持てるもの、できる限りのこと 「すべてを患者さんのために」
臨床実績がなかなか評価に直結しない日本医学界で、「本当の医者は患者さんを治せる医者」と信じ、ひたすらに手術中心の日々を送る脳神経外科医の福島さん。48歳で南カリフォルニア大学(USC)医療センターから脳神経外科教授のオファーを受け渡米。自身が確立させた「鍵穴手術」により、「神の手を持つ男」「ゴッドハンド」、海外では「侍ドクター」とも呼ばれ、絶望の淵から多くの患者を救う。現在も第一線で活躍し続ける世界一の脳神経外科医に、その想いを聞いた。
やんちゃな不良少年は 叔父の影響で医学部へ
父は明治神宮の神官、母は代々神職を務めた家に育ったやさしく気丈な人でした。高校生くらいまでは、そんな両親に反発ばかりしていた悪ガキで、兄と新宿辺りを遊び回り、家出をしたこともありました。そんな私を不良少年から更生させてくれたのが、父の弟である叔父。内科医だった彼の影響もあって、医者を志すようになりました。1浪して、東京大学医学部に入学しました。
「医局に入ったら忙しくて遊べない。学生のうちに人生を謳歌しておけ」と先輩たちに言われ、学生時代はスキーやジャズなど、学業そっちのけで一生分遊びましたね(笑)。誉められた学生じゃありませんでしたが、あの時に徹底的に遊んだからこそ、卒業後はきっぱりと意識を切り替えることができました。医療の現場に出て、「患者を持つ」ということのその重さを、本当の意味で自覚したんです。
私の人生の目的、モットーは「すべてを患者さんのために」です。その言葉通り、自分の持てるもの、できる限りのことを、すべてを患者さんのために使う生活です。卒業後5年間は、医局に泊まり込み、月に1度しか家に帰らないこともザラ。1日24時間、患者さんのそばで過ごしていましたね。5年経った頃には、「もしかしたら自分は日本一の専門医になっているんじゃないか」なんて思ってしまっていたほどでした(笑)。
その後ドイツで2年、アメリカで3年、合計5年間かけて欧米の先進医療を学びました。日本一、そして世界一の脳外科医になることが目標で、そのための努力は人一倍しました。そして、世界中の名医や達人と呼ばれる人を直接訪ねては、実際にその技術をこの目で確かめ、良いものは治療に即取り入れました。常に前進、常に進歩、常に改革。この姿勢は今でも変わりません。
ギャップに悩みながらも 鍵穴手術の確立へ
帰国後は1978年から80年まで、東大病院に在籍しました。そこで私は、欧米と日本のギャップに悩まされました。私の考え方は「東大方式を次々破る不埒なヤツだ!」などと取られてしまうこともあり、閉塞感やストレスを感じることも多々ありました。
そんな時に私を導いてくれたのが、恩師である佐野圭司先生(現東京大学名誉教授)です。ドイツやアメリカへの留学をすすめてくれ、また、大学病院で“はみだし者のようになっていた私を親身にかわいがってくれた方です。私の臨床の力を認めてくれていた佐野先生が、三井記念病院脳神経外科部長の話を紹介してくれました。当時私は37歳、部長医師としては若過ぎると反対意見もありましたが、「日本の脳神経外科の権威」とも言われる先生の後押しが決定につながりました。
三井記念病院勤務時代に、鍵穴手術を確立させました。頭部に1円玉ほどの小さな穴をあけ、顕微鏡を使って脳腫瘍を切除・縫合する手術方法です。頭部を大きく切開する必要がないので、患者さんの負担を大幅に軽減することができます。私が行っているのは、ほかの医者には想像もできない、超微細、ミクロ単位の手術。“福島流は、キレイで緻密な手術、腫瘍のパターンによって攻め方を変えます。
三井記念病院での手術のない曜日や夜は都内近郊の病院、週末は北海道から沖縄まで、文字通り日本中の病院で手術を行いました。日本はもとより世界中から患者さんが訪ねて来たこともありますし、また世界中から私の手術を見学に来る医療関係者も多かったです。手術数は年間900件を超えました。
世界最高の手術の提供と若手の育成に注力
1991年に、南カリフォルニア大学(USC)医療センター脳神経外科教授に就任しました。日本の医学界は、臨床の実績よりも論文本数などが評価の対象になるような状況。ですが、実際に患者さんを治療する臨床の現場こそが、医者としての本分です。USCからの誘いを受けた時、私は48歳。周囲で止めた人も多かったのですが、行って良かったですね。アメリカでは「治せる医者」、臨床医としての実力があれば必ず評価されます。それまでの疑問やしがらみから解放されて、自分がやったことを「これはオレがやったんだ」と自信を持って言えるようになりました。
USC勤務の間、約4年暮らしたLAでは、周囲から本当に良くしてもらいました。当時、野茂選手もドジャースに在籍していて、「ロサンゼルスで活躍しているのは福島さんと野茂さんですね」と言ってもらったりもしましたね。
海外で生活をすると、愛国心というのはさらに強くなります。アメリカに渡ってからの私は、日本にいる時よりもずっとのびのびと目標に向かうことができるようになりました。その上、両国の状況を伝え、いいものを取り入れていくことができる。日本にずっといたら、こういうこともできませんでしたね。現在は、ノースカロライナ州のデューク大学やウエスト・バージニア大学などのほか、欧州の大学でも勤務しています。手術は日本やアメリカを始め、世界中で行っています。
世界一を目指すには、1にも2にも3にも努力です。私はそうしてきましたし、現在も勉強中の身だと思っています。「もっと患者さんに負担をかけずに治せる、もっといいやり方があるんじゃないか」と、いつも考えています。すごいと聞けば、他の先生の手術だって見に行きます。患者さんは皆、命がけで連絡しているんです。頼みの綱と思ってくれるなら、どんな所にでも出かけて行きたい。私が現場で闘い続けたら、「やろうと思えばここまでできる」と周囲を刺激し、それによって最新の治療法やテクニックが広まっていくことと期待しています。
今後も、「手術一発完治」をテーマに、世界最高の手術を目指し続けます。そしてもう1つ大切なのが、若い人たちの育成です。私財や日本で手術をしている病院からの寄付などで運営している「国際脳外科教育財団」での活動や、研修生への直接指導を通して、後進の育成に力を入れています。全世界の患者さんが求めているのは、大病院でもなく、論文が書ける教授でもなく、治してくれる医者。それには、一刻も早く、一人でも多くの「病気をちゃんと治せる医者」を育て上げることが必要です。そのために私が役立てることがあれば、喜んで力を提供したいと思います。
ふくしま・たかのり●1942年、東京都出身。東京大学医学部卒業後、同大学医学部付属病院脳神経外科臨床・研究助手。ドイツのベルリン自由大学、米国メイヨー・クリニックでの留学を経て、78年に東京大学医学部付属病院脳神経外科に勤務。80年より三井記念病院脳神経外科部長。91年にUSC医療センター教授就任。ペンシルベニア医科大学教授などを経て、現在は、カロライナ脳神経研究所、デューク大学、ウエスト・バージニア大学教授。カロリンスカ研究所、マルセイユ大学、フランクフルト大学教授を兼任。鍵穴手術の考案者にして脳腫瘍外科手術の世界的権威であり、20,000件を超える手術実績を持つ。
http://takafukushima.com
(2009年1月1日号掲載)