日系人不当解雇に対する加州の補償法案の成立
日系米国人市民連盟(JACL)で女性として初の事務局長を務めるプリシラ・オウチダさんが、自身が日系人だと知ったのは4歳のハロウィーンのこと。「トリック・オア・トリートに訪ねた白人女性の家で『ジャップにやるキャンディーはない』と言われたのです。自分が日系人であり、また日系人を嫌う白人がいて、世の中には不平等があると知った日でした。その日から『平等』ということが私にとって非常に重要なテーマになりました」とオウチダさん。学校に上がるとアフリカ系アメリカ人の市民運動についての本を読み、また当時はほとんど知られていなかった日系人の強制収容についても家族や関係者に尋ねるなどして独自の調査を開始しました。「17歳になる頃には、日系人のカリフォルニア州職員314人が、1942年に人種を理由に解雇されたという300ページにも上る資料を持っていました。ですが当時はまだ『補償』を求めようとまでは考えていませんでした」。
ところが、76年と78年にJACLの年次大会に参加し、全米の日系人の収容に対する補償を求める運動を知ったオウチダさんは、自分の持つ資料が日系人の不当解雇を立証し、金銭的補償を求めるに足る証拠を全て備えたものであると気付いたのです。JACLの助力を得て補償法案を起草し、当時オウチダさんが立法スタッフとして働いていたカリフォルニア州のパトリック・ジェンストン下院議員が州議会に法案を提出。82年に法案は成立を迎えたのですが、実はこれはJACLが関わった補償法案が成立した初めての事例でした。法案の署名式には40社以上のプレスが駆けつけ、全米中に法案の成立と日系人が受けた不平等が報道されました。
「署名式には日系人の元州職員を招いたのですが、彼らの多くが古い茶封筒を手にしていました。それは42年に州が送った解雇通知でした。その時、彼らにとってスパイだと疑われ解雇されたことが、どれだけ深い傷だったのか痛感しました。彼らは収容所に送られた時も、戦後も、40年にわたってその紙をずっと持っていたのです。でもその署名式の日、『州が間違いだと認めてくれた。もうこれは恥ではない』と誇らしげな笑顔を見せてくれたのです」。
日系人が経験した不平等が二度と起こらないように
70年代から80年代にかけて、いよいよ全米で本格化した強制収容に対する補償運動。JACLをはじめとするさまざまな日系団体、そしてアフリカ系、ユダヤ系団体の働きかけにより、連邦議会に「戦時市民転住収容に関する委員会」が設立され、81年に全米各地で公聴会を実施。それまで収容に関して沈黙を守っていた750人が証言台に立ったのです。
「そうした中で82年にカリフォルニア州の補償法が成立し、補償運動は加州下院議員の支援を得るなど政治的な関心を集めるようになりました。法案成立のためには、草の根運動だけでなく、過半数の連邦下院議員の賛同という政治的な運動が必要でしたから、大きな影響を与えたのではないかと思います」とオウチダさん。
ダニエル・イノウエやスパーク・マツナガ、ノーマン・ミネタ、ロバート・マツイといった日系議員によるホワイトハウスへの運動もあり、88年に日系人の強制収容に対する謝罪と、生存者に対し1人あたり2万ドルの金銭的補償を定めた「市民の自由法(日系アメリカ人補償法)」が成立。「2万ドルは実際の損失には到底及ばないものですが、象徴的な意味がありました。謝罪だけでは政府はすぐに忘れてしまいますが、身銭を切ったものは忘れにくいものですから」。金銭はただ補償の意味合いがあったばかりでなく、全てのアメリカ人の憲法で守られた権利が二度と侵害されないためのくさびでもあったのです。
このほかにも日本人の帰化を禁じた移民国籍法の改正(52年)、アジアからの移民数を制限した移民法の改正(65年)など、日系人は一歩一歩、今は当たり前のように感じられる「平等」の権利を勝ち取ってきました。「それでも残念ながら、この世界にはいつも不平等の可能性があります。しかし、どんなエスニックでも、どんな年齢でも、どんな性別でも、誰しもが平等な権利を持ち、誰しもが平等の機会を持つ必要があります。日系人が経験した不平等が二度と起こらないように…」。オウチダさんの闘いは今日も続いています。
Priscilla Ouchida
サクラメント生まれの三世。2012年より、女性として初めての日系米国人市民連盟(Japanese American CitizensLeague, JACL)事務局長を務めている。JACLは1929年にアジア系米国人の人権保護のために設立された団体。戦時中は強制収容へ協力的な姿勢をとり、日系人部隊の編成を推進したことから多くの批判も受けたが、戦後は強制収容に対する補償法案などさまざまな人権運動を牽引している。
(2015年8月1日号掲載)