日系人が人種差別と闘ったのはキング牧師が公民権運動を展開する20年以上も前のことだ。今では「移民のモデル」と呼ばれる日系人も戦前は公然と法的差別を受けていた。日本軍によるパールハーバー攻撃が排日運動に拍車をかけたのは言うまでもない。終戦60周年を迎えて今回は第2次世界大戦下にあって逆境にも屈せずに立ち上がった日系人の勇気を紹介したい。
日米開戦の衝撃
パールハーバー攻撃で排日感情が沸騰
日本軍が当時米国領だったハワイ(州昇格は1959年)、オアフ島の米海軍基地パールハーバーを攻撃したのは、1941年現地時間12月7日の朝だ。第1波攻撃は7時55分から8時25分。ホノルルに住む多くの日系人が、爆音とともにパールハーバーから黒煙が上がるのを目撃した。だがこの時点で、それが日本軍による攻撃だと認識した人は少ない。第2波がホノルル上空を低空飛行した時、その機体に日の丸を見つけて愕然とする。「人生が終わったと思いました。なぜならパイロットは、私と同じような顔をしていたからです」とダニエル・イノウエ連邦上院議員(ハワイ州選出)は語っている。
パールハーバー攻撃の第1報は瞬く間に全米に流れ、カリフォルニアにもほぼ直後に速報が届いた。サンペドロのロサンゼルス湾にあるターミナルアイランドは、当時3千人余りの日系人が住むいわゆる「日本人漁村」を形成していた。だが島の東半分が海軍基地だったため、開戦直後に米兵に包囲される。「アメリカの国益にとって危険と見なされる敵性外国人」として、主だった日系人がただちに検挙された。だがこれは、開戦がもたらした悲劇のほんの序章に過ぎなかった。
翌日より、新聞には「ジャップ」という蔑称が、連日1面トップを飾るようになる。リトルトーキョーでは日系の銀行、商店が閉鎖され、ハワイや西海岸一帯でFBIによる日系人の一斉検挙が行われた。ターゲットは日系団体の指導者、宗教関係者、新聞記者などだったが、「父は農民だったのに、日本語学校に関係があるというだけで拘禁されました」(元442部隊のテツオ・アサトさん)という例は後を絶たない。
排日目的の法律で公然と人種差別
開戦4日目には1291人が検挙され、日系人を狙った傷害事件も多発した。他のアジア系移民は、日系人と間違えられないように「中国系アメリカ人」などと書いた大きなバッジを胸につけた。
年が明けると、FBIはさらに検挙の輪を広げる。逮捕容疑はすべて「危険人物」という漠然としたものだ。南カリフォルニアからは、多くがタハンガ刑務所に拘置された後、ニューメキシコ州のサンタフェ拘留所に連行された。
だが日系人への差別は、開戦で初めて芽生えたものではなく、それ以前より根付いていた。当時、日系1世は法律で禁じられていたため市民権を持てなかった。1873年に改定された移民帰化法は、「白人およびアフリカ生まれとその子孫」が対象で、アジア系移民は含まれていない。
1913年制定の外国人土地法は、市民権を持たない外国人の土地所有を禁じた。「市民権を持たない外国人」とは、アジア系移民に他ならない。日系一世の多くが農業に従事し、頭角を現していた矢先だっただけに、この法律は日系社会に大打撃を与えた。出生によるアメリカ市民の2世も、大学を卒業しても能力に見合った職はなかった。日本軍の満州や東南アジア侵攻が、排日運動に拍車をかけた。元100大隊のマサオ・タカハシさんは、「兄はパールハーバー攻撃の前年、米軍へ志願しましたが、入隊を拒否されました」と証言している。
日系人強制収容所
全財産を売り払い荒野の収容所へ
1942年2月、ルーズベルト大統領は、大統領命令9066号に署名した。裁判や公聴会なしに、特定地域から日系人を排除する権限を陸軍に与えたのだ。1週間後にはターミナルアイランドの日系人に、48時間以内の退去が命ぜられた。人々は家具・調度品などを二束三文で処分し、行くあてのない人はリトルトーキョーの寺や空き地で野宿した。これ以降、日系人排斥のための法案が、着々と法制化されていった。
3月2日、ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州の西半分とアリゾナ州南部が第1軍事地域に指定され、同月23日、シアトルのベインブリッジに住む日本人家族230人に対して、強制立ち退き令第1号が発令された。対象は「日本人の祖先を持つ外国人および非外国人」。彼らがマンザナー収容所の最初の入所者だ。
立ち退き令後、最初に集められたのは、全米16カ所に仮設されたアセンブリーセンターだ。ここは収容所ができるまでの一時集合場所で、主に競馬場が使用され、ロサンゼルス界隈はサンタアニタ競馬場だった。その後、全米10カ所に仮設された強制収容所へと転送された。日系人の立ち退きは夏までにほぼ完了し、総数は12万人以上に上った。
強制収容所の公式名称は「戦時転住所」だ。1万人が収容されたマンザナーは、ロサンゼルスの北東、デスバレーの西に位置し、砂漠のど真ん中にある。砂嵐が吹き荒れ、夏には多くの人が砂漠熱で倒れた。鉄条網で囲まれた1平方マイルに住居用バラックと、共同の食堂、洗濯場、トイレなどがあった。住居用バラックは4部屋に仕切られ、たいてい1部屋に1家族が入居した。
部屋には軍用ベッド以外に家具もなかったが、人々はバラックの周りに花壇や池を作ったりして少しずつ環境を整えた。公会堂が建つと演芸会などを催したりして、収容所内の生活向上に努め、英語や裁縫、工芸などのクラスも開催された。食堂や病院、学校などには外部から専門家が派遣されたが、次第に日系人専門家もそれらの施設で働くようになり、それ以外にも多くが収容所内の各分野で仕事に就いた。仕事をすると一般職で1人月16ドル(プラス本人と扶養家族分の被服料)、専門職では月19ドル支給された。
立ち退きにより多大な財産を失った一世が少なくなかった一方、渡米以来、日系人というだけでまともな仕事に就けず、毎日の生活に追われて働き詰めだった日系人一世の中には、収容所に入って初めて習い事をしたという人もいたようだ。
踏み絵となった忠誠登録 日米の選択を迫られる
収容された日系人のうち6割以上が二世だった。彼らは日系人であるというだけで、市民であるにもかかわらず4C(敵性外国人)の烙印を押された。自分が知る国は、アメリカしかなかったという二世は多い。収容所の中で、そんな2世と1世の間で確執が生まれた。一世は、開戦まで天皇陛下の御真影を奉っていた世代。終戦になっても、日本の敗戦を信じなかった人もいたという。さらに日本で教育を受けた一部の帰米二世(※)が、一世と同様の立場をとって対立した。いくつかの収容所では、対立から暴動が発生し、死者も出ている。
収容所をさらに真っ二つに分けたのが、「忠誠登録」だ。43年2月、政府は日系人の忠誠心を調べる質問状を送り始めた。質問の中で問題になったのが、「Q27:米軍の命令であれば、戦地の場所に関わらず兵役につく意思がありますか」「Q28:米国に無条件の忠誠を誓い、(中略)日本国天皇およびいかなる外国政府や勢力に対する忠誠や服従を否定することを誓いますか」の2点だった。
アメリカ市民になれない一世は、2つの質問に「イエス」「イエス」と答えると、日本へも背を向け、アメリカでも外国人という無国籍の状態になる。長い人種差別の挙げ句に強制収容された彼らには、「なぜこんな仕打ちをする国に息子の命を託せられるのか」という思いもあった。二世にすれば、市民なのに改めて忠誠を強制されることに深い屈辱を覚えた。忠誠登録は家族をも対立させ、収容所内の混乱をよりかきたてた。前記の問いに「ノー」「ノー」と答えた人は、ツールレーク収容所へ転送され、そこから日本に帰国した人も多い。
忠誠登録の直前に、マンザナー収容所からMIS(陸軍情報局)へ志願したジョージ・フジモリさんは、「反対勢力を刺激しないために、夜こっそりと旅立った」と語った。収容所内の緊張を如実に物語っている。
※帰米二世:アメリカ生まれだが、子供のころに日本に渡り、日本で教育を受けて帰国した人のこと。通常、親はアメリカに残り、子供たちは日本の親戚に預けられた。一世は市民権を持たなかったので、成功したら日本に帰るつもりだった人が少なくない。また偏見のあるアメリカ社会で、子供たちの将来を危惧した日系人も多い。
【元入所者の証言】
馬小屋から収容所へ:宇津見きくよさん(93歳)
立ち退きになって、買ったばかりの車を従業員のメキシコ人に売ってもらったのですが、ちゃんとお金をアセンブリーセンターのあるサンタアニタまで持って来てくれただけでなく、収容所から出た後は、預けていた家財道具もすべて返してくれました。外国人土地法で不動産は買えなかったので、家は所有していませんでした。
サンタアニタ競馬場では、駐車場に仮設バラックもありましたが、私たちのような6人家族(子供4人)は馬小屋だったんです。そこに半年ほどいた後、列車に1週間揺られて、アーカンソー州のローワー収容所へ移されました。たいてい同じ地域が同じバラックに入り知人も多かったのですが、一世と二世で揉めたりなど、各ブロックで何がしの騒動がありました。
アダルトスクールでは裁縫を習いました。雑貨店もオープンし、許可を取れば収容所の外に買い物に行くこともできましたが、私はよく通信販売の「シアーズカタログ」でオーダーしました。収容所からロサンゼルスへ戻る時、買った中古車が毎日のように故障したのが1番つらかったですね。
偏見の壁を乗り越えた戦後
米軍史上最多の勲章 命で勝ち取った権利
終戦の翌年7月15日、第442連隊はホワイトハウスで、トルーマン大統領から第7回目の大統領感謝状を授与された。この時、大統領は「諸君は敵だけでなく偏見とも闘い、勝ったのだ」とスピーチした。数ある帰還部隊の中で、大統領から直々に受勲されたのは日系人部隊だけだった。
戦後、JACLの二世リーダーたちが最優先課題として着手したのが、親にアメリカ市民権を与えるための移民帰化法の改定だった。反対派の政治家を説得する材料としてたびたび持ち出したのが、テキサス兵救出の戦功だった。二世たちが親の権利を勝ち取るまでに7年かかった。
2度と強制収容が行われないための緊急拘禁法撤廃案を提出したのは、トリプルVで志願したダニエル・イノウエ上院議員だ。イノウエ議員は終戦2週間前に右腕を負傷して切断したため、医者になる夢を捨ててロースクールに進み、政治家になった。
イノウエ議員が下院議員として、首都ワシントンの議事堂に初登庁した日のこと。列席した議員たちは日系人初の議員の宣誓を、息を潜めて見ていた。下院議長が言った。「右手を挙手して宣誓の言葉を続けてください」。彼が挙げたのは左手だった。「右手がなかったのである。第二次世界大戦で、若き米兵として戦場で失くしたのだ。その瞬間、議会内に漂っていた偏見が消え去ったのは、誰の目にも明らかであった」と議事録に記録がある。
88年、レーガン大統領が強制収容における政府の過ちを認め、正式謝罪をした。原動力となったのは、日系人初の市長としてサンノゼで選出され、アジア系初の閣僚としてクリントン、ブッシュと2人の大統領の下で閣僚入りを果たしたノーマン・ミネタ現運輸長官だ。
日系人部隊はアメリカ戦史上一部隊として最も多くの死傷者を出し、最も多くの勲章に輝いた(個人勲章1万8043個)が、最高勲章を授かったのはサダオ・ムネモリ1等兵1人だけだった。それが人種差別だったと認められたのは、戦後55年を経た2000年のこと。イノウエ議員を含む20名の元日系人兵士に、クリントン大統領から最高勲章が叙勲された。
民族と国家の狭間で苦難に耐え、与えられた環境で最善を尽くした先達の軌跡。彼らの勇気ある行動が、今ある日系人の地位を確立したと言っても過言ではない。人種のいかんに関わらず2度とこのような悲劇を起こさないためにも、彼らの闘いの記録は、私たちの手で後世にきちんと伝承していきたい。
日系人の戦いの歴史
1800年代後半 日本人移民の渡米が始まる。多くの日本人がハワイと本土西海岸に定住
1913年 カリフォルニア州外国人土地法が制定。ただし3年までのリースはOK
1920年 カリフォルニア州外国人土地法改定で、土地のリースも禁止に
1924年 クーリッジ大統領が移民法に署名。日本からの移民が事実上停止に
1941年11月 MIS(陸軍情報局)日本語語学学校が極秘で開校
12月 日本軍がパールハーバーを攻撃。FBIによる日系人リーダーの検挙が始まる
1942年1月 徴兵サービスが日系人を4C(敵性外国人)扱いに
2月19日 ルーズベルト大統領が大統領命令第9066号に署名
2月26日 海軍がターミナルアイランドの日系人に、48時間以内の立ち退き命令
5月 MIS語学学校の最初の卒業生たちが、アリューシャン列島と南太平洋戦線へ
6月5日 第100大隊1432名が極秘でホノルル出航。ウィスコンシン州の訓練場へ
夏頃日系人の立ち退きがほぼ完了。全米10カ所に仮設された強制収容所へ
1943年2月 ルーズベルト大統領が第442連隊編成を発表。志願兵の募集開始
収容所内の日系人に対する「忠誠登録」開始
9月 第100大隊がイタリアのサレルノ上陸
1944年1月 日系二世の徴兵始まる
1月24日 カッシーノの戦い開始
3月26日 第100大隊アンツィオ上陸
5月1日 第442連隊がヨーロッパ戦線参戦のため出発
6月26日 第100大隊が第442連隊に組み込まれ、ベルベデーレの戦いへ
9月30日 第442連隊がフランス戦線へ
10月19日- 20日 ブリエアを解放
10月27日- 30日 「失われた大隊」救出
12月 強制収容所からの帰宅許可が出る
1945年5月 ヨーロッパ戦線終結
8月 太平洋戦線終結
1946年7月 トルーマン大統領が第442連隊に大統領感謝状を授与
1952年6月 移民帰化法改定。一世が市民権取得の権利を獲得
1988年8月 レーガン大統領が強制収容に対して正式謝罪。賠償法が成立し、生存する被収容者各人に対し2万ドルの補償と、125万ドルの教育基金が実現
2000年6月 クリントン大統領が20人の元日系兵に「55年遅れ」の最高勲章を叙勲
もっと詳しく知りたい人は
■日本語版
『ブリエアの解放者たち』ドウス昌代著(英語版は「Unlikely Liberators」by Masayo Duus)
『ヤマト魂』渡辺正清著
『真珠湾と日系人』西山千著
■英語版
「Ambassadors in Arms-The Story of Hawaii\’s 100th Battalion」by Thomas D. Murphy
「Japanese Eyes American Heart-Personal Reflections of Hawaii\’s World WarⅡ Nisei Soldiers」Complied by the Hawaii Nikkei History Editorial Board
「No Sword to Bury-Japanese American in Hawaii during World WarⅡ」by Franklin Ono
「Farewell to Manzanar」byJeanne Wakatsuki Houston&James D. Houston
「A Tradition Honor」(DVD by Go For Broke Education Foundation)
■取材協力
Go For Broke Educational Foundation (www.goforbroke.org)
Japanese American Historical Society of San Diego
(2005年8月1日号掲載)