夘木栄人さん/Sun Noodle代表取締役社長

ライトハウス電子版アプリ、始めました

アメリカで製麺一筋30年 地道に顧客と向き合い 築いた信頼

単身ハワイに渡り、ゼロから立ち上げた「Sun Noodle」は、今や全米各地に出荷され、アメリカ有数の麺ブランドとなった。同社を率いる夘木さんに、これまでの道程を振り返ってもらった。

【夘木栄人さんのプロフィール】

うき・ひでひと◎1961年栃木県で製麺会社の長男として生まれる。県立壬生高校卒業後、徳島県の製麺会社に入社。1981年にハワイに渡り、サンヌードルを創業。翌年に製麺工場を開業し、83年から量販店との取引を開始する。2004年にロサンゼルス工場稼動。現在、ハワイとロサンゼルス合わせて毎日約7万食近くを製造し、シアトル、ニューヨークにも出荷。ハワイでは100種類以上の麺を出荷し、ロサンゼルスで50店舗以上と契約する。10年の売り上げは800万ドルを超えた。

製麺機3台がハワイで待っていた

工場で従業員と麺の出来映えについて意見を交わす

郷里の栃木に今もよく行くラーメン店があるんです。子供の頃から40年以上経つのに、味がまったく変わってない。うまいんです。そして、すぐに「また食べたい」という気持ちになる。僕が麺を作る時に意識するのは、この「また食べたい」という感覚。決して派手じゃないけれど、飽きることがない味。これは、製麺業者として大切にしている信条でもあります。
 
僕の実家は製麺業を営んでいて、長男である私は、当然跡を継ぐと思われていました。高校卒業という時に、大学に行くにも成績が足りないし、どうしようかと迷っていました。そうしたら親父が、「まずは社会人としての修業を積んでこい」と言って、徳島県の製麺所に話を付けてきてしまいました。親父には逆らえなくて、1年半、幅広く製麺を学びました。その中で、製麺の奥深さを知りました。
 
修業中の1980年頃のことです。知り合いを通じて親父に「ハワイで製麺の技術指導をしてくれないか」という依頼が来ました。親父は、早速製麺機を3台送り、ハワイに指導に向かおうとしたところ、実際には出資者を探しているような状態だったことが判明しました。話が違うと断ってしまったんですが、機械は既に送ってしまっているから、息子の私にお鉢が回ってきたんです。外国は憧れでしたし、若かったから、何も考えずに「行く!」と答えました。
 
いざハワイに渡ってみると、麺と言ったら「サイミン」や「チャーメン」。食べてみたら日本の麺の方がうまい。「これなら勝てる」、そう思ってしまったんですね。それからは、英語力も人脈もないのに、営業に回る日々。どこから出てくるのか、自信だけはありました。
 
ところが、営業に行く先々で、日本風のコシがある麺を「固くてまずい」「こんなの食べられない」と酷評されて…。ショックでした。どうすれば日本の麺の美味しさを妥協せず、地元の人に受け入れてもらえるか、日々研究を重ねました。
 
それと同時に、当時、日本からハワイに進出するラーメン店が多かったので、日本からの進出組に集中して営業をかけました。そうしたら少しずつ受注が取れるようになりました。日本の麺の美味しさを諦めないで、維持していたから認められたんだと思います。

60回以上試作を繰り返したことも

恵子夫人、愛娘の久恵さんとオフィスで談笑。仕事も手伝ってくれる家族はかけがえのない存在

製麺工場も作り、徐々に事業は安定していきました。ところが、すぐに壁にぶち当たりました。
 
日本から進出してきた、とあるラーメン店からの受注を受けた時のことです。門外不出の麺の製法を公開してくれたのですが、アメリカで手に入る原料では、同じ品質の物がどうしてもできない。そもそもアメリカの小麦は硬質で、うどんのようなもちもちした麺を作ろうとしても、うまくいきません。日本は小麦の輸入大国ですから、各国の小麦をブレンドして使います。それで麺の味わいの違いを表現できているんです。このように、日米では小麦の種類も、水質も違います。これでは麺のでき上がりもずれてしまいますよね。
 
3カ月から4カ月間、60回以上試作を繰り返しました。原料の小麦粉から考え直さなくてはならないので、オーストラリアや韓国などからも小麦粉を仕入れました。ようやくお客様のラーメン店から「使おう」と言っていただいた時は、本当にうれしかったですね。この時の経験から、弊社では今でも各国の小麦粉を独自にブレンドして使用しています。こうした達成感があるからこそ、この仕事はやめられません。
 
ハワイには、北は北海道から南は沖縄まで、日本全国からラーメン店が進出してきます。ですから、多くの方と麺について議論を交わし、多くのことを教わりました。顕微鏡で麺を見て、麺の扱いから温度管理まで事細かにご指導していただいた、大手ラーメンチェーンの会長もいらっしゃいました。麺を作るということは、そのお店の一員になるようなものです。プレッシャーはありましたが、やりがいがありました。
 
一方で、自分が立てていた目標を、ドンドン達成していきました。1987年には、念願の一戸建ての家を購入しました。当時、金利が上昇して、ローンが払えずに家を手放す人が多かったんです。頭金は全然足りなかったのですが、思い切って買ってしまいました。何しろ僕は、自分が立てた目標をクリアしていく「達成感」が大好きですから、無理してでも実行してしまうんです。でも、結果として、この思い切った購入が、後になって役に立ちました。
 
ドンドン増えていく注文に、工場の生産能力が追い付かなくなってきたと感じ始めました。すると、当時工場があった土地のオーナーが、僕の工場のリース契約が切れる前に、土地を売ってしまったんです。それでテナントが追い出されることになりました。1989年のことで、当時の従業員は10人くらいでした。資産は5、6万ドルくらいしかありません。多額の借金を抱えるか、商売を辞めるか、そのどちらかしか選択肢はありませんでした。
 
仕方なく新しい工場用地を探し始めたものの、建物を入れて130万ドルくらいかかる。手持ちの現金では頭金にも足りません。でも何とかしなきゃと、立ち退きを半年待ってもらって、とにかくお金を工面しました。すべてを切り詰めて貯金、貯金の毎日です。
 
運良く、SBA(中小企業局)のローンを得られ、さらに自宅を所有していたことで、それが大きな担保になって、無事に新工場を建てることができました。とはいえ、売り上げが年間90万ドル程の時代に、自宅を担保にして100万ドル以上の借金でしたから、それは怖かったですね。

 

ロサンゼルスでも地道にお客様に向き合った

製麺という商売は、何かがきっかけで大儲けできるという性格のものではありません。地道に1食1食売り上げを増やしていって、徐々に利益が伸びていくもの。それには麺を扱ってくれるお客様を増やすと共に、これまで付き合ってきたお客様との信頼関係を崩さないようにしなくてはなりません。常に研究と改良を重ね、お客様に提案する。しっかりとタッグを組んで、カスタムメイドの麺作りを続けていくのが弊社の姿勢であり、強みです。それをこれまで維持できたからこそ、創業から30年間、ずっと右肩上がりで売り上げを伸ばしてこられたのだと思います。
 
日本の大手企業が、製麺部門を発足させて大々的にハワイに進出してきたこともありました。大資本が相手では、いくら味に自信があっても太刀打ちできない。生産量も違います。しかし、その時も「所帯の小さな僕らにしかできないことは何か?」と考えたら、やはりお客様にトコトン付き合うことしかないと思いました。ラーメン店が、その顧客の好みに向き合っているように、私たちもラーメン店の好みに向き合おうじゃないかって。
 
ラーメン店はどこもスープにこだわっています。ですが、スープとの相性の良い麺がないと、食べた時に美味しいとは思えません。だから、スープも徹底的に研究しました。スープがわかってこそ、それに合う麺がわかりますからね。作ってはお店に持っていき、ダメ出しされたらもう1回…という繰り返しです。そして、がむしゃらに頑張ってきて気が付いたら、「サンヌードルの麺は美味しい」「サンヌードルに頼めば間違いない」という評判をいただいていました。
 
2004年、ハワイのラーメン店がロサンゼルスに進出するので、一緒にやってくれないかと誘われました。経営が安定して、麺作りにも自信が付いてきた頃でした。でも、このままあと20年、30年、同じ場所に安住していていいのだろうか、いや、もっと自分を追い込んで刺激を与えなくてはならないと思ったんです。そして、どうせやるならアメリカ1位を目指さなくてはいけないだろうと。
 
ロサンゼルスに進出した当初は、やはり苦労の連続。ロサンゼルスは広いので、配達を自社でできません。流通網を持っている問屋との交渉からスタートです。しかし、実績のない会社の商品をすぐには扱ってくれません。でも、うちにはうちのやり方しかありません。ロサンゼルスの有名ラーメン店を回って、カスタムメイドの麺作りを提案していきました。そして徐々に採用されると、今度は問屋に、「有名店で採用されているラーメン」という話を取っ掛かりにして、麺の高品質をアピールしていきました。その甲斐あって、何とか取り扱ってくれる問屋も出てくるようになり、大手日系スーパーでも扱っていただけるようになりました。今ではロサンゼルスエリアだけで、50店以上のラーメン店と契約しています。

製麺のやり取りを記録したデータが財産

ラーメン店との製麺のやり取りを記録したデータベースは、今では何千ページにも膨らんでいます。お客様とのこのやり取りこそが、弊社の財産です。毎日生産する麺は、100種類以上にもなっています。
 
これまで家を買う、工場を建てる、ハワイで1番になる…など、さまざまな目標を立てて、何とか達成してきました。2009年には、ロサンゼルスに自社ビル、自社工場を建設しました。これからは、もっともっと上質な麺を、さらに安価で提供できるよう研究を続けます。
 
今年は、アメリカ東海岸にも製造拠点を持つ計画があります。東海岸に進出するからには、その地にラーメン文化を創造するくらいの覚悟を持って臨むつもりです。これからラーメン店を始めたいという人たち向けに、麺に関するワークショップや講習会なども、積極的に開きたいと思っています。
 
今後の目標は、やはり最初に触れた郷里のラーメン店のように、決して派手ではないが、地道にしっかりと美味しさを追求し、ぶれないことです。ホッとするような感覚、また食べたいと思える味を、いつまでも提供していきたいんです。
 
「お客様が求めるものを、いつまでも」。これが弊社の目標であり、私の残りの人生の目標でもあります。”一生懸命作っています。” ―弊社が麺を出荷する際に使用する段ボールに書いてあるこの言葉を、これからも、ずっと言い続けていきますよ。
 
(2011年1月16日掲載)

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