかも。「秘密だから」っていうので、両親にも言えなかったんです。それに、この話自体がウソだったら困ると思って(笑)。
 
他のメンバーは2003年の10月か11月にトレーニングに入っていましたので、私を見て「あっ!この人なのー!?」みたいな話をしてるんです。振り付けの人もいて、「あなたはソロでバトンをやる人だよね?」って言われて、「えっ?そうなんですか?」って。キャラクターであるということは、契約書の中に入っていたんですけれども、バトンをするとはなかったですし、ストーリーのあるショーの中での”役”があるとは、知らなかったんです。
 
モントリオールでは、自分のパートの振り付けと、高い所から落ちる練習をしました。安全ネットがいつも敷いてあるんですけれども、そこにきれいに落ちないと怪我をするので。だから10メートル上から落ちる練習とかをよくしました。振り付けとか、自分以外のメンバーのシーンがあるので、学ぶことはたくさんあって。
 
『KĀ』は、舞台装置がすごいので、なかなかでき上がらなかった。やっと舞台ができて、最初に通し稽古をしたら、8時間以上かかったんです。
 
例えば、空中に浮いているような舞台装置があるのですが、それを使うあるシーンの練習。私の出番は初めのほんの一瞬、舞台側面の中だったんですが、舞台上のクリエーションがなかなか終わらず、ずっと中で待たされて。トイレに行きたい共演の友人もいて、「私たち、何時間待ってると思う?」って。結局、舞台が下に降りて、外に出たら、2時間半も狭い中にいたことがわかりました。その夜も同じ練習があって、また入って、その後1時間半。そういう感じ。

 

不測の事態に対応するため緊張の連続の舞台

©Tomas Muscionico
Costumes by Marie-Chantale Vaillancourt.
Cirque du Soleil Inc.

大会に出て演技するのと、ショーでするのとでは基本的には同じ。だけど、ショーはストーリーを語らなければならない。だから、表現する部分が多いですね。台詞がないので、感情を表現するという演技の部分が大きいかも。演技とかは、これまでしてこなかったので、「これでいいんだろうか?」って、常に気を遣うというか、どういう風にするのが正解かっていうのが、未だにわからない。自分でショーのビデオを見て、「何してるかわからないじゃん」って思ったら、変えていったり。自分ができることを精一杯、毎日やるしかない。日々学びながらやるしかないんですね。
 
ショーをやっている中で1番難しいことは、ライブなので何が起きるかわからないこと。そこにいかに普通に対応していくかってことですかね。常に感覚を研ぎ澄ましておかないと、不測の事態に反応できない。だからそういう意味では楽しいし、緊迫感がありますよね。自分のキャラクターをもちろん持ちつつ、何が起きても対応できるように心構えをしている状態です。
 
今はショーに出る毎日、毎日が本番という生活なので、「毎日、なんで自分はこんなに緊張して生活しなきゃいけないんだろう」って思うことはよくあります。自分が舞台に立っていて、何かが起きた時っていうのは、本当にドキドキしますね。だから、1番ホッとするのは、ショーが終わった後なんです(笑)。いつまでもこのホッとしたのが続くといいなって。

 

日々ベストを尽くせば新しいものが見えてくる

今までトラブルは、たくさんありました。バトンを落としてしまったこともあるんですよ。それに対して振り付けの方が「それは失敗ではない。それに対してどういうリアクションができるかが大事」って言ってくれた。他のアーティストは毎日私を観てるじゃないですか。だから、何かあった時の方が、彼らにしてみれば、お客さんは別として楽しい訳です。「ノリコは今日、どういう風にカバーするのか」っていうのが。うまく行った時には、みんなもすごく喜んでくれて。最近はうまくリアクションできた時は、失敗してもあんまり落ち込まない。「あっ、こういう風にできるんだ」って学べるから。でも、「どうしたらいいのかな、これ」って時もあるんですよ。精一杯のことはするんですけど、うまく行かなかった時には、やはりすごく落ち込みます。でも、逆にそういうことも、大変ですが面白いことでもあるかな。
 
チャレンジとか、プレッシャーを楽しめるタイプではないですから、できるだけ楽しもうと努力しています。プレッシャーとかをマイナスにとらえたら、楽しくないですし、発展もないですから。それはそれと受け止めて、それに対して自分がどうするか、考えていくのが楽しみ。ポジティブに建設的にやっていこうっていうのを、日々、心がけるっていうか、自然にそうなるっていうか。ただでさえ毎日緊張しているので、そうしないとやっていけないっていうのもあります。
 
現在は『KĀ』のショーで、同じことを毎日、一生懸命に繰り返していますが、日々自分ができる限りのことをしていれば、きっと何か新しいものが見えてくるかなと思っています。どんなことが起きようとも、それがいいことでも、悪いことでも、自分が育っていく過程のひとつだと思うので、それを受け入れ、学んで、自分を磨いていきたいと思いますね。
 
(2006年1月1日号掲載)

近澤泰良さん/カスタム・ハーレービルダー


みんなが寝てる時にも働くべきじゃないの?
現状に満足しないで、ジャンジャン行かなあかんね。

バイク好きが高じて渡米。自作のバイクに乗って全米各地のショーを回るうち、その独特のデザインが評価され始める。2003年、日間でバイクを組み立てる競技番組に登場してから一躍有名に。そのデザインはバイク業界や愛好家から、また全米のバイクショーで脚光を浴びている。「最高作はない」と言い切るミスター・チカのデザインは進化し続け、留まるところを知らない。

【近澤泰良さんのプロフィール】

ちかざわ・やすよし◎1966年大阪生まれ。高校卒業後、ホンダ自動車整備学校でメカニックを学ぶ。ホンダのディーラー、ハーレーのカスタムショップで整備の経験を積んだ後、27歳で独立。1995年に渡米し、自宅でハーレーのカスタムメイドの仕事をスタート。テレビや雑誌に取り上げられ、バイク愛好家の間で一躍注目される存在に。2005年は全米110カ所のバイクショーに参加、多忙な毎日を送っている。www.chicacustomcycles.com

 

がむしゃらに働いてはバイクの借金返済の日々

日本の伝統美をも取り入れた近澤さんのカスタムスタイルは、アメリカはもとより、近年ヨーロッパでも人気が高まってきている

高校時代はサッカーをやっていて、将来、有名選手になりたいと思っていました。その頃、ちょうどJリーグのはしりで、Jリーグに入ったチームメイトもいたけど、僕は誰も誘ってくれへんかったんです(笑)。それで、小学校時代のスーパーカーブームから乗り物への興味がずっとあったんで、ホンダの整備専門学校に入りました。
 
学校からは、4回くらい「辞めろ」って言われた。あんまり勉強しなかったんですね。授業の中でも、「こんなんやってどうするねん」っていうのは、一切勉強しなかった。好きなことには没頭するけど、その他は一切興味なし。そして、卒業してからディーラーの整備士になりました。
 
整備学校の時からバイクはずっと乗っていました。400㏄から始まり、ガラクタを片っ端から買って、いじって動くようにする。家でもやっていましたし、工場でもこっそり夜中に残って、自分の物を持ち込んでやってましたね。
 
バイクは多い時で8台持っていました。それを全部売ってハーレーを買った。残業してなんとか給料を13万円もらって、バイクのローンが12万円とか、そんな感じだったの。バイク買い過ぎて借金いっぱいあったから、滋賀のディーラーで5年頑張りました。売り上げでは全国の拠点の中で3カ月連続日本一になったし、サービスマンのコンテストでも優勝した。
 
ツーリングも好きで、いろんなところを旅したね。日本国内は下道で行けるところは全部。北海道が好きで、有休を取って何度も行ってた。だから嫌われてましたよ、会社では。ある時、会社で支給された工具が嫌で、自分の工具でやってたら、それを上司に咎められました。それから、「(ホンダのメカニックが)なんでハーレーに乗っているんだ」とも言われて。僕も負けず嫌いだから、支店の売り上げを全国で1番にして辞めてやったんです。

 

アメリカでの最初の営業は自分が作ったバイクに乗って

「最初はバイクと寝袋持ってあちこち回りました」という近澤さんは、ハーレー好きの中では『Chica』で知られるカリスマ的存在だ

それから京都のハーレーショップで働きました。1990年頃、ハーレーは部品だけで2万、3万したので、ハーレーショップに行ったら安く買えるだろうっていう安易な考えでした。ショップは社長と工場長と僕だけ。当時、京都にはカスタムショップが1軒しかなかったから、忙しかったですね。3年頑張ったけど、4回腰を悪くしたんです。3回目で立てなくなって入院して。お客さんが「店はもう辞めろ。自分でショップを持て」って入院している間に段取りしてくれて、退院したら工場があったって感じだった。27の時です。店は開けて半年くらいでお客さんも増え出して。借りたお金、スポーンと返せました。そのかわり、24時間営業とは言わないけど、20時間営業くらいやってたかな。
 
その2年後に、アメリカで作ったバイクを日本に輸出する人から「バイクを作らへん?」って誘われて、「行くに決まってるがな」って。で、行ったのはサウスエルモンテ。工場がすべて鉄格子に囲まれていて、そこには4カ月しかいなかった。僕の思い描いたアメリカはパームツリーのビーチだったんですよ。「このままいたら死んでしまうわ」って、辞めて再び独立。トーランスに家を借りて、ひっそり始めたの。
 
こちらに来る時、日本から1番初めに買って改造したバイクを持ってきてたんですよ。英語はしゃべれなかったけど、バイクのショーやスワップミートでバイクを見せているうち、「これ、お前が作ったのか?」って話しかけてくる。そのうちバイクのメーカーやパーツ屋さんから「写真を使わせてくれ」と頼まれるようになって。で、1999年頃、アメリカの企業から「来年のモデルを作ってくれ」とか「カタログの表紙のバイクを作ってくれ」っていうオファーが来るようになった。

 

見たことのない物を作ってやろう

雑誌にどんどん出るようになって、今度はテレビから声がかかった。ディスカバリーチャンネルの『グレート・バイカー・ビルド・オフ』っていう番組では、9日間で1台のバイクを作ったんですよ。ユニコーンのイメージで。アメリカ人と飲んでいる時にユニコーンの話を聞いて、ピーンと来て、「ユニコーンは、みんな形は知っているけど、見たことがない。これや」って。今までにないスタイル、あり得ないスタイルってことで一気に取り上げられ、その番組は何度も放映されました。
 
そこから、注文が一気に増えました。バイクショーの招待もどんどん来るようになった。ハワイのバイクショーに招待された時、日系人たちが神様のように扱ってくれたんです。「有色人種の日本人が、バイク雑誌に出ることは、すごくうれしい」って。白人以外のカスタムビルダーは、それまでバイク雑誌に出たことがなかったんですよ。
 
カスタムメイドは僕が全部、一からやります。スーツと一緒で袖が長かったらダサイし、丈が長くてもダサイし、ピチピチ過ぎでもダサイ。だから、全部お客さんのイメージとスタイルに合わせます。好みからライフスタイルまで全部聞く。僕の色に染めてもしょうがないからね。僕のスタイルが好きだっていうお客さんがまず来て、そこからその人に合わせて作る。

 

想い出のバイクなんてない。常に進化しているから

僕は日本人だから、日本人タッチとアメリカ人タッチとミックスしてる。他の人には絶対にできないトータルバランスを考えてますね。日本人タッチには日本の伝統文化も入っている。バイクを作り出してから、仏像さんとか建物とか、神様のキャラクターとかに興味を持つようになった。昔はこれ、どうやって作ったんだろうって。今は、機械でプログラムしてサッと終わるけど、昔はどんな機械があったかとか、昔の人はどうやって溶接してたかとか。
 
昔の人ってすごいよね。例えばワイパー。ゴムの材質が良くなるとか多少は進化しましたけど、雨が降ったらワイパーしかない。最初からあのデザインで、何も変わっていない。変わらないもの、デザイン的にも誰が見てもホッとするもの。僕はそういうのが好きで、取り入れています。
 
仕事で口癖にしているのは、「better than nothing」「better than before」。ショーの時にお金をつっこんで、100ドルとか200ドルしか儲からなかったとしても、まあ、「何もないよりはいいやん」っていうこと。それとバイク作る時は、絶対いつもチャレンジ。昔作ったバイクは嫌なところを知ってるから、写真に撮られたくない。これまで作った中で想い出のバイクとかは基本的にないんですよ。常に進化してるから。
 
僕は負けず嫌いだからね。「くそー、絶対に負けたくない」という相手が常にいる。自分を信じるなら、とことん信じてほしい。僕はもともと体育会系なんで、ここアメリカは全国大会だと思ってる。世界中から「自分こそは」って思ってるヤツがたくさん集まって来てる。
 
「アメリカは自由だから、どうにかうまいこといくんやないか」って思ってるんだったら、止めた方がいい。自分で一旗揚げようと思うなら、みんなが寝てる時にも働くべきじゃないの?現状には満足はしない方がいいよね。ジャンジャン行かなあかんね。ビジネスで成功しているアメリカ人なんか、みんなそうやからね。
 
(2006年1月1日号掲載)

松久信幸さん/「NOBU」「MATSUHISA」オーナー


成功とは1つのことを「続け切る」こと。一生懸命続けていれば、悪いようにはならない

1987年、ビバリーヒルズのラシエネガ・ブルバードにオープンした「MATSUHISA」は、3年目にはザガットで日本食トップの地位に。アメリカにおける日本食レストランの草分けとして常に注目を浴びてきた。現在、全世界に「NOBU」は15店、1500人のスタッフを抱え、「まだ自分は成功していない」と謙虚に笑う。その陰には何度も転んで何度も立ち上がった、苦労と努力の長い年月があった。

【松久信幸さんのプロフィール】

まつひさ・のぶゆき◎1949年、埼玉県で木材輸入を営む家の3男として生まれる。小学1年生の時に父親を交通事故で亡くす。高校卒業後、東京の寿司屋・松栄で7年間修業をした後、24歳でペルーに渡り、パートナーで寿司屋を経営する。その後、ブエノスアイレス、アラスカを経て、1987年にロサンゼルスに「MATSUHISA」を開店する。1994年にはニューヨークに「NOBU」を開け、以来、ロンドン、ミラノ、ギリシャなど9店舗、展開し、2005年には、さらにダラス、バハマなど4カ所にオープンした。

 

「ここ、いいな」一瞬で寿司屋の虜に

ビジネスパートナーであり、友人でもあるロバート・デ・ニーロと

父親は材木の仕事をしていましたが、小学校に入って2カ月目に交通事故で亡くしたので、父親に対する憧れが強かったですね。パラオで撮った父の写真が家にあって、寂しくなるといつもその写真を見ていた。小さい時からずっと、父親みたいになりたい、外国に行きたいという憧れがありました。
 
6年生の時に、ひと回り上の兄に寿司屋に連れて行ってもらって、「いらっしゃい!」というかけ声、寿司屋独特の匂い、カウンターで食べるというスタイルに一瞬のうちに虜になったんですね。「ここ、いいな」。その時、僕も寿司屋になろうと決めたんです。高校を卒業して、東京の「松栄」という寿司屋に就職しました。
 
ペルー在住の日系人のお客さんが、よくペルーの話をしてくれました。リマの港は世界一の漁獲量ということで、非常に興味を持った。一緒にペルーで店をやらないかと誘われて、休みを取ってペルーに行ったんですよ。ちょうど結婚した時期で、お袋は明治の人間ですからひどく反対した。当時、ペルー移民は行ったら帰って来れないというイメージでしたから。
 
でも、僕はふたつ返事でした。「行きたい」。いったん日本に帰って女房と結婚式を挙げてペルーに戻りました。店はうまく行っていましたが、3年過ぎて、パートナーと衝突してしまったんです。というのも、僕がフードコストを考えていなかったから。いい物を食べさせたいと思うと、どうしてもいい物を仕入れてしまう。でも、出資者は、コストを下げて利益を出したいわけです。その後、何をするという予定もなく辞めてしまったのですが、ちょうど知り合いからアルゼンチンのブエノスアイレスに仕事の口があるというので、引っ越しました。その店には日本からの職人は自分だけで重宝されましたが、アルゼンチンは物価が安く給料も安い。1年間やって、このままでいいのだろうかという不安を抱き、帰国を決めました。

 

開店して50日目で全焼。アラスカでの辛い体験

4年ぶりの日本はオイルショックで景気が悪く、負けて帰った私には居場所がありませんでした。「もう2度、海外に出たい」という思いにかられました。そんなある日、アラスカで日本食レストランをやらないかと声をかけられました。
 
そこでは念願の自分の店を持つことになっていました。工事も手伝いました。そして、オープンから50日目のこと。パートナーから電話がかかってきたんです。「店が火事になっている」と。駆けつけてみると、本当に燃えている。全焼でした。
 
呆然と立ち尽くしましたね。保険にも入っていなかったんです。一銭もなくなったどころか、帰る飛行機代もない。しかし、そういう時にも助けてくれる人がいた。ある人が現金で飛行機代を出してくれました。
 
倉敷の実家に家族をあずけ、ロサンゼルスに単身、逃げるようにしてやってきました。1977年のことでした。最初、ウエストロサンゼルスのミツワというレストランで働きました。そこで借金を返しながら、日本の家族に仕送りをしました。妻と子供2人には、すぐにビザが下りなかったんです。
 
でも、悪いことは重なるもので、やっと買った車が盗まれ、仕方がないので自転車に乗っていると、その自転車まで盗まれてしまいました。でも、もう焦りがなくなっていましたね。アラスカでの経験で開き直っていました。仕事ができて、家族がいて、健康であれば、それでいい。そう思っていました。
 
2年経って永住権が取れると、ミツワのオヤジさんが「もっと自由にやりなさい」と追い出してくれた。その後、王将という店で働き、1987年、ビバリーヒルズのラシエネガ・ブルバードにMATSUHISAをオープンさせたんです。アラスカ時代のことがありましたから、店を持つことにはトラウマがありましたが、うれしかった。何より自分の好きなようにできるのですから。

 

最初は名前も知らなかったデ・ニーロとの信頼関係

ザガットに載ったのはオープン3年目のことですが、最初からザガットを強く意識したことはなかったです。結果的にそういう人たちが来るようになっただけ。ロバート・デ・ニーロとの出会いも、そんな感じでした。最初、誰だか全然知らなかった(笑)。でも、デ・ニーロは気に入ってくれて、しょっちゅう店に来てくれたんです。
 
1年くらい経って、彼から「ニューヨークで店をやらないか」と誘われたんです。「1度ニューヨークに来い」と飛行機もホテルも用意してくれ、彼の家に招待されていろんな話をしました。デ・ニーロはトライベッカという倉庫街のビルを買ったところで、「これがお前の場所だから」と案内してくれました。
 
彼とは4日間ずっと一緒にいましたが、4日目にお断りしたんです。チャンスをくれたことに感謝の気持ちはありましたが、当時、ロサンゼルスの店も3年目で、朝から晩まで働いて、スタッフも7、8人。これでニューヨークにも出すなんて無理。みんながサポートしてくれているロサンゼルスの店をつぶしたくない。アラスカ時代に戻りたくないという恐れがありました。
 
デ・ニーロは「わかった」と言って、その後も店に来てくれ、4年後、また「もういいだろう?」と電話をくれたんです。実は、これまでの経験から「パートナーシップはだめだ」という気持ちもあったのですが、4年間、自分を待ってくれたということで、彼を信用できたんですね。MATSUHISAも7年目で、ある程度回るようになっていたので、1994年、NOBU NEW YORKを出すことに決めました。その後、ロンドン、ミラノと9店舗を開けて、2005年にはニューヨーク、ロンドン、ダラス、バハマと4店増やしました。15店舗のほか、「セレ二ティー」というクルーズ船でも料理を出しています。

 

大切なのは誠心誠意で一生懸命続けていくこと

僕のビジネスは、あくまでも職人としての見方から始まっています。お店って出すのは簡単なんです。場所とお金さえあれば。ただ、そこにスタッフが育っていかないと難しいですね。スタッフには料理に「心を入れる」ということを繰り返し教えています。
 
ロンドンの店には「ノブさん教科書」というのがあるそうです。どこで修業をして、どんな気持ちで店を開けたか、ノブのフィロソフィーとして、マネジメントチームがトレーニングのために作ったんだそうです。知らないところで、そういう物ができているというのは驚きですが、そういう所で仕事ができることが自分でもうれしい。
 
スタッフは世界で1500人くらい。いろんな所に行って、マネージャーやシェフのみんなと話すことも僕の仕事。みんなを元気づけることもあるし、怒る時もある。誠心誠意、接していこうと努力しています。
 
人生で大切なのは、夢を持つことと、1つのことを続けること。「継続は力なり」という言葉が好きですが、1つのことを「続け切る」こと。一生懸命続けていれば、悪いようにはならないんですよ。自分がその仕事について、人生について、商売に対して一生懸命、誠心誠意を尽くしていればそれでいい。仕事をしている時は、お客様にどうしたら喜んでいただけるか考えることが原点です。
 
(2006年1月1日号掲載)

河辺美穂さん・美佳さん/シルク・ド・ソレイユ『O』出演者


辛いことを前向きに捉えれば、何でも気楽に頑張れるはず(美穂)
辛い時を越えれば、必ず良いことが待っています(美佳)

世界中の一流アスリートで構成されるサーカス集団、シルク・ド・ソレイユ。その最高峰で演技を披露する、日本人の双子、河辺姉妹が、それぞれの過去、現在、未来を語った。

【河辺美穂さん・美佳さんのプロフィール】

かわべ みほ/みか◎1974年生まれの双子姉妹。美穂が姉。共に5歳から競泳をスタートする。中学生の頃にシンクロナイズドスイミングに魅せられ転向し、それ以降2人共頭角を現す。美穂は、1996年アトランタオリンピック・シンクロ団体で銅メダルを獲得。美佳は、1999年ワールドカップ団体で銀メダルを獲得。姉妹では、1997年日本選手権デュエット2位。2001年、ラスベガスでシルク・ド・ソレイユが行うショー『O(オー)』出演のため、美穂が渡米するが、美佳は事故により断念。その後美佳は、日本で水中パフォーマンスチーム、トゥリトネスのメンバーとして、シンクロをモチーフにしたショーの振り付けから出演まで幅広く活躍。2008年、美佳は再度シルク・ド・ソレイユに挑戦。現在2人で、同ショーに出演している。

 

シドニー五輪の選考で競技シンクロを断念

これまでずっと一緒だった2人が共に演じられる幸福を噛み締め演技をする河辺姉妹。

美穂:妹と一緒に5歳から競泳を始めました。5人姉妹で、姉が競泳をやっていたため、その影響で親が自然と習わせたんです。ある日、シンクロの大会を見て、美佳と2人で「シンクロやりたいね」って。ちょうど競泳には飽きていたし(笑)。
 
美佳:シンクロをしようと決心してから、クラブに通い始めたのが半年後。クラブは東京にあって、自宅の茨城から片道2時間。最初は親が許してくれなかったので、始められるまでに時間がかかりましたね。でもその分、やりたい気持が強まり、最初の3年くらい(中学生の間)は特に面白かった。
 
美穂:私たちには競泳の経験がありましたから、シンクロへの転向は特に難しくなかったです。中学の時に、私たち2人のデュエットで全国大会に出場しました。競泳の経験とコーチの良い振り付けのおかげで、運良く行けたという感じ。双子だから息が合いやすいし、点数も出やすかった。足の形もよく似てるんで、それだけでも見た目がきれいなんです。その後、私は1996年のアトランタオリンピックに出場しましたが、まぐれもいいとこ(笑)。10人選考されて、うち8人が出場するんですが、私は9番目の補欠。でも決勝の時、私に出番が回ってきて、ほかの選手に付いて行くので必死。すべての記憶がなくなっちゃうくらい、本当に大変でした。
 
美佳:レギュラーの選手は皆、半年間一緒に練習していますが、姉は、横で見ながらの練習。だから、本番直前での出場は、本当に大変だったと思います。
 
美穂:オリンピックの後は燃え尽きちゃって。シンクロから遠ざかりたいとさえ思いました。今になってようやく、オリンピックの良さとか、あの時に自分を追いつめた経験がすごく貴重だってことがわかるようになりました。アトランタが終わってからは、2人共2000年のシドニーを目指しましたが、選考から脱落。そんな頃、アメリカに留学しているシンクロ仲間から、シルク・ド・ソレイユのことを聞いたんです。その時、「ダメもとでいいから挑戦したい!」って思いましたね。オリンピック選考会からも外れてしまったので、怖いもの知らずになっていたんでしょう。「恥をかいてもいいからトライしよう!」って。
 
美佳:私は、シルク・ド・ソレイユなんて名前すら知らなかったんです(笑)。選考に外れてから2週間後、2人でラスベガスにシルクの『0』を観に行きました。「こんなシンクロもあるんだ」って思った瞬間、「やりたいっ!」と。でも、皆スタイルが良くて、もし私たちが入団しても浮いちゃうんだろうなって(笑)。ですから、合格なんてまず無理と思いましたよ。実際、オリンピック選手もたくさんいました。
 
美穂:そして、2人揃って2000年3月にオーディションを受けたんです。
 
美佳:結果は「採用するかもしれません」という、曖昧なお知らせでした。オーディションが終わってからは、合宿メンバーを選抜するんです。当時シルクは、次期メンバー候補向けの合宿をして、その年に何人補充するかを決めていたんです。その予備軍を集めて4カ月間特訓するんですね。要するに、アスリートからアーティストになるための訓練。それには姉が選ばれて。
 
美穂:オーディションの出来は、妹の方が良かったので、どちらかが選ばれるなら…。
 
美佳:私かなって。
 
美穂:でも私が選ばれた。この時は、2人共ショックで悲しくて。「何だ、結局はオリンピック出場っていう名前なんだ…」って、現実を突き付けられた感じでした。
 
美佳:私は、その時初めて、オリンピックに出れなかったことを悔やみましたね。

 

姉はシルク入団、妹は大ケガで断念

美穂:シルクでの合宿経験は、衝撃的で、観るもの聞くものすべてが新しい世界。学ぶことが楽しくて仕方ありませんでした。最初私は、アーティスト的なものは何も持っていませんでしたが、それを引き出せるんだという思いにさせてくれました。そんな機会を与えられたのだから頑張りました。しかし、合宿が終わったからといって、役が来るわけではありません。役の空きがないと、何年も待つことになります。「もしかすると、呼ばれないかも」と不安でしたよ。その間日本で、『水の道化師』というシンクロのコメディーショーに出演していました。10カ月ほど待ち、ようやくシルクから声がかかったんです。
 
美佳:私は、姉の合宿の翌年に合宿メンバーに選ばれました。でも、参加の2週間前にプールで滑って、膝を脱臼骨折。全治6カ月で、生まれて初めて人生、目の前が”真っ白”になりました。ほんとに真っ白になるんですよ。
 
美穂:ショックと痛みでね。
 
美佳:ショックの方が、断然大きかった。目標が、全部台無しですから。オリンピック、シルクの合宿、そして今回と、3度にわたって私だけ行けなかったという思いもありました。それからの6年間、姉はアメリカ、私は日本と、ずっと一緒だった2人が、別の世界で歩み始めました。私は姉から紹介されたシンクロのコメディーショーに参加・出演し、全国を回りました。そこでは出演はもちろん、振り付けや企画、演技指導などもこなし、自ら進んで色々と創り上げていきました。それまで私は、何かと姉に頼りっきりの性格だったんですが、姉と離れたことで、精神的にかなり自立できたと思います。しかしやはり夢が諦めきれず、最後のチャンスとばかりに、2007年にシルクのオーディションを受け合格したんです。ありがたいことに、その頃の日本の仲間たちからは引き止められましたが、諦められなかったんです。

辛い時を越えれば先には良い時がある

美穂:シルクのメンバーは皆、自分たちが楽しんで演技をやっています。私たちの場合は特に、2人がこの場で再会して一緒にやれていることが、とてもラッキーなこと。こんなチャンスをいただいて、こうして一緒に泳げることが、とても幸せです。
 
美佳:私たちが出ている『O』のキャストは、全員で75人ほど。世界20カ国ほどから精鋭が集まっています。そんな中で一番大変なのは、常にモチベーションを高くキープすること。私たちは、週5日、1日2回の同じステージを繰り返します。でも人間だから、気分に波があるじゃないですか。でも、ショーの前には高めなければならない。それはすごく大変ですね。
 
美穂:どんなスポーツでも仕事でも、それは同じことだと思いますが、私たちの場合、お客様はその時のショーしか観られない。だから、すべての瞬間をきちんと演技しなければならない。その分、余計にプレッシャーを感じるのかもしれません。
 
美佳:次の目標としては、将来的には、日本に戻って一般の人に楽しいシンクロを教えたいと思っています。そのためにも、シルクで色々吸収して、日本にいた頃には学べなかったことを勉強し、それを教える面で活かしたいと思っています。
 
美穂:私の人生は、ずっと水泳やシンクロ一色だったから、将来は別の世界に行きたいと思っています。その時のために現在大学に通い、次のステップに向けての準備をしています。実は、9月に子供を出産しました。『O』には子持ちのメンバーも多くいますから、シンクロも勉強も子育ても、一生懸命やらなきゃ(笑)。大変だけどすごく恵まれていると実感しています。これまでの人生を振り返ると、一番挫折しそうな時期が、勉強できた時だったと思いますね。辛い時期こそがとても良い経験だって気付けば、何でも気楽に頑張れるはず。不可能ってことはありませんから、ダメもとで挑戦することは、きっと良い経験になります。特に若い方は、どんどん挑戦してほしいですね。
 
美佳:私も姉とよく似ていて、辛い時を越えれば必ず良いことが待っていると思って頑張っています。自分の人生を振り返っても、辛い時の後には必ず良い時が来ていますから。
 
美穂:アメリカって色々大変だけど、自由に挑戦できる国。だから、頑張るというより、楽しんじゃうつもりで時間を過ごした方が良いかもしれませんね。
 
(2010年1月1日号掲載)

雲田康夫さん/Frec Food代表


自分を切羽詰まった状況に追い込んだから上手くいった。少なくとも、失敗したら日本に戻ればいいという気持はなかったね。

「Mr. Tofu」と呼ばれる雲田さんは、日米食文化の狭間で、全米に「TOFU」を浸透させた功労者。25年にわたる、その熱い思いをうかがった。

【雲田康夫さんのプロフィール】

くもだ やすお◎1966年、青山学院大学法学部卒業、森永乳業株式会社入社。1970年代初頭のスーパーマーケット台頭により、同社の牛乳販売は不振に。そこで、健康ブームに沸くアメリカをターゲットに販路を拡大。1985年に単身渡米し、現地法人を設立した。以後幾多の失敗を繰り返し、1993年、当時のクリントン大統領の妻ヒラリー夫人が豆腐の話をしたのをきっかけに注文が殺到。それ以降、アメリカの豆腐市場の形成に尽力し、「ミスター豆腐」と呼ばれる。2008年、第3回日本食海外普及功労者表彰事業農林水産大臣賞を受賞。Morinaga Nutritional Foods, Inc.前社長、中京大学国際英語学部客員教授、日本食文化振興協会理事長。著書に、『豆腐バカ 世界に挑む』『売れないモノは俺に任せろ!』(共に光文社)

 

強烈なスーパーの追い上げにアメリカに豆腐市場を求めた

第2回日本食海外普及功労者表彰事業農林水産大臣賞の授賞式。当時の小泉純一郎首相と並んで。

1966年、大学を出て森永乳業に就職しました。1970年代初頭にスーパーマーケットの勢力が台頭し、主婦の買い物パターンが激変。宅配で価格が守られていた牛乳が、スーパーの「今日の特売品」で売りさばかれるようになった。そうなると、誰も宅配牛乳を買わなくなるでしょ。そこで、牛乳の配達網を活かして、ほかの商品も販売できないか全社で考えた。参入しやすく、しかも市場が大きい商品。それが、豆腐だったんだ。
 
そこで森永は、5年かけて、常温で長期保存できる滅菌処理した豆腐を開発。東京に大規模豆腐製造設備を用意した。しかし運悪く、1979年に中小企業を保護する法案が成立し、豆腐の販売には全国豆腐商業共同組合の許可が必要になったんだ。当然、豆腐組合は大企業の豆腐販売を許可しないよ。そこで、海外の日本人駐在員や、健康食の代名詞となった日本食の普及に便乗し、アメリカ市場の開拓を決定。それを機に、1985年の現地法人設立で渡米しました。40歳の頃だったね。
 
豆腐のコンセプトは、「低カロリーでコレステロールゼロの植物性高タンパク食品」。だから、アメリカ人には魅力的なはずなんだよ。でも実際食べさせると、「気持ち悪い」「味がない」「TOFUの発音が、TOE(つま先)に似ていてイヤ」と散々。しかも、原料の大豆は、当時のアメリカ人には家畜のエサ。
 
立ち上げから4年経った1988年のある日、追い討ちをかけるように全米紙『USA Today』が、「アメリカ人が最も嫌う食品は豆腐」と掲載しちゃって。その上、本社から撤退命令が出るし。一瞬、「こりゃダメだ」と弱気になったね。
 
そこで、豆腐にブランドネームを付けようと考えた。思い付いたのが、鉄板焼きの「BENIHANA」。「BENIHANA」ブランドなら、スーパーも買ってくれると思ったんだ。そこで、ニューヨークにいる創業者の故ロッキー青木さんにお願いに行ったら、ダメだって。そりゃそうだよね。でも、私も必死さ。「では、うちの豆腐を使って料理を出してください」とお願いした。すると、「『低カロリーでコレステロールゼロの健康食品です』と豆腐を説明したら、ステーキはどうなる?悪者になっちゃうじゃないか」って。で、どうしたらいいか相談したら、「自分が広告塔になりなさい」と、ご自身の経験を踏まえて、丁寧に教えてくださった。
 
ロサンゼルスに戻って、自分に何ができるか考えた。そして思い付いたのが、車のナンバープレートを「TOFU NO1」にすること。するとアメリカ人コンサルタントが、「『豆腐はノー!』って読めるよ」って。「うむ、なるほど…」。結局「TOFU A」にしたけど、走ってると、周りのドライバーが窓から親指を下に向けて「ブー!」って(笑)。
 
次にロサンゼルスマラソンで、豆腐の着ぐるみを着て走った。運悪く転んだけど、そこにTV局のスポーツレポーターがいて、着ぐるみを指して「それは何だ」と。痛いのを我慢して、TVカメラの前で「ノーコレステロール、ヘルシーフード!」と、あれこれ説明したよ。
 
その時、ロッキーさんが言ったことがやっと理解できた。ある文化に異質の食べ物を浸透させるというのは、優れた栄養面にフォーカスするだけではなく、自分が広告塔になってチャンスを逃がすなってことだったんだね。
 
それからも色々挑戦したよ。でも、スーパーで冷奴のデモをやったら、カツオ節にしょう油をかけるとクネクネ動き出してアメリカ人はひるむし、味噌汁を出すと、一気に飲んだおばあちゃんがヤケドして、止めろと言われるし。スーパーの店長に「そこを何とか」とお願いして、今度は麻婆豆腐のデモを始めた。すると人気は上々!「よしっ!」と思ったけど、客は口を揃えて「麻婆ソースをくれ」って。「ソースは他社製品だから…、豆腐を買って」と言うと、「じゃあ要らない」だって。

桃栗3年、柿8年。豆腐は10年かかるね

「TOFU A」のプレートを付けた車に腰掛ける雲田氏(上)と、ロサンゼルスマラソンで豆腐の着ぐるみで走る様子

年貢の納め時かって思いながら、ある米系スーパーの豆腐売り場に立ち寄った。すると、潰れた豆腐を買っているおばあさんがいたんだ。ビックリして「どうするの?」って聞いたら、「果物を入れてシェイクにするの」って。驚いたね。私の発想になかったから。早速会社に帰って、栄養士とフードスタイリストと社員を呼んで、果物入り豆腐シェイクを作ったら、これが美味い!そこで、「革命的な健康朝食『豆腐シェイク』」というふれこみでデモを開始。すると大盛況。結局ね、アメリカ人に豆腐を売るんだから、白くて四角い「日本」の豆腐を売る必要はなく、ぐちゃぐちゃの豆腐でいいんだよ。渡米6年目にして、それがやっとわかった。
 
とは言え、まだ軌道に乗らなかったし、相変わらず本社は撤退しろと言う。そんなある日ラジオを聞いていたら、当時のクリントン大統領の妻ヒラリー夫人が、「私は、夫のビルに健康食品の豆腐料理をすすめるんだけど…」と話していた。当時豆腐は「soy bean cake」「soy bean curd」と呼ばれていたのに、彼女は「TOFU」と発音した。すぐにホワイトハウスに豆腐1ケースと、『豆腐マジック』と名付けた自作レシピを送ったんだ。そしたら、ヒラリー夫人から礼状が来て。それで「アメリカで頑張ろう!」って決心したよ。
 
それ以降、「家畜のエサで作った健康食品」という意外性も手伝って、色んなメディアが豆腐を取り上げた。すると、全米から注文が殺到。自信が付いたもんだから、本社に「もう少しやらせてくれ」と言ったら、「自分で資金調達するならOK」とつれない返答。だから独立し、借金して1日10万丁生産できる拠点をオレゴンに建設したんだ。結局、順調に売れ始めたのは、10年ほどしてからだったね。桃栗3年、柿8年。豆腐は10年だよ(笑)。

 

経験を後世に伝える。それが私の使命

売れるかどうかわからない物を売る時は、莫大な時間がかかるのは当たり前。だけど、時間をかければ良いってもんでもない。要は本人が、本気でどうにかするという熱意を持っているかどうかだね。これまで、精神的な重圧から10円ハゲができたり、胃潰瘍になったり、血尿が出たり。周りからは「バカじゃないの」っていつも言われた。でもね、人から「バカ」って思われるレベルに達して、やっと事業が成功に向き始めるんだよ。
 
ある程度まで頑張ったら、次は発想の転換。固定観念に縛られず、柔軟な発想で物事を考えることが肝要だね。「他人のせいにせずどこまで頑張ったか、そして、どれだけ大胆に発想を転換したか。それを自問自答してください」って、いつも講演で話してますよ。
 
今は、多くの方から「最初は大変でしたね」と言われますが、、当時、英語ができない40男には、アメリカで豆腐を売り込む以外に、生きる道がなかっただけ(笑)。でもね、いつも自分を切羽詰まった状況に追い込んでいたから、うまくいったんだと思うし、失敗したら日本に戻ればいいという気持ちもなかった。でないと、人間は簡単な道に逃げちゃう。最近、『売れないモノは俺に任せろ!』という本を出しました。サブタイトルが「成功法則58」だけど、裏を返せば58話の失敗談。それを反面教師にして読んでもらいたいね。
 
最後にね、私の使命は自分の経験を後世に伝えることだと思ってる。最近の日本には、私の年代で元気のない方がたくさんいらっしゃるようだけど、彼らには、人生や社会人生活の中で蓄積した豊富な経験と深遠な知識があるはず。あれだけ苦しい時代を乗り越え、日本の成長の原動力となった世代なんだから。そしてそれは、日本の国にとって貴重な財産だと思うね。だから沈黙を守らず、「俺たちには、知識と経験を若者に伝える使命がある」って思っていただきたい。そうすれば、自ずと元気が出てくるはずです。
 
こんな私も、今になってわかったことはたくさんあります。だけど、若い世代にこれまでの私を惜しみなく伝え、彼らがその次の世代にまた伝えてくれれば、最高にうれしい。そう思って、毎日頑張ってますよ。
 
(2010年1月1日号掲載)

松井紀潔さん/松井ナーサリー・インク社長


稼いだお金は、自分の懐に入れるべきものではありません。それをすべて、地域貢献に使うのが正しいと信じています

1万円を握りしめ、太平洋を渡った松井さん。アメリカでの農業に大志を抱いた25歳は、世界一の蘭生産者に。これまでの道のりと、今後の生き方を聞いた。

【松井紀潔さんのプロフィール】

まつい としきよ◎1935年、奈良県生まれ。1961年に、農業団体研修プログラムに参加し、カリフォルニアに1年滞在する。その後帰国するが、アメリカ体験が忘れられず再度渡米し、菊農園で働く。当時の所持金は1万円。その後、妻と娘を呼び寄せ、永住権を取得。独立して、本格的に菊栽培を始める。その後幾多の試練を経て、バラ栽培、蘭栽培へと転向した。現在は、資産100億円を超える世界一の蘭生産者。農園の従業員数190人、年商22億8500万円、純利益1億7600万円、蘭栽培の温室総面積は東京ドームの約6倍。蘭栽培としては世界一の規模で、全米の25%、カリフォルニア州の50%のシェアを握る。地域活動にも熱心に取り組み、2006年の農業リーダーシップ表彰受賞を始め、市長賞、郡会議賞などを多数受賞。

 

日本の農業ではダメ。大志を抱き、単身渡米

巨大な敷地に並ぶ蘭の温室。全敷地面積は、東京ドームの約6倍

私は奈良出身で、実家は農業を営んでいました。23歳で結婚。長女も生まれました。しかし、「今の日本の農業では夢が実現できない。満足できず終わってしまう」と、心の中では思っていました。
 
1961年、25歳の時に1年間の農業団体研修プログラムに応募し、カリフォルニアに派遣されることになりました。妻と娘を奈良に残して行かなければなりませんでしたし、長男で家を出ることの後ろめたさや世間の目も気になりました。母は、「出て行くのはいいが、戻って来れないよ」と言いました。厳しい言葉ですが、それは母のはなむけの言葉でもあったんです。「出た以上は頑張れ」と。その言葉は、アメリカ生活で私をずっと支えてくれました。
 
1年が過ぎ、日本に帰国。しかし、アメリカのことが忘れられませんから、帰国して1年ほどで、すぐにアメリカに戻ることにしました。ビザの問題で妻と娘を置いて行かざるを得なかったため、また私1人での渡米。その時の所持金は1万円。しかし、自分には渡米しかないという情熱がありました。
 
2年後、永住権申請を始め、妻と娘を呼び寄せました。そして、1966年に永住権を取得し、1967年に独立。貯めた5千ドルを資本に小さな農園を借りて、菊栽培を始めました。妻も農園に出て働いてくれました。幼い娘は、あるアメリカ人の方が無料で面倒をみてくださったんです。今でもその理由がわからないのですが、後に生まれた3人の子供の面倒も見てくれて。その方の温かい気持ちのおかげで、今の私と家族があるわけですから、とても感謝しています。
 
私が栽培を始めたのは大輪菊。綿密なデータに基づいた経営計画と10年先を見越したプランを立て、運営しました。私が実行したことは、高品質の大輪菊を周年供給することでした。そして、委託販売を一切せず、1都市1店舗のみで販売。おかげさまで順調に業績が伸び、全米シェアの15%を占めました。
 
しかし、1970年代のオイルショックで、収益に陰りが出始め、バラ栽培に転向しました。アメリカでは、バレンタインと母の日にバラの消費が増えるのですが、私は、時代のキーワードは「カジュアル」だと睨んでいましたから、バラも年中気軽に利用されると踏んだのです。

 

従業員への愛が足りない。それに気付いて大改革

蘭と名の付く品種の実に90%を栽培する松井ナーサリー

カリフォルニアの海岸沿いを隈なく調査し、バラ栽培に適した場所を探しました。見つけたのが、今農園を営むサリナスだったのです。基本的にバラは、夏に育てるのが難しい花。しかし、サリナスの気候は夏でも涼しく、それを利用して新品種のベガというバラを栽培しました。誰もが欲しくても手に入らない「夏のバラ」を栽培し始めたのです。これも大当たりしました。どんどん夢が実現していくのを実感しましたね。
 
しかし、1984年の秋、メキシコ系の農業従事労働者の組合結成に火が着き、私の農園にも飛び火しました。私は従業員に、平均賃金の3割高で支払っていましたから、影響がないと高をくくっていたんです。しかし、組合は容赦なく賃金アップを要求。その後2年ほどは連続赤字でした。従業員のことを考えて運営してきたのに、なぜこうなったのか悩みました。
 
そんな時、京セラ名誉会長の稲盛和夫氏著『心を高める、経営を伸ばす』という本に出会いました。その本を読んで、自分の経営には、従業員に対する「愛」が足りないと気付いたのです。
 
そこで早速、組織改革に取りかかりました。マネージャーと12人の課長職を全員メキシコ人にし、「コモスタール!(元気か)」「アディオース!(さようなら)」と、私からスペイン語で元気に話しかけるようにしました。また、作業効率の上昇を目指し、マネージャーの負担軽減のためグループ制を採用。出来高払い制にしました。すると、時間給制より20%ほど作業効率が上昇。給料が増えたため、社員にも活気が出ました。その結果、皮肉にも社長の私の給与は、社内で8番目に下がりました(笑)。
 
しかし、ここでも順調にいかないものです。南米産の安いバラが、市場を荒らし始めたのです。その状況は日増しにひどくなり、1991年頃には、周りの農園がどんどん廃業していきました。
 
そこで、私は蘭栽培に注目しました。当時のアメリカには蘭の周年栽培はなく、栽培技術は、愛好家の趣味の領域を超えていませんでした。しかし、大規模栽培を可能にすれば、高価な蘭が家庭の主婦でも手が届く花として普及し、廉価で市場に流せると私は考えたのです。「アメリカの台所に蘭を飾る文化を作ろう」。それが、私の命題でした。私は62歳、最後の挑戦だと思いました。
 
それから世界中を周り、蘭栽培を研究。商品選択の幅を広げ、誰でも買えるようにと、大・中・小のサイズを用意し、豊富な種類を栽培しました。その甲斐あって、ほぼゼロだった蘭の消費量が、8年で鉢植え花の第2位となるほど一般的になりました。手前味噌ですが、私がやってなかったら今でも蘭は高価で、一部の人しか楽しめなかっただろうと思いますね。
 
おかげさまで、現在は40エクタールほどの農園で、1千万鉢を栽培しています。胡蝶蘭を中心に、蘭と名の付く花の90%を生産。規模的には世界最大の生産場となり、蘭の鉢花作りとしては、全米25%のシェアを占めています。

最後は1万円だけ残れば良い

私は、アメリカに来たからには移民同士でまとまるのではなく、現地の人の中で頑張ろうと決めていました。ですから、友人にも恵まれ、すてきな出会いを経験しました。やはり、日本を飛び出した以上、まずはその地域の人たちと上手く交わらないとダメです。アメリカで腰を据えるつもりならなおさら。日本を引きずって暮らすのではなく、アメリカの規則に従って生きなければなりません。もちろん言葉のハンデはありますが、気持ちの伝わり方に違いはありません。
 
私は、2004年に松井奨学基金を設立しました。そして、地元の恵まれない子弟の学業支援や奨学金に私財を使うことを遺書に残し、公表しました。なぜなら、地域の人々のおかげでここまで来られたという、感謝の気持ちがあるからです。私が与えてもらった機会を、ほかの人にも与える。これが私の使命だと思っています。
 
また、4人の子供が全員ハーバードを卒業し、もう教育費が要らなくなったことも基金創設の理由です。この先、稼いだお金を使う所がありませんからね。
 
サリナスは農業の街で、移民も多い。家計が苦しく、大学に行けない人もたくさんいます。そういった人たちに教育の機会を与え、人間育成を促す。そうしないと、社会が良くなりません。今は収益の10%を還元していますが、いずれは土地も全部売って、そのお金を地域貢献に使おうと思っています。おそらく、売れば100億円くらいにはなるでしょうから、今後25年間に2~3千人くらいは大学に送れるはずです。そしてその人たちが、20年、30年後に社会に還元してくれたら、こんなにうれしいことはありません。それが一番正しいお金の使い方だと信じています。
 
私の子供は跡を継がないでしょうし、押し付けるつもりもありません。ですから子供たちは、私の財産を1セントたりとも期待していません。もちろん、私も残しません。その代わり、自分が人を助けられるようになった時に、人のために尽くすことが人間としていかに尊いかという「利他の考え」を財産として残すつもりです。元を辿れば、私は1万円でやって来た男です。その分だけ手元に残ればいいんですよ。
 
私は死ぬまで農民です。汗を流して土地から作物を生み出し、そしてそれをまた土地に返す。今でも、農園で一番の働き者は私。100歳までこの調子でいくつもりです。
 
(2010年1月1日号掲載)

出村文男さん/武道家、映画スタント、俳優


この国のために私ができることは人間育成。子供たちの成長の一助となれることが生き甲斐なんです

在米45年。日本での空手生活に限界を感じ渡米するが、日本人としての誇りは常に堅持。これまでの経験を基に、出村流アメリカでの生き方をうかがった。

【出村文男さんのプロフィール】

でむら ふみお◎1940年、横浜生まれ。1948年、8歳で剣道を始め、52年頃より本格的に空手を始める。1960年、東日本空手大会優勝。1961年、全日本空手大会優勝。1965年に渡米し、オレンジ・カウンティーに空手道場を開く。1969年、雑誌『BLACK BELT』で“Instructor of the Year”に選出。1969年~1974年、“Japanese Village & Deer Park”で空手のデモショーを行う。1972年、“Nunchaku Karate – Weapon of Self-defense”、1973年“Golden Fist Awards”受賞。1975年には、雑誌『BLACK BELT』から“Man of the Year”に選ばれた。映画は、1994年の『Rising Sun』、1995年の『Mortal Kombat』に出演。2002年に「Shitoryu Genbu-kai Association」を設立し、現在、サンタアナ糸東流空手玄武会総本部会長を務める。

 

母に諭され空手道を続けた

(上)雑誌『BLACK BELT』には、通算60回ほど表紙に登場(下)ブルース・リー(中央)とスティーブ・マックイーン(左)と。有名武道家や俳優との交流は深かった。

私が空手を始めたのは終戦直後の何もなかった時代。小さい頃、身体が弱かったので、それを克服するために始めました。当時空手はまだ新しく、カッコよくてミステリアスなところに惹かれましたね。1957年頃から空手の試合や審判などのルールが整備され、1961年に初めて行われた全国大会で私が優勝。その後2~3年続けて出場しました。しかし、1964年の東京オリンピックの頃、先生から現役を退いて審判に回るように言われました。私はまだまだ若かったし、現役でやり続けたかった。また、当時の先生とは考え方に食い違いもあり、「日本で空手をしても仕方がない、外国に出よう」と決心したのです。
 
渡米したのは1965年。1人で日本を離れ、サンタアナで住み始めました。小さなガレージを利用して、こちらで知り合ったパートナーと空手を教え始めました。しかし、道場を開いたと言っても生徒は少なく、お金もない。そんなある日、私は練習中に誤って相手の歯を折ってしまい、治療費を払わされました。「こんな馬鹿らしいことはない」と思い日本へ帰国したんですが、日本に着いた途端に後悔して…。だってアメリカを体験すると、日本の何もかもが小さく思えて、もうここには住めないと思ったんです。それで今度は、全日本空手道連盟の笹川良一会長の協力を得て、1966年に再度渡米。それからは「成功するまでは絶対帰らない!」ともう死ぬ覚悟でした。
 
渡米後は、道場の仕事をしながら、ブエナパークの日本村で空手ショーに出演していました。日本の伝統的な空手、例えば「突き」の演武では、顔に当たる直前で手を止めるのですが、アメリカ人にはそのすごさがわからない。そこで「突き」の時には、実際に当たったような演出で見せ場を作ったんです。観客にはとても受けたのですが、日本の空手界からは大クレーム。「空手は見世物じゃない」って。どうするべきか、とても悩んで、ショーを辞めようとも思いましたね。辞める前に、一度母に見てほしいと思い、アメリカに呼んだんです。「これが最後のショーかもしれない」って私が言うと、「悪いことをしてるんだったら、辞めなさい」って。「悪いことなんかしていない」と返答すると、「だったらやりなさい」って言ってくれたんです。母は明治の人間で昔の小学校しか出ていませんが、あの時代の人の、そういう力ってすごいと思いますね。
 
こうして、空手道場とショーの出演を通して、色々な武道家と出会いました。ブルース・リーとは、UCLAで空手と古武道の演武をした時に知り合いました。彼はとにかく勤勉で、研究熱心な男でしたね。チャック・ノリスとは、彼が韓国での兵役を終えて帰国してから知り合いました。彼は向こうでテコンドー(韓国式空手)を習ったのですが、テコンドーは足技が中心であるため、特に手技の「突き」を習いたいと私を訪ねて来たんです。ショー・コスギとは、日本村のショー出演者を探している頃に知り合いました。彼は日本から来たばかりで、当時はまだ茶帯。12年ほど一緒にショーに出て一生懸命やってくれました。スティーブン・セガールはこの近くに住んでいて、合気道をやってるんです。彼もショーに数年一緒に出ましたね。もちろん、今でも付き合いがあります。
 
1974年のオイルショックで、日本村が倒産。その2日後、ラスベガスのヒルトンホテルから呼ばれて武道ショーに2年ほど出演。その縁もあって、バート・ランカスター主演の映画『ドクター・モローの島』のオーディションを受けました。その配役は、トラやライオン、熊などの猛獣と戦うというもの。50人ほど受験者がいましたが、皆、怖くて逃げ帰ってしまったんです。もちろん私も怖かったですよ。でも、武道の訓練を思い出し、「できないことはないはず」と参加しました。
 
これがきっかけで俳優協会に入りました。そして、次に来たオファーが『The Karate Kid』の主役。ところが主役となると台詞もたくさん。とてもやりたかったのですが、私の英語力では無理だとお断りしました。すると1カ月ほどしてから連絡があり、主役にはパット・モリタが採用されたものの、彼は空手ができないため、彼のスタントとして参加してほしいと頼まれたのです。それ以降14年間、彼の出る映画はすべて、私が影武者として出演しました。

 

負けることを知って初めて勝つことができる

『The Karate Kid』のパット・モリタ氏(左)と。常にモリタ氏の動作を研究した。

空手がオリンピック競技に採用され、同じ条件で公平に勝ち負けを決定する「スポーツ化」が進みました。しかし、空手は元々、護身から始まったもの。身体が小さくても、大きい相手に勝つことができる技を鍛錬するものなのです。今は日本も含めて、世界中で空手をスポーツとして捉え、勝つことしか教えない。でも、負けることを教えないと勝てないし、長続きしません。「七転び八起き」という言葉がありますが、勝敗よりも、勝った理由と負けた理由をきちんと教え、負けても頑張れば、上に上れるんだってことを教えるべきなんです。私は10%はスポーツとして空手を教えますが、あとの90%は武道、つまり人間形成のために指導していると思っています。
 
昔の日本は今と違って、周囲が皆自分の先生みたいな感じだったでしょう。タバコでも吸ってたら、隣の人や知らない人にも叱られる。今の子供は誰にも指導されないからかわいそうなんですよ。武道で大切なことは子供をかわいがるだけじゃなくて、教育して世の中に出ても生きられるような人間にすることなのです。生徒にはいつも「チャンピオンになるよりもいい人間になれ。強くても性格が悪かったら誰も見てくれない。性格が一番この世の中で大切なことなんだ」と伝えています。

 

外国で生きるなら日本人として責任を持つ

アメリカで生きていく上で大切なのは、「初心忘れるべからず」の教え。アメリカに来た時、何をやりたいと思ったのか、それを常に考えていなければなりません。そして、お金で動いてはいけないということ。どんな小さな仕事でも、報酬の有無に関わらず、ベストを尽くしてやる。お金は追う物ではなく、付いてくる物なのです。そうすると人伝えで評判も広まり、引いては次のステップにつながるものです。また、時間の無駄遣いもダメです。時間は戻って来ませんから。どれだけ有意義に使えるか、常に意識してください。
 
それと、自分の進むべき目標を作る。目標がなければ何もできないし、道がなければ歩けません。将来辿り着きたいゴールを設定し、そこに向かう道を自分で開拓するのです。そういうことをせず、映画スターになりたいとアメリカに来てもムダです。夢はあっても、それに向かう地盤がないからです。映画スターになろうとするなら、学校の演劇部に入るとか、お金がないなら無料の学校を探して勉強するとか、あるいは、テレビを見て演技の練習をするとか、やり方はいっぱいあるはず。そういう努力を重ねないと、大きい夢を持ってもダメだと思います。
 
最後に、日本人であることを決して忘れないでほしいですね。外国にいるなら、なおさら日本人としての誇りを持たなければいけません。たった1人の日本人が起こした悪行が、何千万人という日本人にダメージを与えることを心得て、日本人の代表として責任を持つ。これは絶対に必要なことです。
 
私は、今年で在米45年になります。これまでは空手一筋に頑張ってきましたが、今では、アメリカに何か残さなければいけないと思っています。それは一体何か。やはり私にできることは、人間育成しかないと思うんですね。いい人間を作るということ。いい人間とは金持ちじゃなくて、世の中に通用する人間を育てるということ。今に生きる子供たちが、少しでもそうなってくれるとうれしいですし、彼らの成長の一助となれることが、今は最大の生き甲斐ですね。
 
(2010年1月16日号掲載)

下河内 護さん/SHIMOKOCHI-REEVES クリエイティブディレクター


デザイナーとして大切なのはデザインが好きで、一生涯続ける意志があること

芸術の名門校、アートセンター・カレッジで学ぶために渡米。卒業後はデザインの神様、ソウル・バス氏の事務所に就職し、ユナイテッド航空などのロゴデザインを手がけた。業界で活躍してきた経験を聞いてみた。

【下河内 護さんのプロフィール】

しもこうち まもる◎愛知県生まれ。高橋春人氏の作品に感銘を受け、中学卒業後、上京して師事する。デザイン誌で紹介されていたアートセンター・カレッジに憧れ、1963年に渡米。同校在学中に頭角を現し、奨学金を得て、1970年にオナーで卒業。同時に世界有数のデザイナー、故ソウル・バス氏の事務所に就職。同事務所に在職中、United Airlinesのロゴデザインを始め、California Cheese、Avery International、Lawry’sやAT&Tなどの有名企業の仕事を手がける。1976年に独立し、フリーランスに。母校や他のデザイン大学で教鞭を執る。85年に元同僚だったアン・リーブスさんとSHIMOKOCHI-REEVES事務所を設立。TBSや東燃、日清など、日米企業をクライアントとして活躍中。

 

デザインの神様の事務所に就職

(上)デザインを手がけたユナイテッド航空とTBSのロゴ(下)ソウル・バス氏の事務所で勤務していた駆け出しの頃(1970年)。左はバス氏の右腕だった故アート・グッドマン氏
小学校の頃から絵が好きで、展覧会の度に入賞して、先生に褒められ、すっかり自分はアーティストになるんだと決めていました。中学生の時、地元の名古屋で高橋春人先生の展覧会があり、原爆廃絶という作品を見て、すごい感銘を受けました。すぐに手紙を書いて、先生の下でデザインを勉強するために東京に出ました。
 
修業してから3年くらい経った頃、ロサンゼルス(現在はパサデナ)にある芸術の名門校、アートセンター・カレッジの記事をデザイン誌で読み、ぜひそこで勉強してみたいと思いました。親父は、僕が生まれてすぐに死んだんだけど、10代の頃、アメリカに留学していました。ミシガンには叔父もいたし、21になったばかりで何でもできると思っていましたから、冒険ができたんでしょうね。
 
アートセンターでは、グラフィックデザインの勉強をしました。全世界からデザインを志し、実力のある人が集まって来ていました。大抵は、デザイン系の大学を卒業した人や、デザイン事務所に務めていた人で、僕みたいに現場の経験だけというデザイナーはいません。また、当時は70年代で、人種差別もありました。僕の作品を見た白人のクラスメートに、ねたみ半分、冗談半分で、「お前の右腕を折ってやろうか」と言われたことも。そういうのは、まともに受け取らなかったのですが。
 
卒業する1、2カ月前に、ドン・クーブリー前学長から、「君はニューヨークに行くのか、ロサンゼルスに残るのか?」と聞かれました。僕が「ロサンゼルスに残る」と答えたら、「それじゃあソウル•バスのオフィスを紹介してあげよう」と言われ、学長が直々に面接をセットアップしてくれたんです。
 
ソウル・バスと言えはデザイン界のパイオニアで、デザイナーとしては世界で5本の指に入る巨匠です。新卒で面接を受けられるなんて、考えられないことでした。デザインの神様直々の面接を受けたら、いきなり「いつから仕事に来られる?」ですよ。卒業式が土曜日だったので、週明けの月曜日から働き始めることになりました。
 
当時は時代が大らかでしたから、ほとんどの学生は、卒業後に3~4カ月かけてポートフォリオを作り直し、それからじっくり仕事探しをしていたんですよ。だから、クラスメートからはやっかみで、「そんなに早く仕事に就くなんて、下河内は頭がおかしい」って言われました。僕にとっては、すごくラッキーだった。

 

デザイナー人生を変えたユナイテッドのロゴ

パートナーのリーブスさんと
トントン拍子にソウル・バスの事務所に入れたわけですが、実は僕を雇うために、元々いたデザイナーがクビになっていたんです。入社当初は知らなかったんですけど。入ってからも、横のデスクにいたデザイナーが次の週にいなくなって、またその隣の人がいなくなってと…。仕事ができなければ、容赦なくドンドン首になりました。完全能力主義です。
 
働き始めて2年くらいで、ユナイテッド航空のコーポレートロゴをデザインするチャンスに恵まれました。学校にいる時は、いくつかアイデアがあれば課題を仕上げられました。ところが、この時は、僕を含め30人くらいのデザイナーたちが、何週間も毎日アイデア出しばかりするんです。アイデアが出なくても、毎日机に向かって何か描かなきゃいけないから、本当に厳しかったですね。アイデアだけで何千も集まり、その中からソウル・バス自らが選んでいきます。同じ会社にいても隣のデザイナーとの競争。斬新なデザインを考えるのに必死でした。
 
採用されなかったデザイナーがドンドン脱落していって、最終的に下っぱの僕のデザインが選ばれたんです。もうその時は感激ですよ。僕のアイデアでデザインされた物が、世の中に出るんですから。特にユナイテッドのロゴは、今でも残っていますから、感慨もひとしおです。
 
ロゴで一番大切な要素は、誰にでもわかる、記憶に残るということ。最近のロゴマークは、コンピューターを利用するから複雑なデザインになるんです。複雑になり過ぎて、面白さはあっても皆同じような感じ。そうなるとロゴとしての親しみはあったとしても、効果は薄いですよね。
 
ソウル・バスの事務所で4年間修業した後、独立してフリーランスになりました。フリーになってもしばらくは外部パートナーとして一緒に仕事をしました。ソウル・バスと働いた6年間は、私のデザイナー人生を決定付ける、充実した日々でした。本当に感謝しています。
 
1985年、ソウル・バスの元同僚のアン・リーブスと事務所を作りました。TBSのロゴデザイン(現デザインの前の物)や東燃(現・東燃ゼネラル石油)、サッカーの清水エスパルスの文字デザインなどを手がけてきました。特に印象に残っているのはTBSのロゴで、昭和天皇が崩御した時、TBSの中継車は他局より後ろの方に止めなければいけなかったって聞きました。ロゴが派手で、目立ち過ぎるから(笑)。コンペでも、社長の一存ではなく、社内でアンケートを取って社員にも好かれた結果のデザインだったので、うれしく思っています。

 

課題解決には経験と説得力が必要

この仕事を続けてきて、辛いと思ったことはないですね。なかには「これは難しい」と思うクライアントとの仕事はあります。ですが、クライアント企業の業務内容や将来の目的とか、相手のことがわかれば、アイデアは自ずと出てきます。ですからコミュニケーションが大切だと思いますね。
 
そして、デザインしたら、それをクライアントにわかりやすく説明するっていうのが、すごく大切だと思うんです。いくら良い作品でも、説明が不十分だったら、クライアントとしては理解することもできないだろうし。
 
学生の頃は、あまり必要ないと思っていたのが、実際仕事をすると重要になるんですね。紙の上の作品だけじゃなく、説明もできなければ、かみ合わないんです。デザインはサイエンスとは違って、1+1=2という答えがない。そして、さまざまな答えの中で、課題に対しての1番のソリューションを選び出すには、経験と説得力が必要です。
 
ですが、いくらいいデザインでも、それが消費者に認められなかったら売れないし、そのあたりは難しいですね。産業デザインは、ファインアートとは違うから、自分がいくら満足しても、企業の目的とかカスタマーに対するリアクションがなければ意味がない。そういう意味では、チャレンジングで面白いですね。
 
それから、デザイナーとして大切なのは、自分の仕事を好きじゃないとダメってこと。好きで、一生涯続ける意志がなかったら難しいと思うんですよ。例えば、お金になるからとか、誰かがすすめるからやるというのではなく、「好きだ」という気持ちが大切。
 
そして、やっぱり仕事を楽しまなくちゃいけない。嫌々やってたんじゃ、良い作品もできないし。好きでやるから良い仕事もできるんです。楽しくない時もあるでしょうが、それは当たり前です。たまに食べるからご馳走も美味しく感じるんですよ(笑)。それと同じでデザインも、必ずしも楽しいプロジェクトばかりじゃない。けれど、キャリアとして見た場合、仕方がないからやるっていう心構えではできないです。
 
僕は40年間やってきて、ずっと楽しんでいます。なかには「これ嫌だな」「やりたくないな」って最初思っていても、アイデアのソリューションを探っていくと、自然と楽しみが増えていきますね。
 
ほぼ一生かけてデザインは楽しんだので、これからは絵画に集中したいです。40数年住んだロサンゼルスを離れ、自然に囲まれた小さな町に移り住もうかと考えています。そこで自分の好きな絵を描くことに打ち込みたいと思っています。今度は自分の描く絵を誰かが気に入って、評価してくれたらうれしいですね。
 
(2010年1月16日号掲載)

大根田 勝美さん/起業投資家

中卒の組立工から、誰にも負けない努力で億万長者に

優良光学機器メーカーに就職し、独学で英語と専門知識を身に付け、ニューヨーク駐在員に抜擢された大根田さん。しかし、学歴偏重主義に見切りを付けて退職、そして独立。医療器具ベンチャーを起業させ、巨万の富を創り出した、大根田さんのビジネスの秘訣を聞いた。

【大根田 勝美さんのプロフィール】

おおねだ・かつみ◎1937年、東京生まれ。中学卒業後、大手光学機器メーカーに組立工として就職。独学で英語を勉強し、27歳の時にニューヨーク駐在員に抜擢。内視鏡の販売営業に携わる。アメリカにおける内視鏡ビジネスの基礎を作るも、学歴が低いため出世できないことに失望して5年後に退職。その後、医療機器メーカーを起業。同時にユダヤ人パートナーと組み、ベンチャービジネスに乗り出す。医療分野の最新技術を発掘し、世に出しては売却するという手法で、“巨万の富”を築き上げる。

 

貧乏で惨めだった少年時代

ガストロカメラプロジェクトに没頭していた頃の大根田さん(右)

私は1937年に東京・芝白金に生まれました。家族は両親と姉、弟、妹、そして私の6人。父親は、外国人も相手にするような洒落た床屋を経営していました。私自身は、メンコやビー玉が強い下町の腕白小僧でした。
 
そんな家族を取り巻く環境が一変したのは、太平洋戦争でした。長野県の伊那町に疎開。小さな2階建ての家に5世帯が共同で暮らしました。1所帯1部屋。朝は便所に10人以上列を作るような有様です。貧乏のどん底で、わずかな葉っぱや豆を家族6人で分け合える日は良い方でした。
 
”東京っぺ”で貧乏な私は、酷いいじめを受ける毎日でした。みんなは白米の弁当で、これ見よがしに見せつけられたりもしました。身体検査ではいつも栄養失調。それでも、父や母の温かく、真っすぐな姿勢のおかげで、私は誤った道に進まなくて済みました。
 
中学卒業後、100人受験して5人しか合格しない長野県内の最難関の光学機器メーカーに補欠採用されました。学生の頃から成績優秀で、先に入社して評判の良かった姉のおかげだと思います。
 
入社後は、仕事をしながら通学片道1時間の定時制高校に通ったのですが、不摂生と無理がたたり、3年目に胃がキリキリと痛み出すようになりました。病院に通っても一向に改善せず、薬を飲むほどに悪化しました。医者のすすめで手術を受けましたが、呆れたことに胃の3分の2を切除した後に、誤診であったことがわかりました。当時は「内視鏡」なんてありませんでしたし、伊那にそんな知識を持った医者がいなかったことも不幸でした。
 
すっかり医師不信になった私は、それ以来胃腸に関する専門書をむさぼるように読みあさり、医学の基礎知識を独学で身に付けました。実は、この時に得た知識が、将来大いに役立つことになるのです。
 
英語を習得、奇襲に成功せり
 
1961年に、伊那から東京に転勤になりました。私が配属されたのは、管理課の中にある修理部門でした。大卒のエリートが溢れる本社では、周りの人たちの態度から、私は末端の労働者扱いされているのがよくわかりました。特に「輸出部」の社員たちの態度は、本当に気に障りました。当時の私には、彼らに対するコンプレックスや、英語で楽しげに話していることへのジェラシーもあったのでしょうね。
 
「英語が話せたら、ヤツらも大きな顔はできない。英語が使えたら、仕事自体が変わるんじゃないだろうか」。
 
その時期に営業部への転属もありましたが、私は24時間365日英語漬けの毎日を過ごすようにし、またたく間に力を付けることができました。
 
1年後、英語力に自信も付いて、以前から温めていた計画を実行に移しました。まず、海外営業部が英語で作った「ガストロカメラ(胃カメラ)」のカタログの重要な部分を完璧に暗記したのです。社内の英会話教室に参加し、そして、みんなの前でガストロカメラの構造や性能、具体的な使用法を英語ですらすら説明してみせました。アメリカ人の先生は、ビックリ仰天。教室は皆唖然としました。参加していた人事課職員の注意を引くことができたのは言うまでもありません。
 
奇襲は見事に成功しました。海外進出が本格化する当時の会社に必要だったのは、英語力、商品知識、営業力を兼ね備えた人間でした。そして、何と私は、毎年海外駐在所に派遣される1、2名の枠を手にすることができました。

 

学歴偏重主義に見切りを付けて

7歳年下のビジネスパートナー、ペルさん(右)と。彼がいなければ、今の成功はなかったと、大根田さんは感謝する

ニューヨークに赴任したのは27歳の時でした。私の最初の使命は、ガストロカメラを販売する上での技術的な基盤を作ることでした。今でこそ内視鏡を使った手術は当たり前ですが、40年以上も前のことです。画期的なガストロカメラの販売は困難を極めました。それでも自分なりに英語を操って、業績を年々伸ばして行きました。アメリカに行かせてくれた会社に応えたいという想いも強かったのです。
 
そして、5年目のある日のことです。同年齢の大卒社員が主任に格上げされたのに対して、私には何の辞令も出ませんでした。これは私にとって耐え難い屈辱でした。会社に対して失望したと言うより、憤慨、激怒したと言う方が、実際には近かったかもしれません。改めて日本の学歴偏重主義に嫌気が差し、即座に退職を決意しました。
 
退職後は、同社の商品を売った分だけ対価を得る、歩合制の営業マンとして、新たなスタートを切りました。商品知識はもちろん、内視鏡検査に関しては、お客さんである医師と対等の知識を身に付けていました。彼らとの会話、そして文献から専門知識を貪欲に吸収しました。医師たちとの会話の中で、彼らが希望したことに対しては、「どうしてそれを欲するのか?」という本質を考えて、気を回しました。
 
例えば、ガストロカメラ・フィルムの現像も、ひと手間かけてスライドにして医師に届けました。アフターサービスにも全力を注ぎました。夜中に2時間ドライブして現場まで行き、機械を修理して、早朝の検査に間に合わせることなど日常茶飯事でした。
 
当たり前のことですが、特に気を付けたのは、約束の時間に必ず現場に行くことです。時間厳守は、信頼を得る最も大切な条件です。また、相手に印象を残すことも大切です。必ず握手の後、日本式に深々と頭を下げました。これで悪い印象を与えるわけがありません。
 
英語が上手ではないことは、ハンデではありましたが、言葉が少ない分、良く考えているという印象付けにもなるし、誠実さにもつながりました。また、お客様の顔と名前は必ず覚えるようにしました。大きな学会の会場で、顧客の医師を目にしたら、笑顔で親しみを込めて名前を呼びました。そうやって関係が築き上がっていくと、お客様の方から展示ブースを訪ねて来てくれました。「あいつは特別だ」「あいつはよくやる」、そういう信頼を勝ち取ったのです。
 
さらに、大腸の内視鏡手術の世界的権威、新谷弘実先生を軸に、内視鏡手術そのものが世界中に広まる時期であったことも、私が波に乗れた理由でした。やがて、百発百中でオーダーをいただけるようになり、アメリカでトップの売上を記録したのです。

生涯のパートナーとの出会い

会社設立から4年目、私が受け取ったコミッションは、1973年当時の為替レートで1億8千万円にも達していました。しかし、やがて担当地域を縮小されたり、コミッションレートを10%から8%、8%から6%へと圧縮されるようになりました。
 
このままでは、ジリ貧になってしまう。そこで、38歳の時に意を決して、ある日本企業と合弁で内視鏡販売会社を立ち上げました。そして、この年の秋、一生のパートナーとなるユダヤ人のルイス・C・ペルと出会ったのです。
 
7歳年下のペルは、私の会社の手掛ける商品を売らせてくれと訪ねて来ました。最初の1年は、セールスレップとして働いてもらったのですが、彼はまさにバイタリティーの塊。それでいて抜群に切れる頭脳と回転の速さ、交渉能力、先を見る感覚は、自分が持ち合わせていないものでした。
 
「この男なら私の足りないところを補って、1+1を5にも6にもしてくれる」と確信して、会社の4分の1の株を持たせ、副社長として入社してもらいました。私は自分に能力がないことを知っています。ですから、大きな目標を持って仕事をするなら、自分にないものを持ったパートナーを見つけることが近道です。
 
後に会社を売却した時には、売却益の50%を彼に渡しました。一緒に苦労してきたのだから、半分半分にすることにしたのです。この私の好意が、彼との長いパートナーシップを築く基礎になったと思っています。

起業サポートで資産を作る

私たちは、内視鏡分野のみでなく、医療器具分野に理解を深めていきました。そして、他人が立ち上げる医療器具のベンチャービジネスのサポートを二人三脚でし、その代わりに報酬を受け取るという「起業サポート」を始めました。これは、私たち自らが経営に参画するのではなく、資金や人材集めなどで起業をサポートし、その報酬として安価で株式を受け取るのです。
 
例えば、スタンフォード大学の心臓内科のモーリス・ブックバインダー医師が発明した「カテーテル」を成功させた際には、1億ドルで会社を売却、私たちも600万ドルずつのキャピタルゲインを得ました。また、血管を傷付けず、血管を塞ぐカルシウムだけを除去する装置を世に出した時には会社を上場させ、発明者は5億ドル以上の大金を手にしました。もちろん私たちも、前回の数倍の利益を手にしました。こうした手法を繰り返し、私たちは資産形成をしていったのです。
 
会社を立ち上げ、ある程度成長させられても、そこから事業を拡大していくには、それぞれの段階でマネージメントと資金が必要になります。アメリカではそれが分業されていて、アイデアを持つ人がベンチャービジネスを興し、大手企業がそれを買い取るというシステムが確立されているのです。
 
手法のお話をしましたが、忘れてはならないことは、良きパートナーを得るのも努力が必要ということです。信用できる、頼りになる自分であらねばならないのです。自分の能力を過信せず、パートナーには感謝を形で表すこと。気前良くすることです。
 
例えば、ある企業の売却が終わった1カ月後、我が家でペルの誕生パーティーを催しました。そこで、サプライズ・バースデーギフトとして、最高級のベンツS500を贈りました。高価なプレゼントですが、私にとっては当然のことでした。彼が案件を発掘し、優れた交渉能力を発揮したからこそ、起業サポートという形で巨額の利益を稼ぎ出すことができたのですから。
 
自分にはない才能や特長を持った人間とタッグを組むことで、新しい可能性は開け、実力以上の大きな仕事ができるのです。失敗してもともと。小さなパイを独り占めするのではなく、大きなパイを分かち合えば良いのです。大事なのは目標を定め、努力すること、まず勇気を持って1歩踏み出してください。
 
(2011年1月1日号掲載)

五嶋みどりさん/バイオリニスト


本物の音楽や音楽家がより身近な存在となるよう本物の音楽を通じて活動したい

10歳で渡米し、音楽の名門ジュリアード音楽院で学んだバイオリニストの五嶋みどりさん。その同年にニューヨーク・フィルと共演し、「天才少女」と賞賛された。年間70回以上の演奏活動をこなすと同時に、さまざまな社会貢献活動にも積極的な五嶋さんに聞いた。

【五嶋みどりさんのプロフィール】

ごとう・みどり◎1971年大阪生まれ。82年に渡米し、ジュリアード音楽院で学ぶ。1982年、ニューヨーク・フィルとの共演でデビュー。以来、世界中で演奏活動を行う。2004年には、南カリフォルニア大学ソーントン音楽学校の「ハイフェッツ・チェアー」に就任、2007年より弦楽学部主任教授。また、コミュニティー・エンゲージメント活動にも取り組み、2007年9月より国連平和大使を務める。使用楽器はガルネリ・デル・ジェス「エクス・フーベルマン」(1734年作)。公式ホームページ www.gotomidori.com/japan

 

色々な楽器の音が聴こえワクワクした

「Midori&Friends」でニューヨーク市の小学校を訪れた際の1コマ
ⓒGil Gilbert

バイオリンを始めたきっかけは、元々母がバイオリンを弾いたり、教えたりしていたので、家の中に自然に溶け込んでいたからだと思います。バイオリンを弾くことは、私にとっては当たり前のような感覚がありました。バイオリンの前に、ピアノやチェロに興味を持ったこともあり、少しピアノを習いましたが、長続きしませんでした。
 
バイオリンを学び始めてしばらくして、大阪で初めてステージに立ちました。そして、私が8歳の時、演奏を録音したテープを聴いたニューヨークのジュリアード音楽院からオーディションに招かれ、1982年に母に連れられて渡米しました。当時は、アメリカに行くこと自体、実感がなかったので、不安などは特に感じませんでした。ただ、どの子供もそうであるように、母親が幸せそうだったので、私もうれしかったです。
 
その年の大晦日に、ニューヨーク・フィルハーモニックと共演するチャンスを得ました。米国でのデビューでしたし、オーケストラと一緒に演奏できるというので、ものすごく楽しみにしていたのを覚えています。実際にオーケストラの前で演奏すると、色々な楽器の音が聴こえてきて、それだけでワクワクしました。私が当時11歳でニューヨーク・フィルと共演したことで、日本では「天才少女」と呼ばれたようですが、世間の評価について、気にする歳ではありませんでした。
 
プロのバイオリニストを志した理由ですか? 私の場合、「プロフェッショナル」であることを意識する前にデビューし、コンサート活動を始めました。ですから「志した」というのとは違っていますが、「プロ」の演奏家としてやっていくことは、ずっと考えていた生き方の一つでした。ただ、幼少の頃から音楽活動を続けてきて、色々なことを学び、経験して、初めて「プロ」としてやっていこうと自覚したのだと思います。
 
プロとして活動して良かったと思うのは、国籍・人種を問わず、色々な人たちとの出会いに恵まれることです。各国の現地の人の中に入っていくことで、多くのことを学ぶことができますし、自分の知識や世界が広がるばかりではなく、好奇心をかきたてられて、考えたり調べたりするきっかけになり、とても面白いです。

 

モットーはhealth, dignity, honesty

国連事務総長の潘 基文氏と ⓒ2010 Courtesy of UN

ジュリアード音楽院時代から今まで、本当に多くの方々に出会い、皆さんから影響を受けてきましたが、95年に音楽以外のことも学びたいと思い、ニューヨーク大学で心理学とジェンダー・スタディーを専攻しました。心理学では修士号を取得しましたが、それに限らず、ニューヨーク大学で学んだことは、私の音楽活動に何らかの影響を与えていると思います。それが何かを具体的にお答えするのは難しいですけれど。
 
もちろん大学での勉強だけでなく、これまで経験してきたあらゆることが、新しい企画を考える時の礎となっていると思いますし、物事の捉え方や社会に対するコミットメントは、大学で学んでからと、それ以前とでは大きく違ってきたと思います。
 
私が音楽活動で心がけていることは、音楽と常に真摯に向き合い、作曲家の思い(意図)を正確に汲み取り、表現することです。その行為は自分自身の声に耳を澄ますことでもあります。
 
2004年から教鞭を執っている南カリフォルニア大学ソーントン音楽学校の私の研究室のモットーは「health, dignity, honesty」です。どれも人間として、アーティストとして、生活を営む上で最も重要なことだと思っています。健康なくして、誠実に人生と向き合うことはできませんし、誠実であると、自分自身の弱さや足らないところに気付き、克服しようとチャレンジすることになります。より良い自分を求めるようになると、他人や周囲への思いやりが生まれ、ひいては社会全体を考えるようになり、良い時も悪い時も常に謙虚に、思いやりを持った、忍耐強い人間として成長していけるのではないかと思います。
 
クラシック音楽を巡る環境は、私がデビューした頃に比べると、厳しくなってきています。これは、社会的環境の変化にも要因はあると思いますが、音楽家にも音楽業界に携わる人々にも責任のあることだと受け止めています。しかし、このまま手をこまねいていても仕方がないわけで、音楽業界の方々も、敷居が高いと感じられ、敬遠されがちなクラシック音楽が、世の中により受け入れられるよう努力されていると思います。
 
私が日常指導しているのは大学生ですが、マスタークラスでは、もっと若い生徒を教えることもあります。本当に皆さん真剣に練習されていて、親御さんたちも熱心なのがよく伝わってきます。ただ、昔のように「音楽」だけをやっていれば「音楽家」になれる時代ではありません。技術習得だけでなく、広い視野に立って活動できるように、特に若いうちは色々なことを学んでいただきたいと思いますね。

 

演奏家としての活動も社会貢献活動も同じくらい大切

私は演奏家である前に、一人の大人の人間として、自分が社会に貢献できることは何かということを常に考えています。音楽を通じた社会貢献活動を始めて既に20年近く経ちますので、プロの演奏家としての活動も、社会貢献活動も、両方共が私にとっては同じくらい大切で、どちらも削ることができません。
 
これまでに米国では、「Midori&Friends」(www.midoriandfriends.org)と「Partners in Performance(PiP)」(www.pipmusic.org)を、日本では「ミュージック・シェアリング(旧:みどり教育財団)」(www.musicsharing.jp)を立ち上げました。06年からはアジア圏でインターナショナル・コミュニティー・エンゲージメント・プログラム(ICEP)を展開し、本物の音楽を子供たちに届けると同時に、若い音楽家たちに社会貢献活動のトレーニングの場を提供しています。また、「Orchestra Residencies Program(ORP)」(www.gotomidori.com/orp)や「UniversityResidenciesProgram(URP)」といったプロジェクト活動も積極的に行っています。
 
各団体やプロジェクトには、それぞれのミッションがありますので、そのミッションとは別の活動をしたいと思うと、新たなプロジェクトや団体を立ち上げることになります。ですが、どの団体・プロジェクトも、本物の音楽や音楽家がより身近な存在となるような活動を、本物の音楽を通じて行うという基本姿勢に変わりはありません。
 
また、2007年から国連平和大使を務めていて、国連活動や平和問題などをアピールしていくことが求められています。私が普段行っている活動を、日米に限らず世界に広げていくことで、私個人の活動理念が世の中に広がります。それと共に、国連の掲げるミレニアムゴールが注目を浴び、1人でも多くの方が関心を寄せてくださる結果につながることが、私のコミュニティーの一員としての役割であり、国連平和大使としての役割であると感じています。
 
こういったコミュニティー・エンゲージメント活動や国連の活動を通して、普段のコンサート活動では体験できない貴重な経験を、たくさんさせていただいていると思っています。人々との出会いや触れ合いは、とても刺激になりますし、それらの活動を通してインスピレーションがわいたり、新しいアイデアが浮かんだりすることもあります。
 
今後は、これまでと同じように、プロのバイオリニストとしての演奏活動とコミュニティー・エンゲージメント活動、そして後進指導を三本柱に、引き続き精力的に活動していきたいと考えています。
 
プロのバイオリニストとしての活動では、委嘱した作品の初演に向けて練習を積むことや、これまで時代を超えて愛されてきたバイオリン曲のレパートリーだけでなく、名曲でも世の中に知られていない曲の数々も紹介していきたいと思っています。
 
コミュニティー・エンゲージメント活動では、Midori&FriendsやPiP、ミュージック・シェアリングの活動をより充実させるだけでなく、時代を先取りした活動をしていきたいです。ミュージック・シェアリングで行っている「楽器指導支援プログラム」で、障害を持った子供たちにバイオリンなどの楽器指導を行っていますが、将来的には障害を持った子供たちのオーケストラを結成して、演奏会ができるように指導・支援していけたらなぁと、夢のようなことも考えています。またORPのようなプロジェクトベースのものも、アメリカだけではなく、南米やヨーロッパでも展開しつつありますが、さらに世界の各地で行えたらいいなぁと思っています。
 
まず2011年1月30日には、リトルトーキョーの全米日系人博物館別館で語る会を開催します。2011年2月に行うヨーロッパツアーでは、ピアニストのアブラモヴィックとの共演で、ブレッド・ディーンの新作の世界初演を行います。その後は、2011年3月にコスタメサのパフォーミングアーツセンターでリサイタルがあり、夏にはヨーロッパで10日間ほど公開レッスンも行います。今年も盛りだくさんの1年になりそうな予感でワクワクします。
 
私のさまざまな活動を、いつもご支援・ご協力いただいている皆様へ、この場をお借りして感謝申し上げます。
 
(2011年1月16日掲載)

五嶋みどりイベント情報

「バイオリニスト・五嶋みどりと語る会」
2011年1月30日(日)2:00pm~
at Tateuchi Democracy Forum(全米日系人博物館別館)
 
「五嶋みどりバイオリンリサイタル」
2011年3月9日(水)8:00pm~
at Samueli Theater(Orange County Performing Arts Center)
 
チケット販売:
www.PhilharmonicSociety.org/JapanOC
☎ 949-553-2422
※イベントは終了しています。

雪江 悟さん/起業家


平凡社員から凄腕起業家にこれからは経験を活かし「地球と人間をenrichしたい」

「いつかは海外に出たい」という思いを胸に、満を持してソニーの駐在員として渡米した雪江さん。その後、考えもしなかった起業家の道を突き進み、企業支援や社会貢献へと活動を拡げる。そんな雪江さんが、これまでの経緯を話すと共に、頑張る日本人へエールを送る。

【雪江 悟さんのプロフィール】

ゆきえ・さとる◎1980年に上智大学を卒業後、ソニー株式会社に入社。1987年、衛星通 信システム事業の立ち上げで渡米し、1995年にソニー米国法人のマーケティングディレクターとして、携帯電話事業の立ち上げに参画。2001年、永住権取得を機に独立し、Accetio, Inc.(現Franklin Wireless Corporation)を創業した。現在、米国のモバイルネットワーク関連技術開発企業、環境系技術開発企業、Eコマースを活用したナチュラルスキンケア商品の個人輸入促進事業などの取締役、役員や顧問を兼務している。

 

重要な関係になるのは100人に1人くらい

Verizonとの400万ドルの契約成立後、Axesstel社員とランチへ。「会社が救われ、みんな笑顔。昼から飲んでます(笑)」と雪江さん

1980年に上智大学を卒業し、ソニーに入社しました。当時は特に大きな夢はなく、最初に内定が決まったという単純な理由で入りました。設計を担当しましたが、その仕事が退屈で苦痛。大学に入る前は、外国航路の士官を養成する商船学校に通っていたくらい世界への憧れが強かったですから、常に「海外に行きたい」と思っていました。そのため、語学だけは習得したいと英語を勉強し、海外赴任のチャンスを待っていました。
 
念願叶って1987年、ニュージャージーに赴任しました。レンタカーを借りて自分で運転してオフィスへ向かいましたが、そこで木々が豊かに生い茂る風景に触れ、この街は空気が合うと直感しました。アメリカが気に入ったんですね。やがて、私はずっとこっちにいたいと思うようになり、次第に起業を意識するようになったのです。
 
それ以降、土日を利用してMBAを取得。1996年には本格的に起業準備に入りましたが、永住権がありませんでしたから、数年間はソニーで働きました。そして2001年に永住権を取得。その後1週間ほどで辞表を提出し、同年に新興で携帯電話を取り扱うAccetio, Inc.を創業しました。
 
起業パートナーは、韓国とのビジネスで知り合った気心の知れた友達でした。退職の2年ほど前から、「一緒にやるなら彼」と心に決めていました。私たちの場合、詳細なプランを詰めていくというよりは、食事をしながら「後進国での通信端末の事業は可能性が高い」とか「こんな通信端末を作りたい」と、テーブルの紙ナプキンにアイデアを書いて構想を膨らませていくという感じでした。
 
起業準備で大切なのは、「意識的に他人と違うことをすること」と「ネットワーキング」です。私は、ソニーで携帯電話のインターナショナルセールスのマーケティングディレクターとして世界中の人と握手を交わし、その信頼に応える仕事をしてきました。幸い、そこで得た人との信頼関係が、後々活きました。
 
私がそれまでに交換した3500枚ほどの名刺のうち、後にビジネスに活きる重要な関係になったのは100人に1人。つまり、10人の大切な仲間を得るために1千人との握手が必要なわけです。やはりビジネスは人とのつながりですから、ネットワーク作りに手間と時間を決して惜しんではいけません。
 
その次に大切なのが、「ポジティブ思考」です。私は、どんな時でも自分の運を信じ、ポジティブな気持ちと態度で次の手を考えています。何事にも「それは面白いね」という肯定から入ります。なぜなら、意識してそうすることで、何か問題があっても、その解決策が必ず見えてくるからなのです。

 

最初の会社は上場せず2つ目の会社で株式公開

スタッフと打ち合わせ。雪江さんは「仲間と頭をつき合わせてする仕事が大好き」と語る

そうやってAccetioを立ち上げましたが、間もなくしてパートナーとは経営面で意見がかみ合わなくなってきました。折しも、Accetioの同業他社であるAxesstel, Inc.の副社長から、代表取締役社長兼CEOに就かないかという誘いを受けていました。それを機に2002年5月、一旦Accetioの彼とはパートナーシップを解消しました。
 
軽い気持ちで入ったAxesstelでしたが、年商がたったの50万ドルと知った時はさすがに驚きましたね。20人ほどの従業員に給料を払わないといけませんから、入ったその日に自ら営業に奔走。まず最初に門を叩いたのがVerizonでした。当時のVerizonは、家ではコードレス、外では携帯電話を普及させようと勢いに乗っており、その流れとソニー時代の知識と経験のおかげで、400万ドルの契約をいただきました。
 
その400万ドルの契約金の一部を利用して、事業拡大のために「リバースマージ」という手法ですぐに株式を公開しました。アメリカの株式市場は色々ありますが、私たちが選んだのは「OTCBB」というNASDAQ付属の市場です。上場にかかったのはわずか4カ月。すでにOTCBBに上場していた経営難の企業を買い取ることで、実現しました。リスクを伴うことでしたが、勢いを付けて自分たちで良い流れを作りたかったため、すぐに決断して勝負に出ました。
 
株式を公開することは、「公」になるということ。善くも悪くも、自分で決められる個人会社とは性質が異なります。4半期ごとに業績発表をするのはもちろん、自分の給料もベネフィットも公になります。すべてオープンにすることで透明性が増し、正当な経営ができるからです。人様のお金を預かっているのだから当然ですね。
 
株式公開は、業績が良ければ株価が上昇、悪ければどんどん下落する厳しい世界です。韓国のLGなど、大手企業との競合もしょっちゅうで、勝つことよりも負けることが多かった。それでも私たちは、前向きな気持ちだけは失わず、不眠不休の努力で、1株20セントから2年後には4ドルへ株価を上げることができました。
 
これは、私を誘ってくれた韓国人の会長、CEOの私、そして主に投資家への広報を担当するアメリカ人の3人が、それぞれの役割をきちんと果たしたことが成功の要因です。投資家、顧客、社内と、色んな関わりの中で事業を成功させるには、その場に一番ふさわしい「顔」と「スキル」を持った人間が、その役目を担うことが大切です。例えば、米系のテレビや雑誌、投資家に対しては、アメリカ人経営者が前面に出た方が受け入れられやすいですし、アジア人社員との接点にはアジア人リーダーの方が共感を得やすいでしょう。人種ありきではないけれど、そこは適材適所、うまく使い分ければ良いのです。

 

2年間のAxesstel勤務でサラリーマンの二生分を生きた

Axesstelは、その勢いのまま、OTCBBよりひとつ規模の大きいニューヨーク証券取引所Amexへの上場を果たしました。増減幅が少ない分、不況の影響を比較的受けにくいOTCBBに留まる選択肢もありましたが、あの鐘(※)を鳴らしてみたかったのです(笑)。
 
今でこそ言えますが、資金繰りはまさに綱渡り。億単位の大きな仕入れをする際、銀行から個人保証を求められた時には手が震えました。会社の銀行口座残高が10万ドルを切ったこともありましたし、崖っぷちの局面を何度も体験しましたよ。
 
Axesstelの2年間に、サラリーマンを続けていたら絶対に得られないほどの報酬を手にしましたが、サラリーマンの二生分ぐらい疲れました(苦笑)。この会社の後に、Accetioの元パートナーと共にまったく同じ手法で同社の株式公開にも成功したのですが、Axesstel以上の苦労は後にも先にもしたことがありません。
 
それでも、余りあるほどの達成感を得ることができたのは、アメリカのダイナミックな株式市場の魅力、自分たちが世界と直接勝負できる躍動感、そして、パートナーや社員との強い絆があったからです。運にも助けてもらいましたし、家内や娘も心の支えでした。それらすべてのおかげで、成し遂げられたことでした。
 
私は自らの経験から、アメリカで頑張っている日本人の皆さん、これからアメリカを目指す皆さんに、こういう世界があることをぜひ知ってほしい。そして、知るだけではなくチャレンジしてほしい。「就職はいつ」とか「入るなら大手」とか、そんな既成概念から解き放たれて自由に発想し、まずチャレンジをしてほしいと思っています。他人と違うことを恐れないでください。

 

地球と人間に良い事業、一生現役で社会に貢献

現在は、AccetioやAxesstelを退き、Bernardo Internationalという会社のCEOを務めています。この会社は、ベンチャー企業などへのマネージメントを通じ、事業戦略の立案と実行、および事業投資などによる企業の活性化などを主な業務としています。私は今後、自分の経験を活かして、日本企業や在米日系企業をアメリカで上場させるお手伝いをしたいと思っています。OTCBBを見てみると、中国や韓国の企業が何百社と上場しており、例えば中国企業は、アメリカ市場に上場した後に得た利益を、すべて中国本国に返しています。Axesstelの場合も、本社こそアメリカですが、開発の拠点は韓国でしたから、こちらで調達した資金を韓国の経済発展に役立てていました。資金を回すことで自国の経済を発展させているんです。しかし、日本企業は、アメリカで株式を公開して資金を調達する仕組みを知りません。私は、日本企業もアメリカでの株式公開を活用して資金調達を行い、その資金を積極的に日本国内に再投資するべきだと思っています。あれだけ国際化を叫んでいるのですから、活かせる環境をもっと活かすべきです。
 
あと日本に欠けているのは、OTCBBを始めアメリカ株式市場の知識を持つ起業家が少ないことと、英語力です。日本人以外のアジア人は下手でも堂々と英語を話しますが、日本人にもそんな図々しいほどの度胸が必要です。
 
そんな中で、私は特に「地球と人間をenrichする事業」、つまり地球と人のために良い事業を厳選し、その企業や経営者のお手伝いをしたいと考えています。最近、LinkedAcademyという国境のない学校事業に取り組んでいます。通信技術が発達した今、教育がない国や地域にアメリカの教育を届けたい。この事業では、インターネットを通じて世界をつなぎ、一緒に勉強をする場を設けます。
 
アフリカを始め、世界中で民族抗争が続いていますが、それを解決できるのは、武器ではなく教育だと考えます。例えば、オンラインで色々な国の子供たちが1つのクラスに集まり、国境のない生徒会を作ったり。このように、まだまだ私にやれることがたくさんあるのは、本当に幸せなことです。
 
今はまだ不況を脱していません。それでもアメリカは投資が盛んで、世界中のお金が集まって来ます。投資を通して、経済を活性化させる人が世界にはたくさんいるからです。
 
私は一生引退しないつもりです。これからも、企業の支援や、自分自身の事業に人生を費やしたい。70を過ぎても仲間とワイワイ新しいことに挑戦し続けることができたら、楽しいじゃないですか。
 
※取引開始時と終了時に鳴らされる鐘。新規株式上場した会社社長などが鳴らすが、これを鳴らすことは栄誉とされている。
 
(2011年1月16日掲載)

夘木栄人さん/Sun Noodle代表取締役社長


アメリカで製麺一筋30年 地道に顧客と向き合い 築いた信頼

単身ハワイに渡り、ゼロから立ち上げた「Sun Noodle」は、今や全米各地に出荷され、アメリカ有数の麺ブランドとなった。同社を率いる夘木さんに、これまでの道程を振り返ってもらった。

【夘木栄人さんのプロフィール】

うき・ひでひと◎1961年栃木県で製麺会社の長男として生まれる。県立壬生高校卒業後、徳島県の製麺会社に入社。1981年にハワイに渡り、サンヌードルを創業。翌年に製麺工場を開業し、83年から量販店との取引を開始する。2004年にロサンゼルス工場稼動。現在、ハワイとロサンゼルス合わせて毎日約7万食近くを製造し、シアトル、ニューヨークにも出荷。ハワイでは100種類以上の麺を出荷し、ロサンゼルスで50店舗以上と契約する。10年の売り上げは800万ドルを超えた。

製麺機3台がハワイで待っていた

工場で従業員と麺の出来映えについて意見を交わす

郷里の栃木に今もよく行くラーメン店があるんです。子供の頃から40年以上経つのに、味がまったく変わってない。うまいんです。そして、すぐに「また食べたい」という気持ちになる。僕が麺を作る時に意識するのは、この「また食べたい」という感覚。決して派手じゃないけれど、飽きることがない味。これは、製麺業者として大切にしている信条でもあります。
 
僕の実家は製麺業を営んでいて、長男である私は、当然跡を継ぐと思われていました。高校卒業という時に、大学に行くにも成績が足りないし、どうしようかと迷っていました。そうしたら親父が、「まずは社会人としての修業を積んでこい」と言って、徳島県の製麺所に話を付けてきてしまいました。親父には逆らえなくて、1年半、幅広く製麺を学びました。その中で、製麺の奥深さを知りました。
 
修業中の1980年頃のことです。知り合いを通じて親父に「ハワイで製麺の技術指導をしてくれないか」という依頼が来ました。親父は、早速製麺機を3台送り、ハワイに指導に向かおうとしたところ、実際には出資者を探しているような状態だったことが判明しました。話が違うと断ってしまったんですが、機械は既に送ってしまっているから、息子の私にお鉢が回ってきたんです。外国は憧れでしたし、若かったから、何も考えずに「行く!」と答えました。
 
いざハワイに渡ってみると、麺と言ったら「サイミン」や「チャーメン」。食べてみたら日本の麺の方がうまい。「これなら勝てる」、そう思ってしまったんですね。それからは、英語力も人脈もないのに、営業に回る日々。どこから出てくるのか、自信だけはありました。
 
ところが、営業に行く先々で、日本風のコシがある麺を「固くてまずい」「こんなの食べられない」と酷評されて…。ショックでした。どうすれば日本の麺の美味しさを妥協せず、地元の人に受け入れてもらえるか、日々研究を重ねました。
 
それと同時に、当時、日本からハワイに進出するラーメン店が多かったので、日本からの進出組に集中して営業をかけました。そうしたら少しずつ受注が取れるようになりました。日本の麺の美味しさを諦めないで、維持していたから認められたんだと思います。

60回以上試作を繰り返したことも

恵子夫人、愛娘の久恵さんとオフィスで談笑。仕事も手伝ってくれる家族はかけがえのない存在

製麺工場も作り、徐々に事業は安定していきました。ところが、すぐに壁にぶち当たりました。
 
日本から進出してきた、とあるラーメン店からの受注を受けた時のことです。門外不出の麺の製法を公開してくれたのですが、アメリカで手に入る原料では、同じ品質の物がどうしてもできない。そもそもアメリカの小麦は硬質で、うどんのようなもちもちした麺を作ろうとしても、うまくいきません。日本は小麦の輸入大国ですから、各国の小麦をブレンドして使います。それで麺の味わいの違いを表現できているんです。このように、日米では小麦の種類も、水質も違います。これでは麺のでき上がりもずれてしまいますよね。
 
3カ月から4カ月間、60回以上試作を繰り返しました。原料の小麦粉から考え直さなくてはならないので、オーストラリアや韓国などからも小麦粉を仕入れました。ようやくお客様のラーメン店から「使おう」と言っていただいた時は、本当にうれしかったですね。この時の経験から、弊社では今でも各国の小麦粉を独自にブレンドして使用しています。こうした達成感があるからこそ、この仕事はやめられません。
 
ハワイには、北は北海道から南は沖縄まで、日本全国からラーメン店が進出してきます。ですから、多くの方と麺について議論を交わし、多くのことを教わりました。顕微鏡で麺を見て、麺の扱いから温度管理まで事細かにご指導していただいた、大手ラーメンチェーンの会長もいらっしゃいました。麺を作るということは、そのお店の一員になるようなものです。プレッシャーはありましたが、やりがいがありました。
 
一方で、自分が立てていた目標を、ドンドン達成していきました。1987年には、念願の一戸建ての家を購入しました。当時、金利が上昇して、ローンが払えずに家を手放す人が多かったんです。頭金は全然足りなかったのですが、思い切って買ってしまいました。何しろ僕は、自分が立てた目標をクリアしていく「達成感」が大好きですから、無理してでも実行してしまうんです。でも、結果として、この思い切った購入が、後になって役に立ちました。
 
ドンドン増えていく注文に、工場の生産能力が追い付かなくなってきたと感じ始めました。すると、当時工場があった土地のオーナーが、僕の工場のリース契約が切れる前に、土地を売ってしまったんです。それでテナントが追い出されることになりました。1989年のことで、当時の従業員は10人くらいでした。資産は5、6万ドルくらいしかありません。多額の借金を抱えるか、商売を辞めるか、そのどちらかしか選択肢はありませんでした。
 
仕方なく新しい工場用地を探し始めたものの、建物を入れて130万ドルくらいかかる。手持ちの現金では頭金にも足りません。でも何とかしなきゃと、立ち退きを半年待ってもらって、とにかくお金を工面しました。すべてを切り詰めて貯金、貯金の毎日です。
 
運良く、SBA(中小企業局)のローンを得られ、さらに自宅を所有していたことで、それが大きな担保になって、無事に新工場を建てることができました。とはいえ、売り上げが年間90万ドル程の時代に、自宅を担保にして100万ドル以上の借金でしたから、それは怖かったですね。

 

ロサンゼルスでも地道にお客様に向き合った

製麺という商売は、何かがきっかけで大儲けできるという性格のものではありません。地道に1食1食売り上げを増やしていって、徐々に利益が伸びていくもの。それには麺を扱ってくれるお客様を増やすと共に、これまで付き合ってきたお客様との信頼関係を崩さないようにしなくてはなりません。常に研究と改良を重ね、お客様に提案する。しっかりとタッグを組んで、カスタムメイドの麺作りを続けていくのが弊社の姿勢であり、強みです。それをこれまで維持できたからこそ、創業から30年間、ずっと右肩上がりで売り上げを伸ばしてこられたのだと思います。
 
日本の大手企業が、製麺部門を発足させて大々的にハワイに進出してきたこともありました。大資本が相手では、いくら味に自信があっても太刀打ちできない。生産量も違います。しかし、その時も「所帯の小さな僕らにしかできないことは何か?」と考えたら、やはりお客様にトコトン付き合うことしかないと思いました。ラーメン店が、その顧客の好みに向き合っているように、私たちもラーメン店の好みに向き合おうじゃないかって。
 
ラーメン店はどこもスープにこだわっています。ですが、スープとの相性の良い麺がないと、食べた時に美味しいとは思えません。だから、スープも徹底的に研究しました。スープがわかってこそ、それに合う麺がわかりますからね。作ってはお店に持っていき、ダメ出しされたらもう1回…という繰り返しです。そして、がむしゃらに頑張ってきて気が付いたら、「サンヌードルの麺は美味しい」「サンヌードルに頼めば間違いない」という評判をいただいていました。
 
2004年、ハワイのラーメン店がロサンゼルスに進出するので、一緒にやってくれないかと誘われました。経営が安定して、麺作りにも自信が付いてきた頃でした。でも、このままあと20年、30年、同じ場所に安住していていいのだろうか、いや、もっと自分を追い込んで刺激を与えなくてはならないと思ったんです。そして、どうせやるならアメリカ1位を目指さなくてはいけないだろうと。
 
ロサンゼルスに進出した当初は、やはり苦労の連続。ロサンゼルスは広いので、配達を自社でできません。流通網を持っている問屋との交渉からスタートです。しかし、実績のない会社の商品をすぐには扱ってくれません。でも、うちにはうちのやり方しかありません。ロサンゼルスの有名ラーメン店を回って、カスタムメイドの麺作りを提案していきました。そして徐々に採用されると、今度は問屋に、「有名店で採用されているラーメン」という話を取っ掛かりにして、麺の高品質をアピールしていきました。その甲斐あって、何とか取り扱ってくれる問屋も出てくるようになり、大手日系スーパーでも扱っていただけるようになりました。今ではロサンゼルスエリアだけで、50店以上のラーメン店と契約しています。

製麺のやり取りを記録したデータが財産

ラーメン店との製麺のやり取りを記録したデータベースは、今では何千ページにも膨らんでいます。お客様とのこのやり取りこそが、弊社の財産です。毎日生産する麺は、100種類以上にもなっています。
 
これまで家を買う、工場を建てる、ハワイで1番になる…など、さまざまな目標を立てて、何とか達成してきました。2009年には、ロサンゼルスに自社ビル、自社工場を建設しました。これからは、もっともっと上質な麺を、さらに安価で提供できるよう研究を続けます。
 
今年は、アメリカ東海岸にも製造拠点を持つ計画があります。東海岸に進出するからには、その地にラーメン文化を創造するくらいの覚悟を持って臨むつもりです。これからラーメン店を始めたいという人たち向けに、麺に関するワークショップや講習会なども、積極的に開きたいと思っています。
 
今後の目標は、やはり最初に触れた郷里のラーメン店のように、決して派手ではないが、地道にしっかりと美味しさを追求し、ぶれないことです。ホッとするような感覚、また食べたいと思える味を、いつまでも提供していきたいんです。
 
「お客様が求めるものを、いつまでも」。これが弊社の目標であり、私の残りの人生の目標でもあります。”一生懸命作っています。” ―弊社が麺を出荷する際に使用する段ボールに書いてあるこの言葉を、これからも、ずっと言い続けていきますよ。
 
(2011年1月16日掲載)

堤 大介さん/『Toy Story 3』アートディレクター


「好きだから一生懸命やる」を貫きアートディレクターに

高校まで野球一辺倒。絵を描き始めたのは、卒業後に留学した短大のクラスが 初めてだったと言う堤さん。好きになったら熱くなり、とことん打ち込む性格だ。『Toy Story 3』のアートディレクターを務めるまでになった、その経緯を聞いた。

【堤 大介さんのプロフィール】

つつみ・だいすけ◎1974年、東京生まれ。高校まで硬式野球に打ち込み、卒業後、ニューヨーク州のRockland Community Collegeに留学。同大在学中、イラストレーションに開眼した。ニューヨーク市にあるSchool of Visual Artsに奨学金生として編入し、首席で卒業。Lucas Arts Entertainment Companyに勤務後、Blue Sky Studioに転職。その間に、『Ice Age』『Robots』『Horton Hears A Who』のコンセプトアートを担当。2006年、『Toy Story3』のアートディレクターとしてPIXARに移籍する。

 

高校に打ち込んだ経験で努力を厭わない体質に

才能あふれるクリエーターたちをまとめていくのがアートディレクターの仕事 ©PIXAR ANIMATION STUDIOS

僕は18歳まで野球をやっていました。体格に恵まれていたら、プロになりたかったくらい好きで。今もサンフランシスコ・ベイエリアの日本人の硬式野球チームで、選手兼監督をやっています。アニメーションの世界でここまで頑張れたっていうのは、野球に真剣に打ち込んできたから。高校時代のチームは、施設も整っていないし、有力選手も全然集まらないから、どんなに頑張っても勝てる訳がありませんでした。勝利という見返りがなくても努力し続けるっていうのは、難しいことだと思うんです。でも、僕は野球が本当に好きだから、一生懸命やるのが苦じゃなかった。
 
野球のやり過ぎで、受験戦線から早々に脱落(笑)。母親が「18を過ぎたら親元を離れ、違う街に行きなさい」と言っていましたから、浪人するという選択肢はありませんでした。姉がアメリカに留学していたから、僕もとにかく留学して、何か見つけようと思いました。
 
ニューヨークの小さなコミュニティーカレッジに入って、英語ができないからESLを取っていました。英語力があまりなくても取れるクラスのうちの1つが、絵のクラスでした。それが絵を描き始めたきっかけです。クラスメートは、おじいちゃんやおばあちゃんばかりで優しいから、僕の描いた絵を無条件ですごく褒めてくれた。それで自分は才能があると思っちゃって、真剣に絵を描き始めたんです。
 
日本という国は、食にしても建築にしても芸術にしても歴史があり、深いものがあります。日本人のちょっとしたこだわりや、細部に対する美意識って、世界的に見るとアドバンテージなんですね。僕は、日本の古典美術は勉強していないんですが、日本独自の、日本で過ごして育まれる平面的な物の見方が、自分の中にあるのかなって感じます。

 

好きなイラストレーションにひたすら没頭した美大時代

堤さんによる『Toy Story 3』のコンセプトアート ©PIXAR ANIMATION STUDIOS

4年制の大学でも引き続き絵をやりたいと思って、それなら美大に編入しようと思いました。ただ、美大は私立が多く、その高額な学費を払う余裕はありませんでした。ですが、School of Visual Artsというマンハッタンにある私立の美大から奨学金がもらえることになったんです。編入後、1教科でも成績B以下になったら奨学金の支給が止まるので、必死で頑張りました。と言っても、好きなイラストレーションを専攻していたので、全然辛くはなかったんですが。マンハッタンでいっぱい誘惑はあったんですが、不思議なくらい遊びに出かけることはなかったです。それ以上に絵の勉強が楽しかったんですね。
 
僕が絵を描き始めたのは留学してからなので、周りには僕より上手い人はいっぱいいました。それでも腐らないで描き続けられたのは、野球をやっていた時と同じ「好きなんだから、やりたい」っていう気持ち。もし、そこで折り合いを付けて無難な道を選んでいたら、人生は変わっていました。
 
3年生の時に、ディズニー主催で1カ月間のトレーニングコースみたいな夏のキャンプがあり、それに参加できました。これが僕の意識を変えました。アメリカとカナダの美大から35人だけが選抜されるのですが、僕は36番目。ですが運良く1人欠員が出て、参加できることになったんです。参加してみて、講師のディズニーの人たちの絵が本当に素晴らしかったんです。その時、僕もディズニーで働けば、上手くなれるのかなって期待感が生まれたんですよ。
 
美大を首席で卒業したのですが、当時は2Dのディズニーのアニメーションが衰退し始めた時代で、ディズニーは誰も雇っていませんでした。そこで、サンフランシスコの近くにあったジョージ・ルーカスのビデオゲーム会社に雇ってもらい、そこで2年間働かせてもらいました。
 
僕と同じように絵が大好きで、しかも絵が上手な人たちがいて、その人たちとコラボレーションするのが楽しくて仕方がなかった。ただ、僕はビデオゲームをしないので、どうしてもゲームを作ることに違和感がありました。
 
やはり映画の仕事がしたいということで、ニューヨークにあったBlue Sky Studioという映画会社に転職しました。そこで初めて映画のイロハを全部学んで、『Ice Age』『Robots』『Horton Hears A Who』の3本でコンセプトアートを担当しました。脚本がまだ絵になっていない段階で、イラストレーターが絵を描いて、「こういう感じでいきましょう」という案を出していくのがコンセプトアーティストの仕事。ストーリーを伝える絵を描くのが好きだったので、これは天職でした。
 
Blue Sky Studioでは、7年働いたのですが、その間、PIXARから何度か誘いを受けていました。ただ、その都度PIXARが僕にやってほしい仕事と僕がやりたいと思っていた仕事が違っていたので実現しませんでした。転職が実現したきっかけは、リー・アンクリッチ監督が、僕の個人サイトからEメールで、『Toy Story 3』でアートディレクションをやってほしいとオファーしてきたことでした。今から4年前のことです。
 
アンクリッチ監督による『Toy Story 3』は、映像的にもストーリー的にもダークです。1と2を監督したジョン・ラセター監督は常にカラフルで、夜のシーンでもできるだけ光を入れるような人。それと比較すると、アンクリッチ監督は子供向けの映画からちょっと外れた感覚を持っています。僕はずっと子供用のアニメーションをやってきましたが、結構ダークな絵も描いています。多分そういうところが監督に響いたのだと思います。

 

200人の頑固職人をまとめ上げる手腕

『Toy Story 3』の仕事は、200人のチームで取り組みましたから、チームワークがすごく大切。ずっと野球をやっていましたので、協調性を身に付けていました。そして、アートディレクターとして大切なことは、コミュニケーション能力です。監督が言わんとしていることを察すること。これは、日本で生まれ育ち、自然と「言わずとも察する力」を持っていて助かりました。コンセプトアートを見せて、「これは違う」と言われることはしょっちゅうです。違うと言われて、次に見せる物が少しでも監督の要望に近付いていないといけない。僕は、監督の求めている映像にできるだけ近付けるよう手助けするミニ監督みたいなものです。
 
アートディレクターは、最初に監督と直接やり取りできる数少ない人間です。その後、実際にアニメーションを作る大勢の人たちに、「この絵を基に、これを作ってください」と指示を出すことになります。例えば、僕は色とライティングのアートディレクターでしたから、映画を通して、それらに統一性を持たせないといけなかった。ですが、ただ単に「こうしてください」と指示を出しても、皆すごい才能のあるアーティストたちだから、職人気質で簡単には聞いてくれない(苦笑)。僕の言うことよりも、自分のやりたいようにやりたいという人もいます。それをうまくなだめすかして、僕の指示ではなく、あたかも自分の意志でやっているかのように、仕事をさせるよう仕向けないといけないんです。
 
あとは、もちろん絵のクオリティーですね。彼らが僕の絵を見て、こんな素晴らしい映像を作りたいと思ってくれるかどうか。絵も含めてコミュニケーションなんです。僕はPIXARの生え抜きではない、外様の新入りアートディレクターでしたから、なおさら口で言うよりも、自分の絵で納得してもらうしかないんです。
 
アンクリッチ監督は、『Toy Story 3』ができあがった時にTVのインタビューで、PIXARで1回も働いたことがない外部の人間を、いきなりアートディレクターに雇うということは大変なリスクがあったし、社内で反対もされたと話していました。しかも、彼にとってもこの映画は初めてのソロ監督作品でした。だから、できれば周りは経験豊富な人で固めたいはずでした。でも、そのリスクを負ったおかげで、こういう作品ができて良かったと言ってくれました。

 

「人の心に残る良い作品を作るのが喜び」(堤さん)

『Toy Story 3』は、大勢の才能あふれるクリエイターたちが、力を合わせたからできたんです。あの感動は1人では絶対に作れません。自分の絵を元に作られた映像が、他の才能が加わることでさらに洗練され、すごいものになった時の充実感はたまらないです。「自分も作品に貢献したし、大勢の人たちにも貢献する場を与えられた」と、うれしく思います。自分一人だけで絵を描いていても、多分そこまでの満足感は得られないでしょう。
 
僕が思う良い作品っていうのは、見ている人に何かを伝えようとする意思がある作品だと思います。見ている人たちの心に残る作品と、その場でただ笑って終わりという作品は雲泥の差なんですね。人の心に残るものを作るって、やっぱり難しい。そんな手間をかけるくらいだったら、エンターテインメントにこだわって、笑わせるものだけ作ればいいというのが、無難なビジネスモデルです。
 
その中でPIXARは、業界人以外が見ても良いと感じる映画を作っています。心に残る作品を作るという明確な意思があるんですね。もちろん、それが空回りすることもあるでしょうが、結果的にどうというより、作り手がそれを大事に思っているかどうかが大切。
 
作り手側からしてみれば、興行収入ってあまり関係ないんです。良い作品が作れなければ、やはり全然面白くないんですね。僕は最終的な映像・作品が、自分の求めているもの、自分の思っていたのと全然違うというのは納得いかないんですよ。だって映画を作るために絵を描いている訳ですから。PIXARは、経営陣のクリエイターへのリスペクトが感じられるのでうれしいです。
 
世の中にはすごい人たちがいっぱいいて、そういう人たちを見ていると、自分はまだ本当に駆け出しだと感じます。学ぶことは、自分の部下も含めていっぱいあります。今の立場に安住して、堤=この絵/この色、みたいに定着してしまうのは危険なんですよ。自分は枠に入りたくないので…。
 
そして、いつかは、自分のオリジナルのメッセージを伝えていきたいですね。
 
(2011年1月1日号掲載)

アメリカの大学入試制度と最新動向

アメリカの大学入試制度を理解するためにはまず、アメリカの大学システムについて知る必要があります。日本の大学と大きく異なる点として以下2点が挙げられます。

  • アメリカの大学入試は学部や学科による選考ではなく、大学で一本化された入学審査(アドミッション)になっている。受験時に専攻が決まっていない学生がいたり、大学在学中に専攻を変更する学生も珍しくない
  • アメリカの大学入試は、日本のように「その時点で優秀な学生を選ぶ」ためのものではなく、「将来伸びる学生を選ぶ」ためのもの。高校での成績や試験のスコアだけでなく、学業以外の取り組み(ボランティア活動など)や人間性(エッセイ、面接)も評価に大きく影響する

それでは、アメリカの大学に進学する上でどのような入試対策が必要なのか、最新の入試傾向も踏まえて見ていきましょう。

 

2017年にアメリカの大学において予測されるアドミッション(入学審査)の進化

昨年は、SATが新テストに生まれ変わり、新出願システムが導入されるなど、アメリカの大学入試制度において大きな変革がスタートした年となりました。2017年は、その取り組みが各大学において本格稼働し、アドミッション(入学審査)が進化を遂げる年となりそうです。新政権発足など不確定要素も少なくありませんが、アメリカの教育分野において予測される今年の動向をまとめてみました。

①将来性評価の進化

アメリカの大学は、入学者選抜において学生の将来性を重視しますが、アメリカの難関大学が「コアリション」という新しいアドミッション・システムを採用し、入学者選抜における将来性評価が新たなステージに進みました。現状のアドミッション(入学審査)では、大学は限られた情報を基に短期間で受験生を評価しなければならないので、学生の将来性を的確に判断しにくいのが難点です。これに対して、コアリションでは、アドミッションが長期にわたって学生の評価を行うことが可能となります。
 
コアリション・アプリケーションの採用を決めた95校のうち、半数近い46校が2016~2017年度のアドミッションに準備が間に合わず使用できませんでしたが、2017~2018年度では全ての大学でコアリションでアプライできるようになります。

②低所得者層支援の進化

アメリカの大学生の2割が第一世代大学生(両親が大卒の学位を有しない学生)で、その半数は低所得者層と言われています。低所得や低学歴の家庭で育った学生は、学習や進学準備について支援が受けにくいため、高い潜在能力を持ちながら、その能力を十分発揮できず満足のいく進学ができない場合も数多くあります。そのような不利な状況に置かれた学生に適切な進学の機会を与えることは、貧困から抜け出すきっかけを提供することにもなるため、米国の大学にとって重要な使命です。学生はコアリションのシステムを通じてアドミッション・カウンセラーなどから無料でアドバイスを受けることにより、大きく成長できます。
 
低所得者層の進学を支援する新たなサービスも生まれました。慈善団体ブルームバーグ・フィランソロピーズがAmerican Talent Initiativeというプログラムを立ち上げ、2025年までに5万人の低所得学生に質の高い大学教育を受けさせることを目指しています。トランプ新政権になっても、低所得者層の進学を支援を加速する流れに変化はなさそうです。

③テスト・オプショナルの拡大

2016年3月にSATがリニューアルされ、高校の教育課程に沿った内容で学生の到達度を測るテストに変わりました。受験生からは、以前のテストよりも実力が発揮しやすいと評価されていますが、現時点では大学のアドミッションからの評価にはあまり影響はないようです。
 
ACTやSATなどのアドミッション・テストは、大学にとって、学生が大学で学習するのに十分な基礎学力があるかを判断するツールとしての利用価値はあります。とはいえ、学力評価の基本は高校の成績であり、高校で十分な成績を収めている学生にとって、あえてテストの結果で示すべきものはあまりありません。大学のアドミッションも、高校でしっかり学習できている学生のテストスコアに価値を見出さなくなります。
 
アドミッションにおいて人物評価をより重視するという傾向が強まる中、ACTやSATのスコア提出を任意とするテスト・オプショナルという制度を導入する大学が増えてきています。例えば、オースティン・カレッジも2017年度から新たにテスト・オプショナルを導入する予定で、この流れは今後も続くことが予想されます。

④ファイナンシャル・エイド

アメリカの大学にファイナンシャル・エイドを得て進学を希望する学生が家庭の経済状況などを登録するFAFSA(Free Application for Federal Student Aid)の登録開始時期が昨年から3カ月早まりました。これにより、FAFSAの登録時期が大学出願後から出願前に変わるため、受験生はFAFSA上で自分の経済的ニーズの状況を確認してからアプライする大学を決められるようになりました。
 
2016~2017年度のアドミッションでは大学・受験生ともに試行錯誤の状態でしたが、2017~2018年度は双方がこのFAFSAの変更をうまく役立てられるようになるはずです。学生が家庭の経済状況を考慮して大学を受けるようになれば、より自分に合った大学選びが進むと考えられます。
 
(2017年1月16日号掲載)

 

日本とアメリカの入試制度改革

2016年は、日本・アメリカともに大学入試制度において大きな変革の年となりました。日本では、2016年3月に文科省の諮問機関である「高大接続システム改革会議」の最終報告がまとまりました。これにより「大学入試センター試験」の廃止や「英語4技能試験」「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」等の導入に向けた準備が本格的に始動するなど、抜本的な入試制度の改革がスタートしました。
 
アメリカでは、2016年3月にSATを高校の学習要領(Common Core)に沿った内容に変更して、学習到達度を評価するテストにリニューアルしました。また、全米の難関大学がCoalitionという新しいアドミッション・システムを採用し、入学者選抜における将来性評価が新たなステージに進みました。さらに、FAFSA(Free Application for Federal Student Aid)の提出時期の変更など、ファイナンシャル・エイドの制度にも一部変更がありました。

 

日米の入試制度改革の狙い

日本とアメリカの入試制度改革は、全く関係がないように見えますが、実は、両者が目指す方向性は非常に似ています。
 
日本の高大接続改革の中核は、「学力の3要素」の適切な評価です。学力の3要素とは
1. 十分な知識・技能
2. それらを基盤にして答えが一つに定まらない問題に自ら解を見いだしていく思考力・判断力・表現力
3. これらの基になる主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度
の3つです。
 
この学力の3要素は、社会に出た時に求められる力だと考えられています。そして、大学入試において学力の3要素をきちんと評価できるようになることが、高大接続改革のゴールなのです。
 
社会に出た時に求められる能力を基準に学生を評価できるようにするという高大接続改革の目標は、将来性評価を基本とするアメリカの大学のアドミッション(入学審査)に通じるものがあります。つまり、日本の大学入試は、アメリカのアドミッション制度に近づこうとしていると考えられます。
 
アメリカの大学のアドミッションは、将来性をより的確に評価するために、学力以外の評価も重視しています。エッセイを通じて人間としての成長を評価したり、スポーツやボランティア等の課外活動への取り組みを評価したりすることにより、受験生の将来性を多角的に判断します。将来自らの力で人生を切り開いていく能力のある学生を、アメリカの大学は高く評価するのです。日本の高大接続改革では、将来性を「生きる力」という言葉で表しています。日本が取り組んでいるのは、単なる入学者選抜改革だけではなく、高校教育改革と大学教育改革も併せた一体的改革です。そして、この一体的改革の目的は、高校、大学教育を通じて「生きる力」を育むことなのです。文科省は「確かな学力」「豊かな人間性」「健康・体力」を総合した力が「生きる力」だと定義しています。
 
日本では、社会で必要な能力を習得するための教育が大学や高校できちんとできていなかったり、大学の学習で必要な能力と、大学入試で問われる内容が整合していなかったりと、教育における一貫性の欠如が問題視されてきました。高校・大学教育を通じて「生きる力」を育むためには、高校と大学が連携して「確かな学力」「豊かな人間性」「健康・体力」を伸ばす教育を行うことが必要です。そして、入学者選抜においても「生きる力」を評価することが望まれます。

 

入試制度改革の今後の長い道のり

アメリカでは、高校において大学レベルの教育プログラムを提供するAP(Advanced Placement)を60年以上前から導入するなど、長い年月をかけて理想的な高大接続を模索してきました。SATのリニューアルやCoalition Applicationの採用も、よりシームレスで効果的な高大接続を目指した取り組みの一環です。
 
日本の高大接続改革が、アメリカのアドミッション制度を目標にするのは素晴らしいことですが、実現への道は容易ではありません。詰め込み教育から思考力重視型の教育への転換を目指した、いわゆる「ゆとり教育」は、どれほど素晴らしい理念に基づいた制度でも、そのフィロソフィーを教育現場に浸透させられなければ失敗するという顕著な例です。高大接続システム改革会議の最終報告には、高大接続改革は「幕末から明治にかけての教育の変革に匹敵する大きな改革」だと述べられています。改革の成否は、これから大学進学を目指す子どもたちにとって極めて重大であり、日本政府のリーダーシップが期待されます。
 
(2016年11月16日号掲載)

 

2016年版アメリカの大学入試動向と対策

2016年は、SATが新テストに変わり、新出願システムが導入されるなど、アメリカの大学進学にとって大きな変革の年と言えるでしょう。今回は、今後予想されるアドミッション・大学入試制度の動向についてまとめました。

 

①アチーブメント重視

アメリカの大学のアドミッション(入学審査)は、学生の成績だけでなく人物も評価して、学生の将来性を見極めます。人物評価においては、学生のアチーブメントを重視する傾向が見られます。きちんと目標を立てて、それに向かって努力できたか、またその目標を達成できたかという点が入学審査で問われます。
 
ここで言うアチーブメントは、必ずしもずば抜けた成績を収めるという意味ではありません。日々の学習や活動の中で、目標を持って行動する機会はいくらでもあります。例えば、「課外活動がどんなに忙しくても宿題は必ず期限内に終わらせる」と目標に掲げて、実現できれば立派なアチーブメントです。
 
目標を持って行動し、それを実現する、その積み重ねが学生の成長を促し、将来の活躍につながるとアドミッションは考えて、成功体験を評価するのです。

②双方向コミュニケーション

受験生とアドミッション担当者が連絡を取り合うのは、アプライ後だけではありません。学生がキャンパスツアーに参加したり、アドミッションに質問のメールを送ったりすれば、双方向のコミュニケーションが始まります。そして、この時点からアドミッションがスタートしていると考えられます。
 
学生との双方向のコミュニケーションは、アドミッション(入学審査)でその価値が年々高まっています。アプリケーションの中身だけで受験生の将来性を見極めるのは難しいですが、時間をかけてコミュニケーションを取ることで、学生の成長の過程が把握でき、評価しやすくなります。
 
2016年秋から導入が予定されているコアリション・アプリケーションでは、「ハイスクール・ポートフォリオ」というシステムを通じて双方向のコミュニケーションを促します。学生は9年生からアドミッションとやり取りができ、成長を評価してもらったり、適宜アドバイスを受けたりできるようになります。
 
この双方向コミュニケーションは、今後さらに広く深く活用されるようになるでしょう。

③テスト・オプショナルの拡大

SATのリニューアルで、テストの役割も変わると予想されます。SATは、もともとは学生の将来性を見極めるのに役立つテストとして入学審査に取り入れられてきましたが、2016年3月から高校の教育課程に沿った内容で学生の到達度を測るテストに変わります。
 
解法テクニックの習得や難解な語彙の暗記といった、いわゆるSAT対策の必要性は少なくなり、高校できちんと学習していれば点数がとりやすくなるはずです。大学のアドミッションにとっても、学生が大学で学習するのに十分な基礎学力があるかを判断しやすくなるのは好都合です。
 
一方で、高校で十分な成績を収めている学生にとって、あえてテストの結果で示すべきものはあまりありません。アドミッションも、高校でしっかり学習できている学生のテストスコアに価値を見出さなくなります。
 
大学のアドミッションにおけるテストスコアの占める割合は現時点でも決して高くありませんが、今後は難関校を中心にテストスコアの提出を義務付けないテスト・オプショナルのアドミッションが増えることが予想されます。最良の進学準備は日々の学習の積み重ねですから、テスト対策よりもまずは高校で満足のいく成果を挙げることを優先しましょう。

④広がる学費格差

同じ大学でも学費は一人一人異なると言われるアメリカですが、生徒間の学費格差は年々拡大しており、その傾向が今後続くことは間違いありません。一部の裕福な大学を除き、アドミッションは限られたファイナンシャルエイドの予算を、欲しい学生をとるために極めて戦略的に活用しています。
 
大学の学費は高騰していますが、それもアドミッションの戦略です。優先度の高い学生には多額の奨学金を提示して入学を促します。一方で、その他大勢の学生からは高い学費を徴収し、授業料収入を増やします。
 
学費の値上がりは今後も続き、その分大学は評価の高い学生をより充実したファイナンシャルエイドで優遇することになるでしょう。従って、賢い進学のためには、単に合格できそうな大学を選ぶだけではなく、自分を高く評価してくれそうな大学を狙い定めてアプライすることが重要です。
 
(2016年1月16日号掲載)

EVシフトの遅れが気になる日本の自動車産業

冷泉彰彦のアメリカの視点xニッポンの視点:米政治ジャーナリストの冷泉彰彦が、日米の政治や社会状況を独自の視点から鋭く分析! 日米の課題や私たち在米邦人の果たす役割について、わかりやすく解説する連載コラム

世界各国におけるEV事情とは

EVシフト

カリフォルニア州では、2018年からZEV(ゼロ・エミッション・ヴィークル=排出ガスゼロ車)規制が本格化する。50年までにZEV車を100%にすることを目標として、毎年販売台数に占めるZEV車の比率目標を引き上げていくというもので、違反したメーカーには罰金が科せられる。
 
このZEVだが、定義はかなり厳格で、EV(電気自動車)は認められるが、現在エコカーの主流を占めているハイブリッド(モーターとエンジンの切り替え式)車は認められない。いくら省エネでも、エネルギー源がガソリンではダメなのだ。ちなみに、トヨタのプリウスのようなPHV(プラグイン・ハイブリッド車)、つまりガソリンでも走るし、充電も可能なタイプは一応ZEVとして認められるようだ。
 
このZEV規制だが、カリフォリニア州が主導して、オレゴンやアリゾナ、ニューメキシコなどの西部だけでなく、東部のコネチカット、メイン、メリーランド、マサチューセッツ、ニュージャージー、ニューヨーク、ロードアイランド、バーモントなどの各州も追随する構えだ。20年までにEV登録数5万台を目指すワシントン州のように、具体的な数値目標を掲げている州もある。
 
ヨーロッパに目を向けると、イギリスやフランスなどでは、40年に化石燃料を使う車は禁止するという方針があり、アメリカより厳しい。自動車ということでは、新興市場である中国も、国営新華社通信が9月10日に伝えたところでは、中国工業情報省の次官が、化石燃料車の生産・販売の禁止時期に関する検討に入ったことを明らかにしている。
 
そのように世界の動きがEVへ向かう中で、日本の自動車業界の動きには「鈍さ」を感じざるを得ない。現時点で、日本国内で完全なEVを販売している日本の自動車会社は、日産(リーフ)と、三菱(ミーブ)ぐらいであり、トヨタはハイブリッドと水素電池車にエコカー戦略を絞ってきたし、ホンダはEVを開発中とはいえ、まずは中国向けに18年に発売という具合で、遅れが目立っている。

EV普及の先にある日本の自動車産業の未来

では、市場のうちでEV普及のカギを握っているのはどこか?というと、中国が重要だという声が多くなってきた。政府がEV普及に熱心なのは、公害防止のためだけではない。もちろん、深刻な大気汚染を改善したいという意図は背景にはあるが、これに加えて中国がEVの巨大市場になれば、中国系のメーカーが中国市場だけでなく、一気に国際市場でもシェアを奪えるという計算も、そこには感じられる。
 
機械としてのEVの構造は、ガソリン車よりも簡単で、バッテリーや、操縦機構、モーターとギアなど、部分部分を「モジュール化」して切り離し、それぞれを標準化してしまうと、大量生産で思い切りコストを下げることができる。その「標準化」のイニシアチブを取ってしまえば、下手をすると世界の市場を押さえることができてしまう。
 
確かに、EVというのは、電池などの化学製品と、電子機器でできている。そのいずれも、日本は圧倒的な強みを持っている。だが、モジュールの世界標準を中国に取られてしまうと、日本にはそのモジュール製造会社へ部品を供給する下請け産業しか残らないことになる。同時に、化石燃料車の禁止が世界のトレンドとなれば、日本のエンジン技術や排気ガス処理技術などは、過去のテクノロジーとして価値がなくなってしまう。
 
こうした動きに加えて、アメリカのテック系企業各社が取り組んでいる「自動操縦装置」がEVに搭載されていけば、日本企業の出る幕はなくなるし、同時に日本の代表的な産業であった自動車産業は裾野を含めて大きく衰退してしまう危険すらある。
 
例えばトヨタがマツダと提携をしたのも、そうした危機感の表れということが言えるだろう。いずれにしても、日本の自動車産業にとっては正念場と言える状況になってきた。

冷泉彰彦

冷泉彰彦
れいぜい・あきひこ◎東京大学文学部卒業、コロンビア大学大学院卒業。福武書店、ベルリッツ・インターナショナル社、ラトガース大学講師を歴任後、プリンストン日本語学校高等部主任。メールマガジンJMMに「FROM911、USAレポート」、『Newsweek日本版』公式HPにブログを寄稿中

 

(2017年10月1日号掲載)
 
※このページは「ライトハウス・ロサンゼルス版 2017年10月1日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

果実から醸造する芳醇なワイン「フルーツクラフト」

ライトハウス・サンディエゴ版編集長、吉田聡子が、サンディエゴのブランドを訪問。世界に羽ばたいた物から、ローカルにこだわる物まで、名品の背景にある物語を探ります。

 

Fruit Craft / フルーツクラフト

フルーツワイン

フルーツワインは現在7種。各種ボトル$15。

 

「糖分が含まれている食材なら何でも発酵させればアルコールができる。だけど、世の中で醸造酒といえば麦芽で作るビールと、ブドウで作るワインがほとんど。ブルワリーとワイナリーが盛んで醸造の文化が根付いているサンディエゴなのにフルーツでお酒を作る醸造所はない。誰もやっていないなら自分たちがやってみよう。それがFruit Craftの始まりさ」。

 

アレン(左) とブライアン。

創業者は双子の兄弟であるアレン(左)とブライアン。

 

そう語ってくれたのはFruitCraftの創業者の一人、アレン。彼が双子の兄弟であるブライアンとCalifornia Fruit Wineという名で醸造を始めたのは2009年のことだ。

 

特に醸造の知識も経験もなかった二人はまず自宅のガレージを醸造所にして試行錯誤。醸造するとおいしいのはどういったタイプのフルーツかや、果実の繊細な香りを残すためには低い温度で醸造するといいことなど、体験を通してノウハウを構築していった。

 

その後、ファーマーズ・マーケットで販売をして手応えをつかみ、本格的にビジネスとして始動したのは11年。2017年の6月にFruitCraftとブランド名を変え、ヒルクレストにテイスティングルームをオープンした。

 

アレンと吉田(右)。

アレンと吉田(右)。テイスティングのフライトは3種$7~。1杯$7.50で飲むこともでき、ブランチやつまみなど食べ物のメニューもある

 

FruitCraftのワインは現在、パイナップル、マンゴー、ザクロなど7種。甘いデザート酒のような味をイメージしていたが、必ずしもそうでもなく、例えばパイナップルはパイナップルの芳醇な香りはありながらも飲み口はドライだ。

 

「フルーツワインは甘くてお酒じゃないと思っている人もいるかもしれないけど、そんなことないんだ。糖度で見たら、ワインで使うブドウは度あることもあるし、マンゴーは度くらいだしね。フルーツの風味を人工的に添加したワインもあるけど、僕らが作っているのはそうじゃない、フルーツそのものから醸造したワインなんだ」とアレン。「ビジネスだから、もちろんお金は大事だけど、でもビジネスの目的はお金じゃないはず。僕らは自分たちの利益を社会的ないいことに還元していくような会社でありたいんだ」と情熱いっぱいで話が尽きない。

 

醸造の機械

醸造の機械
テイスティングルーム

テイスティングルームにはスクリーンもあり、イベント会場などとして借りることもできる。

 

実は偶然なのだが、この取材をする少し前に、同社のワインが日本に輸出販売されることが決まったそうだ。大量生産ではない、サンディエゴ発のクラフトマンシップあふれるフルーツワイン。海を越えて日本で受け入れられたら嬉しい。ぜひ応援したい。

 

◎ FruitCraft Fermentery & Distilley
1477 University Ave., San Diego
☎ 877-484-6282
https://fruitcraft.com

 

(2017年10月号掲載)
 
※このページは「ライトハウス・サンディエゴ版   2017年10月」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

 
 

アメリカでのバイリンガル教育

子供にバイリンガルになってほしいという思いは、どこに住んでいても親の共通の願いであるのに変わりない。だが実際にアメリカに住んでみると、バイリンガルの壁は想像以上に高いことに気づく。特に情報過多の現在では、さまざまな情報に振り回されがちだ。そこで各分野の専門家にバイリンガル教育の実態について話を聞いた。
(ライトハウス・ロサンゼルス版 2005年5月16日号掲載)

バイリンガルとは?

モノリンガル×2ではない完全なバイリンガルは稀

バイリンガル子育て01

バイリンガルという言葉が市民権を得て久しいが、近頃では「セミリンガル」や「バイリミテッド」などという新語まで登場し、単に2カ国語が理解できるだけでバイリンガルとは呼べない、という風潮すら出てきた。そこでまず、バイリンガルの定義について、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校、アジア‐アメリカ研究学部で日本語教育を専門とする教育学博士・ダグラス昌子助教授に話を聞いた。

「バイリンガルというのは、単純にモノリンガルの力×2ではありません。完全なバイリンガルというのは、2つの言葉が話されている国に同時に住んで、2つの言葉も文化も同時に習得していて成り立つものです。ですので、あくまで理想ではありますが稀と言えます」。

バイリンガルと言っても、例えば言語AとBの言語力が同じ強さで存在するわけではなく、シチュエーションによって言語Aが強くなったり、言語Bが強くなったりするのだと、ダグラス助教授は話す。家庭で話す言葉はA、学校で使う言葉はB、という場合などがその例だ。

バイリンガルにもいろいろなタイプがある。国際結婚などで両親の第1言語が違う場合に、生まれた時から2言語で同時出発するのが「同時バイリンガル」。両親とも日本人だけれど、プリスクールで英語の環境に入るなど、3~4歳頃に第2言語が時期を外して入ってくるのが「早期継起バイリンガル」。5歳以降に第2言語が入ってくるのが、「後期継起バイリンガル」と呼ばれる。

また第2言語で話を聞くことはできるけれど、話すのが難しいケースを「聴解型バイリンガル」、日常会話程度の話ができるのが「会話型バイリンガル」、両語とも読み書きできるのが「読み書き型バイリンガル」になる(注:バイリンガル研究者・中島和子教授の分類)。

こうして見ると在米日本人の大多数が、タイプの違いはあっても何らかの形でバイリンガルであることがわかる。何も日英両語でビジネスまでこなす言語力を持つ人だけを、バイリンガルと規定するわけではない。要は種類の違いなのだ。だがアメリカに住みさえすれば、誰もが日米両語ペラペラになるわけではないのも事実。

「日本で『アメリカに駐在が決まった』と言うと、『いいですね、日米両語が上手になれて』などと言われますが、アメリカに行けば何とかなる、というものではありません。家で日本語を使い、学校では英語で勉強していても、自然にバイリンガルになるわけではなく、保護者と教育機関が意図的に介在してなるものです」(ダグラス助教授)。

個人の能力や性格に加えて、社会におけるその言語のステータスも影響力が大きいとダグラス助教授は指摘する。ステータスの低い言語は、たとえ母語であっても子供は捨ててしまう。そこで次章では、日々の生活でどのようなことに親が気をつければ良いのか、バイリンガルな子供に育てる際の心構えを、子供の年齢や家庭環境などに照らし合わせて考えてみよう。

幼児と小学生の対応の仕方

「ぼうふら現象」は親子のコミュニケーション欠如から

バイリンガル子育て02

両親が日本人で、アメリカ生まれ、あるいは乳児期に渡米した場合、両親が日本語を話すので、生まれて最初に覚える言葉は日本語。どこで英語を取り入れるかがポイントになるが、就学時における子供の負担を少なくするために、第1言語の発達の基礎時期(5歳ぐらいまで)を過ぎてから、プリスクールなどで徐々に英語に慣らしていくのが良いようだ。その際には、先生に「日本語だけで育ててきたので、英語はわかりません」と事情を説明し、友達はできたか、楽しくしているかなど学校生活の様子を知らせてほしいと頼んでおこう。

ただし慌てて英語を覚えさせようとして、家庭で会話に英語を混ぜるのは禁物だ。家ではあくまでも日本語で通すのが肝心。それは就学年齢で渡米してきた場合にも当てはまる。

「最近は現地校でもESLで、バイリンガル教育のトレーニングを受けた先生が多くなりました。以前はトレーニングを受けていない先生に『英語が弱いので、家で英語を使うように』と言われることがありました。すると親は慌てて、会話に英単語を混ぜ、構文は日本語、単語は英語という日本語でも英語でもない、どちらにも属さない言葉を使うといったこともありました。英語と日本語は使い分けることが大切で、会話に両語を混ぜるのは危険です」(ダグラス助教授)。

現地校に通っていると英語は自然と強くなるので、家では日本語と決めたら、何があっても日本語で通す。親が英語と日本語をミックスするのは避けるべきだと、ダグラス助教授は訴える。

英語でもない日本語でもない、何を言っているかわからない状態を「セミリンガル」と呼ぶ。子供の場合、一時的にセミリンガルになることは珍しくない。「年少の場合、周りの人間がその言語でコミュニケーションすることで、年齢相応の言語力に戻る」(『言葉と教育:海外で子供を育てている保護者の皆様へ』[海外子女教育振興財団]・『バイリンガル教育の方法』[アルク]・共に中島教授著)と指摘している。今年は日本、来年はアメリカというような極端な生活をしない限り、一時的にセミリンガルになることはあっても、永続的に続くことはほとんどないとのこと。それよりも怖いのは、「ぼうふら現象」(カニングハム公子の研究)と呼ばれるコミュニケーションの欠如からくる症状だ。

「ぼうふら現象とは、幼稚園くらいの年齢の子が、日本語でもなく英語でもない言葉をブツブツつぶやく症状を言います。これはセミリンガルの極端な例ですが、周囲とのコミュニケーション不足によって、子供が日本語との接触の極端に少ない状態で起きる現象です」(ダグラス助教授)。

小学生では何が大切か見極めることも必要

バイリンガル子育て03_ダグラス助教授

「バイリンガルはすべてがバラ色ではありません」(ダグラス助教授)

小学生で渡米した場合、現地校に入り、突然英語での学校生活が始まる子供たちのストレスは計り知れない。土曜日の補習校はこのような子供たちにとって有益だと、ダグラス助教授は指摘する。

「週に1度でも日本と同じ環境に戻ることができる補習校は、子供にとってホッとできる場所になります。また日本語で話ができる友達もできる。そういう環境に子供を置いてやることも大切です。補習校に入れたから英語の習得が遅くなるというデータはありません。子供に言語の使い分けを教えるのは、家に入る時に靴を脱ぐのと同じ要領だと考えれば良いでしょう」。

バイリンガル教育における原則は、1人1言語。母親が日本語ならすべて日本語、父親が英語ならすべて英語で通すことが肝心だ。だが国際結婚の場合はどうすれば良いのだろう?例えば母親が日本人だと、子供との会話は日本語で通せるが、夫が日本語を話さない場合、夫婦の会話は英語になる。それなのに母子の会話を完全に日本語で通してしまうと、家族全員が揃った時に、母子の会話を夫が理解できず、夫をコミュニケーションから除外することになってしまう。

「父親がいない時は日本語で、父親がいる時は英語で、とシチュエーションで使い分けるようにしましょう。日本語の伸びは低くなるかもしれませんが、日本語を話す友達を探すとか、別の方法で補うようにすれば良いのではないでしょうか」(ダグラス助教授)。

日本語のマンガやゲームなども、日本語との接触や日本語を使うという動機付けをするために有効。ゲームの攻略本は日本語の物しか与えない、英語のテレビは1日1時間だけだが日本語のテレビは1時間以上でもOKというような工夫をしている家庭もある。

またダグラス助教授は、日本語の本を読み聞かせるのも非常に大切だと強調する。日本にいる子供でも、日常会話にない語彙は本から学ぶ。次はどうなるのだろうと仮説を立てたり、話の筋を追ったりなど、本を読むことは認知力発達に貢献し、それが学校での学習の基礎作りにもつながる。

「私はいつも日本語と英語の習得は、相撲の土俵での競り合いだと言うのですが、子供が英語を話すから、日本語だと時間がかかって面倒と、ついつい押されてしまうと、日本語の習得はそれまでです。低学年の頃までは1日に何回も『日本語で』と繰り返すことになりますが、親ががんばって辛抱強く使い通さなければなりません」(ダグラス助教授)。

子供の日本語レベルに対する親の期待度の違いで、同じ日本語を話す両親であっても、子供のバイリンガル度に差が出る。日本語は「日常会話がわかればいいレベル」を期待するのか、「仕事に使えるレベル」を期待するのかで、おのずと親からの支援の度合いも異なってくる。また、それぞれの年齢に合った親の努力が必要で、それは大学に入るまで続けなければならないとダグラス助教授は強調する。長期にわたる、親の根気強いサポートが必要なのだろう。

学習言語の変化に伴う弊害

英語での学習言語力は伸びるのに5~11年

バイリンガル子育て04

子供のバイリンガル教育においてもう1つ注意しなければならないのは、家族関係や学習能力に悪影響が出る危険性をもはらんでいる点だ。第2言語で教育を受けるということは、言語の習得以外にも影響をおよぼす。

言葉の力には2種類あり、1つは会話力で、もう1つが学習言語力だ。会話力と学習言語力の習得には差があるため、在米期間が短い場合は、現地校へ入れるのか日本人学校に入れるのか熟慮したい。また親と子の第1言語が違うために生じる落とし穴もある。ダグラス助教授によると、アメリカで英語を第2言語として習得する場合、3~4年もすると会話においては「この子は英語がわかるようになった」と思えるが、英語の学習言語力が伸びるにはさらに年数が必要だそうだ。第1言語での就学経験が2~3年あると、学習言語力が伸びるのは5~7年、就学経験がなければ7~11年かかるというウェイン・トーマス博士とバージニア・コーリア博士の研究結果もあるという。

例えば小学校3年生で渡米して5年後に帰国するケースでは、英語は話せるようになっても学習に必要な英語の力は伸びず、また日本語での学習言語力も日本にいる同年齢の子供と同レベルにならない状態で帰国することになる。駐在員家庭にとって、これは深刻な問題だ。

「日本の企業は、小さい子供の方が適応が早いだろうという理由と、年齢が上になると受験もあるため、高校生の子供を持つ家庭よりも小学校低学年の子供を持つ家庭を派遣しがちです。これは教育の観点から考えると問題があり、低学年は日本語を学習言語の背骨にしなければならない時期なので、日本で学校に行く方が望ましく、高校生ならすでに背骨ができているので、最初は苦労するかもしれませんが、低学年での言語環境の変化に比べると学習言語の発達は早くなります」(ダグラス助教授)。

ダグラス助教授は、ジム・カミングズ博士のバイリンガル研究者の言葉を借りて、「言語は氷山の一角のようなもの」だと言う。水面に出ている一部が日本語であり、別の一部が英語なのだとか。水面に出ている部分は違っても、水面下では同じ氷山を共有している。言語もそれと同じで、言語の根底にある力、水面下の共有部分に当たる根本的な認知力は、日本語でも英語でも共通のもの。この認知力が1つの言語で確立していると、もう1つの言語に移行できる。だが根本的な認知力を養う時期である低学年で言語環境が変わると、在米期間に両言語での認知力が伸びないので、帰国した時の負担が大きくなる。

「バイリンガルが、すべてバラ色ではないことを知っておく必要があります。世間では成功している例ばかりが目に付きますが、そうではないケースもあります。子供が低学年で渡米し、5年で帰国することが決まっている場合、もし私の子供なら、日本語の発達を重視して全日制の日本人学校に入れますね。そうすると帰国後に軟着陸できますから」(ダグラス助教授)。

渡米時や帰国後の適応力には個人差がある。子供の性格や能力なども要因になるので一概には言えないが、高校で渡米するケースに比べて、小学校低学年では危険性が高くなるという事実は知っておきたい。子供の言語の背骨が親と違うと、学力以外にもさまざまな弊害が出てくる。思春期の大切な時に、子供とコミュニケーションが取れなくなる可能性は無視できない。そういった症例は数多くあるとダグラス助教授。

「移住1世で生活に追われている家庭では、親が共働きで仕事を掛け持ちしたりして家にいないケースが多々あります。子供が高校生くらいになって友達との付き合いが増えると、第1言語ができなくなってしまい親子のコミュニケーション断絶が起きるケースも少なくありません。うまくバイリンガルに育った子は、思春期にアイデンティティーを失わずに過ごせますが、親とコミュニケーションができない子供は、非行に走りやすいとも言われています」。

言語能力はスポーツと同じ。1度覚えたスキルは忘れない

バイリンガル子育て05

よく「母語を大切に」と言うが、2カ国語を使い分ける子供にとって、どちらが母語になるのだろう。生まれて初めて覚えた言語が母語というのが専門家の定義ということだが、ダグラス助教授はこう付け加える。

「日本で育つ日本人の子供のようにモノリンガルの環境では、子供の時の第1言語が母語で1番強い言語、それが生涯続いていきます。英語での生活が長くなるにつれ、英語は2番目に覚えた言語だが1番強い言語、日本語は母語だが2番目に強い言語となり、放っておくとそのうち日本語はなくなってしまいます」。

また駐在家庭の悩みの1つにあるのが、帰国後の英語力の維持だ。せっかく苦労して身につけた英語も、年齢が低いほど忘れ去られるのも早い。英語環境から長期間遠ざかった子供たちが再び英語を習得する場合に、幼い頃の記憶はいくらかのメリットがあるのだろうか。

「言語のスキルはスポーツのスキルと同じです。使わないとすべて忘れてしまうのかというと、そうでもないという研究結果があります。再びどの程度習得できるようになるかは、子供のレベルや努力によって個人差がありますが、ゼロから学ぶ子と比べると習得スピードが違うと報告されています」(ダグラス助教授)。

ただし言語は子供の発達と同じように個人差があるとダグラス助教授。「子供の発達すべてにおいて言えることですが、人と比べてはいけません。その子のペースで進むことが重要なのです。子供は前から引っ張るのではなく、後ろから押して育てる。それを心掛けておきましょう。バイリンガル教育に関しては、第一人者の中島和子教授の著書、『言葉と教育:海外で子供を育てている保護者の皆様へ』(海外子女教育振興財団)と『バイリンガル教育の方法』(アルク)に詳しい説明がありますのでぜひご一読ください」。

ダグラス助教授の話にもあったように、子育ては気が遠くなるほどの根気を必要とする。子供が育つのを後ろから見守ることほど、難しいことはない。親であれば、ついつい口を挟んでせかしたり、子供のささいな進退に一喜一憂しがちだ。2カ国語を自由に操ることができれば、それは素晴らしいことに違いない。だが日本では、バイリンガルの成功例ばかりに脚光が当たっているのも事実。またモノリンガルの国・日本では、バイリンガル教育の実態を把握し切れていないという現状もある。バイリンガル教育を考える前に、子供に何を期待するのか、子供が何に向いているのか、また家族にとって何が大切なのかを、家族で一緒に考えることも必要なのではないだろうか。

子供の負担とストレス

言語の発達も考慮に無理せずできる範囲で

「言語力が普通か、それ以上の子供はバイリンガルに挑戦しても問題ありませんが、言語の発達の遅い子供がいるのも事実で、そういった子供はチャレンジしてもストレスが増えるだけです」と語るのは、臨床心理学者のスティーブ小林博士。

通常、1歳頃には「パパ」「ママ」などの簡単な単語を発するようになり、2歳くらいには文を話し出し、3歳になると流暢に話すようになる子供もいる。ところが言葉の発達の遅い子が3歳頃にようやく言葉が出るようになったとしても、6歳の時点で専門家が調べるとやはり1~2年の遅れが認められるという。原因はさまざまだが、言語の発達が遅い子供にとってバイリンガル教育は普通以上に負担になる。そういう場合は言語を1つに選択する必要がある。

「駐在であれば、言語の発達が遅い子供はバイリンガルにこだわらずに、日本語に絞った方が良いでしょう。永住であれば英語を。家で日本語を話しても良いのですが、絶対に日本語と決め付けるのではなく、できる範囲で良いのではないでしょうか」(小林博士)。

またバイリンガルは必然的にバイカルチャーになるため、将来的にバイリンガルとしてのアイデンティティーを確立していく必要があると言う。

「両文化の架け橋になれるような社会の場を見つければ幸せですが、モノリンガルの社会にいては、せっかくの才能も発揮できません。バイリンガルは自分の才能を使える場を見つけた時に活かせるのです」(小林博士)。

では、小学生で渡米して、ある日突然、現地校に入れられる子供は、心理的にどんな影響があるのだろう。

「現地校に入るということは、大きな壁を乗り越えて知らない世界に入ることです。うまく適応できないと、言葉数が少なくなり、家では話しても学校では話さなくなります。英語を拒絶するパターンで、小学生に見られる症状です。反動で日本の文化を取り入れるようになり、ますますアメリカは嫌だと偏る子もいます」(小林博士)。

「よその子は2年経ってESLクラスから出て行ったのに、なぜうちの子は出られないのか」という場合には、精神的な問題がないか気を配ってみよう。能力はあっても、英語は嫌だという気持ちが強くて学べないため、精神的な問題が英語の習得に影響を及ぼす場合もある。その場合は精神問題を治すか、バイリンガルは忘れて日本語に集中した方が子供の負担を軽減できる。

帰国後の犠牲者も多い。肯定するのが成功の秘訣

バイリンガル子育て06_小林博士

「バイリンガル教育に向く子と向かない子がいます」(小林博士)

在米期間が長くなると、日本語を拒絶することがある。滞在が長いと子供はティーンエージャーになるため、反抗期に突入する。親に話をする時も英語しか使わなくなり、親が日本語で返事をしても、理解しているのに英語で続ける。その子にとって日本語を話さないのは、反抗期の作戦の1つだと小林博士は言う。

「反抗期は成長過程に避けて通れないものですが、一般的な反抗なのか程度がひどいのかは、親子の人間関係によるところが多いのです。離れていく必要性を認めずにコントロールし過ぎると、反抗もひどくなります。英語しか話さないのは、親と差をつけるための手段なのです」。

また国際結婚の場合は、生まれながらにバイカルチャーな環境で育っているため、国際的な自己の確立が必要だ。「両言語や文化、考え方を肯定できれば良いのです。自分の中にある半分の価値観を認められない状態は、本人にとっても辛いことです。両文化と言語を使って、それを肯定し、楽しめるようにするのが、真のバイリンガル教育ではないでしょうか」(小林博士)。

バイリンガル教育で子供を犠牲者にしないためには、親の理解が不可欠。「自分で自信を持っている内容が否定されると、気力も抜けるし、希望も失います。反対に子供の価値観を個性と受け止めて肯定してやると、成功するケースがあります。在米中も日本文化を維持し、里帰りするなどして日本との架け橋を作ると同時に、帰国後のサポートも重要です」と小林博士は話す。

子供がどの程度順応できるかは、親の適応性も影響する。親がアメリカは嫌だと思っていると子供も同じようになってしまう。親が帰国後、早く日本人のように振る舞わなければと焦ると、子供もそれを敏感に感じ取ってしまう。

帰国後の適応は、大学に留学した大人でも容易ではない。バイリンガル教育が必要以上に子供の負担になったのでは本末転倒。だが、成功例も数多くある。それぞれの子供に合った方法で、持てる力を伸ばしてやりたいものだ。

※このページは「ライトハウス・ロサンゼルス版 2005年5月16日号」掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

学ぶ意思を尊重するアメリカ高等(大学・大学院)教育の仕組み

国家よりも古い歴史を持つアメリカの大学。天才の代名詞ハーバード大学から、南カリフォルニアの名門・UCLAやUSC、各地にあるコミュニティーカレッジまで、アメリカには数え切れないほどの大学・大学院がある。日本とは異なる制度を持つアメリカの大学・大学院。今回は、カリフォルニアの大学システムを中心に、アメリカの高等教育の概要を解説する。
(ライトハウス・ロサンゼルス版 2008年9月16日号掲載)

●アメリカの大学への進学・留学については「アメリカ・ロサンゼルス留学~おすすめ大学・語学学校の最新情報」でも詳しく紹介しています。併せてご覧ください。

アメリカの大学の成り立ちと仕組み

アメリカにおける大学教育

アメリカ高等教育の仕組み

アメリカに最初の移民がやって来て、イギリスの植民地としての歴史が始まるのが1620年、独立宣言が1776年。実はその間に、開拓が行われたアメリカ東部では、既に大学が誕生していた。超名門私立大学・ハーバード大学もその1つだ。

その頃の大学とは、富裕層の子弟を教育し、聖職者や植民地のリーダーを養成するために、「リベラル・アーツ」を学ばせることに目的があった。独立後のアメリカにも、軍関係の大学以外の国立大学は誕生せず、名門私立と実学中心の州立大学に大別される高等教育システムが発達していく。

その後、多くの移民を受け入れていったアメリカは、社会の成長と共に、意思のある者ならば誰でも学ぶことができる、コミュニティーカレッジの教育を充実させていった。

日本の6・3・3・4の教育システムは、敗戦直後の占領期にアメリカによって構築されたものだ。しかし、現在のアメリカの教育システムは、州や教育委員会によって異なるが、日本とは違っていることが多い。

大学へは、12年間の教育を修了した後に進学するという考え方は日本と同じ。ただしアメリカの教育は、本格的な専門教育を大学院で行うという考え方であり、学部以下の場合、非常にフレキシブルに専門分野を変えることが可能だ。また、コミュニティーカレッジから4年制大学への編入も盛ん。

日本でもロースクール(法科大学院)の制度が開始されたが、アメリカの大学院は、スペシャリストを養成する教育機関として認知されている。ロースクールやMBA(経営学修士号)取得のためのビジネススクール(経営大学院)、メディカルスクール(大学院医学研究科)やデンタルスクール(大学院歯学研究科)などの「プロフェッショナル・スクール」と、その他の分野の「グラデュエイト・スクール」に大別される。

アメリカの私立大学と州立大学の違い

アメリカの私立大学の場合、いわゆるアイビーリーグ(ブラウン、コロンビア、コーネル、ダートマス、プリンストン、ペンシルベニア、イェール)やMIT(マサチューセッツ工科大学)、カリフォルニアではカリフォルニア工科大学、スタンフォード大学などの世界的に有名な超難関大学から地方大学まで、難易度には大きな幅があるのは日本もアメリカも同じこと。注意したいのは、高額な学費とディプロマ・ミルの存在だ。

それでは、州立大学はどうだろうか?主に州の税金で運営されるわけなので、州民の入学が優先される。学費や入学に関しても、州民か否かによって差があるのが現実だ。こちらも難易度は、カリフォルニア州の場合、UCバークレー校に代表される超難関校から、実学主体のカリフォルニア州立大学(California State University: CSU)各校までレベルもさまざま。

州立大が私立に比べると大規模校が多くなるのは日本とは逆の傾向。ただし州立は専攻の幅が広く、UCの場合、名門私立にも引けを取らない大学院を持つ学校もある。

一方、コミュニティカレッジは州立の2年制短期大学だ。4年制大学を卒業すれば「学士号」(Bachelor)が、コミュニティーカレッジを卒業すれば「準学士号」(Associate)が授与される。

カリフォルニア州の大学の仕組み~3つの大学システム

では次に、カリフォルニア州にある3つの大学システムを見ていこう。

CSU(カリフォルニア州立大学システム)

CSU(カリフォルニア州立大学システム)の第1号は1857年に設置されたカリフォルニア師範学校(現在のサンノゼ州立大学)。これに続いて誕生した23の州立大学システムのことをCSUという。学部課程と修士課程で構成され、カリフォルニア州高等教育制度基本指針(Master Plan for Higher Education)によれば、州内の全高等学校卒業生徒のうち、上位3分の1を占める者、一定の要件を満たすコミュニティカレッジ卒業生を受け入れる大学である。
 
現在、カリフォルニア州立大学の学費は年間約2500ドル、これとは別に各校ごとにサービス費が徴収される。留学生や州外からの学生の学費は約1万3千ドル。現在、学費増額が検討されており、学生の反発を招いている。

UC(カリフォルニア大学システム)

これに対してアメリカ国内で7番目の規模を誇る巨大州立大学群が、カリフォルニア大学(University of California: UC)だ。CSUと区別するために、「州立」とは言わない。最古のUCであるバークレー校は1868年に誕生した。最新にして最後のキャンパスは2005年に開校したメーセド校。サンフランシスコ校だけは医学系大学院とロースクールのみであるが、それ以外は総合大学である。
 
一般に実学重視のCSUに対して、UCは研究・大学院教育重視で、施設も充実している。難易度も比較的高くなっている。

コミュニティカレッジ

カリフォルニア州コミュニティカレッジ・システム(CCCS)は地域の住民なら誰でも入学できる州立の2年制大学。州内72の学区、110の学校が存在する。CCCSは世界最大のカレッジシステムであり、2500万人が学んでいる。学費が安く抑えられているので、一旦ここに入学した後で、4年制大学へ編入する人も多い。
 
お稽古ごとのような科目も存在する一方で、職業に直結した教育や大学への編入のステップとなる学問の基礎的な科目も多くある。学期ごとの集中講座などもあり、フレキシブルに学生を受け入れている。

コミュニティカレッジへの入学には成績証明書の提出が必要だが、成績そのものは関係がない。ただし、アメリカの高校を卒業していない場合には、TOEFL(Test of English as a Foreign Language)の受験が必須で、基準点未満の場合には、ESL(English as Second Language)の科目を先に履修しなければならない。一方、提携している英語学校での成績次第では、入学にTOEFLを課さない学校もある。

カリフォルニア州立大学(設立順)

サンノゼ州立大学(San Jose State University)
カリフォルニア州立大学チコ校(California State University, Chico)
サンディエゴ州立大学(San Diego State University)
サンフランシスコ州立大学(San Francisco State University)
カリフォルニア理工州立大学(California Polytechnic State University)
カリフォルニア州立大学フレズノ校(California State University, Fresno)
ハンボルト州立大学(Humboldt State University)
カリフォルニア・マリタイムアカデミー(California Maritime Academy)
カリフォルニア州立理工大学ポモナ校(California State Polytechnic University, Pomona)
カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校(California State University, Los Angeles)
カリフォルニア州立大学サクラメント校(California State University, Sacramento)
カリフォルニア州立大学ロングビーチ校(California State University, Long Beach)
カリフォルニア州立大学サンディエゴ校(San Diego State University)
カリフォルニア州立大学イーストベイ校(California State University, East Bay)
カリフォルニア州立大学フラトン校(California State University, Fullerton)
カリフォルニア州立大学ノースリッジ校(California State University, Northridge)
カリフォルニア州立大学スタニスラウス校(California State University, Stanislaus)
カリフォルニア州立大学ドミンゲスヒルズ校(California State University, Dominguez Hills)
ソノマ州立大学(Sonoma State University)
カリフォルニア州立大学サンバナディーノ校(California State University, San Bernardino)
カリフォルニア州立大学ベーカーズフィールド校(California State University, Bakersfield)
カリフォルニア大学州立大学サンマルコス校(California State University, San Marcos)
カリフォルニア州立大学モントレーベイ校(California State University, Monterey Bay)
カリフォルニア州立大学チャンネル・アイランド校(California State University, Channel Islands)

カリフォルニア大学(設立順)

カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)
カリフォルニア大学サンフランシスコ校(University of California, San Francisco)
カリフォルニア大学デービス校(University of California, Davis)
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA: University of California, Los Angeles)
カリフォルニア大学サンタバーバラ校(University of California, Santa Barbara)
カリフォルニア大学リバーサイド校(University of California, Riverside)
カリフォルニア大学サンディエゴ校(University of California, San Diego)
カリフォルニア大学アーバイン校(UCI: University of California, Irvine)
カリフォルニア大学サンタクルーズ校(University of California, Santa Cruz)
カリフォルニア大学メーセド校(University of California, Merced)

ディプロマ・ミルにご用心!

近年日本でもアメリカでも、有名大学の教授や公務員などが、昇進のために「ディプロマ・ミル」による卒業証書や学位を利用していたことが問題になり、「学位汚染」という言葉も生まれた。

ディプロマ・ミル(Diploma Mill)とは何か? 直訳すれば「学位製造工場」。これは、州政府などに公認されていない、正規の大学ではない「教育機関」のことである。

どうしてこういうものが存在できるのだろうか?例えば、ある大きな宗教団体が、独自に宣教師を養成するための学校を作り、その卒業生に対して、自分たちの間だけで通用する「神学博士」の称号を授与する、といったケースがそれだ。これには何の問題もない。なぜならそれは、組織内だけの称号だからだ。

ところが、昨今の学位汚染問題では、「ユニバーシティー」や「カレッジ」という名前を使い学位を販売している、ディプロマ・ミルから授与された学位を、公の学位として悪用するケースが見受けられる。

ディプロマ・ミルの中にも、肩書きを買いたい人に学位を販売しているところや、名誉教授を斡旋するような「確信犯」もいれば、それなりの教育を施しているところもある。こういった無認可の「教育機関」の教育内容は、外から見ればわかりにくいことも多く、せっかく入学して学問に励んでも、卒業後に公的にはただの紙切れに等しい卒業証書をもらっていた、ということもあり得る。そういった意味で、州政府の認可制度が複雑なアメリカでの大学選びには、十分な注意が必要だ。

アメリカの大学の入学から卒業まで

アメリカの大学入試SAT

アメリカでは日本のような入学試験はない。その代わりに、SATという民間の試験を利用することがほとんどだ。そのため、毎年アメリカでは、200万人の受験生がSATを受験している。
 
その中心になるのがSATリーズニング・テスト(SAT Reasoning Test)。国語(英語)の読み書きと数学で、今まで勉強してきた能力を計るだけでなく、今後、アメリカの大学での教育に耐えうるかどうかを見極めることが目的である。一般的には11年生(ジュニア)または12年生(シニア)の年に受けることになる。
 
かつてSATⅡとして知られていた科目別のテストは、現在、SATサブジェクト・テスト(SAT Subject Test)に名前が変更になっている。その目的は、受験する大学に対して、国語、歴史、数学、理科、外国語の能力を示すことにある。この試験は特定の教科書や教育方法とはまったく関係なく、独自のものであり、出題内容も毎年変わるが、出題範囲は現行のカリキュラムに沿っている。大学によって要求される科目が異なるので、事前に調べておくこと。
 
他にもACT(American College Testing)と呼ばれるテストもあるが、受験する際にどのテストが必要なのか、こちらもしっかり調べておく必要がある。

アメリカへの留学の第1関門・TOEFL

一方、アメリカへの留学生に必要なのが、TOEFL。これは1964年に、英語を母国語としない人々の英語力を測るテストとして、アメリカの非営利教育団体であるEducational Testing Service(ETS)が開発したもので、アメリカの大学では留学生の英語能力を測るテストとして、広く認知されている。
 
2005年9月から導入された新形式の「TOEFL iBT」は、英語でのコミュニケーションに必要な「読む」「聞く」「話す」「書く」の4つの技能を総合的に測定するものとなっており、英語をどれだけ「知っている」か、ではなく、「使える」かに焦点を当てている。
※詳しくは、国際教育交換協議会のサイトを参照。

大学卒業までの長く険しい道のり

日本の大学は入学が難しく、アメリカの大学は卒業が難しいとよく言われる。実際には、アメリカの大学も学校によっては入学も難しい。確かに黙って講義を受けて、ノートを取っていれば単位がもらえるというわけではないアメリカの大学は、難易度の問題もさることながら、講義に積極的に参加するシステムに慣れない日本人にとっては、卒業はさらに難しく感じられるだろう。

また、入学式があり、丁寧にオリエンテーションがある日本の大学とは違い、ある程度のナビゲーションはあるものの、万事自分で行わなければならないアメリカの大学では、自分が注意していないと、卒業に必要な単位を取り損ねていたというケースも出てくる。

大学の卒業式は5月。実際、その年の8月までに単位が揃えば、その年度での卒業ということになるので、いわば「卒業見込み」で卒業式に出席することが可能だ。正装して卒業式に出席し、仲間たちと大騒ぎしたものの、必要単位が足りなかったので卒業には至らず、10年以上経ってから昇進などの際に、卒業証明書がないことがわかり、実は「中退」だったことが判明するという悲喜劇もある。

アメリカの大学や大学院は、日本のように4月に入学して、4年後の3月にその多くが卒業するというような画一的なものではなく、卒業の時期は学生が単位を履修・習得したスピードによって大きく異なる。

また、入学した学校と卒業した学校が違ったり、途中で複数の学校から単位を取ったりすることはざらで、そういった場合、ますます自己管理が重要になってくる。もちろん大学側でも学生の習得単位は管理しているが、学生がどんな履修計画を立てるべきか、ということまでは教えてくれない。専攻を変更する時、編・転入学する時には、自分が習得した単位数だけではなく、その単位が編・転入に使えるのかどうかを事前に調べておく必要がある。特に、コミュニティーカレッジから4年制大学へ編入する際には要注意だ。大学によっては、認めない単位があるし、編入先によっては成績も重視されるからだ。履修計画を立てたり、編・転入をしたりする際には、各校のカウンセラーに必ず相談しよう。

日本人留学生:正規留学への道

アメリカに住んでいても、日本国籍で、日本の高校を卒業していれば、アメリカの大学では留学生になる。留学準備に必要な期間は、一般的に大学・大学院への留学の場合には約1年半前から、語学留学の場合でも約半年前から準備をすることが望ましい。特に、ビザ取得は年々難しくなっている。既にアメリカに住んでいる場合には、移民法弁護士に相談することをすすめする。

留学の事前情報に関しては、日米教育委員会が両国間の教育、文化、学術交流を推進する目的で設置した「留学相談サービス」の利用が便利だ。電話での相談(103-3580-3231、月~金・午後12時~5時)の他、東京にある資料室では、アメリカの大学のオンライン・カタログ、留学計画や大学選択に役立つ参考図書などを閲覧することができ、大学・大学院留学に関する説明会を東京、札幌、仙台、名古屋、京都、大阪、福岡、沖縄などで実施している。メール(eas@fulbright.jp)での問い合わせも可能だ。

また、アメリカ大使館領事部(☎03-5354-4033)では、ビザ取得に関する24時間音声・FAX情報サービスを有料(クレジットカードによる課金制)で行っている。メールによる回答サービスも有料で行われているので、詳細は大使館ビザサービスのウェブサイトで確認のこと。

生涯一学生:リカレント教育

リカレント教育とは、1973年にOECD(経済協力開発機構)が発表した「リカレント教育–生涯学習のための戦略–」に基づいている。それによれば、「リカレント教育とは、血液が人体のなかを循環するように、教育が個人の生涯にわたって循環すること、すなわち、労働等他の諸活動と交互に教育を行うこと」となっている。日本では、92年の生涯学習審議会による「4つの課題」などによって、言葉だけは知られているが、残念ながらそれは、厳しく言えば社会人を対象にした入試制度の改革やサテライト・キャンパスの設置等にとどまっている。

アメリカの場合、基本的に入試がなく、さらに、労働市場の流動性が高いため、社会人になってからも大学に戻り、キャリアアップを図ったり、ステップアップのために資格コースを履修したり、まさに「リカレント」が盛んに行われている。MBA取得講座などはその好例だ。大学側も、セメスターの枠にとらわれない集中講義や夜間クラスを豊富に準備し、単位互換も盛んに行うなど、ニーズに応えている。

あるコミュニティーカレッジで行われている、夜間集中コースの日本語講座上級クラスをのぞいてみると、昼間や夜中に職を持つ30~60代の生徒が十数人、日本人の先生から熱心に会話や文法を学んでいた。日本が好きで学ぶ人もいるが、コミュニティーカレッジ卒業のための単位を揃えている人、大学中退後20年目にしてUCへの編入学を目指して単位を積み重ねている人など、目的はさまざまだ。

コミュニティーカレッジでは、そのような授業に入学を希望する外国人にも、TOEFLなしで門戸を開いている。自分の興味がある講座だけの受講も可能なので、チャレンジしてみてはどうだろうか。ただし、英語と数学の能力テストを受けることが義務付けられている。

アメリカの大学の学費と奨学金

アメリカでは「贈与」が中心の奨学金

一般的なアメリカの大学の学費は、年間8千ドルから4万5千ドル。それ以上かかる大学も多い。大学進学資金は、多くのアメリカ人にとって進学の大変な障害となっている。保護者に学費を頼らない(頼れない)学生も多いので、高校卒業後に数年働いて、お金を貯めてから進学するということも多い。

また、政府機関や各種団体による奨学金や学生ローンもさかんに利用されている。奨学金(scholarship)と言えば、日本では返還が必要な「貸与」が中心だが、アメリカでは返還不要な「贈与」を意味している。州立・私立を問わず、一定未満の収入水準の場合に贈与される奨学金は各種あるが、学費を無料にすることを決めたスタンフォードやハーバード大学などの例も、大学独自の奨学金と言えるだろう。その他、企業や同窓会団体などが、数多くの奨学金や資金援助の制度を提供している。

これらの奨学金制度は、日本と同じように学生の年収と成績によって判断されるが、貸与ではなく贈与なのでハードルは高く、学費免除などの場合には、卒業生として大学と同窓会の名誉を高めてくれることを期待される、天才的な才能やプロ選手レベルのアスリートでないと受けられない。

一方、カリフォルニア州では「Cal Grant」という一般的な奨学金制度もある。ただしこれは、基本的には生活に恵まれない学生に対してのもので、いくら成績が良くても、年収が高い場合には受けられない。

カリフォルニアの主な大学の比較

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留学生の奨学金は日本学生支援機構へ

こういったアメリカの奨学金に一般的な日本人学生、特に留学生扱いとなる日本の高校を卒業した、日本国籍を持っている学生が割り込むことは難しい。しかし、その一方で、留学生はビザを取得する前には、学費の支払い能力があることを証明しなければならない。そのため何らかの資金援助が必要なケースも多いだろう。フルブライトの奨学金に申し込むこともできるが、こちらもハードルは高い。

一般的に言えば、日本学生支援機構(JASSO)による「第2種奨学金(海外)」の貸与を受けることが現実的だ。これは、海外の大学・大学院進学予定者を対象に(短期大学は対象外)、進学をする前に申し込む「予約制度」となっており、申込書類の請求・提出先は、日本国内にある高等学校となる。

募集受付は留学をする前年度の6~10月で、貸与月額は3~12万円の5段階の選択制だ。申込資格は、留学の前年度に日本国内の高等学校、専修学校高等課程を卒業見込みの者、もしくは、募集受付時においてそれらの学校・課程を卒業後2年以内の者となっている。

対象となるのは、勉学意欲がありながら、経済的理由により進学に困難がある者、学位取得を目的として積極的に海外の大学に進学を希望する者、海外の大学を卒業する能力を有することについて在学学校長の推薦がある者、となっている。英語力が不足しているために、ESLコースなどを受講する場合は、奨学金の貸与対象期間とはならないが、語学コースを終え、予約の年度内に正規の課程へ進学できる見込みがあれば、予約候補者として対象になる。正規の課程へ進学した月以降、奨学金の貸与が開始される。

留学の前年度に日本国内の高等専門学校、短期大学又は専修学校専門課程を卒業、または卒業後2年以内の者で、海外の大学の正規の課程に編入学を希望する者も対象となる場合がある。所得による基準やそれを証明する書類などが必要になるので、早めの準備が必要。提出書類については、出身校に問い合わせて遺漏のないようにしたい。

大学院対象の奨学金についても受付期間は同じだが、申し込み書類の請求先は日本国内に在学中の大学または出身校になる。貸与月額は5~15万円の5段階の選択制。その他の条件も、大学進学の場合とは異なる。

また在学中に短期留学をする、専修、専門、高等専門学校(4、5年のみ)、短期大学、大学・大学院に在学する学生を対象とする奨学金もある。詳しくは日本学生支援機構のウェブサイト(www.jsso.go.jp)で確認しよう。

日本で学生ローンと言うと、ネガティブなイメージがあるが、アメリカでは学費を支援する目的の一般的なローンを意味する。連邦政府による学生資金援助プログラム(Federal Student Aid Programs)が有名。学生ローンは他のローンに比べて金利が低く、在学期間中は返済不要となっている。

例えば、シティ・バンクが提供する学部生向けの「Federal Stafford Loan」は、連邦政府からの支援があり、最高で1万2500ドルまでの借入が可能。利子は6.0%~(2008年8月現在)、返済期間は最長で25年となっている。他にも保護者が借りるタイプのローンもあるので、興味がある人は、Student Loansを参照してみよう。オンラインでの申し込みも可能だ。ただし一般的に学生ローンは、米国市民や永住権保持者、またはそのプロセスにある者に限られている。

親子で見る、アメリカ大学進学体験記

大学受験は、あくまでも本人の問題。でも、学費や下宿、将来、帰国のことなどを考えれば、本人の問題で片付けられるものではない。ここで、長女・絵里さんが実際にUCサンディエゴ(UCSD)で学んでいる、亀山順子さんに、親としての大学受験について、具体的な話を聞いてみた。

カレッジツアーに参加。受験校を絞り込み

亀山順子さん

長女・絵里さんがUCSDに通う、亀山順子さん

娘がアメリカに来たのは1994年のこと。米国内で数回の転居の後、2003年8月にサンノゼに落ち着きました。

シニア前の夏休み、そろそろカレッジを考えよう、カレッジツアーにも行こうと思っていた矢先、日本にいる私の父が倒れ、それ以降日本を行ったり来たりするようになりました。突然そのような状況になってしまって、色々調べる精神的な余裕もなく、カレッジカウンセラーに相談の電話をかけました。お陰で2週間に1回ほどのカウンセラーとの話で、大学情報を得ることができるようになりました。

大学の選択ですが、まず費用です。寮に入る場合、生活費も含めると年間費用がUCで約2万5千ドル、CSUで約2万2千ドル、私立の場合には4~6万ドルと聞きました。予算に関しては、アメリカの場合は奨学金、ローンなどのサポートがあるのですが、娘が多少の奨学金を得ても、私立大の費用を4年間捻出するのは難しいと考え、これは対象から外しました。州外の大学については、最初から考えませんでした。というのは、夫の仕事の関係で今後の住まいも決定していない状況の下、娘に続いて大学受験を迎える2人の息子のことも考え併せると、日本からも1番便利なカリフォルニア州以外は考えられませんでした。

私たちがカレッジツアーに行ったのはUCだけでした。サンディエゴ、サンタクルーズ、デービス、サンタバーバラの4校に、9月に入ってからバタバタと出かけたので、大変忙しいスケジュールになってしまいました。シニアになってから動き出すのでは、やはり遅過ぎでしょう。カレッジツアーに行くつもりがあるのなら、早めに計画を立てることをおすすめします。

願書に記入ミス!親子でハラハラ

願書提出は慎重にというのは、当たり前のことですが、私たちは大きな間違いをしてしまいました。願書の最初の項目である出生地に、なぜか現住所がある「サンノゼ/カリフォルニア」と書いてしまっていたのです。記入間違いは出願無効になると聞いていたので、それに気付いた時は、親子共々大いに慌てました。

早速カウンセラーに連絡をしましたが、これといった対策はなく、各大学に電話をかけろとだけ言われました。娘はいくつかの大学に電話をかけ、センターへは訂正のメールを送り、各大学へ訂正文を郵送しました。一応手は尽くしましたが、大丈夫だという保証はなく、合格通知が来るまでは、ハラハラしました。

こうした経験からも、結局、大学受験は、本人が自分の意思で自分の力で責任を持ってするもの。先生やカウンセラー、親はそのほんの手助けをするだけだと、心から思います。

高校に期待できること・できないこと

娘の高校では、先生やカウンセラーはほとんど何もしてくれませんでした。はっきり言って、高校に期待できることは、ほとんどないような気がします。公立高校でしたが、生徒各自がチューターや外部のカウンセラーのところ、あるいは塾などに通い、マニュアルに則って大学受験の道を歩んでいました。

私たちがカレッジカウンセラーに頼ったのは、賢明だったと思っています。大学のシステムそのものを一から教えてくれ、娘に合った大学情報を提供してくれました。自分で何もできなかったのに、こんなことを言うのは気が引けますが、今から考えれば、カウンセラーが教えてくれたことは、ちょっと調べればすぐにわかることばかりでした。知識がまったくなかった私たちには強い味方でしたが、私立や州外の大学を目指す人以外には、カウンセラーは必要ないかも知れません。

また、人にもよるのでしょうが、彼らは受験を成功させるために、課外授業、ボランティアやアクティビティーなどでも、フルに活動することを強くすすめます。娘はシニアイヤーからのカウンセリングでしたので、それほどプッシュされることもなく、自分がやりたいと思うことだけをして高校時代を過ごせました。カウンセラーのノウハウは確かなものだと思いますが、画一的な指導には疑問が残ります。

娘は今UCSDで、とても充実した日々を送っている様子です。娘の専門分野は就職に有利だとは思えません。今後、彼女の将来がどうなっていくのか、皆目見当がつきませんが、自分の道は自分で拓いていこうという心意気だけは、大学受験を通じて身に付けたように感じます。

現役大学生の生活:亀山絵里さん(UCSD人類学部在学中)

亀山絵里さん

亀山絵里さん

高校3年生まで、自分が何を専攻したら良いかわからなかったのですが、カウンセラーのアドバイスに従ってリサーチした結果、段々興味を持つようになった人類学を専攻に選びました。アメリカの大学は3年生まで専攻を変えることが簡単にできるので、気軽に選択しました。

UCSDは家族とキャンパスツアーをした際に、「ここだ!」と思いました。他の学校と比べて具体的に何が良かったとは言えないのですが、雰囲気がとても良く、私を歓迎してくれた、と感じたのです。

大学では最初の2年は、どのような専攻でも必要な基礎教育(一般教養)をたくさん取らなければなりません。ただ私は、AP(Advanced Placement:高校在学中に受講できる大学の授業)の単位や、SATの日本語の単位を持って入学したお陰で、数学や外国語などの授業を取る必要がなく、選択科目の幅もとても広がりました。

大学で最も大切なことは、時間の管理だと思います。具体的に言うと、遊ぶことと勉強のバランスです。それから、良い成績を取るために必要なことを知っておくことです。これは何に集中しなければならないか、ということを学ぶことです。

社会科学系の授業は、読むことと書くこと、とりわけ宿題が大変です。長いものでは10ページのレポートを課されることもあります。社会科学系を専攻するなら、英語力は非常に大切です。私は3年で学部を卒業することを目指していますが、その後は大学院へ進んで博士号を取り、大学で教えたいですね。

アメリカの大学を目指している皆さんには、「Where there’s a will, there is a way」という言葉を贈りたいと思います。特に日本から来た留学生は、まずは英語をしっかり学ぶこと、恥ずかしがらずに話すことにチャレンジしてください。

油利文絵さん(UCLAコミュニケーション学部在学中)

油利文絵さん

油利文絵さん

小学校の時から英会話を始めたこともあり、英語だけでなく、他の言語にも興味を持っていました。言葉や身体の使い方は国や場所によって違いますが、万国共通しているのは、私たちはみんなそれを使って何かを伝えようとしていること。自分たちの生活にあって当たり前のようで、とても大きな役割を果たしているコミュニケーションを学びたいと思いました。なかでも個人間のコミュニケーションからマスメディアまで、幅広い授業を提供し、研究も進んでいるUCLAに編入する決意をしました。

アメリカの大学の難しいところは、読む量がとても多いことです。それからコミュニケーションのクラスはエッセイテストが多いので、内容をしっかり理解し、自分の言葉で書けないといけないので、テスト前はそれが大変です。

日本人にとって1番大変なところは、教授が生徒に発言や授業参加を求めていることです。実はこれが、私がアメリカの大学に来た理由でもあるのですが、講義を聞いて、受け身で学ぶことが多い日本の学生にとって、たくさんの学生がいるなかで自分の意見を発言するのは、抵抗のあることではないかと思います。日本人にとって難しいことではありますが、これがアメリカの教育の素晴らしいところであると思います。

卒業後は日本で就職したいと思っています。UCLAで視野が広がったので、今はメディアに限らず企業のPRなどにも興味を持っています。

アメリカの大学の良いところは、自分さえ準備ができていれば、思い切り勉強できる環境が整っていることです。やるかやらないかは自分次第。大変なことも多いですが、「自分でやる」ことは「自分を成長させる」ことだと思います。まだこれが学びたいとか、これについて研究したいなど、具体的なことは決まっていなくても、最後までやり抜くという強い意志を持ってください。

※このページは「ライトハウス・ロサンゼルス版 2008年9月16日号」掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

企業にとっての資産とは

「資産」とは、企業が所有している物品や権利の総称で、現金、売掛金、在庫、土地、建物などが挙げられます。今回は、企業の税務や会計処理に役立つ、資産の種類や経費計上の基礎知識をご紹介します。
 
資産は大きく流動資産(Current Asset) と固定資産(Fixed/Long-Term Asset)に分類されます。

 

流動資産

流動性が高く、1年以内に現金化される予定のものを指します。以下が代表的なものです。
現金(Cash):手元の小口現金、銀行預金など。
売掛金(Accounts Receivable):商品・製品やサービスの対価が未受領で、比較的支払い期限の短いもの。
在庫(Inventory):商品(販売目的で仕入れたもの)、製品(自ら製造したもの)、仕掛品(製造中のもの)、原材料(製造目的で仕入れたもの)。
短期投資(Short-Term Investments):1年以内に手放す予定の投資。有価証券、オプション取引、通貨市場など。
前払費用(Prepaid Expenses):保険料のような、商品やサービスに対する前払金。

 

固定資産

固定資産は、長期投資(Long-Term Investment)、有形資産(Tangible Asset)、無形資産(Intangible Asset)に分類されます。
長期投資:有価証券、1年以上保有する予定の不動産や他事業への投資。
有形資産:建物、土地、事務備品、機械設備など。
無形資産:特許(Patent)、著作権(Copyright)、営業権(Goodwill)、商標(Trademark)など。

 

資本化(Capitalization)

購入した設備や備品はその価値によって貸借対照表(Balance Sheet)に載せるか損益計算書(Income Statement)に載せるかが決まり、貸借対照表に載せることを“資本化”といいます。
 
これらの設備や備品の運搬費用や設置費用も資本化されます。また、修理修繕をして固定資産の耐用年数が延びた場合、修理費用も資本化され、固定資産の価値に上乗せします。

 

減価償却

減価償却とは、固定資産を法律によって定められた耐用年数(使用可能期間)に分割して経費計上する方法で、均等に経費計上する定額法(Straight-Line Method)や、初期償却率が高くなる加速償却法(Accelerated Method)などがあります。
 
税法上、有形資産の耐用年数は事務備品が5~7年、居住賃貸物件は27.5年、オフィスビルは39年で、土地は減価償却できません。無形資産の場合、特許や著作権の耐用年数はそれぞれの有効期限と同じです。

 

評価勘定(Contra Asset)

資本化された固定資産は耐用年数に分けて減価償却し、減価償却累計額(Accumulated Depreciation/Amortization)と呼ばれる評価勘定によって、帳簿上で固定資産から減価償却分を差し引きます。
 
なお、1年以上使用した減価償却可能な固定資産を売却した場合、確定申告で申請しなければなりません。その額は、「売値-(資産購入額-減価償却累計額)」で計算され、利益が出た場合はキャピタルゲインとして低い税率が適用され、損失が出た場合は通常損失として通常利益やキャピタルゲインと相殺できます。
 
(2017年10月1日号掲載)

石上洋◎米国公認会計士
カリフォルニア州立大学ロングビーチ校を卒業後、大手監査法人、現地会計事務所パートナーを経て石上・石上越智会計事務所を設立。税務をメインに事業を展開。
アメリカでの会社設立・確定申告・タックスリターンは「石上、石上&越智公認会計士事務所」へ
米国公認会計士・石上洋さんのインタビュー

※本コラムは、税に関する一般的な知識を解説しています。個別のケースについては、専門家に相談することをおすすめします。ライトハウス編集部は、本コラムによるいかなる損害に対しても責任を負いません。