日系人の歴史を受け継ぐ全米日系人博物館の役割
米日カウンシルの会長として日米関係強化に尽力する、アイリーン・ヒラノ・イノウエさん。2009年までは20年以上にわたって、全米日系人博物館の館長として、強制収容をはじめ、日系アメリカ人の歴史や文化の収集、保存、教育に努めてきました。
そのヒラノさんが強制収容のことを詳しく知ったのは、大学に入ってからだったそう。「子どもの頃の学校の歴史の教科書は、日系アメリカ人の経験についてはひと言も触れられていませんでした。また叔父や叔母も戦時中の話題が出ても、話すのは共通の友人のことなどの他愛ない話題ばかりで、どこにいたのかなどといった話はほとんどしませんでした」。
カリフォルニア州ロングビーチ生まれガーデナ育ちのヒラノさんの父は、太平洋戦争前から米国陸軍に属し、本来は開戦の頃に除隊予定でした。しかし開戦により除隊は延期。MISの一員となりました。一方、ヒラノさんの親族の多くはアーカンソーの収容所を経て、戦後はシカゴで働いた後、ロサンゼルスに戻ってきました。シカゴは当時、日系人が職を得られた数少ない場所のひとつでした。
父も退役後、ロサンゼルスに戻り、日本から移住してきたヒラノさんの母と出会い、結婚。ヒラノさんは、多くの日系人が暮らすガーデナで両親と一世である父方の祖父に育てられ、また3歳の頃には母方の祖母の日本の家で数カ月過ごすなど、非常に日本と近しい環境で子ども時代を送りました。「ですから、私は日系人であることを誇りに思っていました。しかし博物館で働き始め、実は多くの三世は日本のことをよく知らず、自分たちの先祖がどこから、なぜアメリカに来たのかも知らないと気付いたのです。博物館の設立目的の一つでもありますが、だからこそ、博物館が日系人の歴史を受け継ぎ、そしてそれを多くの来館者に伝えていくことが大切だと思ってます」。
人と人との出会いからより強固な日米関係を
ヒラノさんは博物館で三世の訪日ツアーを企画。そして08年に設立した米日カウンシルでは、00年から「在米日系人リーダー訪日プログラム(JALD)」として、米国で活躍する日系人を日本とつなぐプロジェクトを実施しています。「それまで日本との結び付きがなかった日系人の参加者も、日本を訪れると瞬時に、ここは私たちの祖先の国だと思うようです。参加者の一人は『家族の歴史はハワイに移住した祖父母から始まった気がしていたけれど、彼らには日本に家族がいて、その歴史は僕の歴史で、僕の歴史は日本にもつながっているんだね』と」。
ヒラノさんは、彼らが訪日という形で日本を知ることは、日米関係に非常に重要だと考えています。「そうでなければ、私たちは日本に興味やつながりを持つ世代を完全に失ってしまうかもしれません。もし日本にルーツを持つ日系人でさえ日米関係に興味を持たないなら、どうして他のエスニックが興味を持つでしょうか」。
今年、15年目を迎えたJALD。これまでは日本との関わりが少ない日系人が中心でしたが、今年の参加者には日本在住経験者や日本出身者も。「参加者の多様性は、日系アメリカ人の多様性の表れです。現在の日系アメリカ人コミュニティーは、戦後に渡米した人や、五世、六世、複数のエスニックを持つ人、近年日本から移住してきた人など、さまざまな人がいます。『日系アメリカ人』とは誰なのかを定義し直すことも、将来のために、今、非常に意味があることでしょうね」。JALDは、そうしたさまざまな来歴を持つ参加者が、日本を知るだけでなく、参加者同士を知り、アメリカの日系人のコミュニティーを知る貴重な機会にもなっています。
また、米日カウンシルでは、東日本大震災をうけて日米の若者を互いの国に招く「TOMODACHIイニシアチブ」で若い世代を結びつけるプロジェクトも実施。その理由をヒラノさんはこう語ります。「日米の2国間のつながりは、非常に重要なものですが、2国間にポジティブなつながりを生み出すためには、人が出会い、互いを知り、互いの国を学ぶことが大切です。人々が互いを知っていると、万が一問題が起きた時にも、一緒に解決策を見つけていくのも容易になります。米日カウンシルの役割は、そのように人々が互いを知り、互いを学ぶ基盤を作っていくことだと考えています」。
Irene Hirano Inouye
米日カウンシル(U.S.-Japan Council)会長。1948年に福岡出身の二世の父と、日本人の母の間に生まれた日系三世。1988年から2009年にわたって、全米日系人博物館の初代館長を務める。2008年、故ダニエル・イノウエ上院議員と結婚。また同年に米日カウンシルを設立。東日本大震災後、日米両政府と「TOMODACHI イニシアチブ」を立ち上げた。
(2015年8月1日号掲載)