プロゴルファー / 横峯留衣&横峯さくら、キャディー / 横峯彩花

日本女子ゴルフ界に旋風を巻き起こした横峯姉妹。「さくらパパ」こと良郎さんと3女・さくらさんとの絶妙な掛け合いが有名だが、家族全員で日本ツアーを闘う姿は、ゴルフファンならずとも観る者を魅了している。世界を目指す横峯姉妹の支柱にあるのは、ゴルフに対する情熱と家族への深い愛情だった。

ゴルフは自分の素が出るものだと思う。

◆よこみね・るい(左前)◉1982年生まれ。鹿児島県鹿屋市出身。フリー。10歳からゴルフを始める。2003年プロテスト合格。07年は欧州の選手権および米国の予選会に参戦予定。
◆よこみね・あやか(後)◉1983年生まれ。
鹿児島県鹿屋市出身。国内予選会への出場経験もあるが、現在は姉・留衣や妹・さくらのキャディーを献身的に務める。
◆よこみね・さくら(右前)◉1985年生まれ。鹿児島県鹿屋市出身。サニーヘルス所属。 明徳義塾高等学校卒業。2002年、日本ジュニア優勝。04年プロテスト2位合格、06年はツアー3勝を挙げ、国内賞金ランキング3位、世界18位。

海外に挑戦したことがすごくいい刺激になった

留衣: 私はLAは2回目です。去年の夏からアメリカのツアーに参戦していますが、雰囲気がすごくいいなぁと思って。雰囲気とか環境とか、日本では絶対体験できないくらい、すごいオープンなんですよ、練習の時も、試合の時も。「え、こんなのアリなの?」っていうぐらい。

彩花: 例えば、日本は普通、試合中にキャディーはコースの中に入れないんです。予選会とかでも。こっちではべったりくっついていても怒られないし。すごいやりやすかったです。

さくら: 日本がすごく好きなので、年間を通して海外フル参戦というのは今の所、考えてないですが、とりあえず、何試合かは出ようかなという感じです。去年、4試合か5試合くらい海外の試合にも挑戦して、その影響もあります。すごくいい刺激になりました。

3人でやっていたから嫌にならなかった

留衣: ゴルフを始めたのは10歳の時です。

彩花: 私は9歳、さくらは7歳の時です。

留衣: 最初からすんなり受け入れられて。気がついたらやっていたという感じです。学校が終わって練習があっても、多分3人でやっていたから、嫌にならなかったんだと思います。

さくら: 3人とも同じゴルフの世界にいて良かったと思ったのは、小さい頃くらいかな。

留衣: 姉妹ということを意識するのは、私が1番強かったですね。私は国内トーナメントのシード権を持っていないので、試合にあまり出られないんです。妹(さくら)とかは、いつも試合に出ていて、上位で活躍してて…。自分がすごい引け目を感じたりとか、嫉妬とか強くなって。姉妹の仲がギクシャクしたこととかありました。

彩花: 父(良郎さん)とは、仲いいですよ。

留衣: 今回の渡米は女3人だけだったので。だから、父がすごい心配していて。「ちょっと親バカじゃないの」と思うぐらい(一同笑)。

留衣: 去年1年間やってみて、やっぱり自分には海外がすごく合っていると思ったので。今年は4月からヨーロッパで挑戦したいと思っています。

彩花: いろんな面で大変になってくると思うので、今年は英会話を学んで、2人の国際戦をさらにサポートできることが目標です。

さくら: 今年は日本で賞金女王になれるように頑張ります。3年シードも取れているので、海外の試合に挑戦しつつ、日本で頑張りたいと思っています。今年、海外参戦が決まっているオーストラリアの大会には、姉(留衣)と2人で出ます。アメリカにもいずれは挑戦したいです。

留衣: ゴルフを通して学んだのは、人との出会いとか、付き合い方です。

さくら: 自分も一緒ですね。よく言うのですが、ゴルフをしてたらその人がわかるというくらい、ゴルフは自分の素が出るものだと思います。
 
(2007年1月16日号掲載)

D1副社長・シニアアドバイザー / 土屋圭市

車体の向きと進行方向にずれが生じ、横向きにスライドしながらコーナーを走行する「ドリフト」。日本では、2001年から全日本プロドリフト選手権(通称D1-GP)が開催され、一般的に認知されている。近年、アメリカGPも行われ、ドリフトは新しいモータースポーツとしても確立されつつある。ドリフトの第一人者で「ドリフトキング」と称される、D1副社長/シニアアドバイザーの土屋圭市氏に話を聞いた。

ドリフトの好きな人に対しては、平等でなければいけないというのが、僕の考え方。

つちや・けいいち◉1956年1月30日生まれ、長野県出身。ドリフト走行を多用するそのドライビングスタイルから「ドリキン」(ドリフトキングの略)と呼ばれる。77年に富士フレッシュマンレースでデビュー。84年に、同レースで開幕6連勝を飾り、その名を有名にした。03年にレーシングドライバーを引退。現役時代から審査委員長を務めていた、D1-GPの運営に携わる。06年に『The Fast and the
Furious -Tokyo Drift-』に、テクニカルディレクターとして参加。釣り人の役でカメオ出演も果たしている。
公式サイト:www.k1planning.com

より早く美しく迫力のカーレース

18の時から峠でドリフトを始めて、21からレーシングドライバーを務めて、レーシングドライバーをやりながらドリフトイベント「D1-GP」で審査員を務めてきました。2003年に47でレーシングドライバーを引退してからは、D1-GPの運営にも携わってきました。レーシングドライバーとして、日本のレースのトップカテゴリーで闘ってきた一方で、ドリフトも続けてきました。いわば表の顔がレーシングドライバーで、裏の顔がドリフトキングとでも言いましょうか(笑)。

僕がドリフトをやっていた頃は、「ドリフト」イコール「悪」「暴走族」「人の迷惑」という図式があって、「じゃあ、ちゃんとサーキットでイベントとして始めよう」と、通称「イカ天」、「イカす走り屋チーム天国」というのから始めました。これがどんどんレベルが上がってきたので、「それじゃ、プロフェッショナルクラスを作ろう」と。それでD1-GPを始めたんです。

だから、日本発祥のドリフトの世界大会が開かれ、「ドリフト」という言葉が世界で通用するまでに定着してきたことは、ものすごくうれしいですよね。アメリカではもう4年、世界各国で大会が開かれ、D1を始めてから6年目で10カ国からの参加があるっていうのは、もう非常にうれしいことですよ。

ドリフトっていうのは、モータースポーツをまったく知らない人でも、フィギュアスケートの美しさと、相撲のぶつかり合いの迫力が楽しめます。右にコーナーがあるのに、逆の左にハンドルを切る。子供でも、お年寄りでも、スゴさがわかる。非常にわかりやすいモータースポーツだと思います。

スピードが何キロ出ているか、ドリフトの角度がどれくらいあるか、プラス、スタンディングオベーションを贈るだけの迫力があるか、この3つだけでお客さんはD1を理解できます。ちょっとミスしただけで、それがマイナス1点、0.1点になる。美しさの観点だけなら、フィギュアと同じです。

スピードと美しさと迫力を競うD1-GPは、サーキットのフィギュアスケートのよう

160馬力のクルマが600馬力に勝つ醍醐味

アメリカでは、3年前に僕が初めてデモランを行ってから、毎年ジャッジとしてD1-GPに参加しています。でも、今のアメリカのドリフトは、全然その当時の走りじゃないですね。クルマ自体は、基本的に400~600馬力で変わっていません。でも、3年前に比べて、確実にエントリースピードも、脱出スピードも上がっていますね。だから人間のレベルが上がったというのが1番大きい。

D1では、ドリフトがうまくて当たり前。その他に何かと聞かれたら、「迫力出せるの?」「お客さんにお金を払って見に来てもらえるの?」「スタンディングオベーションを受けることができるの?」、そういったプラスαがないと通用しません。日本人のトップ30は、そういったショー的要素もこなしていますが、外国人選手でそういうレベルにあるのは、多くて5、6人。アメリカでも記憶に残る選手というのはひと握り。ということは、日本人選手に負けてしまっているんだね。

アメリカ人選手と日本人選手の違いは、まずアメリカ人選手は人のアドバイスを聞かない(笑)。欧米の選手は、自分が1番だと思っていますから。日本人選手は予選に落ちたら、何が悪かったのか、僕に聞きに来ます。練習の合間にも自分のどこが悪いのか、アドバイスを求めに来ます。ただ、最近は、アメリカ人でもトップ選手になると、必ず僕のところにアドバイスを聞きに来るようになりました。

アメリカ人選手に今1番必要なのはスピード。どこのサーキットで見ても、ドリフトはできているんだけど、スピードがないから迫力がない。今、スピードを持っているのはタナー・フォーストただ1人。それじゃあ、なかなかレベルが上がらない。やはり、何人かうまい選手がいて、その国のレベルを引っ張っていかないと。レベルを上げるためには、日本から常に何人かの選手が来て、アメリカの選手とバトルをすること。だから、今年からレベルの底上げのために、D1-GP USAを立ち上げ、日本から常にトップ選手を送り込みます。

そもそもドリフトっていうのは、アメリカ人に合ってると思いますよ。瞬間、瞬間の勝負で終わる。しかも、トーナメントだから、その勝負がどんどんレベルアップしていく。勝負が一瞬でつくことが、アメリカ人やD1ファンにとっての魅力だと思います。

あとは、160馬力と600馬力のクルマが闘って、160馬力のクルマが勝つことがある。ドリフトのそういう信じられないことが起こるっていうところが、アメリカ人にウケるんじゃないかな。お金のある人もない人もいる。ドリフトの好きな人に対しては、平等でなければいけないというのが、僕の考え方。だから、テクニックだけで競いなさいっていうのが、ドリフト=D1-GPです。

ハリウッドが取り上げドリフトが一躍メジャーに

『The Fast and the Furious -Tokyo Drift-』が日米で公開され、ドリフトが一般にも浸透してきました。僕は最初、ユニバーサルとはテクニカルアドバイザーで契約していました。日本での撮影のドリフト部分は、全面的に僕に任せてもらい、主役のショーンのドリフトのダブルは、僕がやっています。で、撮影しているうちに監督から、「お前も出てみろよ」と言われて。台本にはなかったんだけれども、釣り人の役で出演しました(笑)。

ドリフトを、ハリウッドが取り上げてくれてうれしかった。D1をBBCやESPN、Speed Channel、Discoveryが取材に来てくれるのも、そのおかげ。アメリカ人が興味を持てば、世界のマスコミが興味を持ってくれる。D1-GPがここまで来られたのも、本当にアメリカのおかげです。

できるかどうかはわからないけど、これからは、D1をF1グランプリに次ぐポジションに上げていきたいですね。そして、僕と関わっている人間たちすべてをハッピーにしたい。ドライバー、メカニック、スタッフ、すべての人が良い暮らしを送れるようにするのが僕の夢ですね。

カリフォルニアでもD1は定着しつつあるので、もっともっと多くの人に見に来ていただきたいですね。皆さんがたくさん見に来てくれれば、もっと大きなサーキットですることもできます。今後とも応援してください!
 
(2007年1月16日号掲載)

HPI Holding, Inc.プレジデント&CEO / 渡辺龍郎

子供の頃から趣味だったラジコンカー。親にすすめられた留学先はラジコンのメッカ・ロサンゼルス。喜んで留学し、自分で何かやろうと思った時に持っていたのは、ラジコンの知識だけだった。資本金200ドルで自宅のガレージから部品の輸入販売を始め、今や世界中に拠点を構える年商1億ドルの企業に成長した。その影にあったのは、小さな努力の積み重ねと、レースを通じて世界中に広げた信頼の輪だった。

お客さんにとってエキサイティングなものをこれからもずっと作り続けていくのが目標

わたなべ・たつろう◉1964年生まれ。福岡県出身。東京の高校を卒業後、83年に渡米。語学学校を経て、サンタアナ・カレッ
ジでスモールビジネスマネージメントを専攻。86年、21歳の時にラジコンカーの輸入販売会社、HPIを設立。自宅のガレージから出発し、87年にHPIジャパン、98年にHPIヨーロッパを設立。現在ではアメリカに3拠点、イギリスに2拠点、日本に2拠点、中国に1拠点を構え、年商1億ドルを超える。

10歳からレースに参加バイトして海外にも

小学生の頃からラジコンカーが趣味で、学校では勉強もせずにずっとラジコン雑誌を読んでいるような子供でした。おそらく最初に買ったラジコンカーが、日本で最初に発売された日本製品だと思います。当時で4、5万円しましたから、最初は雑誌ばかり読んでいました。ラジコンカーの販売促進のためにレースも始まると、アルバイトをしてレースに出るようになりました。最初に出たレースは長野県で開催された小さな大会で、2位になってトロフィーをもらったのがうれしかったですね。高校生になると、バイトでお金を貯めて海外のレースにも出ていました。最初の海外旅行は、17歳の時。ロサンゼルス近郊でのレースに出場するためでした。

高校の卒業が近づき、皆が就職や進学の進路を決めていた頃、私は何も決まっていなかったので、親が「格好が悪いから留学しなさい」と言ったんです。留学先はロサンゼルスだと言うので、喜んですぐに渡米しました。当時からロサンゼルスはラジコンカーのメッカで、大小50社ほどラジコン会社がありましたし、市場としても大きかった。

83年に渡米して、語学学校からサンタアナ・カレッジに進み、スモールビジネスマネージメントを専攻しました。その頃から、自分で何かをやりたいと思っていました。ですが、自分が知っているものと言えばラジコンカーしかありません。そこで21歳の時に、家のガレージで、パートナーと2人でラジコンカーの部品輸入販売の会社を起業しました。自分にあったのはラジコンの知識と、10歳の頃からレーシングをやっていたので、その間に築いた人との信頼関係だけでした。

起業といっても私が100ドル、パートナーが100ドル出しただけで、計200ドルで始めたので、朝起きると仕事して、昼は学校に行き、夜は仕事で、その合間にピザの配達などをして生活していました。

ラジコンカーを実車化したモデルカー。社内レクリエーションの時には、サーキットで社員を乗せて走る。

お金がなかったから真っ黒になって手作り

日本製のモーターは高性能なので、それをアメリカの会社に売ろうとしたのですが、1個680円のモーター100個1ケースを買うと6万8千円が必要です。でも資金200ドルですから買えません。でも「売れた時に払ってくれたらいい」と言ってくれ、船便で送ってもらって、ロングビーチの港まで受け取りに行っていました。その他にも、スポンジタイヤを自分で削ったり、お金のかからない方法で手作りしていました。プラスチックのホイールに接着剤を塗ってシンナーで溶かし、スポンジをつけてやすりで削るのですが、臭いし、真っ黒になるんですね。

でも最初は認めてもらえないし、誰も相手にしてくれません。2年目にガレージから300スクエアフィートのオフィスに移った時も、不動産屋から嫌味を言われたりなど、嫌な態度をされたことは何回もあります。でもそれがバネになった。若かったから、怖さもなかったし、くじけることもなかったのですね。

最初の1、2年は給料も出ないし、食べていけるようになったのは3年目くらいから。毎日が危機のようで、本当にやっていけると自信がつくまでに7年くらいかかりました。でも日本にHPIジャパンを設立したのは87年頃で、比較的早かったですね。というのも、その頃急に円高になって、1ドル130円台になったのです。すると日本から輸入していたものが為替レートの変動で値上がりしたので、単純にそれならその逆をすればいいと考えたのです。アメリカにも良い物はたくさんあるので、それを日本に輸出すればいいと。

日本のオフィスは、最初は4畳半のアパートで、朝起きて布団を畳むと、それがオフィスになるわけです。押入れが倉庫で、「アメリカのこんな製品はありますか」と電話が来ると、「はい、あります」と言って押入れから引っ張り出すんですね。電車がすぐそばを走っていたので、電車が通ると電話も聞こえないようなところでした。

HPIヨーロッパを設立したのは、友人にすすめられて。18歳の頃からレースを通じて、世界中に友達がいたんですね。そのなかには私と同じような人生を歩んでいる人もいて、スイス人の友達もそのなかの人です。今でも彼はスイスで当社製品の販売をしてくれていますが、ある時彼と「ヨーロッパに進出すれば」という話に。それまでは考えてもみなかったのですが、EUとして見たら、ヨーロッパは世界の3分の1を占める市場です。やらない手はないと思い8年前に設立したのですが、今ではグループ内で1番大きくなりました。

10カ国の仲間が集い、世界を転戦するレースチームメンバー。

エキサイティングなものを作り続けていきたい

食べていくのに必死だったのが、ここまでできたのは、「これが好きだから」というのが1番大きいですね。結婚したり、子供ができると、そのたびに「しっかりしなきゃ」という思いが生まれた。いつも思うのは、今世界中に従業員が300人くらいいますが、その家族を入れると約900人の生活があるということ。しっかりしないわけにはいきません。

今でこそ、失敗したらという思いや、潰れたらという不安はほぼゼロになりましたが、会社が小さな頃は毎日のように不安を感じていました。でも商売は売るということ自体が難しいので、お客さんに買ってもらえたのが第1の自信になり、給料を出して採算が取れ始めたことが第2の自信になった。お金がなくて部品しか作れなかったのに、車全体を作れるようになった。日本やヨーロッパに子会社を作って、少しずつ「もう少ししっかりしなきゃ」という意識が高まったのだと思います。

具体的な目標を立てて、ここまで絶対に行かなくてはならないというものがあると、怖くないのですね。最初の頃は、それがなかったから怖かったわけです。成長が止まると会社は下がると、ずっと自分に言い聞かせてきました。世の中から車がなくならない限り、ラジコンカーの需要はなくならないと思うので、これからもお客さんから見てエキサイティングなものを作り続けていくのが目標です。ずっと成長し続けなければならないと思っています。

会社の考えを社員に理解してもらって、社員のエネルギーの元になるやりがいを作っていくことも重要だと思います。後は人を理解するということですね。社員でもお客さんでも、相手を理解しないと適切な判断はできません。相手を尊敬して理解し、そして命令ではなくお願いするということです。これからはラジコンカーだけではなく、ラジコン飛行機やミニカーなども手がけ、お客さんに夢を与える趣味の輪を広げた展開をしていきたいと思っています。
 
(2007年1月16日号掲載)

再び戦争が起きたら私たちは強制収容されますか?


日系人史研究者インタビュー・再び戦争が起きたら私たちは強制収容されますか?

「第二次世界大戦中、アメリカ西海岸に暮らしていた日系人、日本人が、国籍にかかわらず、人種だけを理由に、強制的に立ち退きを命じられ、強制収容所(キャンプ)に入れられた。」皆さんはそのことを知った時、どんなことを思われたでしょうか?
 
日本では触れる機会の少ない、日系移民と日系人の歴史。初めてその強制収容の事実を知った時、それが本当のことだと信じられないくらいの衝撃を受けました。自由と平等の国であるはずのアメリカで、犯罪の証拠もなく、裁判もなく、人種だけを理由に、日系人、日本人を収容するなんてことが許されたの?そんなことをアメリカという国が許したの?と。
 
そして、ライトハウスで毎年夏に日系人史についての特集をして、少しずつ歴史を知るにつれ、「なぜ日系人はあの時、強制収容のような人種差別的迫害を受けて、今、日本人の私は差別されることがないんだろう?」と不思議な気持ちがしてきたのです。人種差別的偏見はゼロではありません。でも日本人だからという理由だけで就職を断わられることもなければ、家を貸せないと言われることもない。アメリカ中どこにでも行けて、土地の所有を禁じられてもいないし、条件を満たせば米国市民にもなれる。もちろん当時は日米が戦争中で、今の日米関係は良好だという違いはあります。しかし、それなら「もし再び戦争が起これば、また差別をされるのだろうか?強制収容は繰り返されてもおかしくないのだろうか?」とも問いかけるようになりました。
 
歴史は後から振り返ると、必然のようにも見えます。しかし強制収容はなぜ起きたのでしょうか。それを防ぐ方法はなかったのでしょうか。またどうして日系人、日本人はそれにあらがわなかった、もしくはあらがえなかったのでしょうか。そして、戦後に日系移民が市民権を取れるようになった背景には何があり、それはどうして戦前には実現しなかったのでしょうか。さらに、なぜ1988年という年に、アメリカ政府は強制収容について誤りであったと謝罪をし、賠償金支払いを決定したのでしょうか。もし、そうした過去の出来事の理由がはっきり分かれば、「今、私たちが差別をされないのはなぜか?」「強制収容は再び起こるのだろうか?起こる可能性があるとすれば、どうしたら防げるのだろうか?」といった現在や未来についての問いの答えも出てくるのではないかと思い始めたのです。
 
残念ながら日系人の歴史は、アメリカの歴史の中ではメインストリームではなく、日系人史研究もアフリカ系やメキシコ系など他のエスニック研究に比べれば比較的小さな分野でしかありません。しかし、それでも、その忘れられがちな日系人史の事実を丹念に掘り起こし、歴史的文脈の中に位置付け、確かに形あるものとして歴史をつむぎ、未来へつないでいる研究者がいます。この特集では日系人史研究に取り組む日系人の方々に、そうした歴史の背景についての疑問を投げかけ、一緒に歴史の中を歩いてみました。その中では、想像もしなかった考え方をうかがったり、新たな発見をしたりすることもありました。皆さんは、どんなことを考えられるでしょうか。
 
日系人史についての疑問を、日系人史研究者にたずねました。

 

差別的政策はレイシズムだけが原因ではない。
歴史の背後には必ず理性的な理由があるのです。

移民の国であるはずのアメリカは、1924年、なぜ日本からの移民を禁止したのですか?

ロン・クラシゲ

ロン・クラシゲさん
南カリフォルニア大学歴史学部准教授。1964年、ロサンゼルスのカルバーシティー生まれ。カリフォルニア大学サンタバーバラ校卒業後、ウィスコンシン大学マディソン校で修士&博士号取得。専門は日系アメリカ人研究、歴史政治学研究など。

強制収容が起きた主な理由に、レイシズム(人種差別的偏見)が挙げられることがあります。「ジャップは出て行け」と大見出しが踊る当時の新聞を見ると、強制収容は集団ヒステリー的なレイシズムが起こしたものだと思わずにいられません。そうしたレイシズムに対して日系アメリカ人がどう行動したかを、リトルトーキョーで夏に行われるお祭り「二世ウィーク」を軸に書いたのが、ロン・クラシゲさんの『Japanese American—Celebration and Conflict』です。
 
移民としてアメリカで生活を築いた一世と、アメリカ人として生まれ、アメリカでの教育を通して強烈にアメリカ化しつつも人種差別の波にさらされた二世。その二世に、一世の町、リトルトーキョーでの購買を促したのが、二世ウィークの最初の目的だったと言います。レイシズムの高まりの中で、二世ウィークの性質は白人社会に日本文化への理解を促す目的を持ったり、また日本文化継承の意味を持ったりとさまざまに変化を遂げていきます。その変化は、日系コミュニティーやアイデンティティーの変化とも密接な関係にあったようです。
 
この本を書いたクラシゲさんは、南カリフォルニア大学で歴史を教える日系三世。日系人が多く住んでいたカルバーシティーで生まれ育ちました。歴史を専攻したのは「歴史を通して、私自身のアイデンティティー、そして日系コミュニティーを理解したかったから」だと話します。少年時代の友人は日系人もいれば白人もいて、その二つのコミュニティーを行ったり来たり。「『私は日系アメリカ人なのか、アメリカ人なのか』と常にアイデンティティーに悩まされていました。日系コミュニティーの小さな池にいれば快適 でしたが、メインストリームの大きい池にも興味がありました。片方に行ってしまえばいいのだけど、小さい池を離れたいわけじゃなくて、両方にいた いとジレンマを感じていたのです」。
 
大学で歴史を専攻したクラシゲさんが最初に取り組んだ研究は人種差別的法律、中でも日系移民による土地の所有を禁じた1913年のカリフォルニア州の「外国人土地法」でした。「典型的な三世の発言ですが、キャンプが強制収容所のことだと知ったのは大学に入ってから。レイシズムが あったのは知っていたけれど、個人のレベルだと思っていて、まさかそんなに大規模に社会的で政治的なものだとは思ってもみなかったのです。それを知ったことが土地法の研究につながっているように思います」。
 
この土地法は実は「日系移民」を名指しして、土地の所有を禁じているわけではありません。所有を禁じられたのは、米国市民になれない「帰化不能外国人。」つまり帰化権のないアジア系移民の中でも、当時まだ米国移住を許されていた日系移民が対象でした。帰化不能外国人を定めた「帰化法」があったがために、人種差別的法律の成立は容易になったとクラシゲさんは言います。当時はさぞレイシズムが渦巻いていたのかと思いきや、「こうした人種差別的法律ができた時代とはいえ、その時アメリカ人全員がアジア人を嫌っていて、差別的政策を 求め、歓迎したわけではありません」。
 
州のレベルでは、13年に外国人土地法が成立しましたが、連邦レベルで人種差別的政策が行われるのは、移民法が日本からの移民を禁じた24年まで、そこから10年以上の歳月がありました。日本からの移民が正式に始まった1880年代から数えると約40年間、レイシズムはくすぶりつつも実際の差別的法律に連邦レベルでは結びつかなかったわけです。「1924年に移民法が成立した背景には、20年代のアメリカ政治があります。 19年、第一次世界大戦が終わります。アメリカの戦死者数は他国と比較すると甚大ではありませんでしたが、それでも多くの人が死んだ悲劇的な戦争でした。そして、アメリカは二度と世界の問題に巻き込まれたくないと、孤立主義の時代に入っていきます。世界に対してドアを閉じ、同時に世界から押し寄せる移民にもドアを閉ざすのです」 。
 
当時の「移民」とは、アメリカ的なWASP(白人アングロサクソン・プロテスタント)とは異なる、ロシアや南イタリア、東ヨーロッパのカトリック、ユダヤ人、そしてアジア人。こうした非アメリカ的な要素を排除し、古き良き伝統に帰ろうとする内向き思考が20年代の通奏低音だったのです。19年から32年にかけて施行された「禁酒法」もまた酒を飲んで問題を起こす移民を念頭に置いた、伝統に帰ろうとする試みの一つであり、KKKなど白人至上主義団体が人気を得始めたのも、同じくこの時代でした。「 20年代は保守主義者が台頭した時代。その中で勢力を伸ばし始めた大日本帝国の軍事力に対する恐怖感が高まり、 24年の移民法が成立したのです。もしレイシズムだけが成立の理由なら、レイシズムが蔓延していた1880年代に成立していてもおかしくなかったでしょう」。

再びアメリカは移民にドアを閉じますか?

世界や国内の状況によって、内向きにも外向きにもなってきたアメリカ。今、また移民を排斥しようとする動きも見られますが、再び移民に対して差別的な法律を制定することはあるのでしょうか?「第二次世界大戦後の世界体制により、アメリカは国際的な関係の中で重要な立ち位置を占めていますから、今、そんな法律を成立させることはまずないでしょう。アメリカの差別的法律や政策はレイシズムだけで成立するのでなく、政治的文脈を抜きにしては語れないのです」。
 
またアメリカが移民に対し開かれた国になった理由には、冷戦という政治的作用もあったと言います。「『アメリカはレイシストだ、あんな国の側に つくな』とソ連に言われるわけにいかなかった。『差別は過去のものだ、私た ちは移民を歓迎する』とアピールする必要があったのです。国家は理由なく、突然態度を変えるものではない。経済的なものにしろ、政治的なものにしろ、そこには必ず理由があるのです」。
 
クラシゲさんは、どんな狂気に満ちた歴史でも、全てに理性的な理由があると考えています。「理性的だからと言って正しいわけではありませんが、その理由を理解せず、『醜悪な考えに取り憑かれた邪悪な人間が起こしたことだ、自分はそうはならない』とは 考えるわけにいかない。その時代にいたら、自分も同じような行動を取ったかもしれない。なぜ世界はそうなったのか、なぜ人はそういう行動を取ったのか、歴史はその理由を教えてくれます。それはより良い判断をする根拠になるかもしれない。歴史は、未来のための真実を探す媒介物になると思うのです」。
 
こうした歴史研究は、クラシゲさんのアイデンティティー問題も解決したそうです。「どっちか片方じゃなくてもいいように思い始めたのです。どっちもつながっているし、どっち側にもいられるんだってね」。

アジア系アメリカ人は60年代後半に生まれました。
アジア系が「アメリカ人」として初めて可視化されたのです。

「アジア系アメリカ人」が現れた1960年代。その前後では何が変わったのでしょうか?

カレン・イシヅカ

カレン・イシヅカさん
作家、研究者、映画監督 。1947年生まれの日系三世。97年、夫で映画監督のロバート・ナカムラさんと全米日系人博物館内にFrank H. Watase Media Arts Centerを設立し、日系人の映像資料製作・保存に尽力。2015年、UCLAで博士号取得。

「Asian American(アジア系アメリカ人)」という名前は、アジア系内の差異が分からないアメリカ人が名付けたもののように見えますが、実は 1960年代後半、日系人史研究の先駆者ユウジ・イチオカさんが名付けたものだそうです。それまで、アジア系アメリカ人は、日系、中国系、フィリピン系と個別に存在するだけで連帯意識はなく、白人と黒人で構成された米国社会で「オリエンタル」と呼ばれ、外国人のような扱いを受けていました。
 
カレン・イシヅカさんは『Serve the People』の中で、そのオリエンタルたちが結集して、自らをアジア系アメリカ人と呼び、個々では少数で脆弱な政治的パワーを束ねて、「アメリカ人」として存在を確立していった時代を記録しています。自らもその時代の中にいたイシヅカさんは、サンタモニカ育ちの日系三世。母から「誰よりも優秀でありなさい」と言い聞かされて育てられたと言います。「日本的な名誉や家名に対する感覚から来るものもあったでしょうが、加えて母は、『日系人の強制収容は間違いだった』と私を通して証明しようとしていたのだと思います。母にとって強制収容は、政府のあまりにひどい裏切りでした。母はアメリカで生まれて育ち、アメリカだけが唯一の母国だったのですから。でも子どもの頃の私はキャンプが何かを知らず、理解したのは大学に入ってからでした」。
 
1950〜60年代、差別にさらされてきたアフリカ系アメリカ人が立ち上がり、公民権運動が活性化します。この公民権運動には、日系人人権活動家、ユリ・コチヤマらをはじめアジア系アメリカ人も参加。そして、アフリカ系アメリカ人公民権運動と時を同じくして、各地の大学にエスニック研究が設置されると、マイノリティーとしての自己のアイデンティティーを問う若い人々が増え、アジア系アメリカ人運動が発生。またベトナム戦争が始まり、アジア系への人種差別と暴力がむき出しにされる中でアジア系の連帯意識が高まりました。こうし た運動の中で、多くの日系三世が初めてキャンプとは何かを知り、それまでキャンプについて話すことがなかった親に質問をし始めます。親の世代が、 国によって経済的にも心理的にも社会的にも傷付けられたことを知り、やがて強制収容に対するリドレス(戦後補償)運動に発展するのです。
 
当時、イシヅカさんはサンディエゴの大学院に在籍し、ソーシャルワークを専攻して、ドラッグ乱用防止のための団体で働いていました。「 60年代、 70年代のアジア系コミュニティーではドラッグ乱用が深刻な問題でした。しかし『誰よりも優秀であろう、200%アメリカ人であろう』とする日系などアジア系コミュニティーは、そんな問題があるとは認めなかった。それはドラッグ乱用を悪化させるばかりでした。」しかし、その頃ロサンゼルスにイエローブラザーフッドなどアジア系の元ギャングたちが集まった自助グルー プが結成。ドラッグ乱用防止対策を始めていて、イシヅカさんは彼らと共にアジア系コミュニティーのドラッグ乱用防止に取り組みました。アジア系アメリカ人運動は、差別解消を求めただけではなく、コミュニティー内の変革の側面もあったのです。

アジア系アメリカ人の運動は、その目的を達成しましたか?

ベトナム反戦デモ

Photo by Robert A. Nakamura
ロサンゼルスで1970年に行われたアジア系アメリカ人によるベトナム反戦デモの様子

イシヅカさんはその後、夫でアジア系アメリカ人映画作家のパイオニア、ロバート・ナカムラさんと共に、日系人のドキュメンタリーを中心とする映画製作に活躍の場を移します。92年にロサンゼルスに全米日系人博物館が設立されると映像資料の製作、保存に尽力。94年には同館で「America’s Concentration Camps(アメリカの強制収容所)」と題した展覧会を行います。「この展覧会では、事実や数字だけを紹介するのではなく、キャンプに入れられた二世の視点からキャンプを紹介する構成を取りました。キャンプを知らない人にどんな場所だったかを理解してもらうには、」キャンプにいた人々の視点を通して、キャンプでどんな時間を送ったか感じられるようにするのが良いと思ったのです」。
 
展覧会では、全米10カ所にあった強制収容所の場所を示したアメリカ地 図も展示。その地図の前でもなお「で、いったいこれらの収容所はどこの国にあったの?」と、アメリカに強制収容所があったことを信じない人もいたそうです。「強制収容所なんてあまりにもアメリカ的ではありませんから。アメリカ政府が、人種だけを理由にその集団全員を、有刺鉄線に囲まれた収容所に入れたという事実に多くの人がショックを受けていました。一方、中には『ナチスドイツの強制収容所とは違ったでしょ』と言う人もいました。もちろん違います。だからと言ってアメリカの強制収容が正当化されることにはなりません。問題は、アメリカ政府が法に則った手続きもなく、憲法に背き、米国市民を強制収容したということです。人種を理由にした強制収容が憲法で防げないなら、それは、どの人種にも、誰に対しても起こり得る。誰しもが強制収容される可能性があるということなのです」。
 
強制収容に対する謝罪を求めると同時に、二度と起こらぬ楔となるように金銭的賠償をも求めたリドレス運動が実を結び、88年に「市民の自由法」が成立。イシヅカさんはその時、今後は人種を理由にした強制収容などは二度と起きないだろうと思ったそうです。「でも9・11の同時多発テロ後、ムスリムや中東系の人々を強制収容しろなどという声が上がりました。その意味では、アジア系アメリカ人運動やリドレス運動が目指した目的は達成されなかった。人種差別はなくならなかったし、根絶される日が来るかも分からない。それでもアジア系アメリカ人運動が成し遂げたことは少なくなく、それがなければ、アジア系アメリカ人の現在は、随分違うものになっていたと思うのです」。
 
アメリカの歴史全体の中では、ごくごく小さな場所しか占めないアジア系アメリカ人の歴史。イシヅカさんはだからこそ、自分たちの歴史について言葉にして残す必要があると思っているそうです。「そうでなければ、その歴史は消えてしまうかもしれない。過去は私たちがいったい何者なのか理解する手がかりになります。私は アメリカ人ですが、ただ『アメリカ人』であるのではなく『日系アメリカ人』です。『日系』の要素はアメリカ人である私の大切な一部であり、その歴史も私自身の一部なのです」。

再び強制収容が起きるなら、それは無知と恐怖が結びつく時。
フレッド・コレマツの闘いを思い出してみてください。

なぜ日系人、日本人は無実であるにもかかわらず、黙って強制収容されたのですか?

ロレイン・バンナイ

ロレイン・バンナイさん
弁護士。シアトル大学ロースクール教授、Fred T. Korematsu Center for Law and Equalityディレクター。1955年生まれ、ガーデナ育ち。83年のコレマツ訴訟の再審時の弁護団の一人。父は日系人初のカリフォルニア州議員、ポール・バンナイ。

1942年、軍事的必要性の名の下に、西海岸から日系人、日本人が一人残らず立ち退きを命じられ、強制収容所へと送られました。その際、「政府が命じた立ち退きに従うことが、アメリカに忠誠を証明する道」と考え収容に協力した二世団体の日系アメリカ人市民同盟(JACL)をはじめ、日系人、日本人の大半がそれに反抗することなく、収容所へと送られていきました。
 
その中で大多数と異なる行動を取ったのが、当時23歳のフレッド・コレマツでした。コレマツは「アメリカ人である私は、他のアメリカ人と平等の権利がある」と、立ち退きを拒否して西海岸に留まります。そして白人の恋人と共に西海岸から逃亡しようと計画し、逮捕されてしまうのです。しかし留置所に一人の弁護士が訪れ、コレマツの運命は大きく変わっていきます。
 
アメリカ自由人権協会北加支部長だったその白人弁護士は、「コレマツの裁判を日系人強制立ち退きの合法性を問うテストケースとしたい」と無償で弁護を申し出たのです。「政府の命に逆らった」「家族をおいて白人の恋人といることを選んだ」とコレマツは日系コミュニティーで疫病神扱いされながらも、信念を貫き最高裁判所まで訴訟を持ち込みます。しかし44年12月、「日系人、日本人の西海岸からの強制立ち退きは軍事的必要性があった」として最高裁判所は、一審、二審の有罪判決を支持したのです。コレマツは犯罪者としての前科を背負い戦後を生きていくことになります。
 
しかし81年に、戦中のコレマツ訴訟は、「西海岸で日本人、日系人がスパイ活動を行っていた」という国がねつ造した偽の証拠に基づいていた事実を、国の書類の中からマサチューセッツ大学の教授が発見。83年にコレマツ訴訟の再審が始まるのです。
 
『Enduring Conviction』は 42年、 83年のコレマツ訴訟を描いたノンフィクション。著者のロレイン・バンナイさんは、コレマツ再審の弁護団の一員として訴訟に臨みました。戦中のコレマツ訴訟は、アメリカで弁護士を志す人なら必ずロースクールで学ぶ非常に有名な裁判。バンナイさんもロースクールで知ったそうです。「日系人の強制収容は違憲であるにもかかわらず、44年に最高裁は合憲としました。私はそれまで法と正義とは同一のものだと思っていたのですが、戦中のコレマツ訴訟を知り、その考えは砕け散りました。判決理由を読むと、全く意味をなさないのです。『日系人は日本に忠実な民族的特徴がある』『子どもは日本語学校に通っているから日本に忠実だ』なんて!」
 
バンナイさんはそもそも、法は社会的変革のための重要な役割を果たすもので、人々を助ける強大な力を持つものだと考え、弁護士を志しました。
「本来は弁護士がいなくても、各人が正義を得られるのが理想ですが、残念ながら現実はそうではありません。」コレマツは幸いにも弁護士を得て42年の訴訟を闘いましたが、もし他の日系人も弁護士に恵まれていたら、強制収容と闘っていたのでしょうか?バンナイさんは静かに首を横にふりました。「当時は政府を相手取って闘うなんて考えもなかったでしょうし、公民権運動以前のことですから、権利を侵害されているとも知らなかった人もいると思います。それに日系人は政治的に非常に無力なマイノリティーでしたから、反抗すればもっと悪い状況になると思った人も多かったでしょう」。
 
その中で強制収容の不当性を訴えて訴訟を起こしたのはコレマツをはじめ、ごく少数。そんな伝説的人物の再審に関わるとあって、バンナイさんはコレマツに会う前、ひどく緊張したそうです。「でもフレッドは柔らかい物腰のチャーミングな人でした。家族みたいに歓迎してくれて。彼の訴訟に関われたのは本当に幸運でした。それに弁護団も最高のメンバーでした。皆、フレッドは絶対に勝たなきゃと思っていて、何度も会議を持って綿密に訴訟の戦略を練ったんです」。
 
負けるとは思わなかったんですかと聞くと、「いいえ、でも負けたらどうしようと思ったことはあります(笑)。そうしたらコレマツ訴訟は2度も負けることになるから、まずいなあと。でも、戦中のコレマツ訴訟の証拠がねつ造されたという証拠は、国のファイルから見つかったわけですから、国は言い逃れようがないと思っていました」。
 
そして83年11月、戦中の有罪判決は無効との判決が下されたのです。「フレッドの勝訴はリドレス運動のさらなる推進力になりました。それまではいくら謝罪を求めても『最高裁は強制収容を合憲と言ったじゃないか』と反対する国会議員もいた。でもフレッドの勝訴で、それが間違っていて、日系人が不義に苦しんだことが証明されたのです。勝訴は、フレッド自身にも重要なことでしたが、日系コミュニティーにも非常に重要でした」。
 
それまで人前で自身の経験を語ることはほとんどなかったコレマツでしたが、その後は、9・11後などに「ムスリムを強制収容しろ」という声が上がるたび、人種差別の不当性を訴えるなど、2005年に他界するまで、日系人が苦しんだような差別が二度と起きないよう声を上げ続けました。

それでも止まない差別。強制収容は再び起きてしまうの?

強制収容が違憲であったと判決が出た後も終わらない人種差別。最初にインタビューをしたクラシゲさんは、人種差別的な法律が成立するには、政治的な要素が関わってくると話してくれましたが、もし戦争が起きるなど政治的な状況が整えば、再び強制収容が起きることがあるのでしょうか。「再び起きるなら、それは無知と恐怖が結びついた時だと思います。自分と異なるグループに対して理解せず『変な食べ物を食べている』『彼らの宗教は私たちのものと違う』などと無知でいるところに、『彼らが私たちの仕事を奪っている』『私たちの安全が脅かされている』と経済的な恐怖や安全への恐怖が結びついたら、『あいつらを隔離しろ、収容しろ』という声が上がってしまう。でも無知と恐怖に流されるのでなく、そこで立ち止まって、彼らについて『ヘンだ』『危ない』と書かれているものは本当だろうか、彼らは本当に何をしたんだろうかと考えてみること。日系人だろうが黒人だろうが中東系だろうが、もし誰かの権利が守られないなら、私たちの権利も、私たちの子どもの権利も踏みにじられてしまってもおかしくないのです。私たちの権利は、他人の権利と同じだけしか価値はないのです」。
 
※本特集は、次ページ「日系移民とアメリカの歴史」へ続きます。
 
(2016年8月1日号掲載)

日系移民とアメリカの歴史

日系アメリカ人の歴史研究者のお話を踏まえ、1790年から現在に至るアメリカの歴史と日本をはじめとする世界の歴史を、日系移民と日系人を中心にして整理してみました。
 
年表を整理してみると、長い歴史の中で、アメリカで日本人が「日本人である」ことだけでからかわれることも、法的差別も受けることも、犯罪者扱いされることもない状況は、ほんのここ数十年の稀有な歴史だということが浮かび上がってきます。また、日本人、日系人が自らのアイデンティティーに誇りを持っ て暮らせるようになったのも、公民権運動、アジア系アメリカ人運動以後、ここ40年、50年ほどのことなのです。この私たち日本人が当たり前のように享受している自由と平等は、いまだに全てのアメリカ人、移民に実現されているわけではありません。肌の色、宗教、性別、性的嗜好、そうしたことだけで犯罪を疑われ、憎まれ、時には殺される人々が存在します。「再び戦争が起きたら、私たちは強制収容されますか?」、日本人の私たちには、それは非現実的なことに思えます。しかし、その「私たち」が日本人以外だとしたらどうでしょうか。その恐れを否定できない人々が、いまも存在しているのです。彼らの受けている差別に目をつぶること。それは私たち日系移民と日系人の歴史に目をつぶることとも言えるような気がしています。

 

日系移民とアメリカの歴史(〜1900年代)

「帰化法」制定(1790年)
市民権を取得する権利を白人の自由市民に限定。1873年にはアフリカ生まれおよびその子孫にも帰化が認められた。この帰化法が、日本をはじめとするアジア系移民の帰化を拒否する法的根拠となった。
奴隷解放宣言(1863年)
1861〜65年の南北戦争の最中、共和党のリンカーン大統領が奴隷解放を宣言。黒人奴隷に代わる安価な労働力が求められ、1848年頃のゴールドラッシュから増えていた中国からの移民が急増。
中国人排斥法(1882年)
中国からの移民が禁止される。
日本からの移民が増加(1884年)
明治政府が日本国民の海外渡航を正式に許可。移民が禁止された中国人に代わり、日本からの移民が増加。渡米した日本人の多くは、農園や農場、缶詰工場、鉄道敷設などで労働に従事。
日清戦争(1894-95年)

 

日系移民とアメリカの歴史(1900年〜1950年)

日露戦争(1904-05年)
大国ロシアに、有色人種の東洋人の国である日本が勝利したことにより、米国で黄禍論が加熱。
アジア人排斥運動(1905年)
サンフランシスコでアジア人排斥同盟が設立。1906年にはサンフランシスコ教育委員会が中国、日本、韓国系移民の生徒の隔離決議を採択。
日米政府間で紳士協定締結(1908年)
反日運動が西海岸を席巻。中国に対するような全面的な移民禁止を避けるため、日本政府は日本からの移民を自主的に制限。
「外国人土地法」成立(1913年)
カリフォルニア州議会で、帰化不能外国人の土地所有が禁止される。これにより一世は土地所有が事実上禁止に。1910年、同州議会選挙では「排日」を訴えた民主党が躍進していた。
第一次世界大戦(1914-1918年)
ヨーロッパが主戦場となった初の世界大戦。開戦当初は中立の立場を取っていたアメリカも1 9 1 7 年 、連合国側で参戦。
日本人の帰化禁止の確認(1922年)
最高裁(オザワ訴訟)が、日本人は白人の自由市民に当たらないとして、日本人の帰化禁止を合憲とする判決を下す。
1924年「移民法」(1924年)
移民の数を国別に制限。東欧地域からの新移民を著しく制限。また帰化不能 外国人の入国を禁止したことから、事実上、日本からの移民は全面禁止に。
世界恐慌発生(1929年)
株価が大暴落し、失業者が急増。
満洲事変(1931年)
日中戦争開戦(1937年)
第二次世界大戦開戦(1939年)
9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発 。4 0 年には日独伊三国同盟締結。
太平洋戦争開戦(1941年)
12月7日、日本軍が真珠湾を攻撃し(約2400 人の米国軍人・民間人が死亡)、太平洋戦争が開戦。その後数日間にわたり、指導者的立場にいた一世らが大量に逮捕され、敵性外国人収容所に送られた。また、開戦に先立ち、11月には MIS(米国陸軍情報部)の日本語学校が開設された。
「大統領令9066号」発令(1942年)
2月19日、裁判や事情聴取なしに特定地域から民間人を隔離できる権限が軍部 に与えられる。3月以降、西海岸に住む約12万人の日系人、日本人全員に、財産や社会的地位への補償なしに、強制立ち退きが命じられた。彼らは集合センターを経て、戦時転住局が管理する全米10カ所の強制収容所に送られた。ミノル・ヤスイは夜間外出禁止令の合法性を、ゴードン・ヒラバヤシは強制立ち退き命令の合法性を、フレッド・コレマツは強制収容の合法性を争い、裁判を起こした。
忠誠登録(1943年)
収容所内の日系人、日本人に対し、「忠誠登録」が行われた。米国に対して忠誠だと見なされた者は、出所し就労・就学することが可能となった。同年、日系兵士のみで編成された戦闘団が編成され、第二次世界大戦で多大な戦功を上げた。
コレマツ訴訟とエンドウ訴訟(1944年)
12月、フレッド・コレマツの強制立ち退き拒否に対する有罪判決を、最高裁が支持。同日、最高裁は収容所からの釈放を求めるミツエ・エンドウの裁判に関し、忠実な市民を監禁することは許されないとして、日系人の隔離命令を撤回。
第二次世界大戦終戦&冷戦へ(1945年)
8月15日、太平洋戦争が終結。10月から翌年にかけて収容所は閉鎖。収容者たちは再び立ち退きを余儀なくされ、元の土地または新たな土地で生活の立て直しを図った。米国はこの後、資本主義・自由主義陣営の盟主として、ソ連を中心とする共産主義・社会主義陣営と対立することになる。
「日系人立ち退き賠償法」(1948年)
3800万ドルの補償が実施されたが、戦時中に失われた実際の損害の1割にも満たないものだった。

  

日系移民とアメリカの歴史(1951年〜2000年)

移民の市民権獲得が可能に(1952年)
移民国籍法が制定され、移民である一世も市民権が取得できるように。ただし国別の移民数割当制度は残され、移民は制限されたままだった。同年、カリ フォルニア州最高裁が、1913年に成立した外国人土地法に違憲判決。
アフリカ系アメリカ人公民権運動(1950s-60s)
人種分離法によって差別を受けていた黒人をはじめとする有色人種が、法の下の平等を求めて運動を展開。
ベトナム戦争(1955-1975年)
6万人以上の死者・行方不明者を出した後、米軍は1973年に完全撤退。
「公民権法」制定(1964年)
7月2日、公民権法が制定され、人種、宗教、性、出身国による差別が禁止された。
「移民法」改正(1965年)
移民数の国別割当制度が廃止。日本を含むアジアからの移民が可能となった。
アジア系アメリカ人運動(1960s後半-1970s中頃)
公民権運動やベトナム戦争に触発され、日系、中国系、フィリピン系、韓国系などのアジア系アメリカ人が自らを「アジア系アメリカ人」と呼んで連帯し、人種差別に立ち向かう運動を展開。それと前後して、西海岸の大学で次々とアジア系アメリカ人研究が開始。こうした三世、四世らのアイデンティティーを探る動きが、70年代後半から始まったリドレス(強制収容に対する補償を求める運動)へとつながっていった。
「大統領令9066 号」撤回(1976年)
CWRIC発足(1980年)
強制収容と大統領令9066号の調査のため、「戦時市民転住収容に関する委員会(CWRIC)」発足。81年には全米各地で公聴会が行われ、約750名が証言。
強制収容に関する裁判(1983年)
強制立ち退き政策が進められていた1941、42年頃、政府関係者らが強制立ち退きに軍事的必要性がないことを知りながら、それを隠匿した事実が発見され、第二次世界大戦中のゴードン・ヒラバヤシ、ミノル・ヤスイ、フレッド・コレマツへ有罪判決を下した裁判の再審が開始される。フレッド・コレマツ訴訟については84年に、ミノル・ヤスイ訴訟については86年に、ゴードン・ヒラバヤシ訴訟については87年に、それぞれ戦中の有罪判決がくつがえされた。
「1988 年市民の自由法」成立(1988年)
8月10日、レーガン大統領が署名し成立。強制収容に対する連邦議会による公式の謝罪と、元収容者に対する各2万ドルの金銭的賠償が記され、さらに強制収容に関する教育を行うための教育基金が設立された。

 

日系移民とアメリカの歴史(2001年〜)

アメリカ同時多発テロ事件(2001年)
9月11日のアメリカ同時多発テロ後、イスラム系、中東系アメリカ人、移民に対する偏見や差別が深刻化。日系人の強制収容のようにイスラム系を強制収容すべきという発言をする者も現れた。この時のノーマン・ミネタ運輸長官が自らの収容経験をもとにレイシャル・プロファイリングに反対し、阻止するなど、多くの日系人が差別に立ち向かった。
日系人部隊に勲章(2011年)
日系人部隊の第100歩兵大隊、第442連隊戦闘団、MISに米国最高位の勲章である議会名誉黄金勲章が授与された。
強制収容伝承のための助成金 (2015年)
国立公園局は、強制収容の歴史を伝承するため、強制収容所管理団体や大学等へ助成金300万ドル弱の支給を決定。

(2016年8月1日号掲載)

渡辺 謙/俳優

『ラストサムライ』ではアカデミー助演男優賞ノミネート、続く『Memoirs of a Geisha』『バットマン・ビギンズ』『硫黄島からの手紙』では世界の名監督たちを魅了した。今や「ケン・ワタナベ」として圧倒的な存在感を誇る世界的スターだが、スクリーンを通して届けられる魂のメッセージの裏には、俳優として生き抜く覚悟と、それを支える人たちの姿があった。

「自分は何者なんだ」という信念を感じられれば、どこでもいい。

わたなべ・けん◉1959年、新潟県生まれ。日本国内、海外双方において、映画を中心にテレビドラマ、舞台と幅広く活躍する。『ラストサムライ』でアカデミー助演男優賞にノミネート、『バットマン・ビギンズ』『SAYURI』、現在公開中の『硫黄島からの手紙』他に出演。2006年に日本で公開した『明日の記憶』では、自らエグゼクティブ・プロデューサー、主演を務め、現在、北米公開に向けてプロモーション中。

表現する仕事がしたいと突き進んだ俳優の道

高校まではトランペットを習っていて、漠然とミュージシャンになれたらいいなと思っていました。でも、音楽学校はお金がかかるし、親父もリタイアしたので、無理かもしれないなと。受験勉強もしていたのですが、「表現する仕事がしたい」と思い、劇団のパンフレットを取り寄せました。
「大学と同じ4年間やってみて、どうしようもなければいいや」と思っていたら、入ってからの刺激がすごかった。演劇青年や音楽青年に囲まれて、「こいつらに追いつかないと」という気持ちで芝居や音楽に目覚めました。振り返ってみると、ずっとそう。「何かを高く望んで取り組む」というよりは、急に「何かをしたい」と思い立ち、ダーっと突き進んで、後から「ああ、枯渇していたんだな」と。理屈が先行しないんですよね(笑)。

劇団に入って2~3年経った25歳の頃に、「自分は楽しんでやっているのだろうか?」と疑問を持つようになりました。ひとつひとつの役を咀嚼した上で演じていたら、違うやり方があっただろうに、環境に流されているようで。ちょうどその時に、いい役をいただいたんです。精神的にも肉体的にも、後に残るものがあれば続けようと思わせてくれたのが、インカ帝国最後の皇帝を描いた『ピサロ』というお芝居でした。「俳優ってこんなに深いんだ」と目覚めましたね。

その後、前向きにやっていこうと、勢いに任せて突っ走り、仕事が増幅した時に、病気に見舞われました。まるで、F1のレースカーが全速力で走っている時に、「エンジンが止まったからリタイアして」と言われたようで、実感がなかったですね。その時は、周りに迷惑をかけて申し訳ないという気持ちばかりでした。しかし、後になって、大きなプロジェクトを断念せざるを得ないという無念の想いが押し寄せてきて、「こんなに悔しい気持ちを自分の中に閉じ込めていたのか」と驚きました。

初めての闘病生活では、生きるか、死ぬかで必死。克服を経て、2度目の発病の際には、「自分が社会で何かの役に立てるとしたら、演技しかない」「俳優として戻らないと、ある意味、生きている意味はない」と、強く思っていました。待っていてくださった関係者やファンの皆さんが、復帰した時に、心の底から喜んでくれたんです。それからは、出演する作品が社会にどのようにつながるのかということを、意識して仕事をするようになりました。

魂を揺らす仕事を探し巡り会った『ラストサムライ』

俳優の仕事は浮き草みたいな商売で、どこにでも流れて行けます。同時に、大きな役をやればやるほど、色が付いて狭くなってしまう。30代後半に自分の魂を揺らす仕事がないことに気づき始め、それまでのシリーズものをすべて辞め、小さくても新しい役や悪役などに取り組むようにしました。そうして2~3年経った時に、『ラストサムライ』のお話をいただいたのです。

アメリカの映画作りは、日本と違いスタート前はのんびりゆっくり。「本当にやるの?」という感じ。半年間、英語を勉強して、メーキャップテストや衣装合わせをして、スケジュールを空けて待っていたものの、キャンセルになったらどうしようと思っていましたね(笑)。

その代わり、始まる時は、いきなり始まる、急上昇のクランクインなんです。1シーンを1日で撮影するペースで、英語で芝居をすることもあり、緊張より集中のし過ぎで知恵熱が出ました。日本ではセリフの言い方で、何テイクも撮り直すことなどないんですが、発音が問題で「もう1回」の繰り返し。新人に戻ったような、久々の感覚が心地良かったですね。

『ラストサムライ』では、LAとニュージーランド、日本で8カ月撮影をしましたが、8カ月もやっていると、役を作る必要がないんです。毎日の生活の中で、朝起きて、朝食を食べて、メーク・衣装を終え、セットに着く頃には、そのままスーッと役に入っていける。自分が息をするように役と同化できる。役を作るというより、役を生きるという感覚。良くも悪くも俳優として確立してしまう40代に、そういう環境をもらえたということは贅沢な経験ですよね。

アメリカで仕事をしていたのは、このためだったのかと思いました。

ユニバーサルな『…Geisha』等身大の『明日の記憶』

『Memoirs of a Geisha(邦題:SAYURI)』では、ロブ・マーシャル監督が見ている世界はどこにあるのだろう、ということに集中していました。日本の描写はこうするべきだと、重箱に詰め込んでいくような概念を崩し、いろんな角度から見てもいいということを学ばせてくれた、ユニバーサルなチームでしたね。

その後、あまり自分と離れていない身の丈の人間を演じてみるべきだと思っていた頃、LAの書店で『明日の記憶』の原作と巡り会い、すごい勢いで読んだことを覚えています。自分が表現したいと思っていたことを気づかせくれましたね。プロデューサーには、「今までのイメージと全然違う」と心配されましたが、想いとしては火が点いていました。この映画に関しては、僕はプロデューサーではなく、監督や制作者、脚本家、最終的にはお客さんに作品を紹介する「イントロデューサー」だと思っています。

日本で映画化するにあたって、泣いておしまいという単純な「病気モノ」にはしたくなかったんです。自分が病気を経験したこともあり、そういう役をやりたくなかった。病気の人たちは日々、泣き暮らしているわけではなく、「それでも普通に暮らしたい」と思っていること、実際に病気を受け止めなければいけない人たちがいることを、僕たちがどう受け取るか、ということを伝えたかったんです。

現場の空気を焼き付け挑んだ『硫黄島からの手紙』

役作りのためには、資料ではわからない空気感を吸収するために、現場に足を運びます。『硫黄島からの手紙』でも、お墓参りを兼ねて、主役の栗林忠道(陸軍中将)が生まれ育った長野に足を運びました。山に囲まれて、雪の中で育った男が、海の中にポツンとある硫黄島で、どのように死を迎えたのか。何に喜び、悲しみ、苦しんだのか?彼の目線や住まいが脳裏に焼き付いて、演技をしながら「この景色、どこかで見たぞ!」と思いました。だから、実際の生存者の方々が映画を見て、「ここに私たちがいます」と言ってくれたのはうれしかったですね。

『硫黄島からの手紙』は、俳優として培った全精力を傾けないとできない仕事でした。政治的にも社会的にも影響力のある話で、ひとつ間違えると単なる愛国映画になってしまう。いろいろな意味で、慎重かつ大胆にしなければいけないと、イーストウッド監督とディスカッションをしながら進めました。

アメリカに留学したことのある男(栗林)を演じたのですが、日米で仕事をし、暮らして、友達ができて、それぞれのいい面を感じることが多くなった自分だからこそ、この役ができるんだな、3~4年アメリカで仕事をしていたのは、このためだったのかと思いました。

僕は、拠点というものは、特に意識していません。僕自身は一緒なのだから、生きていけて、「自分は何者なんだ」という信念を感じられれば、どこでもいい。LAは楽だけれど、新潟出身としては四季が恋しいですが……。一生懸命、自分の四季を呼び覚まさないとね。また、ここに暮らすようになって、大らかにタフになったと思います。「僕は僕で、こうやって生きています」というように、各々が許されていて、許容量が多い。

基本的には家族のいる場所が帰る場所です。そして1番大切なのは、子供にとってどこがベースになるかということ。「どんな仕事をしていきたい?」「子供にどんなアイデンティティーを持たせたい?」と、時間をかけ、ゆっくり考えていきたいですね。長いプロジェクトになるけれど、20~30年後に結果が出ればと思います。

The Last Samurai ©2003 Warner Bros.

最近の主な出演作品紹介

The Last Samurai[2003]
出演 | トム・クルーズ、渡辺謙、真田広之、他
監督 | エドワード・ズウィック

Memoirs of A Geisha[2005]
出演 | チャン・ツィイー、渡辺謙、コン・リー、他
監督 | ロブ・マーシャル

Memories of Tomorrow[2006]
出演 | 渡辺謙、樋口可南子、坂口憲ニ、他
監督 | 堤幸彦

Letters from Iwo Jima[公開中]
出演|渡辺謙、二宮和也、伊原剛志、他
監督|クリント・イーストウッド
 
(2007年1月1日号掲載)

井上怜奈/フィギュアスケート選手

スケートが好きで、ひたむきに練習を重ね、ペアとシングルで2度のオリンピック出場。だが、一時は情熱も目標も見失い、さらにガンに苦しめられ、引退を考えた。しかし、アメリカに拠点を移し、ゼロからの再出発。「スケートを楽しむ」という原点に立ち戻り、3度目のオリンピックは、米国籍を取得し、アメリカ人として出場した。肩の力を抜いてスケートをとことん楽しんだ、井上さんに話を聞いた。

トリノの米国代表に選ばれた時は、なるべくしてなったと思いました

いのうえ・れな◉1976年10月17日生まれ。兵庫県西宮市出身で、千葉県松戸市育ち。早稲田大学出身。4歳からスケートを始め、中学3年の時、アルベールビルオリンピックにペアで出場、14位。高校2年の時には、リレハンメルオリンピックにシングルで出場、18位。肺ガンにより父を失い、直後に自身も肺ガンを患うが、現役復帰。2001年からアメリカに拠点を移し、ジョン・ボールドウィンとペアを組んで、全米選手権、四大陸選手権で優勝。05年、米国市民権を取得、トリノオリンピックにはアメリカ代表として出場、7位入賞を果たす。

マイペースで努力するのも才能

スケートを始めたのは、小児ぜんそくを患ったから。4歳の時に、かかりつけのお医者さんが水泳かスケートをしてみたらと言うので、両方始めました。選手になりたいと思って始めたわけではなく、スケート教室で滑っていたら遊んでくれる先生がいて。基本的なスピンとかジャンプを教えてくれたのが子供心に楽しくて、教え方が上手だったからか、ちょっとずついろんなことを学ぶようになりました。

選手になったきっかけは覚えていないんです。上手な選手が練習していると、「すごいなー」と思うことはあっても、選手になろうとか優勝しようとか思ったことはなくて。ただ、最初からスケートが好きで、練習が好きだから、言われたことを一生懸命やりました。「才能とか運動神経だけなら、もっと素晴らしい子もたくさんいるけど、君はマイペースだけど努力できる。努力も才能のひとつだよ」と、先生に言われたことがあります。そのマイペースが玉に瑕でしたが(笑)。

最初はシングルでやっていて、小学4年生の時からペアも始めたんです。シングルでは、それこそマイペースだから、「スピード出して」と言われても自分のペース。だから先生が、身体の大きい子や男子と組ませたら、スピードとかパワーが付くんじゃないかと。

ペアでは1992年にアルベールビルオリンピックに出場。94年にはシングルでリレハンメルオリンピックに出ました。ただ、この年の最終目的はオリンピックではなくて、世界ジュニアでした。それが急に出られることになってパニックに。心の準備ができていなかったんです(編集部注:シングル18位)。2006年にトリノに出て、その差は歴然としていました(編集部注:ペア7位入賞)。競技ってパニックになるとおしまいなんですよ。自分自身じゃなくなっているんです。だからリレハンメルの経験があって良かったかなと。

独りの渡米生活で親のありがたみを痛感

アメリカに来たのは95年、たまたま私の友達が3カ月間練習しに行くから、「一緒に行かない?」と誘われて。私が「燃え尽き症候群」みたいな状態だったので、環境を変えてリフレッシュさせるために誘ってくれたんでしょう。みんなに言われたのは、私みたいになりたいと思っている子がたくさんいて、でも実際なれる子は本当にひと握り、そのひと握りにいるのに辞めちゃうのはもったいないと。ただ、自分の中で何か燃えるものがなければできません。親は「スケートのことは、自分で決めてやりたいようにしなさい」と言ってくれました。「もったいない」と言わなかったのは、うちの親くらいです。

ただ、こっちに来たら自分のやりたいようにして、自分の中にそれなりの目標があって、楽しくやっている子がたくさんいて。そういう場面に出会えて、「自分も楽しいからスケートしていた時期もあったな~。あの時はどこに行っちゃったんだろう」と、振り返ることのできるチャンスでした。

96年のシーズンが終わった時、スケート連盟の人に、今度は長期間で練習してみたらどうかとすすめられて、再度渡米しました。私は典型的なひとりっ子で、何でも自分が困る前に与えられる感じだったのが、急に何もかも自分でやらなきゃいけない。どれだけ親がやってくれていたか痛感しました。そのおかげで、自分で人生のリーダーシップを取れるようになったし、大人になるためのちょうどいい成長の時期だったのかもしれません。

ジョニー(編集部注:現ペア・パートナーのジョン・ボールドウィン)と出会ったきっかけは、ジョニーのパートナーを探していたお父さんに私の先生が会って、私の名前を挙げたから。それからホームステイ先に毎日、多い時には1日2、3回も勧誘の電話がかかってきました。私の中では00─01年のシーズンで引退と決めていましたが根負けして、トライアウトして、さっさとお断りしようと思ったのが始まりです。

パートナーのジョンさん(右)の母親(左)が練習風景を撮影し、父親(左から2人目)がコーチを務めるというボールドウィン家は、熱心なスケート一家

やる気のないペアが一念発起でトリノへ

ジョニーも、親にやらされて仕方がなくスケートを続けているというような、やる気のない状態。それで結局、私も最後の年だから、うまく行っても行かなくてもいいやと、ジョニーとペアを組むことに。ただ、当時は永住権を持っていないと、アメリカで試合に出られなかったんです。永住権が取れたのが00年8月1日。試合に出たかったら8月31日までにテストを受けなきゃいけないんです。30日間で、曲を選んで、プログラムを作って、テストの準備をして。どうやってテストに受かったんだろうっていうくらい下手くそだったのに、受かったんです。

でも、2人ともペアのスケーターの身体じゃないのに、無理矢理いろんなことをやろうとしたから、ジョニーは手の骨を折って、私は脚を疲労骨折。予選大会1週間前に病院にチェックに行ったら、ジョニーはまだ骨がくっついていなくてギプスが取れない。結局、リフトの練習を始めたのが試合前日。それでも予選を通ってしまいました。

そんな状況だから、01年の全米選手権はビリから2番目。でも、周りの人が、「2人は練習したら絶対いいチームになる」と言ってくれて。3カ月半しか時間がなかったのに、ここまでできたから、1年間一生懸命練習したらどこまで行けるか試してみよう。やる気のない、成功してもしなくてもどっちでもいいみたいな2人が、本格的にチームとして起動したのがこの時です。

04年に初めて全米優勝、全米選手権でも優勝し、05年も全米選手権で2位と、着実に結果が良くなってきて。それぐらいからトリノオリンピックを狙える位置にいるかなと感じました。だから、トリノの米国代表に選ばれた時は、なるべくしてなったと思いました。いいチームにしたいと思って練習を積んできたからわけですから。驚きとか、そういうものはなかったですね。ただ、日米両方でオリンピックに出場したことは、貴重な経験だと思いました。

今シーズンで現役を終えるのですが、これからは子供たちにスケートを教えたいですね。ショーのお話とかももらったりしています。実は、スケートをずっとしてきたので、辞めてすぐにまたリンクに戻りたいとは思わないんですけど(笑)。だけど、選手は辞めてもスケートは続けて行くと思うんです。自分がいろいろな経験をしてきたので、それが活かせる場所だし、私にとって、それがリラックスの手段ですからね。
 
(2007年1月1日号掲載)

タダシ・ショージ/ファッションデザイナー

自称〝ネクラのフリーター〟から、今や世界30カ国で展開するファッションデザイナーになった。4年前からはミス・ユニバースの公式スポンサーとして、世界の美女が大舞台で着るドレスを提供し、「タダシ」の名は世界中に放映されている。特に目的もなく訪れたロサンゼルスで開花した才能を支えたのは、失敗にくじけない前向きな性格と、自分に対するプライドだった。

日本でできなくてもそれで終わりと思わず世界は広いのだから海外で試せばいい

しょーじ・ただし◉1948年生まれ。宮城県仙台市出身。高校卒業後、上京して高松次郎氏に師事。その後、数々の仕事をした後、73年渡米。トレードテクニカル大学ファッションデザイン科で勉強する傍ら、コスチュームデザイナーのビル・ウィットン氏のスタジオに勤務。82年、パートナーと「タダシ」を設立。6年前に単独オーナーに。現在では全米3000店以上のデパートやブティックで販売され、04年に旗艦店となる1号店をサウスコーストプラザ、2号店をラスベガスのフォーラムショップにオープン。上海にもデザインスタジオを立ち上げ、世界30カ国で展開している。

LAに長期滞在したくてファッションデザインの道に

幼い頃から絵を書くのが好きで、東京芸術大を受けたのですが、落ちてしまって。親にお金を出してもらって私立に行くのは嫌だったので、どうしようかと思っていた時、たまたま入った画廊で、現代美術の旗手だった高松次郎さんがアシスタントを探していると教えてもらったのです。普段、人とはあまり話さないほうなのに、なぜかその時は画廊の人とそんな話になったんですね。高松さんは好きなアーティストだったので連絡したら「すぐに来てください」ということになり、3年ほどアシスタントをしました。

アシスタントを辞めた後は、不動産雑誌の広告取りをしたり、船乗りをしたり、倉庫で荷物の仕分けをしたりなど、いろいろな仕事をしました。当時はフリーターという言葉もなかったけれど、ネクラのフリーターだったんです。さすがに「このままじゃダメだ」と(笑)。

高松さんのところにいた60年代後半から、世界のアートの先端であるニューヨークに行きたいと思っていたので、ナイトクラブのバーテンダーをしたり、赤坂のレストランでアシスタントマネージャーをしたりしてお金を貯めて、渡米したのが25歳の時です。

でもその頃は、特に目的もなかった。ロサンゼルスに来たのも、たまたま友達がロサンゼルスにいたからで、友達が南アフリカにいたら、南アフリカに行っていたかもしれない(笑)。どんな風に生活できるかも知らないで、ロサンゼルスに来ちゃったんですね。まず無料のアダルトスクールで英語を勉強しましたが、天気は良いし、いい所だと思って、長期滞在したくなった。そのためには学生ビザ取得が手っ取り早いのですが、4年制大学に行くほどのお金がなかったんです。それでたまたま友人の友人が、学費の安いトレードテクニカル大学を見に行くというのでついて行った。それがファッションデザイン科でした。

公式デザイナーを務めるミス・ユニバース大会。2006年度は世界170カ国以上でテレビ放映された

1枚の布で作る過程が彫刻のようでハマッた

姉がファッション関係の仕事をしていたので、イブ・サンローランやケンゾーが頭角を現していたことや、プレタポルテが始まっていたのは知っていましたが、それ以外はミシンの使い方も知りませんでした。それまでファッションデザイナーになりたいと思ったこともなかったし、ビザが欲しくて入った学校で、そもそもファッションデザインはアートではないと思っていた。ところが、、勉強してみるとハマった。

当時、日本では立体裁断もなかったのに、アメリカでは立体裁断だけ。1枚の布をマネキンに巻きつけて作っていくのですが、平面のファブリックをつけて形を作っていくのは彫刻のようで、これはおもしろいと思いました。僕はドレーピングで売れ出したのですが、ドレーピングの面白さを知ったのはこの時です。

その頃からオーダーメイドのオートクチュールより、大量生産のプレタポルテがやりたかった。でも学校では、いつも前日にテレビで見たドレスの話をしていました。あの当時、『キャロル・バネットショー』とか『ザ・サニー・アンド・シェアー・コメディーアワー』などのショーがあって、キャロル・バネットやシェアーがいつもすごいドレスを着て登場していたんです。するとある日、友人が「業界紙にコスチュームデザイナーのビル・ウィットンさんの求人募集が出ている」と教えてくれました。

それでスケッチを持っていくと、絵は上手かったからすぐに採用され、「40時間働きなさい」というので、午前は学校に行って、午後と週末に仕事しました。だから僕は、本当にラッキーなんですよ。

ビルは当時、エルトン・ジョン、スティービー・ワンダー、ジャクソンズなどのコスチュームを手がけていましたが、コスチュームはエンターテイナーのために作るので、オートクチュールと同じ。ここでフィッティングの仕方やドレス作りのノウハウを覚えました。大学を卒業後もそこで仕事をしていましたが、何回か辞めて、するとまた呼んでくれて、そのたびにポジションが上がって、給料も上がりました(笑)。

その間、プレタポルテの5、6社で働きました。最後にいた「ブラックウェル」のブランドは小さな会社だったので、デザインしてパターンを取ってと、すべて自分でやらなくてはならなかった。大量生産のA to Zはここで覚えました。

82年にパートナーが見つかって、「タダシ」の名で会社を設立しました。最初のシーズンに、オフィスからそのままシアターに行けるようなデイタイムドレスを出したら、バーグドルフ・グッドマンが買ってくれました。それが売れたので、今度はカクテルドレスも作ったら、サックスが最初に買ってくれ、これがまたすごく売れたのです。ブルーミングデールやニーマンマーカスなども買ってくれるようになり、デイタイムドレスよりも売れ出したので、カクテルドレス主体に切り替えました。

ファッション業界のアカデミー賞とも言われるダラス・ファッションアワードの授賞式にて

日本人でも性格が日本に合っているとは限らない

6年前から単独オーナーとなり、知名度を上げるために広告も出すようになったら、会社は3倍くらい大きくなりました。ミス・ユニバースのスポンサーとしてドレスを提供するようになったのは4年前からです。

パートナーシップを解消した時は、すべてを失う可能性もあったので1番大変でしたが、僕は過去のことにくよくよしないんですね。1回の人生だから、失敗したことに対して反省して、将来のために頑張りましょうと考えたら、それでいい。

フリーターの時も、後悔はしなかったし、大変だとも思わなかった。当時は東京で姉と同居していたのですが、姉は親兄弟に言いつけなかった。だから姉には感謝しています。自尊心と自信はあったから、姉も「危なっかしいけど、この子はやるんじゃないか」と思っていたんでしょうね。

僕は10歳くらいの時から、将来は絵描きになってパリに住もうと思っていました。日本人だから日本に住まなくてはならない、ということはありません。アメリカ人でも日本が好きで日本に住んでいる人も大勢いるし、日本人でもその人の性格が日本に合っているかどうかはわからない。日本でできなくても、それで終わりだとは考えなくてもいいのです。世界は広いのだから外国に出て試してみればいい。

今は旅費も安いのだから、海外に出て、良かったらそこに住めばいいし、やってみないことにはわからない。そんな風に考えたら、イジメやネクラもなくなるんじゃないでしょうか。

今は店も2軒あるし、世界30カ国で販売していますが、中国にもスタジオがあるので、これからは中国でネームブランドの展開を広げていきたいですね。
 
(2007年1月1日号掲載)

難波勝利/Robert Crowder & Co. 副社長

1968年にメキシコ五輪の通訳としてメキシコに向かう道中、最初の寄港地、ロサンゼルスでひょんなことから日本画家のロバート・クラウダーと出会った。以来、古美術品の売買から壁紙の印刷技術の習得に始まり、ラスベガスのカジノでの壁面装飾シェアナンバーワンを獲得するまで、会社の成長を支えてきた。今後は中国、ロシアやアラブ諸国などのホテルを中心に、さらに海外へと活躍の場を広げていく。

日本人の持ち味を活かして勝負するのが一般アメリカ社会で一歩前に出るコツ

なんば・かつとし◉1945年生まれ。岡山県出身。大学でスペイン語を専攻している時に、メキシコ五輪の通訳として渡米。日本画家、ロバート・クラウダーのスタジオで仕事を見つけ、壁紙デザイン製造業務に携わる。UCLAでシルクスクリーン印刷技術を学ぶ。80年に新壁紙印刷製造会社、Robert Crowder & Co.の設立に伴い、経営のパートナーとなり、以来、徐々にシェアを広げ、現在ではラスベガスのカジノ、ボールルームの壁面装飾のシェアNo.1を誇る。家族は妻と息子3人。http://www.robertcrowder.com/

メキシコの学生暴動で五輪通訳から滞米

昔から外国に対する漠然とした憧れがありました。高校時代にトリオ・ロス・パンチョスというラテンバンドのファンになりスペイン語になじみがあったのと、当時、スペイン語はマイナーだったので、英語よりも外国に行ける可能性が高いのではと思い、大学ではスペイン語を専攻しました。卒業の前年、1968年にメキシコ五輪の通訳としてメキシコに行くことになったので、通訳が終わった後は、2年ほどメキシコの大学に留学しようと思っていました。

ところがアルゼンチナ丸という船で2週間かけてロサンゼルスに着き、いよいよメキシコ入りという矢先に、学生暴動が勃発。メキシコ政府が学生の入国を一時停止したため、しばらくロサンゼルスで入国の解禁を待つことにしました。

そんなある日、羅府新報に「日本語が読める人募集」という広告を見つけました。それがロバート・クラウダー氏のスタジオでした。彼は戦前に日本の第五高等学校(今の熊本大学)や明治大学などで英語を教える傍ら日本画を望月春江画伯に習った人で、当時は手描きの壁紙とか手織物を作っていました。日本滞在中に日本の古美術品や骨董品に興味を持って、当時、日本の屏風については、個人で全米一のコレクターでもありました。江戸時代の木版画など、浮世絵でできたような美術書の整理が私の仕事でした。

高校時代は建築科だったので、スケッチなどはしっかり仕込まれていましたから、次第に壁紙の仕事も手伝うようになりました。ところが手描きの壁紙は注文が多すぎ、とても追いつかない。それで印刷の方法を取り入れようということになり、UCLAに夜間に通って、写真製法のシルクスクリーン印刷の勉強をすることになりました。当時は写真転写のシルクスクリーン自体がまだ紹介されたばかり。シルクスクリーンという言葉を聞いたのも初めてで、毎日仕事から帰ると、家のガレージで研究しました。

シルクスクリーンは、まず写真に撮って版を起こすのですが、正確に写さないとできません。UCLAには一部屋分くらいある大きなカメラがあり、夜間の学生も使うことができたので、結局トータルで4年くらい通いました。いろいろな知識を持った人が技術を磨くために通っており、その人たちからの刺激が楽しく、多くのことを学びました。

古美術品を持ち帰った進駐軍戦後はアメリカから逆輸入

80年頃に壁紙の印刷会社を作ろうということになり、ロバート・クラウダー&カンパニーを設立。私は経営のパートナーになりました。最初の頃は、注文が来ないと1年間、サンプルばかり作っていることもありましたが、会社は壁紙だけでなく、日本の古美術品や骨董品の売買も手がけていたので、経営的には維持できました。

漆の塗り物は、日本では戦時中、誰も使っていなかったのですが、戦後、進駐軍の将校たちが宝石箱として購入するなどして、朝鮮戦争の頃になるとほとんどが海外に流れてしまったのです。日本経済が再生して骨董品が注目を集める頃には、日本には残っていなかったため、日本からアメリカに買い付けに来て、再び日本に持ち帰りました。その頃はたまにパサデナのガレージセールなどで、「祖父が日本から持ち帰った」という屏風が安く売られていたりして、調べると桃山時代や江戸初期のものだったということもありました。

印刷のほうは、サンプルブックを作ってアメリカ中にばら撒きましたが、競争相手が多いので、シルクスクリーン以外にもエンボス加工や作画、デザインのデジタル化など、すべてを手がけるようになり、さらに手作りのカスタムメイドなどあらゆる注文に応じているうちに、徐々に軌道に乗っていきました。

壁紙はカスタムメイドのため、実にさまざまなモチーフがオーダーされる。昔はすべて手描きだったが、現在はほとんどコンピューターで描く

ラスベガスはマフィア一掃で無名の日本人にもフェアに

ラスベガスに進出したのは、80年代後半です。キンキラのイメージだったのですが、実際に行ってみると思ったよりテイストが良かったので、ここで仕事ができたら面白いのでは、と思ったのがきっかけです。

ラスベガスを専門にしている室内装飾の会社を探し出し、毎日サンプルを作って持って行きました。最初は小さなオーダーから始まって、そのうち大きなオーダーが来るようになったのですが、ラスベガスはコネがないと大変だろうと思っていたのに、実際に仕事をすると、これほどフェアな場所はないと気づきました。

以前はマフィアが牛耳っていたのですが、それを一掃しようということになり、今ではホテルのオーナーでさえ、どこに注文を出すかを決める権限はありません。オーナーはデザイン会社にデザインを任せ、基本案にOKを出すと、後は口出ししないだけでなく、デザイン会社とは別に買い付け会社があり、注文はオークション形式で入札する仕組みになっています。おかげで無名の日本人であっても、他の人と同じように扱ってくれました。

ラスベガスがすごいと思ったのは、モンテカルロがオープンした時です。突貫工事で、建設から完成まで1年で終わらせたのですが、パブリックエリアの壁紙はほとんど全部、当社が手がけました。でも注文が来たのは、工事の最後の最後。それで昼夜働いて、ボールルームの一面300フィート、4面の壁を覆う壁紙をトラックに載せ、自分で運転して納入したのは、オープン前日でした。その夜はそこで泊まったのですが、翌朝起きて驚きました。一晩でボールルームの壁紙が、すべて貼り付けられていたのです。

ラスベガスでは手軽に雰囲気を変えるために、通常2、3年で壁紙を替えるのですが、そんな時でも絶対にカジノのスロットマシンは停止しません。機械を少しだけ移動させて、お客さんがギャンブルをしている裏で貼り替えるので、オープンも絶対に遅らせないのです。

塗り壁風にするため、数百フィートある壁紙に手作業で仕上げを施していく。創意工夫しながらクライアントの要望に応えてきた積み重ねが信頼につながっている

失敗は責任を持ってやり直す日本人の感性で勝負

最初の頃は失敗も多かった。ですが失敗を認めないアメリカ人が多い中で、失敗を認めて責任を持ってやり直すと逆に信頼してもらえ、次の注文につながりました。アメリカ人は権利を主張し、失敗を認めない面もありますが、根本的な人間の心は変わらないと実感しています。アメリカで成功するには、アメリカ人と同じラインで勝負していると難しい。日本人の感性を活かし、自分の持っているもので勝負するのが、一般アメリカ社会で少し前に出るコツではないでしょうか。

英語も含めて、すべての面でアメリカ人に負けてはダメだと考えなくてもいい。その分野に入って、日本人の持ち味で差をつければいい。古美術の売買をしていた時には、なぜ日本にいる時、もう少し日本のことを勉強しなかったのかと悔やみました。日本の伝統の良さというものは、日本にいる時には気づきませんが、アメリカに何年か住んでいるとわかってくるものだと思います。
 
(2007年1月1日号掲載)

戦後70年特別インタビュー「日系アメリカ人の肖像」

【戦後70年・日系アメリカ人の肖像】
戦後70年。あの時代のことを記憶する世代はとても少なくなっています。
日系人・日本人の差別と強制収容の歴史も例外ではありません…。
薄れゆく歴史の記憶を探して、日系アメリカ人二世、三世の皆さんを訪ねました。
(2015年8月1日号掲載)

日系アメリカ人の肖像

1945年に第二次世界大戦が終わってから今年で70年が経ちます。今、私たち日本人は、ここアメリカで、ほかの国からの移民や米国人と同じように、好きな場所に出かけ、住み、学び、働き、そして米国市民権をも取得することができます。でも、実はついこの間までそれが許されていなかったことを想像できるでしょうか。
 
アジアからの移民は1924年に禁じられ、再び門戸が開かれたのはなんと1965年のこと。また1952年まで日本人は市民権を取得することもできず、その上、太平洋戦争中はそうした日本からの移民もその子どもたちも、西海岸に暮らす日本人・日系人はみな、自らの意思とは関係なく収容所へと送られました。そして、その事実すら1980年代になるまで公に語られることはほとんどなかったのです。
 
「自由の国アメリカ」のイメージと正反対にある、日系移民の差別の歴史。それは、アメリカの歴史の一部であり、同じくアメリカで暮らす日本人である私たち自身の現在へと脈々とつながる歴史です。しかし人種間や宗教間の緊張が加速し、ヘイトクライムやレイシャルプロファイリングの議論が熱を帯びる近年、 もし私たちがこの歴史の教訓を忘れてしまうなら、 これらは過去の歴史に留まらず、現在や未来になってしまうかもしれないと思うのです。
 
日本が真珠湾を攻撃し、日米が太平洋戦争を始めた1941年から数えて74年、そして終戦から70年、その間、アメリカに暮らす日系アメリカ人は、どんな思いでどんな日々を送ってきたのでしょうか。戦前の日系コミュニティーのこと、戦争中の強制収容、アメリカ軍の戦功に多大な貢献をした日系人部隊のこと、そして戦後の日系社会の復興のことなど、 終戦から70年が経つ今だから聞いておきたい人生と歴史のお話を、日系アメリカ人二世三世の皆さんにうかがいました。

  • 米日カウンシル会長として日米間の関係作りに尽力
    アイリーン ・ヒラノ・イノウエさん(Irene Hirano Inouye)…米日カウンシル(U.S.-Japan Council)会長。1948年に福岡出身の二世の父と、日本人の母の間に生まれた日系三世。1988年から2009年にわたって、全米日系人博物館の初代館長を務める。2008年、故ダニエル・イノウエ上院議員と結婚。また同年に米日カウンシルを設立。東日本大震災後、日米両政府と「TOMODACHI イニシアチブ」を立ち上げた。
  • 全ての人の平等な権利のために… 日系人に対する戦後補償の背景
    プリシラ・オウチダさん(Priscilla Ouchida)…サクラメント生まれの三世。2012年より、女性として初めての日系アメリカ人市民連盟(Japanese American CitizensLeague, JACL)事務局長を務めている。JACLは1929年にアジア系米国人の人権保護のために設立された団体。戦時中は強制収容へ協力的な姿勢をとり、日系人部隊の編成を推進したことから多くの批判も受けたが、戦後は強制収容に対する補償法案などさまざまな人権運動を牽引している。
  • 戦争・強制収容の苦難と、その中でも続いた暖かな交流の記憶
    ミチオ・ヒマカさん(Michio Himaka)…1932年、サンディエゴ生まれの日系二世。10歳の時、アリゾナ州のポストン収容所に。終戦後はサンディエゴ州立大学でジャーナリズムを専攻し、卒業後、『San Diego Union Tribune』に就職。The Japanese American Historical Society of San Diegoでは、立ち上げ時から2015年6月まで役員。会長も務めた。また、02年より現在までSouthwestern Collegeの事務補佐の仕事を続けている。
  • 戦中は米国のため、戦後は一世のために戦った二世
    ヒロ・ニシムラさん(Hero Nishimura)…1919年、ワシントン州シアトル生まれの日系二世。両親は広島県出身。42年、ワシントン大学在学中に米軍に徴兵され、MISとして従軍。終戦後、ワシントン大学に復学し、その後、同大学の健康科学研究所などに勤務。70年代から日系アメリカ人の強制収容に対する補償運動に参加し、81年には「戦時市民転住収容に関する委員会(CWRIC)」公聴会の証言に立つ。93年『Trials and Triumhs of the Nikkei 』を上梓。
  • 戦後、第442連隊の一員として従軍した後、退役軍人会会長として日系社会に貢献
    トシ・オカモトさん(Tosh Okamoto)…1926年、シアトル生まれの日系二世。両親は熊本県出身。ツールレイク収容所、ハートマウンテン収容所を経て、18歳の時に徴兵。軍用車の整備などのトレーニングを受け、第442連隊戦闘団の補充要員として終戦後のイタリアへ。47年除隊。終戦後は、消防署に勤務する傍ら、高齢化した一世が日本語で介護を受けるための施設「日系コンサーンズ」設立に共同設立者の一人として関わり、2期にわたり同団体の代表を務めた。
  • 日系スーパーを通して見る シアトル・タコマの日系人の暮らし
    トミオ・モリグチさん(Tomio Moriguchi)…日系スーパーマーケット「宇和島屋」取締役会長。1936年、ワシントン州タコマ市生まれの日系二世。6歳の時、ツールレイク収容所に収容される。61年、ワシントン大学卒業。62年より宇和島屋で働き始める。長年、シアトル日系人社会のために尽力し、北米報知発行人、日系コンサーンズ役員会メンバー、全米日系人博物館サポーターなどを務める。2005年、日本政府から旭日小綬章を受章。
  • 太平洋戦争、強制収容… 日米の過ちの中を生き抜いた帰米二世
    トオル・イソベさん(Tohru Isobe)…1926年、サンフランシスコ生まれ。2歳から12歳まで日本で育つ。39年に帰国し、ロサンゼルスで学校に通う。42年、家族でワイオミング州のハートマウンテン強制収容所に。44年、キャンプ外での労働に就き、戦後はロサンゼルスに戻る。52年に徴兵され、朝鮮戦争でMISとして北朝鮮人捕虜を日本語で尋問する業務に携わる。帰国後は、88年まで郵便局に30年間勤務。現在、全米日系人博物館でボランティアガイドを務めている。
  • ハワイの収容所から本土各地の収容所へ 戦争に翻弄された帰米二世
    金城秀夫さん(Hideo Kaneshiro)…1921年、ハワイ島生まれ。1歳から16歳までを沖縄で過ごし、38年ハワイに戻る。太平洋戦争勃発後の42年、FBIに連行されオアフ島サンドアイランド抑留所に収容。カリフォルニア州ツールレイク収容所を経て、クリスタルシティーのテキサス家族収容所に。ニュージャージー州シーブルックスでの就労を経て、47年にハワイに戻る。パンナム航空に27年間勤務後、80年に引退。
  • ターミナルアイランドからロングビーチへ 変わりゆく日系コミュニティーと共に
    巽 幸雄さん&長男の一郎さん(Yukio Tatsumi)…1920年、イースト・サンペドロ(現在のターミナルアイランド)生まれの日系二世。33年から日本に。和歌山県下里の商業高校を卒業後にアメリカに戻り、サンペドロ高校を卒業。戦争中はマンザナー収容所に収容される。終戦後、ロサンゼルスに戻り、漁業等を経て、日本食などのスーパーマーケットを経営。ターミナルアイランドの元住人たちで構成される「ターミナルアイランダーズ」元会長。2014年、日本政府より旭日双光章受章。
  • 子ども時代を過ごした沖縄で米軍として日本人の命を救った帰米二世
    比嘉武二郎さん(Takejiro Higa)…1923年、ハワイ・オアフ島ワイパフ生まれ。2歳から16歳まで沖縄で育った後、ホノルルに戻る。高校在学中に軍隊に志願するが却下され、陸軍省からの手紙により再志願。サンフランシスコとミネソタのMISの日本語学校を経て、1944年フィリピン戦、沖縄戦に参戦。戦後は韓国に赴き、1945年12月ハワイに戻り除隊。ファリントン高校、ハワイ大学卒業後、国税庁に入局し90年に引退。

戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/アイリーン ・ヒラノ・イノウエさん


日系人の歴史を受け継ぐ全米日系人博物館の役割

米日カウンシルの会長として日米関係強化に尽力する、アイリーン・ヒラノ・イノウエさん。2009年までは20年以上にわたって、全米日系人博物館の館長として、強制収容をはじめ、日系アメリカ人の歴史や文化の収集、保存、教育に努めてきました。

そのヒラノさんが強制収容のことを詳しく知ったのは、大学に入ってからだったそう。「子どもの頃の学校の歴史の教科書は、日系アメリカ人の経験についてはひと言も触れられていませんでした。また叔父や叔母も戦時中の話題が出ても、話すのは共通の友人のことなどの他愛ない話題ばかりで、どこにいたのかなどといった話はほとんどしませんでした」。

カリフォルニア州ロングビーチ生まれガーデナ育ちのヒラノさんの父は、太平洋戦争前から米国陸軍に属し、本来は開戦の頃に除隊予定でした。しかし開戦により除隊は延期。MISの一員となりました。一方、ヒラノさんの親族の多くはアーカンソーの収容所を経て、戦後はシカゴで働いた後、ロサンゼルスに戻ってきました。シカゴは当時、日系人が職を得られた数少ない場所のひとつでした。

父も退役後、ロサンゼルスに戻り、日本から移住してきたヒラノさんの母と出会い、結婚。ヒラノさんは、多くの日系人が暮らすガーデナで両親と一世である父方の祖父に育てられ、また3歳の頃には母方の祖母の日本の家で数カ月過ごすなど、非常に日本と近しい環境で子ども時代を送りました。「ですから、私は日系人であることを誇りに思っていました。しかし博物館で働き始め、実は多くの三世は日本のことをよく知らず、自分たちの先祖がどこから、なぜアメリカに来たのかも知らないと気付いたのです。博物館の設立目的の一つでもありますが、だからこそ、博物館が日系人の歴史を受け継ぎ、そしてそれを多くの来館者に伝えていくことが大切だと思ってます」。

人と人との出会いからより強固な日米関係を

2015年度在米日系人リーダー訪日(JALD)プログラムでは10人が訪日。写真は南

カリフォルニア日系企業協会(JBA)が主催したレセプションにて

ヒラノさんは博物館で三世の訪日ツアーを企画。そして08年に設立した米日カウンシルでは、00年から「在米日系人リーダー訪日プログラム(JALD)」として、米国で活躍する日系人を日本とつなぐプロジェクトを実施しています。「それまで日本との結び付きがなかった日系人の参加者も、日本を訪れると瞬時に、ここは私たちの祖先の国だと思うようです。参加者の一人は『家族の歴史はハワイに移住した祖父母から始まった気がしていたけれど、彼らには日本に家族がいて、その歴史は僕の歴史で、僕の歴史は日本にもつながっているんだね』と」。

ヒラノさんは、彼らが訪日という形で日本を知ることは、日米関係に非常に重要だと考えています。「そうでなければ、私たちは日本に興味やつながりを持つ世代を完全に失ってしまうかもしれません。もし日本にルーツを持つ日系人でさえ日米関係に興味を持たないなら、どうして他のエスニックが興味を持つでしょうか」。

今年、15年目を迎えたJALD。これまでは日本との関わりが少ない日系人が中心でしたが、今年の参加者には日本在住経験者や日本出身者も。「参加者の多様性は、日系アメリカ人の多様性の表れです。現在の日系アメリカ人コミュニティーは、戦後に渡米した人や、五世、六世、複数のエスニックを持つ人、近年日本から移住してきた人など、さまざまな人がいます。『日系アメリカ人』とは誰なのかを定義し直すことも、将来のために、今、非常に意味があることでしょうね」。JALDは、そうしたさまざまな来歴を持つ参加者が、日本を知るだけでなく、参加者同士を知り、アメリカの日系人のコミュニティーを知る貴重な機会にもなっています。

また、米日カウンシルでは、東日本大震災をうけて日米の若者を互いの国に招く「TOMODACHIイニシアチブ」で若い世代を結びつけるプロジェクトも実施。その理由をヒラノさんはこう語ります。「日米の2国間のつながりは、非常に重要なものですが、2国間にポジティブなつながりを生み出すためには、人が出会い、互いを知り、互いの国を学ぶことが大切です。人々が互いを知っていると、万が一問題が起きた時にも、一緒に解決策を見つけていくのも容易になります。米日カウンシルの役割は、そのように人々が互いを知り、互いを学ぶ基盤を作っていくことだと考えています」。

Irene Hirano Inouye

米日カウンシル(U.S.-Japan Council)会長。1948年に福岡出身の二世の父と、日本人の母の間に生まれた日系三世。1988年から2009年にわたって、全米日系人博物館の初代館長を務める。2008年、故ダニエル・イノウエ上院議員と結婚。また同年に米日カウンシルを設立。東日本大震災後、日米両政府と「TOMODACHI イニシアチブ」を立ち上げた。
 
(2015年8月1日号掲載)

戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/プリシラ・オウチダさん

日系人不当解雇に対する加州の補償法案の成立

 

日系米国人市民連盟(JACL)で女性として初の事務局長を務めるプリシラ・オウチダさんが、自身が日系人だと知ったのは4歳のハロウィーンのこと。「トリック・オア・トリートに訪ねた白人女性の家で『ジャップにやるキャンディーはない』と言われたのです。自分が日系人であり、また日系人を嫌う白人がいて、世の中には不平等があると知った日でした。その日から『平等』ということが私にとって非常に重要なテーマになりました」とオウチダさん。学校に上がるとアフリカ系アメリカ人の市民運動についての本を読み、また当時はほとんど知られていなかった日系人の強制収容についても家族や関係者に尋ねるなどして独自の調査を開始しました。「17歳になる頃には、日系人のカリフォルニア州職員314人が、1942年に人種を理由に解雇されたという300ページにも上る資料を持っていました。ですが当時はまだ『補償』を求めようとまでは考えていませんでした」。
 
ところが、76年と78年にJACLの年次大会に参加し、全米の日系人の収容に対する補償を求める運動を知ったオウチダさんは、自分の持つ資料が日系人の不当解雇を立証し、金銭的補償を求めるに足る証拠を全て備えたものであると気付いたのです。JACLの助力を得て補償法案を起草し、当時オウチダさんが立法スタッフとして働いていたカリフォルニア州のパトリック・ジェンストン下院議員が州議会に法案を提出。82年に法案は成立を迎えたのですが、実はこれはJACLが関わった補償法案が成立した初めての事例でした。法案の署名式には40社以上のプレスが駆けつけ、全米中に法案の成立と日系人が受けた不平等が報道されました。
 
「署名式には日系人の元州職員を招いたのですが、彼らの多くが古い茶封筒を手にしていました。それは42年に州が送った解雇通知でした。その時、彼らにとってスパイだと疑われ解雇されたことが、どれだけ深い傷だったのか痛感しました。彼らは収容所に送られた時も、戦後も、40年にわたってその紙をずっと持っていたのです。でもその署名式の日、『州が間違いだと認めてくれた。もうこれは恥ではない』と誇らしげな笑顔を見せてくれたのです」。

日系人が経験した不平等が二度と起こらないように

 

カリフォルニア州の日系人職員不当解雇に対する補償法案の署名式(1982年)、

左から3人目は当時も州知事であったジェリー・ブラウン

70年代から80年代にかけて、いよいよ全米で本格化した強制収容に対する補償運動。JACLをはじめとするさまざまな日系団体、そしてアフリカ系、ユダヤ系団体の働きかけにより、連邦議会に「戦時市民転住収容に関する委員会」が設立され、81年に全米各地で公聴会を実施。それまで収容に関して沈黙を守っていた750人が証言台に立ったのです。
 
「そうした中で82年にカリフォルニア州の補償法が成立し、補償運動は加州下院議員の支援を得るなど政治的な関心を集めるようになりました。法案成立のためには、草の根運動だけでなく、過半数の連邦下院議員の賛同という政治的な運動が必要でしたから、大きな影響を与えたのではないかと思います」とオウチダさん。
 
ダニエル・イノウエやスパーク・マツナガ、ノーマン・ミネタ、ロバート・マツイといった日系議員によるホワイトハウスへの運動もあり、88年に日系人の強制収容に対する謝罪と、生存者に対し1人あたり2万ドルの金銭的補償を定めた「市民の自由法(日系アメリカ人補償法)」が成立。「2万ドルは実際の損失には到底及ばないものですが、象徴的な意味がありました。謝罪だけでは政府はすぐに忘れてしまいますが、身銭を切ったものは忘れにくいものですから」。金銭はただ補償の意味合いがあったばかりでなく、全てのアメリカ人の憲法で守られた権利が二度と侵害されないためのくさびでもあったのです。
 
このほかにも日本人の帰化を禁じた移民国籍法の改正(52年)、アジアからの移民数を制限した移民法の改正(65年)など、日系人は一歩一歩、今は当たり前のように感じられる「平等」の権利を勝ち取ってきました。「それでも残念ながら、この世界にはいつも不平等の可能性があります。しかし、どんなエスニックでも、どんな年齢でも、どんな性別でも、誰しもが平等な権利を持ち、誰しもが平等の機会を持つ必要があります。日系人が経験した不平等が二度と起こらないように…」。オウチダさんの闘いは今日も続いています。

Priscilla Ouchida

サクラメント生まれの三世。2012年より、女性として初めての日系米国人市民連盟(Japanese American CitizensLeague, JACL)事務局長を務めている。JACLは1929年にアジア系米国人の人権保護のために設立された団体。戦時中は強制収容へ協力的な姿勢をとり、日系人部隊の編成を推進したことから多くの批判も受けたが、戦後は強制収容に対する補償法案などさまざまな人権運動を牽引している。
 
(2015年8月1日号掲載)

世界に羽ばたいても地元密着は変わらない「コロナド・ブルーイング・カンパニー」

ライトハウス・サンディエゴ版編集長、吉田聡子が、サンディエゴ生まれのブランドを訪問。世界に羽ばたいた物から、ローカルにこだわる物まで、名品の背景にある物語を探ります。

Coronado Brewing Company / コロナド・ブルーイング・カンパニー

オレンジ・アベニュー・ウィット

ルワリー&テイスティングルームにて。この日飲んだのはオレンジ・アベニュー・ウィット

ロン&リックのチャプマン兄弟が長年の夢であったブルーパブ(ブルワリー&パブ)をコロナドにオープンしたのは、今からちょうど20年前、1996年のこと。クラフトビールが大ブームとなっている今でこそサンディエゴには100近いマイクロ・ブルワリーがあるが、コロナド・ブルーパブが誕生した頃は、サンディエゴには5軒しかマイクロ・ブルワリーはなかったと言う。ここは、サンディエゴにおけるマイクロ・ブルワリーのパイオニアの一つなのだ。
 
クラフトビールは今、日本でも人気で、各地にマイクロ・ブルワリーができている。ロン&リックと共に創業に関わった共同経営者、シェウンは、日本のマイクロ・ブルワリーとコラボレーションをするために日本に行ったこともあるそうだ。

シェウン

「日本は楽しかった!」とシェウン

「僕らが顔を出したら、その場にいた人たちからものすごい歓声が上がって驚いちゃった。スターになったような気分だったよ」とシェウン。そのエピソードから、コロナド・ブルーイング・カンパニーがクラフトビール界においてある種の地位を確立していることが想像できる。

クラフトビール世界大会

2014年のクラフトビール世界大会で、中小規模醸造所として世界ナンバー1を獲得。また、同ブルワリーの代表的な銘柄「アイランダーIPA」は金賞を受賞

クラフトビールの世界大会で数々の賞を受賞していることで崇拝されているのか。もちろん、それはあるだろう。けれど、おそらくそれ以上に、彼らのクラフトビールに対する姿勢のようなものが後進を魅了しているように感じる。
 
「サンディエゴにマイクロ・ブルワリーはたくさんあるけれど、僕らは互いに競合とは思っていない。良いホップを見つけた、とか、こんなビールを作りたいんだけど適した材料の産地を知らないか、とか、情報交換も積極的にしているんだ」(シェウン)

ホップ

さまざまな産地のホップを、銘柄によって使い分ける。それが味や香りの違いになる

シェウンと一通り話し終えた後は、ブルーマスター、ライアンがブルワリーの中を案内してくれた。もともとビールが好きで、自宅でビール作りをしていたとあり、ホップのこと、麦のことを喜々として語ってくれた。
 
シェウンもそうだが、ここで働く人たちからは「クラフトビールが好きでたまらない」「自分の仕事が誇らしくてたまらない」という気持ちが自然に溢れ出ているように感じられる。一緒にいるとまるで共に一杯飲んでいるみたいに、こちらの気持ちも弾む。これがいわゆる〝グッドバイブス〞なのだろう。

ライアン

ブルーマスターのライアン

「我々の仕事はビールを作ることだけじゃない。くつろいでビールを飲む、そしてビールについてああだこうだと楽しく語り合う。そんなサンディエゴの文化を継承していくことも使命だと思っているんだ」(シェウン)

 

Coronado Brewing Company Brewery & Tasting Room

◎ Coronado Brewing Company/コロナド・ブルーイング・カンパニー
1205 Knoxville St., San Diego
☎ 619-275-2215
▶ 営業時間:日曜日~木曜日 11am~9pm 金曜/土曜日 11am~10pm
※他、コロナド、インペリアルビーチにもあり
▶ Webサイト:http://coronadobrewing.com

(ライトハウス・サンディエゴ版 2016年8月号掲載)
 
※このページは「ライトハウス・サンディエゴ版 2016年8月」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

スピリチュアルカウンセラー・江原啓之


海外暮らしで大きな経験と感動を

今、「SMAP以上に忙しい」と言われ、日本中で引っ張りだこの江原啓之さん。『オーラの泉』(テレビ朝日系)や『天国からの手紙』(フジテレビ系)など多くの番組に出演し、執筆本は40冊以上におよぶ。「人間の本質はたましいである」というスピリチュアリズムを伝え、その愛にあふれた温かいメッセージが熱い支持を受けている。東京での講演の合間に、LA在住者のためにライトハウスの独占インタビューに応じてくれた。

海外で生きる人は人生の「熱心な勉強家」

LAには多くの日本人の方が住んでおられるそうですが、皆さんにはそれぞれ、その土地とのご縁があると思います。海外暮らしはなかなかできるものではありませんが、これも一つの「学び」の方法。私たちの人生は「学びの場」です。私たちはこの世で喜怒哀楽、感動を繰り返しながら、自分の本当の姿を見つめ、愛を学んでいますが、皆さんのように異文化の中にあえて身を置く人というのは、とても熱心な勉強家なのだと思います。

日本の外で暮らすと逆に日本をよく知るもの。ですから、日本の良さを知っているのは海外の人が多いですよね。日本にいる人は井の中の蛙で、外にいる人の方が良さも悪さも知ることができる。それは一つの大きな学びですね。

それに、アメリカは最も物質主義的価値観の強い国でしょう。そこで暮らすことも大きな学びですよね。逆にアメリカ人にもアジアや日本の文化を好む人がいますが、それは物質主義的価値観の反動だと思うんです。アメリカでは、サービスも目に見えたサービスじゃなきゃダメ。たとえば相手に何かを渡す時でも、「はい、ここに置いてあげたからね!」って、ものすごいパフォーマンスを見せる(笑)。日本人はそこで物言わず、スッと置く。その人のわからないところで、そっと気遣いをするというのは日本の文化、「陰徳」ですよね。でも、アメリカは目に見えないものを理解する文化ではありませんから、「私はあなたのためにやってあげた」と主張する。そういう違いがありますね。

日本は高い精神性を持つ「たましいの国」だった

日本語の独特な表現に、「お茶が入りましたよ」というのがあります。アメリカではあり得ない表現でしょう。英語では「私があなたにお茶を入れてあげました」ですからね。この日本語を直訳したら、お茶が勝手に入っちゃったっていう超常現象みたいなものですから、何言っているのって思われる(笑)。このような例からもわかるように、日本はもともとスピリチュアルな国なんです。本当はこれを日本から輸出しなければならない。でも日本は戦後、悪い物質主義的価値観に陥ってしまった。アメリカの良いところは取らず、悪いところばっかりまねしちゃったんですね。

日本人は戦後、食べる物もない貧しい状態だったでしょう。カッコいい冷蔵庫や車もない。広い家もない。憧れていたのは全部物質だったのね。だって、アメリカのテレビドラマなんかを見ると夢の世界だものね。でも、最近は「舶来品」って言葉があまり使われなくなった。それが当たり前になってきたからです。だからこそ今、日本はまた、精神世界にもう一度戻る時が来ていると思います。

ぼくが提唱しているスピリチュアリズムとは「温故知新」、古き良きものを取り戻そうという作業です。今までが悪いというのではなく、これをまた一つの反省材料にすればいい。今まで物を追い求めていく時代があって、その結果を見ているわけですから。でも、「日本には日本の文化がある」ということを、みんな再認識してきているように思いますね。「精神性」という点では、日本人はもともと高かった。だから、外国の人たちはそれを求めているところがあると思います。

「物」や「力」の前で「いい子」になる現代人

ところが今、日本は物質の波に飲まれ、「物」や「力」が神になってしまっています。目に見えない陰徳は失われ、「いじめ」を始め、子どもの犯罪なども増えています。犯人は、実は近所で評判の子や、頭のいい子であることも多い。でも、彼らは力の前でいい子だったの。力の及ばないところでは自分の本質を出すんです。この問題はアメリカでも共通していると思いますね。お金や権力、法律の前ではすごくいい人でも、弱者に対しては非常に手厳しいというような。

法律とは、もともと人間の理性でなければならないのに、締めつけるものになっています。本来、愛と理性があれば、法律などいらないはず。生活の中で、交通ルールくらいは必要だけれど、締めつける法や脅す法があるっていうのは人間として情けないですよね。

日本人には、もともと「お天道様の下を歩けない」「バチが当たる」「良心の呵責」といった観念がありました。これ、全部誰も見ていないの。自分の中に自浄能力を持っていた。目に見えないものに対する「敬意」を持っていた。しかし、今の時代、その美徳が随分失われてしまいました。

また、日本の独特な概念に、言葉や音にたましいが宿っているという「言霊」「音霊」がありますね。昔、商家の人が、なぜ「スルメ」を「アタリメ」と言っていたかというと、「(お金を)擦る」に通じて縁起が悪いから。言葉には力があり、その言葉を言っていると、本当にそれが実現するとがわかっていたのです。日本には「エナジー信仰」があったんです。

暮らす舞台はどこでも同じ「人生の地図」を持とう

おすすめの1冊『スピリチュアルな人生に目覚めるために―心に「人生の地図」を持つ』(新潮文庫)幼くして父を、十代で母を亡くし、若くして人生の不幸を味わい尽くした日々。それが変わったのは、18歳で霊界の啓示を受け「人生の地図」 を手にすることができたから。自らの経験をもとに、現代人こそ「スピリチュアルな人生」に目覚めよ!と本音で語る。

海外暮らしには、言葉の問題など不自由な部分もあると思いますが、「海外に住んでいるから」というこだわりは捨てること。人間、どこにいても生きることに変わりはありません。「どう生きたいのか」ということが一番大切です。

ぼくがいつも言っているのは、「人生の地図」を持つこと。生きる上で、自分自身の地図、人生の目的をちゃんと持ちなさいということです。旅行でもそうですが、目的地がなければ、そこにたどり着くことはできないでしょう?

それともう一つ、アメリカに住んでいて、もし日本に帰りたかったら、迷うことなどありません。帰ればいいんです。仕事だって何とかなるの、いくらでも。迷ってしまう人は、アメリカに行った時に何とかなったってこと、忘れているんですよね。アメリカに住んでいたこと、それが強みでしょう?最初は右も左もわからず渡ったのに、その時の苦労がトラウマになっているのか、また同じ苦労をしたくないのか(笑)、帰ることをためらっている。でもアメリカに行った時に比べれば、100倍も楽なはず。

アメリカもそうですが、日本も今、仕事は何でもあります。まず最低限、食べていく分が稼げればいい。そこからまたスタートすればいいんだから。あとは想像力です。10年後、20年後にどうしていたいか、夢を具体的に描き出し、それを実現させるための方法を計画する。そうすれば、その人生の地図に沿って、それに近い幸せが必ずやってきます。

これから持ちたい地球は一つの国という概念

最新DVD『江原啓之のスピリチュアルバイブル』シリーズ(集英社)ロンドンを舞台に、人生の羅針盤となる法則を解説した第1弾「あなたとあなたの愛する人の歩む道」、ニューヨークを背景に「波長の法則」「カルマの法則」について語りつくした第2弾「あなたはなぜ人生につまずいてきたのか」に引き続き、「守護の法則」について語った第3弾が秋に発売の予定。

アメリカで生活されている方の中には、お子さんの教育問題で悩む方も多いようです。親御さんは、〝お膳立て〟にこだわるものなので、特に海外で暮らすと言葉や学校など、いろいろと悩まれると思います。でも大丈夫。「完璧にやろう」などと緊張しないで、今あるベストを尽くせばいい。学ぶ子はどんな環境でも学びます。巣立った後もずっと勉強を続けます。この環境も必然。その子にとっての大切な学びなのですから、完璧でないからといって、親として無責任だと思わなくてもいい。子ども本人の力に委ねることは、子どもに対する尊重です。人間って意外と傲慢なんですよ。お膳立てする方がいいと思っている。それは逆に言うと、子どもに対する束縛です。親が与えられるのは、愛情とマナー、そしてカルチャーだけ。あとはその時のベストを尽くせばいいのです。

人生、どこにいたって苦しいのは一緒です。だったら、どうしたいか考える。人生なんてあっという間ですから、楽しまなくちゃ。ダラダラと悩んでいる時間なんて、もったいない。海外で暮らすっていうことは、「一粒で二度」美味しいんですよ(笑)。だったら、それを満喫しないと。海外で暮らすというチャンスを利用して、そこでしか得られない、大きな経験と感動を手にしてください。

国や国籍に意味など、本当はないんです。本来は一つ。これから世界に求められていることは、地球という一つの国にならなければいけないということだと思います。そういう意味では、海外に出るということは、自国の内側を見ること、そして外側を見ること、そういった経験と感動の学びがあるわけです。

ぼくは、たましいの成長のために、海外生活とまでいかなくても、海外旅行をすることをすすめています。「この世の中でもっとも不幸なのは、旅行をしないこと」と言った人がいますが、本当にその通りだと思います。

私もアメリカはまだ、ハワイとニューヨークしか行ったことがありませんが、ロサンゼルスにもぜひ訪れてみたいですね。

(2006年10月1日号掲載)

戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/ミチオ・ヒマカさん

真珠湾攻撃の翌日から誰も話してくれなくなった

サンディエゴの日系人の歴史を収集し、伝承するThe JapaneseAmerican Historical Society of San Diego(JAHSSD)が設立されたのは1992年のこと。ミチオ・ヒマカさんは立ち上げ当時の役員の一人でもあり、自身の体験を積極的に語ってきた一人です。
 
「それまでは戦争中のことを日系人同士で話すことはあっても、公に語ることはありませんでした。決まりの悪い、言いにくいことだと思っていたんです。でも、戦後生まれの人が多くなり、 何も知らない人が増えてきて、 伝える時が来たと思うようになりました。そしてJAHSSDを立ち上げた頃から、学校などで話すようになりました。聞き手の多くは、戦後生まれの米国人の親と子どもたちで、話をすると『酷いことをした、申し訳ない』と言ってくれます」。
 
太平洋戦争が始まった時、ミチオさんは9歳。「今でも忘れないのが、真珠湾攻撃があった1941年の12月7日が日曜日だったこと。私は4年生で、 金曜日に『また来週ね。良い週末を』と同級生といつも通りに別れたんですよ。で、月曜日に学校に行ったら誰も話してくれなくなっていたんです」。
 
仕方がないので当時学校にいた4人の日系人で固まって行動するように…。一方で、戦争が始まっても、もともと親しくしていた人たちは離れていくことはなかったと言います。「当時、両親はサンディエゴのダウンタウンで豆腐屋をしていました。そこで一緒に働いていたアメリカ人の男性は私たち家族の良き友人でもあって、私たちが収容所に送られた後も新聞や雑誌を送ってくれ、時々会いに来てくれました。彼は収容所の中には入れないので、『何日に行くよ』と連絡を取り合って、フェンス越しに近況報告をしました」。
 
当時、サンディエゴの日本人・日系人の多くは郊外で農業に携わっていましたが、ミチオさん一家のようにダウンタウンで商売をする家族もいました。カフェやレストラン、グローサリーストア、靴屋、床屋、ビリヤード場など、業種は多岐にわたり、ダウンタウンの一画は日系ビジネス街になっていました。「42年4月8日に日系人が収容所に送られて、全ての店が一斉に閉まったので、『どうして皆いなくなったの?』と驚いた人がいたと聞いたことがあります」。

収容所生活で失ったもの 失わなかったもの

ボストン収容所で撮影した家族写真。一番左がミチオさん

Photo Courtesy of Japanese American Historical Society of San Diego

立ち退きの日、ミチオさん一家を含む、サンディエゴの日系人の多くは、まずサンタアニタ集合センターに送られました。馬小屋での約4カ月の生活を経て、アリゾナ州ポストン収容所に収容。ミチオさんの父親は日系コミュニティーのリーダー的存在であったため、太平洋戦争が始まった12月7日の夜に拘束されており、その後3年、家族とは別々でした。「私たちの世代はまだ子どもだったので、収容所ではスポーツをしたり、遊んだり。 一番大変だったのは母親だと思います。というのも、私の母を含めて、父親が別の収容所に送られていた家庭も多くありましたから。それまで家族の長は父だったのに、急に母親が全てを背負わなくてはいけなくなってしまった…。収容所生活の前後では、私たち日系人の家族における父親の存在のあり方が変わってしまったと思います」。

終戦直前になってようやく父と合流した一家は、戦争が終わると収容所を出て、職を求めてオハイオ州クリーブランドへ。そこで3年暮らし、サンディエゴに戻って来ました。しかし、戦前、活況だった日系コミュニティーは当然そこにはありませんでした。

88年、「市民の自由法」が成立し、立法時に生存していた日系人、永住者の被収容者に90年から各自2万ドルの補償金が支払われましたが、「商売をたたんで、収容所では月20ドル程度しか稼げなかったことを考えると、もっともらっても良かったと私は思っています。でも、それ以上に悔やまれるのは、本当なら補償金をもらうべきはずの世代の多くが他界していたことです」とミチオさん。

苦難の歴史を語ってくれたミチオさん。しかし、 「困ったことがあったらいつでも手紙を送って」と強制収容所に送られる子どもたちを見送りながら一人一人にハガキを渡して支援を続けた図書館司書の話や、収容所に志願してやってきた米国人教師の話、収容所の外の米国人チームとスポーツ親善試合の話など、厳しい状況の中にも暖かな交流があったことにも何度も言及されました。

Michio Himaka

1932年、サンディエゴ生まれの日系二世。10歳の時、アリゾナ州のポストン収容所に。終戦後はサンディエゴ州立大学でジャーナリズムを専攻し、卒業後、『San Diego Union Tribune』に就職。The Japanese American HistoricalSociety of San Diegoでは、立ち上げ時から2015年6月まで役員。会長も務めた。また、02年より現在までSouthwestern Collegeの事務補佐の仕事を続けている。
 
(2015年8月1日号掲載)

戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/ヒロ・ニシムラさん

徴兵か強制収容か MISとして戦場へ

ヒロ・ニシムラさんが生まれたのはシアトルの日本町(現インターナショナルディストリクト北側)。1907年に留学生として渡米し、その町で小さなホテルを経営していた父と母の下に育ちました。当時のシアトルは、全米で2番目に大きな日系コミュニティーを形成していたと言います。「父の教育方針で、他の二世と同様、地元の日本語学校へ通い、その上、私設の塾にも行って、家庭教師もつきました。計12年にわたって日本語を勉強したのです。でも日本語は漢字が難しいから大嫌い」とヒロさんは笑います。

42年、ワシントン大学1年生の時に、陸軍に徴兵。日系人が敵性外国人とみなされ徴兵が中断される直前のことでした。そしてほぼ時を同じくして、両親と弟、友人の多くはチュラリップ集合センターを経て、アイダホ州ミニドカの収容所へ強制収容されました。「収容所へ行くか、兵役に就くかの2択を迫られたのです。兵役を拒否して市民権を剥奪されてはと、徴兵に応じました」。ヒロさんはアーカンソーのキャンプ・ロビンソンで基礎訓練を受けた後、高い日本語能力を買われてMISに所属することになります。「442連隊に行きたかったし、6カ月も学校に行って日本語を勉強するなんて…と頭を抱えましたよ(笑)。でもそれまで日系人だからと二級の兵士として扱われていたのが、国のために戦う一人前の兵士として扱ってもらえるようになり、複雑な気持ちでした」。

ミネソタのキャンプ・サベージでMISの学校に通った後、43年8月、日本兵の尋問や書類を翻訳するため、英印第25師団の一員として中国を経由してビルマ(現ミャンマー)へ。ビルマでは、日本軍の決死隊による夜襲を受けるなど、死闘が繰り広げられていました。44年5月、日本軍の陣地に突入したヒロさんは、横たわる日本兵のしかばねの陰から日章旗を見つけます。ビルマからインドに移動し、そこで太平洋戦争は終結。シアトルへ帰ったヒロさんは、ビルマで拾った旗を実家の仏壇に供えました。

終戦から7年後、ある日本人に旗の話をしたところ、日本の新聞社やラジオ局が、持ち主を探してくれることに…。「その結果、旗は当時捕虜になっていた徳島連隊の兵士のものであり、なんと生きていることが分かったのです」。88年、ヒロさんは元日本軍兵士と東京で会い、旗を返却。今、その旗は、徳島県の戦没者慰霊塔、パゴダ記念塔に奉納されています。

一人一人の証言の積み重ねがもたらした戦後の補償

1945年の終戦後、シアトルのボランティアパークに日系二世の退役軍人が集まり記念撮影。ヒロさんは前列右から6番目

ヒロさんの戦後はそれだけでは終わりません。70年代からは、戦時中の日系人の強制収容に対する謝罪と補償を求める運動に参加するようになります。43年の出兵前、ミニドカ収容所に家族を訪ねたヒロさんは、社会から排斥され、有刺鉄線の中で監視されて暮らす一世二世の生活に激しい憤りを覚えたことを思い出し、黙っていられなかったのです。

「米国のために戦った退役軍人として、家族のため、友達のため、米国政府に不満を伝えたかったのです。私は周りの二世にも、『親のため、友達のためになるから不満を言いなさい』と言いました。でも、多くの二世は、『恥ずかしい』『私はキャンプに行ってない』と遠慮して何も言いません。私だってキャンプには行っていません。でも、親があんな目に遭ったら、遠慮するべきではないんです」。

81年に全米各地で開催された「戦時市民転住収容に関する委員会」の公聴会は、9月にシアトルでも開かれ、ヒロさんは証言者として出席。与えられた時間はたった3分間。祖国・日本と、米軍に徴兵された子どもとの間で板挟みになった一世たちの苦悩や収容所での苦しかった生活を訴えました。

こうした一人一人の証言の積み重ねが実を結び、88年、強制収容に対する謝罪と補償を定めた「市民の自由法」が成立。ヒロさんは「気が楽になって生き返ったような気分でした。カタルシスという言葉をこの時に実感したんです」と微笑みながら振り返ります。

公聴会での証言の後、さまざまな思いがとめどなくあふれ、ヒロさんは毎日少しずつそれを書き綴り、また資料を集めるようになりました。そして、93年にはそれらを軸に日系人の歴史を記した著書『Trials and Triumphs ofthe Nikkei』を発表。その後も、今になるまで講演などで積極的に自らの経験を語り続けています。

Hiro Nishimura

1919年、ワシントン州シアトル生まれの日系二世。両親は広島県出身。42年、ワシントン大学在学中に米軍に徴兵され、MISとして従軍。終戦後、ワシントン大学に復学し、その後、同大学の健康科学研究所などに勤務。70年代から日系人の強制収容に対する補償運動に参加し、81年には「戦時市民転住収容に関する委員会(CWRIC)」公聴会の証言に立つ。93年『Trials and Triumhs of theNi kkei 』を上梓。
 
(2015年8月1日号掲載)

戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/トシ・オカモト さん

忠誠登録により家族は別々の収容所へ

シアトルを代表する観光名所、パイク・プレイス・マーケットは、1907年に設立された、アメリカで現存する最古の公設市場と言われています。設立当時、シアトル近郊では多くの日系一世二世が農業に従事していて、42年に立ち退きを強制されるまで、多くがここで農作物を販売していました。トシさんもそのうちの一人。「私が幼い頃、父は大きな貿易会社に勤めていました。しかし、29年の世界大恐慌で会社は倒産。家族で郊外へ引っ越し、父は農場で働くようになりました。とても貧しい生活でした。15歳になる頃には車の運転ができない父に代わってトラックを運転し、パイク・プレイス・マーケットへ野菜を運んだものです。学校へ行く前と放課後は父と同じように農場で責任を持って働きました。真珠湾攻撃の日も父と農場にいて、姉が慌てて伝えにきたのを覚えています」。

その後、トシさん一家は、パインデール集合センターを経て、ツールレイク収容所へ。収容の時、トシさんは16歳。翌年17歳になった時に、17歳以上を対象とした「忠誠登録」が行われました。トシさんと姉は27番、28番にも迷わずとイエスと回答。当時、同収容所には両親、そして父と先妻との間の4人の子が暮らしていて、帰米である彼らはトシさんらを説得しようと、一家は大いに揉めました。「結局、母は私と姉に意見を合わせると言い、また心臓疾患があり自立した生活のできなかった父も母に付いていくと言い、義兄たちは私を説得するのを諦めました。イエスと答えた人が別の収容所へ移動となることを知ったのはその後です」とトシさん。

家族皆が同じ収容所にいたトシさん一家は、これにより別々の収容所に暮らすことに…。ツールレイク収容所で忠誠登録にイエスと答えた人の多くは、ミニドカ収容所へ移転しましたが、トシさんらは父の健康状態を理由に、ハートマウンテン収容所へ移転。「移動後に収容所を出て、ワイオミング州の森やオハイオ州クリーブランドで働きました。私は18歳になったら米軍に志願したいと思っていたのですが、両親は私の入営を望んでいませんでした」。そして、欧州戦線が終結した45年、18歳になったトシさんの元へ召集令状が届きます。

戦後のイタリアで従軍 差別を越え、日系社会に貢献

トシさんが最初に収容された、カリフォルニア州のツールレイク収容所のバラック

(1943年頃撮影) Photo Courtesy of James Nakano, Densho

トシさんは、基礎訓練を受けた後、白人の兵士に混じって戦車や大型トラック、水陸両用車などの整備修理のトレーニングを受講。ところが、ほかのメカニックが太平洋へ送られるのを尻目に、トシさんには待機の命。遅れること1カ月。ほかの二世と共に、日系人部隊の第442連隊戦闘団に補充要員として合流すべく、終戦後のイタリアへ向かいました。「442連隊が苛烈な戦闘を経たことは知っていましたが、戦功についての報道は少なく、その時は活躍の一部しか知りませんでした。当時の442の任務はドイツ人捕虜の警護。激戦を経験していないのに、442の退役軍人を名乗るのに、戦後気恥ずかしい思いがしたこともあります」。

ヒロさんは、その後、第88歩兵師団でメカニックとして勤務し、47年に除隊。シアトルへ戻ると、Gービ(退役軍人向けの教育資金等の給付)を使い学校でさらに自動車整備について学びます。自動車の需要が急増していた時代で、整備工は引く手あまた。卒業と同時に白人の同級生が簡単に就職先を決めていくなか、日系二世であるトシさんは差別を受け、なかなか仕事を見つけることができません。トシさんはしばらくシアトルの港で海軍の仕事をした後、シアトル市の採用試験を受験。自動車整備士としてシアトルの消防署で働くことになりました。当時、シアトルの消防署で働く初のマイノリティーだったトシさんは、その後リタイアまで32年間にわたってそこで働きました。

また70年代に、トシさんはシアトルの二世退役軍人の会の代表になります。この頃、シアトルの二世の間で話題になったのが、一世の高齢化。一世が日本語で安心して老後を過ごせる施設を作ろうと話は盛り上がり、トシさんらは「一世コンサーンズ(現・日系コンサーンズ)」を立ち上げました。現在、日系コンサーンズは、高齢者向けサービスの他、幅広い世代が楽しめる教育プログラムなども提供しています。今、シアトルの日本人、日系人が安心して老後を送れる背景には、トシさんら二世の退役軍人の努力があるのです。

Tosh Okamoto

1926年、シアトル生まれの日系二世。両親は熊本県出身。ツールレイク収容所、ハートマウンテン収容所を経て、18歳の時に徴兵。軍用車の整備などのトレーニングを受け、第442連隊戦闘団の補充要員として終戦後のイタリアへ。47年除隊。終戦後は、消防署に勤務する傍ら、高齢化した一世が日本語で介護を受けるための施設「日系コンサーンズ」設立に共同設立者の一人として関わり、2期にわたり同団体の代表を務めた。
 
(2015年8月1日号掲載)

戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/トミオ・モリグチさん

子どもの目から見た 戦前の日本町と収容所

ワシントン州・オレゴン州最大の家族経営の日系スーパーマーケット「宇和島屋」は、トミオさんの父、富士松さんが1928年にタコマで創業した食料品店から始まりました。富士松さんは20年代に愛媛県から渡米。実家は貧しく、森口家の長男として、お金を稼いだら日本へ帰るつもりでした。母の貞子さんは07年にシアトルで生まれ、日本で教育を受けて、結婚を機に帰国した帰米です。

多くの日本人・日系人が暮らしていたタコマで商売に精を出していた森口さん一家ですが、42年に日本人・日系人に対し、西海岸からの強制立ち退き令が出され、生活環境は一変。「シアトルの日系人はミニドカ収容所へ、タコマの私たちはカリフォルニアのパインデール集合所を経て、ツールレイク収容所へ送られたのです。集合所で妹のヒサコが生まれました」。

トミオさんは、収容所では、日本に帰った時に備え午前中は日本語の学校へ、午後は英語の学校へ通いました。「学校の後は収容所内の川で泳いだり、野球をしたり。食事は食堂ですることになっていて、簡素でしたが悪くはなかったです。父はそこでコックとして働いていました。家族に与えられた部屋も簡素で、狭いものでしたが、器用だった父が机や椅子を作ってくれました。収容所では、妹のトモコ、弟のトシが生まれました」。

翌43年、「忠誠登録」が実施。ツールレイク収容所は、アンケートの27番、28番に「ノーノー」と答え、米国に忠誠心がないと見なされた日系人らが収容される隔離センターの役目を担うことにななります。ただし、森口さん一家のように、他の収容所へ移転せず、そのまま留まることにした人たちも6千人以上いたそうです。

「父は日本に帰るつもりだったので、残ることにしたのだと思います。当時、私はまだ子どもでしたから、ツールレイクにノーノーボーイズが集められたことは、戦後に本を読んで知りました。父が忠誠登録で何と答えたのかは分かりません。戦争について父が話すのを聞いたことはないのです。それは母も同じこと。母は『アメリカは私たちを悪く扱っていない』と言って、不満を口にしたことは一度もありません。ただ、その母が一度だけ、不安を口にしたことがありました。『いつまでこの生活は続くのだろう。1年なのか10年なのか。刑務所にいる人さえ刑期を知っているのに…』と。収容所生活は肉体的にはさほどつらくはなかったものの、精神的にはとても厳しかったのだと思います」。

終戦から今日までのシアトルの移り変わり

戦後、シアトルに再オープンした宇和島屋。左写真の店頭に立っているのは富士松さん。宇和島屋シアトル店は、70年にインターナショナル・ディストリクト内で移転し、2000年には6万6000sqftの現在の店舗へと再移転した。

そして迎えた終戦。富士松さんは家族より一足先に収容所を出ると、シアトルで生活再建のメドを立て、2カ月後に妻と子を呼び寄せました。「シアトルに来て約1年後、父はかつての日本町にあったフィリピン人が経営していた小さな食料品店を買い取りました。当時は不景気で、その店の経営状態はあまり良くなく、経営者は喜んで売ってくれたようです」。

やがて店は軌道に乗り、子どもたちも成長。そして富士松さんはアメリカに骨を埋めると決め、米国市民権を取得。しかし、62年に急逝し、当時ワシントン大学を卒業して、地元企業ボーイングで技術者として働いていたトミオさんが、急きょ、跡を継ぐことになったのです。その後、宇和島屋の躍進はシアトルに住む人がよく知る通り…。今やワシントン州、オレゴン州の日本人の生活になくてはならないスーパーに成長しました。富士松さん亡き後、店を切り盛りしてきた貞子さんも02年に他界。戦争中の出来事について、最後までひと言も話すことはなかったと言います。

戦後から今日まで、宇和島屋から街を見てきたトミオさんは、街の変化をこう語ります。「交通、建物は大きく変わりました。でも一番変わったのは人でしょう。戦前ほどではありませんが、戦後、日本町に日本人・日系人が戻ってきました。でも、高い教育を受け、所得が増え、また66年にワシントン州でも外国人土地法が無効になって日本人も土地を買えるようになると、皆、より良い場所へ引っ越して行きました」。日本町から日本人の姿が減ったこと、それは戦後の日本人・日系人がより豊かになった証でもあるのです。 日本町のあった場所は、今ではインターナショナル・ディストリクト/チャイナタウンと呼ばれ、日本人以外にも多くの外国人が暮らし、集う場所になっています。

Tomio Moriguchi

日系スーパーマーケット「宇和島屋」取締役会長。1936年、ワシントン州タコマ市生まれの日系二世。6歳の時、ツールレイク収容所に収容される。61年、ワシントン大学卒業。62年より宇和島屋で働き始める。長年、シアトル日系人社会のために尽力し、北米報知発行人、日系コンサーンズ役員会メンバー、全米日系人博物館サポーターなどを務める。2005年、日本政府から旭日小綬章を受章。
 
(2015年8月1日号掲載)

戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/トオル・イソベさん

移住、大不況そして戦争 日系人家族を翻弄した歴史

1926年にサンフランシスコで生まれたトオル・イソベさんは、2歳から12歳まで静岡で育った帰米二世。「父は静岡・歩兵第34連隊を除隊後、サンレアンドロで花農家をしていた伯母夫妻に呼ばれて、19年に渡米。伯母夫妻はもともと出稼ぎのつもりでしたので事業が成功した後、28年に帰国しました。その時2歳だった僕は、子どものなかった伯母夫妻と共に日本に行ったのです」。

アメリカに残ったトオルさんの家族は29年の大恐慌によって全財産を失い、翌30年頃にロサンゼルスに転居した時は食べる物にも事欠くほど。「30年に兄が日本に来たのも、それが一つの理由だったのではないかと思います」。 

30年代の日本はいよいよ太平洋戦争に向かいつつある頃。「当時の日本政府は軍人が牛耳っていておかしなプロパガンダをしていましたが、口に出してはそう言いませんでした。皆、僕がアメリカ人だと知っていましたしね」。

39年、小学校卒業を目前にして、迎えに来た母と共にアメリカに帰国。家族は当時、ダウンタウンLAで労働者向けのホテルを経営していました。トオルさんは帰国後、最初の1年は移民向けのクラスで英語を学び、翌年には9年生に編入。美術に秀で、美術学校の奨学生にも推薦されていました。「ですが、41年に全部ひっくり返ってしまったのです」。

元日本軍人であった父は、真珠湾攻撃の起きた12月7日に逮捕。残された家族は、翌42年5月の半ばにサンタアニタ集合センターに送られ、そしてワイオミング州のハートマウンテン収容所に送られました。「『日系人だから』という理由でキャンプに入れるのは違憲だと僕らは分かっていましたし、人種差別以外の何ものでもないと思ったけれど、できることは何もなかった。大統領の命令だったのですから」。

携帯を許された鞄には衣類を詰め込み、2台の車は売ることもできずに後に残しました。「持っていけないのは皆知っていましたから、誰も買わなかったですよ。でも僕の家族が幸運だったのは、米系の銀座に口座を持っていたこと。日系の銀行は戦争が始まってすぐから1年ほど凍結されてしまって、多くの家族はお金を引き出すこともできなかったのです」。

11月には父もハートマウンテンに合流。しかし食堂で3食が配給されたキャンプでは家族で食卓を囲むことはほとんどなくなりました。「僕の家族を含め、おそらく多くの家族の関係が変わったのではないかと思います」。 

43年に実施された「忠誠登録」では、トオルさんを含め弟妹は27番、28番の質問に「イエス」と回答。「決めかねていた両親に『帰りたいなら自分だけで帰って。僕らは残る』と言い、アメリカで身を立てるつもりだった両親も最終的には『イエス』と答えました」。

終戦後はLAに帰郷 MISとして朝鮮戦争に

左/南北軍事境界線近くのムンサンにて(1953年10月)

右/韓国での従軍中の休暇で京都を訪問(1953年)

忠誠登録を経てキャンプの外での労働が認められたトオルさんは西部の農場で働き、45年の終戦をアイダホで迎えました。戦後はサクラメントで働き、LAに帰郷。「家族も皆LAに戻ってきました。僕は西海岸出身ですからね、西部にはいられなかった(笑)」。

50年には家族で園芸店を始めましたが、トオルさんは52年に徴兵。「適性検査を受けた際、日本語ができたので、MIS候補になりました。基礎訓練後、日本の米軍基地内のMISの学校に8週間通い、そこで軍隊用語を習いました」。朝鮮戦争のさなかの韓国に送られ、北朝鮮の捕虜を日本語で尋問し、英語でレポートを作る業務に約1年間従事。「前線に送られていたら戦死していたかもしれません。この時は日本で教育を受けて良かったと思いました」。

54年に帰国後は、奨学金を得て大学に通うと共に家業を手伝い、58年からは30年にわたって郵便局に勤めました。リタイアした88年は「市民の自由法」が成立した年。「想像もしていなかったので、うれしいというより驚きました。『失ったものはもうないもの。悔やんでも仕方ない』と思っていましたからね」。それまでは収容所の話をすることもなかったというトオルさん。「訊かれなかったから、言わなかったのです。ほとんど誰も知らなかったわけだから、訊かれないのも当然ですね」。

今、トオルさんは流暢な日本語を生かし、全米日系人博物館のボランティアガイドとして、来館者に日系人の歴史を伝えています。

Tohru Isobe

1926年、サンフランシスコ生まれ。2歳から12歳まで日本で育つ。39年に帰国し、ロサンゼルスで学校に通う。42年、家族でワイオミング州のハートマウンテン強制収容所に。44年、キャンプ外での労働に就き、戦後はロサンゼルスに戻る。52年に徴兵され、朝鮮戦争でMISとして北朝鮮人捕虜を日本語で尋問する業務に携わる。帰国後は、88年まで郵便局に30年間勤務。現在、全米日系人博物館でボランティアガイドを務めている。
 
(2015年8月1日号掲載)

戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/金城秀夫さん

日本での教育を理由に収容所に隔離

ハワイ島生まれの日系二世、金城秀夫さんは、1922年、1歳の時に兄と共に母に連れられて、父の故郷の沖縄に渡り、旧糸満町で育ちました。日中戦争勃発後の38年、金城さんは沖縄に残ると言った母を残して、ハワイに帰郷。帰国後はホノルルでコックとして働いていました。

41年12月7日、真珠湾方面に真っ黒な煙が立ち上るのを見たそうです。「一緒に見ていた父が、『日本のような小さな国が、アメリカのような大国と戦って、どうやって勝てるのか!』と言ったことを今でも忘れません。私は米国市民ですが、日本で育ち、日本の教育を受けましたから、国は小さくても、日本人は名誉のために命を惜しまない。負けるわけがないと思っていました」と金城さん。

日本で軍国主義教育を受け、高等小学校では木製の銃を使った軍事教練も受けた金城さんは、開戦後、いつFBIから召喚状が来るかと、びくびくしていたそうです。恐れていた召喚状を42年春に受け取り、事務所に行くと「日本で軍国主義教育を受けたか」と聞かれ、素直に「はい」と返答。その日は帰宅できたものの、1週間後に再度召喚され、ホノルルのサンドアイランド抑留所に送られました。「フェンスに囲まれた二階建ての小屋に放り込まれました。フェンスは3重になっていて、真ん中のフェンスには電流が流れていました。それを挟んで日本人捕虜の収容所があり、時々歌を歌っているのが聞こえました」。

忠誠登録に「ノー」と回答 収容所をたらい回しに

左/ツールレイク収容所時に作った入所者の寄せ書き集
右/カリフォルニア州ツールレイク収容所にて。1946年頃。右端が金城さん
Photo Courtesy of Hideo Kaneshiro

半年後、金城さんは船でサンフランシスコに移送され、そこから蒸気機関車で、主に西海岸の日系人が収容されていたユタ州のトパーズ収容所に移されました。そこで「忠誠登録」のアンケートに答えることに。「たくさんの質問がありましたが、今でも忘れないのは、27番目の『米軍に志願するか』と28番目の『天皇に弓が引けるか』の質問です。英語がよく分からなかった上、深く考えなかったので、どちらの質問にも『ノー』と答えました」。ところが、両方の質問に「ノー」と答えることは、アメリカに対する忠誠心がない者と見なされることだったのです。その結果、金城さんは、カリフォルニア州北部のツールレイク収容所へと送られました。同収容所は、当初は一般的な日系人の収容施設でしたが、43年9月以降は、忠誠登録で不忠誠だとみなされた人の隔離センターになっていました。多い時には約1万9千人が収容され、角ごとに見張り小屋があり、米兵が監視の目を光らせていました。

「私は50番地をあてられたのですが、途中からホノウリウリ収容所に収容されていた8人が同じ区画に加わりました。ある時、その50番地で暴動が起きたのです。問題を起こしたのはごく一部の人でしたが、50番地の住人全員が連帯責任を負わされ、罰として雪の降る中、2時間以上も外に立たされました。私を含めた何人かがさらに監視の厳しい隔離施設に入れられたので、リーダー格の人がハンガーストライキをやろうと提案し、18食、1週間ほど断食をしました。2カ月ほどして隔離施設から出てもよいと言われ、50番地に戻りました」。

金城さんはそうした理不尽な扱いに抗議の意味を込めて、米国市民権を放棄してしまい、そのまま収容所で終戦を迎えました。「市民権を保持していたら終戦後すぐに収容所から出られたのですが、放棄していたので出してもらえなかったのです。そうこうするうちにツールレイク収容所が閉鎖されることになり、今度はテキサス州のクリスタルシティー収容所に送られました。ここでは入所者の半分がドイツ人で、日系一世や南米の日系人が収容されていました」。

市民権を取り戻す裁判を起こし、46年初頭、ニュージャージー州のシーブルックス農場で働くことを条件に出所。翌年、帰省許可通知を受領し、すぐさまハワイの姉に電報を打って送金してもらい、約5年ぶりに故郷への帰途につきました。「うれしいはずの道中の汽車では、手洗いが白人と黒人に分かれていて、差別に憤りを覚えました」と金城さん。 

終戦から70年が経った今、開戦の引き金となった真珠湾の近くに住む金城さんは、遠くを見つめながら、しんみりとひと言。「母は沖縄戦で消息不明になりました。戦争はむなしいだけ」。

Hideo Kaneshiro

1921年、ハワイ島生まれ。1歳から16歳までを沖縄で過ごし、38年ハワイに戻る。太平洋戦争勃発後の42年、FBIに連行されオアフ島サンドアイランド抑留所に収容。カリフォルニア州ツールレイク収容所を経て、クリスタルシティーのテキサス家族収容所に。ニュージャージー州シーブルックスでの就労を経て、47年にハワイに戻る。パンナム航空に27年間勤務後、80年に引退。
 
(2015年8月1日号掲載)

戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/巽 幸雄さん&長男の一郎さん

頼るものは互いしかない…日系コミュニティーの絆

幸雄さんの生まれ育った、ロサンゼルス港にある人工島ターミナルアイランドは、戦前には約3500人の日本人・日系人が住んでいた漁村。和歌山県出身の幸雄さんの父はそこで缶詰工場を経営していました。当時のターミナルアイランドは、「家にカギをかけたりすることもなくて、皆が家族のようなコミュニティーでした。悪いことをしようものなら、家に帰る前に親にもそれがもう知れているようなね(笑)」と幸雄さん。

周りの子どもたち皆で現地校に通い、それが終わると毎日、日本語学校に通っていたといいます。

日本で商業学校を卒業後、米国でも高校を卒業し簿記係として勤めた後、友人に誘われて商業漁業の道へ。危険と隣り合わせではあるものの、簿記係の10倍近い稼ぎを得られることもあったそうです。その頃は野球にも熱中し、SanPedro Skippersという強豪チームのスター選手でした。「毎週日曜の試合には一世も二世も皆やって来て試合を見ていました。カリフォルニアには10チームくらい日本人チームがありましたね」。

そのターミナルアイランドの日本人コミュニティーが変化を余儀なくされたのは1942年。2月9日に同の一世の男性が一人残らずFBIに連行されたのです。残った一世、二世も2月19日の大統領令9066号の発令後48時間以内の立ち退きを命ぜられ、幸雄さん家族はマンザナー収容所へ。そこにはターミナルアイランドから約1千人が収容されました。助けてくれる国もない場所で頼りにできたのは、ターミナルアイランドの仲間ばかり…。そこでコミュニティーの紐帯はいっそう強く結ばれたと言います。

しかし、「米国市民であるにもかかわらず、敵性国民として収容されたことは、長い間、父をはじめ二世の心に『恥』として刻まれていたのだと思います」と幸雄さんの長男、一郎さんは語ります。

「私が子どもの頃に、父が家族を連れてマンザナー近くに住んでいた白人の女性を訪ねたことがありました。その時父は『マンザナーの郵便局で働いていた時の上司で、古い友人』だと紹介してくれたのですが、なぜ収容所にいたのかなど、政治的な背景を話すことはありませんでした。父や母をはじめ二世が収容所について語り始めたのは、88年に『市民の自由法』が成立し、米国政府が正式に謝罪をしてからです。二世はそれでようやく汚名を雪げたと顔を上げて話せるようになったのだと思います」(一郎さん)。

世代を経て変わりゆく中で かつての時代を伝える碑

1941年、カリフォルニア州のチャンピオンになった、ターミナルアイランドの野球

チームSan Pedro Skippers。幸雄さんは前列右から3人目

(2015年8月1日号掲載)

戦争の後、幸雄さんはロサンゼルスに帰郷。しかし、ターミナルアイランドは戦中に跡形もなく破壊され更地になっていました。幸雄さんは友人の商業漁船の乗組員として働き、53年にロサンゼルス港近くのロングビーチに家を購入しました。「ターミナルアイランドの住民の多くは、戦後ロングビーチに戻ってきました。故郷はなくなってしまったけれど、一番近い所と言ったらここですから」と幸雄さん。また、56年にはロングビーチの一角にあった日本食等の食料品店「オリエンタルフードマーケット」を購入し、26年間にわたって同店を経営。そのブロックは、薬局、レストラン、保険、理髪店…とさまざまな日系のビジネスが軒を連ねていたそうです。

「当時のロングビーチのコミュニティーは、かつてのターミナルアイランドのように、皆が家族みたいでした」(一郎さん)。日米間の戦争、収容所と苦難を経てなお戦後も脈々と続いていた日系コミュニティーですが、日本語が主要言語であった一世が世を去り、バイリンガルの二世とは英語でのコミュニケーションが主となると、日本語を話さない三世も増加。また日本との関わりゆえにスパイと疑われた戦中の経験から日本語を教えない選択をした家庭も多くありました。そして、英語を母語にアメリカ社会の中で活躍する三世は、より良い住環境や教育を求めて、他のエリアや他州へと転出。今、ロングビーチの日系コミュニティーは拡散し、確たる姿は見分けづらくなっています。

今は港からの荷を運ぶトラックが行き交うばかりのターミナルアイランド。かつて多くの日系人が暮らしたその場所には、2002年にターミナルメモリアルが建立され、そこに暮らす人々の生業であった漁業に励む漁師の像や鳥居、幸雄さんの歌碑が、日系移民の歩みを伝えています。

Yukio Tatsumi

1920年、イースト・サンペドロ(現在のターミナルアイランド)生まれの日系二世。33年から日本に。和歌山県下里の商業高校を卒業後にアメリカに戻り、サンペドロ高校を卒業。戦争中はマンザナー収容所に収容される。終戦後、ロサンゼルスに戻り、漁業等を経て、日本食などのスーパーマーケットを経営。ターミナルアイランドの元住人たちで構成される「ターミナルアイランダーズ」元会長。2014年、日本政府より旭日双光章受章。
 
(2015年8月1日号掲載)

戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/比嘉武二郎さん

予想外の真珠湾攻撃 開戦後、日系人部隊に志願

今年92歳になる比嘉武二郎さんは、オアフ島生まれの帰米二世。2歳の時に母に連れられて、兄姉と共に両親の故郷の沖縄に移りました。当初の予定では、3年後に家族でハワイに戻る予定でしたが、母が肋膜炎になり旅ができる状態でなく、父が兄と姉を連れて帰国。比嘉さんは、母と共に沖縄に残りました。しかし12歳の時に母が死に、祖父母に引き取られたものの翌年には祖父母も他界し、叔父の家族と生活しながら尋常高等小学校を卒業しました。ところが当時の日本は日中戦争の真っただ中。日本軍に徴兵されるのを恐れた父が、1939年、比嘉さんが16歳の時にハワイに連れ戻しました。

41年12月7日午前9時頃、比嘉さんが働いていたホノルルのYMCAのカフェテリアに、取り乱した白人女性が「戦争!戦争!コーヒー!」と言いながら駆け込んできました。「私がコーヒーを差し出すと、彼女はガタガタと震えていたので、コーヒーを半分ほどこぼしてしまいました。『戦争よ!夫を真珠湾に送り届けて来たところよ』と言うので、初めは少し頭のおかしい人かなと思ったのです。屋上に行き、真珠湾の方を見ると、飛行機が墜落するたびに黒い煙が上がるのが見えました。でも、まだ戦争が勃発したとは思わず、本格的な演習だと思っていました。見ていると、真珠湾ヒッカム基地の高射砲からの砲弾が4、5発、ヌウアヌ通りのサイミン屋の前や、日本語学校のあたりに落ちて、トタン屋根が飛んで大きな爆音を立てました。敵の飛行機に向けて撃った不発弾でした。11時頃に、戦争が始まったことを伝えるラジオ放送があり、事態の深刻さに驚いて、慌てて屋上から地下に逃げ込みました」と比嘉さん。

戦争が勃発したその日から、日系人は適性外国人とみなされ、西海岸のように全員ではなかったものの、特に日本への忠誠心が強いとみなされたハワイの日系社会のリーダーたちが次々に収容所に送られました。「私は収容所行きを避けるために、高校在学中に兄と共に軍に志願しました。兄は合格しましたが、私は受理されず、日本で教育を受けたせいだろうかと思いました。しかし数カ月後に陸軍省から『二世の戦闘部隊を作るが、お前はまだ志願する気持ちがあるか』という内容の手紙を受け取りました。志願したら太平洋戦争に送られることは分っています。戦場で従兄弟や親戚、同級生と鉢合わせたらイヤだなと思いましたが、一度志願した以上、今さらできないとは言えません。志願して受理されました。アメリカへの忠誠心に対する疑いが晴れてうれしい反面、とても不安な気持ちでした」と当時のことを振り返ります。

終戦前の沖縄に上陸恩師・旧友との奇遇な再会

ミネソタ州キャンプ・サベージにあったMISの日本語学校で軍隊訓練を受けた。左は1943年、右は43〜44年頃

Photo Courtesy of Takejiro Higa

米国本土でMIS(米国陸軍情報部)の日本語学校に通った後、第96歩兵師団に配属。フィリピン上陸を経て、沖縄に上陸した比嘉さんの任務は、壕にこもった人たちへの投降の呼びかけでした。「人影が見える壕を通りかかり『出て来てください』と何度も叫んでも誰も出て来なかったので、引き金を引こうとしたのです。そうしたらお婆さんと女の子が出て来て、『もう少しで人殺しをするところだった』と胸をなでおろしたこともあります」。

ある時、沖縄の難民収容所(民間人収容所)に兵士が潜んでいるというので、比嘉さんが尋問の通訳に呼ばれました。「疑惑をかけられていた男性は私の尋常高等小学校の先生で、私を見ると『ああ、君か』とだけ言い、お互い言葉になりませんでした。大尉に『彼は先生で、兵士ではありません』と説明できたので、先生は収容所に留まることになりました」。

終戦の1週間前には、みすぼらしい服の若者が2人、本部に連行されて来ました。「尋問すると同郷で同い年。ほどなくして同級生だと分かり…肩を抱き合って泣き崩れてしまいました」と、旧友との奇遇な再会をしたことも。

沖縄で覚えた方言で沖縄の人たちに呼びかけられたからこそ、「米国市民としての義務を果たし、しかも罪のない沖縄の人を助けることができた」と言います。「人を殺さなくて本当に良かった。戦争で人を殺していたら、今当時の話をする気にはなれなかったと思います」。日米のはざまで断腸の思いをした比嘉さんですが子ども時代を過ごした沖縄が心の故郷だそうです。

Takejiro Higa

1923年、ハワイ・オアフ島ワイパフ生まれ。2歳から16歳まで沖縄で育った後、ホノルルに戻る。高校在学中に軍隊に志願するが却下され、陸軍省からの手紙により再志願。サンフランシスコとミネソタのMI Sの日本語学校を経て、1944年フィリピン戦、沖縄戦に参戦。戦後は韓国に赴き、1945年12月ハワイに戻り除隊。ファリントン高校、ハワイ大学卒業後、国税庁に入局し90年に引退。
 
(2015年8月1日号掲載)

葛藤と苦悩の日系人・アメリカの歴史

思いもよらぬ祖国からの攻撃で、アメリカ市民でありながら一瞬にして「敵性外国人」の烙印を押された日系人。現状を打破するにはアメリカ兵として出兵し、戦場で良い成績を残すしか生き残る道はないと、多くの若き二世が前線に向かった。

戦後、アメリカの日系社会はモデル移民と呼ばれ、各界に多数の成功者を送り出した。それも若き日系兵士の犠牲があったからにほかならない。今回は、第2次世界大戦という歴史に翻弄された日系人の苦闘と葛藤を紹介したい。

 

第1章)リメンバー・パールハーバー

日系人の立ち退きを伝える『サンフランシスコ・エグザミナー紙』
Courtesy of The National Archive and Record Administration

パールハーバー攻撃で一瞬にして敵性外国人に

1941年12月7日(ハワイ現地時間)の朝だった。穏やかな日曜日の朝、ハワイ・オアフ島では多くの人が、アメリカ海軍基地パールハーバーに黒煙が上がるのを目撃した。それが日系人の歴史を変える悲劇の始まりだと気付いた人は少なかった。だが、戦闘機第2波がホノルル上空を旋回した時、人々はその機体に日の丸を見つけて愕然とした。パールハーバー攻撃で、誰よりも打撃を受けたのはハワイに住む日系人だった。
 
ハワイ選出のダニエル・イノウエ上院議員は、その時の衝撃を「人生が終わったと思いました」と告白している。彼らにすれば、祖国から裏切られた思いだったに違いない。後にハワイの日系兵が部隊のモットーに選んだのは「リメンバー・パールハーバー」だ。このモットーに、ハワイで生きてきた日系移民の無念さが凝縮されている。
 
パールハーバー攻撃の一報は、瞬く間に全米を駆け巡った。アメリカの日系人は一瞬にして「敵性外国人」のレッテルを貼られる。ロサンゼルスのリトルトーキョーでは戒厳令が敷かれ、日系人の5マイル以上の外出が禁止になった。FBIは日系人リーダーを一斉検挙し、翌朝6時半までに全米で763人の日系人一世が連行された。
 
翌日、当時のアメリカ大統領であったルーズベルト大統領は正式に日本に対して宣戦布告し、ドイツとイタリアがアメリカに対して宣戦布告すると、アメリカは全面戦争に突入した。この日を境に「ジャップ」という蔑称が連日、全米各紙のトップを飾るようになる。加熱した反日感情は容赦なく日系人に向けられた。日系人を狙った襲撃事件が増え、街の商店には「ジャップお断り」のサインが目立った。
 
1942年2月、ルーズベルト大統領は大統領命令第9066号に署名した。これは裁判や公聴会なしに、特定地域から日系人を排除する権利を陸軍に与える法律だ。基本的にアメリカ市民は、どんな重罪犯でも裁判や公聴会で無実を主張する権利が保障されている。大統領命令第9066号は、そのアメリカ人としての当然の権利を日系人から奪ったものだ。
 
その4日後、サンタバーバラ沖の製油所が日本軍の潜水艦から砲撃を受けると、アメリカ海軍はサンペドロ沖のターミナルアイランドに住む日系人に対して、48時間以内の立ち退きを命じた。当時、ターミナルアイランドは日系人約3千人が住む「日系人漁村」だったが、島の半分は海軍基地だった。人々は財産を二束三文で処分し、身寄りのない人はリトルトーキョーの寺などに身を寄せた。
 
アメリカ政府による日系移民排除政策は、世論のヒステリックな排日感情に後押しされて、この後次第にエスカレートしていく。

■公正な立場で報道したハワイと南カリフォルニアの2紙

パールハーバー奇襲後、一夜にして全米各紙が「ジャップ」と激しい攻撃を繰り広げたのに対し、あくまで人道的な報道を貫いた編集長がいる。1人はハワイの有力紙『ホノルル・スターブリテン』紙のライリー・アレン編集長だ。
 
アレン編集長は、パールハーバー奇襲を伝える報道に始まり、「ジャップ」という蔑称の使用を決して許さなかった。当時、同紙には日系人編集者が2人いたが、2人共解雇されることなく仕事を続けた。この日系人を含む編集者たちは「ジャップ」の使用を求める嘆願書をアレンに提出したが、彼は「ジャパニーズ」と綴る方針を貫いた。
 
もう1人が『オレンジ・カウンティー・レジスター』紙創設者のR.C.ホイルズだ。全米でも反日感情が特に高かった南カリフォルニアにおいて、彼は紙面で市民的自由のあり方を問い続けた。強制収容実施に傾く軍部に対しては「異国の地で生まれ、その地で何年も善良な市民として生活してきた人たちが危険だとは信じがたく、彼らの忠誠心に懐疑的になるべきではない」と訴えた。

「48時間以内に島を出ろ」、立ち退き令状で生活が一転
泉 敏郎さん

ターミナルアイランドで父は漁師として、母は缶詰工場で働いていました。私は島で小さな食料店を営んでおり、太平洋戦争が始まった時は27歳でした。コミュニティーのリーダー格だった父は、戦争が始まってすぐFBIに連行され、モンタナの収容所に入れられてしまいました。島内では日本人経営の店がどんどん閉鎖され、私の店もアメリカ兵の監視の下、1日1回だけ店を開けて食料を分けていました。これからどうなるか、不安な気持ちで2、3カ月を過ごしました。
 
そしてある日、海軍から「48時間以内に島を出なさい」という立ち退き令状が張り出されました。一世は英語の読めない人ばかりでしたので、英語の読める人が家族や近所の人々にそれを慌てて伝えました。私はベニスに住む遠縁の親戚から大型トラックを借りて、干物などの食料を積めるだけ積み、後の物は捨ててベニスに移りました。
 
その後、ロサンゼルスの姉の家に移りましたが、収容所に入れられるとの噂を聞いていたので覚悟していました。そして、カリフォルニア州トゥレーリーの集結センターで半年近く過ごし、アリゾナ州のヒラリバーの収容所に送られました。
 
収容所である時オフィサーに呼ばれ、「ターミナルアイランドの自宅や店にはこれだけの値打ちしかない」と、たった200ドルを渡されました。後で政府に訴えても良いと言われましたが、自分にはすでにその元気はありませんでした。島はすでに海軍の基地となり、漁業で栄えていた日本人町はすっかり破壊されてしまいました。もう戻る所ではなかったのです。

第2章)日系人の強制収容

強制収容所に送られる前に、サンタアニタ競馬場に列車によって集められた日系人
Courtesy of the Bancroft Library.
University of California, Berkeley

アメリカの歴史に汚点を残す、日系人強制収容所

1942年3月2日、アメリカ西海岸各州の西半分とアリゾナ州南部がアメリカ陸軍によって第1軍事地域に指定されると、その3週間後にはシアトルのベインブリッジに住む日系人家族220人に対して、強制立ち退き令第1号が発令された。対象は「日本人を祖先に持つ外国人および非外国人」。「非外国人」とは、出生によるアメリカ市民である日系二世を指した。彼らが後述するマンザナー収容所の入居者第1号となった。その後、立ち退き令は軍事指定地域に住む日系人に次々と第108号まで発令され、夏頃にはアメリカ西海岸から日系人が完全に姿を消した。その総数は12万人以上に上る。
 
立ち退きに与えられた日数はほぼ1週間。人々は財産を叩き売らなければならなかった。それでも立ち退き当日、男性はスーツ姿に帽子、女性はスーツやドレスなどを身にまとい、まるで観劇にでも行くような装いで、秩序正しくバスや電車に乗り込んだ。それは日本人としてのせめてもの誇りであったのかもしれない。
 
人々はまずアセンブリーセンターに集められた。ロサンゼルス界隈のアセンブリーセンターはサンタアニタ競馬場だった。敷地内に仮設バラックが建てられたが、馬小屋も住居として当てられた。馬糞の匂いはきつく、どんなに拭いても取れなかったという。数カ月後には、さらに全米10カ所に特設された収容所へと移送された。どの収容所も砂漠など気候条件の厳しい僻地に建設され、ロサンゼルス界隈からは多くがマンザナー収容所へと送られた。

周囲の砂漠からの砂塵が吹き込む過酷な環境だったマンザナー収容所
Courtesy of the Bancroft Library.
University of California, Berkeley

1万人が収容されたマンザナーは、ロサンゼルス北東、デスバレーの西に位置する砂漠のど真ん中で、砂漠風が吹き荒れ、多くの人が砂漠熱に倒れた。急ごしらえで建てられた住居用バラックは生木を用いたため、乾燥すると隙間ができた。朝目を覚ますと、毛布の上に砂が積もっていることも珍しくなかったという。
 
収容所は鉄条網で囲まれ、見張り台では番兵が銃を所内に向けて構えていた。住居バラック以外に共同の食堂、洗濯所、トイレなどがあった。トイレの個室に壁はなく、人々はダンボール箱などを持参し、便器の回りを囲った。収容所にプライバシーは一切なかった。大抵1家族につき1部屋のみ。隣室の話し声すら聞こえるほど壁は薄く、家具といえば軍用ベッドだけ。それでも人々は、バラックの周りに花壇や池などを作って環境を整え、生活の向上に努めた。そのうち公会堂なども建設され、娯楽を楽しむ場も作られた。
 
日系人は収容所内で仕事に就くことを奨励され、一般職で月16ドル、専門職で19ドル支給された。当初アメリカ政府は陸軍兵士と同じ額の支給を考慮していたが、激しい世論の反対に遭い、食事や医療を無料で提供することで、先の額に落ち着いたとの経緯がある。
 
立ち退きにより多大な財産を失った人がいた一方で、収容されたことで渡米以来、初めて3度の食事に困らなくなったという人がいたのも事実だ。日系移民に対する差別は戦前から充満しており、特に日系人一世は、ありとあらゆる差別を受け、開戦後は襲撃事件に脅えていた人も多かった。そのため収容されて「安心した」という一世も少なくない。
 
所内では無料のアダルトスクールも開講され、華道などの日本文化も継承された。さらに公会堂では、日本舞踊の発表会なども行われた。「敵性外国人」として有刺鉄線の中での生活だったが、「敵性文化」である日本文化を禁止されなかった事実は特筆しておきたい。

■強制収容に反対し続けた収容所の歴代長官

全米10カ所に設置された日系人収容所を管轄したのは、WRA(戦時転住局)だ。このWRAの初代長官は、後に大統領となるドワイト・アイゼンハワーの弟ミルトン・アイゼンハワー。彼は強制収容に先立ち、ネバダ、アイダホ、オレゴン、ユタ、モンタナ、コロラド、ニューメキシコ、ワイオミング、ワシントン、アリゾナ各州に、日系人の受け入れを打診した。だが快く受け入れを承諾したのは、コロラド州のラルフ・カー知事だけだった。
 
カー知事は「日系人は他のアメリカ人同様、忠実なアメリカ人だ」と歓迎する方針を採り、コロラドに収容所ができると日系人の子女を家事使用人として雇用して、アメリカの大学に進学させた。現在デンバーのサクラ・スクエアにある知事の銅像は、戦後日系社会が知事に感謝の意を表して建てたものだ。
 
アイゼンハワーは、長官の立場でありながら強制収容に辟易し、わずか90日で辞職した。辞職の理由を、後任のディロン・マイヤーに「この仕事をしていると夜も眠れない」と語っている。マイヤーもまた収容所の存在に疑問を感じ、「子供が有刺鉄線の中で番兵に見張られて育つのが、アメリカ的だと言えるだろうか」と訴えた。
 
マイヤーはシカゴに事務局を設置すると、日系二世の移住を斡旋した。3カ月後には身上調査に合格した一世の移住も許可しており、1943年3月までに約3000人が収容所を出ている。

砂漠の地・マンザナーで過ごした悲惨な少年時代
マス・オクイさん

バーバンクの家からマンザナーの収容所に移ったのは10歳の時。両親、3人の兄弟と3年半、そこで暮らしました。6×7.6メートルのバラックの部屋が割り当てられ、ワラ詰めのマットレスと毛布、石油ストーブが支給されました。1区画には15棟のバラックがあり、その中でトイレやシャワー室を共同で使いました。
 
収容所の中には学校、農園や養鶏所、貯水場などもあり、新聞も発行されていました。父はしょう油工場で働いており月給16ドル。食堂で働く女性などは月給8ドルでした。
 
夏は暑く、冬は寒く、強風で砂埃のひどい地域でしたが、子供だった私はよく同年代の友達と野球やバスケットボールをしていました。時々、屋外で映画の上映会なども行われました。嫌だったのは収容所を囲む鉄条網。1942年にはマンザナー暴動が起こり、軍警察の発砲で収容者2人が射殺されましたが、あれは暴動ではなく見せしめだったと思います。
 
父はアメリカの大学を卒業し、母は二世でしたので英語は不自由しませんでしたが、日本語しか話せない人はもっと不安な気持ちで過ごしていたと思います。両親からは、「心配してもどうにもならないことは心配するな」「今ある自分の人生を生きろ」「日本人であることを誇りに思え」と教えられました。
 
収容所の生活は悲惨でしたが、最初のクリスマスに娯楽室に子供が集められ、サンタクロースがぬり絵とクレヨンを配ってくれました。それが唯一、楽しかった思い出として印象に残っています。

「保護する」との名目の下 銃を向けられた中で暮らす
藤内 稔さん

日本人の両親の下、サンペドロで育ちました。父はLAにオフィスを持ち、12軒の八百屋を所有する経営者でしたが、祖父の危篤で日本に帰った時に徴兵され、従軍した経験があったためFBIに目を付けられ、戦時中は3年間、モンタナやルイジアナなど8カ所で拘留されていました。母と姉、弟と共に強制収容されたのは13歳の時でした。サンタアニタ競馬場で4カ月半暮らしましたが、元は馬小屋ですから、夏は湿った地面から匂いが立ち上り、とても居られたものではありませんでした。
 
その後、コロラド州グラナダのアマチという収容所に列車で移動し、そこで3年暮らしました。夏は43℃、冬は-12℃の砂漠の地で、バラックの家は足で蹴れば穴が開くという粗末な造りでした。牛や鶏もいる農場でさまざまな作物を作り、余剰は他の収容所に分けましたが、不作で食事がご飯にマヨネーズをかけただけという時もありました。
 
唯一の楽しみはボーイスカウト活動で、収容所の外に出られたことですね。ドラムとラッパのバンドを結成してメモリアルサービスで演奏したり、メンフィスからバラックの材料を運んだりしました。ひと晩中サーチライトが中を照らし、夜9時には軍警察が人数確認にやって来ました。彼らは我々を守るために収容所に入れていると言っていましたが、監視塔から銃を向けているのは私たちの方向です。ずっと不信感を抱いて暮らしていました。
 

不自由な暮らしの中で忍耐と感謝の気持ちを学ぶ
大平 千鶴子さん

和歌山出身の両親はリトルトーキョーで食料品店を営んでいました。強制収容された時、私はカトリック系の中学を卒業する直前でした。送られた先はアリゾナ州ポストンの砂漠の地です。私は第1キャンプのバラックで4年間、両親と3人の兄弟と暮らしました。兄は東海岸の大学に入るため、しばらくして収容所を出ることが許されました。
 
収容所の生活は、それまでとはまるで違う世界でした。周りには白人が1人もいません。高校の授業が終わると、私は病院の中で看護婦のアシスタントとして掃除などをしました。月給は6ドル程度でした。ガールスカウトでは山やコロラド川に出かけ、そこで拾ってきた木を彫って器や飾りを作ったりしました。
 
また女子生徒たちは戦地に向かう兵士のために壮行会を催し、歌ったり踊ったりしました。彼らは同じ学校で学んだ先輩たちです。複雑な気持ちだったと思いますが、みなアメリカのためにと言って出て行ったのです。高校卒業後は収容所のオフィスで働きました。上司は白人でしたが、従業員はみな日本人で、私の仕事は簡単な事務でしたが、月給16ドルがもらえました。
 
基本的に着る物は配給されましたが、自分の収入の中から通販カタログで注文して買うこともできました。トイレとシャワーは共同で、トイレに仕切りはありましたがドアはなく、シャワーヘッドは6つ並んでいました。ランドリーには洗濯機はなく、洗濯板を使って手で洗いました。不便でプライバシーもなく、とても暮らしにくい所ではありましたが、収容所の生活を通して、忍耐と感謝の気持ちを学びました。

 

第3章)アメリカ軍の歴史に残る日系人の戦い

フランス・ブエリアでの戦功を讃える式典で整列する第442連隊
Courtesy of The National Archive and Record Administration

引き取り手のなかった日系人部隊「ワンプカプカ」

パールハーバー攻撃の日、ハワイには数多くの日系兵がいた。1940年、アメリカ政府は史上初めて、平和時に徴兵制を導入しており、ハワイの第1回選抜制徴兵では、日系人二世が約6割を占めた。パールハーバー奇襲直後は、軍部の日系兵への対応も混乱していたが、最初のパニックが落ち着くと、日系兵は島の防衛任務に就いていた。
 
ところがミッドウェイ開戦が近付くと、再びハワイに緊張が走った。万が一アメリカ軍が負けるようなことがあると、日本軍がハワイに侵攻して来る可能性大だからだ。日本兵がアメリカ軍のユニフォームに身を包んだら見分けが付かない。そこで軍部は緊急対策として、日系兵だけを集めてアメリカ本土に輸送することにした。ところが日系兵は戦力として集められたのではなかったため引き取り手がなく、所属すべき連隊も師団もなかった。そこでアメリカ軍・第100大隊というとてつもない数字が付けられたのだ。
 
彼らはいつしか自分たちの部隊を「ワンプカプカ」と呼ぶようになった。ハワイ語で穴のことを「プカ」、ゼロも「プカ」と言うから。第100大隊長となったのは、ファラント・ターナー大佐。ターナー大佐はハワイ島ヒロ出身で、ハワイ兵を熟知しており、すでに47歳だったにもかかわらず、日系部隊編成の話を聞くとすぐに隊長に志願した。
 
ターナー大佐は日系兵たちを「マイ・ボーイズ」と呼び、不当な扱いから守ることに全力を尽くした。また出兵の可能性もないまま訓練に入った若い日系兵の士気を高め、彼らが問題を起こすと、「日系部隊の評判は君たち一人一人の行動にかかっているのだ。そして君たちの肩には親兄弟の将来がかかっているのだ」と諭した。
 
日系兵たちは、少しでも良い訓練成績を残して早く前線に出られるよう厳しい訓練に励んだ。陸軍マニュアルによると、重機関銃の組み立てに要する時間は16秒で「軍基準を満たしている」に達し、幹部候補生学校でも11秒で「速い」と評価される。ところがワンプカプカには、5秒という大記録を出した日系兵が数人いた。彼らの訓練ぶりを視察に来たある将校は、「今まで指揮したどんな100人よりも、彼らのような100人を部下に持ちたい」と報告している。
 
1943年2月、ルーズベルト大統領は志願兵からなる日系部隊第442連隊の編成を発表した。

どの指揮官も欲しがる輝かしい名誉の部隊へ

1943年9月、第100大隊に出兵命令が出た。アフリカ経由でイタリアに上陸すると、その勇敢さは「前線で決して振り返らない兵」と称された。イタリア前線で最も過酷と言われたカッシーノ戦を経て、アンツィオ上陸作戦に参戦した。ここでも多大な戦功を残すと、訓練を終えた第442連隊と合流した。第100大隊はこれにより第442連隊の第1大隊となったが、輝かしい戦功に敬意を表して、第100大隊と名乗ることを許可されている。
 
だがその名声をさらに広めたのは、フランス戦線においてだ。ドイツ国境にあるボージュの森で敵に包囲され身動きできなくなったアメリカ・テキサス兵のニュースは、「失われた大隊」としてすぐに全米に発信された。この時の師団長は、着任2カ月足らずのジョン・ダールキスト少尉。彼にドイツ入城1番乗りを果たしたいとの野望がなかったとは言い切れない。そんな少尉にとって「失われた大隊」の救出は、軍人生命をかけた作戦だった。
 
ナチス親衛隊が死守せんと固めていたブリエアの町を解放し、休息に入ったばかりの第442連隊に、「失われた大隊」救出作戦の出動準備命令が出たのは翌日だった。未明の森は、自分の手の先も見えないほどの暗闇だったという。ある兵士は「野戦装備の荷物が肩に食い込み、疲れ切っていて、僕らはさまよう幽霊のようだった」と述懐している。
 
絶叫しながら破れかぶれの「バンザイ・チャージ」が登場するのは、この戦闘においてだ。炸裂する砲弾の中を駆け抜けること6日間。第3大隊I中隊は185人で出陣したが、最後の地雷を突破し、「失われた大隊」にたどり着いた時に残っていたのは、わずか8人だった。ボージュの森に入って以来、ほぼ休みなしで戦い続けた34日間で、日系部隊はブリエアを解放し、212人のテキサス兵を救出し、その後9日間におよぶ前進を続けた。この間に出した戦死者は216人、負傷者856人。兵力は半分以下になっていた。
 
現在ブリエアの森へと続く道は「第442連隊通り」と名付けられている。森の入り口に建つ記念碑には「国への忠誠とは、人種の如何に関わらないことを教えてくれたアメリカ軍第442連隊に捧げる」と刻んである。

■日系人兵を受け入れた司令官と中傷記事に抗議した将校

受け入れ先のなかったワンプカプカを、快く引き受けたのは、第5軍司令官のマーク・クラーク中将だった。ワンプカプカが部隊として最高の栄誉である初のアメリカ大統領殊勲感状を授与されたのはベルベデーレ戦の戦功であった。
 
この叙勲式でクラーク中将は、「日本人を祖先に持つアメリカ人の諸君は、本日、誇りに思いたまえ。諸君は戦場で真のアメリカ人として戦ったのだ。もう1つ諸君が誇りに思っていいことがある。それは諸君が、アメリカ陸軍の高い水準に達したことだ。アメリカは諸君を誇りに思っている」と演説をしている。日系人であるがゆえに茨の道を、歯を食いしばって頑張っていた彼らにとって、クラーク中将の言葉は何にも勝る贈り物だった。
 
また、第442連隊第2大隊司令官のジェームズ・ハンレイ中佐は、日系兵を中傷する記事を書いた自分の地元紙に抗議の手紙を送った。「善良なジャップ・アメリカンがいるというが、どこに埋葬されているのかわからない」と書いた『デイリー・パイオニア紙』のチャールズ・ピアース編集長に、ハンレイ中佐は以下の抗議文を送りつけた。「善良な日系アメリカ人がどこにいるか僕はよく知っている。本隊には5000人ほどいる。(中略)君やフッドリバー在郷軍人会支部、ハースト系新聞、その他何人かの連中は、我々が一体何のために戦っているのか疑わせる。まさか人種偏見の支援戦争ではないだろう。ここに来てみろよ、チャーリー。『善良なジャップ・アメリカン』が埋葬されている所に案内するよ」
 
この手紙は1944年3月31日付の同紙に掲載された。ちなみにフッドリバー在郷軍人会支部はオレゴン州にある。同支部は出兵したフッドリバー出身の兵士の名を市庁舎前に大きく掲載したが、日系兵16人の名前を削除した。この一件が報道されると、激怒したのは日系兵たちと共に血を流したアメリカ兵たちだった。彼らが大統領や議員、全米在郷軍人会本部へ抗議の手紙を出す運動を起こし、それがさらにニュースとなって報道された。そして数週間後には、同会会長が日系兵の名前を復活させるよう指示する事態となった。戦時中から日系人を擁護してきた人たちは、戦後の自由獲得の闘いでも大きな力となった。

第4章)戦後に残された平等への願い

マンザナー収容所跡に立つ日系人慰霊碑

人種差別と偏見に立ち向かったアメリカの日系社会

日系人部隊は結果的にアメリカ戦史上、一部隊として最も多くの死傷者を出し、最も多くの勲章に輝いた。彼らの犠牲を無駄にしないためにも、戦争が終わると日系社会は即座に彼らの功績を材料に、自由と平等を勝ち取る運動に着手した。
 
まず強制収容の違憲性を訴え、外国人土地法の撤回を求めて立ち上がった。この時、日系人社会の大きな力となったのは、日系兵と共に前線で戦った将校たちであり、日系兵に救出された「失われた大隊」の兵士だった。こうして戦後間もない時期に、人種差別に端を発する法律の違憲性が連邦最高裁で次々と立証された。だが日系社会が戦後第一に取り組んだのは、高齢化する日系移民一世に帰化権を与えることだった。1790年、最初に制定された移民法からアフリカ系が移民権を獲得するまでに80年かかったが、日系人が帰化権を得るには、それからさらに82年を要した。
 
1959年、ハワイが統治領からアメリカ合衆国の50番目の州に昇格した。この原動力となったのは、戦後GIビル(除隊後、兵士に与えられる学費の援助)を利用して大学に進学し、後にハワイ政界の担い手となった日系人政治家たちだ。彼らがワシントンに進出するようになると、それまで滞っていた数々の人種差別的法律が撤廃された。
 
1970年代になると、強制収容に対するアメリカ政府の補償問題が語られるようになった。収容者に対する政府の正式謝罪と1人当たり2万ドルの補償金支給が決定したのは83年のことだ。この補償金の予算を確保するための法案が下院で提出されたが、第442連隊を記念してHR442法案と名付けられた。同法案は下院を87年に通過したが、レーガン大統領が署名するまでにさらに1年を要した。この法案は現在では、「1988年の市民自由法」として知られている。
 
戦後、移民法や外国人土地法が改正されていなければ、日本企業は工場を持つことも駐在員を送ることもできなかったはず。日系人の先達は、今ある日系社会の基盤を築いてくれただけでなく、敗戦後の日本の復興にも大きな功績を残したことも覚えておきたい。
 
●参考文献:
『Bridge of Hope‐日系アメリカ人のたどった道』(Japanese Executive Women’s League刊)
『Encyclopedia of Japanese American History』(Japanese American National Museum刊)
 
●取材協力:
Japanese Executive Women’s League(JEWL)

【日系人の闘いの歴史】

1800年 後半 日本人移民の渡米が始まる。多くが西海岸とハワイに定住
    外国人土地法が制定
    排日移民法が制定。日本人の移民が事実上禁止に
1940年 11月 史上初めて平和時に徴兵制を導入
1941年 11月 MIS(陸軍情報局)日本人学校が極秘に開設。
多くの日系人二世が志願し、後に太平洋戦線で活躍
  12月 ハワイ・パールハーバー攻撃
1942年 1月 徴兵サービスが日系人を敵性外国人扱いに
  2月 ルーズベルト大統領が大統領命令第9066号に署名。
この後、計12万人の日系人がアメリカ西海岸から強制退去させられ、全米10カ所の収容所へ
  6月 第100大隊が極秘でアメリカ本土に移送。
キャンプ・マッコイでの訓練始まる
1943年 2月 第442連隊の編成発表。志願兵の募集開始。
収容所では忠誠登録始まる
9月 第100大隊が戦地に。イタリアのサレルノ上陸
1944年 1月 日系人の徴兵開始
  6月 第442連隊がイタリア上陸し、第100大隊は同連隊に編成
  10月 フランス戦線でブリエア解放後、「失われた大隊」救出
  12月 強制収容所を閉鎖
1945年 5月 ヨーロッパ戦終結
  8月 太平洋戦終結
1946年 7月 トルーマン大統領がホワイトハウスで
第442連隊に第7回目の大統領殊勲感状を授与
1952年 6月 改正移民法が成立。
日系一世のアメリカ市民への帰化が可能に
1957年 8月 カリフォルニア州住民投票で外国人土地法が無効に
1959年 8月 ハワイが合衆国50番目の州に昇格
    ハワイ選出のダニエル・イノウエ下院議員が日系人としてワシントンに初登庁
1988年 8月 レーガン大統領が強制収容に対して正式謝罪。賠償法が成立
2004年 5月 マンザナー収容所跡がマンザナー国立歴史遺跡としてオープン

 
(2008年8月16日号掲載)

ちょっと待ってほしい、異常な「ハーフ美女人気」

冷泉彰彦のアメリカの視点xニッポンの視点:米政治ジャーナリストの冷泉彰彦が、日米の政治や社会状況を独自の視点から鋭く分析! 日米の課題や私たち在米邦人の果たす役割について、わかりやすく解説する連載コラム

国際化?内向き?日本のハーフ美女人気

ハーフ美女

日本の芸能界では、ここのところ「ハーフ」や「クォーター」のタレントの人気が加熱している。クリステル、ベッキー、ローラ、ダレノガレ、アリー、トリンドル、クリスティーン…とにかく、そうしたカタカナの名前がバラエティー番組や情報番組にあふれている。この7月の参議院選挙では西日本の全県区で、日米ハーフである30代前半の女性が43万票を集めて当選するなど、政界にも進出が見られる。
 
これは、日本の国際化が進んでいるということなのだろうか?
 
そうではない。むしろ逆であって、日本社会がより国内志向になっていることの表れだと見るべきだろう。それは1980年代の「バイリンギャル」ブームと比較すれば明らかだ。80年代の「バイリンギャル」というのは、山口美江、小牧ユカといった人々や、歌手では早見優、西田ひかるといった顔ぶれだった。彼女らは、ジャーナリストとしてキチンと海外のニュースを紹介していたし、音楽については洋楽のセンスを活かした楽曲を紹介していた。
 
当時の日本社会には明らかに「日本はもっと国際化しなくてはいけない」という雰囲気があったし、「ネイティブ発音は偉そうで虫が好かない」などという駄々っ子のようなことを言う世相はなかった。それから30年近い年月が流れた。今では「バイリンギャル」という言葉は完全に死語になっているし、「元祖バイリンギャル」と言われた山口美江氏は既に他界している。

バイリンギャルとハーフ美女 流行から見る世相

では、現代の「ハーフ美女(?)ブーム」は、何が違うのだろうか?
 
まず、彼女らは「完璧な日本語」を話すことを要求される。外国語が混じってはいけないし、「積極的な自己主張」は禁止されている。その代わり、前述した全員に当てはまるわけではないが、「ワタシ、自信ないんですぅ~」とか「~させていただいて大丈夫ですか?」的な「低姿勢」で「安全」な日本語を話す「キャラ」が要求されるのだ。
 
また、日本人でない方の親や、その母国との関係は、ほとんど話題にしないことになっている。例えば、人気絶頂のモデルでタレントのローラの場合は、父親がバングラデシュ人だが、7月に発生したバングラデシュの首都ダッカにおけるテロ事件の際に、バングラデシュとローラを結びつける論調は皆無だった。また、一昨年発生した父親の関係したスキャンダルに関しては、ローラは「無罪放免」となっている。
 
つまり、80年代の「バイリンギャル」が、日本人が「世界」をのぞく「窓」のような存在であったとしたら、現代の「ハーフ美女」というのは、世界への窓を閉じてしまった日本の中に「囲い込まれた」存在だと言えるだろう。要するに、日本にとっては極めて「内向きのカルチャー」なのである。
 
では、どうして「ハーフ美女」なのだろうか?一つには、日本では「童顔の若い白人女性をありがたがる」という不思議なカルチャーがあるということだ。現在はハリウッドで活躍しているジェニファー・コネリーや、ナオミ・ワッツが人気の出る前は日本でモデルをしていたのは有名だが、とにかく表現力ではなく容姿、人間性ではなく若さを「魅力」と感じる中で、白人女性をありがたがるのだ。
 
もう一つは、「落差」という問題だろう。「ハーフ美女」は一見すると派手で押しが強く見えるが、口を開くと低姿勢のネイティブ日本語を話す、その落差が現代の視聴者には心地良いのである。スキャンダルの出たベッキーがいつまでも非難されるのも、その落差が消えて「やっぱり肉食だった」というショックが逆に働いているからだ。
 
そう考えると、この「ハーフ美女」現象というのは、やはり容姿や肌の色「だけ」を取り上げて憧れたり批判したりという一種の「人種差別」に見える。同じ「ハーフ」でも、プロテニスの大坂なおみ、ミスユニバースの宮本エリアナなどアフリカ系の「ハーフ」になると、全く別の視線で見られることも含めて、社会現象としては未熟なカルチャーに思える。

冷泉彰彦

冷泉彰彦
れいぜい・あきひこ◎東京大学文学部卒業、コロンビア大学大学院卒業。福武書店、ベルリッツ・インターナショナル社、ラトガース大学講師を歴任後、プリンストン日本語学校高等部主任。メールマガジンJMMに「FROM911、USAレポート」、『Newsweek日本版』公式HPにブログを寄稿中

 

(2016年8月1日号掲載)
 
※このページは「ライトハウス・ロサンゼルス版 2016年8月1日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

日系人の葛藤と決意・二世たちの戦争体験

ハワイ・パールハーバー攻撃で始まった日米の戦争は、アメリカの日系人社会に大きな打撃を与えた。日系人は以前から激しい排斥に遭っていたが、この日を境に「敵性外国人」のレッテルを貼られた。アメリカ人として生まれた二世たちは、米兵として戦地に向かい、命をかけてアメリカへの忠誠を証明した。今回は、元日系部隊の兵士たちの戦争体験談を紹介しよう。
 
(2007年8月16日号掲載)

ハワイ・パールハーバーの衝撃 日系人は「敵性外国人」に

©US Army Photograph

日系人の人口が急激に増加したのは20世紀の初頭だ。日系人が農業などで頭角を現すようになると、特に西海岸を中心に激しい排日運動が展開された。その蓄積された排日感情の火に油を注いだのが、日本軍によるパールハーバー攻撃だった。
 
1941年12月7日(現地日付)、ハワイの海軍基地パールハーバーが日本軍によって奇襲攻撃を受けると、日系人リーダーたちは直ちにFBIによって検挙され、日系人は日本人の血を引いているというだけで「敵性外国人」のレッテルを貼られた。
 
翌年2月19日、ルーズベルト大統領は大統領命令9066号に署名した。これは裁判や公聴会なしに、特定地域から日系人を排除する権限を陸軍に与える法律だ。
 
同年3月2日、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア州の西半分とアリゾナ州南部が第1軍事地域に指定され、強制立ち退きが開始。強制立ち退きを強いられた人は全米10カ所にある日系人収容所に送られたが、その総数は12万人に上った。

©US Army Photograph

ハワイの日系兵「優秀な訓練成績を出し、1日も早く前線へ」

パールハーバー攻撃の前年11月には、全米で徴兵制度が再導入されていた。40年の国勢調査によると、日系人はハワイ全人口の37・3%を占め、白人の24.5%を抜いて人口比率のトップだった。当時、統治領だったハワイでも徴兵が始まると、約3千人いたハワイ統治領防衛兵の約半数が日系人で占められるという結果になった。
 
開戦後、軍部が頭を痛めたのが彼ら日系兵の存在だ。軍部は、緊急対策としてハワイの日系兵だけを集めて本土へ移送することにした。彼らは第100歩兵大隊と名付けられたが、兵士たちはいつしか自らを「ワンプカプカ」と呼ぶようになった。ハワイ語で穴のことをプカといい、その延長線でゼロをプカと呼ぶ。彼らは訓練で良い成績を残し、1日でも早く前線で戦功を挙げることが自らの任務だと考え、あえて「リメンバー・パールハーバー」をモットーに訓練に励んだ。
 
陸軍マニュアルによると、重機関銃の組み立てに要する時間は16秒で「可」の評価だが、日系兵には5秒という記録を出した兵士がいた。彼らの訓練ぶりを視察に来たある将校は「今までに指揮したどんな100人よりも、彼らのような100人を部隊に持ちたい」と報告している。

アメリカのために死ねる権利を要求した二世たち

ワンプカプカの兵士たちが訓練に励んでいた頃、ハワイでは土木工事に精を出す学生たちがいた。ハワイ大学でROTC(予備仕官訓練)を取っていた学生たちだが、開戦直後に何の説明もなく除隊された。そこで日系二世の学生の約半数にあたる169人が軍上層部に嘆願書を出し、「ハワイは私たちの故郷で、アメリカは私たちの国です。どんな仕事でもかまわないので、アメリカに尽くす機会を与えてほしい」と訴えて、部隊編成の許可を得ていた。
 
正式には技術予備労務隊と呼ばれ、陸軍工兵連隊所属となったが、実質的に彼らに与えられた仕事は、一般市民が請け負う肉体労働だった。彼らは自ら「トリプルV:大学必勝義勇隊」と名乗り、兵舎や倉庫の建設や道路工事などで汗を流した。
 
その頃、アメリカ本土でも若き日系人リーダーたちが、日系人の徴兵実施を政府に求めていた。JACL(日系市民協会)は42年11月、ソルトレイクシティーで緊急総会を開いて、日系兵部隊の編成について協議している。その結果、徴兵許可を求める案が全会一致で決議された。
 
ついに43年2月、ルーズベルト大統領は、日系二世志願兵からなる第442連隊の編成を発表した(日系兵の徴兵開始は44年1月)。こうして二世たちは晴れて「アメリカのために死ねる権利」を得た。ただし将校は白人であることが条件だった。

多くの司令官が欲しがる名誉の部隊として活躍

1年3カ月の長い訓練を終えたハワイ出身の第100大隊の兵士は、北アフリカ経由でイタリア戦線に参加し、初戦から「前線で決して振り返らない兵士」と呼ばれて高い評価を得た。第442連隊がイタリアに出兵すると、第100大隊は第442連隊の第1大隊として編成されたが、その戦功に敬意を表して第100大隊の名を継続して使用する許可を得ている。
 
日系二世部隊は各地で軍史に残る戦功を残した。なかでも有名なのが「失われた大隊救出作戦」だ。フランスのドイツ国境近くのボージュの森で、連合軍は激しいドイツ軍の反撃に遭い苦戦を強いられていた。第442連隊が山間の町ブリエアを解放した直後、テキサス兵たちは敵兵に囲まれ動きが取れなくなった。
 
テキサス兵の救出命令を受けた日系兵たちは深い森の中に出動、炸裂する砲弾の中を6日間駆け抜けた。ようやく第3大隊I中隊が「失われた大隊」を救出した時、185人中わずか8人しか残っていなかった。
 
ほぼ休みなしに戦い続けた34日間で、日系部隊はブリエアを解放し、212人のテキサス兵を救出し、その後9日間におよぶ前進を続けた。この間に日系部隊が出した戦死者は216人、負傷者856人以上。兵力は半分以下になっていた。
 
現在ブリエアには、解放を記念して「リベラシオン(解放)通り」と名付けられた道路がある。ここから折れた森へと伸びる道は「第442連隊通り」だ。森の入り口に建つ記念碑には「国への忠誠とは人種のいかんに関わらないことを、改めて教えてくれた米軍第442連隊の兵に捧げる」と刻まれている。

太平洋戦線で活躍したMISの日系二世兵士たち

パールハーバー攻撃直前の1941年11月、サンフランシスコのプレシディオ陸軍基地内に、MIS(Military Intelligence Service:軍事情報機関)管轄の語学学校が極秘で開設された。日米間の緊張が高まる中、日本語教育機関の必要性を考慮して設立された日本語学校だ。戦後の46年6月、米陸軍語学学校と改名され、それまでに約6千人の卒業生を出したが、その85%が日系二世兵士であった。
 
第442連隊がヨーロッパ戦線で活躍し、その戦功が華々しく報道されたのに対して、MISの任務は極秘扱いであったため、長い間、その存在すら知られていなかった。
 
日本語学校を卒業したMISの兵士たちは、アッツ島やガダルカナルの戦闘、フィリピン奪回や沖縄戦など、太平洋戦線の激戦地に配属された。日本兵捕虜の尋問や押収した日本語書類の翻訳、日本軍の通信傍受などを担当し、前線に出る時は日本兵と間違って撃たれないように、必ず米兵と共に行動したという。
 
戦後は進駐軍の一員として日本の復興にも寄与した。戦中・戦後を通して、米軍と日本人との架け橋として彼らが果たした役割は大きい。MISの戦功が一般に知られるようになったのは、72年、ニクソン大統領が大統領命令11652号を発令し、第2次大戦中の軍事情報の機密扱いを解除してからのことだ。2000年4月、陸軍は第2次大戦に従事したMISの兵士に対して、55年遅れの大統領冠状を授与した。

元日系兵士たちの証言

「第442連隊で左手を失いましたが米国人としての義務を果たせました」

ドン・セキさん(83歳)

「失われた救出作戦」で犠牲者の多さに愕然

私はパールハーバーの請負業者で働いていましたが、攻撃のニュースは自宅で聞きました。聞いた時のショックは計り知れません。人口の4割が日系人のハワイをなぜ日本は攻撃したのか。気分が悪くなりました。実はパールハーバー攻撃の数カ月前に、両親は日本に永住帰国していました。両親は末っ子の私を連れて帰国するつもりだったのですが、私はそれを断っていたのです。
 
翌日仕事に行くと、海兵隊に追い出されました。日系人はどの軍事基地でも働けなくなったのです。43年3月、志願兵の募集が発表されるや、すぐに志願しました。両親は日本人でも、私はアメリカ生まれのアメリカ人です。両親にいつも「自分の親や国の不名誉になるようなことはするな」と教えられていましたから、迷いはありませんでした。
 
志願兵3千人の募集枠に1万人が応募しましたが、皆思いは同じだったのではないでしょうか。44年春に出兵となり、イタリアのナポリ経由でローマ北部の戦地に配置されました。140高地で戦っていた時にパートナーが砲弾を受け、片足はぶっ飛び、もう一方の足も切断寸前で、皮1枚で繋がっていました。急いで高地から下ろしましたが、そこで戦死しました。
 
近くの川には、ドイツ兵の死体がごろごろと転がっていました。のどが渇いて仕方がないので、死体の転がる川の水を飲みました。病気にならなかったのが不思議です。魚が食べたくなって、近くの海に手榴弾を投げ込み、浮いてきた魚を捕って料理したものです。
 
秋にはマルセーユからフランスを北上し、ボージュ山脈に入りました。雨が続き、とにかく寒かったですね。激戦の末にブリエアの町を解放しましたが、その直後にさらに厳しい戦いが待っていました。敵に包囲されたテキサス部隊「失われた大隊」の救出命令です。I中隊が左方から、K中隊が右方から攻め、私の所属するL中隊は増援部隊となって出撃しました。
 
前線を突破して最初にテキサス兵にたどり着いたのはI中隊でした。こうしてテキサス部隊の仲間でも助けられなかったテキサス兵200数人は、日系部隊によって救出されましたが、日系部隊が出した犠牲者は膨大でした。185人いたI中隊は8人しか生き残らなかったと知り、大きなショックを受けました。戦場では班ごとに動くので、他の部隊のことは引き上げてみないとわかりません。K中隊も17人しかおらず、この時ほど衝撃を受けたことはありませんでした。

二世部隊の戦功は連帯意識の賜物

その後、ビフォンテンでドイツ軍に包囲され、マシンガンの銃撃を受けて左手がぶっ飛びました。そこで左手をなくしましたが、もし横から撃たれていたら死んでいましたから、命が助かっただけでもラッキーでした。
 
バージニアの病院からユタに新設された整形外科専門の軍事病院に輸送され、9カ月に及ぶセラピーを受けました。食事を取る訓練から水泳や乗馬、魚釣りのセラピーまでありました。病院には5千人もの兵士が収容されており、同じ部隊からも9人が入院していました。ユタの日系社会は強制収容の対象にならなかったので、日系社会が毎週のようにイベントに招待してくれたのはいい思い出です。
 
ユタからさらにサンフランシスコの病院に移り、そこでまた新しい義手をもらって除隊となりました。ハワイに帰ったのは、45年のクリスマスの直前でした。ハワイでは公務員になり、日本で行われる工事の通訳として訪日しました。その仕事に就いたのは、両親に会うためです。6年ぶりの再会でした。が、両親は私の姿を見るや号泣しました。その後、ロサンゼルスでGIビル(退役軍人に支給される教育費)を使って大学に進学し、会計士になりました。
 
二世部隊の戦功は、連帯意識の強さによるものだと思います。親のため、国のため、そして子孫のために戦っているのだという意識を皆が持っていたからこそ、あれだけの戦功を残すことができたのではないでしょうか。
 
私は今、生きていることに感謝していますし、アメリカ人としての義務を果たせて良かったと思っています。これまでに世界中を回りましたが、しみじみアメリカ人で良かったと実感しています。

「生きて帰って日本を再建しろと捕虜の日本兵を説得しました」

ジョージ・フジモリさん(86歳)

マンザナーから志願 太平洋諸島の前線へ

ロサンゼルスのダウンタウンで映画を観ていたら、突然映画が中断されてパールハーバー攻撃を知りました。それまではパールハーバーがどこにあるのかも知りませんでした。その後、強制収容が始まり、マンザナー収容所に送られました。当時は日系人の政治家もいなかったので、皆泣く泣く収容所に入るしかなかったのですね。マンザナーはとにかく砂埃がひどくて家の中も砂だらけ。隣の部屋の音も筒抜けでした。
 
マンザナーに行く前に結婚して妻が妊娠していたので、子供が生まれるのを待ってMISに志願しました。私の家族も妻の家族もマンザナーにいたので、妻子のことは心配していませんでした。日系人はアメリカへの忠誠を証明しなければならないと信じていましたが、志願に関しては賛否両論。収容所は不穏な雰囲気に包まれていたため、夜にこっそりと抜け出すようにして入隊式に向かいました。
 
ミネソタ州のキャンプ・サベージで8カ月の訓練を受ける予定でしたが、1カ月半で出兵命令を受け、ブーゲンビル島(現ソロモン諸島)に配属されました。私はどの部隊にも属さない一匹狼で、白人のボディーガード2人と共に、ジャングルで洞窟などに隠れている日本兵に降参するよう呼びかけるのが仕事でした。ある時、弾丸が私のヘルメットをかすりました。大ケガには至りませんでしたが、ヘルメットに穴が開きました。それまでヘルメットを鍋にしてご飯を炊いていたので、困りました。
 
その後、フィリピンのルソン島に行きましたが、日本兵は本当にかわいそうでした。ほとんどが飢えており、銃弾も1人5発しか供給されていません。「撃たなきゃ損」とばかりに撃ち放題の米兵とは、大きな違いでした。

フィリピンで終戦 進駐軍として東京へ

ルソン島でフィリピン人のふりをした脱走兵を見つけたことがあります。フィリピン女性と子供と一緒でしたが、飢えから脱走してフィリピン社会で生活をしていたのです。2人は土下座して「日本には家もないし、もう家族もいない。どうか見逃してくれ」と懇願しました。脱走兵だったので、日本人の捕虜収容所に連れて行くと、そこで日本兵に殺されるのは明白です。そこで白人のボディーガードに事情を説明し、2人を見逃しました。名前も聞きませんでしたが、フィリピンで元日本兵が見つかったという話を聞くたびに、あの2人はどうなったのだろうと思い出します。
 
日本兵は捕虜になるよりも自決の道を選ぶので、まずそれを思いとどまるように説得しなければなりません。日本兵は「天皇陛下のために死ぬ」と言うのですね。それを聞いた時は、「バカを言うな。他人のために死ぬんじゃない」と言いました。私はいつもまずタバコを与え、「日本では生きて帰ると恥と言われるが、アメリカではヒーローなんだ。命を無駄にせずに、生きて帰って日本の再建に貢献するんだ」と説得しました。
 
フィリピンで終戦を迎え、戦後は東京の進駐軍で通訳をしました。横浜では皆怖がって家から出てこないので、安心するように訴えて回りました。道路には人っ子ひとりないのです。でも最初に出てくるのが子供です。子供にチョコレートをやると、母親が出てきます。そうして人々が表に出てくるようになりましたが、夫や子供を亡くして、自ら死を選んだ女性も多く、用水路には死体が重なっていました。
 
MISは極秘扱いだったので、情報が公開された72年まで、誰にもMISの話をしたことはありませんでした。私たちは部隊に属さなかったので、部隊が勲章を受け取っても私たちは叙勲されません。軍の傷病手当が支給されたのも、戦後60年経ってからです。それでも戦後の日系社会の飛躍を見ると、今では日系人の上院議員もいるし、海軍大将や陸軍参謀長まで輩出しました。子供たちもどんな学校にも行けます。日系二世兵士の犠牲は無駄にならなかったと思うと、それが何よりもうれしいですね。

「我々は銃や兵器を開発するよりも暮らしを良くするものを生み出すべき」

ビクター・アベ(87歳)

「我が家の名誉のために戦って」と母から激励

1920年、南ロサンゼルスで岡山県出身の父、広島県出身の母との間に長男として生まれました。父は1905年、16歳の時にビジネスカレッジで学ぶために渡米、ハリウッドのお金持ちの家に住み込みで働きながら学校に通い、卒業後は車のセールスをしていました。
 
私は週5日、放課後の1時間、近くの日本語学校に通っていました。バスケットボールの練習があって毎日は通えませんでしたが、16歳まで行きました。2人の弟、姉、妹や友達との間で話していたのはもっぱら英語。ただし両親とは日本語で話していました。
 
カリフォルニア大学バークレー校で勉強していた頃に太平洋戦争が始まり、21歳になった私にも召集令状が来ました。アメリカ生まれで市民権を持っていたので徴兵されたのです。戦争が始まって、両親は日本にいる親戚のことを大変心配し、2つの国のバックグラウンドを持つ私も曖昧な気持ちで戦争を捉えていました。しかし、母は私に言いました。「我が家の恥となることをしないでほしい。家に名誉をもたらす行いをしてほしい」と。それは、もちろん「アメリカ軍に立派に仕えなさい」という意味です。私は訓練を受けるため、アーカンソーに送られました。
 
軍隊に入ったのは42年の2月。その2カ月後に、家族は強制立ち退きでサンタアニタ競馬場のアセンブリーセンターに送られ、その後、ワイオミング州のハートマウンテンの収容所に入れられました。冬は華氏マイナス36度の極寒です。私や弟たちはアメリカ兵として国に仕える一方、家族は家や職を失い、そんな過酷な暮らしを強いられているということが理解できませんでした。
 
シカゴに移送された姉を尋ねて列車に乗った時に、乗客から「ジャップ」と言われたことがありました。アメリカの軍服を着ているのに、顔が日本人だったからです。その乗客は酔っぱらっていたんですよ。しかし、軍隊の中ではアメリカ人として公平に扱われ、差別を感じたことはありませんでした。

対面した日本兵捕虜は日本人の顔に安心した

MISの語学学校で訓練を受けた私は、日本語を英語へと翻訳する任務を与えられました。サンフランシスコから出航し、オーストラリア、ニューギニア、フィリピン、レイテ島、そしてミンダナオ島に出向きました。私の仕事は主に、日本軍が撤退した後、残骸となったテントや日本兵の遺体などから回収してきた書類・手紙・新聞など日本語の資料を、分厚い辞書を片手に翻訳するというものでした。
 
話すのはあまり得意ではなかったので通訳はしませんでしたが、1度だけフィリピンで捕虜となった日本兵と直接話をしました。その日本兵は私よりも少し年上で、無精ひげをはやし、食糧不足から随分とやせこけていました。出身や家族など身許を尋ね、日本軍に関する情報を聞き出しました。
 
彼はタクシーの運転手で、軍隊ではコックだったようでした。捕虜になって10日ほど経っていたので、落ち着いた様子ではありましたが、私を見ると同じ日本人の顔であることに安心し、タバコを手渡すと喜んでいました。
 
それぞれの地に1カ月から長くて半年滞在し、2年後に除隊。45年の5月にアメリカに戻ってきました。家族はまだ収容所にいたのですが、弟と一緒に貸していた南ロサンゼルスの家を取り戻しました。父の車がまだガレージにあったので、新しいバッテリーとタイヤを交換したところ、ちゃんとエンジンが動き出したんです。家も車も取り戻し、人生が再スタートしたことへの喜びは格別でした。ネクタイの会社で輸入業務に携わった後、バークレーに戻って48年に大学を卒業し、構造エンジニアの仕事に就きました。
 
広島の原爆は、ロサンゼルスに戻ってから、テレビで観ました。恐ろしいキノコ形の雲は衝撃でした。母の親戚の安否をずいぶん心配しましたが、結局連絡が取れませんでした。
 
人間はいつの世も、問題を抱えているものです。地球上のどこかで紛争が起こっています。しかし、多くの命を奪い、環境を破壊し、大金が使われる戦争をもう2度と行うべきではありません。我々は銃や兵器を開発するよりも、暮らしをより良くするものを生み出していくべきだと思います。

「戦時下ではただその状況を理解して自分自身を見失わないことが先決でした」

ジェームズ・ムラタさん(87歳)

「自分はどうなる?」恐怖心に見舞われた

両親は島根県から1900年頃、サンタマリア・バレーの農場に出稼ぎに来ました。私は1920年にサンノゼで生まれた二世で、2人の兄と4人の姉妹の中で育ちました。私が育ったグアダルーペという小さな町には日系コミュニティーが発展しており、日本語学校や仏教会などがありました。週5日間の日本語学校には高校まで通っていましたが、子供たちの間での会話は英語でした。両親は週7日、毎日農作業をしていました。私も学校が終わると、ニンジンを取って束にするなど、両親の手伝いをしたものでした。日本語学校では『君が代』なども教わりましたが、子供でしたから、自分が何であるかなど気にかけることはありませんでした。
 
ラジオで国際状勢を聞いていて、日本との間に何か起こるとは予期していましたが、とうとう太平洋戦争が勃発。日本人移民には夜間外出禁止令が出されました。すでに21歳になっていた私は兵役サービスに登録していたので、いずれ徴兵されることはわかっていましたが、日本軍によるパールハーバー攻撃はどう捉えていいか戸惑いました。「日本人の顔をしたアメリカ人である自分は、これからどうなるのだろう?」という恐怖心でいっぱいでした。
 
42年4月に、家族はテラーリ競馬場のアセンブリーセンターに送られ、炎天の砂嵐の中で4カ月を過ごしました。その後、アリゾナ州ギラに転送され、10万人の中で1年間暮らしました。私は月給16ドルという薄給で、看護師として働きました。親は将来を心配していましたが、私には「なるようにしかならない」という覚悟がありました。収容所での記録が良かったので、その後1年間はアイオワの病院で看護師の職に就きました。そして44年、私の所にも召集令状が来ました。
 
自分には葛藤はありませんでした。顔が日本人であっても、アメリカ人であることに変わりはない。戦争が始まって「日本に帰ってはどうか?」と心配してくれる大人もいましたが、日本という国に行ったこともないので、帰るところではありません。私にはアメリカ兵になるのが当然のことでした。

初めての日本訪問は駐屯兵として

まず、ミネソタにあるMISの語学学校で、通訳・翻訳の訓練を受けました。毎日朝9時から午後5時と夕食後の1時間、土曜日も昼まで授業があり、ひらがな・カタカナに始まって、軍用語や日本の地形なども学びました。毎週テストがあり、成績が悪いと学校を出されましたから、半年間必死で勉強しました。上官は皆白人でしたが、軍隊では差別を感じることはなく、バーにでも行かない限り、嫌な思いをすることはありませんでした。そして、語学学校で終戦を迎えました。
 
カリフォルニアのストーンマンに3カ月いた後、1カ月間フィリピンで待機。その後、東京に進駐して、第一生命ビル内の連合国総指令部に勤務しました。私の業務は上官の住居を探し、報告書を書くというものでした。空襲で焼けたところも多い中、中目黒や新宿には立派な家屋も残っていたのです。
 
日本を見るのはこの駐屯が初めてでした。フィリピンから船で横浜港に向かう際、ずっと曇っていた空が急に晴れて、富士山がくっきりと浮かび上がったのです。廃墟の港とは対照的に、美しく印象的でした。日本にいた1年間に、日光や広島にも訪れました。広島の原爆跡地はすでに整備が進んでいましたが、その悲惨さは想像を絶するものがありました。その後、除隊となってミシガンに戻り、冷蔵庫修理の技術を学び、カリフォルニアに移りました。
 
戦争で多くの命を失った日本に対して遺憾の気持ちはありますが、個人ではコントロールできないこと。私自身、戦時下では状況を理解して行動するしかなく、自分自身を見失わないようにするのが精一杯でした。私にとって、日本はアメリカ以外の国の中で1番好きな国です。今でも日本に観光に出かけます。日本は単なる外国ではなく、確実に私の一部にあると思います。
 
人間は完璧ではありませんから、何かしら過ちを犯します。それでも進歩していると思います。日本人に限らず人間は勤勉です。人種を越えて理解し合い、助け合いながら成長していくことが大切だと思います。
 
取材協力:Go For Broke Educational Foundation (www.goforbroke.org)
 
(2007年8月16日号掲載)

アメリカ社会で活躍する日系人リーダー

歴史を受け継ぎアメリカ社会で活躍する日系人リーダー

人種差別と闘いながら苦労の限りを尽くした日系一世。アメリカに忠誠であることを、戦場で命をかけて証明しなければならなかった日系二世。彼らの犠牲と努力は、戦後、日系人の社会的立場を飛躍的に押し上げた。今回は、外務省の「日系人リーダー訪日招聘プログラム」に参加した人の中から今やアメリカ社会で指導的立場にある若き日系人リーダーたちの素顔に迫った。
(2006年8月1日号掲載)

 

テリー・ハラさん/ロサンゼルス市警察警視

1957年生まれ。ロングビーチ出身の日系三世。80年、ロサンゼルス市警に就職。98年、ナショナル大学を首席で卒業。同年、日系人初の警部に任命。カリフォルニア大学ロサンゼルス校およびボストン大学にて上級管理者訓練を受ける。2004年、警視に就任し、同市警で現在までアジア系として最も高い地位を占める。05年、ロサンゼルス日系オプティミストクラブ会長。職務上の業績及び地域活動を評価され、南加日系商工会議所、ロサンゼルス統一学校区教育委員会、日米友好関係基金から表彰された。

警察と市民との架け橋を作る一方で、日本の人にもアメリカ政府への門戸を開けたい

オフィスには、市民団体や分署からの感謝状が壁いっぱい掛かっている

「多くを語らなかった母、若い世代が架け橋に」
私が生まれ育ったのはロングビーチの日系コミュニティーで、一世の祖母は同居、母方の祖母も近所に住んでいました。でも日本へ行ったのは、昨年、外務省主催の訪日招聘プログラムに参加したのが初めてです。カリフォルニア州と同じくらいの面積しかなく、しかも居住可能面積はその3割しかない土地に1億2700万人もの人が住んでいるというのに、日本人は皆、礼儀正しく、街は清潔で、物事がスムーズに流れているのに感嘆しました。あまりにも感動したので、この4月に家族を連れて再訪したほどです。この夏には、日本の高校生のホームステイ受け入れも予定しています。息子は高校で日本語クラスを取っているので、家族全員で楽しみにしています。私は三世ですが、私たちの世代よりも息子たちの世代のほうが、私たちが日系文化だと信じている独自の文化を継承しようという意識が強いと思います。
 
母は戦時中、アーカンソー州のジェローム収容所に入っていました。母にとっては、強制収容も、法律ならば従わなければならないものだったのです。典型的な日系二世で、戦時中のことは多くを語らず、子供の頃、母から戦時中の話を聞いたことはほとんどありませんでした。母は戦後、補償を受け取ったのですが、私自身が戦争における日系社会の詳しい事実を知ったのは最近のことで、ゴー・フォー・ブローク・ナショナル・エデュケーションセンター(注1)が作ったDVDを観てのことです。
 
苦い戦争体験からか、私はアメリカ社会に溶け込むように教えられて育ちました。息子の世代が私たちよりも日本に興味を示すのは、私たちのように「アメリカ社会に溶け込め」と言われることなく育ったからではないでしょうか。天皇陛下が以前、「すべての日系人は日本につながっている」とおっしゃいましたが、実に力強いお言葉だと思いました。息子たちの若い世代が、これから日本と日系社会との架け橋になっていくと思います。
 
(注1) 1986年に元日系人兵士が中心になって設立した非営利団体。ロサンゼルス・ダウンタウンに記念碑がある。

日米間のリエゾンは個人的な使命と認識

私がロサンゼルス市警に入ったのは80年で、ロングビーチ・シティーカレッジに通っていた時、スーパーで募集の張り紙を見たのがきっかけです。社会のためになる仕事に就きたかったのですね。15年間、警察官として勤務していましたが、1995年に、キャリアアップを目指してもう1度大学に行こうと決心しました。学士号を取得するのは個人的な選択でしたが、市の弁護士をしている妻に励まされたのが大きな理由です。1998年に大学を卒業すると、すぐに日系初の警部に昇進しました。大学卒業後もUCLAで公共政策における修士プログラムを勉強し、その後、市警がボストン大学に派遣してくれ、2004年には、警視に就任しました。同市警でアジア系としては最も高い地位に就いたわけですが、仕事をする上で重要なのは、自分のためではなく人のために仕事をするという姿勢だと考えています。
 
ロサンゼルス市警は多人種を抱える、全米3番目に大きな警察で、私は訓練部門で1万2千人の署員を管理しています。ポリスアカデミーには異なる部門のインストラクターが300人おり、新入生だけで350人、その他にも作戦、テロ対策、大量破壊武器対策など、正規警察官になった後も訓練は続きます。また私自身が勤めながら大学に通ったように、若い警察官たちに上級教育の機会を与えるため、それまでキャリア・デベロップメントと呼ばれていた部署を改善し、「ロサンゼルス市警大学」という部署を設立しようと計画しています。
 
訪日をきっかけにして、日系社会と日本とのリエゾンを務めるのは個人的な使命だと考えています。日本の人をポリスアカデミーに案内したり、ジャパニーズ・ステューデント・ネットワーク(JSN)の二世ウィーク参加を促したりなど、今後も警察と市民との架け橋を作る一方で、日本の人にもアメリカ政府への門戸を開けたいと思っています。
 

フランク・バックレーさん/KTLAテレビプライムニュース・アンカー

1964年生まれ。メリーランド州出身。日本人の母を持つ。87年、南カリフォルニア大学卒。パームスプリングスのKESQ-TVの朝のニュースアンカー、ノースカロライナ州のWXII-TVの週末アンカーを経て、92年、ロサンゼルスのKCALに移籍。98年、香港返還の取材でエミー賞受賞。99年、CNN特派員に。イラク戦争直後には米航空母艦に搭乗し、ペルシャ湾からレポート。2005年よりKTLAの週末アンカーに。「レポーター・オブ・ザ・イヤー」など数々の賞を受賞し、今年度のエミー賞にもノミネートされている。

訪日で日本との絆の太さを実感 日本人の母に誇りを持っている

バックレーさんの祖父が、河野洋平衆議院議長(右)の父に世話になったことから、お会いした時は胸に込み上げるものがありました」(バックレーさん)

「親心の激励に疑問、逆に日本語を敬遠」
父は海軍兵士で、横須賀に駐屯している時に、宇都宮出身の母と出会い結婚しました。私が生まれたのはメリーランド州ですが、2歳から5歳まで日本に住んでいました。その頃、自分は日本人だと思っていました。ところがある日、欧米人を見かけて「ガイジンだ!」と言う私に、親戚の人が「お前も外人だよ」と言ったのです。それで初めて、自分は日本人ではないのだと認識しました。
 
5歳でシアトルに引っ越すと、母は私が他の子供たちから差別されないようにと、「あなたは他の人と同じように素晴らしい」と言って聞かせました。ですが、「なぜそんなことを言うのだろう」と反対に母の言葉が心に引っかかり、意識的に日本語を話さなくなって、そのうち日本の祖母から電話がかかってきても話ができなくなりました。それで心を痛めたのは両親でした。そのため父は再度、日本勤務を願い入れ、9歳から3年間、再び日本で過ごしました。
 
高校生の時に、地元のラジオ局でDJをしたのがきっかけでコミュニケーションに興味を持ち、大学を卒業後、地方のテレビ局のアンカーになりました。1992年から7年間はロサンゼルスのKCALで、ノースリッジ地震、ロス暴動、O.J.シンプソン裁判など、激動のロサンゼルスに加えて、香港返還、オクラホマシティー連邦政府ビル爆破テロ、アトランタ五輪公園テロなどを報道しました。
 
1999年、CNNに移籍し、特派員として世界中を回りましたが、特に思い出深いのは2004年にトルコで開催されたNATOサミットです。ブッシュ大統領はスタッフから手渡されたメモを読むと、隣にいたブレア首相に耳打ちをして握手しました。それが何を意味するのかはわかりませんでしたが、ともかく報道を終えると、プロデューサーが「今、何が起こったかわかったか」と言うのです。そのメモは、イラクで主権委譲が行われたことを書いたメモでした。
 
歴史が変わる瞬間を目撃できるのは感動的ですが、家族との時間をもっと持ちたかったので、KTLAから誘いを受けて、昨年、移籍しました。

枠組みにはめ込むよりも自分であることに誇りを

週末アンカーを務めるKTLAのニューススタジオのセットで。「この先、10年でも20年でもKTLAでがんばりたい」(バックレーさん)

今春参加した外務省主催の訪日招聘プログラムでは、日本との絆の太さを目の当たりにしました。個人的には、河野洋平衆議院議長と河野太郎衆議院議員との会見が感動的でした。母の父は佐渡出身で、一橋大学を卒業後、同郷の山本悌二郎農林大臣の口利きで農協に就職したのですが、その時に世話になったのが、当時大臣の秘書官を務めていた河野一郎氏で、洋平氏のお父様です。太郎氏と私はそれぞれ3代目に当たります。だから、洋平氏とお会いした時は、胸に込み上げるものがありました。
 
戦時中、日系人は忠誠なアメリカ人であると証明するために必死の努力をしました。子供たちに同じ経験はさせたくないと願う一心で、日本との絆を断ち切り、その影響は次世代にも及びました。アメリカ人なのですからアメリカナイズするのは良いことです。でも、同時に自分のルーツを知り、それを誇りに思うことも大切です。
 
片親が日本人の場合、多くが自分のアイデンティティーについて悩みますが、私も以前は同様でした。でもいつしか、それは私が決めることではないのだと気づいたのです。報道の世界に入った時、「苗字を日本名に変えたら」とアドバイスされたことがあります。日本名のほうが目立つからです。母が日本人であることは誇りですし、そのことを多くの人に知ってもらいたい。努力することや決して諦めないことの重要性を教えてくれたのも母です。だからといって、無理に自分を「日系人」という枠組みにはめ込む必要もないと思うのです。今日の私があるのは父のお陰でもあり、私は「フランク・バックレー」であることに誇りを持っています。
 

ランディー・ソノ・タハラさん/イヴォンヌ・B・バーク・ロサンゼルス郡参事事務所上席補佐官

1959年生まれ。ガーデナ出身の日系三世。75年、ロサンゼルス統一学校区教育委員会より、ロサンゼルス・名古屋姉妹都市交流における学生大使に任命され、現在は理事会の一員。84年、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校卒。法律事務所に勤務するかたわら、85年、ロサンゼルス市警予備警察官に。2000年、予備警察官賞受賞。96年、イヴォンヌ・B・バーク・ロサンゼルス郡参事事務所に転職。南加日系歴史協会、日系オプティミストクラブなどにより表彰されている。

日系人として差別や不当な扱いを受けたとしても、ルーツは誇るべきものだと教えられた

「婦人警官とは話したくない、という人もいました」(タハラさん)

「日本人ではなかったと日本へ行って気づいた」
一世の祖母と一緒に暮らしていたので、幼い頃、家では主に日本語で話していました。その祖母が日舞を教えていた関係で、3歳の時から日舞を習っています。日焼けしてはいけないと言われ、外で友達と遊ぶのも制限されていたので、幼い頃は稽古が嫌いでした。8歳の時に琴、11歳で三味線、13、14の時にはお茶と活け花も始めました。ずっと日本の伝統文化に触れて育ってきたので、15歳の時、ロサンゼルスと名古屋の姉妹都市交流の一環で、学生大使として初めて日本に行った時はショックを受けました。周りの人が私のことを「外人」として接したからです。そこで初めて「私は日本人じゃなかったんだ」と気づいたんです。
 
戦時中、父は高校生で、コロラドの収容所に入っていたそうですが、収容所のことも、友達との楽しかった思い出しか聞いたことがありません。母は帰米(注1)で、戦時中は祖母とともに日本にいたのですが、日本ではアメリカから来たということで、反対に子供たちにいじめられて辛い思いをしたそうです。両親とも、日米両サイドで不幸な環境にいたのですね。母も祖母も、自分のルーツを忘れてはいけない、祖先がどこから来たかに関係なく、たとえ差別や不公平な扱いを受けたりしても、自分のルーツは恥ずべきことではなく誇るものだと教えてくれました。
 
両親は私が3歳の時に離婚し、14歳の時に母が他界しました。翌年、祖母が脳卒中で倒れたため、日舞の先生方に内弟子として入ったり、父と暮らしたりしていましたが、高校を卒業すると同時に兄と2人で独立しました。18歳の時、日本の親戚が心配して結婚話を持ちかけてきたこともありました。でも会ったこともない人と結婚するなんて考えられなかったので、奨学金やアルバイトをしながら大学に通いました。自立しなければならない環境にいたため、教育が重要だと考えたのです。
 
弁護士になりたくて、大学では政治について勉強し、ロースクールに入るための試験を受けたのですが、成績は中位で、トップクラスのロースクールには手が届きません。もう1度勉強して試験を受け直そうかと考えていた時、ロサンゼルス市警の予備警察官になる機会を得ました。日舞のために幼い頃から運動を制限されていたため、反対に肉体的なことにあこがれていたのですね。通常のポリスアカデミーは4カ月ですが、予備警察官用は夜のクラスのため9カ月かかります。それまで体力の限界に挑戦するようなことがなかったので、キツかったけれど楽しい9カ月間でした。
 
(注1)アメリカで生まれた後、日本で教育を受けて戻ってきた二世のこと。

3歳から稽古を続けている日舞は、17歳で名取に。「将来は師範の資格を取って教えたい」(タハラさん)

師範の資格を取って日舞を伝承したい

大学生の時からアルバイトで働いていた法律事務所で、卒業後はパラリーガルの仕事をしながら、週末はロサンゼルス市のセントラル署でパトロールに従事しました。セントラル署の管轄はスキッドロウ(ドヤ街)があるため危険ですが、リトルトーキョーも含まれているので志願しました。当時はまだ婦人警察官が少なく、しかも日系というマイノリティーで、体格も小柄ですから、自分の能力を証明するには人よりも時間がかかりました。予備警察官は今も続けており、現在は署内で勤務しています。
 
ロサンゼルス・カウンティー参事のイヴォンヌ・B・バークは、元々私が勤務していた法律事務所のパートナーで、14年前、政界に進出しました。私には警察での経験があるため、当選後、彼女の事務所へお誘いを受けたのですが、仕事が充実していたので、一旦はお断りしたのです。でもその後も毎年のように声をかけてくれたため、10年前に転職しました。
 
公職に関わるのは初めての経験ですが、カウンティーレベルの仕事というのは、人々の生活の向上に直結した問題に、毎日のように取り組むことができるので、実りある仕事だと実感しています。
 
日舞は17歳で、三味線と長唄は22歳で名取を襲名しました。今までは時間的な問題などで、とても人に教えるほどの責任は担えないと思っていました。でもアメリカで日舞という芸術を伝承するためにも、将来的には日舞の師範をとって、教えることにも携わりたいと思っています。
 

マーク・ウエダさん/カリフォルニア州政府企業局局長首席補佐官

1970年生。フラトン出身の日系三世。92年、ジョージタウン大学を次席で卒業。95年、デューク大学ロースクールで法学博士号取得。オメルベニー・アンド・マイヤーズ法律事務所の弁護士として頭角を現し、2004年3月、シュワルツェネッガー知事の任命により、サクラメント所在の企業局局長主席顧問として勤務。南加日系法律家協会の副理事を務める他、ロサンゼルス法律家協会のビジネス・企業法部門の執行委員を務める。

日系人であるということは人種の問題ではなく心のあり方

思い出話として聞いた家族の戦争体験
父は二世、母は三世で、オレンジ・カウンティーのフラトンで生まれ育ちました。近所には日系人家庭が多く、学校には駐在員の子弟もいました。土曜日には仏教会の日本語クラスに通い、バスケットボールや野球などを通じてできた友人には多くの日系人がいました。
 
子供の頃、家族でスキー旅行に行く道中、ビショップのあたりで両親が指差して、「これがマンザナー収容所だよ」と教えてくれたことがありますが、当時は何もない荒野で、私も子供だったのでよく記憶に残っていません。父はハワイにいたので、戦時中、強制収容されませんでしたが、母や母方の親戚はアーカンソーのローワー収容所に入っていました。祖父は戦前、作物を農場から市場へ運ぶトラックの運転手だったので、収容所では救急車の運転手として働いていたそうです。
 
収容所に入る前に、アセンブリーセンター(注1)として使用されていたサンタアニータ競馬場では、家族は馬小屋に入れられ、悪臭がひどかった話などを聞いた覚えがあります。他に、アーカンソーでは米作りが盛んだった話や、徴兵テストで現地の人が名前を書けなかったため、名前の欄にバツ印をつけた話などですね。母の弟はMIS(注2)として占領下の日本に駐屯し、父の兄は第442連隊の一員としてヨーロッパ戦に出兵していたそうですが、親戚の話の中に政治色は一切なかったため、普通の思い出話を聞いているような感じでした。
 
1987年、憲法制定200周年の年のことです。私は高校生でしたが、ワシントンDCで議会について勉強する機会がありました。ちょうどHR442案(注3)が決議されようとしていた時だったので、私はこの法案について調べました。ロースクールの憲法のクラスでは、コレマツ裁判(注4)について勉強しました。それぞれ日系人に関わる題材を選んだのは、やはり個人的に興味があったからです。
 
法律については、ずっと興味を持っていました。新しい法律によって、経済やビジネスが左右されるということに興味を駆り立てられたのです。それで議会の勉強をしたいと思い、大学時代にはクリス・コックス議員の事務所でインターンをしました。議事堂で3年間勤めましたが、楽しかったですね。
 
(注1)収容所が完成するまでの間使用された一時転住所。多くが競馬場などに仮設された。
 
(注2)Military Intelligence Serviceの略。陸軍情報機関。1941年11月にMIS日本語学校が設立され、3千人以上の卒業生を出した。その多くが日系人の二世で、太平洋戦線などで通信傍受や日本人捕虜の尋問などを担当。戦後は占領軍の通訳などで日本に駐屯した。1946年5月に閉鎖。機密扱いであったため、国防省が機密文書を公開した70年代まで、その存在は知られていなかった。
 
(注3)戦時中の日系人収容に関する謝罪と補償に関する法案。HR442案は、日系部隊の第442連隊を記念して名づけられた。1988年にレーガン大統領が署名。「1988年の市民自由法」として知られている。
 
(注4)立ち退き令を拒否して逮捕された日系二世のフレッド・コレマツ氏が、立ち退き令の違憲性を訴えて起こした裁判。1946年、連邦最高裁はコレマツ氏の訴えを却下したが、1984年、連邦地方裁判所は同氏への有罪判決を無効にした。これにより立ち退き令の違憲性が認められ、これ以降、戦時中に出された同様の有罪判決が立て続けに無効となった。

祖先は日本から来たが故郷はカリフォルニア

「私のインスピレーションになったのは、デューク大学バスケットボールチームのコーチ、マイク・シュシャスキー氏です。彼は名コーチであると同時に、すばらしい教育者で、ゴールを達成するにはリーダーシップだけでなく、チームワークも重要だと教えてくれました」(ウエダさん)

ロースクールを卒業後、カリフォルニアに戻り、オメルベニー・アンド・マイヤーズ法律事務所で仕事を始めました。同法律事務所は、クリントン政権で国務長官を務めたウォーレン・クリストファーなどを輩出した、行政とのパイプが太い事務所なのですが、前デービス知事がリコールされた時は、まさか本当にリコールが成立すると思っていなかったので驚きました。私たちはその時、カリフォルニアを立て直し、再び住み良い場所にするチャンスだと考えました。そういう方向性の中で、シュワルツェネッガー知事に企業局局長の主席顧問に任命されました。
 
州内のインフラは、人口2500万人を想定して整備されたものですが、カリフォルニアの人口は現在すでに3600万人で、さらに増え続けています。そのため知事は渋滞を改善するためのインフラ整備、水道や堤防の整備、教育問題など、州政府の一環としてビジネスや個人に関わる問題を手がけたいと考えています。そのなかでも特に私は現在、住宅ローンの貸し出しプログラムの改正を担当しています。この仕事は、時には困難で、手腕を問われますが、大変やり甲斐があります。将来的に政治の道に進むかどうかは未定ですが、今は現在の仕事に全力投球したいと思っています。
 
祖先がどこから来たのかということは知りたいし、興味があります。仕事の関係で定期的に日本に行きますが、日本は外国のようでもあり、馴染み深い土地でもありますね。日系人であるということは、人種の問題ではなくて心のあり方だと思っています。親の国がどこかという問題ではないと思います。祖先は日本から来ましたが、私にとっての故郷はカリフォルニアです。ですから私は日系何世というよりも、カリフォルニアン4世だと自認しています。


 

移民の国アメリカでは、今日でも移民問題が後を絶たない。移民史の浅い民族の社会は、アメリカと母国の狭間で揺れ動くものだが、それが悲劇的な形で表面化したのが、日米開戦で二者択一を迫られた日系人社会だった。日系二世兵士たちは多大な犠牲を出してアメリカへの忠誠を証明し、戦後の日系社会の向上に貢献したが、一方では日本との絆を希薄にする結果にもなった。21世紀に入り、その絆を再構築しようという意識が日米両サイドで強まっている。
 
今回取材した若い世代の日系人リーダーたちは、「自分のルーツを誇りに思う」と口を揃えた。日本人の私たちも、苦悩の時代を乗り越えてアメリカ社会を牽引する、彼ら日系人を誇りに思っていると伝えたい。
 
(2006年8月1日号掲載)

歴史を変えた日系人の戦争/ダニエル・イノウエ氏の功績等

日系人が人種差別と闘ったのはキング牧師が公民権運動を展開する20年以上も前のことだ。今では「移民のモデル」と呼ばれる日系人も戦前は公然と法的差別を受けていた。日本軍によるパールハーバー攻撃が排日運動に拍車をかけたのは言うまでもない。終戦60周年を迎えて今回は第2次世界大戦下にあって逆境にも屈せずに立ち上がった日系人の勇気を紹介したい。

 

日米開戦の衝撃

(c)Go For Broke Education Foundation
(c)A Tradition of Honor by Go For Broke Education Foundation

パールハーバー攻撃で排日感情が沸騰

日本軍が当時米国領だったハワイ(州昇格は1959年)、オアフ島の米海軍基地パールハーバーを攻撃したのは、1941年現地時間12月7日の朝だ。第1波攻撃は7時55分から8時25分。ホノルルに住む多くの日系人が、爆音とともにパールハーバーから黒煙が上がるのを目撃した。だがこの時点で、それが日本軍による攻撃だと認識した人は少ない。第2波がホノルル上空を低空飛行した時、その機体に日の丸を見つけて愕然とする。「人生が終わったと思いました。なぜならパイロットは、私と同じような顔をしていたからです」とダニエル・イノウエ連邦上院議員(ハワイ州選出)は語っている。
 
パールハーバー攻撃の第1報は瞬く間に全米に流れ、カリフォルニアにもほぼ直後に速報が届いた。サンペドロのロサンゼルス湾にあるターミナルアイランドは、当時3千人余りの日系人が住むいわゆる「日本人漁村」を形成していた。だが島の東半分が海軍基地だったため、開戦直後に米兵に包囲される。「アメリカの国益にとって危険と見なされる敵性外国人」として、主だった日系人がただちに検挙された。だがこれは、開戦がもたらした悲劇のほんの序章に過ぎなかった。
 
翌日より、新聞には「ジャップ」という蔑称が、連日1面トップを飾るようになる。リトルトーキョーでは日系の銀行、商店が閉鎖され、ハワイや西海岸一帯でFBIによる日系人の一斉検挙が行われた。ターゲットは日系団体の指導者、宗教関係者、新聞記者などだったが、「父は農民だったのに、日本語学校に関係があるというだけで拘禁されました」(元442部隊のテツオ・アサトさん)という例は後を絶たない。

排日目的の法律で公然と人種差別

開戦4日目には1291人が検挙され、日系人を狙った傷害事件も多発した。他のアジア系移民は、日系人と間違えられないように「中国系アメリカ人」などと書いた大きなバッジを胸につけた。
 
年が明けると、FBIはさらに検挙の輪を広げる。逮捕容疑はすべて「危険人物」という漠然としたものだ。南カリフォルニアからは、多くがタハンガ刑務所に拘置された後、ニューメキシコ州のサンタフェ拘留所に連行された。
 
だが日系人への差別は、開戦で初めて芽生えたものではなく、それ以前より根付いていた。当時、日系1世は法律で禁じられていたため市民権を持てなかった。1873年に改定された移民帰化法は、「白人およびアフリカ生まれとその子孫」が対象で、アジア系移民は含まれていない。
 
1913年制定の外国人土地法は、市民権を持たない外国人の土地所有を禁じた。「市民権を持たない外国人」とは、アジア系移民に他ならない。日系一世の多くが農業に従事し、頭角を現していた矢先だっただけに、この法律は日系社会に大打撃を与えた。出生によるアメリカ市民の2世も、大学を卒業しても能力に見合った職はなかった。日本軍の満州や東南アジア侵攻が、排日運動に拍車をかけた。元100大隊のマサオ・タカハシさんは、「兄はパールハーバー攻撃の前年、米軍へ志願しましたが、入隊を拒否されました」と証言している。

 

日系人強制収容所

全米10カ所の収容所はどこも自然環境の厳しい土地で、砂嵐が吹き荒れ夏には多くの人が砂漠熱で倒れた

全財産を売り払い荒野の収容所へ

1942年2月、ルーズベルト大統領は、大統領命令9066号に署名した。裁判や公聴会なしに、特定地域から日系人を排除する権限を陸軍に与えたのだ。1週間後にはターミナルアイランドの日系人に、48時間以内の退去が命ぜられた。人々は家具・調度品などを二束三文で処分し、行くあてのない人はリトルトーキョーの寺や空き地で野宿した。これ以降、日系人排斥のための法案が、着々と法制化されていった。
 
3月2日、ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州の西半分とアリゾナ州南部が第1軍事地域に指定され、同月23日、シアトルのベインブリッジに住む日本人家族230人に対して、強制立ち退き令第1号が発令された。対象は「日本人の祖先を持つ外国人および非外国人」。彼らがマンザナー収容所の最初の入所者だ。
 
立ち退き令後、最初に集められたのは、全米16カ所に仮設されたアセンブリーセンターだ。ここは収容所ができるまでの一時集合場所で、主に競馬場が使用され、ロサンゼルス界隈はサンタアニタ競馬場だった。その後、全米10カ所に仮設された強制収容所へと転送された。日系人の立ち退きは夏までにほぼ完了し、総数は12万人以上に上った。
 
強制収容所の公式名称は「戦時転住所」だ。1万人が収容されたマンザナーは、ロサンゼルスの北東、デスバレーの西に位置し、砂漠のど真ん中にある。砂嵐が吹き荒れ、夏には多くの人が砂漠熱で倒れた。鉄条網で囲まれた1平方マイルに住居用バラックと、共同の食堂、洗濯場、トイレなどがあった。住居用バラックは4部屋に仕切られ、たいてい1部屋に1家族が入居した。
 
部屋には軍用ベッド以外に家具もなかったが、人々はバラックの周りに花壇や池を作ったりして少しずつ環境を整えた。公会堂が建つと演芸会などを催したりして、収容所内の生活向上に努め、英語や裁縫、工芸などのクラスも開催された。食堂や病院、学校などには外部から専門家が派遣されたが、次第に日系人専門家もそれらの施設で働くようになり、それ以外にも多くが収容所内の各分野で仕事に就いた。仕事をすると一般職で1人月16ドル(プラス本人と扶養家族分の被服料)、専門職では月19ドル支給された。
 
立ち退きにより多大な財産を失った一世が少なくなかった一方、渡米以来、日系人というだけでまともな仕事に就けず、毎日の生活に追われて働き詰めだった日系人一世の中には、収容所に入って初めて習い事をしたという人もいたようだ。

有刺鉄線のトゲは内側に向いており、見張り台の番兵が持つ銃は収容所内に向けられていた。部屋は大・中・小サイズがあり、家族の人数によって割り当てられた。収容所内には病院もあり、衣食住と医療費は無料で支給された
(c)Japanese American Historical Society of San Diego

踏み絵となった忠誠登録 日米の選択を迫られる

収容された日系人のうち6割以上が二世だった。彼らは日系人であるというだけで、市民であるにもかかわらず4C(敵性外国人)の烙印を押された。自分が知る国は、アメリカしかなかったという二世は多い。収容所の中で、そんな2世と1世の間で確執が生まれた。一世は、開戦まで天皇陛下の御真影を奉っていた世代。終戦になっても、日本の敗戦を信じなかった人もいたという。さらに日本で教育を受けた一部の帰米二世(※)が、一世と同様の立場をとって対立した。いくつかの収容所では、対立から暴動が発生し、死者も出ている。
 
収容所をさらに真っ二つに分けたのが、「忠誠登録」だ。43年2月、政府は日系人の忠誠心を調べる質問状を送り始めた。質問の中で問題になったのが、「Q27:米軍の命令であれば、戦地の場所に関わらず兵役につく意思がありますか」「Q28:米国に無条件の忠誠を誓い、(中略)日本国天皇およびいかなる外国政府や勢力に対する忠誠や服従を否定することを誓いますか」の2点だった。
 
アメリカ市民になれない一世は、2つの質問に「イエス」「イエス」と答えると、日本へも背を向け、アメリカでも外国人という無国籍の状態になる。長い人種差別の挙げ句に強制収容された彼らには、「なぜこんな仕打ちをする国に息子の命を託せられるのか」という思いもあった。二世にすれば、市民なのに改めて忠誠を強制されることに深い屈辱を覚えた。忠誠登録は家族をも対立させ、収容所内の混乱をよりかきたてた。前記の問いに「ノー」「ノー」と答えた人は、ツールレーク収容所へ転送され、そこから日本に帰国した人も多い。
 
忠誠登録の直前に、マンザナー収容所からMIS(陸軍情報局)へ志願したジョージ・フジモリさんは、「反対勢力を刺激しないために、夜こっそりと旅立った」と語った。収容所内の緊張を如実に物語っている。

※帰米二世:アメリカ生まれだが、子供のころに日本に渡り、日本で教育を受けて帰国した人のこと。通常、親はアメリカに残り、子供たちは日本の親戚に預けられた。一世は市民権を持たなかったので、成功したら日本に帰るつもりだった人が少なくない。また偏見のあるアメリカ社会で、子供たちの将来を危惧した日系人も多い。

 

【元入所者の証言】

馬小屋から収容所へ:宇津見きくよさん(93歳)

立ち退きになって、買ったばかりの車を従業員のメキシコ人に売ってもらったのですが、ちゃんとお金をアセンブリーセンターのあるサンタアニタまで持って来てくれただけでなく、収容所から出た後は、預けていた家財道具もすべて返してくれました。外国人土地法で不動産は買えなかったので、家は所有していませんでした。
 
サンタアニタ競馬場では、駐車場に仮設バラックもありましたが、私たちのような6人家族(子供4人)は馬小屋だったんです。そこに半年ほどいた後、列車に1週間揺られて、アーカンソー州のローワー収容所へ移されました。たいてい同じ地域が同じバラックに入り知人も多かったのですが、一世と二世で揉めたりなど、各ブロックで何がしの騒動がありました。
 
アダルトスクールでは裁縫を習いました。雑貨店もオープンし、許可を取れば収容所の外に買い物に行くこともできましたが、私はよく通信販売の「シアーズカタログ」でオーダーしました。収容所からロサンゼルスへ戻る時、買った中古車が毎日のように故障したのが1番つらかったですね。

 

偏見の壁を乗り越えた戦後

クリントン大統領から、55年遅れの最高勲章を叙勲されるイノウエ上院議員
(c)A Tradition of Honor by Go ForBroke Education Foundation

米軍史上最多の勲章 命で勝ち取った権利

終戦の翌年7月15日、第442連隊はホワイトハウスで、トルーマン大統領から第7回目の大統領感謝状を授与された。この時、大統領は「諸君は敵だけでなく偏見とも闘い、勝ったのだ」とスピーチした。数ある帰還部隊の中で、大統領から直々に受勲されたのは日系人部隊だけだった。
 
戦後、JACLの二世リーダーたちが最優先課題として着手したのが、親にアメリカ市民権を与えるための移民帰化法の改定だった。反対派の政治家を説得する材料としてたびたび持ち出したのが、テキサス兵救出の戦功だった。二世たちが親の権利を勝ち取るまでに7年かかった。
 
2度と強制収容が行われないための緊急拘禁法撤廃案を提出したのは、トリプルVで志願したダニエル・イノウエ上院議員だ。イノウエ議員は終戦2週間前に右腕を負傷して切断したため、医者になる夢を捨ててロースクールに進み、政治家になった。
 
イノウエ議員が下院議員として、首都ワシントンの議事堂に初登庁した日のこと。列席した議員たちは日系人初の議員の宣誓を、息を潜めて見ていた。下院議長が言った。「右手を挙手して宣誓の言葉を続けてください」。彼が挙げたのは左手だった。「右手がなかったのである。第二次世界大戦で、若き米兵として戦場で失くしたのだ。その瞬間、議会内に漂っていた偏見が消え去ったのは、誰の目にも明らかであった」と議事録に記録がある。
 
88年、レーガン大統領が強制収容における政府の過ちを認め、正式謝罪をした。原動力となったのは、日系人初の市長としてサンノゼで選出され、アジア系初の閣僚としてクリントン、ブッシュと2人の大統領の下で閣僚入りを果たしたノーマン・ミネタ現運輸長官だ。

日系人部隊はアメリカ戦史上一部隊として最も多くの死傷者を出し、最も多くの勲章に輝いた(個人勲章1万8043個)が、最高勲章を授かったのはサダオ・ムネモリ1等兵1人だけだった。それが人種差別だったと認められたのは、戦後55年を経た2000年のこと。イノウエ議員を含む20名の元日系人兵士に、クリントン大統領から最高勲章が叙勲された。
 
民族と国家の狭間で苦難に耐え、与えられた環境で最善を尽くした先達の軌跡。彼らの勇気ある行動が、今ある日系人の地位を確立したと言っても過言ではない。人種のいかんに関わらず2度とこのような悲劇を起こさないためにも、彼らの闘いの記録は、私たちの手で後世にきちんと伝承していきたい。

 

日系人の戦いの歴史

1800年代後半 日本人移民の渡米が始まる。多くの日本人がハワイと本土西海岸に定住
1913年 カリフォルニア州外国人土地法が制定。ただし3年までのリースはOK
1920年 カリフォルニア州外国人土地法改定で、土地のリースも禁止に
1924年 クーリッジ大統領が移民法に署名。日本からの移民が事実上停止に
1941年11月 MIS(陸軍情報局)日本語語学学校が極秘で開校
12月 日本軍がパールハーバーを攻撃。FBIによる日系人リーダーの検挙が始まる
1942年1月 徴兵サービスが日系人を4C(敵性外国人)扱いに
2月19日 ルーズベルト大統領が大統領命令第9066号に署名
2月26日 海軍がターミナルアイランドの日系人に、48時間以内の立ち退き命令
5月 MIS語学学校の最初の卒業生たちが、アリューシャン列島と南太平洋戦線へ
6月5日 第100大隊1432名が極秘でホノルル出航。ウィスコンシン州の訓練場へ
夏頃日系人の立ち退きがほぼ完了。全米10カ所に仮設された強制収容所へ
1943年2月 ルーズベルト大統領が第442連隊編成を発表。志願兵の募集開始
収容所内の日系人に対する「忠誠登録」開始
9月 第100大隊がイタリアのサレルノ上陸
1944年1月 日系二世の徴兵始まる
1月24日 カッシーノの戦い開始
3月26日 第100大隊アンツィオ上陸
5月1日 第442連隊がヨーロッパ戦線参戦のため出発
6月26日 第100大隊が第442連隊に組み込まれ、ベルベデーレの戦いへ
9月30日 第442連隊がフランス戦線へ
10月19日- 20日 ブリエアを解放
10月27日- 30日 「失われた大隊」救出
12月 強制収容所からの帰宅許可が出る
1945年5月 ヨーロッパ戦線終結
8月 太平洋戦線終結
1946年7月 トルーマン大統領が第442連隊に大統領感謝状を授与
1952年6月 移民帰化法改定。一世が市民権取得の権利を獲得
1988年8月 レーガン大統領が強制収容に対して正式謝罪。賠償法が成立し、生存する被収容者各人に対し2万ドルの補償と、125万ドルの教育基金が実現
2000年6月 クリントン大統領が20人の元日系兵に「55年遅れ」の最高勲章を叙勲

もっと詳しく知りたい人は

■日本語版
『ブリエアの解放者たち』ドウス昌代著(英語版は「Unlikely Liberators」by Masayo Duus)
『ヤマト魂』渡辺正清著
『真珠湾と日系人』西山千著

■英語版
「Ambassadors in Arms-The Story of Hawaii\’s 100th Battalion」by Thomas D. Murphy
「Japanese Eyes American Heart-Personal Reflections of Hawaii\’s World WarⅡ Nisei Soldiers」Complied by the Hawaii Nikkei History Editorial Board
「No Sword to Bury-Japanese American in Hawaii during World WarⅡ」by Franklin Ono
「Farewell to Manzanar」byJeanne Wakatsuki Houston&James D. Houston
「A Tradition Honor」(DVD by Go For Broke Education Foundation)

■取材協力
Go For Broke Educational Foundation (www.goforbroke.org)
Japanese American Historical Society of San Diego
 
(2005年8月1日号掲載)

日本人部隊「442連隊」の活躍

日系部隊「第442連隊戦闘団」とは

第442部隊の訓練場ではハワイ兵と本土兵が一緒だったが、バックグラウンドの違いから両者の間には対立が絶えなかった。手を焼いた上層部が、ハワイ兵を訓練所から最も近いジェローム収容所へ見学に行かせた。イノウエ議員もその1人だった。議員は述懐する。「行きは遠足気分だったのに、帰りは皆、無言でした。ほとんどの人が同じことを考えていたのではないでしょうか。もし自分がこの中に入れられたとしたら、それでも志願しただろうか、と」
(c)A Tradition of Honor by Go For Broke Education Foundation

前線に出ることが唯一の生きる道

太平洋戦争開戦前年の1940年、政府は全米で徴兵制度を再導入した。同時にハワイ領防衛軍も正式に米軍の一部となり、3千人余りが徴兵された。パールハーバー攻撃後、米軍が頭を痛めたのが、その半数にあたる日系兵士の扱いだ。軍部はミッドウェー海戦の勝敗いかんで、日本軍がハワイに侵攻する可能性大と見ていた。日本兵が米軍の軍服に身を包んで紛れ込むと見分けがつかない。そこで出した対策が、日系兵士を集めて本土へ送ることだった。
 
こうして生まれたのが、ハワイの日系兵からなる「第100歩兵大隊」だ。彼らは極秘裏にミシシッピ州の訓練場に送られたが、第100大隊という呼称に、軍の戸惑いが見え隠れする。通常、師団の下に連隊があり、連隊は第1~第3大隊で成り立つが、日系兵士の大隊には、所属すべき連隊や師団がなかった。そもそも戦場に送り出すのが目的で結成された大隊ではなかったからだ。100という突拍子もない数字は、とりあえず訓練場に送り込まれた兵士たちの立場を象徴していた。彼らは自分たちのことを「ワンプカプカ」と呼んだ。ハワイ語でプカは穴という意味。その延長でゼロもプカという。
 
前述のイノウエ議員の言葉にもあるように、日本軍の奇襲を目の当たりにした彼らは、自分たちの置かれた立場に、さらに危機感を募らせていた。訓練で良い成績を残し、一刻も早く前線に出て忠誠心を示すのが、唯一の生きる道だと考え、モットーはあえて「リメンバー・パールハーバー」と決めた。訓練で彼らは驚異的な成績を残した。重機関銃の組み立ては陸軍平均で16秒だったが、第100大隊が残した平均記録は5秒だ。重機関銃分隊の行進は、普通1時間4㎞のペースのところ、彼らは1時間5.3㎞のペースで8時間ぶっ通しで歩いた。だがこの時点で、第100大隊が戦場に出る可能性はゼロに等しかった。
 
なぜなら米軍は開戦後、日系人の志願を禁止していたからだ。軍部では「日系人の忠誠は信用できないため、前線に出すべきではない」という意見が大勢を占めていた。この不信感を覆したのが、ワンプカプカの優秀な訓練成績であり、ハワイ大学の学生たちが結成したトリプルV(Varsity Victory Volunteers:学生必勝義勇隊)の活動だった。
 
ハワイ大学の学生たちは、当時ROTC(予備士官訓練)が義務付けられていたが、開戦後早々に、日系人学生だけが突然解任された。そこで彼らは嘆願書を出して部隊の編成を求め、忠誠を示すべくトリプルVを名乗って道路工事などの肉体労働に精を出していた。本土でも日系二世から成るJACL(Japanese American Citizens League:日系市民協会)が、日系部隊編成に向けてロビー活動を行った。
 
彼らの必死の行動が、陸軍トップであるマーシャル参謀長の心を動かし、日系人の志願を可能にした。1943年2月、ルーズベルト大統領は、日系志願兵からなる第442連隊戦闘団の編成を発表した(日系兵の徴兵開始は44年1月)。こうして彼らは、晴れて「アメリカのために死ねる権利」を得た。ただし将校は白人であることが条件だった。
 
志願兵募集に、ハワイでは募集人員の10倍にあたる若者が殺到したが、本土の兵役年齢にある日系二世男子のうち志願したのは、わずか約5%だった。強制収容所にいた二世たちの、苦しい胸のうちが透けて見える。
 
「志願したと伝えると、『お前はオレたちよりも偉いわけじゃない。現にこうして収容されているじゃないか。そんなことをすれば、日本の家族はどう感じるんだ』と非難されました。でも私は言ったんです。『今ここにいるのは、これまで何もしてこなかったからだ。今がチャンスなんだ。ここで志願して自分たちを証明しないと日系人の将来はないし、それは僕たちのせいになる。生きて帰って来れないかもしれないが、それでも価値があるんだ』と」(元442連隊のケン・アクネさん)。

ここで志願して自分たちを証明しないと日系人の将来はないし、それは僕たちのせいになる

第442連隊戦闘団は、休む間もなく失われた大隊救出の命令を受けた。この理由は明らかではない

イタリア戦線の活躍で442連隊は「司令官が欲しがる部隊」に
1943年9月8日、連合軍によるイタリアのサレルノ上陸作戦でイタリアが降伏し、イタリア各地はドイツ軍によって制圧された。ローマ入城を目指して第100大隊がサレルノに上陸したのは、同月22日。初戦から「前線で決して振り返らない兵」と称賛を得たが、彼らが真の勇敢さを発揮したのは、モンテ・カッシーノの戦いだ。カッシーノはドイツ軍が連合軍のローマ侵攻を防ぐために死守せんとしたところで、イタリア戦線の激戦地として知られている。イタリア上陸時、1300名いた第100大隊の兵力は、カッシーノ戦後には半分以下になっていた。
 
その後、連合軍のアンツィオ上陸作戦に参戦するため、第100大隊もアンツィオの前線に就く。ここを突破すれば、ローマを陥落させたも同然だった。この頃、激化した東部戦線におけるドイツ軍兵力を分散するため、西部戦線を作り出さんと、連合軍は北フランスからの上陸を計画していた。これが「史上最大の作戦」と呼ばれる、総兵力300万人以上を投入したノルマンディー上陸作戦だ。フランスを奪回するには、北フランスにあるノルマンディー上陸と、南フランスへの道を切り開くアンツィオ上陸が重要なポイントだった。ここでも第100大隊は、積極的な戦闘で多大な功績を残した。アンツィオが陥落し、連合軍がローマを占領した翌日、ノルマンディー上陸作戦が決行された。
 
訓練を終えた第442連隊に、イタリアへの出動命令が出たのはこの頃だ。連隊のモットーは「ゴー・フォー・ブローク(当たって砕けろ)」。元442連隊のノーマン・イカリさんが語る。「ナポリに到着したら、僕らを見つけた白人部隊が『ワンプカプカ!』と手を振って喜ぶんです。それで先陣だった第100大隊が、日本人部隊の評判を築いてくれたのだと知りました」。
 
第442連隊戦闘団が第100大隊とチームを組んで参戦したのは、ローマ北部のベルベデーレ戦から。ベルベデーレ突破には数日かかると見られていたが、第442連隊が要した時間はわずか3時間弱。前線に出てから約1年で、日本人部隊はすべての司令官が欲しがる部隊となった。9月末、彼らは連合軍が苦戦していたフランス戦線に参戦するために、戦闘半ばでイタリアを離れた。

何カ月も連合軍の到着を待っていた人々は米軍の軍服を着た日系兵の姿に歓喜した

多大な犠牲者を出した「失われた大隊」
救出後の戦功をたたえるセレモニーで、整列した日本人部隊を前に、師団長が苦々しく言った。「全員集合させろと言ったはずだ」。中佐が答えた。「彼らが全員です」。約3千人いた兵力は3分の1になっていた。

ブリエアの解放と失われた大隊救出
ドイツとの国境に近い小さな山間の街ブリエアは、当時、ナチ親衛隊のSSが牛耳っていた。この一帯には、針葉樹がうっそうと生えた「黒い森」と呼ばれるボージュ山脈が走っており、多くの師団がこの「黒い森」で、ドイツ軍の激しい抵抗に遭い足止めを食った。無数の地雷が仕掛けられた森の中を、第442連隊は懸命の前進を続け、10月19日、ついに彼らはブリエアに抜けた。ノルマンディー上陸以来、SSの監視下で何カ月も連合軍の到着を待っていた街の人々は、米軍の軍服を着た日系兵の姿に歓喜した。
 
ブリエアの解放後、連合軍はドイツ入城を目指して、山脈をさらに東に進んでいった。ちょうどそのころ、無理な戦法で敵陣地に侵攻したテキサス部隊がドイツ軍に包囲されてしまった。このニュースは、「失われた大隊」としてすぐさま全米に発信された。第442連隊戦闘団が「失われた大隊救出のための出動準備」命令を受けたのは、休息のために近隣のベルモント村に入った翌日だった。炸裂する砲弾の中を駆け抜けること4日間。ついに同じテキサス連隊の仲間でさえ助け出せなかった「失われた大隊」を救出した。212名のテキサス兵救出のために、日本人部隊が出した死傷者は約800名に上った。
 
現在ブリエアには、解放を記念して「リベラシオン(解放)通り」と名付けられた道路がある。ここから森へと伸びる道は「第442連隊通り」だ。森の入り口に建つ記念碑には「国への忠誠とは、人種のいかんに関わらないことを改めて教えてくれた米軍第442連隊戦闘団の兵に捧げる」と刻んである。
 
ブリエアで多大な死傷者を出した第442連隊は、多くの補充兵が投入された後、1945年4月、極秘でイタリアに戻った。ドイツ軍が9カ月かけて築いた北イタリアの防衛線「ゴシックライン」が、日系部隊が離れていた半年間、まったく前進していなかったため呼び戻されたのだ。「日系部隊が来たからには、1週間で突破できる」と期待された防衛線の砦モルゴリト山は、第442連隊の奇襲作戦によりわずか31分で陥落した。連合軍がゴシックラインを突破して半月後、ヒトラーが自殺し、翌月、ドイツ軍は降伏した。

太平洋戦線に出たMISの日系兵士たち

パールハーバー攻撃より約1カ月前の1941年11月1日、米陸軍は極秘でMIS(陸軍情報局)の語学学校を開設した。これは日米開戦を想定した学校で、6000人以上の2世がMISに志願した。第100大隊と第442連隊がヨーロッパ戦線に従事したのに対して、彼らは太平洋戦線で白人兵士と一緒に、前線で捕虜の尋問や収集物の翻訳、また日本軍の通信傍受などの任務に就いた。

元日系兵士の証言

フィリピン戦線で尋問、「生きて帰れ」と説得
■元MISジョージ・フジモリさん

戦前はボイルハイツに住んでいましたが、マンザナーに連れて行かれたのが20歳の時です。ある日、陸軍大佐が日英両語できる人材を探してマンザナーに来ました。志願したのは、やはり忠誠心を示しておきたいという思いがあったからです。その時マンザナーから志願したのは、2人だけでした。
 
本来は8カ月の訓練を受けるのですが、私は1カ月で本部があったオーストラリア行きを命令され、そこからフィリピンのルソン島に行きました。主な仕事は捕虜の尋問でした。私の日本語は確かではなかったため、尋問したのはほとんど農家から徴兵された兵士たちで、将校の尋問は日本で教育を受けた帰米2世が担当しました。
 
米兵はマシンガンも撃ち放題だったのに、日本兵は弾丸も4、5発しか与えられておらず、ろくに食べる物もなかったので、それはかわいそうでした。自害する兵士も多かったため、捕虜兵にはいつもまずタバコをあげ、「日本では生きて帰ると恥と言われるが、アメリカではヒーローなんだ。命を無駄にせず、生きて帰って日本を再建するんだ」と説得しました。
 
1度だけ2人の日本兵を逃がしたことがあります。彼らはすでに日本軍から逃げ出し、現地の女性と結婚して、フィリピン人に紛れて生活しているとのことでした。「日本に帰っても、もう帰る家もない」と土下座して頼んだのです。先日、フィリピンで日本兵が見つかったとニュースになった時は、彼らのことではないかと思いました。名前も聞かなかったので、それが彼らなのかはわかりません。
 
フィリピンで終戦になり、進駐軍として日本に行きました。日本人を安心させるために、横浜に行ったこともあります。子供はGIを見つけると「キャンディー」と寄ってきましたが、大人は鬼畜米英と叩き込まれていたので、怖がって家から出てこなかったのです。
 
帰還してシカゴに行きました。戦前は大卒でも仕事がなかったのですが、戦後は多くが中西部に行き、能力に見合った仕事に就くことができるようになりました。

「覚えているのは砲弾の嵐だけ」
元第100大隊マサト・タカハシさん

44年にマンザナーから志願しました。兄も志願して第442連隊にいましたし、家族は全員マンザナーの収容所にいたので、何とかしなければ、という思いがありました。私たちの部隊は、訓練期間をあと2週間残した段階で、急遽フランス線戦に行くことになりました。「失われた大隊」救出の後です。第100大隊の配属になりましたが、その時は人が足りないとしか知りませんでした。その頃前線に出ていたのはほとんどが補充兵で、初戦から参戦したハワイ兵は、数えるほどしか残っていませんでした。そこからイタリア線戦に行きゴシックライン攻撃に参戦しましたが、覚えていることと言えば、砲弾の嵐以外にありません。とにかくものすごい数の砲弾が打ち込まれました。その後、イタリアで終戦になりましたが、もう前進しなくていいんだという安堵が何よりも大きかったですね。

「家族は収容所の中で他に手段がなかった」
■元第442連隊テツオ・アサトさん

ハートマウンテン収容所から44年に徴兵されました。志願兵の募集が始まった時は17歳だったので、志願したかったのにできなかったんです。私の知る国はアメリカしかなかったので、徴兵されなくても戦争に行くつもりでした。開戦の翌日、FBIに連行された父も「分別のつく年なのだから、自分で決めればいい」と言ってくれました。
 
私が参戦したのはブリエアの後で、イタリア線戦に向かいました。ドイツ軍に我々の動きを知られないために、移動する時は連隊記章を外すように指示されました。ゴシックラインは3000フィートの高地で、ドイツ軍最強の部隊が最後の砦として頂上を守っていました。3大隊が夜を徹して山を登り奇襲をかける作戦で、認識章など音を立てそうな物はすべて服に縫い付けました。何千人もの兵士が、どうやって物音1つ立てずに登れたのか、私にもわかりません。
 
最初にワンプカプカが輝かしい戦功を立て、我々が後に続いたわけですが、やはり何かを証明しなければならないという思いが強かったのだと思います。だって我々が国のために戦っている時も、家族は収容所の中にいたわけですから。日系人の口ぐせは「仕方がない」でしたが、それはできることにベストを尽くそうということです。日系人の政治家もいなかった当時は、それ以外に手段がなかったのです。

前線からの手紙
国のために尽くし 犬死はしません

日本語しか読み書きできない両親のために、兵士たちはつたない日本語を駆使して親へ便りをしたためた。ノボル・フジナカさんは3人兄弟の末っ子で、子供が生まれたばかりの長兄に代わって、2番目の兄とともに志願した。以下はフジナカさんが両親に宛てた手紙だ。
▼▼▼
「長らく御無沙汰致してすいません。御父母様は如何ですか。(中略)僕は長いあいだ日本語をつかわないので今では頭をしぼりながら此の手紙を書いて居ます。僕もまださいさい日本語で御父母様に御手紙を書きとうはございましたが、なんと言ってもへたな僕ですからどうぞかんにんして下さい。(中略)御父母様、僕達の事は心配して下さるな。何事にも気をつけますから、どうぞ御安心下さいませ。かならず犬じにはしません。御母様のいったとおりしぬる事はだれでも出来ます。ほんとうのてがらはよく国のためにつくし、その上、いきてかえるのがてがらです。(中略)では、御父母様どうそ御体を大切にして下さい。(中略)僕達兄弟のことは御心配しないようにして下さい。出来るだけようじんをいたします。けしてつまらない事はしません。えんがあれば又僕達兄弟は御父母様のこいしきあいをうける事が出来ますでしょう。ではめでたい日まで。さようなら
こいしき登よりこいしき御父母様え」 (原文ママ)
▲▲▲
フジナカさんは「失われた大隊」救出作戦2日目、ボージュの森の中で戦死した。23歳だった。

戦地の息子に捧げる母の祈り
戦場で最期の言葉は日本語で「お母さん」

息子の無事を祈る母は、日々陰膳を備え、仏壇に拝みつつ、激励の手紙を書いた。毎日息子の足を洗うつもりで、石を2個風呂に持って入り、足を温めるつもりで石を布団に入れて寝たのは、元442連隊のミノル・キシャバさんの母だ。雨と雪が続いたブリエアでは、多くの兵士が足に凍傷を負っていった。

元442連隊のサミュエル・ササイさんの母は、「星の旗をよく守りなさい。ササイの家に恥をかけることをしてはいけません」と書いて送った。戦死した兵士たちが今際のきわに絞り出した言葉は、ほとんどが日本語の「おかあさん…」だったという。
 
資料:「ブリエアの解放者たち」ドウス昌代著、「Japanese Eyes, American Heart」Hawaii Nikkei History Editorial Board編集
 
(2005年8月1日号掲載)

 

投資によるアメリカのビザやグリーンカードの申請・取得

投資家ビザ(E-2ビザ)で米国に移住する方法を教えてください

瀧 恵之 弁護士

Q:私は現在日本で暮らしていますが、子どもの教育のことも考え、アメリカで生活することを考えています。投資家ビザ(E-2ビザ)というのをよく耳にしますが、投資家ビザ取得にはどれ位の投資が必要ですか。

A:投資家ビザ(E-2ビザ)は、米国と通商条約が結ばれている国(日本は日米通商条約があるので、その一つです)の国籍を持つ人、あるいは法人(会社)が、米国内にある会社などの事業に投資することによって、その事業の所有者、管理職者、あるいは特殊技能者に対して発行されるビザです。E-2ビザを取得するには、スポンサーとなる会社の株式の50%以上を日本人、あるいは日本の会社が所有していること、およびその会社の資本金が日本から投資されている必要があります。ここでいう日本からの投資とは、個人の資産に限らず借用したものであっても構いませんが、実質的であり、リスクを負ったものであるということが規定されています。

事業に十分な投資額とリスクを負うことが条件

E-2ビザ取得の具体的な条件、申請方法について説明していきましょう。まず、当該投資が実質的であるかどうかに関しては、最低限の投資金額が具体的に何ドル必要であるといった明確な規定はなく、当該事業がその業種において十分な投資がなされているかが、その判断基準となります。例えば、米国内の既存のレストランを買収するような場合、20万ドルくらいの投資で条件を満たすと判断されるかもしれませんが、米国内で工場を設立して生産を行うような場合は、20万ドルでは十分とは判断されないでしょう。このような場合は、生産する製品の内容によって、生産に十分対応できる設備を建てるだけの資金投資があったかどうかが判断対象とされます。

一方、コンサルティングの会社を設立するのならば、少ない投資金額でも可能と言えます。ただし、この場合はコンサルティングを行うだけの技術を保持しているかどうかが問われます(例:米国内で既に多額の契約が成立しているなど)。また、リスクを負っているか否かに関しては、投資額が完全に米国内で使用されていることが要求されます。そのため申請に際しては、米国内で投資金を使用した時の請求書、領収書等を添付するのが一般的です。例えば、日本から送られてきた投資金が、米国内の会社に資本金として保管されているだけの場合、投資金額に含まれません。資本金を、ある程度米国内で使用した後、まだ使用していない分を投資金額に換算するには、事業計画書等を提出して、その後の使用計画を明確にする必要があります。

さらに、その会社がE-2ビザ申請の対象となるには、投資家とその家族が十分に生活できるだけの利益を計上するだけではなく、それ以上にその地域における雇用に貢献できるほどのものであることが要求されます。新規の会社であれば、この証明のために向こう5年間程度の事業計画書を提出するのが良いでしょう。E-2の取得者は、当該事業の投資家自身である、管理職である、あるいは当該事業に必要な特殊技能の保持者であることが要求されます。この判断に際しては、申請者の学歴、職歴が基準となる場合が一般的です。さらにE-2取得者が、特殊技能保持者の場合、将来的には米国内での雇用に貢献するため、米国内にて同様の特殊技能者を雇用することが前提となっています。その後その雇用者と交代させるか、あるいは、E-2ビザを保持している特殊技能者以外に、米国で同種の特殊技能者を数名以上雇用し、E-2ビザ保持者をその管理・監督者とすることが要求されます。またLビザ等と異なり、E-2ビザの取得者は、日本国籍の保持が必要です

米国内での移民局への申請、日本での申請が可能

E-2ビザの申請には、米国移民局に申請する方法と、直接日本の米国大使館、領事館に申請する方法があります。米国移民局に申請する場合は、米国内にてビザ・ウェーバーを除く、何らかの滞在資格を保持していることが要求されます。また米国移民局から認可が下りた後はE-2のステータスを得ることができ、それによって米国に滞在している間は、滞在・就労が可能になりますが、いったん米国外に出国すると、ビザ申請を日本の米国大使館、領事館にて行う必要があります。この場合は、H-1BビザやLビザと異なり、Eビザの条件を実際に満たしているかどうか再審査されます。一方、最初から日本の米国大使館、領事館に申請する場合は、認可の後、米国に入国するのと同時にE-2ステータスを取得できます。

あなたが設立しようとしている会社の形態、事業の性質が、前述の条件に合致するか否かを考慮した上で、E-2 ビザの申請を行なうことをお勧めします。

(2020年3月16日号掲載)

米国内での投資による永住権申請 その条件とは?

吉原 今日子 弁護士

Q:アメリカで事業を興すか、投資を通して永住権を申請しようと考えています。その方法について、詳しく教えてください

A:米国内で相当額の投資をする場合、「EB-5」というカテゴリーでの永住権申請が可能です。以下のいずれかの条件を満たした場合、EB-5での申請が可能です。
 
① 米国内で100万ドル以上投資し、2年以内に10人の米国人を雇用する
② 失業率が米国平均の150%を超える地域で50 万ドル以上投資し、2年以内に10人の米国人を雇用する
③ 移民局が指定した地域センター(Regional Center)内にある新事業、
または経営困難に陥っている事業に50 万ドル以上の投資を行い、間接的に雇用を創出する。その投資は“新会社” または、“経営困難となっている会社” に行わなければならない。
 
米国永住権を対象とするEB-5 Immigrant Investor カテゴリーは、1991年に米国での雇用を目的として制定されました。施行後、1993年には地域センター方式も導入され、問題なく推移しているように見えました。
 
しかし、移民局において過去に実績がない法律であったことから規定があいまいな部分が多く、混乱が続出したため、1998 年、このカテゴリ-は中断を余儀なくされました。
 
その後、移民局は4カ年の期間を費やし、法整備を行い、2002年に1998年以前の投資家ちを保護する法律が成立しました。そして、2003年8月から地域センターへの投資家に対する移民申請が再認可され、現在は混乱もなく順調に推移しています。
 
2008年9月で終了予定であったEB-5投資家永住権プログラムは、その後、月単位の延長を繰り返し、不安定な状況でしたが、ようやくオバマ大統領が延長法案に署名し、延長が定しました。毎年1万件の永住権がEB-5カテゴリーに割り充てられ、そのうち5000件が地域センターへの投資家に向けです。
 
投資対象事業は、それぞれのプロジェクトにより異なりますが、一般的なプロジェクトの共通性は、「投資対象事業が失業率の高い地域、あるいは移民局が定めた地域センター内に存在していること」「投資額が100万ドルではなく、50~60万ドルであること」「投資期間が長期に設定されていること」が挙げられます。最大の共通点は、各プログラムが永住権を取得する目的で作られていることです。

EB-5 で永住権の申請をする条件について

投資額が100 万ドル以上ある(Targeted Employment Areas の場合:50 万ドル以上)
この100万ドルは、申請から約2年以内に投資すればよく、申請時にすべて投資に使う必要はありません。そして、この投資は現金だけではなく、機械や在庫、その他の有形・無形資産も含まれます。なお、「Targeted Employment Area」とは経済発展のしていない地域で、The U.S. Census、 The Office of Management and Budget 、各州政府によって設定されます。
 
投資によって、10人の雇用を創出する
10人の雇用とは、米国人か永住権保持者を、常勤雇用をすることを指します。常勤雇用とは、最低週35 時間の就労です。ただ、投資するビジネスの状況により例外もあります。この雇用数には、申請者の第1親族は含まれません。
 
投資家が、投資したビジネスの経営に積極的に参加している
投資家は、日々の経営に直接積極的に参加しているか、管理職、もしくは役員として会社の方針をコントロールしている必要があります。しかし、移民投資家の資金を募ってもよいと認めた特定地域への投資の場合は、直接経営に参加する必要はありません。
 
投資に使った、もしくはこれから使う資金は、合法的に取得している
投資に使われる資金が、どのような経路で投資家の手に渡ったかが問われます。
 
投資後2~3年の間、一定の収益を上げている
投資が永住権取得のための見せかけではなく、収益を上げることを目的とした投資であることを証明します。
 
以上の条件を満たし、移民局の認可が下りると、条件付きの永住権が発給されます。そして、2年後にすべての条件を満たしていると判断されれば、正式な永住権に切り替わります。
 
投資額が妥当であるか否かの判断を下すには、ビジネスの種類、規模、十分な収益を上げる能力があるかどうかを、過去の例と照らし合わせる必要があります。投資によるビザ・永住権申請には、複雑な書類と手続きが要求されますので、移民法、投資ビザに詳しい弁護士に相談されることをオススメします。
 

投資によるビザ、もしくは グリーンカードの取得方法は?

吉原 今日子 弁護士

Q:日本で年商約3億円の会社を経営しています。アメリカに子会社を作り、進出したいと考えております。投資ビザの申請が適当かと思いますが、1億円ほどの投資で永住権が取れるという噂を聞きました。本当でしょうか? 投資ビザと投資による永住権申請について教えてください。

A:投資ビザ(Eビザ)は、アメリカと通商条約を結んでいる国の間で投資や貿易を行うために発行されるビザです。日本はこの条約国の一国です。
 
Eビザを取得するには、日本人、または日本国籍を持つ会社が、スポンサーとなる会社の株を50%以上保有していること、そして、日本とその会社が投資、貿易関係にあることが主な条件です。
 
それでは、Eビザの種類と取得に必要な条件を大まかに見てみましょう。

E-1(貿易)ビザ取得条件:

①当該企業の所有権の50%以上を、その条約国の国民が保有している
②ビザ申請者は、アメリカと通商条約を結んでいる国の国民である
③アメリカと通商条約を結んでいる国の国籍を持つ会社である
④条約国とアメリカの間で、貿易額が約150万ドル以上ある
⑤ビザ申請者は、管理職か役員もしくは専門知識、技能保持者である

E-2(投資家)ビザ取得条件:

①当該企業の所有権の50%以上を、その条約国の国民が保有している
②ビザ申請者は、アメリカと通商条約を結んでいる国の国民である
③ビジネスの種類を考慮した上で、投資額が妥当である
④投資が「Active」である(例:操業開始費用が投資から出ている)
 
あなたの場合、日本人で日本国籍の会社を経営し、日本にある会社の規模も十分です。ですから、投資額が妥当で貿易額も多い場合、E-1ビザ、E-2ビザのどちらのビザ申請も可能です。

投資による永住権申請は投資が本物である証明が必要

 

次に、「1億円ほどの投資で永住権が取得できるか」という質問です。これは、EB-5(第5優先カテゴリー)にて永住権を取得する方法のことだと思われます。
 
EB-5 による永住権取得の条件:

①投資額が通常1億円以上である(「Targeted Employment Areas」の場合5000 万円以上)
この1億円は、永住権申請時から約2年以内に投資されるべきものであり、申請時にすべて使う必要はありません。1億円という投資額には、現金だけでなく、機械や在庫、その他の有形、無形資産も含まれます。
なお、「Targeted Employment Areas」とは、経済発展途上地域のことで、The U.S. Census、The Office of Management and Budget、そして各州政府によって指定されます。
 
②投資により10人の雇用を創出する
アメリカ人か永住権保持者10人を、常勤雇用します。常勤雇用とは、最低週35時間の就労です。ただし、投資するビジネスの状況により、例外もあります。この雇用数に、申請者の第1親族は含まれません。
 
③投資家自身が投資ビジネスの経営に参加している
申請者自身が、直接日々の経営に積極的に参加するか、管理職、もしくは役員としての立場から会社の方針をコントロールする必要があります。
 
④投資に使った、もしくはこれから使う資金を、合法的に取得している
どのような経路を経て、投資に使った資金が投資家の手に渡ったかが問われます。
 
⑤投資後2~3年間、一定の収益を上げている
これは、投資が永住権取得のための見せかけではなく、実際に収益を上げることを目的とした本物の投資であることを証明するためです。
 
これらの条件を満たし、移民局の認可が下りると、条件付きの永住権が発給されます。そして、取得から2年後に、すべての条件を満たしていると移民局が判断すれば、正式な永住権に切り替わります。
 
ですから、あなたの場合、投資、貿易額の大小によってEビザを取得し、ある程度の収益を上げてから永住権の申請に入ることも可能ですし、最初から投資による永住権申請手続きを取ることもできます。
 
投資額が妥当であるか否かの判断を下すには、ビジネスの種類、ビジネスの規模、十分な収益を上げる生産能力があるかどうかを、過去の例と照らし合わせる必要があります。また、投資によるビザ、永住権申請には複雑な書類と手続きが要求されますので、移民法、投資ビザに詳しい弁護士にご相談されることをおすすめします。
 
(2010年4月16日号掲載)

投資による永住権取得の条件

吉原 今日子 弁護士

Q:アメリカで投資をすることによりグリーンカードが取れると聞きました。もし本当なら、どのような条件、準備が必要なのでしょうか。

A:投資によるグリーンカード取得は、EB-5(第5優先)と呼ばれるカテゴリーに属します。この方法でのグリーンカード取得には、大きく分けて5つの条件を満たさなければなりません。
 
1 少なくとも100万ドル(特定の地域においては50万ドル)を投資する
2 リターンを期待した投資でなければならない
3 投資金は、合法的に手に入れたものでなければならない
4 従業員を少なくとも10人以上、雇用しなければならない
5 新しく始めるビジネスは、新規の会社、または経営続行が難しいビジネスの引き継ぎでなければならない
 
50万ドルの投資が必要な特定の地域とは、産業がほとんど存在せず、失業率が高い地域です。アラバマ、アリゾナ、コネチカット、マサチューセッツ,ニュージャージー、プエルトリコ、テキサス、ノースカロライナ、ニューヨークの中に、この指定地域が存在します。これら以外では、100万ドルの投資が必要です。
 
投資は、現金である必要はありません。在庫品、機械などの有形資産でも構いません。また、抵当等、投資家の財産を元にしたローンで得たものでも構いません。しかし、投資家がアメリカで設立した会社に貸付をしたり、その会社を元にしたローンの額は、この投資額には含まれません。また、他人との共有財産も、100万ドルの投資に含むことはできません。
 
投資家は、行った投資がリターンを期待したものであることを証明しなければなりません。そのためには、投資金をアメリカにある会社のビジネスアカウントに入れ、会社のために使わなければなりません。また、日本での財産をアメリカの会社に譲渡する、日本からの送金でアメリカの会社の株を買うなども、アメリカでのビジネスに投資している証明になります。
 
また、投資家は、投資金が合法的に得られたものだと証明する必要があります。この中には、貯金、ギフト、相続、有形財産を元にしたローンなども含まれます。投資金の合法性を証明するためには、Tax Return、収入、財産、ローン等に関する書類の提出が必要です。ローンに関しては、何を元にローンを組んだのかなどの証明が必要です。ちなみに、共同財産、会社に貸し付けているローンなどは、合法性を証明するものとはみなされません。

非常に厳しい審査基準3分の2が申請却下

従業員を少なくとも10人以上雇用しなければならないという条件ですが、この10人の従業員は、米国市民、グリーンカード保持者、あるいはグリーンカード申請中で就労許可を保持している人に限られます。つまり、労働ビザ等で合法的に働ける従業員を雇ったとしても、この10人にはカウントされないということです。また、この10人は、常勤の従業員でなければなりません。ですから、少なくとも週に35時間は、投資家の会社で働かなければなりません。綿密なビジネスプランを作り、10人以上の従業員を雇える規模の会社であるという証明をしなければなりません。
 
新規で会社を始めるということに関しては、何を基準に新規と言うのか、特に決まった条件はありません。しかし、投資家が会社設立時から、その会社の経営に参加していたという証明が必要です。複数の投資家が共同で会社を立ち上げ、グリーンカードを申請する場合、前記の投資額、従業員数を各投資家が満たさなければなりません。
 
もし新規で始めるのでなければ、経営困難にあるビジネスを引き継ぐこともできます。経営困難にあるビジネスとは、過去2年間、会社の正味資産が少なくとも20%減っている会社です。投資家は、このビジネスを元の状態に立て直さなければなりません。この場合、投資家は10人の従業員を雇用する必要はありませんが、少なくとも会社の経営が傾く前に雇われていた従業員数を、雇用しなければなりません。
 
投資家としてグリーンカードを取得するには、厳しい条件を満たさなければなりません。第1段階の審査を通過すると、2年間の条件付きグリーンカードが与えられます。その後2年間、10人の従業員を雇い続けたことを証明すれば、この条件が解除されます。
 
EB-5の審査基準は非常に厳しく、申請者のうち認可されるのは、全体の約3分の1に過ぎません。従って、EB-5における申請を行う場合は、多額の投資というリスクを負う前に、それ以外の申請手段がまったくないのか、慎重に判断を行うことをおすすめします。
 
(2009年1月16日号掲載)

投資によるグリーンカード申請メリットとデメリット

瀧 恵之 弁護士

Q:私は日本に会社を持っており、今回、アメリカに支社を設立します。アメリカ支社立ち上げに際して1億円以上の投資を考えていますが、1億円以上の投資をアメリカで行うと、グリーンカードが取得できるという話を聞きました。私がこの計画でアメリカで事業を始めれば、グリーンカードは取得できるのでしょうか?

A:投資によるグリーンカード取得は、EB-5(第5優先)と言われるカテゴリーに属します。この方法でのグリーンカード取得には、100万ドル(指定の特定地域においては50万ドル)投資するだけでなく、従業員を10人以上、2年間にわたって雇い続ける必要があります。また、この10人の従業員は、米国市民、グリーンカード保持者、あるいはグリーンカード申請中で就労許可を保持している人に限られます。つまり、Hビザ等で合法的に働ける従業員を雇ったとしても、この10人にはカウントされないということです。
 
申請は、まず第1段階の審査を通過すると、2年間の条件付きグリーンカードが与えられ、その後、2年間、10人の従業員を雇い続けたことを証明して、条件解除の手続きを行います。ただし、このEB-5の審査基準は非常に厳しく、申請者のうち認可を受けられるのは、全体の約3分の1に過ぎません。従って、EB-5以外のカテゴリーでグリーンカードの申請が可能であるならば、他のカテゴリーにおいて申請する方が賢明であると言えます。
 
あなたの場合、日本に会社を持っているわけですから、EB-5ではなくEB-1(第1優先)での申請が考えられます。このEB-1とは、多国籍企業の重役等が申請可能で、EB-2(第2優先)やEB-3(第3優先)のカテゴリーにおいて必要な、労働局での審査を省くことができます。このEB-1のカテゴリーには、極めて高度な技術・能力・知識を保持する者、著名な教授、研究者なども含まれます。

EB-5の基準をクリアできればEB-1での申請が可能

EB-1のカテゴリーにおいては、以下のことを証明することによって、永住権の申請が可能です。
 
(1)日本(海外)にある会社と米国にある会社が親子関係にあること。これは、米国にある会社の50%以上の株式を日本(海外)にある会社が直接的に所有している場合です。また、米国の会社の50%以上の株主が日本(海外)の会社の50%以上の株式を所有している場合も、親子関係にあるとみなされます。
 
(2)駐在員として米国の会社で、部長、あるいは重役クラスの管理職に就いていること。移民局では、一般的にこれに関して、申請者の下に部下がいるということだけでは十分でなく、申請者の下に部下を持つ役職者がいることを要求しています。つまり、申請者を頂点として2段階のピラミッド型の管理体系があることが必要ということです。
 
(3)駐在員として、Lビザ、あるいはEビザにて米国に入国する前の過去3年間のうち、少なくとも、1年間以上、部長、あるいは重役クラスの管理職として、日本(海外)にある親会社(子会社、系列会社でも良い)において勤務していたこと。
 
(4)米国での役職が短期のものではなく、永久的なものであること。これには米国の会社が、日本(海外)の親会社から永住者を送らなければならないほどの規模であるとみなされなければなりません。それには相当額の売り上げと、相当数の従業員(例えば10名以上)の存在が要求されます。
 
従って、あなたの場合、Lビザ、あるいはEビザにてアメリカに入国し、その後、アメリカの会社が、あくまで目安ですが年商約150万ドル、従業員8人以上の規模になれば、EB-1のカテゴリーにおいてグリーンカードを申請することができます。
 
この場合ですと、投資金額の100万ドル以上という規定がないので、多額の投資を行う必要がありません。また、EB-5におけるような厳しい審査基準をクリアする必要がありません。言い換えると、もしEB-5をクリアできるだけの業績を2年間維持できるならば、容易にEB-1の審査基準を満たすことができるはずだということです。さらに、EB-5よりも時間的に早くグリーンカードが取得できるといったメリットもあります。
 
EB-5でのグリーンカード申請を考える場合には、このようにリスクの少ない他の方法があるかどうかを検討した上で、慎重な判断を行うことをおすすめします。
 
(2008年8月16日号掲載)

 

グリーンカードを維持するためのRe-entry Permitとは?

グリーンカードを失いたくない。 Re-entry Permitとは?

瀧 恵之 弁護士

Q:グリーンカード取得から10年以上が経ちますが、日本本社への転勤が決まり、長期で日本に滞在することになりました。でも、苦労して取得したグリーンカードを失いたくありません。知人から「Re-entry Permit」が有効と聞いたのですが、説明をお願いします。

A:「Re-entry Permit」は、米国外に長期間滞在していても、その後、米国に戻る意志があることを示すことで、グリーンカードを保持できるシステムです。「Re-entry Permit」がない状態でグリーンカードを保持するには「連続して180日以上米国外に滞在しない」ことが1つの条件として挙げられます。一般的には、米国外滞在が1年を越えると「永住権を放棄した」と見なされますが、1年以下でも180日を越えると、入国の際の審査官の判断により永住権を取り上げられる可能性があります。
 
注意したいのは、180日以内でも出入国を長期に渡って継続し、合計して米国外での長期滞在を過去5年のうち2年半以上続けると、米国での永住の意志を放棄したと見なされ、グリーンカードを失う可能性があるということ。例えば、日本に連続して179日間滞在し、米国に戻った後、米国に2週間だけ滞在し、再度、日本に179日間滞在するといったことを繰り返すと、米国への入国の際に永住権を失う可能性があります。この場合、入国審査官にグリーンカードを取り上げられ、Contest(異議申し立て)を行うかどうかが聞かれます。Contestを行わない場合は、他の一般の観光者と同じように、観光のステータスによって入国を許可され、90日までの滞在資格が与えられます。
 
Contestを行う場合は、移民局の裁判所において永住の意志があるかどうかが問われ、意志がないと判断されると永住権を失うことになります。この判断においては、米国での永住の意志があることの客観的な状況証拠(例えば米国に会社を持っていて、米国市民の従業員が多数いるなど)があるかどうかが吟味されますが、判断基準は極めて厳しいです。従って、このような事態を避けるため、前もって「Re-Entry Permit」を申請することが得策です。
 
「Re-entry Permit」を申請すると、1回の申請で最長2年まで米国外に滞在できます。また、その間のアメリカへの出入国も自由です。「I-131」にグリーンカード(表裏)とパスポートのコピー、写真2枚、申請料445ドルを添えて移民局に申請します。米国外での滞在が2年以上必要な場合は、2年以内に米国に戻り、その滞在期間中に、再度「Re-entry Permit」を申請することになります。
 
2度目の申請までは、2年の「Re-entry Permit」を取得できますが、3度目以降の申請では、1年のみとなります。また、3度目以降の申請では、米国に戻る意志を放棄していないことを示す特別な理由がない限り、許可を得ることは困難になります。ここで言う特別な理由としては、例えば米国の会社より海外の支店に駐在するケースが挙げられ、会社からの手紙を添えて申請書を提出するのが望ましいです。

申請には注意点が多い永住権申請という選択も

「Re-entry Permit」申請で不便なのが、申請後、米国内で指紋を取らなければならないことです。1回の申請ならば、余裕を見て(申請後約4週間以内に指紋採取の通知がきます)申請すれば良いのですが、2回目以降も毎回指紋を米国の移民局で取らなければならないため、申請時とその後の指紋採取時の両方にアメリカにいなければなりません。ですから、日本で勤務する場合は非常に不便です。
 
そこで、毎回アメリカで申請して指紋を取るのが困難と予想される場合、米国市民権の申請を行うことが賢明かもしれません。米国市民権を取得するには、永住権を取得してから4年9カ月を経過していれば申請の開始が可能です。あなたの場合、今申請を開始すれば、春までに少なくとも指紋採取まで終えることができますので、その後、面接及び宣誓式の時にアメリカに戻ってくれば、米国市民権の取得が可能です。ちなみに、両親が市民権を取得すれば、18歳未満の子供は自動的に市民権を取得できます。
 
ここで留意していただきたいのは、「Re-entry Permit」を取得した後にアメリカを2年間離れたら、その後、米国市民権申請はできないということです。なぜなら、市民権申請の条件として「過去5年間に連続して180日以上国外に出ていないこと」、さらに「5年間のうち合計で半分以上は米国内に滞在しないといけない」と規定されているからです。従って、アメリカ国外に180日以上滞在した後、「やはり市民権を取得しよう」と試みる場合、アメリカに戻ってそこから4年半待たなければいならなくなってしまいます。市民権を申請するか、「Re-entry Permit」を申請するかの判断は、今回の出国前にすることをお勧めします。
 
(2013年3月1日号掲載)

米国外での長期滞在中もグリーンカードを保持するには?

瀧 恵之 弁護士

Q:7年前に駐在員として米国に赴任し、現在勤めている会社を通してグリーンカードを取得しました。しかし、今春から中国への転勤が決まり、米国を離れなければならなくなりました。米国を長期間離れると、グリーンカードを失ってしまうと聞きました。子供の学校や将来のことを考えると、戻って来られるチャンスを手放したくありません。何か手段はあるでしょうか?

A:あなたの場合、「Re-entry Permit」を申請する方法、あるいは、市民権を取得する方法が考えられます。Re-entry Permitは、米国外に長期にわたり滞在しても、戻る意志があることを証明することにより、グリーンカードを保持できるシステムです。Re-entry Permit がない状態で、グリーンカードを保持するには、連続180日以上、米国外に滞在しないことが1つの条件として挙げられます。
 
また、180日以内であっても、出入国を長期にわたり継続し、米国外での滞在が、過去5年間で合計して2年半以上になると、永住の意志を放棄したと見なされ、グリーンカードを失う可能性があります。例えば、日本に連続して5カ月間滞在し、帰国後1週間だけ滞在し、再度日本に5カ月滞在するというようなことを繰り返した場合、米国入国の際に、グリーンカードを失うことになります。
 
入国審査官にグリーンカードを取り上げられた際、コンテスト(異議申し立て) を行うかどうか聞かれます。行わない場合は、一般の観光者と同じように観光のステータスで入国が許可され、最高90日までの滞在資格が与えられます。
 
コンテストを行う場合は、移民局の裁判所への出頭日をその場で知らされます。裁判では、米国永住の意志があるかどうかが問題となり、この意志がないと判断されると、永住権を失うことになります。この永住の意志の確認では、客観的な証拠(例えば、米国に会社を持っていて、米市民の従業員が多数いるなど)が吟味され、その判断基準は極めて厳しいと理解した方が良いでしょう。

手続きの帰国が困難なら市民権申請も視野に

Re-entry Permit を申請した場合は、1回の申請で最長2年まで、グリーンカードを保持しながら米国外に滞在できます。その間の米国への入出国も自由です。Re-entry Permit の申請は、申請書Form I-131 にグリーンカード、パスポートのコピー、写真2枚、および、申請料385ドルを添えて移民局に申請します。
 
2年以上、米国外での滞在が必要な場合は、2年以内に米国に戻り、滞在中に、再度Re-entry Permit を申請します。2度目の申請までは、2年間のRe-entry Permitを取得することができますが、3度目以降は1年間のみ許可されます。これ以降の申請は、特別な理由がない限り、許可を得ることは困難です。この特別な理由としては、例えば、米国外の支店に駐在する等が挙げられ、会社からの手紙を添えて申請書を提出するのが望ましいでしょう。
 
Re-entry Permit申請に際して不便なのが、申請後、米国内にて指紋登録が必要なことです。1回目の申請ならば、余裕を見て申請(申請後約4週間以内に指紋登録の通知が来ます) すれば良いですが、2回目以降は、指紋登録申請から、それに続く指紋採取までの期間、米国に滞在しなければなりません。ですから、中国で勤務しなければならないような場合には、非常に不便が生じることになります。米国に戻って、申請、および指紋登録をすることが困難である場合には、市民権申請を行うことが賢明かもしれません。
 
アメリカ市民権を取得するには、永住権を取得してから4年9カ月が経過していれば、申請を開始することができます。
 
あなたの場合、今から申請を開始すれば、春までには、少なくとも指紋登録まで終えることができるでしょう。その後、面接、および宣誓式の際に米国に戻って来れば、市民権の取得が可能です。また、両親が市民権を取得すれば、18歳未満の子供は自動的に市民権を取得できることになります。
 
ここで気を付けていただきたいことは、Re-entry Permit取得後、米国を2年間離れると、その後、市民権を申請することができないということです。なぜなら、市民権申請の条件として、過去5年間に連続して180日以上米国外に滞在していないこと、および、過去5年間のうち、合計半分以上の期間、米国内に滞在していることが規定されているからです。
 
従って、Re-entry Permit を申請し続けることによってグリーンカードを保持するか、それとも市民権を申請するのかを、現時点で決めなければならないということです。
 
(2010年2月1日号掲載)

永住権保持者の長期国外滞在リスクと市民権申請への影響

瀧 恵之 弁護士

Q:私はグリーンカードを保持しています。仕事のためしばらく日本に帰らなくてはなりませんが、グリーンカードを失いたくありません。どのような手続きが必要でしょうか?また、アメリカ国外に長期滞在すると、市民権申請が難しくなると聞きました。詳しく教えてください。

A:グリーンカード保持者がアメリカ国外に長期滞在する場合、グリーンカードを維持するためには、アメリカ国内で「Re-entry Permit(再入国許可証)」の申請をしなければなりません。
 
一般的に1年のうち6カ月以上アメリカ国外で過ごす予定があれば、出国前に申請する必要があります。
 
申請に必要な書類
①Form I-131
②グリーンカード両面のコピー
③パスポートのコピー
④申請料385ドル
⑤申請者の写真(2枚)
 
申請時点でアメリカ国内にいる必要がありますが、申請後は結果を国外で待つことができます。しかし、再入国許可証の申請後、USCIS(移民局)のApplication Support Centerで指紋を登録することが義務付けられています。
 
通常、指紋採取の日程は,再入国許可の申請後、約1カ月後に設定されます。万が一、指紋採取の予約日に(国外にいるなどの理由で)行けない場合は、日程の変更をしてもらうことができますが、延長できたとしても4~6カ月が限度です。ですので、再入国許可証を申請するタイミングとしては、アメリカを出国する1カ月以上前か、申請後すぐに国外に出た場合は、指紋採取のためにもう1度アメリカに戻って来る必要があります。
 
1度発行された再入国許可証は、2年間有効です。その後、さらに2年間の延長が、前記と同じ方法でできます。気を付けていただきたいのは、この場合も申請時は、アメリカ国内にいなくてはなりません。
 
2度目以降の再入国許可証の延長は困難になりますが、アメリカに戻って来る意志があることを証明する書類を提出すれば、1年ごとの更新が可能です。

米企業の海外派遣なら市民権申請に影響なし

市民権を取得するためには、永住権取得から5年以上(アメリカ国民と結婚した場合は3年以上)経過していなければなりません。ただし、申請開始はその期間の3カ月前から可能です。そして、5年間(または3年間)のうち合計して半分以上の期間、アメリカに滞在していなければなりません。
 
また、この期間は継続してアメリカに居住していなければなりません。長期間アメリカを不在にすると、このような理由から、市民権の申請ができない場合があります。
 
市民権取得に関して、アメリカ不在期間が1年間のうち6カ月未満であれば、継続的に居住しているとみなされます。
 
6カ月以上1年未満の場合、継続的な居住を放棄したとみなされ、市民権取得に影響を及ぼす恐れがあります。この場合、申請者がアメリカにおける継続的な居住を放棄していないという客観的な証拠を提出することにより、申請が認められることもあります。
 
アメリカ不在が1年以上の場合、居住条件を満たしていないと見なされます。ただし、アメリカ国外に居住する場合、「Preserve Residence」という申請をすることにより、国外に居住していた期間もアメリカに滞在しているのと同じように換算されます。
 
Preserve Residenceを取得するためには、米軍に所属していたり、米政府機関やアメリカ企業からの海外派遣、宗教目的の派遣である、などの理由が必要です。
 
あなたの場合、もしアメリカ企業での仕事が目的で日本に帰るのであれば、Preserve Residenceの申請をしておけば、市民権取得には問題ありません。
 
しかし、Preserve Residenceの申請ができる条件を満たしていなければ、日本滞在中の期間は居住期間に換算されません。ですので、アメリカ帰国後から4年9カ月間、継続的にアメリカに居住しなければ、市民権の申請はできません。
 

長期の米国外滞在で永住権を維持するためには?

KEVIN LEVINE 弁護士

Q:私はグリーンカード(永住権)を保持しています。(1)日本の大学に入学、(2)親の面倒を看る、(3)日本の企業に就職・転職という、いずれかの理由で、しばらく日本に滞在しなければならない場合、グリーンカードを失わずに済む方法はありませんか?

A:米国外に長期滞在する予定がある場合、永住権を維持するためにはいくつかの手順を踏む必要がありますので、注意してください。一般的に、永住権保持者が1年のうち6カ月以上を米国外で過ごす予定があれば、出国前に「Re-entry Permit(再入国許可証)」を申請すべきです。必ず出国前に申請する必要があり、申請が審査される間、国外で待つこともできます。
 
しかし、今年3月5日からは、出国の数週間から数カ月前までに申請をすることが重要になりました。これは、USCIS(移民局)が、再入国許可証の申請方法を変更し、バックグラウンドとセキュリティーチェックのため、出国前にUSCISアプリケーション・サポートセンター(ASC)へ生体認証(指紋と写真)とその費用80ドルを提出することが、申請者に義務付けられたからです。フォームI-131の提出後、USCISは申請者に、指定のASCに出向くよう予約時間を通知します。
 
フォームI-131にグリーンカードのコピーを添え、申請者の米国との関連性を証明するもの(タックスリターン・フォーム、ドライバーズライセンス、米国内に銀行口座を持っている、米国内に家族が住む、米国内に資産を所有する、など)と共に、USCISネブラスカセンターに申請します。
発行された再入国許可証は2年間有効です。さらに2年間延長することができますが、その手続きは米国内で行う必要があります。4年経過後、再入国許可証を得るのはさらに困難になりますが、1年程度の延長は法律的には可能です。
 
再入国許可証を持っていても、国土安全保障省によって、米国永住の意思があるかどうかを問われることはあります。再入国許可証は、単に国土安全保障省が、永住権保持者の永住の意思の有無を、米国外での滞在期間によってのみ判断することを防ぐだけです。このため、長期間の米国外滞在には、常にリスクが伴います。米国外に滞在中もタックスリターンをするなど、米国とのつながりをできるだけ多く持つことが大切です。
なお、米国市民、永住権保持者は、米国外に居住していても、タックスリターンを行う義務があります。
▶アメリカでのタックスリターン(確定申告)についてはこちら

Q:不法移民が従軍することで市民権を得たという記事を読みました。私も志願したのですが、断られました。どうしてでしょう?

A:もしあなたが不法移民でも、既に従軍していれば、特別帰化法の恩恵にあずかることができます(INA 329項)。これは、徴募が何らかの手違い、または条件付き永住権保持者が条件の解除を怠っていた場合などを指します。
現在、徴兵法、従軍法、帰化法は、きちんと同調していません。もし徴兵があれば、不法移民も軍に徴兵されることがあります。現在米軍は、不法移民と判明している者を、徴兵以外で軍に受け入れる場合の方針を定めていません。不法移民を従軍させることが国益にとって欠かせないと判断されれば、入隊できることがあります。
 
この件について、Margaret D. Stockが『Essential To The Fight: Immigrants in the Military, Five Years After 9/11』と題した記事(www.immigrationpolicy.org/index.php?content=f0611)を書いています。
 
(2008年4月1日号掲載)