日本ではどうして茶色い地毛が許されないのか?

冷泉彰彦のアメリカの視点xニッポンの視点:米政治ジャーナリストの冷泉彰彦が、日米の政治や社会状況を独自の視点から鋭く分析! 日米の課題や私たち在米邦人の果たす役割について、わかりやすく解説する連載コラム

日本で髪が茶色いとどのようなことが起こるか?

_茶色い地毛

生まれつきの頭髪、つまり地毛が茶色なのに、学校から黒く染めるよう強要された高校生が不登校に追い込まれて、高校を告訴したニュースが日本で話題になっている。生徒は入学後、頻繁に黒染めを指導され、最後には4日ごとに染めるように強要されたという。度重なる染色で頭皮がかぶれ、髪はボロボロになった生徒が指導に対して抗議すると、教諭から「学校に来る必要はない」と言われ、それ以降は登校していない。
 
この生徒は祖父がアメリカ人のクォーターなのだが、学校は「クォーターは普通黒髪だ」などと暴言を浴びせて髪染めの強要を続けていた。さらに驚いたことに学校側は生徒側の弁護士に「たとえ金髪の外国人留学生でも規則で黒染めさせることになる」とコメントも出している。これは、私立高校ではなく、大阪の府立高校、つまり公立校で起きている問題である。
 
一方で、他の大阪府立高校では、頭髪が生まれつき茶色い生徒に誤って染色を強要しないように、「地毛登録」と称する制度が導入されている。ある府立高では、地毛が茶色の生徒は入学時に髪の色を数値化して登録し、変化が見られなければ許されるという。東京の都立高の中にも「地毛証明書」を提出させたり、証拠として幼少時のカラー写真を求めたりする学校もある。
 
問題の背景には、学習の動機を失った生徒たちの非行の問題がある。日本の大都市圏では、暴力団などが高校生を禁止薬物の乱用や売春行為などに追い込んで利用するなど、さまざまなワナが待ち構えている。そうした転落の道に入らないように、厳しい規律で統制しようという学校は多い。「茶髪」イコール「非行化の兆候」というわけだ。
 
また、近年では世間の目も大きな要素となっている。日本では制服で所属する学校が特定できるので、例えばある高校の生徒が「茶髪だ」となると、インターネットなどで噂となり、近隣から学校に苦情が入ったり、学校の評価が下がったりするというのだ。
 
一方で、地毛が茶色の人は社会人になってからも差別や迫害から逃れられない。成績が優秀で、大手の百貨店に内定した人が「接客業なので髪を黒く染めてください」と強要されて、入社を辞退したという例が報道されていたが、同様の強要は航空会社やレンタカー会社などでもあるという。
 
こうなると人権などあったものではないし、問題になっている府立高校が本当に「留学生にも髪染めを強要」したら国際問題になるだろう。一方で、百貨店や航空会社の場合は、仮に容姿が非アジア系であれば「茶髪でも可」となるかもしれないと考えると、「アジア系にだけ黒髪を強要」していることとなり、これはこれで深刻な人種差別になる。

黒髪強要から見える日本社会と文化

それにしても、近代国家であるはずの日本でどうしてこのような問題が起きるのだろうか?
 
その背景には、社会における「等質性」が強く求められる社会ということがある。高校生や接客業では制服をそろえるだけでなく、10月になると一斉に冬服に衣替えするなど、目に見える「等質性」を大事にする。
 
これに加えて「ウチ」と「ソト」を区別する文化がある。外見が日本人であったり、日本語を話す人間は「ウチ」の人間として扱われるが、その代わり等質性を強く要求される。一方で、「ソト」の人とみなされると例外的に個性が許されるが、組織や集団の正式な構成員とはみなされない文化だ。
 
さらに言えば、「制服を着ていれば高校生」であるとか「茶髪なら不良」というように、外見で人間を決めつける文化があり、その背景には「分かり切ったことはいちいち言語化して確認したくない」という空気のコミュニケーションの問題もある。
 
日本の文化には良いところもたくさんあるが、今回の髪染め強要問題は、その弱点が露出した例として、社会全体が反省をしていくべき問題ではないだろうか。

冷泉彰彦

冷泉彰彦
れいぜい・あきひこ◎東京大学文学部卒業、コロンビア大学大学院卒業。福武書店、ベルリッツ・インターナショナル社、ラトガース大学講師を歴任後、プリンストン日本語学校高等部主任。メールマガジンJMMに「FROM911、USAレポート」、『Newsweek日本版』公式HPにブログを寄稿中

(2017年12月1日号掲載)

※このページは「ライトハウス・ロサンゼルス版 2017年12月1日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

特技をいかして始まったセカンドキャリア「スペケン」

ライトハウス・サンディエゴ版編集長、吉田聡子が、サンディエゴのブランドを訪問。世界に羽ばたいた物から、ローカルにこだわる物まで、名品の背景にある物語を探ります。

 

Spekn / スペケン

ポーズを取るmimiさん。

Speknのウエアを着てヨガのポーズを取るmimiさん。

 

SNSのタイムラインをぼんやり眺めていたら、一枚の写真に目が留った。しなやかにヨガのポーズを取る女性。色鮮やかで大胆な模様が印象的なヨガパンツ。

 

女性はサンディエゴでヨガインストラクターとして活躍するmimiさんだ。よく読むとウエアは彼女の夫、ジーン・ライトさんが手がけるブランド、Speknのものとある。メイド・ヨガウエアのブランドはいろイン・サンディエゴのスポーツアパレル。さっそく取材を申し込んだ。

 

CEO兼デザイナーのジーンさん。デザインはMacで。

 

SpeknのCEOでありデザイナーであるジーンは、ミリタリーをリタイアした後、子どもとの時間を大切にしながらできる仕事を探していた。幼い頃からアートやデザインが好きで、広告デザインの学位も持っている彼は、まず自分のブランドを作ろうと思い立ち、オリジナルのロゴや洋服の模様をデザイン。印刷会社のサービスを使ってロゴ入りTシャツや帽子、ドレスを作り、娘や息子にモデルになってもらった。そのドレスの美しい色使いと、生地の心地良さに触れた妻のmimiさんが、自身の使うヨガレギンスも作ってほしいと依頼。それが、Speknを立ち上げるきっかけになった。

 

雑誌やカタログ、デザイン本のほか、日常で接するあらゆるものからデザインのインスピレーションを得るとジーンさん。

 

とはいえ、1人でアパレルブランドを立ち上げられるものか? 聞いてみると、Speknでは印刷会社と提携して商品を生産していると言う。ジーンがデザインするのは模様(パターン)。Speknのウェブサイトで注文が入ると印刷会社がその模様を印刷し、縫製して、お客さんに郵送する仕組みだ。在庫を抱えなくていいのは、ビジネスのスタートアップとしては大変スマートな選択だ。

 

ヨガウエアのブランドはいろいろあるが、Speknでは「他にはない模様のウエアをデザインしていきたい」とジーン。実際、華やかな色使いのヨガウエアは珍しく、個性を求める人に好評と言う。そんな利用者たちの声を取り込みながら、製品の数を増やしていき、まずはブランドの認知拡大を目指す。現在はオンライン販売のみだが、少しずつ販路を広げていく予定だ。

 

ウェア

素材は適度に伸縮性があって動きやすそう。
Speknのヨガウエア。

Speknのヨガウエア。手前はZen Tank Top ($25)、奥右はMorning Vine Capri ($40)、奥左はMorning Star Capri($40)。ロングレギンスもある。

 

家族との時間を考えて、雇われる道ではなく、特技をいかして起業を選んだことがとてもアメリカらしいと感じて話を聞いてわくわくした。妻のmimiさんがSpeknを着てヨガをすることが宣伝にもなるという二人三脚のコラボレーションも素敵だ。これからの展開に期待したい。
 

 

◎ Spekn / スペケン
https://spekn.com
Instagram(@spekn
Facebook (https://www.facebook.com/spekn1

 

(2017年12月号掲載)
 
※このページは「ライトハウス・サンディエゴ版   2017年12月」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

マリブビーチのおすすめ観光スポット


マリブビーチの桟橋

パシフィック・コースト・ハイウェイをドライブし、マリブに一歩足を踏み入れると、そこは別世界!目にしみる真っ青な太平洋に面した海岸沿いには瀟洒な邸宅が並ぶ。ビーチで散歩や日光浴を楽しむ人、波乗りに興じる人、ゆったりとレストランで食事を味わう人たち。誰もが穏やかで余裕ある雰囲気。時間が優雅に過ぎていく気がして、現実を忘れてしまう。さあ、マリブのビーチでセレブな時を過ごしましょう!
 
※このページは2023年1月時点の情報で更新しています。

 

東部の大金持ちが見つけ出した理想的なカントリーホームの地、マリブ

マリブ周辺の地図

マリブ周辺の地図

サンタモニカの山々と太平洋の狭間の街
ロサンゼルス国際空港から車で北へ約45分、サンタモニカからは約30分、左に大きな青い太平洋の打ち寄せる波を見ながら、ビーチ沿いを走るPCH(パシフィック・コースト・ハイウェイ)を北にドライブすると、マリブのシビックセンターにたどり着く。お洒落なショップ、高級マーケット、一流レストランが街中に…。ユートピアと言っても過言ではないマリブには、映画界、音楽界の超セレブやエグゼクティブたちが数多く住み、誰もが憧れる優雅なライフスタイルをエンジョイしている。
 
アメリカ先住民チュマシュ族は「Humaliwo(大きく鳴り響く波)」と呼んでいたマリブ。1891年、家族のために理想的なカントリーホームを探していた、ニューイングランド出身のビジネスマン、フレドリック・ヘイスティングス・リンジは、ここに約120平方キロにもおよぶ土地を購入した。彼と妻のローダはプライバシーを守り、よそ者が侵入しないように、他の地域と完全に遮断した。「アダムソンハウス」として知られるリンジ家の住宅は、1929年に娘のローダ・アダムソンによって完成されている。ところがその29年、リンジ家はその土地にPCHを通すことを認めざるを得なくなり、夫を亡くしていたローダはハリウッドスターたちに土地を賃貸し始めた。しかし、30年代後半には切り売りすることを余儀なくされた。そしてスターたちが週末の隠れ家を建てた地域が「マリブコロニー」となった。一方、27年にパラマウントがマリブの牧場を購入した。そこでは、ゲーリー・クーパーなど多くの大物ハリウッド・スターが出演した、数多くのウエスタン映画が製作された。
 
マリブは元祖サーフシティーUSA
また、サーフィンを語らずしてマリブのビーチを語れない。マリブこそがオリジナルの「サーフシティーUSA」である。1927年にトム・ブレークというサーファーが友人のサム・リードと初めてマリブのビーチで波に乗った。その後、第2次大戦前には、多い時には毎日300人ほどがサーフィンを楽しんだという。
 
1957年、フレドリック・コーナーが、マリブビーチでサーフィンのトレーニングに励む自分の娘を題材にした『Gidget』という本を発刊。後に映画化され、マリブはますますサーフィンの街として全国的に知られるようになった。1970年代には人気TV番組『MASH』の舞台となり、その後もマリブビーチは映画やTVのロケ地として多く使われている。
 
1991年に正式な市となり、独自の施策や規制ができるようになったマリブには、世界中からセレブが移り住み、リッチな生活を満喫している。

マリブのおすすめショップ、おすすめレストラン

近所の有名人が毎日のようにやってくるビーチ沿いのおすすめサーフショップ

Becker Surfboardのエントランス

「何と言っても1番売れるのはサーフボードだけど、メンズウエアで売れるのは『KREW』と『RVCA』だね」と語るマネージャーのライアンさん。ガールズでは『Lucy Love』や『VOLCOME』が人気とのこと。毎日のように誰かが来るそうで、コメディー俳優のアダム・サンドラーやジェームス・ボンドでお馴染みのピアース・ブロスナンもやってくるとか。

◎Becker Surfboards
▶ 23755 W. Malibu Rd.
☎ 310-456-7155
▶ 営業時間:月〜土 10:00am-6:00pm、日 10:00am-5:00pm
▶ マリブビーチのほかに、ハモサビーチにも店舗あり

 

サンセットディナーは水着のままで

Paradise Cove Beach Cafeの外観

前面に開ける太平洋のワイドな眺め。プライベートビーチを持つこのレストランからのサンセットビューはとにかく素晴らしい。セレブも多く詰めかけるレストランの店内には2000点にも及ぶスターの写真。1番人気のアペタイザーは「Crispy Calamari」(11.95ドル)でその大きさにはびっくり。特製ソース2種類で味わうことができる。この店にはドレスコードがなく、プライベートビーチを楽しんだ後は、水着のままで食事もOK。また、海を背景にしたウエディング、プライベートパーティーも可能だ。

◎Paradise Cove Beach Cafe
▶ 28128 Pacific Coast Hwy.
☎ 310-457-2503
▶ Web: www.paradisecovemalibu.com
▶ 営業時間:毎日 8:00am-9:00pm

 

年月を経てなお美しいタイルデコレーション

Adamson House & the Malibu Lagoon Museumの外観

海辺に建つ「Adamson House& the Malibu Lagoon Museum」は、波の音と潮の香りで満ちあふれた素晴らしいロケーションにある。1926~1932年の間しか製造されなかったMalibu Potteries 社製のハンドメイドのタイルが施された邸宅は30年建造。ツアーを申し込むと、1時間かけてゆっくりと内部を案内してもらえる。ペルシャスタイルラグを模倣した床のタイルは、端部分のフリンジまでもがリアルに再現されていて、必見の価値あり。

◎Adamson House & the Malibu Lagoon Museum
▶ 23200 Pacific Coast Hwy.
☎ 310-456-8432
▶ Web:www.adamsonhouse.org
▶ 営業時間:毎日 8:00am-日没まで
▶ ツアー料金:大人$7、子供(6~17歳)$2、5歳以下 無料

 

セレブ御用達のブティックであなたのセンスをスパイスUP!

Planet Blueの女性店員

◎Planet Blue(閉店)
▶ 3835 Cross Creek Rd.(Malibu Country Mart)
※閉店しました

セレブも魅了する行列のできるグルメスポット

Malibu Kitchen & Gourmet Country Marketの店内

◎Malibu Kitchen & Gourmet Country Market
▶ 3900 Cross Creek Rd.(Malibu Country Mart)
☎ 310-456-7845
▶ 営業時間:毎日 8:00am-6:00pm

Fish Marketも併設!パティオでほおばるマリブの味

Fish MarketにあるPatio Cafeの看板

このマリブ・シーフードは、新鮮な魚介類をフライやサンドウィッチ、サラダなどで手軽に美味しく食べられるおすすめのお店。マリブビーチ沿いのカラフルな看板がお店の目印。特におすすめは、白身魚やエビ、イカなどのシーフードフライの盛り合わせ(Seafood Combo&Fries)や、蟹の身がたっぷり入ったカニサラダ(Crab Salad)など。人気店なので週末は行列必至!

◎Malibu Seafood
▶ 25653 Pacific Coast Hwy.
☎ 310-456-3430
▶ Web:www.malibuseafood.com
▶ 営業時間:毎日 11:00am-8:30pm

 

新鮮な肉がショーケースに並んでいます

Malibu Seafoodレストランスメニュー看板

Malibu Seafoodの外観

フルサロン、フルスパで美しさを磨きあげる

Clarisse Salon & Spaの店内

高級ヨーロッパ製品でセレブの美しさをフルサポートする「Clarisse Salon & Spa」。取り扱い商品は『Phytomer』を始め、『Jurlique』『Yonka』『Dermologica』『Eminence』その他多数。ヘアサロン、ネイルサロン、そしてスキンケアサロンも併設されていて、トータルな美を追求するクライアントの多面的な要望にも対応。顧客リストにはマリブ在住のスーパーセレブも名を連ねている。
 

Clarisse Salon & Spa(閉店)
▶ 3900 Cross Creek Rd. (Malibu Country Mart)
※閉店しました

 

有名人が気軽に訪れるカジュアルなカフェ

有名サーファーのレイアード・ハミルトンや映画『アイデンティティ』に主演したジョン・キューサックらが訪れる「OLLO(旧 Coogie’s Beach Cafe)」はカジュアルでコンテンポラリ-な、おすすめのカフェ。屋内は広々としており、パティオでの食事を楽しむこともできる。毎日変わる「Today’s Special」はボリューム満点。隠れた人気は「ZucchiniBread」で、これだけを買いに来るお客さんも多いそう。

OLLO(旧 Coogie’s Beach Café)
▶ 23750 Pacific Coast Hwy.(Malibu Colony Plaza)
☎ 310-317-1444
▶ Web: www.ollomalibu.com
▶ 営業時間:月〜木 11:00am-9:00pm、金 11:00am-9:30pm、土 9:00am-9:30pm、日 9:00am-9:00pm

 

海風の中を散策する庭園の美しさは古代ローマへの誘い

The Getty Villaの噴水

太平洋を見下ろすPCH 沿いの丘に建つ「The Getty Villa」は、入場がすべて予約制という特別な美術館。紀元前79年のベスビオ火山の噴火で埋まったヘルクラネウムのローマ式邸宅・パピルス荘(Villa dei Papiri)をモデルとして設計され、1974年に開館。2006年1月に装いも新たに再オープン、観光スポットとしても人気が高い。
 
古代ギリシャ、ローマ、そしてエトルリアの美術品と文化を満喫できるThe Getty Villa内の「J. Paul Getty Museum」では、23ものギャラリーで1200点以上の古代美術品が展示されている。中央に噴水をあしらったフォーマルガーデンの素晴らしさは必見。美術品鑑賞、庭園散策の合間には、カジュアルな地中海料理が気軽に味わえる「The Cafe」のテラスでの食事がおすすめ。

◎The Getty Villa
▶ 17985 Pacific Coast Hwy. Pacific Palisades 
☎ 310-440-7300
▶ Web: www.getty.edu
▶ 営業時間:水〜月 10:00am-5:00pm(要予約)、木休
▶ 料金:入場料無料
▶ 駐車場:$20(3pm以降は$15)
 
◎The Cafe
▶ 営業時間:月・水〜金 11:00am-3:00pm、土日 11:00am-4:00om、木休

 

ミュージアムに行った後は学生気分で構内の散策も

Weisman Museum of Art at Pepperdine Universityに展示されている絵画

ゲートで通行タグとパーキングトークンを受け取り、坂道を上って35番の建物を目指す。行き方がわからなくてもセキュリティーがキャンパスの地図をくれ、親切に教えてくれるので心配はいらない。ビジネスで成功したフレデリック・ワイズマンの設立した美術財団によって支えられているこのミュージアムには、ペパーダイン大学の学生、卒業生の作品が随時展示されており、作品は2週間毎に変わる。

◎Weisman Museum of Art at Pepperdine University
▶ 住所:24255 Pacific Coast Hwy.
☎ 310-506-4851
▶ Web:https://arts.pepperdine.edu/museum/
▶ 営業時間:火〜日 11:00am-5:00pm、月休
▶ 料金:入場料無料

 

●マリブビーチで「絶対、泊まってみたい!」おすすめホテル

ビーチが目の前!の贅沢なロケーション
有名なサーフポイントも近く、朝はサーフィンの様子を見ながら優雅に朝食を堪能できる
マリブ ビーチ イン
 
マリブのビーチを見下ろす、隠れ家的ホテル
マリブ カントリー イン(Malibu Country Inn)

アメリカで暮らす楽しさが倍になる!アメリカでのマナーQ&A

日本人だもの、日本人らしさを捨てる必要はありません。でも、アメリカ流のマナーとコミュニケーションを知っていれば、上司や同僚、取引相手、親戚、その他さまざまなコミュニティーとより深い交流ができるのも事実。アメリカ生活にブレイクスルーをもたらす、コミュニケーションのちょっとしたコツと、シーン別のマナーの知恵を伝授します。(2017年7月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版掲載)
 
併せて「アメリカで暮らす楽しさが倍になる!アメリカでのコミュニケーション術」もご覧ください!

 

アメリカでの人付き合いのマナー

Q.レディーファーストに慣れない日本男児。パーティーで最低限気を付けるポイントを教えて。

A.何かを同時にしようとした時は女性に譲ることを心掛けて。
ポットラックの食べ物をよそう時やトイレに入る時など、何かを同時にしようとする女性客がいた場合には女性を先にするよう心掛ければ、そこまで気負わなくても大丈夫。なお、カップルで出席する場合、男性は女性に対して、ちょっと気を遣う上司くらいの意識で接すると程よいレディーファースト加減になります。女性は「ありがとう」とお礼の言葉を忘れずに。

Q.学校の先生にクリスマスプレゼントをあげる慣習があるって本当?

A.本当です。でも、もちろん、無理しなくてOK。
特に小学校までは子どもの学校の先生にクリスマスカードとギフトをあげる習慣は確かにあります。5ドル程度のものを子どもを通して先生に渡すのが一般的。せっかくなら日本のお菓子や雑貨などが喜んでもらえるのでは。もちろん、あげないからといって失礼ということはありません。

Q.会社関係のパーティー。「好きなところに座って」と言われると困ってしまうのですが…。

A.日本のように上座・下座はありません。空いているなら中心に近い席に。
日本人は遠慮がちで、よほど仲良しでない限り、端の方の席を選びがちです。シャイな人が無理をする必要はありませんが、席が空いているのにもかかわらず隅っこにいると、あまり楽しむ気がないのか、会話の輪に加わる気がないように見られてしまう可能性もあり、残念なこと。「好きなところに座って」と言われたらその言葉通りに受け取ってよく、かつ、できればみんなと話ができるところに座るのがベター。旧知の仲のように喋っているグループがいると気後れするかもしれませんが、実は彼らも顔を会わせたのはその日が初めてということもよくあります。

Q.アメリカ人上司に自宅ディナーに招かれました。手土産は何がいい?

A.希望を聞いてみて。何もいらないと言われたらアルコールか、お花を。
「何か持っていきましょうか?」とストレートに聞いてみて、「デザートを」など具体的に言われたらそれを持って行きましょう。何もいらないと言われた時は、その日に飲まなくてもプレゼントとして置いていけるワインやビール、もしくはお花を持って行くのがおすすめです。

Q.初めて会う人に聞くと失礼になることはありますか?

A.プライベートな話には寛容。気にし過ぎないで大丈夫。
プライベートなことは突っ込んで聞かない方がいいと考えている人もいるかもしれませんが、アメリカでは「子どもの学校は?」「夫の仕事(会社)は?」という日本ではともすれば避けた方がいいと考えられる質問も特にタブーではありません。既婚か独身か、恋人がいるか否かも聞いて失礼と思われることはありません。

Q.子どもの親同士の付き合い、どうしていいか、分からない。

A.友だちを作るチャンスと考えて。でも、シャイな人は無理しないで。
そこまで親しくない人たちと付き合うことがそもそも苦手な人は無理しなくて大丈夫。ただ、友だちを作るチャンスでもあるので、もし仲良くなりたいと感じる人がいるなら、プレイデート※に誘うなどして、積極的に交流の機会を作ってみては?

※プレイデート:時間と場所を決めて、子どもたちを一緒に遊ばせること。子どもの希望で設定する場合と、保護者同士で設定する場合がある。

 

【取材協力】

ザ・ブリッジコミュニケーションズ山田クリスタさん
サンディエゴで英語教師として、英会話、英文添削、プレゼン添削、通訳など、さまざまなサポート・サービスを提供。Web:http://thebridgecomm.com

 
 

アメリカでの男女交際のマナー

Q.正式に付き合っているのかどうか。そうでないのか分からない時は、どうすれば?

A.目安は毎週末会っているかどうか。駆け引きは避けるのが無難。
アメリカではデーディングと言って、正式に交際を始める前にデート期間を設けるのが一般的で、正式な交際に移行する際に「付き合って」というような明確な言葉がないことは珍しくありません。デート期間中に友人や家族に紹介されることもよくあり、両親に会ったからといって付き合っているということにはならないのが日本と違うところです。また、デート期間中は自分以外の人ともたくさんデートしているのは普通で、それを咎めることはナンセンス。付き合っていると考えていいかの目安は、毎週末会っているかどうか。そうでない場合で、ぜひ、自分を選んでほしい場合、一筋さを見せるよりも、自分も他の人とも会うくらいの余裕を持つ方がいいでしょう。ただし、連絡がきても返事を一晩寝かすというような駆け引きは通じにくいので、好意を持っているシグナルは送りつつ、余裕を見せるのがコツ。

Q.友達との会合に恋人を誘わなかったことでケンカに。。。

A.行かないと勝手に決めずに状況を説明してあげて。
カップルで行動することの多いアメリカでは、どちらかの友人の集いにパートナーを連れて行くのは自然なこと。逆に、声をかけないといぶかしがられたり、悲しがられたりしてしまうということは知っておくとコミュニケーションが円滑になるはず。日本人の友だちと集まる時は、自然と日本語環境になることが多いので、来たとしてもつまらないだろうと気を遣うこともあると思いますが、それでも「こういう集まりがあって日本人ばかりだから日本語にもなるし、自分も日本語で喋りたくなると思うけど来る?」という風に、状況をきちんと伝えるようにしましょう。

Q.仕事でデートをキャンセル。でも、全然理解してくれずにつらい。

A.建前としては恋人を優先にして。
日本人同士だと、「仕事ならしょうがない」で収まりそうなところが、そうはならないのがアメリカ。仕事も交際も同じくらい大事で、もっと言えば、誕生日の日は仕事を休んで祝うなど建前上は仕事より恋人を大事にすることが求められる傾向にあります。とはいえ、そこまでできないという人もいるでしょう。そういう場合は、少なくとも約束のキャンセルを避けることが懸命。会うのは休日に限るなど、キャンセルする可能性のある約束は最初からしないように心掛けるといいでしょう。

Q.断っても断ってもデートに誘われる。。。断り方が曖昧過ぎるのでしょうか?

A.はっきり言いにくい場合は「友だちも連れて行っていい?」がベスト。
何度か断ったのにそれでも誘われる。。でも、気軽に誘ってくれているだけなのにむげにするのも気がひける・・これに関しては日米関係なくある悩みかもしれません。おすすめのコミュニケーション方法は「友だちも連れて行っていい?」と返すこと。暗に恋愛感情はないことを伝えられ、かつ相手の顔も立てることもできます。

Q.何でも意見を聞いてくれるのですが、それがストレスになっています…。

A.無理をせず、”I am not sure….”で大丈夫。
「日本人は自己主張しなさい」とよく言われることを気にしてがんばり過ぎて疲れてしまう人は結構いるようです。ストレスになるほど自分を変える必要はないですし、無理をするといつか爆発してしまいます。「何が食べたい?」などと聞かれて、何とも言えない時は”I am not sure…”という言葉が便利。そうすれば、向こうが候補を挙げてくれたりして、もう少し楽に会話ができるはず。

【取材協力】

East Meet East ケン・トラビス・ヤマザキさん
ゴールドマン勤務後、北米のアジア専門マッチングサイトEast Meet East.comを共同作業。エリートゲイ独自の視点からの斬新な恋活のアドバイスが巻で話題。

 

アメリカでの結婚式のマナー

Q.自分に届いた招待状、恋人も連れていっていいもの?

A.遠慮せず、相談を。
シングルで、自分だけに招待状が来た場合、恋人を連れて行っていいか、相談することは問題ありません。ただ、当日、いきなり連れて行かないよう、事前に確認を取っておくのがマナーでしょう。

Q.ダンスが延々と続いて帰り際が分かりません…

A.ケーキが出てきたらタイミングを見て退席してOK。
日本の結婚披露宴にはまずなく、アメリカのパーティーによくあるものといえば、ダンス。ウエディングパーティーでは、最後、新郎新婦や親族だけでなく参加者皆が思い思いに踊り始め、ダンスパーティーのようになるのが通例です。せっかくですから、ぜひとも輪に加わって踊った方が楽しいです!ダンスが続いていても、一通り食べ終え、ケーキカットのケーキが出てきた後なら、新郎新婦に一声挨拶して、退席してかまいません。

Q.ウエディングパーティー、服装のマナーを教えて。

A.ドレスコードがあれば遵守を。なければ日本の感覚よりややカジュアルで。
招待状にドレスコードがある場合は、それに従いましょう。時に「カジュアルで」というドレスコードもあります。特に指定がない場合は、会場によって臨機応変に。例えば、教会式なら、男性は襟付きのシャツ、女性はややドレスアップして、失礼のないように。ビーチなど屋外の場合は、革靴やヒールの靴でなくて問題ありません。全体に日本の披露宴で着ていく服装よりややカジュアルを想定するといいでしょう。なお、花嫁より目立たないようにする心遣いは日米共通。日本の着物は、会場で注目を集める可能性があるので、新郎新婦に予め聞いておく方が安心。了解を得た場合も華やかな振り袖ではなく訪問着を選ぶようにして。

Q.カトリックの結婚式には宗教的な儀式があると聞きました。どう対応すればいい?

A.信者でなければ辞退を。他の参加者の動きを参考に。
カトリックの式ではパンを食べ、ワインを飲む儀式がありますが、信者でない人は必要ありません。手をクロスして胸に当てると遠慮する意思表示になります。他にも辞退する参列者はいるので、その人たちの動きを参考に。なお、儀式は後ろの席から始まることが多いので、周りの様子を見るために真ん中の席に座っておくのがおすすめ。

Q.結婚祝いの金額、相場はどのくらい?

A.基本、現金のご祝儀はなし。ギフトの額は50ドルを目安に。
日本のご祝儀のように現金を包む習慣はなく、お祝いには品物を送ります。最近は、新郎新婦がほしい物のリストをインターネット上で登録し、参加者はそこから贈りたい物を選んでオンラインで決済を済ませるウエディングレジストリーを採用するカップルがほとんど。リストにはいろいろな金額のものが並んでいます。どの程度の金額のものを贈るかは人それぞれ、新郎新婦との関係性によります。相場としては30~80ドルくらい。無難な額は50ドル。なお、ウエディングレジストリーがない場合、当日、会場に設置されたギフト置き場にギフトを置けばOK。また、まれにハネムーン資金や新居の資金を希望するカップルがいるので、その場合は、チェックを贈る方が喜ばれます。

【取材協力】

トラインブライダル 佐野貴子さん
1993年、ロサンゼルスでトラインブライダル設立。ヘアメイク、貸衣装サービスから始まり、異なる習慣に戸惑う利用者の要望に応えてブライダルコーディネートを手がけるように。

Plan・Do・See・Wedding 長野真季さん
年間約6000組のウエディングを手がける同社にて、ウエディングの責任者、コンサルタントを担当。2016年より、同社のアメリカでのウエディング事業の立ち上げに携わる。

 

アメリカでのお葬式のマナー

Q.香典はいらないと聞きましたが本当?

A.日系の葬儀では香典あり。しかし、必須ではありません。
アメリカの葬儀は一般に教会か葬儀場で行われ、香典のならわしはありません。ただ、アメリカで行われる葬儀でも、日本人もしくは日系人の葬儀の場合は日本の慣習に従うことが多いので、現場で慌てることがないよう、香典を包んで行った方がいいでしょう。香典袋は日本の「御霊前」「御仏前」と書かれたもの、または無地のものでOK。氏名と住所を忘れずに記載しましょう。金額は故人との関係性に応じて20~100ドル。

Q.喪服を着て行った方がいいですか?

A.ダーク系のスーツやワンピースで問題ありません。
遺族以外の参列者が喪服を着ることはアメリカでは珍しいです。まれに例外はありますが、基本的には全身真っ黒である必要はなく、ダーク系の地味な色合いのスーツやワンピースを着て行けばいいでしょう。アクセサリーについても華美にならなければ特に決まりはありません。

Q.花を贈る時の注意点はありますか?

A.宗教によりNGのこともあるので確認してから贈りましょう。
新聞の訃報欄などに花の贈り先などの記載がない場合、できるなら家族に、家族とコンタクトを取ることが難しければ葬儀を担当している葬儀社に事前に連絡を入れた方がいいでしょう。というのも、宗教によっては献花はしないなど考え方が異なることがあるからです。贈る時は、葬儀場か、教会か、墓地か、自宅か、どこに贈るべきかを確認し、花屋に配達場所と日時を明確に伝えましょう(通常はお知らせに明記されているはず)。届ける時間は式の開始時刻の1時間半~1時間前が目安です。確実に配達してもらうために、前日に一度確認の電話を入れておくと安心です。

Q.葬儀場でしてはいけないタブーはありますか?

A.全体的に日本の葬儀に比べ、かしこまっておらず、寛容です。
ケースバイケースではありますが、アメリカの葬儀は多くの場合、日本の葬儀の比べてかしこまってはおらず、故人の人生を称えてお祝いしようというムードがあります。時には葬儀に来たと思えないくらい、参加者が笑顔で歓談していることもありますので、その場の状況に合わせて振る舞うのがいいでしょう。

Q.お葬式の途中にトイレなどで中座してもいい?

A.わりと自由に行き来できる雰囲気。ただし、宗教的なお祈りの最中は遠慮を。
日本の葬式では想像しにくいことですが、アメリカの葬儀では比較的自由に席を立ってトイレに行く人は結構います。ただ、どの宗教でもお祈りの最中、例えばキリスト教なら牧師の言葉と共に皆が頭を下げて祈る時などは遠慮すべきでしょう。

Q.人づてに訃報を知った時はどう対応するのがいいでしょう?

A.お悔やみの電話は避け、落ち着いた頃に心遣いを。
人それぞれではありますが、家族と相当親しく、家族から直接葬儀の連絡をもらったのでない場合、お悔やみの電話はかえって家族を煩わせてしまう可能性もあります。葬儀に参列することや花を贈ることがお悔やみの気持ちの表明になりますし、葬儀の場でご家族にお悔やみの言葉を伝えることができます。葬儀場で直接お悔やみを伝える機会がなかった場合には、後からカードを贈るのも手です。

【取材協力】

福井葬儀社 ☎213-626-0441 Web:www.fukuimortuary.com

 

※このページは「2017年7月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版」掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

アメリカで暮らす楽しさが倍になる!アメリカでのコミュニケーション術

日本人だもの、日本人らしさを捨てる必要はありません。でも、アメリカ流のマナーとコミュニケーションを知っていれば、上司や同僚、取引相手、親戚、その他さまざまなコミュニティーとより深い交流ができるのも事実。アメリカ生活にブレイクスルーをもたらす、コミュニケーションのちょっとしたコツと、シーン別のマナーの知恵を伝授します。(2017年7月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版掲載)
  
併せて「アメリカで暮らす楽しさが倍になる!アメリカでのマナーQ&A」もご覧ください!

 

コツ1:感情表現を大げさにしてみる。

日米のコミュニケーション法で大きく違うのが、感情表現の仕方。たとえば、何かプレゼントをもらった時、日本人の感覚では少しオーバーアクションと感じるくらい喜びを表現するのがアメリカではちょうどいいです。もちろん、性格的なこともあるので無理をする必要はありませんが、日本人同士で「ありがとう」を表現する時くらいの反応では、「気に入らなかったかな?」と思わせてしまう可能性があることは知っておきたいところ。特に喜怒哀楽の喜と楽の感情は人を幸せな気持ちにすることはあれど、不愉快にすることはまずありません。声のトーンから身振り手振りまで、思い切って感情を出してみましょう!

コツ2:言葉に窮したらとりあえず“Let me see…”

英語が聞き取れなかったり、あるいは聞き取れてもすぐには返事ができないような質問だった場合、「うーん」と黙って考え込んでしまうのはよくあること。しかし、日本人同士なら何となく通じ合えたとしても、そうでない場合は「聞いてはいけないことを聞いてしまったかな?」と相手を不安に思わせてしまう可能性が高いです。そんなこと言われてもすぐに英語が出てこない!という人に便利な切り返しが“Let me see…”。この一言で間をつなぎながら、もし質問が分からなかった場合は“You mean ×××?”というように問われた内容を聞き返せばOK。回答が難しいときは“That’s a tough question”というように、質問は分かったけれど答えにくいという意思表示をすればスムーズにコミュニケーションができます。

コツ3:ビジネスで I thinkは要注意。

日本語的な頭でいると、意見を表明するためではなく、断定を避けるために“I think”と使ってしまいがちな傾向があります。例えば、ある特定の事例について現状がどうなっているかを聞かれた時に“I think”で答えるのは適当とは言えません。この場合、あなたがどう思うかは重要ではないからです。英語的な発想では、断定ができないなら“I am not sure.I will check it out”と対応するのが一般的。どちらが良い悪いではありませんが、知っておいて損はない知識です。

コツ4:「英語苦手なんで…」は誤解のもと。

相手の英語が理解できないときや、自分の考えていることが話せないとき、「ごめんなさい、英語が苦手なんで…」と言ったことはありませんか?自分としては話が弾まないことへのお詫びの気持ちを表明しているつもりでも、言われた相手は「あなたとは話をする気がありません」という意思表示に受け取ってしまう可能性が大いにあります。移民の国、アメリカの人は、ブロークンイングリッシュに寛容であることは皆さん、体感されているはず。「ごめんなさい」と恐縮するより“Thank you for your patience”と付き合ってくれることに感謝すると相手を不愉快にさせないはず。

コツ5:アメリカに興味を持ってみる。

せっかくアメリカにいるのですから、ぜひ何でもいいのでアメリカの文化に関心を向けてみて。会話の糸口がつかめますし、知らないことを話すよりずっと会話がしやすく、英会話力アップにつながるはず。ローカルのニュースを見るのでもいいですし、政治に少し突っ込んでみるのでもいいですし、メジャーリーグやフットボール、バスケットボールなどスポーツファンになってみるのもいいですね。

コツ6:「日本では~」はほどほどに。

もちろん日本との違いを聞かれたときや、違いに驚いたことを伝えたいときはこの限りではありません。ただ、何かある度に「日本ではこうだった…」と言われると、違いを強調されているようで、あんまりいい気持ちがしないのは、逆の立場を想像してみると理解できるのではないでしょうか。そんなつもりなくついつい言っている人も多い言葉。口癖になっていないか、ちょっと振り返ってみて。

コツ7:メールは簡潔に、本題をすぐに。

特にビジネスにおいては日本語の感覚で英文メールを書くと、要点が分かりにくいメールになりがちです。くどくど説明するよりも、このメールの目的は何か、すぐに本題に入る方がアメリカにおいてはビジネスのやりとりは円滑なはず。また、多くの人がメールの宛名に“Dear”をつけると習ったと思いますが、基本的にはビジネスでも、“Hi”で始めてぶしつけということはありません。が、知らない相手に初めてメールを送る場合は“Dear”でもかまいません。

 

【取材協力】

BYBイングリッシュ・センター 陽子セニサックさん
個人レッスン制の英会話スクール、BYB English Centerを開設して30年以上。生徒のニーズに合った英語を指導。Web:www.bybenglishcenter.com

 

※このページは「2017年7月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版」掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

大学の学費とファイナンシャル・エイド

アメリカの大学進学を考える上で忘れてはならないのが、学費の問題です。高騰する大学の学費が家計を圧迫し、深刻な問題となっていることが、ニュースでもよく話題に上ります。とは言え、大学によっては年間7万ドルに上る学費全額を払う学生は多くはなく、大学からファイナンシャル・エイドを得て学費を下げて進学するのが一般的です。
 
ファイナンシャル・エイドの額は一律ではなく、学生に対する評価や、家庭の経済状況などにより異なります。つまり学生が実際に大学に払っている学費は一人一人異なると言っても過言ではありません。従って、アメリカで進学先を決める際には、どの大学に合格できるかはもちろん重要ですが、その大学にいくらで進学できるかは、もっと重要かもしれません。

 

アメリカの大学の学費

大学の学費の中で大きな割合を占めるのが「授業料(Tuition)」と「寮費・食費(Room & Board)」です。これ以外にも教科書代などの教材費、実家に帰省する際の交通費、医療保険の保険料などの費用がかかります。
 
1年間大学で学ぶのに必要な費用を合算したものを、コスト・オブ・アテンダンスと言います。各大学のウェブサイトには、一般的な学生のコスト・オブ・アテンダンスの金額が記載されています。
 
多くの学生は、グラントやスカラシップと呼ばれる奨学金を大学から得て進学します。アメリカの奨学金は全て返済不要の給付型なので、奨学金を獲得すれば、その分実際に負担する学費が下がります。
 
コスト・オブ・アテンダンスから奨学金の額を差し引いた金額を、ネットプライスと言います。各学生が1年間に実際に大学に支払う費用を示す、最も重要な値です。

 

ニード/メリットベース

大学が提供するファイナンシャル・エイドにはさまざまな種類がありますが、特に重要なのがニードベースとメリットベースの奨学金です。
 
家庭の所得が学生の学費を全額負担するのに十分でないと判断された場合、不足分の一部または全部を大学が負担する制度がニードベースの奨学金です。主として米国市民と永住者が対象となりますが、外国人留学生にも給付する大学もあります。
 
一方、メリットベースの奨学金は、学生個人の評価に対して提供される奨学金です。国籍や滞在資格にかかわらず全学生が対象であり、誰でも獲得できる可能性があります。

 

FAFSAとCSS Profile

ニードベースの奨学金は、学費全額を自費で支払うのが困難な学生が不足分(ファイナンシャル・ニード)の一部を負担してもらう制度なので、この奨学金を得るためには、各家庭で1年間にいくらまで学費を負担できるかを算出する必要があります。この家庭で負担できる学費の上限額をEFC(Expected Family Contribution) と言います。EFCがコスト・オブ・アテンダンスを下回っている場合、差額がファイナンシャル・ニードとなります。
 
EFCを算出する際に使われるサービスがFAFSAとCSS Profile です。FAFSAは教育省が提供するサービスで、FAFSAによってEFCを算出する方法はFM(Federal Methodology)と呼ばれています。これに対して一部の大学では、大学独自の基準でEFCを算出しており、それはIM(Institutional Methodology)と呼ばれています。このIMでは、CSS Profileを利用してEFCを算出します

 

ネットプライス計算法

各大学は、ネットプライスが計算できる、ネットプライス・カリキュレーターと呼ばれるサービスを大学のウェブサイト上で提供しています。このネットプライス・カリキュレーターに家庭の収入などの情報を入力すると、EFCの金額や、自分がその大学でニードベースの奨学金の対象となるかどうか、またその大学に進学した場合にどの程度の奨学金が期待できるかなど、大まかな情報が入手できます。
 
自分のファイナンシャル・ニードを調べるのには、FAFSAを利用するのが最も確実な方法ですが、FAFSAを利用できるのは12年生の10月以降に限定されています。一方、ネットプライス・カリキュレーターは、いつでも誰でも利用できるので便利です。ただし、ネットプライス・カリキュレーターによる計算はあくまでも簡易的なものです。またメリットベースの奨学金の情報は一切考慮されないため、このサービスで算出したネットプライスと実際のネットプライスが大きく異なることも少なくありません。
 
(2017年11月16日号掲載)

大学の学費とファイナンシャル・エイド②

学生が実際に大学に払う学費は一人一人異なることを前回お話ししましたが、ネットプライスを下げる方法、すなわちファイナンシャル・エイドの効果的な獲得方法も一人一人異なります。今回はニードベースとメリットベースの奨学金を獲得して、アメリカの大学にリーズナブルな学費で進学する方法を紹介します。

①ニードベースの奨学金

家庭のファイナンシャル・ニードが大きい場合は、ニードベースの奨学金が充実している大学を選ぶのが得策です。家庭の所得が学費を全額負担するのに十分でないと判断された場合、不足分の一部または全部を大学が負担する制度がニードベースの奨学金です。
 
各学生のファイナンシャル・ニードをどの程度大学が負担するかは各大学が独自に判断します。従って、合格者の中でも上位で合格した学生と下位で合格した学生では、ファイナンシャル・ニードの規模が同じでも、得られる奨学金の額は異なるのが一般的です。

アマースト・カレッジの学費の例

ニードベースの奨学金が充実している大学の中には、学生のファイナンシャル・ニードを無条件に100%負担する大学があります。マサチューセッツ州のアマースト・カレッジは、学生一人当たり平均4万8000ドルのニードベースの奨学金を給付しており、ネットプライスの平均値は約2万ドルです。

②メリットベースの奨学金

メリットベースの奨学金は、学生個人の評価に対して提供される奨学金で、アイビーリーグなどの一部難関校を除き、多くの大学で採用されています。大学進学を目指す学生にとって、最も価値の高い奨学金と言えるでしょう。
 
メリットベースの奨学金は、大学がその学生をどの程度欲しているかにより金額が定められる場合が多く、その額は一人一人異なるのが一般的です。極めて評価の高い学生には授業料や学費全額免除などが提示される場合もあります。

アリゲニ―・カレッジの学費の例

ペンシルベニア州のアリゲニー・カレッジは、評価の高い学生に対して、理事会奨学金というメリットベースの奨学金を給付しています。4年間で11万2000ドルのこの奨学金を獲得すると、コスト・オブ・アテンダンスの半額近くまでネットプライスを下げられます。

③非永住学生の場合

親の駐在などで一時的に滞米している学生にとって、アメリカの大学への進学は不利だと考えている人もいますが、決してそうではありません。多様性を重視するアメリカの大学は、海外からの留学生を積極的に受け入れています。非永住学生は、外国人留学生と同等のカテゴリーとする大学が多く、アメリカ人や永住学生と比べて、入学審査で有利になる場合が多いです。
 
アマースト・カレッジのように、外国人留学生のファイナンシャル・ニードも100%負担する大学はありますが、その数はあまり多くはありません。一般的な非永住学生が学費を下げるのに最も効果的な方法は、非永住者や外国人留学生も対象となるメリットベースの奨学金の獲得です。また、外国人留学生のための特別な奨学金制度を有する大学もあります。

自分が活躍できる大学選び

ニードベースとメリットベースのどちらの奨学金制度を狙う場合でも重要なことは自分を高く評価してもらえそうな大学を選んで、数多くアプライすることです。
 
メリットベースの奨学金は、学生の評価に応じて金額が決まるため、評価の高い学生が優遇されます。ファイナンシャル・ニードが大きい学生は、それだけで入学審査で不利になるわけではありませんが、大学がボーダーラインの学生を選ぶ際に、学費の支払い能力を考慮することは大いに考えられます。
 
日本の大学では、上位で合格しても下位で合格しても得られるサービスにほとんど差はありませんが、アメリカの大学は全く異なります。評価の高い学生が経済的に優遇されるのはもちろんのこと、特別なクラスを履修できたり、大学の代表として活躍の場が与えられたりするなど、さまざまな特典が得られます。アメリカの大学進学では、高評価が得られそうな大学、つまり自分が活躍できる大学を選ぶことが非常に重要なのです。
 
(2017年12月16日号掲載)

ハリソン・フォード / Harrison Ford

インディ・ジョーンズも、もう75歳!

成田陽子とハリソン・フォード© HFPA

75歳になって、ますます気難しさをワザと見せるようになったのはハリソン・フォードの一種の照れであり、自己軽視の一種なのだろう。しかし、話題作『Blade Runner 2049』の会見での彼からは、82年に公開され、自身が出演していた『Blade Runner』 の続編となるこの作品への情愛が滲み出ていた。
 
「ネタバレになるかもしれないが、レプリカントと人間は生物学上、全く変わらないのだよ。ひょっとしたらこの部屋の中にもレプリカントが何人もいるかもしれないのだから!」と記者たちをおどかして喜んだかと思えば、「人は、僕がシリアスなドラマに出なくなったと文句を言うが、『Blade Runner 2049』も『Indiana Jones 』の5作目(まもなく撮影に入るそう)も、単なるアクション映画ではなく、人間の多様な感情や人生の機微をドラマチックに描いた作品だと思う。どちらも僕にとっては本当に豊かな内容のドラマなのだから」と、出演作への考えも話してくれた。また、「アクションシーンは自身への肉体的挑戦だから、いつまでもやりたいと思うけどね『Blade Runner 2049』のブタペストで行ったロケでは、暇さえあれば自転車を駆って、街の細々とした場所や美しい自然を見て回った。これは肉体的にも精神的にもいい刺激になった」と、シニアのお手本のような生き方も語ってくれた。

 

ハリソン・フォードとライアン・ゴスリング

SF映画の金字塔、『Blade Runner』の続編として話題の「『Blade Runner 2049』は、ライアン・ゴズリングとのダブル主演。

さらに、「劇中における未来の風景はかなり無機質で寂しいものかもしれない。でも、これは演出のために敢えてオーバーにそう見せているんだ。それによって、人間の持つ豊かな資質や正義への欲望をビビッドに描けていると思わないかい? そういう崇高なテーマが全編に漂っている、オペラのような作品だと僕は信じている」と重ねて同作品への思い入れを口にした。
 
何度も墜落事故を起こしては世間を騒がせている、ベテラン飛行機パイロットとしても知られるハリソン。「飛ぶのは何よりも好きだ。周囲への責任は持ちながら自己をコントロールし、永遠に続く空を自由自在に飛び回る解放感は何ものとも比較出来ないシロモノだ。僕の人生の重要な部分でもある。飛行機を操縦しているとテクノロジーの進歩を痛いほどに感じ、生きていて良かったと叫び出したくなるほどだ」と、全く懲りないヒコーキ野郎なのであった。

 

成田陽子

成田陽子
なりた・ようこ◎ゴールデングローブ賞を選ぶハリウッド外国人記者協会に属して30年余の老メンバー。東京生まれ、成蹊大学政経学部卒業。80年代から映画取材を始め、現在はインタビュー、セット訪問などマイペースで励行中。

 

(2017年11月16日号掲載)
 
※このページは「ライトハウス・ロサンゼルス版 2017年11月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

ウォーターズエッジ・エレクション (水際選択)とは?

カリフォルニア州の確定申告では、アメリカの会社による海外事業や日本からの投資家によるアメリカでの事業について、全世界所得の申告が必須です。企業によってはウォーターズエッジを選択すると良いでしょう。

 

合算課税(Unitary Tax)

アメリカでは各州が独自の課税権を持っているので、「企業が州外や海外で事業を行った場合、どこで課税されるのか? 」という問題が発生します。それを解決するため、カリフォルニア州で採用しているのが合算課税方式です。法律上は別企業でも、親子・兄弟企業などの場合は単一のグループで事業を行っているとみなされ、関連企業全ての所得を合算して確定申告書の作成をします。しかし、他州でも合算課税方式を採用している場合、二重課税される可能性が出てきます。そこで、各州で発生した売上・給与、保有する資産を合算して所得を算出した後、各州における所得の割合を基に納税します。

ウォーターズエッジ(Water’s Edge)

カリフォルニア州は全世界所得を課税対象とするので、海外の関連企業も合算所得に含めなければなりません。カリフォルニア州では海外に関連企業を持つ企業に、確定申告で「ウォーターズエッジ」という選択肢を与えています。これを選ぶと、アメリカ国外の所得を含める必要はなくなります。例えば、東京、ロサンゼルス、ニューヨークに関連企業がある場合、所得計算の際にロサンゼルスとニューヨークのことだけを考えればよいのです。アメリカ国内の収入が少ない場合、節税につながる可能性が出てきます。
 
また、海外の関連企業の所得を確定申告に含めなくて良いので、その分の記録や管理が簡単になり、そこにかかる費用も節約できます。
 
確定申告でウォーターズエッジを申請する方法は以下の通りです。
①ウォーターズエッジ用の計算式で課税所得を計算する。
②法人税申告は「Form100W」を使用する。
③申請年度の「Form 100W」に「Form 100-WE」を添付する。

更新と解除

ウォーターズエッジの更新に特別な作業は必要なく、「Form 100W」を使い続けることで自動更新されます。しかし、一度申請すると申請後7年間はウォーターズエッジとして確定申告を行わなければならず、基本的に途中で選択を取り消すことはできません。
 
申請から7年目以降の法人税申告で「Form 100」を使用すればウォーターズエッジは自動的に解除されます。しかし、一度ウォーターズエッジを解除してしまったら、再申請には最低7年間待たなければなりません。
 
仮に7年以内に解除、もしくは解除後に再申請を行いたい場合は書面において正当な理由(連結納税をやめるなど)を説明し、カリフォルニア州の税務当局から認可を得る必要があります。
 
解除は翌年の確定申告から有効で、申請した年はウォーターズエッジとして確定申告をしなければなりません。再申請の場合は、その年から適用可能です。いずれの申請も、税務当局から認可が下りる前であればいつでも取り消せます。
 
カリフォルニア州では、ウォーターズエッジを選択しなければ、海外の関連企業と合算した所得で確定申告をしなければなりません。しかし、このようルールがあるにもかかわらず、正しい選択をしていない企業が見受けられます。正しい選択を行わないと、所得隠蔽とみなされ追徴金を課される可能性もあるので、心当たりのある方は専門家と見直してみましょう。
 
(2017年11月16日号掲載)

石上洋◎米国公認会計士
カリフォルニア州立大学ロングビーチ校を卒業後、大手監査法人、現地会計事務所パートナーを経て石上・石上越智会計事務所を設立。税務をメインに事業を展開。
アメリカでの会社設立・確定申告・タックスリターンは「石上、石上&越智公認会計士事務所」へ
米国公認会計士・石上洋さんのインタビュー

※本コラムは、税に関する一般的な知識を解説しています。個別のケースについては、専門家に相談することをおすすめします。ライトハウス編集部は、本コラムによるいかなる損害に対しても責任を負いません。

タロウ・ソリジャ(Taro Zorrilla) / アーティスト・建築家

アートは新しい価値観を感じられる場所

全米日系人博物館で現在開催中の「トランスパシフィック・ボーダーランド:リマ、ロサンゼルス、メキシコシティー、サンパウロにおける日系ディアスポラのアート」展。招待作家の一人で、メキシコの日系二世であるタロウ・ソリジャさんにお話をうかがいました。
(2017年11月1日号ライトハウス・ロサンゼルス版掲載)

タロウ・ソリジャ◎1980年、メキシコ・メキシコシティー生まれの日系二世。建築作品に在メキシコ日本国大使館広報文化センターなど。写真集『きおくのなかのくに』(はぎのみほとの共著)を近日刊行。https://tarozorrilla.wordpress. com/japanese

―ご自身について教えてください。

タロウ・ソリジャさん(以下、タロウ・ソリジャ):僕はメキシコシティー生まれの日系二世です。8歳の時にメキシコ人の父が交通事故で他界し、日本人の母に育てられました。メキシコの日本人学校に通った後、中学2年生の途中からアメリカンスクールに進学し、大学は早稲田大学理工学部で建築を学びました。知識としてしか知らなかった日本に住んでみたかったのです。卒業後はメキシコに帰国し、建築事務所で建築家として働き始めました。

―今回の展覧会に展示されているメキシコ移民をテーマにした作品「DREAM HOUSE」は2007年「リスボン建築トリエンナーレ」にメキシコ代表として出品されました。

タロウ・ソリジャ:メキシコの田舎をドライブしていると、何もない荒野や平屋ばかりの村に突然アメリカ風の家が次々と現れるのです。その異様な風景に惹かれて人に聞いたら「アメリカに行った移民が故郷の家族のために建てた家だよ」と。なぜあんな家を建てるのだろうと興味を持ち、そうした家に住む人々に話を聞きビデオに撮り始めて、メキシコ人が移住する理由に「家を建てる」という行為が共通してあることに気付いたのです。彼らが思い描くのは「故郷に残した家族に良い暮らしをさせたい」という夢。でも多くは不法移民で自由に国境を行き来できないので、アメリカで見て憧れたアメリカ風の家を家族のために建てようと、稼いだお金や資材と一緒に、家の写真が載った雑誌の切り抜きなどを故郷に送るのです。それで次々とそんな家が建つ。でも残された家族にはシャワーや便座など家の使い方が分からないから、その中で昔ながらのメキシコ風の生活が行われる。しかも残された家族もやがてアメリカに移住したりして多くの家が空き家になります。皆「自分の家を建てたい」という欲求で建てるので、空き家があっても他人の家に住みたいわけじゃない。それでがらんどうの家がいくつも村に残っていくのです。それなら「そもそも人はなぜ家を建てるんだろう?」。そういう問いかけがこの作品にあります。

―その作品を作る中で日系移民の子どもという自身のルーツを考えることはありましたか。

タロウ・ソリジャ:直接的にはなかったですが、人が移民した時に何を思うかというところは強く共感しました。僕はパスポートがあって自由に移動できるけど、不法移民である彼らはできない。その中で抱える強い気持ちがこのような家を作っていくのです。ポリティカルコレクトネスを求められる現代社会では、「自分の家がほしい」という自己中心的な欲望は隠されています。でもそれが移民をはじめとする「行動の原動力」になっていることを再認識してもよいと信じています。

―移民ということでは、まもなく日系メキシコ人111人にインタビューをした写真集『きおくのなかのくに』が出版されますね。

タロウ・ソリジャ:このプロジェクトは最初「プロジェクト・ハポン」という名前でした。メキシコでは時に驚くほど礼儀正しい、昔ながらの日本的なふるまいやアイデンティティーを保つ日系人に出会います。彼らにインタビューをしたいと思ったのがプロジェクトのきっかけでした。しかし彼らは必ずしもビジネス的に成功した人だけではありません。ですからパワーゲーム的な一面のある日系社会から彼らはだんだん離れていき、その姿は見えにくくなる。僕は、よく話されるような移民の成功物語ばかりじゃなくて、そういう日系人の価値観もすごく大切だと感じ、彼らの考え方を次世代へ伝えるべきだと思ったのです。それでメキシコ全土に行って、電話帳で日系の苗字を探し、突撃インタビューを行ない、合計で111人の日系メキシコ人にお話をうかがいました。でも彼らが話す母国の話を聞いているうちに、本当に日本の話をしているのか、メキシコの話をしているのか、それともどこにも存在しない国のことを話しているのか、彼らの中には境界線がないと気付いたのです。それで最終的に彼らの話す「母国」はどこか実在する国に結びつくものではないと、本の中からは国の名前を消し、個人の名誉よりも集団としての名誉に着目するためあえて人の名前も隠し、「きおくのなかのくに」というタイトルにしました。僕たちの世代はまだ日系のアイデンティティーがあります。でも次の世代には、より多様な人種や民族が混じっていきます。その時にはどこか実在する国の価値観で物事を判断するのでなく、いろいろな国の価値観が共有できる場所を見つけて暮らしていかなくてはならない。アートはそういう新しい価値観を感じたり、客観的に見たりできる場ですし、特に現代アートというのは美学的なものからそれて、物事の成り立ちや本質に近付こうとするものだと考えています。この「DREAM HOUSE」もそういう根源的なものが見られる一つのケースです。ぜひ見に来てください。

「トランスパシフィックボーダーランド」展

ペルー、ロサンゼルス、メキシコ、ブラジルの日系ラティーノ&日系ラテンアメリカ人のアートを紹介する展覧会。

会期:~2/25/2018(日)
場所:Japanese American National Museum(100 N.Central Ave.,Los Angeles)
Taro Zorrillaアーティスト、建築家タロウ・ソリジャアートは新しい価値観を感じられる場所

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ありそうでなかったまったく新しいお菓子「バクラバリシャス」

ライトハウス・サンディエゴ版編集長、吉田聡子が、サンディエゴのブランドを訪問。世界に羽ばたいた物から、ローカルにこだわる物まで、名品の背景にある物語を探ります。

 

Baklavalicious / バクラバリシャス

バクラバ

基本フレーバーは12種。6個入りギフトボックス$20。常温で1週間ほど、冷凍庫で保存すればさらに持つ。

 

Baklavaliciousのお菓子を初めて目にした時の高揚感は、幼い頃、おもちゃの宝石箱を開いた時のそれと似ていた。色とりどりの小さなバクラバは、ジュエリーのような優美な佇まいがある。口に運ぶとサクサクとして、ふんわりとナッツの香りが広がる。甘いけれど、品が良い。
 

バクラバというのは中東や西アジアで定番のペイストリーだ。けれど、Baklavaliciousのようにフレーバーをアレンジしたバクラバはありそうでいて、ない。この秋オープンしたこの店はサンディエゴ発の新しい名物になる予感がして、オーナーであり、ペイストリーシェフであるエマ・トンボーリアンを訪ねた。
 

ペイストリーシェフのエマ。

創業者、ペイストリーシェフのエマ。

 

エマは祖父、父親と続くペイストリー一家に生まれ、レバノン系アルメニア人の父親がバクラバやフレンチ菓子を作る姿を見て育った。
 

「20代の初めは、フレンチマカロンのお店を作りたいと思っていたの。お菓子作りは父から学んでいたけれど、父には 専門的な学校に行けと言われて、学校でも学んだわ。その時、お菓子作りは大好きでも、毎日早朝に起きてお菓子を焼く生活は私には合っていないことも学んだ(笑)。それが分かっていたから、父はまず学校に行けと言ったのね」とエマ。

 

その後、ニューヨークに飛び、料理人の夫と共にブルックリンにカフェを開業。順風満帆であったが、サンディエゴで食 堂を営む父親の体調不良を機に、2010年、サンディエゴに来た。

 

手作りで仕上げている作業

食材は世界各国から納得いく質のものを仕入れ、全て手作りで仕上げている。

 

「父の店を継ぎ、伝統的なバクラバを作って出し始めたけれど、作り手としてはちょっと刺激が足りなかった。そんな時に、これまでの経験が全て結びついてひらめいたのが、この新しいバクラバなの」(エマ)。

 

ところで、何も知らず普通においしく食べたバクラバが実は冷凍の状態だったと知り、驚いた。バクラバは他のペイストリーと違い、冷凍しても風味も食感も損なわれないため、一般に冷凍のものが多いらしい。ただし、彼女はハチミツなど、凍らせると味が変わる食材は使用しない。作り置きでクオリティーを保てるため、ホテルなどへの卸売りが可能と言う。

吉田さん

吉田のお気に入りはストロベリーフレーバー
高級感のあるギフトボックス

高級感のあるギフトボックス。プレゼントにもぴったり。パーティーへのケータリングも行っている。

 

個人的には目を閉じてゆっくり味わうことをおすすめしたい。ナッツやアプリコット、バラなど、それぞれの食材が静かに、でも確かに主張してきて、さながら芸術鑑賞のような楽しさがある。

 

◎ Baklavalicious / バクラバリシャス
5725 Kearny Villa Rd. Suite H, San Diego
☎ 852-564-3080
http://www.baklavalicious.com

(2017年11月号掲載)
 
※このページは「ライトハウス・サンディエゴ版   2017年11月」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

訪日外国人増で揺れる日本の宿泊業界

冷泉彰彦のアメリカの視点xニッポンの視点:米政治ジャーナリストの冷泉彰彦が、日米の政治や社会状況を独自の視点から鋭く分析! 日米の課題や私たち在米邦人の果たす役割について、わかりやすく解説する連載コラム

日本の民泊規制緩和が進んだ背景

宿泊業界

2016年に日本政府は「2020年には訪日外国人を4000万人に」という目標をブチ上げた。この時には「4000万」という数字は強気過ぎて非現実的という声が多かったが、その16年には、結局1年間で2400万人の大台を超えている。さらに、今年、17年に入っても増加は止まらず、通年では2700万人を突破する勢いだ。
 
その内訳だが、日本政府観光局(JNTO)の推計によれば、16年の1位は中国で約637万人、2位韓国、3位台湾、4位香港などアジア圏からの来日が多く、全部で2000万人となっている。一方で米国が124万人、豪州が44万人、英国29万人、カナダ27万人、フランス25万人など、欧米やオセアニアからの来日者数も前年比20%の勢いで伸びている。
 
その結果、成田や関空では入国審査のブースが大行列になるとか、空港連絡のバスや鉄道で慢性的な混雑が起きるなどの現象が見られるが、何と言っても影響が大きいのが宿泊業界だ。
 
まず主要観光都市では圧倒的な供給不足の問題がある。だが、この問題は、意外な形で解決が進みそうだ。日本では原則的に禁止されていた「民泊」を始める人が増え、巨大な需要を吸収しつつあるのである。結果的に、政府はこの「民泊」に関する規制緩和に踏み切ったが、これは自由化して経済を活性化させようなどというものではなく、民泊がなければ極端な供給不足に陥ることから、現実を受け入れるしかなかったということだろう。

外国人には使いづらい日本特有の宿泊施設

では、そこまで大きな需要があるのなら、もっとホテルや旅館が増えても良さそうだ。もちろん、こうした宿泊業への投資はブームになっている。だが、2400万、2700万と加速度的に需要が増えている割には、客室数の増加は追いついていない。特に足りないのがビジネスホテルのツインルームだ。
 
地価が高い一方で、耐震建築が要求されて建設コストの高い日本では、本格的なシティホテルの料金を低く抑えることが難しい。そこでいわゆるビジネスホテルに人気が集中しているのだが、ここに問題がある。ビジネスホテルというのは、その名の通り出張ビジネス客をターゲットとした「宿泊特化型」の施設であり、シングルルームが圧倒的だ。そして、日本のシングルルームというのは、10平米前後と極めて狭く、カップルや家族には向かない。そもそも消防法の規制で1部屋には1人しか泊まれないケースがほとんどだ。
 
そこで、訪日外国人向けには「ビジネスホテルのツインルーム」というのが人気であり、現在の東京ではこうしたツインルームを数多く設置した高級なビジネスホテルというのが、確かに次々と開業している。欧米系だけでなく、中国圏からの旅行者も家族単位あるいはカップル単位での来日というのが圧倒的であり、このカテゴリはまさにそのニーズに応えたものだ。
 
だが、ニーズがあるからといって、ツインルームの室数を思い切り拡大するのはビジネスとしてリスクを伴う。訪日ブームが去った場合に、単身の利用が主である国内のビジネスニーズに対応するには広過ぎてコストが高過ぎるからだ。そこで需要に見合うだけの供給は難しいということになる。
 
そんな中で日本政府は、全国の日本旅館に外国人の受け入れを要請している。こうした旅館の場合は「料理が主要な売り物」だとして一泊二食付きの料金システムが主流だ。だが、さまざまな嗜好や宗教を持った訪日外国人に懐石料理を出しても喜ばれない。そこで、旅館にも「宿泊のみ」の対応を拡大し、全国の観光地に各国料理のレストランを展開するというのが政府の構想だが、業界の理解は得られていないのが現状だ。
 
試行錯誤が続く背景には、日本の観光業界が今ひとつ訪日外国人の持っている価値観や嗜好を理解していないという問題が感じられる。いずれにしても、「3000万」とか「4000万」という数が数年後に迫っている中で、日本の宿泊業界は大きな変化に直面している。

冷泉彰彦

冷泉彰彦
れいぜい・あきひこ◎東京大学文学部卒業、コロンビア大学大学院卒業。福武書店、ベルリッツ・インターナショナル社、ラトガース大学講師を歴任後、プリンストン日本語学校高等部主任。メールマガジンJMMに「FROM911、USAレポート」、『Newsweek日本版』公式HPにブログを寄稿中

 

(2017年11月1日号掲載)
 
※このページは「ライトハウス・ロサンゼルス版 2017年11月1日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

カリフォルニアで手に入る!美味しいおすすめワイン30選

アメリカ・カリフォルニア州は、世界でも有名なワイン天国のひとつ。アメリカ産のワインのうち、なんと9割はカリフォルニア州で生産されているカリフォルニアワインというから驚きだ。この市場に入り込もうと、近年はスペイン、オーストラリア、チリ、南アフリカなど、世界各国から多くのワインが輸入されている。このためワインの価格競争は激しくなっており、カリフォルニア州では手頃な価格で、品質が良いワインを手に入れやすくなっているのだ。
(2006年8月1日号ライトハウス・ロサンゼルス版掲載)

ワイン選びのコツとは?

所狭しとワインが並んでいるマンハッタン・ファイン・ワインの店内。お手頃なおすすめワインもたくさんある

ロサンゼルス・サウスベイ最大級の品揃えを誇るマンハッタン・ファイン・ワインのオーナー・ジョーさんに、ワイン選びのコツを聞いてみた。
 
「もちろん、高くて美味しいワインを買える予算があれば、それにこしたことはありません。でも、単に高ければ良いワインというわけではありません。例えば高価なフランス産のボルドーワインを買っても、美味しく飲むためには数年、待たなければならないことがあります。また、美味しい料理があれば高いワインは、それほど必要ではないかもしれませんよね。高級ワインを買うことよりも、それぞれのワインの特徴を知り、そのシチュエーションや食事にぴったりのワインを選ぶことが、ワインを楽しむ1番のコツです」。
 
バーベキューやピクニックを楽しみたいなら、スーパーマーケットで手に入る最も安いワインでも十分な時もある。しかし、記念日を手作りディナーでゆっくりお祝いしたい時には話は別だ。
 
「重要なのは、それを見分けられるようになることです。でも1度ワインについて店員と話して、知識をつければ、自分に合ったワインを予算内で選ぶことができるようになります。だんだんと、自分の目と味覚でワインを楽しむことができるようになるんですよ」とジョーさん。
 
実は、手頃な価格で流通しているワインは、どんな料理にも合わせやすく、万人受けする味や香りであることが多い。逆に言えば、多くの人に好まれるワインだからこそ大量生産され、大量消費されている、という図式も成り立つ。また主に秋に発売される高級ワインに比べて、安くて美味しいワインは年間を通して市場で楽しめることも特徴だ。

カリフォルニア州・ロサンゼルス周辺で入手可能なおすすめワイン

では、比較的ハズレが少なく、いつでも楽しめる、安くて美味しいワインを紹介しよう。
 
アメリカ・カリフォルニア州、ロサンゼルス周辺のワインショップなどで手に入る、$5以下のワイン。赤13種、白15種、その他2種、計30種のおすすめワインをご紹介。あなた好みの1本はどれ?

データの見方
①ブドウの種類
②産地
③特徴
④販売店
⑤赤ワイン/白ワイン/その他
⑥価格
※価格はすべて調査時のものです

1. Chilean Collection / チリアン・コレクション

①メルロー70%、カルムネール30%
②チリ
③スパイーシーさと、野イチゴの香りが特徴のチリ産ワイン。Trader Joe’s限定品
④Trader Joe’s
⑤赤ワイン
⑥$2.99

2. Purple Moon / パープル・ムーン

①シラー
②アメリカ・カリフォルニア(マンテカ)
③グリルした肉料理に、スパイシーなソースといったディナーにぴったりの赤ワイン
④Trader Joe’s
⑤赤ワイン
⑥$3.49

3. Bear’s Lair / ベアーズ・レアー

①メルロー
②アメリカ・カリフォルニア(ナパ)
③2本目のボトルを開けるならこれ。軽くて飲みやすい赤ワイン
④Trader Joe’s
⑤赤ワイン
⑥$3.99

4. Walnut Crest / ウォルナット・クレスト

①メルロー
②チリ
③ブラックチェリーとプラムのソフトな香りが、パスタやチキン、マイルドなチーズと相性が良い
④Cost Plus
⑤赤ワイン
⑥$3.99

5. L’Authentique / レ・オタンティック

①ブレンド
②フランス
③バランスのとれたスムーズな赤ワイン。肉料理、チーズによく合う
④Trader Joe’s
⑤赤ワイン
⑥$3.99

6. Ren’s Barbier / レンズ・バービアー

①メルローとテンプラニーニョのブレンド
②スペイン(バルセロナ)
③軽いブラックチェリーの香りとコクが、グリルした肉、パスタやピザにぴったり
④Cost Plus
⑤赤ワイン
⑥$3.99

7. Forest Ville / フォレスト・ビル

①メルロー
②アメリカ・カリフォルニア(ソノマ)
③気軽に飲めるメルローの代表格。プラムとチェリーのような香り、舌に長く残る軽いオークの後味が心地よい
④Sav-On Drugs
⑤赤ワイン
⑥$4.49

8. Black Mountain / ブラック・マウンテン

①ピノ・ノワール
②アメリカ・カリフォルニア(ナパ)
③ストロベリー、バニラ、シダーの香りで始まり、後味はプラム、クランベリー、スモーキーオークの優しい渋みが残る
④Trader Joe’s
⑤赤ワイン
⑥$4.49

9. Kenwood / ケンウッド

①ブレンド
②アメリカ・カリフォルニア(ソノマ)
③完熟した香りとスムーズな後味が、チキン、パスタなど軽い食事に合う
④Cost Plus
⑤赤ワイン
⑥$4.99

10. Old Moon / オールド・ムーン

①ジンファンデール
②アメリカ・カリフォルニア
③スパイスとブラックチェリーの甘い味わい。後味の渋みソフトで、口当たりがさわやか
④Trader Joe’s
⑤赤ワイン
⑥$4.49

11. Pinot Evil / ピノ・イービル

①ピノ・ノワール
②アメリカ・カリフォルニア(サンタバーバラ)
③映画『サイドウェイ』で、ピノ・ノワールの人気が急上昇。チェリーの香りとスパイスの風味、軽い後味が魅力
④Cost Plus
⑤赤ワイン
⑥$4.99

12. Santa Alicia / サンタ・アリーシャ

①カベルネ・スーヴィニヨン
②チリ(マイポバリー)
③アンデス山脈の雪解け水で育ったブドウを使用。ブラックベリー、完熟プラム、オークの香りがする、コクのある赤ワイン
④BevMo!
⑤赤ワイン
⑥$4.99

13. Grão Vasco / グラオ・バスコ

①ブレンド
②ポルトガル(ダオ)
③取れたての若いチェリーとプラムの香り。適度なコクとソフトな味わいのバランスが取れたワイン。軽いテイストの魚や肉料理に合う
④BevMo!
⑤赤ワイン
⑥$4.99

14. Charles Shaw / チャールズ・ショー

①シャルドネ
②アメリカ・カリフォルニア(ソノマ)
③安くて美味しいワインの筆頭格。同じ値段でメルロー、カベルネ・スーヴィニヨン、スーヴィニヨン・ブランクもある
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$1.99

15. Contadino / コンタディノ

①ピノ・グリージオ
②イタリア(ベネチア)
③リンゴとピーチの香りが異国情緒を呼び起こしてくれる。キレがよく、飲みやすいワイン。冷やして飲むと美味しい
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$2.99

16. Barefoot / スーヴィニヨン・ベアフット

①スーヴィニヨン・ベアフット
②アメリカ・カリフォルニア(モデスト)
③ハチミツとピーチの香りと、スモーキーでソフトな後味の白ワイン。店によって値段が違うので要チェック
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$3.99

17. Trader Joe’s Coastal / トレーダー・ジョーズ・コースタル

①シャルドネ
②アメリカ・カリフォルニア
③メロンとピーチの香りに、やさしくまろやかなオークの後味
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$3.99

18. Sutter Home / サター・ホーム

①モスカート(マスカット)
②アメリカ・カリフォルニア(サタークリーク)
③白桃やライチ、メロンなどの香りがするマスカットワイン。軽食やデザートと一緒に楽しめる
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$3.99

19. Cavipor Caseiro / カビポ・カセイロ

①マリアゴメス70%、ビカル30%
②ポルトガル
③フルーティーでフレッシュなテーブルワイン。ドライでシトラス系の香り。肉料理、シーフードなどさまざまな料理によく合う
④BevMo!
⑤白ワイン
⑥$3.99

20. Zarafa / ザラファ

①スーヴィニヨン・ブラン
②南アフリカ(ケープタウン)
③フルーティーでキレのあるワイン。シーフードや野菜料理に合う
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$3.99

21. Beringer / ベリンジャー

①シュナンブラン
②アメリカ・カリフォルニア(セントヘレナ)
③繊細なシトラスの香りと味わいが、軽いピーチとメロンの香りとマッチ。シーフード、スパイシーな料理にぴったり
④Sav-On Drugs
⑤白ワイン
⑥$4.00

22. Butterfield Station / バターフィールド・ステーション

①シャルドネ
②アメリカ・カリフォルニア(ミルバレー)
③トロピカルフルーツのさわやかな香りと、オークの香りを併せ持つ、スムーズでクリーミーな味わい
④Manhattan Fine Wines
⑤白ワイン
⑥$4.99

23. Corbett Canyõn / コーベット・キャニオン

①シャルドネ
②アメリカ・カリフォルニア(サンルイオビスポ)
③適度なコクと、リンゴ、ピーチ、オークの香り。スムーズな後味が、バーベキューと合う(1500mlボトル)
④Sav-On Drugs
⑤白ワイン
⑥$4.54

24. Foxhorn / フォックスホーン

①シャルドネ
②アメリカ・カリフォルニア(リポン)
③リンゴのキレのある香りがさわやかな後味。大人数での野外のバーベキューなどにぴったり(1500mlボトル)
④Sav-On Drugs
⑤白ワイン
⑥$4.49

25. Gallo Family Vineyards / ギャロ・ファミリー・ビンヤード

①ジンファンデール
②アメリカ・カリフォルニア(モデスト)
③太陽の香りが漂うフルーツのイメージ。キレの良い後味が特徴。ストロベリーとホワイトピーチの香りがバランスよい風味
④Ralphs
⑤白ワイン
⑥$4.49

26. Glen Ellen / グレン・エレン

①シャルドネ
②アメリカ・カリフォルニア(リポン)
③完熟のピークを迎えたブドウだけを使用。バタースコッチと繊細なオークの香りがする味わい。さわやかでキレのある後味が特徴
④Ralphs
⑤白ワイン
⑥$4.99

27. Liebfraumilch / リープフラウミルヒ

①ブレンド
②ドイツ(ナーエ)
③ドイツから輸出されるワインの半分を占めるブランドで、日本でもおなじみ。甘すぎず軽くてフルーティー
④BevMo!
⑤白ワイン
⑥$4.99

28. Beckerman Liebfraumilch / ベッカーマン・リープフラウミルヒ

①ブレンド
②ドイツ(ヘッセン)
③「聖母の乳」という名がついた、さわやかで飲みやすい甘口の白ワイン。女性に人気
④Trader Joe’s
⑤白ワイン
⑥$4.99

29. Vendange / ボンドンジュ

①ジンファンデール
②アメリカ・カリフォルニア(ウッドブリッジ)
③ストロベリ-の香りのロゼワイン。フルーティーでキレがよい。このブランドは低価格だが、ブドウの種類も揃っている
④Ralphs
⑤その他
⑥$4.99

30. Boone’s Farm / ブーンズ・ファーム

①ブレンド
②アメリカ・カリフォルニア
③赤ワインをジュースなどで割ったのがサングリア。本品はグレープのフレーバー。他にもさまざまなフルーツのフレーバーが楽しめる
④Sav-On Drugs
⑤その他
⑥$2.54

ワインショップとの上手なつきあい方

ワインのことを話し出すと止まらなくなるジョーさん

ざっくばらんに店員と話すべし!

マンハッタン・ファイン・ワインは20年以上続いているワインの専門店。世界各国のワインの他、珍しいリキュール類や日本酒も揃っている。タイ人オーナーのジョーさんは気さくで、気軽にワインの質問に答えてくれる。でも、ワインショップで安物を買うのは、ちょっと抵抗があるという人もいるだろう。そのあたりから話をうかがった。
 
例えば、 2004年にヒットした映画『サイド・ウェイ』の影響で、カリフォルニア産ピノ・ノワール種のワインの売り上げが伸びました。高級イメージが先行していますが、これも6~7ドル程度で手に入ります。あえて高級ワインを買わなくても、ハッピーになれるワインはたくさんあります。ですから、ワインショップに行ったら、まずは、店員に予算と、希望するワインの種類を伝えてみてください。
 
安いワインの相談だからといって、気兼ねはいりません。私もそうですが、店員はお客さんとワインについて話すのが大好きです。ワインのことをあまり知らないのであれば、次のことを店員に、ざっくばらんに伝えてみてください。
 
❶どんな味や香りのワインを飲みたいか?
❷どんな食事と一緒に楽しみたいか?
❸以前飲んだワインで気に入っているものは何か?
❹どんなブドウの種類が好みなのか?
 
安くておいしいワインは結構たくさんありますし、特徴も違います。食事によっても、合うワインは変わります。ですから、予算以外にも希望する情報を店員に伝えることが大切です。私の店には食事のメニュー持参で、ワインの相談に来るお客さんもたくさんいますよ。そんな風にして、気軽にワインを楽しみたいお客さんに立ち寄ってもらいたいですね。

Manhattan Fine Wines
1157-A Artesia Blvd.
Manhattan Beach
☎310-374-3454
www.manhattanfinewines.com
Mon-Sat 10:00am-8:00pm
Sun 11:00am-6:00pm
Open 7 Days

今回ご紹介のおすすめワインを見つけたお店

◉BevMo!(Torrance)
21301 Hawthorne Blvd., Torrance
☎310-543-9170
Mon-Fri 10:00am-9:00pm
Sat 9:00am-9:00pm
Sun 10:00am-7:00pm
Open 7 Days
www.bevmo.com
 
◉Cost Plus World Market (Torrance)
22929 Hawthorne Blvd., Torrance
☎310-378-8331
Mon-Sat 10:00am-9:00pm
Sun 10:00am-7:00pm
Open 7 Days
www.worldmarket.com
 
◉Trader Joe’s (Torrance Promenade)
19720 Hawthorne Blvd., Torrance
☎310-793-8585
9:00am-9:00pm
Open 7 Days
www.traderjoes.com
 
◉Ralphs
ralphs.com
 
◉Sav-On Drugs
www.savon.com

※このページは「2006年8月1日号ライトハウス・ロサンゼルス版」掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

アメリカにおける“クールジャパン”の今

アニメや日本食によって世界に広がった現象“クールジャパン” は、2013年に設立された「クールジャパン機構」によって、ポップカルチャー、食、伝統工芸、おもてなし、ファッションなど、幅広い分野での海外需要拡大のスローガンとして、新しい意味合いを持つようになりました。時代によって変化しているクール ジャパンですが、私たちが住むアメリカにおい ては、どういった形で広がり受け入れられているのでしょうか。現在、アメリカでクールジャパン拡大に尽力する企業、団体の取り組みをご紹介します。
(2015年8月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版掲載)

アメリカにおける“クールジャパン”

アニメや食材から自然発生したクールジャパン

近年、インターネットやテレビなどで“クールジャパン”という言葉を、頻繁に聞くようになりました。まず、クールジャパンが生まれた背景を紐解いてみましょう。
 
『知恵蔵2015』 (朝日新聞出版)によると、クールジャパンとは「日本独自の文化が海外で評価を受けている現象、またはその日本文化を指す言葉」とあります。1980年代後半に世界各地で放映されたテレビアニメ『ドラゴンボール』や『キャプテン翼』を筆頭に、『ポケットモンスター』や『NARUTO』などのアニメや漫画は、まさにクールジャパンの土台を作った作品ですが、その後、ファッションや食材にいたるまで、広範囲にわたる文化を含む言葉になりました。
 
そして、2010年に経済産業省製造産業局の 「クールジャパン室」設置により、それに新しい意味合いが加わりました。同省は、日本の経済の活性化を目指し、従来の自動車や家電・電子機器産業にプラスして、ポップカルチャーを中心とした文化産業の海外進出支援などを行う「クールジャパン戦略」を立て、以来クールジャパンは、日本の経済成長を促すスローガン的な用語としての意味も持つようになりました。

海外需要拡大政策「クールジャパン機構」設立

政策として始まったクールジャパンの内容は、多岐にわたりました。2013年1月に、第2次安倍内閣が設置した日本経済本部がまとめた「日本経済再生に向けた緊急経済対策」によると、外貨を稼ぐ手法として、海外展開戦略を成長戦略の軸に据えて、経済産業省をはじめ、総務省、国土交通省など各省がクールジャパン推進のために、施策を打ち出しています。クールジャパン政策の狙いは、アニメやドラマ、音楽に代表される日本のコンテンツから、ファッション、日本食、住まいの“衣食住”まで、「日本の魅力」を軸として海外に進出し、日本企業の活躍や雇用を生み出すことにあります。
 
その経緯で2013年11月に誕生したのが「クールジャパン機構 (株式会社海外需要開拓支援機構:Cool Japan Funds, Inc.)」でした。クールジャパン機構は、クールジャパンを体現する日本企業が海外での需要創出のため、投資資金を供給する官民ファンドとして創設されたのです。
 
これまで資金不足、拠点不足、戦略不足によって、民間ではなかなか成し遂げることができなかった海外進出を出資面で支援し、現地で利益を生むためのプラットフォーム構築や、流通網の設備などを展開していくことを狙いとしています。
 
2013年度当初予算では500億円が確保され、設立時点で官民合わせて、375億円が出資されましたが、2015年3月末時点での出資金は406億円に上り、その内訳は政府出資が300億円、民間出資が106億円となっています。出資額は、1件あたり数億から多いところで、100億円以上に上り、投資案件によって異なるもののクールジャパン機構と民間の出資額は、それぞれ半分程度。機構の存続期間は約20年としており、中長期的な視点で投資回収を行います。
 
経済産業省商務情報政策局の発表によれば、現在15年4月(27日時点12件の投資案件を決定しており、いずれも日本の法令に基づき設立された企業や、現地合併会社、日本国内の親会社の子会社 (現地法人)などが対象になっています。

アメリカにおけるクールジャパン第2章スタート

アメリカにおけるクールジャパンは、古くは自動車から始まり、家電、アニメ、そして寿司をきっかけとした日本食ブームなどで広がりました。この自然発生的なクールジャパンを第1章とすると、現在 3つの切り口からクールジャパン第2章が始まろうとしています。
 
1.クールジャパン政策による広がり
2.文化交流面での広がり
3.民間企業からの広がり

「クールジャパン政策による広がり」には、クールジャパン機構や、日本のコンテンツの海外展開を支援する補助金制度J-LOP+があります。またクールジャパン機構は、アメリカでの需要開拓のために、2014年3月にジェトロ(Japan External Trade Organization)と業務連携しています。日本企業の海外ビジネス支援に必要なノウハウとネットワークを持つジェトロ・ロサンゼルスは、現地でのテストマーケティング、商談会、展示会や市場動向、貿易・投資の規制、関税などに関する調査・情報面でサポートを行っています。
 
クールジャパン機構によると、対象国にアメリカが含まれる事業は6件で、このなかには15年4月に投資が決定したGreen Tea World USAがあります。カリフォルニア州アーバイン市に拠点を持つ同社は、長崎県の企業が中心となる企業連合が設立した株式会社の子会社で、ほかの投資案件と異なり、日本の地域産品販売プラットフォーム構築の先駆者として、日本国内の中小企業からも大きな期待を寄せられています。
 
クールジャパン機構が、投資ファンドとして民間のビジネス支援を行っているのに対し、長年文化交流において、クールジャパンを実践しているのが国際交流基金ロサンゼルス日本文化センターです。音楽、美術、科学技術など幅広い分野で日本文化を紹介する一方で、時代に合った伝え方で「文化交流面での広がり」 に努めています。そして「民間からの広がり」には、毎年ロサンゼルスで開催されているアニメコンベンション「アニメエキスポ」のほか、日本の伝統工芸を独自のアプローチで展開しようとしている企業があります。
 
下記では、これら3つの切り口から、“アメリカにおけるクールジャパンの今”をサポートするジェトロ・ロサンゼルスや国際交流基金ロサンゼルス日本文化センターの取り組みと、アニメ、食、伝統技術などの分野から日本文化をアメリカに広めようとしているNPO団体や民間企業の活動や意気込み、そして今後の展望などについて具体的に紹介します。

ジェトロ・ロサンゼルス:クールジャパン機構と連携で進出企業をビジネス面で支援

ジェトロ・ロサンゼルス

日本のコンテンツ普及に貢献したハリウッド関係者を表彰する「クールジャパンアワード」。左より在LA日本国堀之内秀久総領事、ダグ・ライマン監督、原作著者の桜坂洋さん(2014年9月)

海外との貿易や投資促進を通して、日本の経済および社会の発展を目的とするJETRO(Japan External Trade Organization)。1958年に設立されたジェトロ・ロサンゼルスは、カリフォルニアをはじめ、隣接する数州とハワイを管轄としている。2014年3月13日から、株式会社海外需要開拓支援機構(クールジャパン機構)と業務連携し、アメリカに進出する日本企業の支援ほか、さまざまな活動を行っている。

クールジャパン機構と連携で進出企業をサポート

クールジャパン機構の投資が決定しているTokyo Otaku Mode。Facebook上では英語で1700万人の登録者に情報を発信している

2014年3月に、クールジャパン機構と業務連携し、日本のコンテンツや日本食などの「日本の魅力 (クールジャパン)」を通じて、産業の育成や海外需要開拓に取り組んでいます。
 
クールジャパン機構の投資類型には、大きくわけて 「メディア・コンテンツ」「食・サービス」「ファッション・ライフスタイル」がありますが、アメリカでは先の2つが大きな市場となっています。「ファッション・ライフスタイル」は、アジアを対象したものが多く、アメリカではまだ投資案件がありません。しかし「メディア・コンテンツ」では、Facebook上で1700万人の登録者数を持つTokyo Otaku Modeや、そしてバンダイナムコ、ADK、アニプレックスの3社が共同で設立した (株)アニメコンソーシアムなどがあり、対象国にアメリカが含まれる案件として、すでに4事業に投資が決定しています。
 
「メディア・コンテンツ」 においては、アメリカでの市場展開のためのプラットフォーム構築や、コンテンツの対外発信強化などを進めると同時に、有名コンテンツの正規品流通のインフラ作りや、海賊版や模倣品の排除も目的としています。ことにアニメに関しては、早くから自然発生的に市場が広がっていったものの、インターネットでのストリーミングが横行し、売り上げに繋がらないケースが多々あります。日本のコンテンツが評価されるのは良いことですが、日本にちゃんと利益をもたらし、その利益で次の作品が出来るような良い流れを作ろうというのが狙いです。
 
「食・サービス」で、もっとも注目されているのは、Green Tea World USA, Inc.です(詳細は後述)。今後、全米で「日本茶カフェ」を展開する予定ですが、アメリカ現地法人で初めて投資が決定した企業第1号であること、地域創生モデルであること、中小企業案件であること、さらに抹茶というアメリカの市場で十分通用する食品で展開していくとあって、国内外から多く関心を寄せられています。
 
アメリカの日本食市場は大きいのですが、そのほとんどが非日系人経営によるレストランで、営業権の問題や食材調達のリスクなどで、外食企業の進出がとても遅れています。今後ももっと伸びる市場だと思いますし、しっかりとしたプロジェクトのアイデアと戦略があればジェトロ・ロサンゼルスでも積極的にサポートしていきたいと考えています。

ハリウッドを魅了する日本の原作コンテンツ

【取材協力】
JETRO Los Angeles
次長 川渕英雄さん
Web: www.jetro.org

ジェトロ・ロサンゼルスは、日本企業十数社と共に、オールジャパンとして10年近く継続して国際映画見本市(AFM)に参加し、日本製の映像作品の販売を行っております。また、「アニメエキスポ」と共催で商談会も実施しました。
 
さらに、ハリウッド作品はアメリカのみならずアジアなどの市場からも受け入れやすいことから、昨年から、日本原作で「メイド・イン・USA」の作品の普及のサポートを開始しました。
 
その一環で、日本の映画などのコンテンツ普及に貢献したハリウッド関係者を表彰する式典 「クールジャパン・アワード」を開催し、昨年は桜坂洋氏のライトノベル『All You Need Is Kill』が原作となった映画 『Edge of Tomorrow』と『Godzilla』の』 2作品が表彰され、主演俳優のトム・クルーズ氏やダグ・イマン監督が賞を授与れました。このような普及活動の成果として、今秋放映予定のテレビドラマ「Heroes Reborn」に日本人3人がメインキャストとして起用されています。映画をはじめ、ライトノベル、本、漫画などのコンテンツは、物販など二次市場も含め、これから日本に大きな利益を還元する可能性が高いと思います。
 
今年はこれからの日本の原作をアメリカの制作会社に紹介するマッチングイベントを企画しております。

国際交流基金:30年以上にわたり、文化交流で独自のクールジャパンを実践

国際交流基金・ロサンゼルス日本文化センター

新潟・佐渡の尾畑酒造五代目蔵元・尾畑 留美子さんを招いたレクチャー。その後、酒ソムリエ・松本 祐司さんによるセミナーと尾畑酒造「真野鶴大吟醸」の試飲会が行われた(2015年6月)

1972年に外務省所管の特殊法人として設立された国際交流基金(The Japan Foundation/本部:東京都)は、総合的に国際文化交流を実施する専門機関。2003年に独立行政法人となり、現在海外21カ国に22の拠点を持つ。1983年に設立されたロサンゼルス日本文化センターは「文化芸術交流」「日本語教育」「日本研究・知的交流」の3つを主要分野とし、さまざまな活動を行っている。

多分野で”共感“を生み出し日本の「新しい友人」作りへ

今後、二世ウィークでの「大田楽」パフォーマンスや、狂言方和泉流能楽師の野村万蔵さんによる狂言公演アメリカ初のシネマ歌舞伎上映など、さまざまなイベントを予定している。

国際交流基金ロサンゼルス日本文化センター(JFLA:The Japan Foundation, Los Angeles)は1983年から 「文化芸術交流」「日本語教育」「日本研究・知的交流」を3本柱として活動しています。今年に入って、LACMA(The Los Angeles County Museum of Art) で開催された「樂・茶碗の中の宇宙」展や精進料理教室「赤坂寺庵」の僧侶による精進料理レクチャーなどを開催しましたが、歴史や健康といった誰もが興味を持ちやすい切り口で見せるように努め、その結果、幅広い層にご来場いただき非常に盛況でした。
 
そもそも文化は、一方的に発信するだけでは伝わりません。まずは受け入れる側の“共感”を得ることが一番大なんですね。6月に開催したレクチャーシリーズでは、新潟の佐渡で日本酒を造る五代目蔵元を招いたのですが、講演では蔵元になるまでの経緯や、経営者としての考え方などを語ってもらいました。海外で友達ができる時って、その国の文化に精通してるとか、言語ができるとかではなく、その人を知るうちに何かしら“共感”を覚えたということがきっかけであることが多いのではないでしょうか。日本をより身近に感じてもらうことで海外の 「新しい友人」 を増やしていくのが、我々の理念であり、組織の存在理由だと考えています。
 
ここ20年で、アメリカの日本文化に対する捉え方は随分変わってきました。日本食やアニメなどが広く浸透した一方で、日本食でもSushiやRamenと細分化されて認識が深まっています。さらに、日本のこと全般には詳しくなくても、例えばファッションなど、一つの分野に関してある程度の知識を持つ人がすごく増えてきているので、伝え方を工夫する必要があります。イベントも、今はテーマを絞ったり切り口を考えないとなかなか興味を持ってもらえません。「新しい友人」作りには、間口を広げることも大事ですが、狭く深く掘り下げることで、新たな“共感”につなげていく。一度きりで終わるのではなく、いかに次の興味に結びつけられるかが重要ですから。

変化を恐れず交流に取り組む“クールジャパン”を目指して

【取材協力】
The Japan Foundation , Los Angeles
所長 原秀樹さん
Web: www.jflalc.org

長年、イベントや日本語教育の場を通じて日本文化を伝えていますが、ある意味、我々がやっていることは全て“クールジャパン”だと思っています。もちろんこれには、政治的・ビジネス的な意味合いはありません。もとより文化を伝える側が、純粋にそれをクールだと思っていなければ続けられないし、相手にも“共感”してもらえないはず。ただし文化は常に変化するものですから、クールと慢心して止まってしまえばそこで終わり。アメリカに渡った寿司から、市場のニーズに合ったカリフォルニアロールが生まれ、今や日本でも受け入れられていることを考えてみてください。アメリカで形を変えていく文化もあるかもしれないし、それはそれでクール。従来の概念にとらわれず、変化を受け入れられるような柔軟性もあって初めて、真のクールジャパンと言えるのかもしれません。伝統や歴史を大切にしつつ、決して新しい変化を恐れず、日本が海外で国際交流に取り組んでいく姿勢を“クール”だと思ってもらえれば良いなと思います。

アニメ:ニッチイベントから、市場調査やコンテンツ提供の場に変貌

日本アニメーション振興会

7月2日~5日に開催された「第24回アニメエキスポ」。4日間の来場者数は26万人を超え大盛況を博した(ロサンゼルス・コンベンションセンター)

日本のアニメーションとアニメ文化に関連 している芸術・事柄を促進するために活動する組織。ロサンゼルスで開催される北米最大アニメコンベンション「アニメエキスポ」をはじめ、サンディエゴのアニメ・マンガイベント「Anime Conji」、国際会議「プロジェクトアニメ」など、さまざまなイベントやプロジェクトを手掛けている。

ビジネスチャンスをつかめ!アニメエキスポで市場調査

1992年にスタートしたアニメエキスポは、今年で24回目を迎え、参加登録実数は9万500人。4日間の延べ来場者数は26万700人となりました。来場者数はここ3年で右肩上がりで、昨年と比べても延べ来場者数は、18%増、つまり約5万人も増えたことになります。これまでのデータによると、男性は53%、女性は47%、年齢は18歳~24歳が最も多く、全体の56%を占めています。もともとアニメエキスポは、UCバークレーのアニメ研究会が始めたイベントで、コアなファンを中心に大きくなってきましたが、今や単純にアニメや漫画が好きな一般客が楽しめるマスイベントに変貌してきました。人気があるのは『One Piece』や『進撃の巨人』 といった単純明快なストーリーのビッグタイトル。日本で人気の萌え系はニッチですが、それを好むファンもいます。アニメは名実ともに”クールジャパン“の先駆けとも言えますが、その市場は大きく変わってきています。以前はパッケージと呼ばれるハード(DVD)が主流だったものの、今は違法ストリーミング対策として、大手配信サイトなどで日米同時に映像配信をする会社がほとんど。人気が出てから吹き替え版を作るパターンが多いですね。
 
また、ライセンシング供与だけでは利益は頭打ちなので、コンベンションを通じてマーケティングを行い、新たなビジネティングを行い、新たなビジネスチャンスを模索する企業が多くなってきています。実際、ここ数年は日本の制作会社によるコンベンション参加が増えており、ブース出店はもちろん、監督や声優が参加するパネルディスカッションやゲスト招へいなどに注力しています。アメリカ人は一方通行ではなく、インタラクティブなPRを好むため、積極的に参加すればするほど、会社や作品の認知度を高められるほか、物販でも大きな成果を上げているのです。アニメエキスポの来場者アンケートでも、来場の一番の目的は「物販」で、日本でしか手に入らないような商品は、付加価値がついて人気を博しています。
 
さらに近年は、映画やドラマ用のコンテンツを探す目的で来場するハリウッド関係者の姿も多くなりました。それを受けて、私たちも興味のある方に、ビジネスマッチングの機会を提供しています。

政策の後押しで北米進出企業は増加の一途

【取材協力】
Society for the Promotion of Japanese Animation
事業開発ディレクター
松田 あずささん
Web: www.spja.org

クールジャパン政策も手伝って、日本からアメリカに進出しようという企業や会社は着実に増えています。今年3月に東京で開催されたJ‐LOP+主催の「J‐LOP+海外イベント合同説明会」で、北米最大のアニメコンベンション主催者として、イベントの説明会と相談会に参加したのですが、大きな反響がありました。実際、今年のアニメエキスポには、日本からの視察団がたくさん訪れていましたね。
 
アニメは非常に大きな市場ですが、海賊版など取り組まなければならない課題はまだまだあります。今後、進出する企業に求められるのは、正規市場を構築して、日本にきちんとお金を還元できるシステムを作り上げること。そのためには、アメリカを拠点とする企業や団体の協力は欠かせません。いずれは日本の現地法人以外でも、クールジャパン機構の投資を受けられるようになればいいと思っています。

日本茶:全米で日本茶カフェ展開・地域産品販売プラットフォーム構築へ

Green Tea World USA

全米規模で展開予定の日本茶カフェ「Green Tea Terrace」(仮)は、2015年)内を目途に第1号店出店を予定。日本で記者会見を行うGreen Tea World USA 前田拓チェアマン(右)と濵本磨 毅穂(まきほ)長崎県貿易公社社長・長崎県副知事

日本茶の輸出事業を手掛ける株式会社マエタク(前田拓社長)と、長崎県貿易公社、文明堂総本店・白山陶器などを中心とする企業連合「グリーンティー・ワールド・ホールディングス株式会社(長崎県長崎市)」のアメリカ現地法人。ロサンゼルス を拠点に、日本茶カフェ事業を全米で展開予定。株式会社マエタクは、アメリカで30年以上にわたり日本茶ビジネスの実績を持つMaeda-enの親会社にあたる。

全米規模で日本茶カフェを展開・今後10年で50店舗を目指す

Maeda-enの新商品「Macha Booster」。抹茶は日本茶カ フェで主力商品として期待 されている

Green Tea World USAは、日本茶の輸出事業を行うマエタクと、長崎県の企業が中心となる企業連合のアメリカ現地法人です。クールジャパン機構の12件目の投資案件として、今後、全米規模で日本茶カフェを展開し、日本産の茶葉を使った抹茶エスプレッソやキャラメルほうじラテなど多彩なドリンクに加え、サイドメニューにはカステラ、そして茶器には波佐見焼を使用するなど、長崎県の地域産品を扱っていきます。出店エリアは、まず2015年内にロサンゼルスで第1号店をオープンし、これから10年間で50店舗展開を目指しています。
 
私は、1984年にMaeda-enを設立し、以来日本茶ビジネスを展開してきました。アメリカのお茶消費市場は、グリーンティー、紅茶、ウーロン茶等を含めると1兆円規模に成長しています。なかでもグリーンティーは、現在米系スーパーでも販売されるほど普及しているのですが、意外にも質の高い“本物”を気軽に楽しめる場がないのが実情です。日本茶は、1856年に幕末の長崎から輸出されて世界に広まったにもかかわらず、外国産茶葉の台頭や志向性の多様化などで、産地で放棄茶畑農家が増えている現状に、危機感を感じていました。
 
口の肥えてきたアメリカ市場に”本物“のおいしさを伝えるのは日本茶メーカーとしての使命。そんな思いを実現すべく、このたび、日本茶カフェという業態で本格的に始動したわけです。
 
ターゲット層の中心には、健康志向が高くライフスタイルにも質を追求するミレニアル世代を置き、茶葉の選定や店舗でのお茶の淹れ方にこだわり、Made in Japanの良さを認知してもらえるブランド作りに励みたいと思っています。そこで主力となるのが抹茶です。実はMaeda-enは、アメリカで初めて日本産の抹茶を使ったアイスクリームを製造販売して、市場を拡大した中心的立場から、抹茶の人気が市場に浸透しつつあるのを実感しています。抹茶は味にもインパクトがあり、コーヒーに代わる飲み物としても十分。抹茶をきっかけに、煎茶や玉露など、多種多様な日本茶について興味を持ってもらえればと思います。

海外展開を目指す地域産品の販売プラットフォーム構築へ

【取材協力】
Green Tea .World USA, Inc.
Chairman 前田拓さん
Web : www.maeda-en.com

今回の事業は、日本産の”本物“のお茶をアメリカに広めるほかに、海外展開を目指す日本の地方中小企業の基盤作りという意味合いもあります。地方発の産品と言えば、山口県の小さな酒蔵が活路を開き、今や世界でその名を知られるようになった「獺祭(だっさい)」がありますが、実際のところ、地方企業の単独での海外進出はあまりにもリスクが高い。企業が連携することで、東京などを経由せず、地方発即世界進出を実現させる夢のある事業と言えます。
 
日本が誇る名品をアメリカに広げるチャンスを頂いたありがたさと同時に、責任の重さをひしひしと感じていますが、万全の体制で臨み、最終的には世界で1000店舗展開を目指していきます。生産者から販売業者まで、日本のお茶業界全体が潤うこと、そして地方中心企業の希望の星となれるようなモデルケースとしてきちんと結果を残したいですね。
 
将来的には、長崎県産品を超え、どんどん地方の名産品を発掘して、アメリカでプロモートしたいと考えており、地域産品の販売プラットフォーム構築に努めていきます。

浮世絵:伝統工芸継承と後継者育成を目指し、現代浮世絵を日米で販売

浮世絵プロジェクト

浮世絵プロジェクト第1弾KISS全4シリーズから「接吻四人衆大首揃」KISS直筆サイン入り:22万円/2500ドル(本体)、サインなし:10万円/1250ドル(本体)

江戸木版画技術保存と継承を目的にロサンゼルスで設立。ロックバンドKISSの浮世絵シリーズ を制作し、すでに「接吻四人衆大首揃」「接吻四人衆変妖図」(2月27日)、ももいろクローバーZとのコラボ浮世絵「桃色四葉乙接吻四人衆大合戦絵巻」(7月2日)が販売されている。今後も世界市場に向けて、世界のポップスターらとのコラボ浮世絵を販売していく。

KISSとのコラボレーション・新たな浮世絵が蘇る

KISS浮世絵を手掛けた。彫師・渡辺 和夫さん
2010年に江戸木版画家伝統工芸士に認定されている

2014年の夏に「浮世絵プロジェクト」を立ち上げ、現在ロサンゼルスを拠点に、第1弾プロジェクトとなる、ロックバンドKISSとコラボした浮世絵シリーズ全4枚(各200枚限定)を、日米で販売しています。
 
浮世絵は、江戸時代にニュースやトレンドなどの情報を伝える風俗画として生まれ、絵師、彫師、摺すり 師の手によって3段階に分けて作られる非常に精微な総合芸術です。まさに” クールジャパン“を体現する日本の伝統工芸ですが、現実的には仕事が減少している上、深刻な後継者不足が問題になっています。事実、浮世絵の木版画を専門にしている絵師はおらず、彫師は日本全国で9名、摺師は30名しかいません。
 
「浮世絵プロジェクト」を設立するきっかけとなったのは、ある版元(浮世絵の出版社)との出会いでした。彼らは漫画とコラボしたり、現代美術を浮世絵にしたりと、業界に新風を吹き込んでいたのです。彼らの活動に触発され、私たちは世界のポップスターやアイコンをテーマにした浮世絵を日本で作り、まずはアメリカ、そして世界に向けて販売することで、江戸木版画技術の保存や継承に結びつくのではないかと考えるようになりました。

伝統工芸の価値を伝える浮世絵“クールジャパン”

【取材協力】
Mitsui Agency .International, Inc.
浮世絵プロジェクト代表 三井悠加さん(左)
チーフプロデューサー 青池奈津子さん(右)
Web : www.ukiyoeproject

後継者を育てる余裕すらないという状況を打破するには、市場を広げ、とにかく新しい仕事を生み出すことが必須です。KISSの浮世絵には、江戸木版画家伝統工芸士である彫師の渡辺和夫さんなど、熟練の職人さんたちが携わっているのですが、これまでの常識を覆すような新しい浮世絵の形に抵抗はなく、むしろ挑戦することに意欲を感じていらっしゃるようです。
 
KISSの浮世絵は、ウェブサイトのみで販売しており、現在日本の方が圧倒的に売れ行きが良いですね。しかし先月ロサンゼルスで開催された「アニメエキスポ」に出店した際に、観覧用の作品を見て「1万ドルの価値はあるでしょう」とコメントしてくれたアメリカ人もいて、アプローチ次第では、大きな市場になるのではという感触を得ました。
 
今後もポップスターとコラボしたプロジェクトを企画していますが、まだまだ手探り状態。「レディ・ガガの美人画」など、物珍しさで興味を持ってもらうだけでは本末転倒。アメリカで市場をきちんと開拓するためには、浮世絵の歴史や技術・技法の高さをきちんと伝え、その価値を真に理解してもらう必要があると思うんです。かつてその斬新な画法や色使いで、ゴッホなど世界に名だたる芸術家に大きな衝撃を与えてきましたが、未だに浮世絵はポスターのような大量印刷物だと思っている方も少なくないのが実情ですから。
 
社員わずか3人で立ち上げた、無謀とも思えるこの「浮世絵プロジェクト」に、いち早く賛同してくれたKISSベーシストのジーン・シモンズさんは、浮世絵について、以下のようなコメントを残してくれました。“Ukiyo-e, that’s Nippon, that’s tradition, that’s history, that’s kabuki, that’s deep deep culture. We respect it.”
 
いつの時代もどこの国でも、素晴らしいものは、どんな形になっても、その価値を素直に受け入れようとするアメリカの懐の深さを、世界市場に向け一歩踏み出したことで、改めて実感しています。
 
※このページは「2015年8月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版」掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

ジェニファー・ローレンス / Jennifer Lawrence

『Mother!』で横隔膜が破れるほどの熱演!

成田陽子さんとジェニファー・ローレンス

ジェニファー・ローレンスが映画『Mother!』で命がけの劇演を見せている。ユニークなイメージとメタファーを織り交ぜて独自のドラマを創作することで有名なダレン・アロノフスキー監督と撮影中に恋に落ち、絶叫と共に絶望的な感情を表現するシーンを撮り終えた瞬間、失神するほどの胸の痛みを覚えたとか。病院に行ってみると、何と横隔膜が破裂していたらしい。監督に恋をしてしまった女優の、究極な演技ではないですか!
 
9月半ばのトロント国際映画祭のインタビューに、黒いドレスと、いつもより濃いアイメークという出で立ちで現れたジェニファー。「横隔膜が破れるというのは極めて稀なんですって。完治するのにすごく長い時間がかかったのよ。ところで、映画で私は母なる大地を演じていたから、ほとんど裸に近い格好で裸足で歩き回っていた。彼女が必死で守る家は地球なの。そしてハビエル・バルデムが演じる夫は神で、ずかずかと押しかけて来るミシェル・ファイファーとウィリアム・デフォーはアダムとイヴなのよ。脚本を読んだ時ははっきり分からなかったけれど、今は物語のアレゴリー(寓話性)をしっかりと把握していて、自分でも信じられないほどこの映画の持つパワーに圧倒されっぱなし。ダレンはまさに天才で、最高のビジョンの持ち主だと思うわ!」。と語るなど、ダレンのことを”天才”と10回は強調して呼んだ。ちなみに彼は48歳、ジェ二ファーは27歳だ。

ジェニファー・ローレンス

© HFPA
2015年、16年と2年連続で「最も稼いだ女優」1位(「Forbes」誌)に輝いた、売れっ子のジェニファー。

ベネチア国際映画祭では同映画の上映後、会場がブーイングの嵐となった。そのことについても、「ダレンの映画はいつも大きな賛辞と大きな批判に別れるのが常だから、それはそれで彼の並々ない才能を証明しているわけ。とびきり美しくて、騒音もすごい映画だからショッキングかもしれないけど、私はこの映画に出て女優として大きな進歩をしたと信じています」と意に介さない。
 
最近初めて自分の家を持ったそうで、「インテリアはサボテンなどを飾ったサンタフェ風で、明るくて風通しがいい家なの。料理はオレンジで味付けをしたローストチキンが唯一本格的に作れるものかしら。普段はチキンを炒めて、それにキノアを加えるだけみたいなシンプルな食事が多いわね。映画では母親になったけれど、まだまだ自分の将来のレイアウトは決めてないの」とプライベートについても話してくれた。

 

 

成田陽子

成田陽子
なりた・ようこ◎ゴールデングローブ賞を選ぶハリウッド外国人記者協会に属して30年余の老メンバー。東京生まれ、成蹊大学政経学部卒業。80年代から映画取材を始め、現在はインタビュー、セット訪問などマイペースで励行中。

 

(2017年10月16日号掲載)
 
※このページは「ライトハウス・ロサンゼルス版 2017年10月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

TAK MATSUMOTO & DANIEL HO◎特別インタビュー

日本とハワイ、2つの島国の音楽家の融合を楽しんでほしい

超人気バンド、B’zのギタリストであり、グラミー賞受賞歴を持つ松本孝弘さんと、グラミー賞受賞6回を誇るマルチミュージシャン、ダニエル・ホーさんによる音楽ユニット、Tak Matsumoto & Daniel Ho。10/10(火)、10/14(土)にロサンゼルス公演を控えるお二人に、同ユニットの音楽性やライブへの意気込みなどを伺いました。
(2017年10月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版掲載)

松本孝弘◎大阪府出身。1988年9月にB’zでデビュー。全楽曲の作曲、ギター演奏、プロデュースを手掛け、日本での歴代CD総売上1位(2017年9月現在)という大記録を作る。ソロとしては、ラリー・カールトンとコラボした『TAKE YOUR PICK』でグラミー賞を受賞。
ダニエル・ホー◎ハワイ出身、LA在住のマルチミュージシャン。1990年にデビュー後、ウクレレ、スラックキーギター等を用いたハワイアン音楽で確固たる地位を築きながら、世界中のアーティストと活発に創作活動を行っている。グラミー賞14回ノミネート、6回受賞の実績を誇る。

―2016年にユニットを組み、今年2月にアルバム『Electric Island, Acoustic Sea』をリリースされましたが、一緒に音楽を作ることになったきっかけは?

松本孝弘さん(以下松本):2年ほど前、共通の友人の紹介で出会ったのが最初です。その時は「何か一緒にできたら」くらいでしたが、昨年、ダニエルさんがアルバムにも収録されている「Soaring on Dreams」のデモを送ってきてくれて。それを聴いて、「彼となら面白いものができる」と思い、僕から「アルバムを創って、ツアーもやりましょう」と提案しました。

―Tak Matsumoto & Daniel Ho、そしてアルバム『Electric Island, Acoustic Sea』のテーマを教えてください。

松本:ロック、ジャズ、ハワイアンなどをベースにアップテンポな曲からメロウな曲まで、さまざまなテイストの楽曲を網羅しています。「日本とハワイという島国出身の音楽家二人から、どんな音楽が生まれるのか?」が、このプロジェクトのコンセプト、テーマです。

ダニエル・ホーさん(以下ダニエル):アルバムではTakさんのエレキギターをメロディーの中心に据え、僕が演奏する琴や三線、ウクレレなどの音で味付けしました。エレクトリックな音と日本、ハワイの伝統的な楽器によるアコースティックな音がミックスした、ユニークなサウンドになっています。

一流のミュージシャン同士が組んで出される音は、雄大かつ稔蜜。コンサートが楽しみです。

―特に思い入れのある曲があれば教えてください。

松本:アルバム収録曲の中ではダニエルさんが僕の得意なメロディックなプレイをイメージして書いてくれた「Magokoro」、彼の三線と僕のロックギターがうまく融合した「Fujiyama Highway」が気に入っています。

ダニエル:僕はやはり、ユニットを組むきっかけとなった「Soaring on Dreams」に思い入れがありますね。この曲をレコーディングしながら、二人の個性をどう組み合わせていったらいいかも学べましたし。

―一緒に仕事をされて、お互いをどう評価されていますか?

松本:ダニエルさん独特の美しく優しいメロディーラインが大好きです。アコースティックな楽器のプレイヤーとしても素晴らしいし、Journeyのカバー曲、「Faithfully」でのボーカルも素敵ですよ。

ダニエル:Takさんのことは、ミューシャンとしてもパフォーマーとしても、本当にプロフェッショナルで学ぶところが多いです。また、あれだけのキャリアがありながら、謙虚で優しい人柄だというのも、魅力的だと思いますね。

ー10月10日のイベント、14日のコンサートはそれぞれ、どんな内容になりそうでしょうか?

ダニエル:10月10日のイベントでは、『Electric Island,Acoustic Sea』がどのようにできたかや、コンセプトなどについてお話しするのと、数曲演奏もする予定です。10月14日のコンサートでは、『Electric Island,Acoustic Sea』の収録曲を中心に、サプライズ曲も演奏したいと思っています!

―最後に、ライトハウス読者にメッセージをお願いします!

松本:アメリカにいると考え方や文化の違いにとまどうことがあります。その国のルールに順応することも大事ですが、日本人本来の真心や美徳を大切にしつつ、お互いアメリカ生活をエンジョイできればいいですよね。LA公演は久しぶりなので楽しみです。ぜひ見にきてください。

ダニエル:アメリカ本土で初となる僕らのコンサートは、本当に楽しみ。一緒に特別な夜を過ごしましょう!

GRAMMY Museumでのイベント

■公演日:10月10日(火)8:00pm(開場7:30pm)
■会場:GRAMMY Museum(800 W. Olympic Blvd.,Los Angeles)
■料金:$20
■チケット購入、詳細:www.grammymuseum.org/events/ detail/tak-matsumoto-daniel-ho

Aratani Theatreでのコンサート

■公演日:10月14日(土)7:00pm
■会場:Aratani Theatre(244 S. San Pedro St.,Los Angeles)
■料金:$49(オーケストラ)、$39(バルコニー)
■チケット購入、詳細:www.jaccc.org/electric-islandacoustic-sea

 

※このページは「2017年10月16日号ライトハウス・ロサンゼルス版」掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

アメリカのイエズス会系大学の特徴と魅力

全米の私立大学には、宗教をバックボーンに持つ大学が多数見受けられます。特定の宗教に特化した大学もありますが、宗教色のあまり強くない大学も数多くあります。今回は一例としてアメリカのイエズス会系大学をご紹介します。
 
イエズス会は、1534年に、イグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルなど同じ志を持つ6名によって創設されたカトリック修道会です。教育に力を入れていることで知られており、全世界で174大学を含む500校以上の教育機関を運営し、全米には28のイエズス会系大学があります。

 

アメリカのイエズス会系大学の特徴

開かれたキャンパス

多様性に富んでいるのが、イエズス会系大学の特徴です。カトリックの学生のみならず、さまざまなバックグラウンドの学生に開かれた校風のため、特定の宗教を持たない学生にとっても居心地の良いキャンパスだと言われます。進学した学生に話を聞くと、宗教教育は充実しているが、他の宗教系大学と比べて宗教色をあまり感じないと言います。

中規模の大学が多い

キリスト教系の大学の中には、学生数が1000人から2000人程度の少規模リベラルアーツカレッジが多く含まれています。一方、イエズス会系の大学は、もう少し規模の大きい大学が多く、学部学生数の平均は約5000人、さらに大学院を併設している大学も多くあります。
 
学部学生の教養教育に力を入れていますが、さらに工学部や看護学部のような、小規模リベラルアーツカレッジでは学びにくい専攻も充実しています。ロースクールやメディカルスクール等のプロフェッショナル育成プログラムを有する大学も数多くあります。
 
大規模の研究系大学が持つ豊富なプログラムと、小規模リベラルアーツカレッジが持つきめ細かいサポートの両面を併せ持つのが、アメリカのイエズス会系大学の特徴です。

EAで受験できる大学が多い

アメリカのイエズス会系大学には、ジョージタウン大学やボストンカレッジのような超難関校も含まれます。この両校は、アイビーリーグの各校や有名リベラルアーツカレッジ等とは異なり、アーリーアクション(早期締切)で受験できます。合否の結果は早く分かるけれども、進学を決めるのは他の大学の合否が出そろった後で良いのがアーリーアクションです。アドミッションの都合よりも、学生本位の進学を支援したいというイエズス会系大学の懐の深さが表れていると言えるでしょう。

上智大学との交換留学制度

アメリカのイエズス会系大学は、日本のイエズス会系大学である上智大学との交換留学制度を有するので、在学中に上智大学で学ぶことが容易です。所属するアメリカのイエズス会系大学で学費を納めていれば、上智大学の学費を払う必要はなく、単位互換もしやすいため、在学中に日本で学ぶ機会を得たい学生にもお勧めです。

課外活動の充実

中規模の大学が多いこともあり、NCAAのディビジョンIの大学が多いため学内スポーツが盛んです。ジョージタウン大学のバスケットボールや、ボストンカレッジのフットボールのように、人気チームを有する大学もあります。
 
イエズス会の教育機関は、「Men and Women for Others, with Others」というモットーを共有しており、コミュニティーでの活動も極めて盛んです。ボランティアやインターンシップをしたい学生の支援体制も充実しています。

アメリカのイエズス会系大学一覧

大学名 所在地 学部学生数
Spring Hill College Mobile, AL 1,274
Loyola Marymount University Los Angeles, CA 6,184
Santa Clara University Santa Clara, CA 5,486
University of San Francisco San Francisco, CA 6,845
Regis University Denver, CO 5,009
Fairfi eld University Fairfi eld, CT 3,982
Georgetown University Washington, DC 7,595
Loyola University Chicago Chicago, IL 10,322
Loyola University New Orleans New Orleans, LA 2,796
Boston College Chestnut Hill, MA 9,154
College of the Holy Cross Worcester, MA 2,937
Loyola University Maryland Baltimore, MD 4,084
University of Detroit Mercy Detroit, MI 2,762
Rockhurst University Kansas City, MO 2,276
Saint Louis University St. Louis, MO 8,564
Creighton University Omaha, NE 4,065
St. Peter’s University Jersey City, NJ 2,506
Canisius College Buffalo, NY 2,868
Fordham University New York, NY 8,633
Le Moyne College Syracuse, NY 2,849
John Carroll University University Heights, OH 3,125
Xavier University Cincinnati, OH 4,633
St. Joseph’s University Philadelphia, PA 5,512
University of Scranton Scranton, PA 3,998
Gonzaga University Spokane, WA 4,837
Seattle University Seattle, WA 4,511
Marquette University Milwaukee, WI 8,410
Wheeling Jesuit University Wheeling, WV 1,187

(2017年10月16日号掲載)

UCアーバイン(UCI)の入学取り消し問題

カリフォルニア大学アーバイン校(UCI)が、2017年秋入学予定の学生のうち500名の入学を取り消したことが、2017年7月28日付の「Los Angeles Times」で報じられました。入学取り消しは、必要な書類が提出されなかったなど学生側の問題だと大学は説明しましたが、通常は入学手続き後に取り消しとなるケースはまれで、本当の理由が他にあることが明白だったため大きな議論となりました。
 
受験生は複数の大学を受けるため、大学も定員より多くの学生に合格通知を送ります。各大学は、過去のデータを基に歩留まり(入学率)を予想し、合格通知の数を決めます。受験生は、合格した大学の中から進学する大学を1校決めて5月1日までにデポジットを納め、大学の籍を確保します。つまり5月1日の時点で、入学する学生数が確定します。
 
UCアーバインでは、2017年秋の入学目標6250人に対して、最終的に7100人の入学登録がありました。つまり定員より850人も多く入学させてしまうことになります。許容範囲ぎりぎりで運営をしている州立大学にとって、数百人も多い受け入れは、学生寮の部屋の確保や一般教養のカリキュラムの見直し等で深刻な問題を引き起こします。
 
このことが500名の入学取り消しと無関係ではないことは明らかです。UCアーバインのハワード・ギルマン総長の鶴の一声で入学取り消しの判断は覆され、500名の入学は最終的に認められましたが、UCアーバインのアドミッションの身勝手な行動が受験生に与えた不安は計り知れません。
 
UCアーバインが、2017年の秋に入学を希望する学生から受け付けたアプリケーションは10万4000件です。これは、UCLAとUCサンディエゴに次いで、アメリカ全体で3番目に多い数です。UCアーバインは、3万1000人に合格通知を送りました。入学目標は6250人ですから、歩留まりを20%と予想したと考えられます。しかし実際の歩留まりは23%だったわけです。
 
UCLAとUCサンディエゴの間に位置するUCアーバインは、両校のアドミッションの影響をダイレクトに受けます。 UCLAとUCサンディエゴのアプリケーション数が増えれば、最終的にUCアーバインに流れてくる学生数も必然的に増えます。歩留まりの見誤りが大問題を引き起こしました。

アメリカ・サウスカロライナ大学の対応

歩留まりの見誤りは、UCアーバインだけに限ったことではありません。アメリカのサウスカロライナ大学も、今秋に入学する学生数が、当初予定していた5300人を大幅に上回り、6000人を超える見込みとなりました。サウスカロライナ大学も、歩留まりを3%程度低く見積もってしまったということになります。
 
サウスカロライナ大学の場合は、バスケットボール効果だと言われています。2017年3月に開催された男子バスケットボールの決勝トーナメントで、サウスカロライナ大学の男子チームがファイナルフォー(準決勝)に進出し、女子チームは優勝しました。主要なスポーツの成果が学生の大学選びに影響するケースは少なくありません。
 
ただし、サウスカロライナ大学は、入学を取り消すことは一切せずに、学内できちんと対処することを宣言しました。近隣のアパートを借り上げてスタッフを配置し、学生寮として使えるようにしました。また、一年生が履修する可能性の高いクラスを増やすために、教員採用に奔走しました。

ウェイトリスト活用の可能性

このような〝オーバーエンロールメント〞を避けるために、アメリカの多くの大学はウェイトリストを活用しています。ウェイトリストとは、欠員補充のための〝補欠学生リスト〞です。大学は歩留まりを考慮しながら、あえて少なめに合格通知を送り、その他のボーダーラインの学生をウェイトリストに載せます。そして、5月1日以降、定員に達するまでウェイトリストから学生を繰り上げ合格させます。
 
例えば、アメリカのジョージ・ワシントン大学は、毎年1000人超を繰り上げ合格にしています。ワシントンDCでは、定員を上回る人数を入学させることが禁止されており、この地域の大学は合格通知を意図的に少なく送っているのです。
 
UCアーバインの一件を教訓として、ジョージ・ワシントン大学と似たような戦略をとる大学が今後増えることが考えられます。受験生にとって、自分がウェイトリストに載せられる可能性が高まりますが、合格できなかったと嘆くのでなく、まだチャンスがあると考えて、繰り上げ合格の可能性を高めるための対応を検討することが重要です。
 
(2017年9月16日号掲載)

●UCアーバイン(カリフォルニア大学アーバイン校)への進学・留学については「カリフォルニア大学アーバイン校(UCI)留学ガイド」でも詳しく紹介しています。合わせてご覧ください。

法人にとっての資本とは

資本は、法人にどれだけの価値があるかの指標の一つです。たとえ多くの資産を所持していても、それと同等の負債があれば、資本はほとんどないのです。資本を理解すれば、その法人の本来の価値が分かるようになります。
 
資本は「資産-負債」という計算式で表され、アメリカではOwner’s Equity、Stockholders’ Equity、Shareholders’ Equity、Corporate Capitalなどと呼ばれます。資本は、資本金(Capital Stock)、株式払込剰余金(Additional Paid in Capital)、利益剰余金(Retained Earnings)の3つで構成されます。

資本金

株式の発行で調達した資金が資本金です。株式には普通株(Common Stock)と優先株(Preferred Stock)があります。一般的に株式とは普通株を指し、普通株を所有することはその会社の一部分を所有していることと同じで、1株に対し1票の議決権が付随します。つまり、株主総会において会社経営陣の選出や承認を行う権利を有するので、運営にも関わることが可能です。新しく株式が発行される前後に株を購入できる「先買権(Preemptive Right)」も与えられます。
 
それに対し優先株は、利益の配当(Dividend)や残余財産の分配を普通株所有者より優先的に受け取る権利があります。広い範囲から出資者を募るため、決められたレートで普通株と交換できるなど、さまざまな特徴を持った数種類の優先株を発行している会社もあります。しかし、普通株と違い会社の運営に関わる議決権はありません。
 
また、発行した株式をその会社が買い戻すことがあります。目的は配当やストックオプション用、株価の下落や買収の事前予防などです。株式を買い戻すとは、つまり投資された資本を返却することなので、現金と資本が両方減ることになり、減資と同じ意味となります。この株は資産としても資本としても扱われず、未発行分の株式と同じと見なされます。

株式払込剰余金

株式を額面以上の金額で売却すると、額面との差額が株式払込剰余金となります。例えば、1株10ドルの株式を1万株発行し、投資家が1株20ドルで購入したとします。すると会社は、10万ドル(10ドル×1万株)を普通株の売上、10万ドル((20ドル-10ドル)×1万株)を株式払込余剰金として扱います。

利益剰余金

利益剰余金とは会社設立後の損益を合計したものです。株主への配当金などはここから支払われます。
 
通常業務で発生した利益は、利益剰余金として翌年に持ち越す場合と、配当として株主へ分配する場合の2通りが考えられます。配当は次の4ついずれかの形態で株主に支払われます。
現金:その名の通り現金による配当。
現物(Property):現金以外のもの(土地、建物、商品など)による配当。
株式:配当金の代わりに会社の持っている株式を提供。
清算(Liquidating):利益剰余金のみならず、会社の資本全てを現金化し、株主の持ち分に合わせて分配すること。法人が解散する際などに行われます。
 
利益余剰金は業務拡大の資金源なので、会社は翌年への持ち越しを多くするため、配当を少なく抑えたいという心理が働きます。しかし、市場は前年維持、またはそれ以上の配当を求め、もし配当の未払いや減少があれば、その会社は業績不振だと捉えるでしょう。会社にとって、配当の妥当な金額と形態の判断は非常に難しいところです。
 
(2017年10月16日号掲載)

石上洋◎米国公認会計士
カリフォルニア州立大学ロングビーチ校を卒業後、大手監査法人、現地会計事務所パートナーを経て石上・石上越智会計事務所を設立。税務をメインに事業を展開。
アメリカでの会社設立・確定申告・タックスリターンは「石上、石上&越智公認会計士事務所」へ
米国公認会計士・石上洋さんのインタビュー

※本コラムは、税に関する一般的な知識を解説しています。個別のケースについては、専門家に相談することをおすすめします。ライトハウス編集部は、本コラムによるいかなる損害に対しても責任を負いません。

森本正治さん/「料理の鉄人」3代目和の鉄人


寿司ブームを自分の目で見たくて渡米
日米で注目されるセレブリティーシェフに

【森本正治さんのプロフィール】

もりもと・まさはる◎1955年広島県出身。崇徳高校野球部の主将。30歳で渡米。ニューヨークの「ソニークラブ」の総料理長を経て、1994年「NOBU」オープンとともに総料理長に就任。1998年よりフジテレビ「料理の鉄人」で3代目和の鉄人を襲名。2001年11月フィラデルフィアに「MORIMOTO」オープン。著書に『No.1(いちばん)』。趣味はゴルフ。

 

肩を壊して野球を断念。もう1つの夢、寿司屋に

小さい頃からなりたかったものが2つあったんです。野球少年だったので、1つは広島カープに入団すること。もう1つは寿司屋をやること。小学校の卒業文集に書いているんですよ。「寿司まさ」をやりたいって。名前まで決めてたんですね。広島の名門崇徳高校で主将を務めたのですが肩を壊して野球を断念し、もう1つの夢だった寿司職人の道に入りました。
 
子供の頃、父が酒乱でうちには温かい食卓というものがなかったんですが、給料日の次の日だけは決まって家族で寿司屋に行ったんです。うちはなぜか最初に喫茶店に行って、妹と私はパフェを、両親はコーヒーを飲んで、それから寿司屋に行くんですよ。その時の家族の思い出みたいなのがあって、寿司屋をやりたいと思ったんですね。でも寿司屋で働いているうちに隣りの芝生が青く見えてきて、1980年くらいに喫茶店を始めました。
 
著書『No.1(いちばん)』は自分のことを回想して書いたんですが、寿司屋も喫茶店も子供の頃に味わった家族の団欒に帰していたんだなと、書くことによって改めて気づきました。それと野球では1番になれなかった。だから寿司屋で1番になろうと思ったんだと。喫茶店を始めた後も、いろいろなことをしましたね。朝7時から夜8時まで喫茶店に出て、9時から朝2時まで寿司屋で修業。それ以外にも同時に火災保険の代理店やったり新聞配達やったり。本当になんでも一生懸命しました。
 
30になった時にやろうと思ったことが4つほどありました。ベンツを買うこと、家を買うこと、居酒屋をやること、アメリカを1年くらいかけて1周すること。それで、まずはアメリカに行こうと。本当は1984年のロサンゼルスオリンピックの時に来たかったんです。1970年代後半から1980年代前半はアメリカに寿司ブームが起きていたので、自分の目でどんなものか見てみたかった。
 
ところが店の売却に手間取って、結局1985年に渡米し、ニューヨークが最初のストップでした。半年くらい仕事するつもりはなかったんですが、日本にいる時に、こちらの日系の雑誌や新聞を取り寄せて調べたら、寿司職人は引く手あまただったので、渡米しても大丈夫だとは思っていました。それでいろいろなレストランで仕事しているうちに、たまたま紹介してくれる人がいて「NOBU」のオープニングから参加しました。

 

フィラデルフィアは独立宣言、そしてNYで故郷に錦を飾る

「料理の鉄人」に出演している時は大変でしたね。鉄人というのは世界に4人しかいないわけです。それだけ注目を浴びて勝った負けたとやるわけですから、ものすごいプレッシャーで食べられない、眠れないという状態が続き、やっている時は本当に苦しかったです。ストレスですごく太ったんですよ。撮影のために月に1度は東京に行かなければいけなかったし、1日に2本撮ったことも5回くらいありました。どの対決も一生懸命だったので、特に印象に残ったというのはありませんが、人と違うことをやりたかった。
 
「納豆対決」の時の「納豆のコーラ煮」は、甘納豆があるんだから、素材は違うけれども甘い納豆があってもいいんじゃないかと思って。納豆でデザートを作りたかったんです。
 
最初に鉄人の依頼があった時、本当は断ろうと思ったんです。でも当時、日本の料理界で「アメリカの和食」は軽く見られているところがあったんですね。駐在員はアメリカに来ればキャリアになりますが、アメリカの和食料理人は引け目を感じた時代だった。それでアメリカでがんばっている若い人のためにも、と思って引き受けました。番組を通じて創作和食の地位が確立され、今では逆輸入で日本でも評判を得ているのを見ると「やったな」って思いますね。
 
2001年11月に「MORIMOTO」をフィラデルフィアでオープンした時、皆になぜフィラデルフィアなのかと聞かれたんですけど、これは言ってみれば独立宣言なんです。いつまでも「NOBU」の森本、「NOBU」から出た鉄人だと言われたくなかった。「料理の鉄人」に出ていた頃は角刈りだったのをポニーテールにしたのもそのためです。今かけている眼鏡も伊達眼鏡なんですよ。2003年にはニューヨークにもオープンする予定です。フィラデルフィアで独立して次は何だと考えた時、ニューヨークで故郷に錦を飾るといいますか、旗揚げですね。
 
「料理の鉄人」は大変だったけど、その経験を活かしていきたいですね。出演してよかったのかどうか、結果はこれから出てくると思います。今、文化的なものが西洋から東洋に向いている時代になりました。料理も同様で、先日私が音頭を取り、日本人シェフ7人が集まって料理を披露する機会を設けたんですが、日本人のシェフの料理を食べるために200ドルも出して人が集まるなんて、ひと昔前では考えられなかった。これは私1人ではなくて、日本人シェフみんなががんばってきたから実現したのですが、その一端は担うことができたんじゃないかなと自負しています。
 
私の場合はラッキーだった。でもすべての人に運が向くかというとそうじゃない。やはりライトスポットにいなければいけない。料理でも何でも、自分のやっていることを好きでい続ける、そしてやり続けることが大切なんじゃないでしょうか。
 
(2003年1月1日号掲載)

松居慶子さん/ミュージシャン


結婚記念で制作したアルバムで全米デビュー
日本人アーティスト初のビルボード1位に

【松居慶子さんのプロフィール】

まつい・けいこ◎東京生まれ。5歳でクラシックピアノを始める。1986年プロデューサーの松居和氏との結婚を機に渡米。1987年自主制作アルバム『ドロップス』が音楽誌、FM局で絶賛され、その後14枚のアルバムを発売。2001年に発売された『ディープブルー』はビルボードのコンテンポラリージャズチャートで日本人として初の1位を記録する。全米骨髄ドナープログラムへの協力などチャリティーコンサートへの積極的な取り組みでも知られる。

「同じ日本人女性として励みになる」ファンの声に支えられた

ハンティントンビーチの自宅に停泊しているヨットに乗って、カタリナまで遊びに行くのが楽しみとか。夫の松居和氏と。

渡米のきっかけは結婚なんです。音楽プロデューサーの主人(松居和氏)と結婚して、彼の仕事をアメリカで手伝っていくんだろうなと思っていました。日本でもグループで活動をしていましたが、主人に「音楽を取るか、結婚を取るか」と迫られまして(笑)。私としては覚悟を決めて結婚を選んだつもりだったんです。
 
その時に新婚旅行に一緒にインドに行こうか、それともロサンゼルスでアルバムを結婚記念に作ってみようかという選択がありました。せっかくだからアルバムを制作してみたいと思って、自主制作のアルバムを作ったのが最初。すぐにレコード会社が決まって1987年に1枚目のアルバムが出ました。自分としては「これからアメリカでキャリアを積む」だとか、そんなことは全然考えていなかったんです。書きためていた曲をアメリカで出せていい記念になった、くらいの気持ちでした。主人のコネクションで『ジーザスクライスト・スーパースター』に主演したカール・アンダーソンもボーカルで協力してくれました。このアルバムをミュージカルにしようと皆で盛り上がったり。とても充実したレコーディングでしたね。
 
そして1987年7月4日、タワーレコードの独立記念日の推薦盤として私のアルバムが紹介されたんです。記念撮影に行ったことを思い出します。それを境にラジオでよく曲がかかるようになりました。初めてのコンサートはサンタモニカのアットマイプレイスというライブハウスでした。
 
1988年に上の娘が生まれましたが、彼女が日本の小学校に上がるまでは、基本的にずっとこちらに住んでいました。ロサンゼルスに住んで週末がコンサートというペースでしたね。面白いのはラジオで聴いているうちは、私が女性か男性かもわからない。ケイコなんてこちらの人はキーコなんて発音しますし、どこの国の人かもわからないみたいなんです。それで、コンサートで私が登場して初めて女性だとわかるんですね。
 
ファンのレスポンスですか? 最初の頃はEメールもなかったから。でも、私の曲を聴くと元気が出ると言ってくださる方、それに同じ日本女性として励みになると言ってくださる方もいましたね。明日へのエネルギーが湧いてくるとも。そうそう、私自身が落ち込んでいた時に友達に冗談で「ケイコの音楽を聴けばいいんじゃないの」と言われたり。また、湾岸戦争の時には、出征した人が船の上の売店で私のアルバムを買って、辛い時期を私の曲を聴きながら乗り越えたということもありました。とてもうれしかったですね。
 
曲のインスピレーションは日常生活の中からふっと湧いてきたり、旅先で出会った大自然にインスパイアされて生まれたりします。「フォーエバー、フォーエバー」という曲は下の娘が2歳の時に「ママのことはいつまでもいつまでも大好き」と言ってくれた、そのことを残したいと思って作ったんです。その娘が生まれた時はコンサートの本数も抑えていました。7枚目の『サファイヤ』の時ですね。でも、その年、驚くほどアルバムの売り上げが伸びたんです。不思議だな、音楽の方が独り歩きを始めたんだなと思いました。
 
娘たちは普段は私の母が日本で一緒に住んでくれていて、私たち夫婦は日本とアメリカを行ったりきたりしています。年間に14往復くらいしていますね。もちろん娘たちといつも一緒にいたいと思います。でも、こんな言い方をすると偉そうだけれど、こうして聴いてくれる人がたくさんいるということは、音楽を続けていくのがお役目といった感じがするんです。ある時ツアーに出かける私に娘が「どうして行くの?」と言ったんですね。「ママのピアノを待ってくれる人がいるんだよ」と答えると、「そうか!!」と言っていました。コンサートのビデオを見て、彼女は「おうちにいる本当のママと、ママは2人いるんだね」とも言っていました。サイン会の時も横にいてうれしそうに手伝ってくれたりするんですよ。

娘の教育のためなら日本へ。無欲?そうかもしれない

去年はアルバムがビルボードの1位になりました。インストゥルメンタルだから国境を越えやすいという理由もあると思いますが、他の国からもお声を掛けていただいて、ここ数年はヨーロッパやアジアのツアーにも出掛けています。南アフリカでは1日中、30分毎にインタビューが入っていたり、コンサートでは曲の途中でもお客さんが盛り上がって歓声をあげるなど、とても印象的でした。モロッコ、ドミニカ、イスタンブール、シンガポールでも演奏しました。来年は韓国、ロシア、ヨーロッパにも行けそうです。
 
年間のコンサートがアメリカで60本、日本でも最近は10カ所でやっています。だから1番ほしいものは時間ですね。でも逆にコンサートをやっている時間にエネルギーをキープできるんです。お客さんに喜んでもらえたことが私の喜びとなり、それがまた新しいエネルギーにつながっていくと実感しています。コンサートは1つ1つがスペシャルな出来事で、この場所、この時間でしか会えない人と空間を共有するもの。だからこそ大事にしていきたいですね。
 
小泉首相が私の音楽を聴いてくださっていると声を掛けていただいた時は本当にびっくりしました。金屏風の前で握手させていただいた時に「いつもアルバム聴いているよ。『ディープブルー』!ライブもいいよね」と。私が首相とブッシュ大統領とご一緒した時のことについてはファンの方に「ケイコの音楽が世界にハーモニーをもたらす前触れではないか」と言われ、うれしく思いました。
 
ここまで来るのに壁はなかったか? 主人を始め、周囲の人にプロテクトされてここまで来られたのでとてもラッキーでした。恵まれていると思います。ビジネスの面では完全に主人に任せていますので。主人の中ではいろいろ大変だったもしれませんが。
 
無欲? そうですね。娘を日本の小学校に上げる時も、そのためだったら完全に日本に引き揚げてもいいと思ってました。
娘が音楽の道に進みたいと言ったら?もちろん私たち夫婦でできることは全面的に協力します。でも、これは私も主人もなんですけど、キャリアを積むより何よりまず人間的にいい人であってほしいと望んでいるんです。母もいろいろな方に「娘さんが成功されてさぞうれしいでしょう」と言われるようですが、母としてはどんなに私の仕事がうまくいくことよりも、娘に幸せでいてもらうことが1番なんですよね。
 
2003年は、またロサンゼルスと東京を往復する1年になります。日本とアメリカ以外にも、さらにいろんな国でのコンサートを重ねていきたいというのが新年の抱負です。そのためにもいつも元気でいなくちゃいけませんね。
 
(2003年1月1日号掲載)

横山智佐子さん/フィルムエディター


オスカー受賞のハリウッド映画に携わるイタリア人師匠が外国人の私にチャンスをくれた

【横山智佐子さんのプロフィール】

よこやま・ちさこ◎1963年生まれ。三重県出身。1987年渡米。UCサンタバーバラ校映画科卒業。『リトルブッダ』と『JFK』でアカデミー賞を受賞した実力派エディター、ピエトロ・スカリア氏のアシスタントとなる。代表作に『G.I. ジェーン』『グッドウィルハンティング』『グラディエーター』『ハンニバル』『ブラックホークダウン 』など。趣味は子供と遊ぶこと。

 

ロケ先のネパールに自費で飛び「無給でも仕事したい」と直訴

英語が好きで、短大の時に1カ月ロサンゼルスでホームステイしたんです。その時に、英語にも自信がつき、ロサンゼルスの大学には大好きな映画を学べる学科がたくさんあるのを知ったので、日本で3年間働いてお金を貯め、1987年に留学しました。
 
最初の2年間はサンタモニカカレッジに通ったんですが、その時から雑誌などで見つけたPA(プロダクションアシスタント)のボランティアをしていました。4年制に編入するつもりだったので映画のことはまだ全然勉強してなかったのですが、カタコトの英語で無謀にもあちこちに電話して、今考えると「よくやったな」って思います。それがその後の下地になりました。PAというのは要するに使い走りなんですが、英語の実力もついたし、多くの人と知り合えましたから。人と知り合うと、次に仕事がもらえるんです。グリップ(カメラの動きや影を作る)の仕事をしている主人と知り合ったのもこの時です。
 
UCサンタバーバラを出て1年ほど経った時、『地獄の黙示録』や『レッズ』でアカデミー賞を取った撮影監督、ビットリオ・ストラロ氏が、『ラストエンペラー』のベルナルド・ベルトリッチ監督の『リトル・ブッダ』の撮影でネパールでロケをしていることを知り、ストラロ氏の大ファンだった主人が自費で撮影に参加したんです。
 
すると『JFK』でアカデミー賞を受賞し、今ハリウッドで1番実力があると言われているピエトロ・スカリヤ氏が編集に雇われたが、アシスタントが1人しかいないと主人から連絡があり、私も自費で急きょネパールに飛びました。着くやいなや編集室へ直行し、「給料はいらないから仕事させてください」と直訴したんです。断られてもともと、と思っていたのですが、すんなりとOKが出て、ネパールで3カ月、シアトルで1カ月半一緒に仕事することができました。
 
その時に「よく働く」と気に入ってもらって、以来11年間一緒に仕事させてもらっています。実は35ミリの編集をするのはそれが初めてだったのですが、一緒に仕事している時はどんなにスローな時でも何もしていないところは見せなかったし、「帰りなさい」と言われるまでは決して帰りませんでした。
 
最初はインターンから始まり、『G.I.ジェーン』でセカンドアシスタント、『グッドウィルハンティング』からファーストアシスタントをしています。スカリヤ氏はイタリア人で、自分も外国人でハリウッドでがんばってきた人だから、同じ外国人である私にもチャンスを与えてくれたんだと思います。

 

幸運、不運の別はない、トライすれば道は開ける

今までスカリヤ氏と一緒に手掛けた作品の中で、クリエイティブな意味で勉強になったのは『グッドウィルハンティング』ですね。バンサント監督がオープンマインドの人で、編集は監督のポーランドの自宅で行ったのですが、毎週のように知り合いを集めてテスト試写をやり、ディスカッションを重ねてどんどん良くなっていったんです。
 
この映画を製作した時は、脚本を書き主演したマット・デイモンもベン・アフレックもまだ無名で、名の通った俳優といえばロビン・ウィリアムスくらい。まさかアカデミー賞まで取るとは予想していませんでした。
 
最初に観た段階ですでに「これはすごい」と思ったのは、『ブラックホークダウン』。撮影はモロッコの小さな町で行われたんですが、カメラが常時4台から11台くらい回っていました。また通常撮影中は台詞が聞こえなくなるので銃の音は出さないのですが、この時は撮影中から銃も音を出していましたし、使ったフィルムの量も80万フィートと今までで1番多かった。『グラディエーター』で60万フィートでしたから。150時間分を2時間半にまとめたんです。エディターという仕事は、切るのは基本的なこと。全体の構成をどうまとめるかが重要なのですが、脂が乗り切ったスカリヤ氏のまさしく実力作品で、この映画で彼は2度目のアカデミー賞を受賞しました。
 
今まではスカリヤ氏のアシスタントとして編集の仕事に関わっていましたが、これからは少しずつエディターとして一般の人にいい映画だと認めてもらえるような作品を手掛けていきたいですね。将来の夢は、スティーブン・ソダーバーグ監督(『エリン・ブロコヴィッチ』など)やコーエン・ブラザーズ(『赤ちゃん泥棒』など)と一緒に仕事をすることです。ネバーギブアップの精神で長い目で捉えてコツコツ努力していると、いつかは必ず道が開けてくると思っています。それはラッキーとかアンラッキーということではなく、トライしていると必ず運が向いてくるということだと思います。
 
(2003年1月1日号掲載)

吉田準輝さん/ヨシダグループ会長


「こんちきしょー。今に見とれ」っていう哲学は大事。
僕の金儲けは、ぜんぶ恩返しなんや

全米で販売され、アメリカ人に愛用されている「ヨシダソース」。そのコマーシャルにはヨシダフーズ・インターナショナルの創立者・吉田準輝会長が自ら出演し、地元ポートランドで大人気を博しているという。その明るく愛嬌あふれるキャラクターの陰には、不法移民として入国、差別を受けながらも自分の信念を貫き通した、強靭な底力があった。

【吉田準輝さんのプロフィール】

よしだ・じゅんき◎1949年京都生まれ。1968年渡米。不法移民として苦労を重ねながら、ワシントン州警察逮捕術師範を経て、1982年「ヨシダフーズ・インターナショナル」を設立。しょう油ベースのソースの製造販売を開始する。同社を筆頭にヨシダグループは19社の会社で構成され、その最高経営責任者兼会長としてアメリカのビジネス界で活躍。2001年、アメリカ合衆国政府より優秀中小企業家賞を受賞。2003年9月、ヨシダグループは、米国の中小企業局(Small Business Administration)が選ぶ全米24社のうちの一社として、FedExやインテル、アメリカオンラインなどと共に「殿堂入り」を果たした。

 

東京五輪で知った”強いアメリカ”に憧れて

妻のリンダさんとは学生時代にひと目ぼれで結婚。共にボランティア活動をしている

小学校の時から番長してました。グレてたからなぁ。家がレストランやってましたしね。レストランというのは大変で寂しかったんやろね。で、身体が大きい方やったし、喧嘩に明け暮れて。3歳の時に片目を失ってるんですよ。で、みんなに「片目」とか言われて、カーッとなって手をかけてたんだよね。
 
小学生の時に、中学生に野球のバットでメチャメチャにやられたんですけど、そんな時にお袋が怒った、僕のこと。泣いて帰って来たから。「もっとやり返して来い!」って。そういう性格だったからお袋は。いつも「こんちきしょー。見とれ」って。自分でね、何千回、何万回ね。アメリカでもその言葉を自分に言い聞かせてきた。
 
中学の時に、東京オリンピックがあったんやけど、勝つ人間ってアメリカ人ばっかしでね。テレビで流れてくる曲も、アメリカ国歌ばっかりやったから。それを観た時に子供心にジーンときたんだよね。その時から、自分はアメリカに「Belong」っていう気持ちが確かにあった。で、その時、立命館大学の空手、柔道っていうのはものすごく有名やったから、空手部に入りたくて受けたんやけど、すべって。因果かな、すべったのも英語が原因。

 

血が出るほど舌を噛んだ。貧乏では恩返しができない

最初はシアトルで空手を教えてたんやけど、縁があって後にオレゴンに来ることに。1974年にはオレゴン州の警察学校からの招請で逮捕術を教えることになってね。来た当時なんて、成功するとか金儲けするとか考えてへんかったね。憧れやったんです、単純に。でも、うちの長女・クリスティーナが病気で死にかけて、お医者さんが娘を助けてくれてね。その時、生まれて初めて神様にお祈りをして、「自分の命を交換してくれ」と自分の命を捨てることが理解できた。
 
日頃は飲みに行ったり、ポーカーしたりね。親としての役割はしてなかったですよ。貧乏人だったから保険もなかったしね。病院出る時に看護婦さんがくれた請求書がたったの250ドル。その時に、もう血が出るほど舌を噛みしめたんですよ。「こんちきしょー、絶対この恩返しをする」って。それがオレの力です。貧乏では恩返しはできひんしね。だから僕の金儲けっていうのは、はっきりしてる。恩返しなんや。
 
今やってるのは、病院の理事に、子供ガン協会のトラスティーでしょ、ロナルド・マクドナルドハウス(貧しい親が子供を病院に連れてくるための宿泊施設を作る組織)の理事。それから”Kids on the Block”の理事を10年間やってね、これ、ぜんぶスポンサーです。
 
ウォルマートやコダックからお金を集めるんです。そのお金でボランティアの先生方が小学校に行って、マペットを使って、子供に教えるんですよ。肌の違いとかね、文化の違いとかね。「そんなこと言うたら駄目だよ」とかね。
 
これもオレの一種のリベンジですよ。「くそー、今に見てろよ。37年前シアトルに来た時、どんなに人種差別されたか」。日本の差別よりも、こっちの方がきつかったですよ。

 

アメリカまで来て日本人にだけ売りたくない

商売らしい商売をしようと手がけた最初の会社が、オレゴン・トレーディング・ポスト。1980年、日本に干し肉を送ろうとしてね。でも、干し肉は日本には入れられへんかったね。日本は肉にうるさかったから。それで発明したのがターキージャーキー。ブラウンターキーを燻したやつに、うちのソースをまぜてジャーキーみたいにした。日本にコネもなかったし、商売も下手やったから成功しいひんかったけど、今はもう「ターキージャーキー」って、アメリカでは誰でも食べてますよ。
 
そこからソースになって、いろんな経験を積みながら、成長していったんかな。がむしゃらに1日1日。その日、その日の勝負ですよ。だから、うちの会社なんて、5年計画、3年計画なんてないよ。その日、自分の持っているすべてを使って一生懸命集中したらね、明日は絶対にいいんですよ。残業してでもその日の仕事はその日に終わらせる。次の日に持っていったらダメ。
 
何で「よしだ」っていう日本の名前で、日本の味がバーベキューソースの横に並んで売られてるのか、わかりますか? 普通、オリエンタルセクションに並ぶから、食品界の七不思議なんですよ。オレゴンではね、当時(大手グロサリーストアの)セーフウェイが1番力を持ってた。で、バイヤーさんがね、何度か交渉してくれて、やっとの思いでセーフウェイに置くことができるようになった。でも、気が付いたらオリエンタルセクションに入れられてたんですよ。
 
そこで、僕、何したと思う? 天下のセーフウェイへの出荷を止めたんですよ。もともとオリエンタルセクションに入れないという約束やったから、僕は、ものすごく怒って、「日本人だけに売るくらいなら、今までアメリカで何回も破産しかけてまでやってきた甲斐がない」って徹底的に戦った。そしたらね、バーベキューセクションに戻してくれたんです。そこまで信念を通さなきゃダメ。
 
アメリカに来たんだから、やっぱりアメリカ人の世界に入らないと。だから学校行っても、日本人だけで集まってるんじゃね。うちのソースだってアメリカ人対象に売りたかったんや。日本人だけに売るつもりなかった。
 
今、レストランのプロジェクトが進んでまして、2006年の4月にオープンするんです。普通のステーキハウス。それから、やっぱりいろんな人にビジネスのことでアドバイスしてあげたいね。いろんな会社の役員をしてるけれども、お金は取りませんよ。お金もらってもしゃあないもん。自分の経験したことを分け与えるのに、なんでお金取るんだよ。たまたま自分がうまくいっただけ。

 

神様が絶対助けてくれる、守ってくれると確信

みんな成功したいんやと思うよ。成功したくないって人、いないですよ。ところが99.99%うまくいかない。で、知らないうちに自分の夢が何やったかなって忘れてしまってるんだよね。
 
「もうちょっとで、できたのに」とか「あいつのせいで失敗した」とかね、「もうちょっとお金があったら」って、そんな言い訳言ってもしょうがない。少しの失敗も、現実的には100%の失敗なんやから。
 
オレなんか4回破産しかけてるからね。でも、夜も寝られへんなんてないですよ。「明日、どうにかなる」、神様が絶対助けてくれるっていう自信があった。オレの家は3代クリスチャンやからね。自分は守られてるって信じてる。それがまた目に見えない原動力になってるんやろね。
 
「こんちきしょー。今に見とれ」っていう哲学は大事やね。やっぱりムカッとするということは大事やと思うなあ。頭に来るというのは、いいことなんですよ。それを良い方に持って行くのか、悪い方に持って行って、人を恨んだり、落ち込んだりするのか。僕も落ち込むことはあるけど、1晩寝たら考えへんね、次の日は。
 
人生というのは将棋のようなもんですよ。自分が1手動いたら、周りは二十何手の動きが出てくるわけですよ。1手打つっちゅうのはそれだけのことを考えなね。プロは十何手先まで考えてるらしいね。でも、そこまでいかんでもいいと思うな。最低でも2手3手先まで考えたらいいんじゃない。夢というのも大事だけど、おっきな夢を描き過ぎたら、小さな夢も達成できなくなるし、そういうもんなんやと思う。
 
(2006年1月1日号掲載)

高橋典子さん/シルク・ド・ソレイユ『KĀ』・パフォーマー


どんなことが起きようとそれを受け入れ、学んで自分を磨いていきたい

世界選手権に通算回出場し、7個の金メダルを獲得、世界に名を知られたバトントワラーの高橋典子さん。2003年、1通の勧誘Eメールを頼りにシルク・ド・ソレイユに入団。高度な芸術性とパフォーマンス技術を誇る同劇団最新のショー『KĀ』で、ソロパートを務めるが、「演技については未だに正解がわかりません」と笑う。その舞台裏には、プレッシャーと格闘し、日々たゆまぬ努力を続ける高橋さんの姿があった。

【高橋典子さんのプロフィール】

たかはし・のりこ◎1970年、横浜に生まれる。6歳の時にバトンを始め、小学校3年で全日本バトントワリング選手権に初出場、5位入賞。以後、2004年度の大会まで25回連続出場。個人種目では17回のグランドチャンピオンに輝く。海外でも、6年生で世界バトントワリング選手権大会日本代表選手に選ばれ、1991年に個人シニア部門で金メダルを獲得。世界選手権には通算15回出場し、7個の金メダル。2004年シルク・ド・ソレイユに入団。『KĀ』ではソロパートでバトンの演技を見せる。

 

内容も役も知らされずメール1通でショーに参加

ショーは緊張の連続。終わった後は1番ホッとしますね(笑)

バトンを始めたのは6歳の時。そのうちに世界大会にも出るようになって、1991年に日本人として初めて、世界大会で金メダルをいただいたんです。それから何回か優勝することがあって、もっと芸術的な部分を含めて、何かをしていきたいなと思っていました。その時に、ちょうどシルク・ド・ソレイユから、バトントワラーが欲しいという話がありまして。各国から選ばれた人が、演技のビデオと履歴書を送ったんです。でも、結局、その話はなくなってしまいました。
 
ショーのことも半ば忘れかけていたある時、1通のEメールが届きました。差出人が知らない人だったので、「怪しい」と思って、そのまま開けずに放っておいたんですね。夜中にアドレスを見たら、「~~@cirquedusoleil.com」だったんです。で、「新しいショーがあるのですが、興味があったら出ませんか?」みたいな感じで、2行くらい。詳しいことはまったく書いてありません。でも、何か新しいことをしたかったので、ぜひぜひというメールを書いて。それが『KĀ』との出会いです。後から知ったんですが、本当は最初のクリエーションの時点から、「この人を使おう」と決めてたみたい。
 
それから1年以上経った2004年2月に、やっとトレーニングセンターのあるモントリオールに行くことに。それまでは、具体的にどういうことをやるか全然教えてくれないんですよ。自分がソロということも、ショー自体がどういうものかも。「秘密だから」っていうので、両親にも言えなかったんです。それに、この話自体がウソだったら困ると思って(笑)。
 
他のメンバーは2003年の10月か11月にトレーニングに入っていましたので、私を見て「あっ!この人なのー!?」みたいな話をしてるんです。振り付けの人もいて、「あなたはソロでバトンをやる人だよね?」って言われて、「えっ?そうなんですか?」って。キャラクターであるということは、契約書の中に入っていたんですけれども、バトンをするとはなかったですし、ストーリーのあるショーの中での”役”があるとは、知らなかったんです。
 
モントリオールでは、自分のパートの振り付けと、高い所から落ちる練習をしました。安全ネットがいつも敷いてあるんですけれども、そこにきれいに落ちないと怪我をするので。だから10メートル上から落ちる練習とかをよくしました。振り付けとか、自分以外のメンバーのシーンがあるので、学ぶことはたくさんあって。
 
『KĀ』は、舞台装置がすごいので、なかなかでき上がらなかった。やっと舞台ができて、最初に通し稽古をしたら、8時間以上かかったんです。
 
例えば、空中に浮いているような舞台装置があるのですが、それを使うあるシーンの練習。私の出番は初めのほんの一瞬、舞台側面の中だったんですが、舞台上のクリエーションがなかなか終わらず、ずっと中で待たされて。トイレに行きたい共演の友人もいて、「私たち、何時間待ってると思う?」って。結局、舞台が下に降りて、外に出たら、2時間半も狭い中にいたことがわかりました。その夜も同じ練習があって、また入って、その後1時間半。そういう感じ。

 

不測の事態に対応するため緊張の連続の舞台

©Tomas Muscionico
Costumes by Marie-Chantale Vaillancourt.
Cirque du Soleil Inc.

大会に出て演技するのと、ショーでするのとでは基本的には同じ。だけど、ショーはストーリーを語らなければならない。だから、表現する部分が多いですね。台詞がないので、感情を表現するという演技の部分が大きいかも。演技とかは、これまでしてこなかったので、「これでいいんだろうか?」って、常に気を遣うというか、どういう風にするのが正解かっていうのが、未だにわからない。自分でショーのビデオを見て、「何してるかわからないじゃん」って思ったら、変えていったり。自分ができることを精一杯、毎日やるしかない。日々学びながらやるしかないんですね。
 
ショーをやっている中で1番難しいことは、ライブなので何が起きるかわからないこと。そこにいかに普通に対応していくかってことですかね。常に感覚を研ぎ澄ましておかないと、不測の事態に反応できない。だからそういう意味では楽しいし、緊迫感がありますよね。自分のキャラクターをもちろん持ちつつ、何が起きても対応できるように心構えをしている状態です。
 
今はショーに出る毎日、毎日が本番という生活なので、「毎日、なんで自分はこんなに緊張して生活しなきゃいけないんだろう」って思うことはよくあります。自分が舞台に立っていて、何かが起きた時っていうのは、本当にドキドキしますね。だから、1番ホッとするのは、ショーが終わった後なんです(笑)。いつまでもこのホッとしたのが続くといいなって。

 

日々ベストを尽くせば新しいものが見えてくる

今までトラブルは、たくさんありました。バトンを落としてしまったこともあるんですよ。それに対して振り付けの方が「それは失敗ではない。それに対してどういうリアクションができるかが大事」って言ってくれた。他のアーティストは毎日私を観てるじゃないですか。だから、何かあった時の方が、彼らにしてみれば、お客さんは別として楽しい訳です。「ノリコは今日、どういう風にカバーするのか」っていうのが。うまく行った時には、みんなもすごく喜んでくれて。最近はうまくリアクションできた時は、失敗してもあんまり落ち込まない。「あっ、こういう風にできるんだ」って学べるから。でも、「どうしたらいいのかな、これ」って時もあるんですよ。精一杯のことはするんですけど、うまく行かなかった時には、やはりすごく落ち込みます。でも、逆にそういうことも、大変ですが面白いことでもあるかな。
 
チャレンジとか、プレッシャーを楽しめるタイプではないですから、できるだけ楽しもうと努力しています。プレッシャーとかをマイナスにとらえたら、楽しくないですし、発展もないですから。それはそれと受け止めて、それに対して自分がどうするか、考えていくのが楽しみ。ポジティブに建設的にやっていこうっていうのを、日々、心がけるっていうか、自然にそうなるっていうか。ただでさえ毎日緊張しているので、そうしないとやっていけないっていうのもあります。
 
現在は『KĀ』のショーで、同じことを毎日、一生懸命に繰り返していますが、日々自分ができる限りのことをしていれば、きっと何か新しいものが見えてくるかなと思っています。どんなことが起きようとも、それがいいことでも、悪いことでも、自分が育っていく過程のひとつだと思うので、それを受け入れ、学んで、自分を磨いていきたいと思いますね。
 
(2006年1月1日号掲載)

近澤泰良さん/カスタム・ハーレービルダー


みんなが寝てる時にも働くべきじゃないの?
現状に満足しないで、ジャンジャン行かなあかんね。

バイク好きが高じて渡米。自作のバイクに乗って全米各地のショーを回るうち、その独特のデザインが評価され始める。2003年、日間でバイクを組み立てる競技番組に登場してから一躍有名に。そのデザインはバイク業界や愛好家から、また全米のバイクショーで脚光を浴びている。「最高作はない」と言い切るミスター・チカのデザインは進化し続け、留まるところを知らない。

【近澤泰良さんのプロフィール】

ちかざわ・やすよし◎1966年大阪生まれ。高校卒業後、ホンダ自動車整備学校でメカニックを学ぶ。ホンダのディーラー、ハーレーのカスタムショップで整備の経験を積んだ後、27歳で独立。1995年に渡米し、自宅でハーレーのカスタムメイドの仕事をスタート。テレビや雑誌に取り上げられ、バイク愛好家の間で一躍注目される存在に。2005年は全米110カ所のバイクショーに参加、多忙な毎日を送っている。www.chicacustomcycles.com

 

がむしゃらに働いてはバイクの借金返済の日々

日本の伝統美をも取り入れた近澤さんのカスタムスタイルは、アメリカはもとより、近年ヨーロッパでも人気が高まってきている

高校時代はサッカーをやっていて、将来、有名選手になりたいと思っていました。その頃、ちょうどJリーグのはしりで、Jリーグに入ったチームメイトもいたけど、僕は誰も誘ってくれへんかったんです(笑)。それで、小学校時代のスーパーカーブームから乗り物への興味がずっとあったんで、ホンダの整備専門学校に入りました。
 
学校からは、4回くらい「辞めろ」って言われた。あんまり勉強しなかったんですね。授業の中でも、「こんなんやってどうするねん」っていうのは、一切勉強しなかった。好きなことには没頭するけど、その他は一切興味なし。そして、卒業してからディーラーの整備士になりました。
 
整備学校の時からバイクはずっと乗っていました。400㏄から始まり、ガラクタを片っ端から買って、いじって動くようにする。家でもやっていましたし、工場でもこっそり夜中に残って、自分の物を持ち込んでやってましたね。
 
バイクは多い時で8台持っていました。それを全部売ってハーレーを買った。残業してなんとか給料を13万円もらって、バイクのローンが12万円とか、そんな感じだったの。バイク買い過ぎて借金いっぱいあったから、滋賀のディーラーで5年頑張りました。売り上げでは全国の拠点の中で3カ月連続日本一になったし、サービスマンのコンテストでも優勝した。
 
ツーリングも好きで、いろんなところを旅したね。日本国内は下道で行けるところは全部。北海道が好きで、有休を取って何度も行ってた。だから嫌われてましたよ、会社では。ある時、会社で支給された工具が嫌で、自分の工具でやってたら、それを上司に咎められました。それから、「(ホンダのメカニックが)なんでハーレーに乗っているんだ」とも言われて。僕も負けず嫌いだから、支店の売り上げを全国で1番にして辞めてやったんです。

 

アメリカでの最初の営業は自分が作ったバイクに乗って

「最初はバイクと寝袋持ってあちこち回りました」という近澤さんは、ハーレー好きの中では『Chica』で知られるカリスマ的存在だ

それから京都のハーレーショップで働きました。1990年頃、ハーレーは部品だけで2万、3万したので、ハーレーショップに行ったら安く買えるだろうっていう安易な考えでした。ショップは社長と工場長と僕だけ。当時、京都にはカスタムショップが1軒しかなかったから、忙しかったですね。3年頑張ったけど、4回腰を悪くしたんです。3回目で立てなくなって入院して。お客さんが「店はもう辞めろ。自分でショップを持て」って入院している間に段取りしてくれて、退院したら工場があったって感じだった。27の時です。店は開けて半年くらいでお客さんも増え出して。借りたお金、スポーンと返せました。そのかわり、24時間営業とは言わないけど、20時間営業くらいやってたかな。
 
その2年後に、アメリカで作ったバイクを日本に輸出する人から「バイクを作らへん?」って誘われて、「行くに決まってるがな」って。で、行ったのはサウスエルモンテ。工場がすべて鉄格子に囲まれていて、そこには4カ月しかいなかった。僕の思い描いたアメリカはパームツリーのビーチだったんですよ。「このままいたら死んでしまうわ」って、辞めて再び独立。トーランスに家を借りて、ひっそり始めたの。
 
こちらに来る時、日本から1番初めに買って改造したバイクを持ってきてたんですよ。英語はしゃべれなかったけど、バイクのショーやスワップミートでバイクを見せているうち、「これ、お前が作ったのか?」って話しかけてくる。そのうちバイクのメーカーやパーツ屋さんから「写真を使わせてくれ」と頼まれるようになって。で、1999年頃、アメリカの企業から「来年のモデルを作ってくれ」とか「カタログの表紙のバイクを作ってくれ」っていうオファーが来るようになった。

 

見たことのない物を作ってやろう

雑誌にどんどん出るようになって、今度はテレビから声がかかった。ディスカバリーチャンネルの『グレート・バイカー・ビルド・オフ』っていう番組では、9日間で1台のバイクを作ったんですよ。ユニコーンのイメージで。アメリカ人と飲んでいる時にユニコーンの話を聞いて、ピーンと来て、「ユニコーンは、みんな形は知っているけど、見たことがない。これや」って。今までにないスタイル、あり得ないスタイルってことで一気に取り上げられ、その番組は何度も放映されました。
 
そこから、注文が一気に増えました。バイクショーの招待もどんどん来るようになった。ハワイのバイクショーに招待された時、日系人たちが神様のように扱ってくれたんです。「有色人種の日本人が、バイク雑誌に出ることは、すごくうれしい」って。白人以外のカスタムビルダーは、それまでバイク雑誌に出たことがなかったんですよ。
 
カスタムメイドは僕が全部、一からやります。スーツと一緒で袖が長かったらダサイし、丈が長くてもダサイし、ピチピチ過ぎでもダサイ。だから、全部お客さんのイメージとスタイルに合わせます。好みからライフスタイルまで全部聞く。僕の色に染めてもしょうがないからね。僕のスタイルが好きだっていうお客さんがまず来て、そこからその人に合わせて作る。

 

想い出のバイクなんてない。常に進化しているから

僕は日本人だから、日本人タッチとアメリカ人タッチとミックスしてる。他の人には絶対にできないトータルバランスを考えてますね。日本人タッチには日本の伝統文化も入っている。バイクを作り出してから、仏像さんとか建物とか、神様のキャラクターとかに興味を持つようになった。昔はこれ、どうやって作ったんだろうって。今は、機械でプログラムしてサッと終わるけど、昔はどんな機械があったかとか、昔の人はどうやって溶接してたかとか。
 
昔の人ってすごいよね。例えばワイパー。ゴムの材質が良くなるとか多少は進化しましたけど、雨が降ったらワイパーしかない。最初からあのデザインで、何も変わっていない。変わらないもの、デザイン的にも誰が見てもホッとするもの。僕はそういうのが好きで、取り入れています。
 
仕事で口癖にしているのは、「better than nothing」「better than before」。ショーの時にお金をつっこんで、100ドルとか200ドルしか儲からなかったとしても、まあ、「何もないよりはいいやん」っていうこと。それとバイク作る時は、絶対いつもチャレンジ。昔作ったバイクは嫌なところを知ってるから、写真に撮られたくない。これまで作った中で想い出のバイクとかは基本的にないんですよ。常に進化してるから。
 
僕は負けず嫌いだからね。「くそー、絶対に負けたくない」という相手が常にいる。自分を信じるなら、とことん信じてほしい。僕はもともと体育会系なんで、ここアメリカは全国大会だと思ってる。世界中から「自分こそは」って思ってるヤツがたくさん集まって来てる。
 
「アメリカは自由だから、どうにかうまいこといくんやないか」って思ってるんだったら、止めた方がいい。自分で一旗揚げようと思うなら、みんなが寝てる時にも働くべきじゃないの?現状には満足はしない方がいいよね。ジャンジャン行かなあかんね。ビジネスで成功しているアメリカ人なんか、みんなそうやからね。
 
(2006年1月1日号掲載)

松久信幸さん/「NOBU」「MATSUHISA」オーナー


成功とは1つのことを「続け切る」こと。一生懸命続けていれば、悪いようにはならない

1987年、ビバリーヒルズのラシエネガ・ブルバードにオープンした「MATSUHISA」は、3年目にはザガットで日本食トップの地位に。アメリカにおける日本食レストランの草分けとして常に注目を浴びてきた。現在、全世界に「NOBU」は15店、1500人のスタッフを抱え、「まだ自分は成功していない」と謙虚に笑う。その陰には何度も転んで何度も立ち上がった、苦労と努力の長い年月があった。

【松久信幸さんのプロフィール】

まつひさ・のぶゆき◎1949年、埼玉県で木材輸入を営む家の3男として生まれる。小学1年生の時に父親を交通事故で亡くす。高校卒業後、東京の寿司屋・松栄で7年間修業をした後、24歳でペルーに渡り、パートナーで寿司屋を経営する。その後、ブエノスアイレス、アラスカを経て、1987年にロサンゼルスに「MATSUHISA」を開店する。1994年にはニューヨークに「NOBU」を開け、以来、ロンドン、ミラノ、ギリシャなど9店舗、展開し、2005年には、さらにダラス、バハマなど4カ所にオープンした。

 

「ここ、いいな」一瞬で寿司屋の虜に

ビジネスパートナーであり、友人でもあるロバート・デ・ニーロと

父親は材木の仕事をしていましたが、小学校に入って2カ月目に交通事故で亡くしたので、父親に対する憧れが強かったですね。パラオで撮った父の写真が家にあって、寂しくなるといつもその写真を見ていた。小さい時からずっと、父親みたいになりたい、外国に行きたいという憧れがありました。
 
6年生の時に、ひと回り上の兄に寿司屋に連れて行ってもらって、「いらっしゃい!」というかけ声、寿司屋独特の匂い、カウンターで食べるというスタイルに一瞬のうちに虜になったんですね。「ここ、いいな」。その時、僕も寿司屋になろうと決めたんです。高校を卒業して、東京の「松栄」という寿司屋に就職しました。
 
ペルー在住の日系人のお客さんが、よくペルーの話をしてくれました。リマの港は世界一の漁獲量ということで、非常に興味を持った。一緒にペルーで店をやらないかと誘われて、休みを取ってペルーに行ったんですよ。ちょうど結婚した時期で、お袋は明治の人間ですからひどく反対した。当時、ペルー移民は行ったら帰って来れないというイメージでしたから。
 
でも、僕はふたつ返事でした。「行きたい」。いったん日本に帰って女房と結婚式を挙げてペルーに戻りました。店はうまく行っていましたが、3年過ぎて、パートナーと衝突してしまったんです。というのも、僕がフードコストを考えていなかったから。いい物を食べさせたいと思うと、どうしてもいい物を仕入れてしまう。でも、出資者は、コストを下げて利益を出したいわけです。その後、何をするという予定もなく辞めてしまったのですが、ちょうど知り合いからアルゼンチンのブエノスアイレスに仕事の口があるというので、引っ越しました。その店には日本からの職人は自分だけで重宝されましたが、アルゼンチンは物価が安く給料も安い。1年間やって、このままでいいのだろうかという不安を抱き、帰国を決めました。

 

開店して50日目で全焼。アラスカでの辛い体験

4年ぶりの日本はオイルショックで景気が悪く、負けて帰った私には居場所がありませんでした。「もう2度、海外に出たい」という思いにかられました。そんなある日、アラスカで日本食レストランをやらないかと声をかけられました。
 
そこでは念願の自分の店を持つことになっていました。工事も手伝いました。そして、オープンから50日目のこと。パートナーから電話がかかってきたんです。「店が火事になっている」と。駆けつけてみると、本当に燃えている。全焼でした。
 
呆然と立ち尽くしましたね。保険にも入っていなかったんです。一銭もなくなったどころか、帰る飛行機代もない。しかし、そういう時にも助けてくれる人がいた。ある人が現金で飛行機代を出してくれました。
 
倉敷の実家に家族をあずけ、ロサンゼルスに単身、逃げるようにしてやってきました。1977年のことでした。最初、ウエストロサンゼルスのミツワというレストランで働きました。そこで借金を返しながら、日本の家族に仕送りをしました。妻と子供2人には、すぐにビザが下りなかったんです。
 
でも、悪いことは重なるもので、やっと買った車が盗まれ、仕方がないので自転車に乗っていると、その自転車まで盗まれてしまいました。でも、もう焦りがなくなっていましたね。アラスカでの経験で開き直っていました。仕事ができて、家族がいて、健康であれば、それでいい。そう思っていました。
 
2年経って永住権が取れると、ミツワのオヤジさんが「もっと自由にやりなさい」と追い出してくれた。その後、王将という店で働き、1987年、ビバリーヒルズのラシエネガ・ブルバードにMATSUHISAをオープンさせたんです。アラスカ時代のことがありましたから、店を持つことにはトラウマがありましたが、うれしかった。何より自分の好きなようにできるのですから。

 

最初は名前も知らなかったデ・ニーロとの信頼関係

ザガットに載ったのはオープン3年目のことですが、最初からザガットを強く意識したことはなかったです。結果的にそういう人たちが来るようになっただけ。ロバート・デ・ニーロとの出会いも、そんな感じでした。最初、誰だか全然知らなかった(笑)。でも、デ・ニーロは気に入ってくれて、しょっちゅう店に来てくれたんです。
 
1年くらい経って、彼から「ニューヨークで店をやらないか」と誘われたんです。「1度ニューヨークに来い」と飛行機もホテルも用意してくれ、彼の家に招待されていろんな話をしました。デ・ニーロはトライベッカという倉庫街のビルを買ったところで、「これがお前の場所だから」と案内してくれました。
 
彼とは4日間ずっと一緒にいましたが、4日目にお断りしたんです。チャンスをくれたことに感謝の気持ちはありましたが、当時、ロサンゼルスの店も3年目で、朝から晩まで働いて、スタッフも7、8人。これでニューヨークにも出すなんて無理。みんながサポートしてくれているロサンゼルスの店をつぶしたくない。アラスカ時代に戻りたくないという恐れがありました。
 
デ・ニーロは「わかった」と言って、その後も店に来てくれ、4年後、また「もういいだろう?」と電話をくれたんです。実は、これまでの経験から「パートナーシップはだめだ」という気持ちもあったのですが、4年間、自分を待ってくれたということで、彼を信用できたんですね。MATSUHISAも7年目で、ある程度回るようになっていたので、1994年、NOBU NEW YORKを出すことに決めました。その後、ロンドン、ミラノと9店舗を開けて、2005年にはニューヨーク、ロンドン、ダラス、バハマと4店増やしました。15店舗のほか、「セレ二ティー」というクルーズ船でも料理を出しています。

 

大切なのは誠心誠意で一生懸命続けていくこと

僕のビジネスは、あくまでも職人としての見方から始まっています。お店って出すのは簡単なんです。場所とお金さえあれば。ただ、そこにスタッフが育っていかないと難しいですね。スタッフには料理に「心を入れる」ということを繰り返し教えています。
 
ロンドンの店には「ノブさん教科書」というのがあるそうです。どこで修業をして、どんな気持ちで店を開けたか、ノブのフィロソフィーとして、マネジメントチームがトレーニングのために作ったんだそうです。知らないところで、そういう物ができているというのは驚きですが、そういう所で仕事ができることが自分でもうれしい。
 
スタッフは世界で1500人くらい。いろんな所に行って、マネージャーやシェフのみんなと話すことも僕の仕事。みんなを元気づけることもあるし、怒る時もある。誠心誠意、接していこうと努力しています。
 
人生で大切なのは、夢を持つことと、1つのことを続けること。「継続は力なり」という言葉が好きですが、1つのことを「続け切る」こと。一生懸命続けていれば、悪いようにはならないんですよ。自分がその仕事について、人生について、商売に対して一生懸命、誠心誠意を尽くしていればそれでいい。仕事をしている時は、お客様にどうしたら喜んでいただけるか考えることが原点です。
 
(2006年1月1日号掲載)

河辺美穂さん・美佳さん/シルク・ド・ソレイユ『O』出演者


辛いことを前向きに捉えれば、何でも気楽に頑張れるはず(美穂)
辛い時を越えれば、必ず良いことが待っています(美佳)

世界中の一流アスリートで構成されるサーカス集団、シルク・ド・ソレイユ。その最高峰で演技を披露する、日本人の双子、河辺姉妹が、それぞれの過去、現在、未来を語った。

【河辺美穂さん・美佳さんのプロフィール】

かわべ みほ/みか◎1974年生まれの双子姉妹。美穂が姉。共に5歳から競泳をスタートする。中学生の頃にシンクロナイズドスイミングに魅せられ転向し、それ以降2人共頭角を現す。美穂は、1996年アトランタオリンピック・シンクロ団体で銅メダルを獲得。美佳は、1999年ワールドカップ団体で銀メダルを獲得。姉妹では、1997年日本選手権デュエット2位。2001年、ラスベガスでシルク・ド・ソレイユが行うショー『O(オー)』出演のため、美穂が渡米するが、美佳は事故により断念。その後美佳は、日本で水中パフォーマンスチーム、トゥリトネスのメンバーとして、シンクロをモチーフにしたショーの振り付けから出演まで幅広く活躍。2008年、美佳は再度シルク・ド・ソレイユに挑戦。現在2人で、同ショーに出演している。

 

シドニー五輪の選考で競技シンクロを断念

これまでずっと一緒だった2人が共に演じられる幸福を噛み締め演技をする河辺姉妹。

美穂:妹と一緒に5歳から競泳を始めました。5人姉妹で、姉が競泳をやっていたため、その影響で親が自然と習わせたんです。ある日、シンクロの大会を見て、美佳と2人で「シンクロやりたいね」って。ちょうど競泳には飽きていたし(笑)。
 
美佳:シンクロをしようと決心してから、クラブに通い始めたのが半年後。クラブは東京にあって、自宅の茨城から片道2時間。最初は親が許してくれなかったので、始められるまでに時間がかかりましたね。でもその分、やりたい気持が強まり、最初の3年くらい(中学生の間)は特に面白かった。
 
美穂:私たちには競泳の経験がありましたから、シンクロへの転向は特に難しくなかったです。中学の時に、私たち2人のデュエットで全国大会に出場しました。競泳の経験とコーチの良い振り付けのおかげで、運良く行けたという感じ。双子だから息が合いやすいし、点数も出やすかった。足の形もよく似てるんで、それだけでも見た目がきれいなんです。その後、私は1996年のアトランタオリンピックに出場しましたが、まぐれもいいとこ(笑)。10人選考されて、うち8人が出場するんですが、私は9番目の補欠。でも決勝の時、私に出番が回ってきて、ほかの選手に付いて行くので必死。すべての記憶がなくなっちゃうくらい、本当に大変でした。
 
美佳:レギュラーの選手は皆、半年間一緒に練習していますが、姉は、横で見ながらの練習。だから、本番直前での出場は、本当に大変だったと思います。
 
美穂:オリンピックの後は燃え尽きちゃって。シンクロから遠ざかりたいとさえ思いました。今になってようやく、オリンピックの良さとか、あの時に自分を追いつめた経験がすごく貴重だってことがわかるようになりました。アトランタが終わってからは、2人共2000年のシドニーを目指しましたが、選考から脱落。そんな頃、アメリカに留学しているシンクロ仲間から、シルク・ド・ソレイユのことを聞いたんです。その時、「ダメもとでいいから挑戦したい!」って思いましたね。オリンピック選考会からも外れてしまったので、怖いもの知らずになっていたんでしょう。「恥をかいてもいいからトライしよう!」って。
 
美佳:私は、シルク・ド・ソレイユなんて名前すら知らなかったんです(笑)。選考に外れてから2週間後、2人でラスベガスにシルクの『0』を観に行きました。「こんなシンクロもあるんだ」って思った瞬間、「やりたいっ!」と。でも、皆スタイルが良くて、もし私たちが入団しても浮いちゃうんだろうなって(笑)。ですから、合格なんてまず無理と思いましたよ。実際、オリンピック選手もたくさんいました。
 
美穂:そして、2人揃って2000年3月にオーディションを受けたんです。
 
美佳:結果は「採用するかもしれません」という、曖昧なお知らせでした。オーディションが終わってからは、合宿メンバーを選抜するんです。当時シルクは、次期メンバー候補向けの合宿をして、その年に何人補充するかを決めていたんです。その予備軍を集めて4カ月間特訓するんですね。要するに、アスリートからアーティストになるための訓練。それには姉が選ばれて。
 
美穂:オーディションの出来は、妹の方が良かったので、どちらかが選ばれるなら…。
 
美佳:私かなって。
 
美穂:でも私が選ばれた。この時は、2人共ショックで悲しくて。「何だ、結局はオリンピック出場っていう名前なんだ…」って、現実を突き付けられた感じでした。
 
美佳:私は、その時初めて、オリンピックに出れなかったことを悔やみましたね。

 

姉はシルク入団、妹は大ケガで断念

美穂:シルクでの合宿経験は、衝撃的で、観るもの聞くものすべてが新しい世界。学ぶことが楽しくて仕方ありませんでした。最初私は、アーティスト的なものは何も持っていませんでしたが、それを引き出せるんだという思いにさせてくれました。そんな機会を与えられたのだから頑張りました。しかし、合宿が終わったからといって、役が来るわけではありません。役の空きがないと、何年も待つことになります。「もしかすると、呼ばれないかも」と不安でしたよ。その間日本で、『水の道化師』というシンクロのコメディーショーに出演していました。10カ月ほど待ち、ようやくシルクから声がかかったんです。
 
美佳:私は、姉の合宿の翌年に合宿メンバーに選ばれました。でも、参加の2週間前にプールで滑って、膝を脱臼骨折。全治6カ月で、生まれて初めて人生、目の前が”真っ白”になりました。ほんとに真っ白になるんですよ。
 
美穂:ショックと痛みでね。
 
美佳:ショックの方が、断然大きかった。目標が、全部台無しですから。オリンピック、シルクの合宿、そして今回と、3度にわたって私だけ行けなかったという思いもありました。それからの6年間、姉はアメリカ、私は日本と、ずっと一緒だった2人が、別の世界で歩み始めました。私は姉から紹介されたシンクロのコメディーショーに参加・出演し、全国を回りました。そこでは出演はもちろん、振り付けや企画、演技指導などもこなし、自ら進んで色々と創り上げていきました。それまで私は、何かと姉に頼りっきりの性格だったんですが、姉と離れたことで、精神的にかなり自立できたと思います。しかしやはり夢が諦めきれず、最後のチャンスとばかりに、2007年にシルクのオーディションを受け合格したんです。ありがたいことに、その頃の日本の仲間たちからは引き止められましたが、諦められなかったんです。

辛い時を越えれば先には良い時がある

美穂:シルクのメンバーは皆、自分たちが楽しんで演技をやっています。私たちの場合は特に、2人がこの場で再会して一緒にやれていることが、とてもラッキーなこと。こんなチャンスをいただいて、こうして一緒に泳げることが、とても幸せです。
 
美佳:私たちが出ている『O』のキャストは、全員で75人ほど。世界20カ国ほどから精鋭が集まっています。そんな中で一番大変なのは、常にモチベーションを高くキープすること。私たちは、週5日、1日2回の同じステージを繰り返します。でも人間だから、気分に波があるじゃないですか。でも、ショーの前には高めなければならない。それはすごく大変ですね。
 
美穂:どんなスポーツでも仕事でも、それは同じことだと思いますが、私たちの場合、お客様はその時のショーしか観られない。だから、すべての瞬間をきちんと演技しなければならない。その分、余計にプレッシャーを感じるのかもしれません。
 
美佳:次の目標としては、将来的には、日本に戻って一般の人に楽しいシンクロを教えたいと思っています。そのためにも、シルクで色々吸収して、日本にいた頃には学べなかったことを勉強し、それを教える面で活かしたいと思っています。
 
美穂:私の人生は、ずっと水泳やシンクロ一色だったから、将来は別の世界に行きたいと思っています。その時のために現在大学に通い、次のステップに向けての準備をしています。実は、9月に子供を出産しました。『O』には子持ちのメンバーも多くいますから、シンクロも勉強も子育ても、一生懸命やらなきゃ(笑)。大変だけどすごく恵まれていると実感しています。これまでの人生を振り返ると、一番挫折しそうな時期が、勉強できた時だったと思いますね。辛い時期こそがとても良い経験だって気付けば、何でも気楽に頑張れるはず。不可能ってことはありませんから、ダメもとで挑戦することは、きっと良い経験になります。特に若い方は、どんどん挑戦してほしいですね。
 
美佳:私も姉とよく似ていて、辛い時を越えれば必ず良いことが待っていると思って頑張っています。自分の人生を振り返っても、辛い時の後には必ず良い時が来ていますから。
 
美穂:アメリカって色々大変だけど、自由に挑戦できる国。だから、頑張るというより、楽しんじゃうつもりで時間を過ごした方が良いかもしれませんね。
 
(2010年1月1日号掲載)

雲田康夫さん/Frec Food代表


自分を切羽詰まった状況に追い込んだから上手くいった。少なくとも、失敗したら日本に戻ればいいという気持はなかったね。

「Mr. Tofu」と呼ばれる雲田さんは、日米食文化の狭間で、全米に「TOFU」を浸透させた功労者。25年にわたる、その熱い思いをうかがった。

【雲田康夫さんのプロフィール】

くもだ やすお◎1966年、青山学院大学法学部卒業、森永乳業株式会社入社。1970年代初頭のスーパーマーケット台頭により、同社の牛乳販売は不振に。そこで、健康ブームに沸くアメリカをターゲットに販路を拡大。1985年に単身渡米し、現地法人を設立した。以後幾多の失敗を繰り返し、1993年、当時のクリントン大統領の妻ヒラリー夫人が豆腐の話をしたのをきっかけに注文が殺到。それ以降、アメリカの豆腐市場の形成に尽力し、「ミスター豆腐」と呼ばれる。2008年、第3回日本食海外普及功労者表彰事業農林水産大臣賞を受賞。Morinaga Nutritional Foods, Inc.前社長、中京大学国際英語学部客員教授、日本食文化振興協会理事長。著書に、『豆腐バカ 世界に挑む』『売れないモノは俺に任せろ!』(共に光文社)

 

強烈なスーパーの追い上げにアメリカに豆腐市場を求めた

第2回日本食海外普及功労者表彰事業農林水産大臣賞の授賞式。当時の小泉純一郎首相と並んで。

1966年、大学を出て森永乳業に就職しました。1970年代初頭にスーパーマーケットの勢力が台頭し、主婦の買い物パターンが激変。宅配で価格が守られていた牛乳が、スーパーの「今日の特売品」で売りさばかれるようになった。そうなると、誰も宅配牛乳を買わなくなるでしょ。そこで、牛乳の配達網を活かして、ほかの商品も販売できないか全社で考えた。参入しやすく、しかも市場が大きい商品。それが、豆腐だったんだ。
 
そこで森永は、5年かけて、常温で長期保存できる滅菌処理した豆腐を開発。東京に大規模豆腐製造設備を用意した。しかし運悪く、1979年に中小企業を保護する法案が成立し、豆腐の販売には全国豆腐商業共同組合の許可が必要になったんだ。当然、豆腐組合は大企業の豆腐販売を許可しないよ。そこで、海外の日本人駐在員や、健康食の代名詞となった日本食の普及に便乗し、アメリカ市場の開拓を決定。それを機に、1985年の現地法人設立で渡米しました。40歳の頃だったね。
 
豆腐のコンセプトは、「低カロリーでコレステロールゼロの植物性高タンパク食品」。だから、アメリカ人には魅力的なはずなんだよ。でも実際食べさせると、「気持ち悪い」「味がない」「TOFUの発音が、TOE(つま先)に似ていてイヤ」と散々。しかも、原料の大豆は、当時のアメリカ人には家畜のエサ。
 
立ち上げから4年経った1988年のある日、追い討ちをかけるように全米紙『USA Today』が、「アメリカ人が最も嫌う食品は豆腐」と掲載しちゃって。その上、本社から撤退命令が出るし。一瞬、「こりゃダメだ」と弱気になったね。
 
そこで、豆腐にブランドネームを付けようと考えた。思い付いたのが、鉄板焼きの「BENIHANA」。「BENIHANA」ブランドなら、スーパーも買ってくれると思ったんだ。そこで、ニューヨークにいる創業者の故ロッキー青木さんにお願いに行ったら、ダメだって。そりゃそうだよね。でも、私も必死さ。「では、うちの豆腐を使って料理を出してください」とお願いした。すると、「『低カロリーでコレステロールゼロの健康食品です』と豆腐を説明したら、ステーキはどうなる?悪者になっちゃうじゃないか」って。で、どうしたらいいか相談したら、「自分が広告塔になりなさい」と、ご自身の経験を踏まえて、丁寧に教えてくださった。
 
ロサンゼルスに戻って、自分に何ができるか考えた。そして思い付いたのが、車のナンバープレートを「TOFU NO1」にすること。するとアメリカ人コンサルタントが、「『豆腐はノー!』って読めるよ」って。「うむ、なるほど…」。結局「TOFU A」にしたけど、走ってると、周りのドライバーが窓から親指を下に向けて「ブー!」って(笑)。
 
次にロサンゼルスマラソンで、豆腐の着ぐるみを着て走った。運悪く転んだけど、そこにTV局のスポーツレポーターがいて、着ぐるみを指して「それは何だ」と。痛いのを我慢して、TVカメラの前で「ノーコレステロール、ヘルシーフード!」と、あれこれ説明したよ。
 
その時、ロッキーさんが言ったことがやっと理解できた。ある文化に異質の食べ物を浸透させるというのは、優れた栄養面にフォーカスするだけではなく、自分が広告塔になってチャンスを逃がすなってことだったんだね。
 
それからも色々挑戦したよ。でも、スーパーで冷奴のデモをやったら、カツオ節にしょう油をかけるとクネクネ動き出してアメリカ人はひるむし、味噌汁を出すと、一気に飲んだおばあちゃんがヤケドして、止めろと言われるし。スーパーの店長に「そこを何とか」とお願いして、今度は麻婆豆腐のデモを始めた。すると人気は上々!「よしっ!」と思ったけど、客は口を揃えて「麻婆ソースをくれ」って。「ソースは他社製品だから…、豆腐を買って」と言うと、「じゃあ要らない」だって。

桃栗3年、柿8年。豆腐は10年かかるね

「TOFU A」のプレートを付けた車に腰掛ける雲田氏(上)と、ロサンゼルスマラソンで豆腐の着ぐるみで走る様子

年貢の納め時かって思いながら、ある米系スーパーの豆腐売り場に立ち寄った。すると、潰れた豆腐を買っているおばあさんがいたんだ。ビックリして「どうするの?」って聞いたら、「果物を入れてシェイクにするの」って。驚いたね。私の発想になかったから。早速会社に帰って、栄養士とフードスタイリストと社員を呼んで、果物入り豆腐シェイクを作ったら、これが美味い!そこで、「革命的な健康朝食『豆腐シェイク』」というふれこみでデモを開始。すると大盛況。結局ね、アメリカ人に豆腐を売るんだから、白くて四角い「日本」の豆腐を売る必要はなく、ぐちゃぐちゃの豆腐でいいんだよ。渡米6年目にして、それがやっとわかった。
 
とは言え、まだ軌道に乗らなかったし、相変わらず本社は撤退しろと言う。そんなある日ラジオを聞いていたら、当時のクリントン大統領の妻ヒラリー夫人が、「私は、夫のビルに健康食品の豆腐料理をすすめるんだけど…」と話していた。当時豆腐は「soy bean cake」「soy bean curd」と呼ばれていたのに、彼女は「TOFU」と発音した。すぐにホワイトハウスに豆腐1ケースと、『豆腐マジック』と名付けた自作レシピを送ったんだ。そしたら、ヒラリー夫人から礼状が来て。それで「アメリカで頑張ろう!」って決心したよ。
 
それ以降、「家畜のエサで作った健康食品」という意外性も手伝って、色んなメディアが豆腐を取り上げた。すると、全米から注文が殺到。自信が付いたもんだから、本社に「もう少しやらせてくれ」と言ったら、「自分で資金調達するならOK」とつれない返答。だから独立し、借金して1日10万丁生産できる拠点をオレゴンに建設したんだ。結局、順調に売れ始めたのは、10年ほどしてからだったね。桃栗3年、柿8年。豆腐は10年だよ(笑)。

 

経験を後世に伝える。それが私の使命

売れるかどうかわからない物を売る時は、莫大な時間がかかるのは当たり前。だけど、時間をかければ良いってもんでもない。要は本人が、本気でどうにかするという熱意を持っているかどうかだね。これまで、精神的な重圧から10円ハゲができたり、胃潰瘍になったり、血尿が出たり。周りからは「バカじゃないの」っていつも言われた。でもね、人から「バカ」って思われるレベルに達して、やっと事業が成功に向き始めるんだよ。
 
ある程度まで頑張ったら、次は発想の転換。固定観念に縛られず、柔軟な発想で物事を考えることが肝要だね。「他人のせいにせずどこまで頑張ったか、そして、どれだけ大胆に発想を転換したか。それを自問自答してください」って、いつも講演で話してますよ。
 
今は、多くの方から「最初は大変でしたね」と言われますが、、当時、英語ができない40男には、アメリカで豆腐を売り込む以外に、生きる道がなかっただけ(笑)。でもね、いつも自分を切羽詰まった状況に追い込んでいたから、うまくいったんだと思うし、失敗したら日本に戻ればいいという気持ちもなかった。でないと、人間は簡単な道に逃げちゃう。最近、『売れないモノは俺に任せろ!』という本を出しました。サブタイトルが「成功法則58」だけど、裏を返せば58話の失敗談。それを反面教師にして読んでもらいたいね。
 
最後にね、私の使命は自分の経験を後世に伝えることだと思ってる。最近の日本には、私の年代で元気のない方がたくさんいらっしゃるようだけど、彼らには、人生や社会人生活の中で蓄積した豊富な経験と深遠な知識があるはず。あれだけ苦しい時代を乗り越え、日本の成長の原動力となった世代なんだから。そしてそれは、日本の国にとって貴重な財産だと思うね。だから沈黙を守らず、「俺たちには、知識と経験を若者に伝える使命がある」って思っていただきたい。そうすれば、自ずと元気が出てくるはずです。
 
こんな私も、今になってわかったことはたくさんあります。だけど、若い世代にこれまでの私を惜しみなく伝え、彼らがその次の世代にまた伝えてくれれば、最高にうれしい。そう思って、毎日頑張ってますよ。
 
(2010年1月1日号掲載)

松井紀潔さん/松井ナーサリー・インク社長


稼いだお金は、自分の懐に入れるべきものではありません。それをすべて、地域貢献に使うのが正しいと信じています

1万円を握りしめ、太平洋を渡った松井さん。アメリカでの農業に大志を抱いた25歳は、世界一の蘭生産者に。これまでの道のりと、今後の生き方を聞いた。

【松井紀潔さんのプロフィール】

まつい としきよ◎1935年、奈良県生まれ。1961年に、農業団体研修プログラムに参加し、カリフォルニアに1年滞在する。その後帰国するが、アメリカ体験が忘れられず再度渡米し、菊農園で働く。当時の所持金は1万円。その後、妻と娘を呼び寄せ、永住権を取得。独立して、本格的に菊栽培を始める。その後幾多の試練を経て、バラ栽培、蘭栽培へと転向した。現在は、資産100億円を超える世界一の蘭生産者。農園の従業員数190人、年商22億8500万円、純利益1億7600万円、蘭栽培の温室総面積は東京ドームの約6倍。蘭栽培としては世界一の規模で、全米の25%、カリフォルニア州の50%のシェアを握る。地域活動にも熱心に取り組み、2006年の農業リーダーシップ表彰受賞を始め、市長賞、郡会議賞などを多数受賞。

 

日本の農業ではダメ。大志を抱き、単身渡米

巨大な敷地に並ぶ蘭の温室。全敷地面積は、東京ドームの約6倍

私は奈良出身で、実家は農業を営んでいました。23歳で結婚。長女も生まれました。しかし、「今の日本の農業では夢が実現できない。満足できず終わってしまう」と、心の中では思っていました。
 
1961年、25歳の時に1年間の農業団体研修プログラムに応募し、カリフォルニアに派遣されることになりました。妻と娘を奈良に残して行かなければなりませんでしたし、長男で家を出ることの後ろめたさや世間の目も気になりました。母は、「出て行くのはいいが、戻って来れないよ」と言いました。厳しい言葉ですが、それは母のはなむけの言葉でもあったんです。「出た以上は頑張れ」と。その言葉は、アメリカ生活で私をずっと支えてくれました。
 
1年が過ぎ、日本に帰国。しかし、アメリカのことが忘れられませんから、帰国して1年ほどで、すぐにアメリカに戻ることにしました。ビザの問題で妻と娘を置いて行かざるを得なかったため、また私1人での渡米。その時の所持金は1万円。しかし、自分には渡米しかないという情熱がありました。
 
2年後、永住権申請を始め、妻と娘を呼び寄せました。そして、1966年に永住権を取得し、1967年に独立。貯めた5千ドルを資本に小さな農園を借りて、菊栽培を始めました。妻も農園に出て働いてくれました。幼い娘は、あるアメリカ人の方が無料で面倒をみてくださったんです。今でもその理由がわからないのですが、後に生まれた3人の子供の面倒も見てくれて。その方の温かい気持ちのおかげで、今の私と家族があるわけですから、とても感謝しています。
 
私が栽培を始めたのは大輪菊。綿密なデータに基づいた経営計画と10年先を見越したプランを立て、運営しました。私が実行したことは、高品質の大輪菊を周年供給することでした。そして、委託販売を一切せず、1都市1店舗のみで販売。おかげさまで順調に業績が伸び、全米シェアの15%を占めました。
 
しかし、1970年代のオイルショックで、収益に陰りが出始め、バラ栽培に転向しました。アメリカでは、バレンタインと母の日にバラの消費が増えるのですが、私は、時代のキーワードは「カジュアル」だと睨んでいましたから、バラも年中気軽に利用されると踏んだのです。

 

従業員への愛が足りない。それに気付いて大改革

蘭と名の付く品種の実に90%を栽培する松井ナーサリー

カリフォルニアの海岸沿いを隈なく調査し、バラ栽培に適した場所を探しました。見つけたのが、今農園を営むサリナスだったのです。基本的にバラは、夏に育てるのが難しい花。しかし、サリナスの気候は夏でも涼しく、それを利用して新品種のベガというバラを栽培しました。誰もが欲しくても手に入らない「夏のバラ」を栽培し始めたのです。これも大当たりしました。どんどん夢が実現していくのを実感しましたね。
 
しかし、1984年の秋、メキシコ系の農業従事労働者の組合結成に火が着き、私の農園にも飛び火しました。私は従業員に、平均賃金の3割高で支払っていましたから、影響がないと高をくくっていたんです。しかし、組合は容赦なく賃金アップを要求。その後2年ほどは連続赤字でした。従業員のことを考えて運営してきたのに、なぜこうなったのか悩みました。
 
そんな時、京セラ名誉会長の稲盛和夫氏著『心を高める、経営を伸ばす』という本に出会いました。その本を読んで、自分の経営には、従業員に対する「愛」が足りないと気付いたのです。
 
そこで早速、組織改革に取りかかりました。マネージャーと12人の課長職を全員メキシコ人にし、「コモスタール!(元気か)」「アディオース!(さようなら)」と、私からスペイン語で元気に話しかけるようにしました。また、作業効率の上昇を目指し、マネージャーの負担軽減のためグループ制を採用。出来高払い制にしました。すると、時間給制より20%ほど作業効率が上昇。給料が増えたため、社員にも活気が出ました。その結果、皮肉にも社長の私の給与は、社内で8番目に下がりました(笑)。
 
しかし、ここでも順調にいかないものです。南米産の安いバラが、市場を荒らし始めたのです。その状況は日増しにひどくなり、1991年頃には、周りの農園がどんどん廃業していきました。
 
そこで、私は蘭栽培に注目しました。当時のアメリカには蘭の周年栽培はなく、栽培技術は、愛好家の趣味の領域を超えていませんでした。しかし、大規模栽培を可能にすれば、高価な蘭が家庭の主婦でも手が届く花として普及し、廉価で市場に流せると私は考えたのです。「アメリカの台所に蘭を飾る文化を作ろう」。それが、私の命題でした。私は62歳、最後の挑戦だと思いました。
 
それから世界中を周り、蘭栽培を研究。商品選択の幅を広げ、誰でも買えるようにと、大・中・小のサイズを用意し、豊富な種類を栽培しました。その甲斐あって、ほぼゼロだった蘭の消費量が、8年で鉢植え花の第2位となるほど一般的になりました。手前味噌ですが、私がやってなかったら今でも蘭は高価で、一部の人しか楽しめなかっただろうと思いますね。
 
おかげさまで、現在は40エクタールほどの農園で、1千万鉢を栽培しています。胡蝶蘭を中心に、蘭と名の付く花の90%を生産。規模的には世界最大の生産場となり、蘭の鉢花作りとしては、全米25%のシェアを占めています。

最後は1万円だけ残れば良い

私は、アメリカに来たからには移民同士でまとまるのではなく、現地の人の中で頑張ろうと決めていました。ですから、友人にも恵まれ、すてきな出会いを経験しました。やはり、日本を飛び出した以上、まずはその地域の人たちと上手く交わらないとダメです。アメリカで腰を据えるつもりならなおさら。日本を引きずって暮らすのではなく、アメリカの規則に従って生きなければなりません。もちろん言葉のハンデはありますが、気持ちの伝わり方に違いはありません。
 
私は、2004年に松井奨学基金を設立しました。そして、地元の恵まれない子弟の学業支援や奨学金に私財を使うことを遺書に残し、公表しました。なぜなら、地域の人々のおかげでここまで来られたという、感謝の気持ちがあるからです。私が与えてもらった機会を、ほかの人にも与える。これが私の使命だと思っています。
 
また、4人の子供が全員ハーバードを卒業し、もう教育費が要らなくなったことも基金創設の理由です。この先、稼いだお金を使う所がありませんからね。
 
サリナスは農業の街で、移民も多い。家計が苦しく、大学に行けない人もたくさんいます。そういった人たちに教育の機会を与え、人間育成を促す。そうしないと、社会が良くなりません。今は収益の10%を還元していますが、いずれは土地も全部売って、そのお金を地域貢献に使おうと思っています。おそらく、売れば100億円くらいにはなるでしょうから、今後25年間に2~3千人くらいは大学に送れるはずです。そしてその人たちが、20年、30年後に社会に還元してくれたら、こんなにうれしいことはありません。それが一番正しいお金の使い方だと信じています。
 
私の子供は跡を継がないでしょうし、押し付けるつもりもありません。ですから子供たちは、私の財産を1セントたりとも期待していません。もちろん、私も残しません。その代わり、自分が人を助けられるようになった時に、人のために尽くすことが人間としていかに尊いかという「利他の考え」を財産として残すつもりです。元を辿れば、私は1万円でやって来た男です。その分だけ手元に残ればいいんですよ。
 
私は死ぬまで農民です。汗を流して土地から作物を生み出し、そしてそれをまた土地に返す。今でも、農園で一番の働き者は私。100歳までこの調子でいくつもりです。
 
(2010年1月1日号掲載)

出村文男さん/武道家、映画スタント、俳優


この国のために私ができることは人間育成。子供たちの成長の一助となれることが生き甲斐なんです

在米45年。日本での空手生活に限界を感じ渡米するが、日本人としての誇りは常に堅持。これまでの経験を基に、出村流アメリカでの生き方をうかがった。

【出村文男さんのプロフィール】

でむら ふみお◎1940年、横浜生まれ。1948年、8歳で剣道を始め、52年頃より本格的に空手を始める。1960年、東日本空手大会優勝。1961年、全日本空手大会優勝。1965年に渡米し、オレンジ・カウンティーに空手道場を開く。1969年、雑誌『BLACK BELT』で“Instructor of the Year”に選出。1969年~1974年、“Japanese Village & Deer Park”で空手のデモショーを行う。1972年、“Nunchaku Karate – Weapon of Self-defense”、1973年“Golden Fist Awards”受賞。1975年には、雑誌『BLACK BELT』から“Man of the Year”に選ばれた。映画は、1994年の『Rising Sun』、1995年の『Mortal Kombat』に出演。2002年に「Shitoryu Genbu-kai Association」を設立し、現在、サンタアナ糸東流空手玄武会総本部会長を務める。

 

母に諭され空手道を続けた

(上)雑誌『BLACK BELT』には、通算60回ほど表紙に登場(下)ブルース・リー(中央)とスティーブ・マックイーン(左)と。有名武道家や俳優との交流は深かった。

私が空手を始めたのは終戦直後の何もなかった時代。小さい頃、身体が弱かったので、それを克服するために始めました。当時空手はまだ新しく、カッコよくてミステリアスなところに惹かれましたね。1957年頃から空手の試合や審判などのルールが整備され、1961年に初めて行われた全国大会で私が優勝。その後2~3年続けて出場しました。しかし、1964年の東京オリンピックの頃、先生から現役を退いて審判に回るように言われました。私はまだまだ若かったし、現役でやり続けたかった。また、当時の先生とは考え方に食い違いもあり、「日本で空手をしても仕方がない、外国に出よう」と決心したのです。
 
渡米したのは1965年。1人で日本を離れ、サンタアナで住み始めました。小さなガレージを利用して、こちらで知り合ったパートナーと空手を教え始めました。しかし、道場を開いたと言っても生徒は少なく、お金もない。そんなある日、私は練習中に誤って相手の歯を折ってしまい、治療費を払わされました。「こんな馬鹿らしいことはない」と思い日本へ帰国したんですが、日本に着いた途端に後悔して…。だってアメリカを体験すると、日本の何もかもが小さく思えて、もうここには住めないと思ったんです。それで今度は、全日本空手道連盟の笹川良一会長の協力を得て、1966年に再度渡米。それからは「成功するまでは絶対帰らない!」ともう死ぬ覚悟でした。
 
渡米後は、道場の仕事をしながら、ブエナパークの日本村で空手ショーに出演していました。日本の伝統的な空手、例えば「突き」の演武では、顔に当たる直前で手を止めるのですが、アメリカ人にはそのすごさがわからない。そこで「突き」の時には、実際に当たったような演出で見せ場を作ったんです。観客にはとても受けたのですが、日本の空手界からは大クレーム。「空手は見世物じゃない」って。どうするべきか、とても悩んで、ショーを辞めようとも思いましたね。辞める前に、一度母に見てほしいと思い、アメリカに呼んだんです。「これが最後のショーかもしれない」って私が言うと、「悪いことをしてるんだったら、辞めなさい」って。「悪いことなんかしていない」と返答すると、「だったらやりなさい」って言ってくれたんです。母は明治の人間で昔の小学校しか出ていませんが、あの時代の人の、そういう力ってすごいと思いますね。
 
こうして、空手道場とショーの出演を通して、色々な武道家と出会いました。ブルース・リーとは、UCLAで空手と古武道の演武をした時に知り合いました。彼はとにかく勤勉で、研究熱心な男でしたね。チャック・ノリスとは、彼が韓国での兵役を終えて帰国してから知り合いました。彼は向こうでテコンドー(韓国式空手)を習ったのですが、テコンドーは足技が中心であるため、特に手技の「突き」を習いたいと私を訪ねて来たんです。ショー・コスギとは、日本村のショー出演者を探している頃に知り合いました。彼は日本から来たばかりで、当時はまだ茶帯。12年ほど一緒にショーに出て一生懸命やってくれました。スティーブン・セガールはこの近くに住んでいて、合気道をやってるんです。彼もショーに数年一緒に出ましたね。もちろん、今でも付き合いがあります。
 
1974年のオイルショックで、日本村が倒産。その2日後、ラスベガスのヒルトンホテルから呼ばれて武道ショーに2年ほど出演。その縁もあって、バート・ランカスター主演の映画『ドクター・モローの島』のオーディションを受けました。その配役は、トラやライオン、熊などの猛獣と戦うというもの。50人ほど受験者がいましたが、皆、怖くて逃げ帰ってしまったんです。もちろん私も怖かったですよ。でも、武道の訓練を思い出し、「できないことはないはず」と参加しました。
 
これがきっかけで俳優協会に入りました。そして、次に来たオファーが『The Karate Kid』の主役。ところが主役となると台詞もたくさん。とてもやりたかったのですが、私の英語力では無理だとお断りしました。すると1カ月ほどしてから連絡があり、主役にはパット・モリタが採用されたものの、彼は空手ができないため、彼のスタントとして参加してほしいと頼まれたのです。それ以降14年間、彼の出る映画はすべて、私が影武者として出演しました。

 

負けることを知って初めて勝つことができる

『The Karate Kid』のパット・モリタ氏(左)と。常にモリタ氏の動作を研究した。

空手がオリンピック競技に採用され、同じ条件で公平に勝ち負けを決定する「スポーツ化」が進みました。しかし、空手は元々、護身から始まったもの。身体が小さくても、大きい相手に勝つことができる技を鍛錬するものなのです。今は日本も含めて、世界中で空手をスポーツとして捉え、勝つことしか教えない。でも、負けることを教えないと勝てないし、長続きしません。「七転び八起き」という言葉がありますが、勝敗よりも、勝った理由と負けた理由をきちんと教え、負けても頑張れば、上に上れるんだってことを教えるべきなんです。私は10%はスポーツとして空手を教えますが、あとの90%は武道、つまり人間形成のために指導していると思っています。
 
昔の日本は今と違って、周囲が皆自分の先生みたいな感じだったでしょう。タバコでも吸ってたら、隣の人や知らない人にも叱られる。今の子供は誰にも指導されないからかわいそうなんですよ。武道で大切なことは子供をかわいがるだけじゃなくて、教育して世の中に出ても生きられるような人間にすることなのです。生徒にはいつも「チャンピオンになるよりもいい人間になれ。強くても性格が悪かったら誰も見てくれない。性格が一番この世の中で大切なことなんだ」と伝えています。

 

外国で生きるなら日本人として責任を持つ

アメリカで生きていく上で大切なのは、「初心忘れるべからず」の教え。アメリカに来た時、何をやりたいと思ったのか、それを常に考えていなければなりません。そして、お金で動いてはいけないということ。どんな小さな仕事でも、報酬の有無に関わらず、ベストを尽くしてやる。お金は追う物ではなく、付いてくる物なのです。そうすると人伝えで評判も広まり、引いては次のステップにつながるものです。また、時間の無駄遣いもダメです。時間は戻って来ませんから。どれだけ有意義に使えるか、常に意識してください。
 
それと、自分の進むべき目標を作る。目標がなければ何もできないし、道がなければ歩けません。将来辿り着きたいゴールを設定し、そこに向かう道を自分で開拓するのです。そういうことをせず、映画スターになりたいとアメリカに来てもムダです。夢はあっても、それに向かう地盤がないからです。映画スターになろうとするなら、学校の演劇部に入るとか、お金がないなら無料の学校を探して勉強するとか、あるいは、テレビを見て演技の練習をするとか、やり方はいっぱいあるはず。そういう努力を重ねないと、大きい夢を持ってもダメだと思います。
 
最後に、日本人であることを決して忘れないでほしいですね。外国にいるなら、なおさら日本人としての誇りを持たなければいけません。たった1人の日本人が起こした悪行が、何千万人という日本人にダメージを与えることを心得て、日本人の代表として責任を持つ。これは絶対に必要なことです。
 
私は、今年で在米45年になります。これまでは空手一筋に頑張ってきましたが、今では、アメリカに何か残さなければいけないと思っています。それは一体何か。やはり私にできることは、人間育成しかないと思うんですね。いい人間を作るということ。いい人間とは金持ちじゃなくて、世の中に通用する人間を育てるということ。今に生きる子供たちが、少しでもそうなってくれるとうれしいですし、彼らの成長の一助となれることが、今は最大の生き甲斐ですね。
 
(2010年1月16日号掲載)

下河内 護さん/SHIMOKOCHI-REEVES クリエイティブディレクター


デザイナーとして大切なのはデザインが好きで、一生涯続ける意志があること

芸術の名門校、アートセンター・カレッジで学ぶために渡米。卒業後はデザインの神様、ソウル・バス氏の事務所に就職し、ユナイテッド航空などのロゴデザインを手がけた。業界で活躍してきた経験を聞いてみた。

【下河内 護さんのプロフィール】

しもこうち まもる◎愛知県生まれ。高橋春人氏の作品に感銘を受け、中学卒業後、上京して師事する。デザイン誌で紹介されていたアートセンター・カレッジに憧れ、1963年に渡米。同校在学中に頭角を現し、奨学金を得て、1970年にオナーで卒業。同時に世界有数のデザイナー、故ソウル・バス氏の事務所に就職。同事務所に在職中、United Airlinesのロゴデザインを始め、California Cheese、Avery International、Lawry’sやAT&Tなどの有名企業の仕事を手がける。1976年に独立し、フリーランスに。母校や他のデザイン大学で教鞭を執る。85年に元同僚だったアン・リーブスさんとSHIMOKOCHI-REEVES事務所を設立。TBSや東燃、日清など、日米企業をクライアントとして活躍中。

 

デザインの神様の事務所に就職

(上)デザインを手がけたユナイテッド航空とTBSのロゴ(下)ソウル・バス氏の事務所で勤務していた駆け出しの頃(1970年)。左はバス氏の右腕だった故アート・グッドマン氏
小学校の頃から絵が好きで、展覧会の度に入賞して、先生に褒められ、すっかり自分はアーティストになるんだと決めていました。中学生の時、地元の名古屋で高橋春人先生の展覧会があり、原爆廃絶という作品を見て、すごい感銘を受けました。すぐに手紙を書いて、先生の下でデザインを勉強するために東京に出ました。
 
修業してから3年くらい経った頃、ロサンゼルス(現在はパサデナ)にある芸術の名門校、アートセンター・カレッジの記事をデザイン誌で読み、ぜひそこで勉強してみたいと思いました。親父は、僕が生まれてすぐに死んだんだけど、10代の頃、アメリカに留学していました。ミシガンには叔父もいたし、21になったばかりで何でもできると思っていましたから、冒険ができたんでしょうね。
 
アートセンターでは、グラフィックデザインの勉強をしました。全世界からデザインを志し、実力のある人が集まって来ていました。大抵は、デザイン系の大学を卒業した人や、デザイン事務所に務めていた人で、僕みたいに現場の経験だけというデザイナーはいません。また、当時は70年代で、人種差別もありました。僕の作品を見た白人のクラスメートに、ねたみ半分、冗談半分で、「お前の右腕を折ってやろうか」と言われたことも。そういうのは、まともに受け取らなかったのですが。
 
卒業する1、2カ月前に、ドン・クーブリー前学長から、「君はニューヨークに行くのか、ロサンゼルスに残るのか?」と聞かれました。僕が「ロサンゼルスに残る」と答えたら、「それじゃあソウル•バスのオフィスを紹介してあげよう」と言われ、学長が直々に面接をセットアップしてくれたんです。
 
ソウル・バスと言えはデザイン界のパイオニアで、デザイナーとしては世界で5本の指に入る巨匠です。新卒で面接を受けられるなんて、考えられないことでした。デザインの神様直々の面接を受けたら、いきなり「いつから仕事に来られる?」ですよ。卒業式が土曜日だったので、週明けの月曜日から働き始めることになりました。
 
当時は時代が大らかでしたから、ほとんどの学生は、卒業後に3~4カ月かけてポートフォリオを作り直し、それからじっくり仕事探しをしていたんですよ。だから、クラスメートからはやっかみで、「そんなに早く仕事に就くなんて、下河内は頭がおかしい」って言われました。僕にとっては、すごくラッキーだった。

 

デザイナー人生を変えたユナイテッドのロゴ

パートナーのリーブスさんと
トントン拍子にソウル・バスの事務所に入れたわけですが、実は僕を雇うために、元々いたデザイナーがクビになっていたんです。入社当初は知らなかったんですけど。入ってからも、横のデスクにいたデザイナーが次の週にいなくなって、またその隣の人がいなくなってと…。仕事ができなければ、容赦なくドンドン首になりました。完全能力主義です。
 
働き始めて2年くらいで、ユナイテッド航空のコーポレートロゴをデザインするチャンスに恵まれました。学校にいる時は、いくつかアイデアがあれば課題を仕上げられました。ところが、この時は、僕を含め30人くらいのデザイナーたちが、何週間も毎日アイデア出しばかりするんです。アイデアが出なくても、毎日机に向かって何か描かなきゃいけないから、本当に厳しかったですね。アイデアだけで何千も集まり、その中からソウル・バス自らが選んでいきます。同じ会社にいても隣のデザイナーとの競争。斬新なデザインを考えるのに必死でした。
 
採用されなかったデザイナーがドンドン脱落していって、最終的に下っぱの僕のデザインが選ばれたんです。もうその時は感激ですよ。僕のアイデアでデザインされた物が、世の中に出るんですから。特にユナイテッドのロゴは、今でも残っていますから、感慨もひとしおです。
 
ロゴで一番大切な要素は、誰にでもわかる、記憶に残るということ。最近のロゴマークは、コンピューターを利用するから複雑なデザインになるんです。複雑になり過ぎて、面白さはあっても皆同じような感じ。そうなるとロゴとしての親しみはあったとしても、効果は薄いですよね。
 
ソウル・バスの事務所で4年間修業した後、独立してフリーランスになりました。フリーになってもしばらくは外部パートナーとして一緒に仕事をしました。ソウル・バスと働いた6年間は、私のデザイナー人生を決定付ける、充実した日々でした。本当に感謝しています。
 
1985年、ソウル・バスの元同僚のアン・リーブスと事務所を作りました。TBSのロゴデザイン(現デザインの前の物)や東燃(現・東燃ゼネラル石油)、サッカーの清水エスパルスの文字デザインなどを手がけてきました。特に印象に残っているのはTBSのロゴで、昭和天皇が崩御した時、TBSの中継車は他局より後ろの方に止めなければいけなかったって聞きました。ロゴが派手で、目立ち過ぎるから(笑)。コンペでも、社長の一存ではなく、社内でアンケートを取って社員にも好かれた結果のデザインだったので、うれしく思っています。

 

課題解決には経験と説得力が必要

この仕事を続けてきて、辛いと思ったことはないですね。なかには「これは難しい」と思うクライアントとの仕事はあります。ですが、クライアント企業の業務内容や将来の目的とか、相手のことがわかれば、アイデアは自ずと出てきます。ですからコミュニケーションが大切だと思いますね。
 
そして、デザインしたら、それをクライアントにわかりやすく説明するっていうのが、すごく大切だと思うんです。いくら良い作品でも、説明が不十分だったら、クライアントとしては理解することもできないだろうし。
 
学生の頃は、あまり必要ないと思っていたのが、実際仕事をすると重要になるんですね。紙の上の作品だけじゃなく、説明もできなければ、かみ合わないんです。デザインはサイエンスとは違って、1+1=2という答えがない。そして、さまざまな答えの中で、課題に対しての1番のソリューションを選び出すには、経験と説得力が必要です。
 
ですが、いくらいいデザインでも、それが消費者に認められなかったら売れないし、そのあたりは難しいですね。産業デザインは、ファインアートとは違うから、自分がいくら満足しても、企業の目的とかカスタマーに対するリアクションがなければ意味がない。そういう意味では、チャレンジングで面白いですね。
 
それから、デザイナーとして大切なのは、自分の仕事を好きじゃないとダメってこと。好きで、一生涯続ける意志がなかったら難しいと思うんですよ。例えば、お金になるからとか、誰かがすすめるからやるというのではなく、「好きだ」という気持ちが大切。
 
そして、やっぱり仕事を楽しまなくちゃいけない。嫌々やってたんじゃ、良い作品もできないし。好きでやるから良い仕事もできるんです。楽しくない時もあるでしょうが、それは当たり前です。たまに食べるからご馳走も美味しく感じるんですよ(笑)。それと同じでデザインも、必ずしも楽しいプロジェクトばかりじゃない。けれど、キャリアとして見た場合、仕方がないからやるっていう心構えではできないです。
 
僕は40年間やってきて、ずっと楽しんでいます。なかには「これ嫌だな」「やりたくないな」って最初思っていても、アイデアのソリューションを探っていくと、自然と楽しみが増えていきますね。
 
ほぼ一生かけてデザインは楽しんだので、これからは絵画に集中したいです。40数年住んだロサンゼルスを離れ、自然に囲まれた小さな町に移り住もうかと考えています。そこで自分の好きな絵を描くことに打ち込みたいと思っています。今度は自分の描く絵を誰かが気に入って、評価してくれたらうれしいですね。
 
(2010年1月16日号掲載)