(2024年2月号掲載)
地理的条件が救助や復旧の妨げに
元日の午後4時過ぎ、最大震度7、地震全体のマグニチュードは7.6という大地震が能登半島先端部の「奥能登」を襲った。半島先端部の珠す洲ず市は地震の揺れと共に、直後に襲来した津波の甚大な被害を受けた。輪島市では、大火が発生して有名な「朝市通り」の町並みはほぼ全焼してしまった。その他、各地で家屋の倒壊、土砂災害、地割れなど深刻な被害が発生している。
日本国内では政府の対応の遅れへの批判が出ている。確かに、被災後5日間に投入された自衛隊員の数は約5,000名で、熊本地震の際の4分の1であった。多くの地区で停電と断水が続き、携帯電話の電波も復旧に手間取っている。政府要人などの被災地視察も遅れた。災害直後の被災報道は極めて限られていたし、今も災害の全体像が伝わっているとは言い難い。
1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災、17年の熊本地震とここ30年に多くの大震災を経験し、防災、減災に国を上げて取り組んできた日本である。そんな中で今回の地震への対応には、遅れが目立つ。
この問題だが、この能登半島という地域の地理的特性が大きな原因と言える。何といっても能登半島は巨大だ。半島として面積は日本で4位だというが、1位の紀伊半島は本州の一部だし、2位の北海道の渡島半島も長万部以南の全体なら大きくなるのは当然だ。3位は房総半島だが、これも千葉から銚子のラインの南を全部半島にみなした上での順位である。そう考えると、能登の大きさというのは特別だ。同じ石川県といっても県庁所在地の金沢から奥能登までは自動車で軽く2時間かかる。距離にしたら140キロメートルで、東京から沼津、神戸から岡山という遠さだ。面積も大きく、石川県の半分が能登半島だと言っても過言ではない。
さらに地形が険しい。山が海に迫っていて平野が少なく、海岸沿いにしか主要な道路はない。中心部は標高500〜600メートル弱の山岳地帯で、多くの谷筋には分散して集落がある。今回は、半島西側の高規格道路も、東側の国道も地割れと土砂崩れによる甚大な被害を受け、交通が寸断されてしまった。谷筋の崩落も多く発生し、孤立した集落も多い。さらに、現在は厳冬期である。シベリアからの季節風と雪雲がダイレクトに吹き付け、雷鳴と共に豪雪に見舞われる過酷な環境だ。
そんな中で、石川県庁も事態の把握には時間を要したし、自衛隊もいきなり大規模な救援を行うのは不可能だった。台湾の救援隊を断ったのも、雪を知らない方々に活躍できる環境ではないからだし、地元の古老の道案内で行動する世界では米軍が来ても活動範囲は限られる。家屋の下敷きとなった被災者の救命が遅れたのは事実かもしれないが、そもそも重機を入れるルートがなかったケースも多い。そうした過酷な条件の中で、国も県も全力を尽くしている。日本ではさまざまな批判が渦巻いているが、ここは冷静になってプロの活動に託すしかないであろう。
豊かな歴史、文化、伝統。私たちに何ができるか
その一方で能登の人は強靭だ。大きな半島の入り組んだ地形の中で、海の幸、山の幸を育んで産業としてきたし、輪島塗に代表される工芸の伝統も守っている。複雑な地形を背景に多様な文化があり、例えばスサノオノミコトを祭った八坂神社の「あばれ祭」は有名だし、酒樽に乗ってやってきた神様を祭った神社などもある。宗教ということでは、朝鮮半島や遠く沿海州や樺太との結び付きの痕跡もあり、多様な文化が継承されている。
今、被災地の人々は厳しい環境に置かれている。海外在住の我々も含め、県外の人間にできることも限られているのは事実だ。だが、交通とライフラインが確保されてがれきの整理が始まれば、能登の人々は必ず立ち上がるであろう。神社や町並みなど有形のものは失われたかもしれないが、祭りや工芸など無形の財産を守り切ることで復興の道筋は見えてくるに違いない。その時が来たら、私達にもできることは数多くありそうだ。
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