観光コンサルタント(サービス・サポート系):恵子・ギャリソンさん

ライトハウス電子版アプリ、始めました

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は観光コンサルタントの恵子・ギャリソンさんをご紹介。看護婦になる夢を、病気のために断念。方向性を失い模索を続ける中で見つけたのが観光の仕事だった。21年間勤務したロサンゼルス観光局を退職後、フリーの観光コンサルタントとして活躍中。

【プロフィール】けいこ・ぎゃりそん■神戸市出身。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に留学。77年に再渡米し結婚。82年、ロサンゼルス観光局入社。96年、同局アジアマーケット担当ディレクターに就任。03年、同局を退社。現在はThe Garrison Groupを設立し、観光とその周辺ビジネスのコンサルティングを中心に、活躍の場を広げている。

そもそもアメリカで働くには?

病気で看護婦を断念。模索していた20代

観光の仕事はまさに天職。LA観光局の上司たちと

 子供の頃から人助けになるような仕事がしたいと思い、看護婦になるのが夢でした。アフリカでシュバイツァー博士の下で働けるようになりたいと思っていたので、アメリカで看護の勉強をしたかったのですが、両親に反対されていました。ところが高校生の時に、私は甲状腺ガンになって大手術を受けたのです。私の余命が短いと思った両親が、「あと何年も生きられないなら好きなことをさせてやろう」とアメリカ留学のOKを出してくれました。
 
 カリフォルニア州立大学ロングビーチ校で看護の勉強を始めましたが、手術の影響で右腕の神経に支障をきたし、看護婦になる夢は諦めなければならなくなりました。その後、いったんは帰国したのですが、日本に帰っても何をしていいのかわからないという状態。東京に行ったりニューヨークで美容学校に行ったりといろいろなことにトライし、それでもしたいことが見つからずに混沌とした日々を過ごしました。そこで大学が中途半端になっていたこともあり、とりあえず大学を卒業しようと再渡米したのが1977年のことです。
 
 この渡米で以前に大学で知り合った主人と再会して結婚しました。でも結婚後も夜はずっと大学に通っていて、振り返ってみれば私の20代はやりたいことを模索しているような状態でした。
 
 そのうち日系の銀行に就職したのですが、同じビルに入っていたのがロサンゼルス観光局でした。私は昔から旅行パンフレットを見るのが好きで、休み時間によく観光局に行ってパンフレットなどを見ていました。当時はロサンゼルスオリンピックの前で、世界中から若者がロサンゼルスに来ているような時だったので、「こんな仕事ができれば」と思っていました。

いまわの際に父が無言で「仕事に戻れ」

03年に横浜で開催されたJATA世界旅行博の
LAブースにて

 そのうち子供ができて、私は子育てに専念するために仕事を辞めました。両親に「子供ができたら仕事を辞めろ」と言われていたのですね。ところが家でじっとしているのは私には合いませんでした。どんどん痩せてしまって、子供を連れて日本に里帰りした際に両親が驚くほどでした。それで「お前は仕事をした方がいい」と反対に仕事するのを奨励されたのです。さっそくロサンゼルスに戻って日曜版の求人広告に眼を通したら、ロサンゼルス観光局で日英両語できるトラベルカウンセラー募集、というのを見つけ、「これだ!」と思いました。
 
 面接は計4回ありましたが、必死でした。後で聞かされた話ですが、本当は他の人に決まっていたそうです。ところが私があまり必死で頼み込んだので、「かわいそうだから」私に決まったとのことでした。
 
 82年に入社し、すぐに日本のトレードショーに出張させてもらいました。日本で学生の卒業旅行が流行っていた頃で、仕事がすごく楽しかった。ビジターセンターを訪ねてきた若い人たちと一緒にランチを食べながら夢を語り合い、なんていい仕事なのだろう、としみじみ思ったものです。
 
 84年、父がガンになり、上司が快く帰国を許可してくれたので、1カ月半日本に帰りました。その時に父が言ったのです。「恩返しのためにも、できるだけ長く働きなさい」。いったんこちらに戻ってきて1カ月後に今度は危篤の報せが届きました。帰国した時には父はもうしゃべれない状態でしたが、私の顔を見るなり手を振って追いやるような仕草をしました。父は「仕事に戻れ」と言っているのだとわかりました。父が他界したのはロサンゼルスに戻る飛行機に乗っている最中でした。私が仕事に戻ったのを確認して安心したのだと思います。それで私は父の言いつけ通り、少なくとも息子が高校を卒業するまでは仕事を続けようと決心しました。

夢を持っている人のお手伝いができれば

 96年にはアジアマーケット担当ディレクターになり、ロサンゼルス市長のアジア訪問に同行したりしました。ところが9・11以降、ロサンゼルスの観光業はどこもかしこもレイオフだらけになり、旅行という本来の仕事を忘れてしまったようでした。私がやりたいことと違うようになってしまった、と思っていた矢先の一昨年の6月、世話になった社長のジョージ・カークランドがガンで他界しました。それで私も21年もお世話になったからそろそろ卒業かな、という気がして、その月観光局を離れました。
 
 その後、1年間、東京都産業労働局観光部のロサンゼルス担当として、東京都に観光客を誘致するための企画を推進。現在はフリーでロサンゼルス、ビバリーヒルズ、サンタモニカなど各観光局のお手伝いをしています。
 
 観光は夢を売る仕事なので、夢を持っている人のお手伝いができれば、というのが私の願いです。観光の仕事というのは学校では学べないものが多くあります。これまで時間をかけて培ってきた人脈や経験を無駄にしないように、ロサンゼルス観光局ではできなかったことを、私なりに悔いのないようにやり遂げたいと思っています。
 
 また結局卒業しないままになっていた大学にも戻るつもりです。パブリックリレーションやコミュニケーションなどを勉強したいし、大学院も行きたい。私は120歳まで生きるつもりなので、生涯現役でありたいと思っています。
 
(2005年4月1日号掲載)

「アメリカで働く(多様な職業のインタビュー集)」のコンテンツ