中卒の組立工から、誰にも負けない努力で億万長者に
優良光学機器メーカーに就職し、独学で英語と専門知識を身に付け、ニューヨーク駐在員に抜擢された大根田さん。しかし、学歴偏重主義に見切りを付けて退職、そして独立。医療器具ベンチャーを起業させ、巨万の富を創り出した、大根田さんのビジネスの秘訣を聞いた。
【大根田 勝美さんのプロフィール】
おおねだ・かつみ◎1937年、東京生まれ。中学卒業後、大手光学機器メーカーに組立工として就職。独学で英語を勉強し、27歳の時にニューヨーク駐在員に抜擢。内視鏡の販売営業に携わる。アメリカにおける内視鏡ビジネスの基礎を作るも、学歴が低いため出世できないことに失望して5年後に退職。その後、医療機器メーカーを起業。同時にユダヤ人パートナーと組み、ベンチャービジネスに乗り出す。医療分野の最新技術を発掘し、世に出しては売却するという手法で、“巨万の富”を築き上げる。
貧乏で惨めだった少年時代
私は1937年に東京・芝白金に生まれました。家族は両親と姉、弟、妹、そして私の6人。父親は、外国人も相手にするような洒落た床屋を経営していました。私自身は、メンコやビー玉が強い下町の腕白小僧でした。
そんな家族を取り巻く環境が一変したのは、太平洋戦争でした。長野県の伊那町に疎開。小さな2階建ての家に5世帯が共同で暮らしました。1所帯1部屋。朝は便所に10人以上列を作るような有様です。貧乏のどん底で、わずかな葉っぱや豆を家族6人で分け合える日は良い方でした。
”東京っぺ”で貧乏な私は、酷いいじめを受ける毎日でした。みんなは白米の弁当で、これ見よがしに見せつけられたりもしました。身体検査ではいつも栄養失調。それでも、父や母の温かく、真っすぐな姿勢のおかげで、私は誤った道に進まなくて済みました。
中学卒業後、100人受験して5人しか合格しない長野県内の最難関の光学機器メーカーに補欠採用されました。学生の頃から成績優秀で、先に入社して評判の良かった姉のおかげだと思います。
入社後は、仕事をしながら通学片道1時間の定時制高校に通ったのですが、不摂生と無理がたたり、3年目に胃がキリキリと痛み出すようになりました。病院に通っても一向に改善せず、薬を飲むほどに悪化しました。医者のすすめで手術を受けましたが、呆れたことに胃の3分の2を切除した後に、誤診であったことがわかりました。当時は「内視鏡」なんてありませんでしたし、伊那にそんな知識を持った医者がいなかったことも不幸でした。
すっかり医師不信になった私は、それ以来胃腸に関する専門書をむさぼるように読みあさり、医学の基礎知識を独学で身に付けました。実は、この時に得た知識が、将来大いに役立つことになるのです。
英語を習得、奇襲に成功せり
1961年に、伊那から東京に転勤になりました。私が配属されたのは、管理課の中にある修理部門でした。大卒のエリートが溢れる本社では、周りの人たちの態度から、私は末端の労働者扱いされているのがよくわかりました。特に「輸出部」の社員たちの態度は、本当に気に障りました。当時の私には、彼らに対するコンプレックスや、英語で楽しげに話していることへのジェラシーもあったのでしょうね。
「英語が話せたら、ヤツらも大きな顔はできない。英語が使えたら、仕事自体が変わるんじゃないだろうか」。
その時期に営業部への転属もありましたが、私は24時間365日英語漬けの毎日を過ごすようにし、またたく間に力を付けることができました。
1年後、英語力に自信も付いて、以前から温めていた計画を実行に移しました。まず、海外営業部が英語で作った「ガストロカメラ(胃カメラ)」のカタログの重要な部分を完璧に暗記したのです。社内の英会話教室に参加し、そして、みんなの前でガストロカメラの構造や性能、具体的な使用法を英語ですらすら説明してみせました。アメリカ人の先生は、ビックリ仰天。教室は皆唖然としました。参加していた人事課職員の注意を引くことができたのは言うまでもありません。
奇襲は見事に成功しました。海外進出が本格化する当時の会社に必要だったのは、英語力、商品知識、営業力を兼ね備えた人間でした。そして、何と私は、毎年海外駐在所に派遣される1、2名の枠を手にすることができました。
学歴偏重主義に見切りを付けて
ニューヨークに赴任したのは27歳の時でした。私の最初の使命は、ガストロカメラを販売する上での技術的な基盤を作ることでした。今でこそ内視鏡を使った手術は当たり前ですが、40年以上も前のことです。画期的なガストロカメラの販売は困難を極めました。それでも自分なりに英語を操って、業績を年々伸ばして行きました。アメリカに行かせてくれた会社に応えたいという想いも強かったのです。
そして、5年目のある日のことです。同年齢の大卒社員が主任に格上げされたのに対して、私には何の辞令も出ませんでした。これは私にとって耐え難い屈辱でした。会社に対して失望したと言うより、憤慨、激怒したと言う方が、実際には近かったかもしれません。改めて日本の学歴偏重主義に嫌気が差し、即座に退職を決意しました。
退職後は、同社の商品を売った分だけ対価を得る、歩合制の営業マンとして、新たなスタートを切りました。商品知識はもちろん、内視鏡検査に関しては、お客さんである医師と対等の知識を身に付けていました。彼らとの会話、そして文献から専門知識を貪欲に吸収しました。医師たちとの会話の中で、彼らが希望したことに対しては、「どうしてそれを欲するのか?」という本質を考えて、気を回しました。
例えば、ガストロカメラ・フィルムの現像も、ひと手間かけてスライドにして医師に届けました。アフターサービスにも全力を注ぎました。夜中に2時間ドライブして現場まで行き、機械を修理して、早朝の検査に間に合わせることなど日常茶飯事でした。
当たり前のことですが、特に気を付けたのは、約束の時間に必ず現場に行くことです。時間厳守は、信頼を得る最も大切な条件です。また、相手に印象を残すことも大切です。必ず握手の後、日本式に深々と頭を下げました。これで悪い印象を与えるわけがありません。
英語が上手ではないことは、ハンデではありましたが、言葉が少ない分、良く考えているという印象付けにもなるし、誠実さにもつながりました。また、お客様の顔と名前は必ず覚えるようにしました。大きな学会の会場で、顧客の医師を目にしたら、笑顔で親しみを込めて名前を呼びました。そうやって関係が築き上がっていくと、お客様の方から展示ブースを訪ねて来てくれました。「あいつは特別だ」「あいつはよくやる」、そういう信頼を勝ち取ったのです。
さらに、大腸の内視鏡手術の世界的権威、新谷弘実先生を軸に、内視鏡手術そのものが世界中に広まる時期であったことも、私が波に乗れた理由でした。やがて、百発百中でオーダーをいただけるようになり、アメリカでトップの売上を記録したのです。
生涯のパートナーとの出会い
会社設立から4年目、私が受け取ったコミッションは、1973年当時の為替レートで1億8千万円にも達していました。しかし、やがて担当地域を縮小されたり、コミッションレートを10%から8%、8%から6%へと圧縮されるようになりました。
このままでは、ジリ貧になってしまう。そこで、38歳の時に意を決して、ある日本企業と合弁で内視鏡販売会社を立ち上げました。そして、この年の秋、一生のパートナーとなるユダヤ人のルイス・C・ペルと出会ったのです。
7歳年下のペルは、私の会社の手掛ける商品を売らせてくれと訪ねて来ました。最初の1年は、セールスレップとして働いてもらったのですが、彼はまさにバイタリティーの塊。それでいて抜群に切れる頭脳と回転の速さ、交渉能力、先を見る感覚は、自分が持ち合わせていないものでした。
「この男なら私の足りないところを補って、1+1を5にも6にもしてくれる」と確信して、会社の4分の1の株を持たせ、副社長として入社してもらいました。私は自分に能力がないことを知っています。ですから、大きな目標を持って仕事をするなら、自分にないものを持ったパートナーを見つけることが近道です。
後に会社を売却した時には、売却益の50%を彼に渡しました。一緒に苦労してきたのだから、半分半分にすることにしたのです。この私の好意が、彼との長いパートナーシップを築く基礎になったと思っています。
起業サポートで資産を作る
私たちは、内視鏡分野のみでなく、医療器具分野に理解を深めていきました。そして、他人が立ち上げる医療器具のベンチャービジネスのサポートを二人三脚でし、その代わりに報酬を受け取るという「起業サポート」を始めました。これは、私たち自らが経営に参画するのではなく、資金や人材集めなどで起業をサポートし、その報酬として安価で株式を受け取るのです。
例えば、スタンフォード大学の心臓内科のモーリス・ブックバインダー医師が発明した「カテーテル」を成功させた際には、1億ドルで会社を売却、私たちも600万ドルずつのキャピタルゲインを得ました。また、血管を傷付けず、血管を塞ぐカルシウムだけを除去する装置を世に出した時には会社を上場させ、発明者は5億ドル以上の大金を手にしました。もちろん私たちも、前回の数倍の利益を手にしました。こうした手法を繰り返し、私たちは資産形成をしていったのです。
会社を立ち上げ、ある程度成長させられても、そこから事業を拡大していくには、それぞれの段階でマネージメントと資金が必要になります。アメリカではそれが分業されていて、アイデアを持つ人がベンチャービジネスを興し、大手企業がそれを買い取るというシステムが確立されているのです。
手法のお話をしましたが、忘れてはならないことは、良きパートナーを得るのも努力が必要ということです。信用できる、頼りになる自分であらねばならないのです。自分の能力を過信せず、パートナーには感謝を形で表すこと。気前良くすることです。
例えば、ある企業の売却が終わった1カ月後、我が家でペルの誕生パーティーを催しました。そこで、サプライズ・バースデーギフトとして、最高級のベンツS500を贈りました。高価なプレゼントですが、私にとっては当然のことでした。彼が案件を発掘し、優れた交渉能力を発揮したからこそ、起業サポートという形で巨額の利益を稼ぎ出すことができたのですから。
自分にはない才能や特長を持った人間とタッグを組むことで、新しい可能性は開け、実力以上の大きな仕事ができるのです。失敗してもともと。小さなパイを独り占めするのではなく、大きなパイを分かち合えば良いのです。大事なのは目標を定め、努力すること、まず勇気を持って1歩踏み出してください。
(2011年1月1日号掲載)