パティシエ(その他専門職):原瀬富久さん

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自信を持って一生懸命にやっていれば、
ビジネスは後からついてくる。

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はパティシエの原瀬富久さんをご紹介。高校生で始めたアルバイトがきっかけでシェフの道へ。フランス料理の本場・パリで修業を積んだ後、渡米。有名レストランで腕を振るい、現在はコスタメサに開いた自身の店から、スウィーツを提供している。

【プロフィール】はらせ・とみひさ■岐阜県出身。1957年生まれ。赤坂のフレンチレストランで4年修業後、単身渡仏。グラン・ヴェフールで4年修業を積む。84年に渡米し、スパゴ、シノワ・オン・メインを経て、89年秋に独立。その後ビバリーヒルズに移って11年営業した後、2005年にコスタメサにスウィーツ専門店カフェ・ブランをオープンした。

そもそもアメリカで働くには?

人生を変えたバイト
夢のパリ修業も実現

場所柄アメリカ人の客も多く訪れる。
イートインも可能でコーヒーも好評

 高校1年の時、洋食屋さんでアルバイトを始めたのですが、初日に人生を変える出来事がありました。まかないの夕食が出たのです。「お金も稼げて、美味しいご飯も食べられるなんて、こんなうれしいことはない」と感動したのです。最初は皿洗いだけでしたが、1年で包丁を握らせてもらえるように。以来、料理の道で生きようと決めていましたが、周りには言っていませんでした。高校卒業後に一旦、地元の企業に就職しましたが、レストランに移りました。
 フランス料理を極めるためには東京に行くしかないと思いましたが、身寄りはないため、本に紹介されていたレストラン30軒に手紙を書きました。返事が来たのは1軒のみ。しかも「最初は給仕からだが、それでもよければ」というもの。しかし、1年後には調理場に入り、4年目には火元を任されるソーシエにまでなりました。
 4年間お世話になった店を離れることになった理由は、シェフにパリ行きをすすめられたからです。パリなんて夢のまた夢でしたが、シェフは留学資金用にと、私の給料のうち3万円をこっそり積み立ててくれていた上に、往復の飛行機代も出してくれました。
 パリでは300年もの歴史を持つ三ツ星レストラン「グラン・ヴェフール」の屋根裏部屋に住み、修業を積みました。毎日、朝の5時半からマルシェ(市場)で買い出し。マルシェに並ぶたくさんの食材を眺めて、それがどんな料理になるか考えるのが楽しくてたまらなかったのです。勤務は夜の12時まで。店が休みとなる夏の2カ月間は、自分で探したニースやプロバンスのレストランで働きました。
 4年後、日本に帰国し、銀座のレカンで勤務。パリ帰りということでいいポジションをもらえましたが、「六本木のスパゴが、カリフォルニアで働く日本人シェフを探している」と聞いて、真っ先に手を挙げました。

運命の出会いから
一躍人気店へ

初めてオーナーシェフとなってシルバーレイク
で開いた店の前で

 ロサンゼルスに来たのは1984年。最初は「スパゴ」で働き始め、ラインシェフを任されました。7カ月後に「シノワ・オン・メイン」へ。「30前には自分の店を持ちたい」という夢を実現するため、3年ほど働いて独立に踏み切りました。実際には30歳を過ぎていましたが、貯金もでき、いい場所が見つかったなど、好条件が揃ったからです。
 店の名前は最初から「カフェ・ブラン」です。白いカフェという意味のこの言葉には、たとえ予約帳が真っ白でもやっていこう、色の基本である白を自分色に染めようと2つの意味を込めています。
 シルバーレイクに開店したのですが、肝心のお客さんはさっぱり。ある日の午後、店の扉をノックするアメリカ人女性がいました。ランチ終了後だったので、あるもので作って出しました。満足して代金を払おうとする彼女に「ランチメニューではないから」と断りました。後日、彼女は夫と友人の4人でディナーを食べに来てくれました。
 ある日の11時頃、外で大勢の人が騒いでいます。「何だろう」と思っていると、店の開店時間の11時半になるや否や、その群集が店内になだれこんできました。30席しかない店内はあっという間にいっぱいになり、全員をさばき切ったのは午後4時半でした。その日のロサンゼルス・タイムズ紙とヘラルド・エグザミナー紙のレストランコラムで、店が紹介されていたらしいのです。新聞の紹介記事の執筆者は、ディナーに来てくれたあの彼女のご主人と友人の1人でした。
 それ以来、客足が途絶えることのなかったお店ですが、残念ながらリース更新ができず、店を閉めざるを得ませんでした。次にビバリーヒルズに開いた店は「ヌーボーカフェブラン」。後に「カフェ・ブラン」という名前に戻して、その地で11年営業しましたが、こちらもリース更新ができず、閉店しました。

フランス料理の基本
スウィーツ専門店を開店

 最初、オレンジ・カウンティーで店を開けようとは考えていませんでしたが、「ケーキ屋ならある」と紹介されたのが現在の「カフェ・ブラン」の場所です。実はフランス料理は、計量、温度、手順と必要な要素が含まれているお菓子作りから入ります。基本に戻って自分を見直すいい機会だと、スウィーツ専門店をやってみようと決意しました。今年の9月に1周年を迎え、私自身来年50の大台に乗るのですが、いつも「いろんな人に助けられて生きているな」と実感します。
 シェフやパティシエに大切なことは、何はともあれ健康であることです。そして調理以外のことにも興味を持つこと。そこで得たアイデアが、思いがけないところで役立つのです。私自身は美術館や博物館に通って、見聞を広めました。修業をしてみたいレストランがあるなら、レジュメを出すより、毎日でも通って強い意思と熱意を相手にわかってもらうことが大切でしょう。そして「自分の店を持ちたい」という目標があるならば、自分に自信をつけることが大切です。自信を持って一生懸命にやっていれば、ビジネスは後からついてきます。いずれ、このオレンジ・カウンティーで、レストランをやりたいですね。
 
(2006年11月16日号掲載)

「アメリカで働く(多様な職業のインタビュー集)」のコンテンツ