自動車修理工(その他専門職):斎藤裕之さん

ライトハウス電子版アプリ、始めました

全部、自分の責任となるのがアメリカ
真面目に仕事に取り組めば評価される

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は自動車修理工の斎藤裕之さんをご紹介。夢を抱いて渡米した車好きの青年を待ち受けていたのは波乱万丈の出来事。いかなる時でも強い精神力を持ち続け、地道に努力を重ねて、信頼と実績を手に店を切り盛りしている。

【プロフィール】さいとう・ひろゆき■ 1966年生まれ。東京都出身。東海大学海洋学部水産学科在学中からカー用品店でアルバイトを始め、その後正社員として2 年間勤務。1990 年に渡米。94 年より日系およびアメリカ系の修理工場勤務を経て、2001 年、ハンティントンビーチにNeptune Speed を設立。ASE マスターテクニシャン
neptunespeed@msn.com

そもそもアメリカで働くには?

夢を抱いて渡米したが まもなく訪れた危機

休日の朝はハンティントンビーチで波乗りをする

 昔から生き物と機械いじりが好きでした。それで大学では海洋学部水産学科に進学したのですが、寮と大学を往復するための中古車を買って以来、車に夢中になってしまいました。カー用品店で働き始めたのは、たまたまそこが兄の先輩の勤務先だったから。
 
 最初アルバイトで入って、そのまま大学を中退し、正社員になりました。今は車検なども行っているようですが、当時はタイヤやバッテリーなどの部品販売やアクセサリーの取り付けなどを主体とした会社でした。アルバイトの時はただ作業だけをしていればよかったのですが、社員になるとそういうわけにもいきません。営業担当になり、毎朝自分の売り上げ目標数値を掲げ、1日の終わりにはそれが達成できたかどうかを全員の前で発表。毎週毎月の達成度もチェックされており、とてもしんどく感じていました。
 
 父が駐在していた時に、家族を呼んでくれたのが渡米のきっかけです。90年、日本はバブル真っただ中でした。最初はESLに通っていましたが、間もなくバブルが崩壊。父の勤めていた会社が倒産して父は失業、家も売り払うなどあおりを食らってしまいました。
 
 そこで父が始めたのがデリバリー専門のレストラン。家族でやるというので、私もESLを辞め、コックとして手伝うことになりました。雇っていたコックに一から教えてもらい、最終的には1人で厨房を切り盛りするまでに。でも、「アメリカに来てまで、どうしてこんなことをやっているのだろう」と思うこともしばしば。レストランの経営も芳しくなく、日本へ帰ろうかと家族会議を幾度も開きました。

アメリカでの新たな出発 修理工として信頼を獲得

平日は相変わらず忙しい。
この日も取材中にバッテリー交換の依頼が

 しかし私と妻は「2人で一からがんばってみよう」という結論に至りました。渡米後、ずっと家族全員で協力し合ってきたものの、妻と自分だけで何かをするということがなかったのです。日本での経験もあったので、ガーデナにある日系の自動車修理店で働くことにしました。
 
 そこで数年働いた後、他の修理店へ。ASE(Automotive Service Excellence)という資格取得をすすめられたのはこの時です。自動車修理工の資格試験であるASEの取得は、必要条件ではありませんが、修理工の技術の信用度を測る基準と考えられています。実際に現場で修理した経験が重要視されているため、学校で得た知識だけではまず取れません。項目はエンジン、ブレーキなど全部で8つ。そのすべてを取得すると「マスターテクニシャン」と呼ばれ、就職にも相当有利になります。
 
 何度かに分けて取ったのですが、大変だったのはトランスミッション部門。ほとんどの店では、トランスミッションのオーバーホールは専門の業者へ出すために、自分で分解する機会がありませんでした。本で勉強するしかなかったので、仕事の合間に2週間くらいみっちりやりました。
 
 その間にアメリカ人オーナーのフランチャイズ店へ転職。ASE取得中をアピールしたこともあって、すぐに難しい仕事も任せてもらえるようになりました。また、マスターテクニシャンになり、スモッグチェックのライセンスも取得し、信頼を積み重ねた結果、2000年には「Consumer Assistant Program」という、低所得者のためのスモッグチェックを行える店として州の認定を受けました。ところが州と自分との間にトラブルが発生。オーナーが罰金を支払うなど気まずい雰囲気になり、辞めざるを得ない状況に追い込まれました。何も手に付かないくらいショックでしたね。

悔しさを乗り越えて 念願の店をオープン

 後にそれは自分のミスではなく、州側の間違いだということが判明。オーナーは「ヒロがいないならやっていても仕方がない」と店を売った、と後になって聞きました。そのオーナーは今では私たちのお客様です。しかし、この事件で失った信用は大きく、そして何よりも自分の修理工としてのプライドを傷つけられました。今思い出しても本当に悔しい出来事です。
 
 これで「自分でやるしかない」という気持ちが固まり、独立を決めました。自分の店を持つことは渡米時からの夢でしたが、実現したのは01年2月のことです。でも、市が発行する自動車修理許可が下りるのに時間がかかり、とうとう開店に間に合いませんでした。「仕事ができないじゃないか」と、担当者に訴えると「オイル交換ならできるよ」と。そこで修理の許可証が出るまでの2週間、オイル交換だけで営業しました。
 
 自動車修理工に興味がある人には、ぜひ1度アメリカ人の経営する店で働くことをすすめます。日系の修理店ではたいていオーナーも技術者なので、責任は自分とオーナーに分散されます。一方、自分のやったことは全部、自分の責任となるのがアメリカ式。車のことなど何も知らない経営者が多いので、修理工自身にすべての責任がのしかかります。でも、自信を持って仕事をしていいと思います。日本人は手先が器用なので、細かい作業が多い修理では才能を発揮しますし、仕事に真面目に取り組むと高く評価されています。
 
 自分の店を始めて以来、がむしゃらに働いてきましたが、最近は昔やっていたサーフィンを再開したりして、休日を楽しめるようになりました。いずれは人を雇って、ゆっくりとしたペースで仕事ができたらと考えています。
 
(2006年5月1日号掲載)

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