エンターテインメント プロデューサー/プロダクション・スーパーバイザー(クリエイティブ系):蔭山京子さん

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高いレベルで、本当に尊敬できる人たちと
一緒に仕事ができることを、すごく誇りに思います。

生き馬の目を抜くハリウッド映画業界で、フリーでプロデューサー/プロダクション・スーパーバイザーとして活躍する、数少ない日本人の一人が蔭山京子さん。映画『The Last Samurai』でProduction Supervisor-Japanとして、日米撮影チームのキーパーソンとなった。常に前向きに、チャレンジを恐れない蔭山さんに聞いた。

【プロフィール】かげやま・きょうこ●大阪府生まれ。サンディエゴ州立大学に編入し、広告を専攻。卒業後、パサデナのアートセンター・カレッジに入学し、フィルムを専攻。1986年東京のCM制作会社・東北新社に入社。90年同社ロサンゼルス支社に転勤。2年間同支社に勤務後に独立し、NBCミニシリーズ『Gai-jin』を担当。その後、映画『Jingle All The Way』『Road to Perdition』『Beowulf』『A Christmas Carol』などを手がけ、『Brother』『Driven』『Silk』『The Last Samurai』でProduction Supervisorを務める。http://dancingsparrow.blogspot.com(ブログ) 

そもそもアメリカで働くには?

TVCM絶頂のバブル期に 大手クライアントの仕事を経験

1931年のシカゴの街を再現した『Road to Perdition』の撮影現場にて

日本の大学に通っていた夏休みに、サンディエゴにホームステイしました。その時にステイ先のファミリーが、「アメリカの大学で学んでみたらどうか」とすすめてくれ、私の親に手紙を書いてくれました。それがきっかけとなって、サンディエゴ州立大学(SDSU)に編入しました。TVコマーシャルに興味があったので、メジャーを広告、マイナーでテレビと映画を専攻しました。
 
卒業後は、専門誌でメジャーなCMを手がけている広告代理店やアートディレクターの名前を調べて、直接就職希望の手紙を送り、面接してもらいました。大学時代に作ったポートフォリオ(作品集)を持参したのですが、実習に力を入れた大学ではなかったので十分ではなく、パサデナにあるアートセンター・カレッジに通ったらいいと言われ、進学しました。
 
アートセンター終了時の80年代後半、日本はバブル期。東京で就職しようと帰国し、CM制作会社の入社試験を5社ほど受けました。激しい競争の中、東北新社に制作として入社することができました。
 
当時は今では考えられないくらいCMの仕事はあり、新人の私もしょっちゅう海外ロケ。世界各国を休む間もなく回り、疲労困憊しました。ある時、ロサンゼルスでの仕事があり、久しぶりにすごく気持ち良いと感じたんですね。ロサンゼルスが恋しい気持ちになっていると、ロサンゼルス支社の社長から声が掛かったんです。ソニーやサントリー、富士フイルムなど、大手クライアントのCM制作を手がけました。マイケル・ジャクソン、エリック・クラプトン、レイ・チャールズ、アーノルド・シュワルツェネッガーといった大物と数多く仕事ができて、今振り返ると本当にラッキーでしたね。
 
具体的な私の仕事は、日本から送られてきた絵コンテに基づき、アメリカでの予算を作ること。それから、クルーを何人雇い、どこで撮影するのか、衣装やメイクなどのスタッフは現地で雇うのか、日本から連れて来るのかなどを決めます。そして、これらをすべて予算内に収めるよう調整します。その全行程を私が指揮していました。
 
2年間そこで働いたのですが、アメリカ社会の中で働きたいという新たな目標が生まれてきて、1992年に東北新社を退職、フリーランスとして仕事を開始しました。それまでは自動的に仕事が入って来たのですが、独立すると当然すべて独力です。ただ、それまでの仕事でコネクションができていたので、声をかけてもらえることがありました。ある時知人を通じて、NBCのミニシリーズ『Gai-jin』の仕事の話が飛び込んできました。ロケは日本でも行われ、私はアメリカ側のプロダクション・コーディネーターとして携わりました。これが転機となり、映画の仕事を始めるようになりました。
 
『Gai-jin』でのアメリカ側のプロデューサーから声をかけられて受けた仕事が、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の『Jingle All The Way』。FOXのセンチュリーシティーのスタジオの中にいると、やはり緊張したし、自信もなくて、ちゃんと仕事ができるか不安でした。が、ハリウッドの映画業界で働けることが同時にうれしかったですね。
 
現場のことがわからない私に、失敗の責任を転嫁されることが何度かありました。そういう時アメリカ人だったら、言われた100倍言い返すところですが、日本人って「そんなくだらないことで言い争ってもしょうがない」という気持ちになりますよね。ですが、直属の上司は私が一生懸命仕事をしているのを見ていて、理解してくれていました。失敗を転嫁しようとするアメリカ人と英語が完璧に話せなくとも、仕事をちゃんとする私を、冷静な目で見てくれた上司を素晴らしいと思いました。
 
そういった経験を何度もしているうちに、「日本人でいてはいけない」と思いました。もちろん日本人であることは誇るべきだと思いますが、ハリウッドでやっていこうと思ったら、自分を主張し、前に出ていくことが、一番大切なのです。

『The Last Samurai』で試された 問題解決の腕

今までの仕事で1番印象に残っているのが、プロダクション・スーパーバイザーとして関わった『The Last Samurai』。日本に半年、その後ニュージーランドにも半年、計1年以上携わったこと、任された責任が大きかったこと、そして予算も大きかったことが理由です。
 
京都と姫路で撮影したのですが、撮影の許認可など多くの問題があり、日本での撮影は大変だということがしみじみわかりました。例えば、主演のトム・クルーズがいつも楽屋として使う大型トレーラーをハリウッドから京都に輸送する予定だったのですが、京都の狭い道路では角を曲がれないことがわかりました。仕方がなくお寺の一室を控え室にしたりしましたが、彼は文句一つ言いませんでした。
 
ニュージーランドでは、監督の意向で300人のエキストラすべてを日本 人で実施。日本と現地からそれだけの日本人を集める手配や許認可申請をスタッフに指示し、すべて私が最終チェックをしました。そうやって集まったエキストラがハッピーなのを見ていると、この仕事をやっていて良かったなと思いますね。
 
プロダクション・スーパーバイザーの仕事は、〝プロブレム・ソルビング( 問題解決)〞です。『The Last Samurai』では、監督やカメラマンの望むロケ地、機材の手配、撮影時のシミュレーションなどを、松竹京都映画を通して円滑に進めるのが大変でした。日米の撮影習慣や文化の違いで色んな問題が起きましたが、そんな時こそ、どれだけ双方の要求を叶えられるか。そこに腕が求められました。

ハリウッド=コネクション コミュニケーションがすべて

この仕事はコミュニケーションがすべてなので、最初の頃は苦労しました。日本人なら以心伝心で伝わることもありますが、アメリカ人にはそれはないですから。
 
それから、広くコネクションを築くことが重要です。基本的にハリウッドは、人とのつながりです。色んな場所へ出かけ、色んな人たちと会って、色んな仕事をこなしていく。あと、どこにどんな人がいるかわからないから、お手伝いの現場からパーティーまで、あらゆる場で自分が何をやりたいか、恥ずかしがらずに人に話すことが大切ですね。やはり自分を売り込むことは重要。そうしているうちに、つながりが生まれます。そこからは個人の努力ですね。
 
日本が関わっている映画では、現在、スーパーバイザーを担っています。ディレクターから直接台本の構想、撮影の要望を聞き、日本側に伝え、監督の希望通り撮影が成立するよう、全工程を確認していきます。同時に、日本と関係のない仕事では、今までの経験を活かし、撮影がすべて上手くいくようにコーディネートする制作関係の役割を果たしています。日本での仕事と比べれば、細かく分業されているので、アメリカの方が仕事はしやすいですね。直近の作品では、『Mars Needs Moms』で俳優をコーディネートする仕事をしました。
 
私自身の今後の目標は、現在進行中の脚本を、何とか私の企画で、進展、実現できればと思っています。監督に近い立場で内容の話ができるプロデューサーとして、ハリウッドで映画化できればいいなぁと。
 
あとは、「自分を発見する本」を企画しています。優秀なキャリアウーマンを含め、自分に自信を持てない日本人女性が多くいると思います。自分がどんなに素晴らしいか発見し、自信を持てば、どれだけ人生が明るくなるか、私自身のアメリカ、特にハリウッドでの仕事の教訓を通して伝えていきたいですね。
 
(2011年4月1日掲載)

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