コンサルティング ビジネスディベロップメント/マーケティング戦略(その他専門職):東島麻樹さん

ライトハウス電子版アプリ、始めました

目の前で求められることに一生懸命応える
それが次の道につながっていく

アメリカで自分を試すために渡米し、目の前で求められることに無我夢中で取り組むうちに、ビジネスディベロップメントの道に入った東島さん。亡父から教わった地道な積み重ねと人と向き合う経営スタンスで、実践的なコンサルティングを行う若き女性起業家として活躍する。仕事への思いとこれからの夢を聞いた。

【プロフィール】ひがしじま・まき
長崎県佐世保市出身。大学卒業後、日本で企業勤務を経て、1999年に渡米。UCLAエクステンションにて国際ビジネス修了後、国際法律事務所で会社法、国際法、移民法専門弁護士の下、リーガルアシスタントとして勤務。退社後、ベンチャー企業の立ち上げ、日系総合商社の新規事業開発担当を経て、2006年に独立し、Maki Higashijima & Associatesを設立。ビジネスディベロップメントとマーケティングに特化したサービスを通し、日米企業の米国、日本市場でのビジネスチャンス開拓、現地における事業展開に携わる。
www.maki-associates.com

そもそもアメリカで働くには?

国際的な仕事を求め 自分を試すために渡米

クライアントと共に展示会でのワンショット

小さい頃から父の影響で、英語やアメリカ人が近い環境にいました。父は佐世保で電気関係の会社を経営していたのですが、地元の日米協会や米軍基地ともお付き合いがあり、私も姉も小学生の頃から英会話を習っていました。なので、将来は英語を使う国際的な仕事をしたいと、自然に思うようになりました。
 
大学は京都だったのですが、卒業後は長崎に戻ることにして、当時地元で賑わっていたハウステンボスの園内ホテルに就職しました。そこは海外のホテルとの交流も盛んで、国際色が豊かだったんですね。私は、現場でホスピタリティーを学んだ後、営業本部に移り、来場するお客様をエンターテインするよりも、会社の運営の方に興味が深まっていきました。約2年間のサービス業の中で、人と接してビジネスをする営業の基礎と、日本の社会のルールを勉強させていただきました。
 
でも、本当の意味で国際的な仕事をするには限界も感じていて、アメリカで働いてみたいという気持ちが強まっていきました。思い立ったらすぐ行動する性格で、1年かけて準備をし、1999年からUCLAエクステンションで、国際ビジネスを学ぶことにしました。ビジネスが学べ、修了後にプラクティカル・トレーニングも発行してもらえる、まさに「オール・イン・ワン」だと思ったのです。
 
実際にコースを取ってみると、ビジネスに携わる社会人が多くて、授業のレベルが高く、最初は付いていくのが大変でした。ネイティブと同レベルでビジネストークできるようになるには時間がかかりましたが、必死に勉強して、2年の過程を1年半で修了しました。普通に大学で勉強するより実践的な知識が身に付き、講師も最前線で活躍している方が多かったので、色々なコネクションも作ることができました。その当時の友達とは、今も仕事やプライベートでつながりがあります。
 

実践の仕事で味わう事業開発の醍醐味

コース修了後は、弁護士事務所の求人に応募して、運良く採用されました。当時は、アメリカで数年働いて実績を作り、日本に帰って国際色の強い仕事に就きたいと思っていました。国際法や会社法などを勉強すれば、将来絶対プラスになると思ったのです。
 
仕事はテレビや映画で見る華やかなイメージとは対照的に、実務的な細かいことが中心。でも、弁護士の先生のアシスタントとして企業やコンサルタントの方とのやり取りに入らせていただき、会社運営や事業開発の実態を見られたのが良かったです。さまざまなプロジェクトの立ち上げに関わるうちに、アメリカでの経営や総合的なビジネスの仕組みを学びました。
 
2年ほどして仕事にも慣れてきた頃、日本からの米国進出を計画されていたお客様から「一緒にやってみないか?」とお誘いをいただきました。これまではアシスタントとしてサポートする立場だったのですが、「自分でやってみたい」と、思い切ってお引き受けしました。事務所探しから始まり、約1年かけて会社としての基盤作りに携わりました。これまでのノウハウを実践で活かすことができた、貴重な経験でしたね。
 
その過程で知り合った、当時日系総合商社の社長をなさっていた方から、「アメリカ向けの新規事業を立ち上げたい」と、お声を掛けていただき、その会社の経営企画で、事業開発担当として働くことになりました。それまでは、日本の本社が求める物をアメリカで調達することが中心でしたが、新規事業のミッションは、日本の背景に影響を受けない、アメリカ単独で利益を挙げられるビジネスを構築すること。可能性がありそうな事業のリサーチをし、マーケティングする。事業の立ち上げは、小さい会社1つ立ち上げるのと同じだけの知識が必要になるため、猛勉強して実践を重ねていきました。
 
この仕事も約2年で転機が訪れました。会社が新規事業を縮小する方向になり、その時携わっていた企業様から、引き続き力になってほしいというお話をいただいたのです。自分を求めてくれる方の期待に応えるのに一番動きやすい形を探ったら、それが独立だったわけです。「こういう仕事がしたいから起業する」とか、「起業したから成功しなければいけない」という「欲」みたいなものは何もなくて、ただ目の前で求められることに一生懸命応えることだけ考えていたら、こうなったという感じです。私の場合、自分にできることを無我夢中でやっていたら、また次のお話をいただき、つながっていっているのですね。
 

父に教わった経営の真髄は地道な積み重ね

起業を決めた時、父がどんな風に会社を経営しているか、興味を持ちました。それで、最初の仕事が始まるまでの1カ月間、長崎に帰り、父に弟子入りしました。父は、ビジネスの場には絶対家族を出さなかった人ですが、その時だけは顧客先にも連れて行ってくれました。
 
経営者の方はよく、「経営者は周囲が思っているより孤独で、派手なものじゃない」と言われますが、父に関しても「こんなに地味なことを何十年もやり続けていたんだ」と、改めて尊敬の念を感じました。父のところにはさまざまな人が相談に来ていましたが、父は皆が主張することを全部聞いた上で、「こうしてはどうか」と提案していました。会社の規模の大小に関わらず、経営は地道なことの積み重ねで、実践と経験による力が大事だと実感しました。
 
「麻樹もこれから頑張るんだから、わしも負けんように頑張らんば」。父と別れの言葉を交わしてロサンゼルスに戻ったところ、2日後の真夜中に、「お父さんが原因不明の急病で、息ができなくなった」と電話が。翌朝の便に飛び乗りましたが、帰国してまもなく突発性の難病で亡くなってしまいました。
 
起業してすぐは、さまざまな厳しい現実にぶつかりましたが、父に地道な積み重ねを見せてもらっていなかったら、派手なことを夢見て投げ出していたかもしれません。父もとても喜んでくれていたので、どんなことがあっても3年は止められないと決意して、頑張れたのだと思います。当時のお客様にもとても支えていただきました。やはりビジネスの根底は、絶対に「人」なんですね。会社を無機質な団体と捉えることもありますが、仕事をする時は、人と人だというスタンスで向き合うことが大切だと思っています。
 
私の仕事は、新しい事業や商品、サービスを始めようとする際に、アメリカの市場の扉を開くイメージです。前準備のリサーチ、分析、戦略マーケティングから、実際のアプローチまでご一緒します。コンサルティングと聞くと、机上だけの仕事を想像すると思いますが、私の場合は、実践でどう動くかというところまでカバーします。お客様と一緒になってノウハウを作り上げ、いったん軌道に乗ったら継続できる組織を作って、引き継ぎます。全体を通して外交的要素が非常に強く、ビジネスを作り上げていく過程に携われることは、とてもうれしいですね。
 
これからは、アメリカの会社が、世界中でビジネスを拡大することにもっと関われたらうれしいですね。日本人の特性を活かすだけでなく、日米で通用する人になりたいです。アメリカに来て、「こうなりたい」というものがないと、人生の迷子になることが多いんです。日米2つの舞台で色々な選択肢があるから、どれが一番の近道かわからなくなってしまうんだと思います。でも、目の前にあることを一生懸命やってみれば、点が線につながっていきます。今は疑問に思えるようなことでも、無駄なことはありません。先でその経験をどう活かせるかは自分次第なので、頑張ってほしいと思います。
 

 
(2010年5月1日号掲載)

「アメリカで働く(多様な職業のインタビュー集)」のコンテンツ