高まる日本語学習ニーズと追いつかない教育機会
アメリカでは日本語がブームである。日本文化への関心を背景に、ほとんどの大学では外国語として日本語の選択が可能で、初級から中級、上級までコースを設置している。高校の場合は、全てとまではいかないが、日本語のクラスを設置しているケースは多い。大学出願の全国テストのSAT2やAPにも日本語という科目があって、毎年多くの高校生が受験している。
アメリカにおける日本語教育は、多くの先人の努力もあって指導法もカリキュラムも確立している。定評ある教科書が何種類かあり、多くの先生がコミュニケーション重視の指導を行うことで、大学の3年生ぐらいになれば日常会話が可能なレベルに多くの学生が到達する。
一方で、日本の場合は厳しい現実がある。まず、日本語教育のニーズは急増している。外国人の労働者とその家族は増加しており、2019年4月の入管法改正で、より拡大が見込まれるからだ。こうした事態を受けて、政府は「日本語教育の推進に関わる法律」を制定し、今年の6月に施行した。この法律の中には「外国人等」に対し、「日本語教育を受ける機会の最大限の確保」がうたわれており、この機会の確保は国の責務だとしている。
ところが、実際の日本語教育は必ずしもうまくいっていない。
まず日本語教師が不足している。文化庁の調査によれば、11年には学習者12万8161人に対して教師が3万1064人、つまり教師一人当たりの学習者は4.13人だった。だが、学習者はどんどん増えて17年には23万9597名とほぼ倍増しているのにもかかわらず、教師数は3万9588人に留まっており、教師一人で6.05人を教えなくてはならなくなっているのだ。
日本で日本語を学ぶことの難しさ
その背景には、日本における日本語教育の難しさがある。もちろん、アメリカで日本語教師になるためにも、言語学や異文化理解、そして第二言語指導理論などの訓練を受ける必要はある。だが、日本における日本語教育は、アメリカよりも条件が厳しい。
アメリカの場合は学習者の母語として英語が使える。したがって複雑な文法や、文化については英語で説明して、学習者の納得を得るのは難しくない。例えば、お土産を渡す際に「つまらないものですが」と言う日本語独特のフレーズは、自分の用意したギフトをおとしめて相手の趣味や審美眼への尊敬を表現する日本独自のロジックの解説をすれば納得してもらえる。
ところが、日本の日本語学校の場合は共通の母語がない。世界各地から来た学習者が一つのクラスに入っており、教師の言語能力も含めて共通語は日本語になる。日本語漬けというメリットはあるものの、文法や文化に関する詳しい説明は難しい。
また、多くの場合、日本語力が雇用に直結している。雇用ということでは、「管理される」日本語が中心となり、上役や顧客への敬語表現に重点を置かねばならない。日本社会は敬語のエラーに不寛容だということを説明しつつ、練習を繰り返す作業は語学教育として決して楽なものではない。
もう一つの大きな問題が、日本語学習の支援が必要な子どもの増加である。親が日本で働くために来日した子どもたちで、支援の必要なケースは全国で4万人を超えているという。だが、教師不足のために支援がされていない子どもの数が1万人あるという。
こうした問題については、アメリカのESL教育が参考になるだろう。移民や駐在員の子どもで英語初心者の場合でも、数年で本クラスへの編入まで持っていくノウハウを、日本に移植できればと思う。鍵となるのは指導法よりも、一般の子どもたちに支援や受け入れの姿勢とノウハウを持たせることで、これもアメリカの例が参考になるのではないだろうか。大人の場合も同じで、教育体制の整備とともに、社会の中で日本語初心者、中級者を温かく迎える文化ができれば、学習者の上達スピードも向上すると思われる。
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(2019年9月1日号掲載)
※このページは「ライトハウス・ロサンゼルス版 2019年9月1日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。