日系社会のニュースを大事にしつつ
新しい視聴者層の拡大を
UTBの『モーニング・クリック』でメインキャスターを務める岡野さんを紹介。NHK朝の連続テレビ小説の主人公に抜擢され、俳優として活躍。一念発起して渡米し、今やUTBの顔として定着している。
そもそもアメリカで働くには?
- アメリカで働くためには、原則として合法的に就労可能な「ビザ」が必要になります。
アメリカ・ビザの種類と基礎知識 - 日本から渡米してアメリカで働く方法として、18ヶ月の長期インターンシップも選択肢の1つ。
アメリカでワーキングホリデーのように働く!「J-1ビザインターンシップ」徹底解説
「アメリカで生きたい」
人脈を活かして渡米
日本にいる間、俳優をやっていたんですよ。1985年にNHKの朝の連続テレビ小説の主人公に抜擢されまして、その後も順調に俳優の仕事を続けていました。そんななか、自分が影響を受けた映画や舞台が海外、特にアメリカのものだったんですね。それで、どうしても演劇の本場・ニューヨークで勉強してみたいと思いました。
たまたまその時に、文化庁の在外研修員というシステムがあったんです。同期生に現在ロサンゼルスで活躍なさっている映画監督の鈴木じゅんいちさんもいまして、それでニューヨークで初めてのアメリカ生活が始まりました。90年のことでした。
演劇学校で1年半、トレーニングを続けたら、アメリカが自分にすごく合っていたんでしょうね。たちまちとりこになって、住み続けたいと思いました。ただ、その時は、永住権が取れなかったということもあり、泣く泣く日本に帰りました。人生は、その時その時に障害やチャンスがあります。その当時は、自分の人生がアメリカとうまく交差しなかったんですね。でも、「アメリカで生きたい」という思いがずっと自分の中にあったので、機会を見て、絶対行こうと思っていました。
再渡米のきっかけになったのは、ニューヨーク時代のスタジオにいた、当時小道具係の人が、演劇教育機関の総合ディレクターになったこと。日本の演技教育に関する情報交換をしたいということで、僕が招かれたんです。大したお金にならないし、家族ももうおりましたので、それで生活していくのは難しいと思ったんですが、なんとかこれをチャンスにしたいと思いました。それが2002年のことで、最初に渡米したいと思ってからは、相当な時間が経っていました。
ロサンゼルスに渡って、自分のキャリアを活かせる仕事といったらメディア関係しかなかったものですから、日系のテレビ会社に紹介で入って、番組の構成台本を書いたり、インターンみたいなことをやっていました。
帰国寸前に決まった
UTBへの就職
たまたま家の近所に回転寿司屋がオープンしまして、そこにアルバイトに行ったんです。そうしたら、1週間くらいでチーフシェフが辞めてしまって、僕がチーフに(笑)。僕の日本での俳優活動を知っているお客さんもけっこういらしたので、「なんであなたがこんな所で寿司握ってるの?」なんて話になることも多かったです。
それまで日本で20年近く俳優をやっていましたが、何の保障もない中で生きないといけなかった。日本俳優協会に登録している俳優って4万人くらいいるらしいんですが、その中で俳優業だけで家族を養っていける人って600人もいないんです。その時に比べたら、今は好きな街で、青い空の下で、一生懸命生きられると、開き直れたんです。アメリカにいたら、自分が今まで築き上げてきたプライドとか関係ない訳ですよ。
ですが、ビザも失効間際で、家族がいるのに不安定な暮らしをこのまま続けるのは難しい。僕はロサンゼルスに住む運命ではないのかもと、帰国準備を始めていた折に、いろんな人からUTBをすすめられました。でも、以前に他社でビザサポートをしてもらえなかったのが非常に辛かったこともあり、在米日系メディアに対して失望感がありました。
家財道具も売りさばいて、いよいよ帰国という時に、ある人に「岡野さんくらいの人が、くすぶったまま帰るのはもったいない」と言われました。しばらくして、「今からUTBのゼネラルマネージャーに会ってください。段取りはすべて組んであるので」と、突然言われ、それがロサンゼルス滞在最後の日でした。ゼネラルマネージャーも、すぐにサンフランシスコへ出張というギリギリの状況で面接をして、即採用していただきました。
オーバーリアクションを
楽しんでいただきたい
今は、『モーニング・クリック』という番組のメインキャスターをやっています。日系のメディアはどこもそうなんですが、日本とは比較にならない基盤の中でやっているので、僕自身、カメラも回しますし、編集もします。ただ、日本の番組に追い付くことだけを目的にしてしまうと、どうしても予算の問題が出てきますよね。予算内でどう手作りの魅力で親しんでもらうか、楽しんでもらえるかっていうところで、今は仕事をしています。ある種、日系社会独特の番組上の泥くささというのは、あえて残していくつもりでやっています。
僕のアナウンサーでの師匠は、(元UTBメインキャスターの)尼野さん。1年間ピッタリ付いて、原稿の読み方から、毎日、稽古してもらいました。俳優業では、自然に人が喋っている状況を、どう演出するかに注意していました。そういう風に自分を訓練していたので、アナウンサーとして話せるよう再トレーニングするのが大変でしたよ。俳優の時は、役の心情を表現するのが仕事だったのですが、今は原稿を表現しないといけない。
視聴者からは、たまに「はしゃぎ過ぎ」というお叱りのメールが来るんですよ。ただ、日系3世、4世の方で、日本語がわからなくても番組を楽しんでいる方がいらっしゃいます。そういう方は、僕のオーバーリアクションを楽しんでくれているんですね。そういう人のことも考えながら努力しているので、そのあたりはご容赦いただきたいです(苦笑)。
今後は、心から尊敬する尼野さんの意思を受け継ぎ、日系社会のニュースを大事にしつつも、若い世代の新しい視聴者層の拡大を考えています。
メディアの仕事はインターンから始まることが多いと思うのですが、在米日系メディアなら日本の制作会社に入るより、ある意味、いきなり大きな仕事を任せてもらえると思います。日本ではなかなかお会いできない方にも、ロサンゼルスでならお会いできたりしますので、それも魅力ですね。個人の資質をどんどんアピールすれば、いろんな仕事ができると思います。
(2007年7月1日号掲載)