アメリカ社会で活躍する日系人リーダー

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歴史を受け継ぎアメリカ社会で活躍する日系人リーダー

人種差別と闘いながら苦労の限りを尽くした日系一世。アメリカに忠誠であることを、戦場で命をかけて証明しなければならなかった日系二世。彼らの犠牲と努力は、戦後、日系人の社会的立場を飛躍的に押し上げた。今回は、外務省の「日系人リーダー訪日招聘プログラム」に参加した人の中から今やアメリカ社会で指導的立場にある若き日系人リーダーたちの素顔に迫った。
(2006年8月1日号掲載)

 

テリー・ハラさん/ロサンゼルス市警察警視

1957年生まれ。ロングビーチ出身の日系三世。80年、ロサンゼルス市警に就職。98年、ナショナル大学を首席で卒業。同年、日系人初の警部に任命。カリフォルニア大学ロサンゼルス校およびボストン大学にて上級管理者訓練を受ける。2004年、警視に就任し、同市警で現在までアジア系として最も高い地位を占める。05年、ロサンゼルス日系オプティミストクラブ会長。職務上の業績及び地域活動を評価され、南加日系商工会議所、ロサンゼルス統一学校区教育委員会、日米友好関係基金から表彰された。

警察と市民との架け橋を作る一方で、日本の人にもアメリカ政府への門戸を開けたい

オフィスには、市民団体や分署からの感謝状が壁いっぱい掛かっている

「多くを語らなかった母、若い世代が架け橋に」
私が生まれ育ったのはロングビーチの日系コミュニティーで、一世の祖母は同居、母方の祖母も近所に住んでいました。でも日本へ行ったのは、昨年、外務省主催の訪日招聘プログラムに参加したのが初めてです。カリフォルニア州と同じくらいの面積しかなく、しかも居住可能面積はその3割しかない土地に1億2700万人もの人が住んでいるというのに、日本人は皆、礼儀正しく、街は清潔で、物事がスムーズに流れているのに感嘆しました。あまりにも感動したので、この4月に家族を連れて再訪したほどです。この夏には、日本の高校生のホームステイ受け入れも予定しています。息子は高校で日本語クラスを取っているので、家族全員で楽しみにしています。私は三世ですが、私たちの世代よりも息子たちの世代のほうが、私たちが日系文化だと信じている独自の文化を継承しようという意識が強いと思います。
 
母は戦時中、アーカンソー州のジェローム収容所に入っていました。母にとっては、強制収容も、法律ならば従わなければならないものだったのです。典型的な日系二世で、戦時中のことは多くを語らず、子供の頃、母から戦時中の話を聞いたことはほとんどありませんでした。母は戦後、補償を受け取ったのですが、私自身が戦争における日系社会の詳しい事実を知ったのは最近のことで、ゴー・フォー・ブローク・ナショナル・エデュケーションセンター(注1)が作ったDVDを観てのことです。
 
苦い戦争体験からか、私はアメリカ社会に溶け込むように教えられて育ちました。息子の世代が私たちよりも日本に興味を示すのは、私たちのように「アメリカ社会に溶け込め」と言われることなく育ったからではないでしょうか。天皇陛下が以前、「すべての日系人は日本につながっている」とおっしゃいましたが、実に力強いお言葉だと思いました。息子たちの若い世代が、これから日本と日系社会との架け橋になっていくと思います。
 
(注1) 1986年に元日系人兵士が中心になって設立した非営利団体。ロサンゼルス・ダウンタウンに記念碑がある。

日米間のリエゾンは個人的な使命と認識

私がロサンゼルス市警に入ったのは80年で、ロングビーチ・シティーカレッジに通っていた時、スーパーで募集の張り紙を見たのがきっかけです。社会のためになる仕事に就きたかったのですね。15年間、警察官として勤務していましたが、1995年に、キャリアアップを目指してもう1度大学に行こうと決心しました。学士号を取得するのは個人的な選択でしたが、市の弁護士をしている妻に励まされたのが大きな理由です。1998年に大学を卒業すると、すぐに日系初の警部に昇進しました。大学卒業後もUCLAで公共政策における修士プログラムを勉強し、その後、市警がボストン大学に派遣してくれ、2004年には、警視に就任しました。同市警でアジア系としては最も高い地位に就いたわけですが、仕事をする上で重要なのは、自分のためではなく人のために仕事をするという姿勢だと考えています。
 
ロサンゼルス市警は多人種を抱える、全米3番目に大きな警察で、私は訓練部門で1万2千人の署員を管理しています。ポリスアカデミーには異なる部門のインストラクターが300人おり、新入生だけで350人、その他にも作戦、テロ対策、大量破壊武器対策など、正規警察官になった後も訓練は続きます。また私自身が勤めながら大学に通ったように、若い警察官たちに上級教育の機会を与えるため、それまでキャリア・デベロップメントと呼ばれていた部署を改善し、「ロサンゼルス市警大学」という部署を設立しようと計画しています。
 
訪日をきっかけにして、日系社会と日本とのリエゾンを務めるのは個人的な使命だと考えています。日本の人をポリスアカデミーに案内したり、ジャパニーズ・ステューデント・ネットワーク(JSN)の二世ウィーク参加を促したりなど、今後も警察と市民との架け橋を作る一方で、日本の人にもアメリカ政府への門戸を開けたいと思っています。
 

フランク・バックレーさん/KTLAテレビプライムニュース・アンカー

1964年生まれ。メリーランド州出身。日本人の母を持つ。87年、南カリフォルニア大学卒。パームスプリングスのKESQ-TVの朝のニュースアンカー、ノースカロライナ州のWXII-TVの週末アンカーを経て、92年、ロサンゼルスのKCALに移籍。98年、香港返還の取材でエミー賞受賞。99年、CNN特派員に。イラク戦争直後には米航空母艦に搭乗し、ペルシャ湾からレポート。2005年よりKTLAの週末アンカーに。「レポーター・オブ・ザ・イヤー」など数々の賞を受賞し、今年度のエミー賞にもノミネートされている。

訪日で日本との絆の太さを実感 日本人の母に誇りを持っている

バックレーさんの祖父が、河野洋平衆議院議長(右)の父に世話になったことから、お会いした時は胸に込み上げるものがありました」(バックレーさん)

「親心の激励に疑問、逆に日本語を敬遠」
父は海軍兵士で、横須賀に駐屯している時に、宇都宮出身の母と出会い結婚しました。私が生まれたのはメリーランド州ですが、2歳から5歳まで日本に住んでいました。その頃、自分は日本人だと思っていました。ところがある日、欧米人を見かけて「ガイジンだ!」と言う私に、親戚の人が「お前も外人だよ」と言ったのです。それで初めて、自分は日本人ではないのだと認識しました。
 
5歳でシアトルに引っ越すと、母は私が他の子供たちから差別されないようにと、「あなたは他の人と同じように素晴らしい」と言って聞かせました。ですが、「なぜそんなことを言うのだろう」と反対に母の言葉が心に引っかかり、意識的に日本語を話さなくなって、そのうち日本の祖母から電話がかかってきても話ができなくなりました。それで心を痛めたのは両親でした。そのため父は再度、日本勤務を願い入れ、9歳から3年間、再び日本で過ごしました。
 
高校生の時に、地元のラジオ局でDJをしたのがきっかけでコミュニケーションに興味を持ち、大学を卒業後、地方のテレビ局のアンカーになりました。1992年から7年間はロサンゼルスのKCALで、ノースリッジ地震、ロス暴動、O.J.シンプソン裁判など、激動のロサンゼルスに加えて、香港返還、オクラホマシティー連邦政府ビル爆破テロ、アトランタ五輪公園テロなどを報道しました。
 
1999年、CNNに移籍し、特派員として世界中を回りましたが、特に思い出深いのは2004年にトルコで開催されたNATOサミットです。ブッシュ大統領はスタッフから手渡されたメモを読むと、隣にいたブレア首相に耳打ちをして握手しました。それが何を意味するのかはわかりませんでしたが、ともかく報道を終えると、プロデューサーが「今、何が起こったかわかったか」と言うのです。そのメモは、イラクで主権委譲が行われたことを書いたメモでした。
 
歴史が変わる瞬間を目撃できるのは感動的ですが、家族との時間をもっと持ちたかったので、KTLAから誘いを受けて、昨年、移籍しました。

枠組みにはめ込むよりも自分であることに誇りを

週末アンカーを務めるKTLAのニューススタジオのセットで。「この先、10年でも20年でもKTLAでがんばりたい」(バックレーさん)

今春参加した外務省主催の訪日招聘プログラムでは、日本との絆の太さを目の当たりにしました。個人的には、河野洋平衆議院議長と河野太郎衆議院議員との会見が感動的でした。母の父は佐渡出身で、一橋大学を卒業後、同郷の山本悌二郎農林大臣の口利きで農協に就職したのですが、その時に世話になったのが、当時大臣の秘書官を務めていた河野一郎氏で、洋平氏のお父様です。太郎氏と私はそれぞれ3代目に当たります。だから、洋平氏とお会いした時は、胸に込み上げるものがありました。
 
戦時中、日系人は忠誠なアメリカ人であると証明するために必死の努力をしました。子供たちに同じ経験はさせたくないと願う一心で、日本との絆を断ち切り、その影響は次世代にも及びました。アメリカ人なのですからアメリカナイズするのは良いことです。でも、同時に自分のルーツを知り、それを誇りに思うことも大切です。
 
片親が日本人の場合、多くが自分のアイデンティティーについて悩みますが、私も以前は同様でした。でもいつしか、それは私が決めることではないのだと気づいたのです。報道の世界に入った時、「苗字を日本名に変えたら」とアドバイスされたことがあります。日本名のほうが目立つからです。母が日本人であることは誇りですし、そのことを多くの人に知ってもらいたい。努力することや決して諦めないことの重要性を教えてくれたのも母です。だからといって、無理に自分を「日系人」という枠組みにはめ込む必要もないと思うのです。今日の私があるのは父のお陰でもあり、私は「フランク・バックレー」であることに誇りを持っています。
 

ランディー・ソノ・タハラさん/イヴォンヌ・B・バーク・ロサンゼルス郡参事事務所上席補佐官

1959年生まれ。ガーデナ出身の日系三世。75年、ロサンゼルス統一学校区教育委員会より、ロサンゼルス・名古屋姉妹都市交流における学生大使に任命され、現在は理事会の一員。84年、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校卒。法律事務所に勤務するかたわら、85年、ロサンゼルス市警予備警察官に。2000年、予備警察官賞受賞。96年、イヴォンヌ・B・バーク・ロサンゼルス郡参事事務所に転職。南加日系歴史協会、日系オプティミストクラブなどにより表彰されている。

日系人として差別や不当な扱いを受けたとしても、ルーツは誇るべきものだと教えられた

「婦人警官とは話したくない、という人もいました」(タハラさん)

「日本人ではなかったと日本へ行って気づいた」
一世の祖母と一緒に暮らしていたので、幼い頃、家では主に日本語で話していました。その祖母が日舞を教えていた関係で、3歳の時から日舞を習っています。日焼けしてはいけないと言われ、外で友達と遊ぶのも制限されていたので、幼い頃は稽古が嫌いでした。8歳の時に琴、11歳で三味線、13、14の時にはお茶と活け花も始めました。ずっと日本の伝統文化に触れて育ってきたので、15歳の時、ロサンゼルスと名古屋の姉妹都市交流の一環で、学生大使として初めて日本に行った時はショックを受けました。周りの人が私のことを「外人」として接したからです。そこで初めて「私は日本人じゃなかったんだ」と気づいたんです。
 
戦時中、父は高校生で、コロラドの収容所に入っていたそうですが、収容所のことも、友達との楽しかった思い出しか聞いたことがありません。母は帰米(注1)で、戦時中は祖母とともに日本にいたのですが、日本ではアメリカから来たということで、反対に子供たちにいじめられて辛い思いをしたそうです。両親とも、日米両サイドで不幸な環境にいたのですね。母も祖母も、自分のルーツを忘れてはいけない、祖先がどこから来たかに関係なく、たとえ差別や不公平な扱いを受けたりしても、自分のルーツは恥ずべきことではなく誇るものだと教えてくれました。
 
両親は私が3歳の時に離婚し、14歳の時に母が他界しました。翌年、祖母が脳卒中で倒れたため、日舞の先生方に内弟子として入ったり、父と暮らしたりしていましたが、高校を卒業すると同時に兄と2人で独立しました。18歳の時、日本の親戚が心配して結婚話を持ちかけてきたこともありました。でも会ったこともない人と結婚するなんて考えられなかったので、奨学金やアルバイトをしながら大学に通いました。自立しなければならない環境にいたため、教育が重要だと考えたのです。
 
弁護士になりたくて、大学では政治について勉強し、ロースクールに入るための試験を受けたのですが、成績は中位で、トップクラスのロースクールには手が届きません。もう1度勉強して試験を受け直そうかと考えていた時、ロサンゼルス市警の予備警察官になる機会を得ました。日舞のために幼い頃から運動を制限されていたため、反対に肉体的なことにあこがれていたのですね。通常のポリスアカデミーは4カ月ですが、予備警察官用は夜のクラスのため9カ月かかります。それまで体力の限界に挑戦するようなことがなかったので、キツかったけれど楽しい9カ月間でした。
 
(注1)アメリカで生まれた後、日本で教育を受けて戻ってきた二世のこと。

3歳から稽古を続けている日舞は、17歳で名取に。「将来は師範の資格を取って教えたい」(タハラさん)

師範の資格を取って日舞を伝承したい

大学生の時からアルバイトで働いていた法律事務所で、卒業後はパラリーガルの仕事をしながら、週末はロサンゼルス市のセントラル署でパトロールに従事しました。セントラル署の管轄はスキッドロウ(ドヤ街)があるため危険ですが、リトルトーキョーも含まれているので志願しました。当時はまだ婦人警察官が少なく、しかも日系というマイノリティーで、体格も小柄ですから、自分の能力を証明するには人よりも時間がかかりました。予備警察官は今も続けており、現在は署内で勤務しています。
 
ロサンゼルス・カウンティー参事のイヴォンヌ・B・バークは、元々私が勤務していた法律事務所のパートナーで、14年前、政界に進出しました。私には警察での経験があるため、当選後、彼女の事務所へお誘いを受けたのですが、仕事が充実していたので、一旦はお断りしたのです。でもその後も毎年のように声をかけてくれたため、10年前に転職しました。
 
公職に関わるのは初めての経験ですが、カウンティーレベルの仕事というのは、人々の生活の向上に直結した問題に、毎日のように取り組むことができるので、実りある仕事だと実感しています。
 
日舞は17歳で、三味線と長唄は22歳で名取を襲名しました。今までは時間的な問題などで、とても人に教えるほどの責任は担えないと思っていました。でもアメリカで日舞という芸術を伝承するためにも、将来的には日舞の師範をとって、教えることにも携わりたいと思っています。
 

マーク・ウエダさん/カリフォルニア州政府企業局局長首席補佐官

1970年生。フラトン出身の日系三世。92年、ジョージタウン大学を次席で卒業。95年、デューク大学ロースクールで法学博士号取得。オメルベニー・アンド・マイヤーズ法律事務所の弁護士として頭角を現し、2004年3月、シュワルツェネッガー知事の任命により、サクラメント所在の企業局局長主席顧問として勤務。南加日系法律家協会の副理事を務める他、ロサンゼルス法律家協会のビジネス・企業法部門の執行委員を務める。

日系人であるということは人種の問題ではなく心のあり方

思い出話として聞いた家族の戦争体験
父は二世、母は三世で、オレンジ・カウンティーのフラトンで生まれ育ちました。近所には日系人家庭が多く、学校には駐在員の子弟もいました。土曜日には仏教会の日本語クラスに通い、バスケットボールや野球などを通じてできた友人には多くの日系人がいました。
 
子供の頃、家族でスキー旅行に行く道中、ビショップのあたりで両親が指差して、「これがマンザナー収容所だよ」と教えてくれたことがありますが、当時は何もない荒野で、私も子供だったのでよく記憶に残っていません。父はハワイにいたので、戦時中、強制収容されませんでしたが、母や母方の親戚はアーカンソーのローワー収容所に入っていました。祖父は戦前、作物を農場から市場へ運ぶトラックの運転手だったので、収容所では救急車の運転手として働いていたそうです。
 
収容所に入る前に、アセンブリーセンター(注1)として使用されていたサンタアニータ競馬場では、家族は馬小屋に入れられ、悪臭がひどかった話などを聞いた覚えがあります。他に、アーカンソーでは米作りが盛んだった話や、徴兵テストで現地の人が名前を書けなかったため、名前の欄にバツ印をつけた話などですね。母の弟はMIS(注2)として占領下の日本に駐屯し、父の兄は第442連隊の一員としてヨーロッパ戦に出兵していたそうですが、親戚の話の中に政治色は一切なかったため、普通の思い出話を聞いているような感じでした。
 
1987年、憲法制定200周年の年のことです。私は高校生でしたが、ワシントンDCで議会について勉強する機会がありました。ちょうどHR442案(注3)が決議されようとしていた時だったので、私はこの法案について調べました。ロースクールの憲法のクラスでは、コレマツ裁判(注4)について勉強しました。それぞれ日系人に関わる題材を選んだのは、やはり個人的に興味があったからです。
 
法律については、ずっと興味を持っていました。新しい法律によって、経済やビジネスが左右されるということに興味を駆り立てられたのです。それで議会の勉強をしたいと思い、大学時代にはクリス・コックス議員の事務所でインターンをしました。議事堂で3年間勤めましたが、楽しかったですね。
 
(注1)収容所が完成するまでの間使用された一時転住所。多くが競馬場などに仮設された。
 
(注2)Military Intelligence Serviceの略。陸軍情報機関。1941年11月にMIS日本語学校が設立され、3千人以上の卒業生を出した。その多くが日系人の二世で、太平洋戦線などで通信傍受や日本人捕虜の尋問などを担当。戦後は占領軍の通訳などで日本に駐屯した。1946年5月に閉鎖。機密扱いであったため、国防省が機密文書を公開した70年代まで、その存在は知られていなかった。
 
(注3)戦時中の日系人収容に関する謝罪と補償に関する法案。HR442案は、日系部隊の第442連隊を記念して名づけられた。1988年にレーガン大統領が署名。「1988年の市民自由法」として知られている。
 
(注4)立ち退き令を拒否して逮捕された日系二世のフレッド・コレマツ氏が、立ち退き令の違憲性を訴えて起こした裁判。1946年、連邦最高裁はコレマツ氏の訴えを却下したが、1984年、連邦地方裁判所は同氏への有罪判決を無効にした。これにより立ち退き令の違憲性が認められ、これ以降、戦時中に出された同様の有罪判決が立て続けに無効となった。

祖先は日本から来たが故郷はカリフォルニア

「私のインスピレーションになったのは、デューク大学バスケットボールチームのコーチ、マイク・シュシャスキー氏です。彼は名コーチであると同時に、すばらしい教育者で、ゴールを達成するにはリーダーシップだけでなく、チームワークも重要だと教えてくれました」(ウエダさん)

ロースクールを卒業後、カリフォルニアに戻り、オメルベニー・アンド・マイヤーズ法律事務所で仕事を始めました。同法律事務所は、クリントン政権で国務長官を務めたウォーレン・クリストファーなどを輩出した、行政とのパイプが太い事務所なのですが、前デービス知事がリコールされた時は、まさか本当にリコールが成立すると思っていなかったので驚きました。私たちはその時、カリフォルニアを立て直し、再び住み良い場所にするチャンスだと考えました。そういう方向性の中で、シュワルツェネッガー知事に企業局局長の主席顧問に任命されました。
 
州内のインフラは、人口2500万人を想定して整備されたものですが、カリフォルニアの人口は現在すでに3600万人で、さらに増え続けています。そのため知事は渋滞を改善するためのインフラ整備、水道や堤防の整備、教育問題など、州政府の一環としてビジネスや個人に関わる問題を手がけたいと考えています。そのなかでも特に私は現在、住宅ローンの貸し出しプログラムの改正を担当しています。この仕事は、時には困難で、手腕を問われますが、大変やり甲斐があります。将来的に政治の道に進むかどうかは未定ですが、今は現在の仕事に全力投球したいと思っています。
 
祖先がどこから来たのかということは知りたいし、興味があります。仕事の関係で定期的に日本に行きますが、日本は外国のようでもあり、馴染み深い土地でもありますね。日系人であるということは、人種の問題ではなくて心のあり方だと思っています。親の国がどこかという問題ではないと思います。祖先は日本から来ましたが、私にとっての故郷はカリフォルニアです。ですから私は日系何世というよりも、カリフォルニアン4世だと自認しています。


 

移民の国アメリカでは、今日でも移民問題が後を絶たない。移民史の浅い民族の社会は、アメリカと母国の狭間で揺れ動くものだが、それが悲劇的な形で表面化したのが、日米開戦で二者択一を迫られた日系人社会だった。日系二世兵士たちは多大な犠牲を出してアメリカへの忠誠を証明し、戦後の日系社会の向上に貢献したが、一方では日本との絆を希薄にする結果にもなった。21世紀に入り、その絆を再構築しようという意識が日米両サイドで強まっている。
 
今回取材した若い世代の日系人リーダーたちは、「自分のルーツを誇りに思う」と口を揃えた。日本人の私たちも、苦悩の時代を乗り越えてアメリカ社会を牽引する、彼ら日系人を誇りに思っていると伝えたい。
 
(2006年8月1日号掲載)

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